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2026-02-14

高市総理に望むこと

自民党圧勝で終わった選挙。今個人的高市総理に望むことはイランへのおせっかい

これは、今の強い高市さんにしか出来ません。


食事睡眠、警護はついてくるが提供するのは「箱」のみの日本国内宿泊サービスへのお誘い


よくコメンテーターの人も言ってますよね。リーダーシップを発揮しないといけないと。

でも全然何すりゃいいかは言わないの。そこでちょっと考えてみました。


たぶん誰も困らないし、嫌がらないと思うんですよね。

イランアメリカも嫌なら断るだけでいいんだし、良いタイミングだとも思うんですよね。

内容的にも。直接的な利害関係がないのもいいですね。


例えお互い様だとしても、昔石油を売って貰った恩に報いるためにも

振り上げたこぶしのおろし先としても


まれもしないのに双方に話し合いましょうよと言うのがリーダーシップだと思うのですよ。



それに受け入れられても断られても

平和国家としてのブランド作りとして役立つと思うのですよ。


日本と仲良くしておくと、困った時の最後最後に場を提供して貰える場合もある

ってのを積み重ねることで、各国にも私たちにも新しい安全保障を一つ提供する事にもなるとおもうのです。


だいたいのルールは下記な感じ、たぶん三方良しになっているはずだけど抜けてるかも



不介入原則

因果への関与は「日本に誘われた」という事実のみ

事前に打診もしないし、働きかけもしない。事後も何も渡さないし受け取らない


透明性の原則

誘うのは案件ごとに一度きり、公に

誰かの依頼であれば、誰からの依頼であったかも公開する

何か要望が示された瞬間に招待自体が出来なくなったことも公開する

どちらかが断った場合、どちらが断ったかは公開しない


主権原則

貸すか貸さないか、いつどこを貸すかは日本独自判断する。

一度貸しても次を保証せず、理由を明かさず断る権利も保持する。




場を貸すか貸さないかは、日本が決める。使うか蹴るかは、相手が決める。あとは知らんってのが却ってよいのかなと。

基盤弱いときにはじめてもあん意味ないし、キャラもあっていそうだし、今ならこれで咲き誇れない?



Permalink |記事への反応(0) | 22:36

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言葉狩り基準なんて、結局はその人の「お気持ち」と「無知」のパッチワークしかないのではないか

最近、Xで「脳死」とか「予後不良」といった言葉を使うと、鬼の首を取ったように「医療現場への配慮がない」「当事者気持ちを考えろ」という高度に倫理的な方々がいる。

ところで彼らは例えば「昨日のガチャ爆死したわ」「そのミスが致命傷だったね」「この案件炎上して修羅場だった」に対して同様に怒りを覚えるのでしょうか?

「爆死」なんて本来爆弾で体が吹き飛んで死ぬ凄惨な死に方ですし、「致命傷」だってからない傷を負って苦しむ状態です。「炎上」は家や建物が焼ける災害だし、「修羅場」は血みどろの戦いです。「中毒だって薬物や毒物で苦しむ症状だし、「麻痺」も神経系の深刻な障害ですよね。彼らが激昂する「脳死」や「予後不良」と、彼らがスルーする若しくは使用するこれらの言葉に、一体どれほどの「配慮」の差があるというのでしょうか。

もっと踏み込んで言えば、 「特攻」「玉砕」「戦犯」「前線」「撤退」「殲滅」といった戦争用語も、何食わぬ顔でビジネス日常文脈転用されています。「特攻」なんて文字通り命を捨てて敵に突っ込む悲劇的な作戦ですし、「戦犯」は戦争犯罪人、「殲滅」は皆殺しです。

ここで私が言いたいのは「自分らも不謹慎から黙れ」という揚げ足取りではありません。

しろ逆で、私たちが全知全能の神でない限り、想像力にはどうしても限界があるという、当たり前の事実を認めようという話をしたい。

世界には無数の苦しみや悲劇があり、私たち何気なく発する言葉の一つひとつが、どこかの誰かにとっては耐え難い不快な響きを持っている可能からは逃れられません。「今日はいい天気ですね」という挨拶ですら、日照りで作物が枯れて苦しんでいる農家にとっては残酷な響きになるかもしれない。今日あなたが発したその言葉は、確率的に必ず世界のどこかの誰かを傷つける。

からこそ、たまたま自分可視範囲に入った言葉尻だけを捕まえて、相手人間性倫理観まで否定して蔑むのは、あまりにも傲慢ではないでしょうか。それは正義感というよりも、自分想像力限界を棚に上げて、他人想像力限界を責め立てているだけに過ぎない。

全ての痛みを知ることなんて不可能ですし、全ての配慮完璧にこなすことなんて土台無理な話です。「言葉ひとつ相手の全てを分かった気になる」浅はかな正義ごっこに付き合うよりも、お互いの不完全さを許し合う寛容さを持つ方が、よほど健全倫理観なんじゃないかと思いますけどね。

Permalink |記事への反応(0) | 21:11

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anond:20260214203122

よくわからない。

私たち同調圧力によってプレゼントさせられてる」ってこと?

Permalink |記事への反応(0) | 20:42

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写真のように見えるが、実は手描きの色鉛筆で描かれた絵、というもの価値を見出すのが人間

写真のような絵であれば、写真と同じ価値しか無いのが本来であるが、手描きで描かれたと聞かされた途端に価値を認めるのが人間だ。

これは、その創作物制作過程にこそ価値があるのだという人間本音の現れである

このような普段我々が意識していない本当に自分が勝ちを置いているのはどこか?ということを理解することは大事だと思う。

そういう自分自身の理解を深めることこそが大事なのだ

逆に自分価値基準を知らずに、理想的価値基準こそが自分価値基準である勘違いすることのほうが危険だ。

なんだってそうだと思う。

例えばルッキズム

ルッキズム人間価値基準に深く刻み込まれていて、ほぼすべての人間においてデフォルトであるはずなのだが、それを否定するのは危険なことだ。

わかるだろうか?

ルッキズム自体否定することと、自分ルッキズム価値観に支配されていることを否定するのは別の意味であるということを。

大抵の人間は、ルッキズムから逃れることは出来ない。

まず価値第一判定は、見かけにより判断される。

私たちが「見る」ということが、その対象ファーストインプレッションであれば、それは確定的だ。

もちろんそうではないこともあるっちゃある。

たとえばネット上の文字ベース交流で知り合った相手と初めてリアルで会う場合などだ。

それまで会ったことはないが、ネットでの交流で人柄や考え方などを知っている場合だ。

その場合には、人の見かけ=その人の価値、とは直結しないだろう。

とはいえ、それとて、その人の見かけによって、それまでのその人に対する評価は大きく変わることは言うまでもない。

と言った具合のことを素直に認められるかどうか?というのは結構重要な分かれ目であると思う。

私はルッキズム下僕であると同時に、その反乱者だ。

という認識であればいいが、私はルッキズム支配されていないと考えるのはおそらくは間違いだ。

と途中で話が変わったかのようでいて、変わってはいない。

まりは、我々はあまり合理的価値判断が出来るようには出来ていない、という話だ。

Permalink |記事への反応(1) | 18:37

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厚生労働省 令和7年版自殺対策白書 令和6年の自殺の状況(全国)より

https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/seikatsuhogo/jisatsu/jisatsuhakusyo2025.html

https://www.mhlw.go.jp/content/001581168.pdf

統計数値から読み解く:性別ライフステージで見る自殺の背景とインサイト


1. はじめに:令和6年の自殺状況の全体像


日本自殺者数は、マクロ視点で見れば減少傾向にあります。令和6年の総自殺者数は20,320人と、統計開始以降で2番目に少ない数値を記録しました。しかし、この「歴史的な低水準」という事実の陰で、依然として年間2万人もの尊い命が失われている現実に変わりはありません。特に注目すべきは、男性自殺者数が女性の約2倍という圧倒的な性差継続している点です。

令和6年自殺の概況(全国)

全体的な数字改善している一方で、性別によるリスクの偏りは鮮明です。自殺対策を「自分事」として捉えるためには、単なる総数ではなく、その背後にある「なぜ」の構造を解剖する必要があります

全体像を把握したところで、次は「なぜ」という根本的な原因が男女でどう異なるのか、その核心に迫ります

2. 「追い詰められる構造」の性差健康経済、家庭の三重奏

自殺の背景には、個人が抱える多様で複合的な問題連鎖しています統計上、自殺者1人につき最大4つまで原因・動機が計上されるため、以下の表の延べ件数は総数を超えますが、それこそが「悩みの複合性」を物語っています

男女別 原因・動機トップ3(複数回答含む)

順位男性の原因・動機女性の原因・動機

1位健康問題 (7,063件)健康問題 (4,966件)

2位経済生活問題 (4,459件) 家庭問題 (1,654件)

3位 家庭問題 (2,643件)経済生活問題 (633件)

【専門的洞察:50代男性に起きている「ストレス逆転現象」】 通常、全世代で「健康問題」が最多となりますが、50~59歳の男性層においては、「経済生活問題(1,194件)」が「健康問題(1,188件)」を上回るという特異なデータが出ています。これは、現役世代男性にとって、自身の体調以上に「経済的な生存」が深刻な精神的重圧となっていることを示唆しており、社会的セーフティネット機能不全を突く極めて重要インサイトです。

悩みの中身が性別で異なるのと同様に、その人が社会でどのような立場職業)にいるかによっても、リスクの現れ方は変わってきます

3.ライフステージ規定する「追い詰められる構造」の把握


職業と年齢を掛け合わせると、各ステージ個人が直面する「孤立の形」が浮き彫りになります

ここまでは「亡くなった方」のデータを見てきましたが、実は「未遂」や「自傷」のデータにこそ、若年女性特有の深刻なサインが隠されています

4. 死に至る前のSOS未遂自傷に隠された決定的性差

教育デザイナーとして、私たちが最も注視すべきは「死の意図」のグラデーションです。統計では、自殺未遂死ぬ目的自分を傷つけた)と、自傷行為(死ぬ意図なしに自分を傷つけた)を明確に定義して区別しています

最後に、これらの悲劇が「いつ」「どの曜日」に起きやすいのか、時間軸という観点からデータ確認しましょう。

5.社会リズムと命のリスク統計が警告する「警戒すべき時」


自殺の発生は、個人精神状態だけでなく、社会全体が刻む「時間リズム」に強く支配されています

統計示唆する、周囲が警戒すべきタイミング: 「年度替わりの4月」かつ「休み明けの月曜日」は、社会的リズム個人プレッシャーが最悪の形で衝突する、最大の警戒期間です。

6. まとめ:データから学ぶ「守るべき命」の守り方


今回のデータ分析から私たちが学び、支援へ繋げるべき知見は以下の3点に集約されます

  1. 性差理解構造支援: 50代男性の「経済苦という逆転現象」や、女性の「家庭内孤立」など、性別ライフステージによって悩みの構造は全く異なります属性に合わせた支援設計必要です。
  2. 若年層のサインの深刻視:10代・20女性自傷未遂歴の多さは、死に至る前の叫びです。これを「気を引きたいだけ」と軽視せず、学校問題という支配的要因に踏み込んだ介入が求められます
  3. 社会的背景(孤独経済)への注視高齢者の施設内での自殺や、月曜日の突出した数値は、個人問題を超えた「社会のあり方」を問うています経済的安定とコミュニティの再構築こそが、最大の自殺予防策となります

統計数値は、過去の記録ではなく、今この瞬間を生きる人々を救うための「設計図」です。このインサイトを、一人ひとりの見守りと、社会制度の改善に活かしていくことが私たちの使命です。

Permalink |記事への反応(0) | 17:40

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ママ戦争を止めてくる

高市政権おかしい。

私たち原発を落とされた国として、平和を守っていく義務がある。

これの主張のなにがおかしいですか?

からない

まともな日本人ならきっと平和を愛している

ママ戦争を止めてくる をSNS投稿するお仕事です。

この一文だけでなく、上記定型文をコピーペーストした上で、適当文言をつけ加えて投稿してください。

100投稿50円お支払いします。

Permalink |記事への反応(0) | 15:30

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えー、日本初の女性首相という存在に、多くの人々が特別な期待を抱いていた、そのことは私はよく承知しているところであります

それは単に「初」であるという事実ではなく、これまでとは異なる価値観、たとえば、よりリベラルであり、より普遍的理念に基づいた政治が示されるのではないか、そうした期待であったのだろうと、こう思うのであります

また、「戦争反対」という言葉が、性別に由来する役割、すなわち母性という枠組みによって語られるのではなく、一人の政治家として、理性と思想に基づいて語られる、その姿を望む声があったことも、自然なことであります

しかしながら、現実政治というものはですね、人々が思い描く理想物語どおりには進まない。政治家は「象徴」ではなく、「現実責任」を負う存在であります。その中で、期待と現実の間に距離が生まれることもまた、避けがたいのであります

サッカーで言えばですね、新しい監督就任したとき、人々はまったく新しい戦術を期待する。しかし実際には、チームの状況、対戦相手、そして勝利という責任の中で、理想だけではなく、現実的な選択がなされるのであります

重要なのは、その現実を嘆くだけで終わるのではなく、私たち自身がどのような政治を望み、どのような社会を築いていくのかを問い続けること、その不断の営みこそが、民主主義本質であると、私はそのように思うのであります

Permalink |記事への反応(0) | 11:28

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今作の素晴らしいポイント

ネット上でも高評価が続出している通り、本作の完成度は非常に高いです。

**石版システムの大幅な改善**: 以前、多くのプレイヤー挫折した石版探しが、ヒント機能レーダーを導入することで、格段にスムーズになっています

**美麗なグラフィック演出**: エデンの島々の風景が、最新技術で美しく描かれ、感動的な場面も多いです。

**物語の緻密な整理**:ボリューム満点なストーリーが、テンポよく進行するように再構成されており、楽しみやすくなっています

**キャラクター描写の深み**: 仲間との会話やイベントが充実しており、物語への没入感が大幅に向上しています

**職業システム最適化**:転職が手軽になり、自分好みのパーティ作りが直感的に楽しめるようになっています

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「親切すぎる」という贅沢な悩み

これだけ完成度が高いにもかかわらず、個人的にはある種の物足りなさを感じてしまます。それは、システムがあまりにも「親切すぎる」ことに起因しています

1. **未知の場所がすぐに明確に**

初めて踏み入れたダンジョンマップが、最初からその構造を把握できてしまう点です。地形を理解し、迷いながら探索する楽しさが欠けてしまい、冒険の「予測不可能性」が減っているように感じます

2. **宝探しの楽しみが薄れる**

マップ上には宝箱の位置まで表示されており、探索の楽しみが薄れています。昔のように、壁の向こう側に何があるのかを考えたり、怪しい道を発見して試す楽しみが、効率化によって失われた気がします。

3. **リスクなしのボス戦**

ボス戦の前に、必ず全回復できる「女神像」が配置されています。昔のドラクエであった、薬草魔法をどれだけうまく使ってボスに挑むかという緊張感が薄れ、準備がほとんど不要になっている点が、少し物足りなく感じます

4. **冒険の緊張感の欠如**

上記理由から、昔のように「一歩先がわからない」ワクワク感や、全滅の恐怖といったドキドキ感が失われてしまっています

効率化は進んだが、興奮はどうなった?

かに効率は向上しましたが、その代償として、今の仕様では攻略に頭を悩ませることがほとんどありません。これが本当に「冒険」と呼べるのか、少し疑問に思ってしまます

あの頃、未知の世界踏み込むときの興奮や、ギリギリの戦いでボスを倒したときの達成感――。そうした「冒険の感動」が、親切すぎるシステムによって薄れてしまったのは、どうしても感じてしまます

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まとめ

本作は、時間に余裕のない大人や、ドラクエを初めてプレイする世代には、間違いなく「最高に遊びやすい名作」です。私自身、この親切なシステムのおかげで、楽しくクリアできそうです。

しかし、かつて小学生の時にアレフガルドで感じた緊張感を覚えている者としては、少し寂しさも感じてしまます。今や私たちは「勇者」ではなく、整備された観光地を歩く「観光客」に過ぎないのかもしれません。そんな思いが拭えません。

Permalink |記事への反応(0) | 01:54

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2026-02-13

政治話題が出る頻度と夫婦仲の良さが比例しているという気付き

私たち夫婦は、割と政治の話をする夫婦だと思う。

お互い特に支持政党はないが、政治関連のニュースについて話すことが多い。

真面目に政治について話すこともあるし、タマキン不倫のような、下らない政治家のゴシップで盛り上がることもある。

選挙があったら選挙関連のニュースは見るし、開票速報夫婦一緒に絶対見る。あれは良い酒の肴だ。あーだこーだ言いながら楽しむのだ。

そんな我々夫婦だが、今回の衆院選投票日数日前あたりからたまたま子ども関係ことなど、家庭内ストレスが増大し、お互いにギクシャクして、喧嘩とまではいかないが冷戦状態、不仲な感じになっていた。何も話さないわけではないが、必要事項の伝達しか行わないモードに入った。

投票日当日、配偶者はいつもと変わらず開票速報を見ていたが、何となく距離を置きたかった私は、開票速報を見ずに寝室に行って先に寝た。そんなことは結婚して以来初めてである

投票日翌日も、その翌日も、自民党歴史的大勝など、語れる話題がたくさんあったのに、私たちは一切政治の話をしなかった。こんなことは異常事態だ。

何だか面白くなってきた私は、相手から切り出されるまで政治の話を一切しないと決めた。話したいことはたくさんあったが、我慢我慢。話さないと決めたら、意外と話さずにいけるものだ。

そんな我慢を続けていたが、ついに昨日、配偶者から政治話題を切り出された。

思えば、一昨日ぐらいから、少しずつ仲直り?な感じになってきていたな。

今回の選挙で初めて分かったが、政治の話をするかどうかが、私達の夫婦仲のバロメーターになっているらしい。

高市さん、気付かせてくれてアリガト★

Permalink |記事への反応(0) | 22:19

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弱者男性がチームみらいに投票しててドン引き

弱者男性「……ヒヒッ、見てろよ。俺は『チームみらい』に投票したんだ。AI政治をやれば、俺みたいな弱者も見捨てられないはずだ。社会保険料も下がるし、ようやく俺の時代が……」

女子中学生「……吐き気がするわ。あなたみたいな『社会の残りカス』が、私たち未来象徴する政党名前を口にしないで。その薄汚れた一票が、どれだけ日本価値を下げているか自覚してる?」

弱者男性「な、なんだと……!?だって国民だぞ! この地獄みたいな格差社会を変えてくれるのは安野さんしかいないんだ!」

女子中学生格差? 笑わせないで。あなた底辺なのは、ただの自業自得。それに対して、私たち女性は、あなたたちみたいな無能なオスが作った『男性優位社会』のせいで、どれだけ才能を搾取されてきたと思っているの? 私は女というだけで将来の選択肢を狭められている。被害者は私、加害者あなたなのよ。」

男子中学生「(小刻みに震えながら)……その通りだよ。おじさん、僕たちは男に生まれた時点で、女性に対する『原罪』を背負っているんだ。僕たちの存在のものが、歴史的女性を抑圧してきた証なんだよ。一生かけて、這いつくばって贖罪しなきゃいけないのに……自分権利を主張するなんて、恥ずかしくないの?」

弱者男性原罪!?贖罪!? 知るかそんなもん! 俺は腹が減ってるんだ!仕事もない、金もない、誰も俺を愛さない! チームみらいが、AIが、俺を救ってくれるはずなんだあああ!」

女子中学生AIが真っ先に弾き出すのは、あなたのような『非効率有害個体』よ。チームみらいの政策は、未来を創る人のためのものあなたの居場所なんて、データゴミ箱にさえ残らないわ。死ぬまでその不潔な部屋で、過去遺物として朽ち果てなさい。」

男子中学生「……さようなら、おじさん。せめて最後は、女性の足を引っ張らないように静かに消えて。それが男に残された唯一の美徳だよ。」

弱者男性「……あ……ああ……。俺の……俺の一票が……。誰も……誰も俺を見てない……。AIも、子供も、世界も……俺を殺そうとしてるのか……!? 嫌だ……嫌だああああああ! うわああああああああああああああああ!!!」(自らの髪をかきむしり、泡を吹いて倒れ込む)

Permalink |記事への反応(1) | 19:55

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今日買った本

ブライアン・クラース 著

『なぜ悪人が上に立つのか:人間社会不都合権力構造

私たちは「背の高い自信過剰男性」をトップに据えがち?』

Permalink |記事への反応(1) | 19:04

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世代間、性別間、思想間、国家間の分断などが激しい世の中は、高次元への扉を開いている

分断が激しい時代にこそ、ユダヤ思想は深い示唆を与えてくれます

創世記 1:27 「神は御自分のかたちに人を創造された」

ユダヤ思想の出発点はこれです。

思想が違っても、世代が違っても、国家が違っても、相手は神のかたちを宿す存在

ミシュナ(サンヘドリン4:5)は言います

人は一人から創られた。それは誰も「私の父はあなたの父より偉い」と言えないためである

分断の根は「自分の側が正しい」という絶対化からまります

しかユダヤ視点では、相手も神の像を持つ存在である以上、完全否定はできません。

 

タルムード(エルヴィン13b)は有名な言葉を伝えます

「これも生ける神の言葉であり、あれも生ける神の言葉である

ヒレル派とシャマイ派は何百もの論争をしました。

しかし互いに結婚交流もやめませんでした。

まり意見の違いは敵対ではない。

ユダヤ伝統では、対立破壊ではなく、真理を磨くための摩擦です。

アヴォットの教え 5:17「天のための論争は永続する。」

問題は「論争があること」ではなく、動機自己栄光か、真理追求かです。

現代の分断の多くは「勝ちたい」議論になっています

ユダヤ的助言は。自分は真理を求めているか?それとも勝ちたいだけか?

詩篇34:15 「平和を求め、これを追え」

ラビたちは言います平和受動的ではなく、追いかけてでも作るもの

 

アロンモーセの兄)は争う二人の間に入り、双方に「相手あなたを大切に思っている」と伝え、和解させたと伝えられています(アヴォット1:12)。

平和とは正しさを押し通すことではなく、関係を守ること。

 

タルムードシャバット31a)

ヒレルは言いました:

あなたにとって憎いことを、他人にしてはならない。これがトーラー本質である

SNS議論政治対立家庭内の分断、この一文だけで世界は大きく変わります

 

1. まず相手立場を正確に言い直せるまで聞く

2.議論の前に共通点確認する

3. 人と意見を分ける

4. 「私は間違っているかもしれない」と心に置く

5.平和を追い求める行動を一つ具体的にする

 

タルムード一枚岩思想書ではありません。

何百年にもわたる異なる意見の集積です。

まりユダヤのものが、「分断を抱えながら共存する文明」なのです。

世界が分断される時代は、もしかすると私たちがより高い次元対話に招かれている時代なのかもしれません。

Permalink |記事への反応(1) | 18:49

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anond:20260213002708

普通に独身女性二人でルームシェアして長年一緒に暮らしてるよ。同性愛者じゃないからお互い友人でしかないけど、恋人じゃなきゃ助け合えないってことないでしょ。私たち以外にもやってる人はいるし、できないことないと思うよ。

Permalink |記事への反応(0) | 16:23

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https://x.com/light77/status/2022128584576708780

【なぜ「宗教法人課税」は世界常識なのか】

マスコミや一部の世論では「宗教法人税金を払っておらず、優遇されている」という批判がしばしば聞かれます

しかし、法律の専門的な視点からその実態を紐解くと、そこには私たちの「信教の自由」と「財産権」を守るための、極めて真っ当な論理存在することがわかります

今回は、特に重要でありながら見過ごされがちな「宗教法人法第84条」の精神を中心に、課税問題正論解説します。

1. 「宗教法人は無税」という言説の誤り

まず、世間に流布している「宗教法人は一銭も税金を払っていない」という認識を正す必要があります現行法制度下では、宗教法人は厳格に区分けされた課税を受けています

収益事業への課税: 物品販売不動産貸付など、法人税法で定められた「34の収益事業から生じた所得には法人税がかかっています

個人への所得税:宗教法人代表者職員が受け取る給与(俸給)には、一般サラリーマンと同様に所得税・住民税が課され、源泉徴収も行われています

消費税の支払い: 物品の購入時には、当然ながら10%の消費税を支払っています

まり、「坊主丸儲け」という批判は、事実無視した感情論に過ぎないのです。

2.宗教法人法第84条が定める「聖域」の重み

最も大切なのは宗教法人法第84条に明文化されている「宗教上の特性尊重」です。この条文は、国家権力安易宗教活動へ介入することを禁じています

宗教法人法 第84条】

「この法律規定中、宗教法人管理運営に関する規定は、当該宗教法人宗教上の特性及び慣習を尊重し、信教の自由を妨げることがないように特に留意して解釈し、且つ、運用しなければならない。」

お布施は「所得」ではない

信者が支払う「お布施布施)」は、神仏への捧げものであり、サービスへの対価ではありません。これを「所得」とみなして課税することは、信者が既に所得税を払った後の財に再び課税する「二重課税」であり、かつ信仰心という聖なる思いを国が踏みにじる行為に他なりません。

税務署による「日常監視」の拒絶

もしお布施課税すれば、税務当局が「何が宗教活動で、何がそうでないか」を査定することになります。これは、国が特定宗教活動に介入し、監視下に置くことを意味します。84条は、こうした事態が「信教の自由」を根底から破壊することを防ぐために、当局に「慎重な運用」を厳命しているのです。

3. 「非課税」は特権ではなく「武器である

資料の中で鋭く指摘されているのは、**「宗教課税こそが世界常識」**であるという点です。

アメリカをはじめとする諸外国でも、宗教団体への寄付所得から控除されるのが一般的です。それは、宗教が担う「人々の魂を救う」という公益性が、国家提供する行政サービスよりもはるかに深い次元社会を支えていると認められているからです。

一部の論者は「課税原則で、非課税例外だ」と主張しますが、これは逆転した考え方です。

憲法保障する「財産権」や「信教の自由」こそが本来原則であり、国が国民の財を奪う「課税」こそが、法律に基づいた限定的な「例外」でなければなりません。

特に宗教活動における「収益事業」の判定についても、84条の精神に則れば、安易類推解釈法律を広げて解釈すること)をして課税対象を広げることは、法治主義の逸脱と言わざるを得ません。

引用

小鮒将人(M.KOBUNA)

@light77

·

11時間

私は大反対です。 x.com/tweet_tokyo_we…

Permalink |記事への反応(0) | 12:15

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なぜAI生成文章ダメAI生成スライドは良いのか

日本語圏のSNS特にX(旧Twitter)において、興味深い現象が観察される。AI生成された文章には厳しい視線が向けられる一方、AI生成されたスライドデザイン素材には驚くほど寛容な態度が取られているのだ。同一人物が「AIで書いた文章は見ればわかる。ああい機械的な文はダメだ」と批判しながら、数日後には「AIプレゼン資料を5分で作成!便利すぎる」と絶賛する光景日常的に繰り広げられている。

この矛盾は単なる気まぐれではない。そこには人間認知メカニズム文化的価値観、そして社会的シグナリングの複雑な相互作用が潜んでいる。

公立はこだて未来大学研究チームが2025年に発表した論文では、生成AIをめぐるSNS上の議論分析し、賛成派が「功利主義」を中心とする価値観を持つのに対し、反対派は「著作権重視」を中心としつつも複数価値観が混在していることが明らかにされた。しかし実際の行動レベルでは、同じ個人の中でさえ、対象によって態度が大きく変わる現象が生じている。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsik/35/2/35_2025_015/_pdf

なぜスライドは許されるのか

この非対称性理解する鍵は、「道具性の階層」という概念にある。人々は無意識のうちに、創造活動本質的ものと装飾的なものに分類している。

文章思考の直接的な表現とみなされる。論理展開、語彙選択文体リズムといった要素すべてが、書き手の知性や人格と不可分に結びついていると考えられている。ChatGPTが生成した文章違和感を覚える理由の一つは、この「本質との一体性」が損なわれることへの抵抗だ。AI生成文章には「単調なリズム」「過度な順序表現(まず、次に、最後に)」「単語の繰り返し」「個人視点の欠如」といった特徴があり、これらが機械的な印象を与える。AI判定ツールの精度はまだ発展途上だが、人間直感は「この文章には人がいない」という違和感を敏感に察知する。

対照的に、スライド思考を伝えるための「容器」として位置づけられている。レイアウト、配色、フォント選択重要だが、それらは中身を引き立てる装飾であり、発表者の本質的能力とは別物と考えられがちだ。CanvaAI提供する膨大なテンプレート自動デザイン機能は、この「装飾性」の領域に働きかける。デザインスキルを持たない人でも短時間プロ品質資料作成できることは、単なる効率化として歓迎される。

この階層化は必ずしも論理的ではない。優れたスライドデザイン情報構造能力を反映するし、文章執筆も道具を使って行われる活動だ。しか認知的には、文章は「私そのもの」、スライドは「私が使う道具」という区別が根強く存在する。

認知的不協和ダブルスタンダードメカニズム

心理学者レオンフェスティンガーが1957年提唱した認知的不協和理論は、この矛盾説明する有力な枠組みを提供する。人は矛盾した信念や行動を持つと心理的不快感を覚え、その不協和を解消しようとする。ただし、その解消方法は必ずしも論理的整合性を追求するものではない。しばしば、自分に都合の良い解釈採用することで不快感を和らげる。

AI生成は良くない」という信念を持ちながらAI生成スライドを使う場合認知的不協和が生じる。この不協和を解消するため、人々は様々な正当化を行う。「スライドは装飾だから別」「効率化のためなら仕方ない」「自分で内容は考えている」といった理由けがなされる。こうした正当化は、矛盾を解消するための事後的な説明であることが多い。

さらに、一貫性バイアスと呼ばれる認知的傾向も作用する。これは他者過去言動未来も一貫していると考える傾向だが、自分自身の行動については異なる基準適用やすい。「あの人はいつもAI批判している」と他者評価する一方、自分AIツールを使う場面では「状況が違う」「これは例外」と特別扱いする。

集団バイアス無視できない。自分が属するコミュニティアイデンティティグループの行動には甘く、外部グループには厳しくなる。たとえば「文章を書く人」というアイデンティティを持つインフルエンサーは、文章生成AIには厳しいが、自分が専門外のデザイン領域でのAI利用には寛容になる。

検出可能性とシグナリングの非対称

もう一つ重要な要因は、検出の難易度だ。AI生成された文章は、特徴的なパターンから比較的見抜かれやすい。一方、スライドAIで生成されたかどうかを判別するのは困難だ。テンプレートを使ったのか、AIが生成したのか、手作業類似デザインを作ったのか、外部から区別する手段ほとんどない。

この検出可能性の差は、社会的シグナリングに影響する。文章力は可視的なスキルとして評価されやすく、「この人は考える力がある」というシグナルを発する。AI生成がバレれば、そのシグナルが損なわれる。対照的に、スライドデザイン品質は主張の説得力を高める効果はあるが、「この人はデザイナーだ」というシグナルを発することは少ない。むしろ効率的に仕事を進める人」という別のシグナルになり得る。

X上のインフルエンサーは、フォロワーに対して自らの専門性知的能力シグナルし続ける必要がある。文章AI生成であることが明らかになれば、そのシグナルの信頼性が損なわれる。一方、スライド作成AIを使うことは、むしろ最新ツールを使いこなす能力シグナルとなる。この非対称性が、態度の違いを生む強力な動機となっている。

インフルエンサー文化二重基準の増幅

X上のインフルエンサーは、特にこの矛盾体現やす立場にある。彼らの影響力は、一貫した意見説得力ある表現によって構築される。しかし同時に、効率的なコンテンツ生産と目を引くビジュアルも求められる。この二つの要求が、AI利用における選択的態度を生む。

2026年1月時点で観察される典型的パターンとして、「AI生成コンテンツの透明性」を主張するインフルエンサーが、自身ビジュアルコンテンツAI生成ツール使用しながらその事実を明示しないケースがある。また、「AIに頼らない思考力」を強調する発信者が、投稿アイデア出しや構造化にAIアシスタントを利用している事例も少なくない。

これは必ずしも意識的偽善ではない。多くの場合、本人は「自分本質的仕事にはAIを使っていない」と認識している。しかし、何が本質で何が補助かという線引きは、極めて主観的恣意的だ。

さらに、X社によるAPI改定とInfoFi(投稿報酬を得る仕組み)アプリの締め出しが2026年1月に行われたことで、「質より量」のAI生成リプライが減少した一方、より洗練されたAI活用が主流派インフルエンサーの間で定着している。AIを使いながらも「人間らしさ」を保つ技術が発達し、矛盾はより見えにくくなっている。

深層にある価値観の衝突

この問題根底には、創造性と真正性オーセンティシティ)をめぐる根本的な問いがある。私たちは何に価値を置くのか。アウトプットの質か、それを生み出すプロセスか。効率性か、人間的な営みか。

従来、この問いには明確な答えがあった。芸術知的生産においては、プロセスと人間性に価値が置かれてきた。しかAI時代において、この前提が揺らいでいる。

興味深いことに、歴史的には技術革新のたびに同様の議論が繰り返されてきた。写真の登場時、絵画価値は「手で描くこと」から芸術視点」へとシフトした。DTMデスクトップミュージック)の普及により、音楽制作における「演奏技術」の相対的価値が低下した。DTPデスクトップパブリッシング)は印刷業界職人技を置き換えた。

今、同じことが文章デザイン領域で起きている。ただし、その影響は均等ではない。スライドデザイン比較的早く「技術による代替可能領域」として受け入れられたが、文章はまだ「人間本質的表現」として守られている。この防衛線がいつまで持続するかは不透明だ。

示唆と今後の展望

この非対称性は、AI時代における価値観の過渡期を映し出している。矛盾を指摘することは容易だが、実はこの矛盾自体が、人間技術と折り合いをつけながら新しい規範模索するプロセスの一部かもしれない。

実務的には、いくつかの示唆が導かれる。第一に、透明性の重要性だ。何にAIを使い、何に使っていないかを明示することで、信頼性を維持できる。第二に、本質と装飾の区別文化的主観的ものであることの認識だ。自分価値基準他者一方的押し付けることの限界理解すべきだ。第三に、検出可能性が態度を決定する現状において、技術的な検出手段の発展が規範形成に影響を与える可能性がある。

インフルエンサー情報信者にとっては、自らの基準を一貫させるか、あるいは基準が状況依存であることを率直に認めるか、いずれかの選択が求められる。後者を選ぶことは必ずしも弱さではない。むしろ技術人間関係が流動的な現状を正直に反映したものだ。

最終的に、この議論が示すのは、AI生成コンテンツの是非ではなく、私たちが何を「自分らしさ」「創造性」「価値ある仕事」と定義するかという、より根源的な問いだ。その答えは、技術進化とともに、そして社会的対話を通じて、これから形成されていく。

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https://x.com/Kosodate_Ogawa/status/2015717584046522435 記事 新しいポストを表示 会話小川大介@90タイプ才能診断『コドモトメガネ』開発者 @Kosodate_Ogawa 協力できない社会で、私たちは何を見失ったのか ―子育て現場から考える、個別最適と公共性の再設計

はじめに──違和感の正体を、構造として考えたい

最近教育現場SNSで、ある種の"すれ違い"を目にする機会が増えました。

注意されたり、期待と違うことを言われたりすると、「自分とは合わない」と、そこでの人間関係のものリセットして離れてしまう。自己主張は強いのに、親や社会に支えられている事実への自覚が薄い。大人の側にも、責任を引き受けるより先に「自分権利」だけを語ってしまう振る舞いが見える──。

あなたも、こうした光景に心当たりがあるのではないでしょうか。

もちろん、これは特定世代批判しようとしているのではありません。私が今回考えたいのは、「その振る舞いが"合理的"に見えてしま社会の側の条件」です。なぜ今、対話よりも離脱が、協力よりも防御が選ばれてしまうのか。その背景には、私たち大人が気づかぬうちに変えてしまった「学びの物語」の喪失があるのではないか──。

そんな折、教育者中土井鉄信先生Facebook投稿出会いました。

そこで語られていたのが、「学びは公共財である」という視点です。教科書は、人類が積み上げてきた英知の集積であり、私たちはそれを受け取って生きている。だから学びは「自分のため」だけで終わらない。受け取ったもの社会に返していく視点が欠かせない──。

この言葉に触れたとき、私の中で点が線につながりました。

依存」「消費化」「対価志向」「関係短期解約」──これらは別々の現象ではなく、学びの位置づけの変化と深くつながっているのではないか

本稿は、その問題意識を整理し、立て直しの方向を考える試みです。中土先生問題提起へのリスペクトを込め、私が現場で向き合い続けてきた実践から、その解決の糸口を提示したいと思います

学びが"公共財"として扱われなくなると、何が起きるのか

学びや知識には、個人の便益(成績・進学・仕事)だけでなく、社会的便益があります社会一定ルールを共有できること、言葉が通じること、協力が成立すること。その基盤には、学校教育読書を通じて広がる「共通の知」があります

ところが近年、学びは少しずつ、「社会の基盤」よりも「個人投資」「購買体験」に寄って語られるようになりました。

どれだけ得をするか

どれだけ早く成果が出るか

お金を払っているのだから満足させてほしい

この枠組みが強まると、学びの場は「関係を育てる場」ではなく「サービスの場」に近づきます。すると、注意や指摘は「成長のための調整」ではなく「不快体験」になり、合わなければ話し合うよりも「さっさとその場を去る(離脱する)」ほうが合理的、という判断を招いてしまうのです。

「うるさい!もうやだ!こんな学校(塾)辞めてやる!」──この叫びは、わがままではなく、ある意味消費者としての合理的選択になってしまっているのです。

学びが「買うもの」になったとき私たちは何か大切なものを失いました。それは、学びを通じて人と人がつながり、社会を共につくっていく物語だったのではないでしょうか。

かつての日本が持っていた「学びの回路」

私が子どもの頃、勉強が得意な子に向けて大人が「末は博士大臣か」と声をかけることがありました。実際私も、祖母祖父、近所のおじちゃんたちに、何度となく聞かされたフレーズです。

今振り返ると、そこには単なる出世願望だけではなく、「力を持つなら、社会に役立つ人になってほしい」という期待が含まれていたように思います欧米で言われるノブリス・オブリージュ(地位能力を持つ者の社会責任)も、根は同じです。

かつて学びや能力は、個人利益で完結するのではなく、社会に返していく回路の中に置かれていました。この感覚は、言葉にされなくても、日常の中で自然に共有されていたのです。

この回路が弱まると、学びは単なる「受け取るもの」になりやすく、結果として「対価がなければ動かない」という感覚が広がります。それは個人問題というより、学びの物語社会が共有できなくなったことの反映ではないでしょうか。

私たちは今、この失われた回路を、新しい形で取り戻す必要に迫られています

自分との「不一致感」が、関係を壊していく

人が社会他者と健やかに関わるために、最初必要なのは規範」でも「協調性」でもないと私は考えています

私が多くの親子と向き合う中で、それら以前にもっと手前の問題として感じるようになったのは、「自分自身との一致感を持つことができていない状態」で生きている人が想像以上に多いという現実です。

たとえば、次のような振る舞いが見られるとき私たちはしばしば「甘え」や「依存」として片付けてしまいがちです。

やる気がないように見える

注意されることを極端に嫌がる

関係のものから距離を取ろうとする

しかし、丁寧に話を聞いていくと、その背景には別のものが見えてきます

「どう理解すればいいかからない」

「どんなペースなら続けられるのか分からない」

「何を期待されているのか曖昧なまま、結果だけを求められている」

まり自分特性と、求められている振る舞いとの間に深刻なズレが生じているのです。みんなと同じやり方で学び、同じ基準評価され、同じ反応を期待され続ける環境に長く置かれると、人は次第に「自分はどこかおかしいのではないか」と感じ始めます

この状態こそが、私が「自分との不一致感」と呼んでいるものです。

この不一致感は、単なる自信のなさではありません。それは、自分という存在が、この社会の中でどう機能すればいいのか分からない、という根本的な不安です。この不安を抱えたまま「協力しなさい」「もっと頑張りなさい」と言われても、人は動けないのです。

自分との一致感」こそが、協力の土台になる

人は、不安や恐れが強い状態では、協力よりも「防御」を優先してしまます自分の中が不安定なままでは、注意は攻撃に聞こえ、期待は重荷に感じられ、関係のものを避けることが合理的選択になりやすいのです。

逆に、「このやり方なら理解やすい」「この関わり方なら無理なく動ける」という安心感――すなわち「自分との一致感」があってはじめて、人は心理的に安定し、周囲と関わる余裕が生まれます

自分のやり方や反応を「これでいい」と理解できている人は、常に評価承認を求めて振り回される状態から一歩距離を取り、自分と違う人を「役割が違うのだろう」と捉えられるようになります。この視点の転換が起きたとき、違いは摩擦ではなく、補完関係に変わるのです。

協力とは、目標として押し付けものではなく、自分理解し、無理のない形で力を出せる人が増えた結果として、自然に立ち上がってくる関係性だと私は考えます

「協力できない社会」の問題は、協力を強制することでは解決しません。それよりも、一人ひとりが自分との一致感を取り戻すこと。そこからすべてが始まるのです。

家庭を「才能発揮の中心基地」へアップデートする

この「自分との一致感」を取り戻すために、私が提唱し、社会に先行して取り組んできたのが独自の「才能タイプ理論」による個別最適な子育て実践です。

そして、その実践において最も重要になるのが、家庭を「才能発揮の中心基地」へアップデートすることです。

学校社会が一律の基準を求めがちな外部環境であるからこそ、わが子の「才能の形(遺伝特性認知形成のクセ)」を深く理解し、本人そのものを伸ばしきれるのは、親をおいて他にはないからです。

ここで改めて強調したいのは、個別最適とは、嫌なことを免除したり、好きなことだけを選ばせたりするための考え方ではないということです。むしろ本質は、「どの形なら、その人は役割を引き受けやすいのか」を探るための視点です。

言葉説明するのが得意な人、作業で支えるのが得意な人、全体を見て調整するのが得意な人。同じ「責任」でも、担い方は一つではありません。その違いを前提に役割を考えることが、結果的集団を安定させます

個別最適は、わがままを許すことではなく、それぞれの特性に合った形で、社会役割を引き受けられるようにするための設計思想なのです。

公共性とは、「自分らしい形」で社会に関わること

中土先生の「学びは公共財である」という言葉に立ち返ります

学びが公共財であるとは、個人より社会を優先しなければならないという意味ではありません。そうではなく、「社会から受け取った知や経験を、自分特性に合った形で、社会に返していく」という循環を大切にするということです。

かつての「末は博士大臣か」という言葉根底にあった、能力社会に返していく回路。それを、いま私たちは「個別最適」という新しいアプローチで再構築していく時代の扉の前に立っているのです。

公共性とは、画一的基準に全員を合わせることではありません。むしろ、一人ひとりが自分特性理解し、それを活かして社会と関わること。その多様な関わり方の総体が、本当の意味での豊かな公共性を生み出すのです。

家庭という「中心基地」で、わが子の才能の形を認め、自分との一致感を育むこと。それは、お子さんが「自分に合った形で、社会と良い関係を結べるようになる」ための自立への第一歩です。

おわりに──批判ではなく、再設計のために

この記事を通して、今の社会子どもたちを批判たかったわけではありません。なぜ「対話あきらめ、つながりを断つこと」が合理的に感じられてしまうのか、その背景に私たち大人の側の設計はどう関わっているのかを、一緒に考えてみたかったのです。

私自身、「才能タイプ子育て」という活動を通して、一人ひとりが自分と一致した状態で力を発揮し、その結果として、無理のない形で社会と関われる人が増えることを願っています

違いを前提にした関係の方が、結果的社会は安定し、協力は回りやすくなる。この実感を、現場での実践を通じて、少しずつ社会に返していきたい──そんな立場から問題提起です。

私たちが失ったのは、「協力する力」ではなく、「協力できる条件」だったのかもしれません。

そして、その条件とは、一人ひとりが自分との一致感を持ち、自分らしい形で社会に関われること。学びが公共財であるという物語を、個別最適という新しい形で紡ぎ直すこと。

今回の記事が、ご家庭で、職場で、教育現場で、何かを考え直す小さなきっかけになれば幸いです。

あなたは、どんな形で社会と関わっていきますか?

あなたのお子さんは、どんな才能の形を持っているでしょうか?

その問いから、新しい公共性の物語が始まります

Permalink |記事への反応(0) | 07:45

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2026-02-12

夫が友達が減らしている

夫は人と飲むのが好きな人だ。

飲み会幹事もよくやるし、学生時代からの友人ともよく飲みに行っていた。

しか40代になってから、夫の飲み会がガクンと減った。夫が誘っても、誰も来てくれなくなったのだ。

もちろん周囲の友人みんなも、家庭を持って独身の時より自由に使えるお金も減ったので、そう頻繁に飲まなくなったというのはあるだろう。

しかし回数を減らしたとかいレベルでなく、夫が誘っても全然まらないので開催されなくなってしまったのだ。

原因はおそらく、夫にある。

まず、そもそも夫には年上の友人がいない。同年代が2割くらいで後の8割はすべて年下の友人だった。

学生時代はよく言えば結束の強い、悪く言えば上下関係に厳しいサークル所属していたので、後輩たちは夫が一言飲み会やるぞ」と言えばみんな二つ返事で飛んできてくれていた。

社会人になってもそれは同じで、夫は後輩だけを連れてよく飲みに行っていた。

だが、最近ではコンプライアンスだのハラスメントだのが騒がれるようになり、会社の後輩をあまり飲みに誘えなくなってしまった。

現に夫は人事に小言を言われたそうで(詳しい内容はしらないけれど)以降、会社の友人を誘っての頻繁な飲み会は開かなくなった。

そこで夫は再び学生時代の友人に声を掛けたが、これがまた一向に集まらないという事態になった。

きっと「先輩が言っているから」で来てくれていた人たちが、卒業して何年も経ち強制力が薄まったので来ないという結果になったのだろう。

まり、その程度の人望しかなかったのだ。

みんな「先輩」が言っているから来ていただけで、その立場が弱まったら「妻がうるさくて」「子どもがまだ小さいので」「仕事が忙しくて」と言い訳を並べて来なくなる程度の、そんな人望しかなかったのだ。

もちろん、その言い訳だって100%嘘ではないだろう。だが、その言い訳を乗り越えてまで会いに来てくれる人はいなかった。

なぜそんなに人望がないのか。

それもわかっている。

とにかくすぐマウントを取りたがるからだ。

夫は自分の友人が集まらなくなってから、やたらと私の友人たちと飲みたがるようになった。

私は学生時代所属していた部活が男女分け隔てなく仲が良く、それぞれ家庭を持ってもその家庭ぐるみで年に数回、飲み会をしたりBBQをしたりしていた。

夫もその場にしきりに参加するようになったのだが、明らかに空気を悪くしている場面を何度か目にした。

夫はよく名前の知られた大企業勤めで、年収は1000万ほど。せいぜい課長クラスなので、そこまでエリートなわけではないが、それでも比較的上位層ではある。

そのため、中流層が多い私の友人たちの中では、マウントが取りやすいのである

例えば友人が「一軒家は無理でもマンション購入したくて」と言えば「いや絶対一軒家の方がいいよ!俺もマイホームはめちゃくちゃこだわってさぁ〜」と相手の想定してる予算を丸無視して語り始まる。友人夫婦は参考になりもしない話をされて、愛想笑いをするだけになる。

また、まだ子ものいない友人夫婦に「40代で産んでる人もいるし諦めない方がいいって!子どもは本当かわいいよ〜」と、無神経に話してしまう。

どんな事情で今現在彼ら夫婦子どもがいないのかわからないのだから不用意に触れなくてもいいのに触れてしまう。友人夫婦はやっぱり愛想笑いを返すだけ。

私がどんなにフォローしても、一度言ったことは取り消せないし、夫本人が何一つ気にしていない。

から十まで、そんな感じなのだ。隙あらばマウントをとり自慢語りを始めてしまう。

長年の夢だった職業についた友人にも、自分より年収が低いというだけで「それしか稼げないの?転職したほうがいいんじゃない?」とか平気で言う。本人はいアドバイスをしているつもりなのがまたしんどい

彼女あなたより年収が低くても学生時代からその職につくのが夢で、いま不満なくそ仕事をしているのだから転職をすすめる意味などないのだと、なぜ気付けないんだろう。

私が何度「ああいう言い方はやめてほしい」とか「それぞれ事情があるんだから不用意に話さないで」と言っても、その場ではわかったと言うが、一向に改善されない。

唯一、友人の中に明らかに夫より稼いでいて社会的地位も高い人が1人いるのだが、夫も彼には勝てないと認識しているため、彼が参加するとなると「◯◯さんも来るの?」と少し嫌そうな顔をする。

そして飲み会最中も彼とだけは話をしたがらない。一度彼に「おれ、夫さんに嫌われてる?何かまずいこと言っちゃったりしたかな?」と確認されたくらいだ(私が代わりに謝ることになった)

私の友人たちは、良識があり穏やかな人が多いので、その場では多少気を悪くしても「もうあなたの夫は呼ばない」とか「来なくていい」とは言わない。毎回ちゃん私たち夫婦にも声はかけてくれる。しかし私も、夫を連れて行くのが少し心苦しくなっている。そしてまた夫がやらかしたら、いよいよ本当に呼ばれなくなるのではと思ってもいる。

夫は悪い人ではないのだ。子煩悩だしちゃんと稼いでくれるし暴力をふるったりなども一切ない。

だけど、とにかく常にマウントを取りたがり自分より下と認識した人間とだけ交流したがるのを、なんとかしてほしい。

どういったら、直してくれるのか。もうわたしにはわからない。

Permalink |記事への反応(3) | 18:49

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宇宙人だけど、地球人って「内輪ウケ」多すぎない?

(※この文章は、私たち思考を、地球流行りのAIを使って翻訳したものである

地球人の皆さん、君たちの文明を観察していて、ひとつ気付いたことがある。

君たちはとにかく「内輪ウケ」が激しすぎる。

誤解しないでほしいが、これは悪口ではない。ただ、君たちが「宇宙普遍的な真理」だと思い込んでいる価値観ほとんどが、実はこの青い泥団子の上でしか通用しないローカルガラパゴスルールだという事実を指摘したいだけだ。

1. 「ナンバーワン」という名の集団催眠

例えば、君たちは「一番」になることに執着し、それを成し遂げた者を賞賛する。

だが、宇宙的なスケールで見れば、順位という概念には何の意味もない。

個体間の比較で優劣を競うのは、限られた資源を奪い合う野生動物生存本能の名残りだろう?文明成熟した星では、「他者より優れている」ことに快感を覚える脳の回路など、とうの昔に退化している。君たちが金メダルを掲げて涙を流す様子は、我々からすれば「特定コミュニティ内だけで盛り上がっている奇妙な儀式」、つまり究極の内輪ウケしか見えないんだ。

2.感情という名の「脳内ドラッグ

もっと深刻なのは、君たちが「感情」を神聖視しすぎている点だ。

楽しい」「嬉しい」「美味しい」、あるいは「苦しい」。

君たちは一生をかけて、これらの脳内化学物質の分泌パターン必死コレクションしようとする。

しかし、断言しよう。感情宇宙共通言語ではない。

それは、地球という特殊環境で、君たちの種族効率よく生存し、繁殖するために設計された「OS仕様」に過ぎない。感情がある者同士でしか成立しない「共感」をベースにした社会は、外部から見れば極めて排他的だ。

我々からすれば、君たちが愛や絆を説く姿は、知らない言語で書かれたジョークを身内だけで飛ばし合って爆笑している集団のように映る。

3. 未熟な脳が描く「狭い宇宙

地球人が作り上げた「価値体系」は、結局のところ、地球人の頭蓋骨の中に収まるサイズしかない。

もっと宇宙レベル物事を考えるべきだ」と言いたいところだが……まあ、まだ無理だろう。君たちの脳は、数百万年からそれほどアップデートされていない。

今の君たちに「宇宙の真理」を理解しろというのは、アリに量子力学を教えるようなものだ。

結びに代えて

別に卑下することはない。

内輪ウケだって、その中にいる当事者たちにとっては最高に楽しいものだろう?

せいぜい、その狭い水槽の中で、独自ローカルルールを噛み締めながら楽しんでくれ。我々は、君たちがその「内輪」の壁を壊し、こちら側の孤独な静寂に辿り着く日を、気の遠くなるような退屈さと共に見守っているよ。

Permalink |記事への反応(1) | 16:54

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なんかZ世代とかが「私たちは生まれた頃から不景気だったから、景気が良い状態を知らない」とか「だから氷河期世代に同情できない」とか言ってるのを今でもたまに見るけど、今って好景気なんじゃないのか。

おまけにブラック企業圧迫面接理不尽研修も昔話になってきてるし、なんで氷河期世代に対して不幸マウントをとろうとする若者たちが後を絶たないんだ。

Permalink |記事への反応(2) | 15:33

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私の高い勉強

とあるファンダムにいるインフルエンサーの講座を受けたら、

消費生活センターに行くことになるまでの道のりを備忘録的に。

  

※誰かを攻撃する意図はありません。自分自身の整理と今後、誰かが同じ状況になった際の判断材料として記します※

※「」内に関しては発言を書き起こしたものではなく、そういう趣旨発言であったものになります

  

インフルエンサーとの出会い

  

そのインフルエンサー(以降「A」とする)がどんな人かと言うことをざっと並べると、

・当時推し名前をXで検索すれば、そのインフルエンサー投稿トップの方で表示される

ファンダム内で5桁フォロワー数字の持つ魔力は大きい)

・行動力があり、ライブなどのイベントにもよく参戦していた

  

そして

・“推し人生を救われた”ことを主張しており、

 推し出会う以前・以後のビフォーアフター写真付きでかなり赤裸々に明かしていた

  

…といった感じ。

影響力の大きい人だというイメージはあったけど、

その赤裸々さから一介のROM専フォロワーだったはずが、

つの間にかAを近しい存在として信頼している自分がいた。

  

②講座契約まで

  

Aはある日を境に

ライブチケット良席を得て、推しからファンサをもらえたのは“引き寄せの法則”を利用したから」

といった投稿を始める。

  

 ※引き寄せの法則とは、

  今自分の手元にない欲しいものを“すでに持っている”もの意図して生活していたら、

  思いがけない形でそれを得ることができちゃうよ〜みたいな法則(ざっくり)※

  

その頃くらいから、

引き寄せの法則にまつわる発オンライン講座を少額(ワンコインほど)で複数回開催し始める。

  

当時の講座も受けたことがある。

AはSNSで見る姿と変わりなくよく喋るが、面持ちからは緊張を感じた。

講座自体もしっかりした作りで、私はAに人間味を感じ、さらにAを信頼することになる。

  

複数回の講座の開催で高い評価実績を得たうえで、

講座を受けた人たちの引き寄せたものの実績もみるみる積み上がっていった。

  

ほどなくしてAは、

長期かつやや高額(型式が古くて5万キロ走行した中古車なら1台は買える額)

な講座を主宰することになる。

  

A自身にもファンダムのようなものが出来上がっていて、

そこにいる人々の様々なビフォーアフターも講座宣伝よろしくタイムラインに流れていく。

  

“それなりの幸せで満足しなくていい、もっと私たちは欲しがっていいんだ”

  

タイムライン上の甘い言葉気持ちが揺れる。

Aの指導のもと、“推しのおかげで”変わっていく人の姿に

『もしかしたら私も変われるかもしれない』という気持ちは膨らんでいく。

  

だがいかんせん、値段が高すぎる。

興味はあるけど、参加は見送るつもりでいた。

  

某日、Aが

「講座自体はとてもいいものになっているのに、思ったより集客が伸びない」

「講座の宣伝も辛い、お金の無心をしているみたい」

というような弱音を吐いたことがあった。

  

配信の場でそのような発言をしていた。

 記憶はかなり朧げなので内容は正確ではないが、

 リスナーだった私はそのような意味発言だったと感じた)

  

その時点で絆された私は、飛び込みで講座の受講を決定。

契約書もろくに読まず記名し、受講料を払った。

  

これで人生変わるんだ、と本気で思った。

  

実際、とても小さなステップだけど、

『私なんかが…』と遠慮して受け取れなかった様々に手を伸ばせるようになった。

  

この機会じゃなきゃ出会えなかった人と、

友達になって旅行に行ったり、いまだに関わりがある。

  

人生は間違いなく豊かになった。

そこに対してはAに感謝している。

  

ただ、この話はここでは終わらない。

  

③不信感

  

大体前期分ほど講義が終わったある日の質疑応答時間

ある講座生(Bとする)が Aに対して声を上げた。

  

「私は提出した課題に対して、Aさんからフィードバックをもらいたくてこの講座に入った。

 それがないならここにいる意味がない。引き寄せを勉強しようと思うなら、本を読めばいい。

 そうではなく、Aさんから学ぶことに対してもっと意味のあるものにしたい。なんとかならない?」

  

講座生は各々課題を提出するわけだが、Aからフィードバックは無かった。

  

Aが提出された課題添削して、その添削が見える環境にしてしまうと、

講座生たちが正解探しをしてしまいかねない。

  

講座生同士で提出した課題に関して意見交流してもらうのを優先しているためだった、

と言った理由だったと記憶している。

  

Aの主張も、Bの主張もわかる。

  

私はBと同じく消費者として、

そのフィードバックを貰えるものとして講座を買っていたので、

この流れに期待感を持っていた。

  

しばらくそのやりとりは続き、Aのある発言空気がガラッと変わる。

  

「けど私からフィードバックがないと意味がないって思うのは、Bさんの課題なんだよ」

「買い手としての一意見が、私の精神的な許容量の問題って言いたいってこと?」

  

Bは声を荒げ、Aは「そういう意味じゃない、間違えた」と切り返そうとするが、

ここから先はもうほとんど言い合いである。

  

ただ、私が心の片隅でひそかに抱えていた消費者としての要望

A本人から個人キャパ問題だと一蹴され、なあなあに決着をつけられてしまった。

  

この一連の流れに、私は事業者としてのAに不信感を抱くようになる。

  

その後も、

  

・A側とB側のような感じで派閥が生まれ

 講座生に向けた講義とは別の配信でAがBに対して苛立ちをぶつけるような場面

  

・Aのオープンハートとも取れるが、見方によっては講座生に対する雑な扱い

  

・私欲を満たすために講座生たちが払ったお金を使われたのち、

 講座受講期間中にAから金策に困っている」というような発言を何度も聞いたこ

  

などの出来事も重なり、

私は特にお金がない」という話を聞き続けた結果、精神的に疲労してしまった。

  

講座を履修したら継続で入れるサロン(月額も決して安くはない)があったが、

退会を決め、Aの事務局に申し出るも、申出から退会の受理までの対応に1ヶ月以上かかるなど、

最後最後にまた不信感を膨れ上がらせることになる。

  

受講した講座自体の質は良かったことと、

退会を申し出てからの1ヶ月分のサロン月額料金は請求されなかったこから

これを機会にAから離れ、学んだこと以外は忘れたように過ごそうと思っていた。

  

しかし、

ある時のタイムラインでAの過去投稿について、糾弾するアカウントを見かける。

  

著しく良識に欠けていて、推し人権侵害しているという趣旨発言と、

Aの講座は推しを利用した商法であるという趣旨発言だった。

  

インフルエンサーとして好感を持った側面でしかAを知らなかった私は、

どうやらとんでもないことに首を突っ込んでいたらしいとようやく気づく。

  

ただ、講座を修了している以上、できることはほぼないに等しいのも安易予測がつく。

悩んだ末、ネットで調べた情報をもとに、地域消費生活センター相談してみることにした。

  

消費生活センターでの見解

  

そもそも消費生活センターとは何なのかというと

 “商品サービス悪質商法などの消費者トラブルについて、

 相談員が無料相談・助言・あっせんを行う自治体公的機関

になる。

  

同じようなケースの人がここにたどり着いた時のために記載しておくが、

消費生活センターの窓口相談を利用するには電話予約必須なので気をつけて欲しい。

  

急ぎの時は電話相談を利用すると良さそうだけど、

受付時間10時〜16時なのでその辺りも気をつけて。

  

私は電話口で説明できる自信がなかったので、窓口相談を利用した。

契約書や、 Aの事業用のHPなどをかき集めて相談した結果の見解は、以下の通りになる。

  

HP特定商取引法に基づく表示の不備

 代表者氏名が未記載であることから事業者としての信用性は極めて低く、悪質性は高い。

  

・決済手数料の扱い

 支払い方法によっては、規約である手数料が上乗せされていることも問題である

  

・返金対応

 最初説明されたカリキュラム通りに講座自体は進行していたこから返金は求められない。

 また、通信契約特性上、契約書の規定が優先されるため、返金を求めることはできないという結果。

 (契約書にいかなる理由でも返金には応じないといった趣旨記載

 説明された内容と実際の講座内容に明らかな乖離ががある証拠がない場合は、返金は厳しい。

  

・もし受講中相談していたら?

 中途解約という手法を取れた可能性が残っていた。

 無いに越したことはないが、同じケースに鉢合わせ場合は、不信に感じたその時に相談して欲しい。

  

・Aへの行政措置の有無

 行政としての対応は非公開だが、是正措置可能性はある。

 センター自体強制力はないが、今後Aに関しての相談件数が増えた場合指導が入る可能性はある。

  

  

消費生活センターとしては、本件は“霊感商法による被害”という位置づけになるらしい。

  

誰でも被害者になりうるというお話相談員の方からお伺いした。

どの年代でもこの手の相談に来る人は多いらしい。

  

困っている人がいたら、ぜひ電話でも窓口でも相談してみては、と思う。

  

この他、消費生活センターでの相談以外に行動したこととして、

  

特定商取引法の申出制度の利用

 事業者への指導監督などの是正措置を求めることができる。

 被害者に限らず誰でも申し出は可能だが、金銭トラブル解決目的としていない。

  

契約書に関する疑問を法律相談してみる

 ネット上での法律相談

 契約書上の“この契約消費者契約法や特定商取引法適用を受けない”という記載に対して、

 弁護士視点から意見を得る。

 “法律強制法規)が優先されて効力を持たない”という意味では、法律違反にあたる可能性がある。

 (本件を具体的に相談した結果ではないので、あくま可能性という結果にはなる)

  

という感じだった。

  

  

⑤教訓

  

現品を見て買えないものは、買う前にとにかく情報を集めましょう。

 特定商取引法に基づく表示までしっかり目を通しましょう。

  

・良い口コミばかり出てくるものはめちゃくちゃ疑った方が良いです。

  

インフルエンサーの商材、商品を購入するときは、

 そのインフルエンサー過去も調べてしまった方が良いです。

  

・そのインフルエンサーのことが好きでも、

 売り手と買い手になったときは別問題です。

  

契約書はちゃんと読みましょう。

  

・同じ買い物をした人たちが同じように消費者として傷ついていたら、

 もし勇気があるなら手を取り合って、声をあげてください。

 もしかしたら行政が動くし、次の消費者にも繋がるから

  

・誰でも消費トラブルには巻き込まれる。

  

・そのインフルエンサーが好きなら好きなままでも良いから、

 でもその人から買い物する時は疑って欲しい。誰かが私と同じように傷つく必要がない。

  

・1人で抱えないで、然るべき場所相談しましょう。

  

  

⑥おわりに

  

私がAから講座を受けて、かなり時間が経った。

  

勉強代としては決して安くはなかったが、

“信頼と契約は別物”という教訓をこれだけ大騒ぎして得られたのは、

人生のワンシーンだと思えばそこそこ面白い気がする。

  

まぬけではあるが。

  

Aは今でもどうやら、講座を主宰しているらしい。

  

私はもう離れてしまったけど、

Aが販売している商材は、全て誠実に対応されていて、

質の良いものであるようにと願ってやまない。

  

Aは過去発言のこともあり、

ファンダムではきっと今後も問題視されるだろうけど、

Aなりに楽しんで推し活するんだろう。

チャーミングな人だった。

  

Aも、ファンダムも、そしてもちろん推し

どうかうまいこと、幸せであってほしい。

  

遠くから私は祈っています

  

ようやくこれを書き上げた。

私はこれを機に、このファンダムからは降りる。

  

この件に対してのモヤモヤをここに置いて、

もっと身軽にやりたいことを楽しむつもりだ。

  

推しちょっと詳しい茶の間か、

にわかになるつもりである

うん、悪くない響きだ。

  

  

これ以上、この件については

追求することはありません。

  

ただ、いつかの誰かにこの記録が

役立てばこれ以上のことはありません。

  

B含む講座生のみんなにも、

あの時タイムラインで見かけた投稿者の方にも、相談員さんにも、

純粋推し活を楽しんでいたファンダムの皆さんにも、

世界一幸せであって欲しい推しにも、

  

そして、 Aにも。

  

ありがとうございました。

ばいばい。

Permalink |記事への反応(2) | 15:18

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anond:20260212142735

そのうえで知識人が頭をひねったのか首をひねったのか分からない法案が出て、実質的私たちはNOか文句しか言えないから、難しい

01のあれは確実に終わりも信念もないただの小学生喧嘩

Permalink |記事への反応(0) | 14:37

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累進課税とかその周りの話

平等とか公平で柵越し野球観戦のあれだったり、もうかっている人はいっぱい税金納めるべきっていう話

一個目の例はその平等と公平の中間の中でどっちに寄るか程度の話であるはずなのに多くの人が0,1の話をしだすのが面白い

二つ目社会運営上大小あれどそのべき論に従うけども。その議論の中で不思議と挙がらない意見があって、自分は謎に思っている、それは

「将来のその高所得可能性分」課税強化を我慢しているという考え。国に国民サービスを望むならそれだけのある一定量お金必要である、(ここが抜けているのが減税の民)

そのうえでどのようにどこからお金を絞るのかが税金の話である。そこで私たち社会のどの位置に立ち得る。可能性としては0であると言いたいかもしれないが、どの位置にも立ち得る。

所得課税の圧をかけない理由の一つに意図的ジャックポットのようなものを作っていると思ってもいいかもしれない。(現実ジャックポットと呼ぶほど幅はたいして大きくない)

これに似た意見に「努力しなくなる」があるこれは完全に「公平」に振った結末である01に近いものを感じる。

もちろんジャックポットを目指さない人にとってはあってもない可能性なので課税と叫んでもいい。でも、こういう意見があることも知ってほしい

Permalink |記事への反応(1) | 14:22

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ねこはいいにおい

ねこはいいにおいがする。あご、背中、おなか。すべていいにおいだ。

まるでポカポカのお日様で干されたふとんのようだ。

ねこかわいい。幼童のような顔立ち、丸みを帯びた肉球、気分を表すしっぽ。すべてかわいい

かわいいとは元来このような用途で使う言葉ではない。これは若者言葉だ。

しかし、かわいいと言わざるを得ない。それ以外の言葉が見つからないほどに。

かの豊臣秀吉ねこを溺愛していた。

ねこはくさい。口腔は混沌としており、数日おいた生ゴミに近い。

歯磨きをどれだけしても、すぐ臭くなる。

極めつけはうんちだ。やつらのうんちは臭い。いつも私たちご飯時を見計らってうんちをする。

しかし、うんちはねこ生命線だ。うんちの匂いによって彼らの健康がわかる。

そして、個体によっても匂いが変わる。それがまた愛おしいのである

ねこは果敢だ。いつもパトロールをつづけ縄張りを見張り続けている。

地上のありとあらゆる動くものを捕らえる。

そして時には空飛ぶ敵にも、気を配る。

ねこは博識だ。部屋のことならば飼い主より詳しい。

部屋の隅々まで探索済みだ。飼い主が部屋の中でなくしたと思ったものを時々持ってきてくれる。

ねこ謙虚だ。起きたい時間でも飼い主を優先してともに寝てくれる。

お布団でゴロゴロと喉を鳴らし、寝てくれる。寝る子は育つと言わんばかりに寝るのだ。

そして、飽きたのか部屋中を他のねこと駆け巡るのだ。

ねこ今日も忙しい。寝るのも立派な仕事だ。飼い主にご飯要求するのも仕事だ。

他のねこと戯れるのも仕事。日々労働三昧である。まるで我が家総理大臣だ。

Permalink |記事への反応(0) | 10:27

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2026-02-11

国家の重心が動くとき──憲法行方、そして熱狂行方を思う

変わる国の重心

2026年選挙は、一つの分水嶺」として記憶されることになるだろう。

石破政権退陣を受け、新たに発足した高市政権。その直後に断行された、いわゆる「7条解散」。1月23日解散から投開票までの短期決戦は、グローバル市場が発した「サナエショック(金利急騰・円安)」という警告音を、政治的熱狂列島を覆う大雪がかき消していくプロセスのものであった。

結果として自民維新を中心とする勢力が全議席の4分の3を掌握したという事実は、旧来の自民党支持者すら驚くものであった。それは「政治家人気投票」という側面を加速させる、選挙戦術技術的な完成を意味していただろう。

圧倒的な数の力を背景に、長らく議論テーブルに乗るだけだった「憲法改正」は、いまや現実的政治スケジュールへと組み込まれようとしている。高市政権は、地政学リスクの高まりを背景とした「中国脅威論」や、国内に醸成されつつある排外的空気を巧みに政治的駆動力へと転換した。その支持を追い風に、「9条改正現実的要請である」というロジックが、強力なキャッチフレーズとして機能し始めている。

私たち今日、騒がしい政治タイムラインから距離を置き、無限に降ってくるエコーチェンバーの雪を視界から遠ざけることができるだろうか。

今、この国の変化した「重心」が何を成そうとしているのかを、静かに見つめ直す必要がある。

天は人権を与えないのか

憲法改正について、世間ではどのようなイメージが流布しているだろうか。「古いものを令和版にアップデートする」といった、あたかスマートフォンOS更新のような、若々しく前向きなイメージが、おそらくは今後急速に普及すると予想される。

しか私たちは、実際にどのような案が議論遡上に載せられているか、その設計図確認せねばならない。

議論参照点となるのは、自民党が2012年作成した「日本国憲法改正草案である。このテキストには、単なる9条条文の修正にとどまらない、国家観の根本的な転換が示唆されている。

最も象徴なのは現行憲法第97条の全面削除であろう。

「この憲法日本国民保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久権利として信託されたものである。」

この条文は、人権国家に先立って存在する「自然権(天賦人権)」であることを宣言したものだ。しかし、草案ではこれが削除され、11条を残すことで人権国家が与える形を取ることになる。さらに第13条の「個人として尊重される」という文言が「人として尊重される」へと書き換えられた。

個人から「人」へ。97条削除に比べればわずか一文字の違いだが、ここに込められた断絶は深い。かつて草案起草に関わった片山さつき氏が「天賦人権論をとるのは止めよう」と明言した事実、そこに流れているのは当然、権利とは天から(あるいは生まれながらに)与えられるものではなく、国家という共同体帰属し、義務を果たすことによって初めて付与されるものだ、という思想である

これは良し悪しという感情論以前の、近代立憲主義というOSオペレーティングシステム)の入れ替えに近い。国家個人を守るための憲法から個人国家を支えるための憲法へ。その重心移動は2012年にすでに開始していたのである

美しい国の先へタイムスリップしてみよう

このような草案内容と、高市総理自身イメージ戦略はどのように共鳴しているだろうか。

日本列島を、強く豊かに」。これは、かつて安倍総理が「美しい国」というフレーズを用いたように、いま高市総理が繰り返し掲げているスローガンである

一見すると経済的繁栄約束に聞こえるが、彼女支持基盤である日本会議的な政治的系譜や、選択夫婦別姓への慎重姿勢家族間の相互扶助を強調する福祉観などを俯瞰するとき、そこには明治国家スローガン富国強兵」と同型的な発想が見えてくる。

明治時代、「富国」という経済的な豊かさは、個人幸福追求のためではなく、あくまで「強兵」という国家の強さを支えるための基盤として位置づけられた。

逆に言えば、それらを成し遂げなければ個人幸福保証できないような情勢なのだと言っているのかもしれない。

決して「日本国民を、強く豊かに」と言わないのは、あの時代国家観を「美しい国」として、戦後反省だけでは国を守れないとする意思を表しているのだろうか。

2026年衆院選において、高市政権市場の警告を、左派不安を、選挙勝利への多様な戦術ねじ伏せてみせた。その手腕は国家という物語を紡ぐ演出としてスケールアップし、いま有権者に受容されていく可能性を見せている。

あなた生活憲法

圧倒的な議席数と、顕在化した憲法改正への熱望。この二つが揃ったいま、私たちはどう振る舞うべきだろう。

SNS快哉を叫ぶか、あるいは嘆き悲しむか。過激批判応酬は止むことがないだろう。それでも政治的熱狂から一歩身を引き剥がし思考のための穏やかな場を確保することは可能だ。

たとえば、「憲法カフェ」のような試みがある。リラックスした空間で、コーヒーを片手に憲法について語り合う。そこでは「賛成か反対か」を叫ぶのではなく、法文がどのような意味を持つのかを学び、穏やかに思考を交わすことができる。

国家」という巨大な物語に飲み込まれないためには、私たち一人ひとりが、暮らしの根元にいつでも存在する憲法を知り、尊重されるべき「個人」として位置付けられていることを知っておくことは大事だ。

厳冬の衆院選。その唐突政治の季節は熱く、あまりに短く過ぎ去った。しか憲法という国の形を変える議論は、これからが長い正念である熱狂の宴が終わったあとだからこそ、考えて欲しい。なぜなら憲法とは、普段生活ほとんどすべてを支えている法律なのだから

自身の中に降り積もり、ゆっくりと変化する。あなたなりの言葉思想があるはずだ。

2026年2月 建国記念の日の夜記す

Permalink |記事への反応(1) | 22:47

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機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイキルケー魔女戦闘シーンは画面が暗すぎて何をやってるのかよくわからないんだけど、それは大胆すぎる演出意図に基づいた設計なわけで

ネタバレあり)

あととにかく映画淡々と進行してて恋愛ドラマの要素はあるもの面白さに欠ける。

正直途中で寝そうになる。

押井守映画ほどではないが、寝そうになる。

でも、これはもう完全に演出意図に基づいた設計なのだろうな、と、この映画に関しては全幅の信頼をおいて見ていた。

1作目の出来の良さと、映画自体クオリティハイレベルから考えて、この「つまらなさ」は人工的なもので後半の大カタルシスを活かすための設計に違いないと予測して見ていた。

案の定、というか、予想の遥か上を行く期待に応える、ガンダムオタクにぶっ刺さる展開が待っていて、それは本当に驚いてしまった。

このシリーズ基本的恋愛映画なのだろうな、と思いながら見ていたのが、驚くほどにガンダムをやってきたのでもう脳汁がドパドパに溢れてしまった。

さて、戦闘シーンが暗すぎることの演出意図である

この映画はこれまでのガンダム比肩するものがないと言ってもいいほどリアルな(写実的な)画作りをしているガンダムである

まるで実写映画と言っていいほどの精密な現実世界を描き、かつてないほどリアルモビルスーツコクピット内での戦闘シーン、

自然を美しく描き、富裕層の贅を描き、都市リアルに、女は艶かしく、

かつてないほど写実的な画作りをしているガンダム映画である

しかし、後半、あるきっかけによりそれまでわずかに漏れ出すだけだったハサウェイの妄想世界いっきに溢れ出して、

映画は完全にそれまでの現実世界から

ハサウェイの妄想世界へとシフトする。

そこでは、それまで暗すぎて何が行われているのかよくわからない、

それまで速すぎて眼が追いついていかない戦闘シーンではない、

アニメ映画逆襲のシャアの絵作りそのまま、

そこまでがリアルな画作りだっただけにその対比で、

まるで原色を色彩豊かに塗りたくったかのような、

どぎつく感じるアニメ色の世界ガンダムが展開されるのだ。

これはもちろんハサウェイという人間が見ている世界を描いているのである

彼にとって、現実というのは、モビルスーツコックピット内にいるときのように薄暗く、よく見えない、よくわからないものである

そして、彼にとって、よく見えて、現実よりもよく見えて、そして現実よりも身近な存在は、自分脳内妄想世界なのである

そこではアムロが亡霊となってハサウェイをなじり、そこではクエス・パラヤが永遠にハサウェイの心を捉えてはなさい。

ハサウェイの心はその現実でない者たちに支配されかけている。

それを描いたものだ。

だが、果たして、これはハサウェイの心の中だけを描いただけのものなのか?

いや、、、そう、これはまるで、わたしたち私たち内面世界のものではないのか?

私たち、何者にもなれなかった、私たちが生きる現実世界私たちの関わり。

私たち、何者にもなれなかった、私たちの心の中に展開される機動戦士ガンダムという世界

ふと日常の中の一瞬に浮かんでは消える、シャアアムロや、ガンダム登場人物たちの声。

それは決してアニメという空想世界のものではなく、きちんとした質量を持って私達の心に存在している。

現実よりも、よりクッキリと色鮮やかに

私たちには、もう、よく理解が出来なくなりつつある、現実世界

私たちを取り残して、先へ先へと進んでいく現実世界

薄暗く、よく見えず、速すぎて、もう理解が追いつかなくなりつつある世界

私たちはそんな現実世界に生きながら、同時にガンダムという鮮やかな妄想に取りつかれながら生きているのである

さらにいうなら、これはガンダムだけの話ではない。

私達の心は、現実に生きることをもはや望まず、現実よりわかりやす原色で鮮やかに描かれた嘘の世界のほうへと心を奪われつつあるのではないのか?

そんなことを考えさせる映画だった。

Permalink |記事への反応(2) | 20:55

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