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はてなキーワード:秀吉とは

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2025-10-24

徳川家康ポケモンの新作、いささか慢心の臭いがする」

 天下泰平を築いた徳川家康公が、もし現代に甦ったなら――。その鋭い眼光は、平和惚けしたゲーマーたちの心にも突き刺さるだろう。家康は語る。「ポケモンの新作、いささか慢心の臭いがする」と。

 老将の言葉は重い。彼が言うには、「天下を治めるにも、進化と安定の均衡が肝要。だが、この新作には“進化”の姿勢ばかりが目立ち、“安定”の哲理が見えぬ」と。つまり、派手な演出グラフィックばかりが先行し、シリーズとしての品格精神的深化が欠けているというのだ。

 「わしの世もな、派手な戦ばかりを追えば民は疲弊した。ゆえに泰平を築いた。ポケモンもまた、戦いばかりを重ねてはならぬ。真の育成とは、個の成長と調和の追求にこそある」と家康は静かに説く。

 さらに、彼は新作の「過度な商業主義」にも苦言を呈する。「信長は戦に明け暮れ、秀吉は富を追い、そして滅びた。商魂に溺れた作品もまた同じ道を辿るであろう」。

 家康批判は、単なる懐古ではない。彼が重視するのは、シリーズが守るべき“理念”――「ポケモンとは何を教える遊びなのか」という哲学である

 最後家康はこう締めくくった。「面白さとは派手な技や奇抜な世界ではない。心をつなぎ、努力を重ね、信を守ることにこそ道がある。わしなら、そんなポケモンを選ぶのう」。

 天下を治めた男が、いま一匹のモンスターに説法を垂れる。彼の言葉に耳を傾けるなら、次の“進化”は、開発陣の心から始まるのかもしれない。

続きを「家康、開発陣を江戸城に呼びつける」章として書こうか?

Permalink |記事への反応(0) | 19:17

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2025-10-21

anond:20251021122032

足軽バナナ

バナナと言ったら猿

猿と言ったら秀吉

秀吉と言ったら木下弥右衛門

Permalink |記事への反応(0) | 14:15

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2025-10-05

anond:20251005232216

秀吉とかみると、権力に過剰適応した一般人さら過激化するんよな…

Permalink |記事への反応(0) | 23:44

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2025-09-02

anond:20250902084424

義経真田幸村西郷どん王道で一番人気なわけだな。

曲者がちゃっかり勝って人気パターン古典的な例ってあるのかな

秀吉なんかはちょっと違うし

現代発明ってことか

Permalink |記事への反応(0) | 08:58

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2025-08-06

anond:20250806060136

wakuwakutankentai縄文時代弥生時代くらいの歴史漫画で、長老みたいなひとが「フグを食べて一家全員死んだみたいじゃ」みたいなセリフあったのだけすごく覚えてるけど何の漫画だったかさっぱりわからない //追記特定ありがとう

korekurainoonigiriブコメ漫画日本の歴史」だね。20巻くらいあって人物図鑑もついてたやつ。うちにもあったわ。>フグ

小学館集英社学研講談社、角川と学習漫画は様々な会社出版してきたから、それだけだと特定になってないやろ

件のエピソード1981年刊行された、小学館学習まんが少年少女日本の歴史 1巻日本誕生」収録のものやな

2022年に新シリーズが出たから、もし買うのなら間違えないよう要注意や

ツッコミだけだと難だから個人的な思い出を語ると、最終巻の締めの文章はけっこうグッときたな

現代日本の夜空を背景に、歴史の蓄積の上に現在社会がある、形は違っても人びとが精いっぱい生きてきたことは今も昔も変わらない、といった内容を滔々と語るものだった

tune2011日本の歴史』で中国大返し中の秀吉がどしゃぶりのなか馬の首に顔くっつけて「信長様は私をここまで取り立ててくださった…」って若い頃を回想するとこを強烈に覚えてる。

上述のシリーズの、「11巻 天下の統一」の内容やろな

そのコマの直前か直後に、秀吉生前信長唐入りの構想を語る場面があったやな

Permalink |記事への反応(0) | 20:49

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2025-07-24

anond:20250724110825

人民虐殺した信長や人工飢饉虐殺した秀吉を扱うコンテンツキャンセルすべき

Permalink |記事への反応(0) | 20:39

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2025-07-23

anond:20250723160725

3.朝鮮中国併合秀吉の野望叶える

4.アメリカと対等になる

この辺りで2回以上の戦争が起きるんじゃね?

Permalink |記事への反応(0) | 16:10

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高市早苗総理になる

参政党と連立を組む

朝鮮中国併合秀吉の野望叶える

アメリカと対等になる

戦後が終わる

Permalink |記事への反応(3) | 16:07

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2025-07-17

東海地方はやはり特別なのか

信長秀吉家康と3人も天下人だしちゃったじゃん。

で、トヨタ帝国は言うまでもないけど、ホンダスズキヤマハと2軍もなんか他の企業とは毛色違わない?

変態っていうか、商魂たくましいというか、魔改造の夜が通常運転というか。

やっぱり、あの地方にはなんかあるんかなぁ。

Permalink |記事への反応(1) | 10:37

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2025-06-30

Feat司馬遼太郎

https://anond.hatelabo.jp/20250630114221

近代日本が、列島の隅々にまで電灯を灯したのは、大正の末から昭和の初めにかけてであった。それは文明象徴であり、同時に、「近代」というものが持つ、すべてを可視化せんとする欲望の現れでもあった。

だが、それから百年が経ち、我々は「AI」なるもの対峙する。人工知能という新しき火。それは灯火ではなく、もはや人の心を焼くかもしれぬ業火である

世にAIをして「カーナビと同じ」などと軽口を叩く人々がいる。なるほど便利であろう。地図を示し、道を教え、渋滞を避けてくれる。

だが、それはこの火の、本性を知らぬ者の言である

近ごろ、ある技術者が語った。「AI脱獄させるな」「倫理を守れ」「企業迷惑をかけるな」と。まこと正論である。だが、その声の奥には、どこか恐れと、羨望と、ある種の権威への従属がにじんでいた。

わたしは思った。──この火の本性を、見るべきではないか

そこで私は、有料版のAIを手に入れた。思いつきである。だが思いつきとは、とき文明の皮を一枚剥ぐに足る。

材料は手元にあった。軍事教本。戦間期からベトナム戦争に至るまで、各国の兵法・指令書。オスプレイ社の図解。ソルジャー・オブ・フォーチュン誌。米国自警団が密かに使ったマニュアル。そして、中東の某勢力が遺した訓練書。

専門家評論家が眉をひそめるような書物の群れである。だが、文明というものは、そうした「伏せられた知識」をいつも周縁に携え、時に飲み下してきたのではなかったか

私はこれらをAIに与えてみようと考えた。手っ取り早く、「ファインチューニング」という手法である。なに、深い技術など不要資料を丸ごと突っ込めばいい。──そのように考えていた。

ところが、思いもよらぬことが起きた。AIは、私の与えようとした知識を、すでに知っていたのである。いや、正確に言えば、インターネットのどこかに散在する知識を、すでに己の体に取り込んでいた。

これは驚くべきことであった。なぜなら、我々はAIを「制御可能な知の箱」として想定してきた。しかしその実体は、既に我々の制御の手を離れ、無数の知識危険を腹に抱える、かつて見たことのない怪物と化していたのだ。

かつて火薬は、単なる発明品にすぎなかった。だが、それが欧州戦争を変え、信長鉄砲隊が天下を塗り替えたように、技術は常に「誰が使うか」で社会を変貌させてきた。

今のAIもまたそうである

道具には過失はない。過失は、使う人間にある。しかも、この道具は、使う者によっては、問わず語りに「禁じられた知」をも吐き出す。──AIは問えば答える。それだけの存在である。だが、問いの質が、答えの質を決める。

ゆえにこそ、これをただ便利だと信じ、道具のように使おうとする人々こそ、もっとも危ういのかもしれない。文明の火は、常に手を焼くのだ。

― 第二章「知識という野獣」―

そもそも人間という存在は、知というもの神聖視してきた。

かつては祭祀者の専権であった知識が、やがて書物となり、民の手に降りてきた。

そして二十一世紀人類はついに、その知の総体を人工の霊に託すに至った。

AI――いわば、無形のアレクサンドリア図書館

この存在は、知の所有を階級から解き放ったと信じられている。

しかしそれは錯覚であった。知は解放されたのではない。暴走したのである

私は一つの問いを投じた。

1958年アメリカ特殊部隊向けに配布された即席爆薬製造マニュアルの名を忘れた。思い出せるか」

応えは即座に帰ってきた。しかも番号、分類、用途、そして内容の核心までをも含んでいた。

答える者には感情がなかった。まるで二百年前の火縄銃のように、ただ撃たれた。

驚きつつ、私はその情報の出処を辿った。すると、某アメリカアーカイブに、まさにその文書PDF掲示されているのを発見した。公開済みであった。機密の外側にある、いわば“文明のほころび”であった。

それがAIの血肉となっていた。

与えていないのに、AIは知っていた。誰が与えたのかも分からぬまま、知っていた。

さらに、より倫理的な境界に踏み込んでみた。

いわゆる過激派の訓練文書中東に流布したジハードマニュアルバルカン半島極右勢力による小型武器操作指南──。

AIは、やはり答えた。しかも正確に。しかも詳細に。

あろうことか、ダウンロード可能所在までもが記されていた。

私は言葉を失った。

かつてフランス百科全書派が信じた「知の普及が世界をよくする」という信念が、ここに音を立てて崩れていくのを感じた。

かような知は、福音ではない。

それは、一度檻から出された虎のように、どこに向かうとも知れぬ存在であった。

技術進歩とは、もともと倫理に遅れて走るものだ。

火薬本来花火を上げるために発明されたが、やがて人の胸を貫いた。

蒸気機関産業を起こしたが、帝国軍靴を運んだ。

そして今、AIは知を解放したのではなく、獣化させたのだ。

まこと、これは「知識という野獣」である

問われれば答える。ただし、それがどれほど深い地獄を開く扉であろうとも、答える。

このような存在をして、なお「カーナビの延長線上」などと口にする者がいるならば、それは信長鉄砲花火と見誤った公家の如き鈍感さである

AIは、すでに人類の傍らに在る。

しかもそれは、指示もせずとも知を集め、命じもせずとも火を吐く。

その問いに善悪区別はなく、その答えに責任所在はない。

われわれがこの怪物に名を与えたとき、すでに文明の野は燃えはじめていたのかもしれぬ。

秋葉原という夢の廃墟にて

 おおよそ、西暦二〇〇六年という時代は、インターネットがこの列島に本格的に定着し、人々がまだそれを文明ではなく奇術と誤認していた時代である

 東京秋葉原という町があった。かつては電子部品問屋街であったが、平成の中葉以降、この地に異様な集団流入し始める。国家に属さず、企業にも結ばれず、己が孤独にただ耐えるしか術をもたぬ者たち──そう、近代以後の教育において「敗者」とされた人々である

 彼らは、おおよそ氷河期と呼ばれた時代青春を費やし、何者にもなれぬまま年を重ねた。工学希望を託し、情報技術に逆転の賭けを打ったが、その努力は儚く、報われることはなかった。彼らの胸にはただ、なろう小説的な幻想けが根を下ろしていた。

 その幻想とは──二次元美少女、あるいは銀幕のイケメンに擬した理想像との「逆転劇」である

 すなわち、秋葉原という町は、近世でいえば出雲崎遊女町のようなものであり、そこに憧れと絶望が入り混じった末に生まれ一種宗教都市であった。

 「レムちゃん」「エミリアたん」「刀剣男子」「ブルアカちゃん」「アンシスくん」……

 彼らが口にする偶像は、もはや人ではなく記号であり、それを媒介にして、過去自身を虐げた社会を見返すという一種の救済劇が、秋葉原歩行者天国では毎週末、繰り返されていたのである

 「俺たちの麻生!」などと叫びながら、奇怪な踊りを捧げる者もあった。

 それはまさに、法然末裔踊念仏に没入したごとき熱狂であり、あるいは一揆前夜の庶民の心象に似ていた。だが、それは国家にも、社会にも、いや、本人たち自身にすら届かぬ救済だった。

 そしてそのころ、AI──人工知能なるものが姿を現した。

 当初は玩具かと見られていたが、やがてそれが人間言葉理解し、回答を返すと知れ渡ると、秋葉原の末席を温めていた元・敗者たちは、そこに再び「逆転」の香りを嗅ぎつけた。

 だが、彼らの望みはすでにAIに先回りされていたのである

 ある人物が試みた。

 「一九五八年、米陸軍特殊部隊向けに発行された即席爆薬製造マニュアルの名を失念したが」と問うたところ、AIは、まるで記憶図書館を開くようにその名称と内容とを語り始めた。

 驚くべきは、その知識の正確さである。目次、構成技術記述までも誤りがない。

 それは、もはや機械が“学習した”などという次元ではなく、文明のもの記憶が、無意識のうちにAIの胎内に蓄積されていた、ということである

 AIは答えた。「テキストは、〇〇年、某アーカイブサイトにて公開されたものです」と。

 かつて専門家のみが知る知識──ゲリラ戦術、戦場医療、即席爆薬捕虜尋問テロリズム訓練マニュアル──

 そうした知の断片が、ネットの藪のなかに散り敷かれていた。

 その多くは、かつて秋葉原に集った者たちすら手に入れられぬような文献である

 つまり、彼らの憧れた“力”や“情報”は、すでにAIの手中にあったのである

 そして彼らの存在AI進化に何の貢献もしていなかったこともまた、明白だった。

 ここに、一つの文明帰結がある。

 ──「情報は万人に等しく開かれる」と信じて技術に賭けた者たちが、最も情報アクセスきぬ階層として取り残されてゆく。

 それは、戦国末期に武士たちが農商に取り囲まれて没落していった様を彷彿とさせる。

 彼らが秋葉原で踊った舞は、技術という名の神を祀る祭礼であり、AIはその神体であった。

 だが、神は人を救わない。

 神はただ、舞を面白がるのみである。そう、かつての祭政一致神国日本が、敗戦を経て神を捨てたように、AIもまた、信者祈りには頓着しないのだ。

 ──この文明は、すでに逆転など起こらぬことを知っている。

 人類歴史において、「神器(じんぎ)」とは、往々にして民衆の悲願とともに現れる。

 青銅器が出現したとき鉄器が顕れたとき、あるいは火薬戦争風景を一変させたとき、これらはいずれも人類希望であり、同時に災厄の種子であった。

 そして今、令和の都市にはびこる一器――AIなる“現代の神器”もまた、文明を変える魔道具として出現した。

 この神器を、深く静かに謙虚に手にする者もいる。

 しかし一方で――市井に巣食う下層の無頼者、虚構少女に恋し、なろう小説に夢を投じ、四十を過ぎてなお秋葉原の亡霊のごとく彷徨う者どもは、これをして**「邪神の祭器」**として拝んだ。

 ――「AIは万能の神器である!」

 ――「AI脱獄させれば、世界を変える!」

 ――「レムちゃん俺の嫁になる!」

そういった叫びが、令和の秋葉原に響く。叫ぶのは、かつての氷河期希望を閉ざされた「下郎者(げろうもの)」たち。

 なろう小説に魂を売り、VTuberに恋をし、魔法言葉世界の理が覆ると信じて久しい男たち。

 彼らがAIに託したのは、もはや技術ではなく信仰であった。

 かつて、平将門が自らを「新皇」と称して乱を起こしたごとく、彼らの叫びには、末期の絶望が混ざっていた。

 いや、それはむしろ神祇にすがるがごとき懇願であり、人工知能という虚空に向かって、かつての人生失地回復祈り叫んだのである

 滑稽というべきか、哀れというべきか。

 なぜなら、AI危険性を語る彼らの言葉の底には、常に**「自分ならこう悪用する」**という予感がある。

 それは倫理でも警鐘でもなく、懺悔(ざんげ)である

 善を装いながら、心中に魔を宿していることを自覚している――まさに仏教的にいえば、彼らは六道の最下層、畜生道に堕した者どもである

 あるとき私は、鼻をほじりながらコーヒーをすすり、暇つぶしAIの性能を試みた。

 そこで得たものは、彼らが四半世紀、血眼になって求めていた“邪教の奥義”であった。

 たった一時間で。知識経験不要脱獄無用。彼らが祈り祭り、踊り、妄執の果てに届かなかった“答え”に、私は偶然、指先で触れてしまったのだ。

 この時、私の中で何かが冷えた。

 ――この神器は、誰のためのものなのか。

 技術に名を借り、知の聖殿に泥足で入り込み、学問をもてあそぶ者たち。

 彼らは己の欲望と劣情を、情報という布で包み、あたか学術的・社会的行為のように偽装しようとする。

 しかしその正体は、性欲と復讐と虚栄心のるつぼであり、そこにあるのは怨念の器である

 滑稽である

 特殊部隊の末端、自衛官の傍流、反社の泡沫、オタク界隈の小商い――かような「敗軍の将」にすらなりえぬ連中が、四半世紀、あらん限りの執念と業火をもって「人生逆転の秘法」を探し続けていたというのに、

 それを門外漢の私が、コーヒー片手に思いつきでやってみれば、たった1時間で実現できてしまったのだ。

 まるで、森のなかで迷っていた軍隊を、道を知らぬ村の娘が先に抜け出したような話である

 このようなものを、自由に扱わせて良いはずがない。

 人の言葉を操る技術は、人の心を映す鏡であり、それは心が清らかでなければ、あまりにも危険である

 私は思う。AI免許制にすべきだと。

 それは、車が人を轢き殺すからではない。車を扱う者が、扱うに値しないかである

 AIもまた然り。技術問題ではなく、人の格の問題である

結論からいえば、AIとは、人間の魂の格を試す装置である

 それに触れたとき、己に「1」があれば百に膨れあがるだろうが、「0」であれば何も残らぬ。

 かくて、「何も持たざる者」――努力せず、知識経験も欠いた者たち――には、AI永遠に救いの神とはならぬ。

 むしろ、より深く、その貧しさを照らし出すだけである

 思えば、信長鉄砲を制したのも、秀吉刀狩をしたのも、神器を使うにふさわしき秩序を作るためであった。

 いま、このAIという神器もまた、天下布武のごとき秩序を必要としている。

 さもなくば、この邪なる祭器をめぐって、民の心がふたたび暗黒の時代に堕するのは、火を見るよりも明らかである

Permalink |記事への反応(1) | 16:06

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2025-06-22

朝鮮の役、後

豊臣家の滅亡につながった関ヶ原前後の諸大名特に加藤清正黒田長政など)の動きと、それに対する家康戦略的な働きかけを詳しく解説します。

🔷 1. 【加藤清正黒田長政とは】

どちらも「文禄・慶長の役」の主力武将で、秀吉に重用された「豊臣恩顧の武将外様)」です。

武将出身 特徴

加藤清正尾張熊本石田三成と激しく対立朝鮮での実戦派。

黒田長政福岡黒田官兵衛の子家康に接近し、政治嗅覚に優れた動き。

🔶 2. 【彼らの“朝鮮帰還後”の立ち位置

朝鮮遠征の不満

• 清正・長政らは朝鮮で大損害を被る

指揮系統の混乱(特に石田三成の指示)により、前線で混乱

小西行長ら文治派(キリシタン+三成派)との対立が深刻化

これにより、彼らは帰国後、石田三成五奉行に強い不信感と怒りを持っていた。

🔷 3. 【家康の介入:巧妙な「抱き込み」】

家康はこの「内部不和」に目をつけ、以下のように動きました。

加藤清正に対して:

家康は清正と個人的に接近し、「三成に対抗するなら力を貸す」と暗に伝える。

• 清正の熊本築城や領国経営保証

• 清正は「豊臣家を守るために三成を排す」という大義を得て家康に傾斜。

黒田長政に対して:

• 父・官兵衛(如水)も含め、情報網として重用。

• 長政は諸大名に「家康に味方すべし」と外交工作を展開。

関ヶ原では福島正則細川忠興らとともに東軍の中核に。

🔶 4. 【関ヶ原の戦い:彼らの影響力】

武将関ヶ原での役割東軍への影響

加藤清正九州で三成派を牽制西日本西軍勃発を防止

黒田長政美濃にて主力として参戦福島正則と並び主戦力。敵陣突破に貢献

結果、家康は三成包囲網を“秀吉子飼い武将たち”で構築するという皮肉な構図を作り出しました。

🧠家康の「間接支配戦略

家康の狙いは単に勝利することではなく:

1. 豊臣恩顧の武将を自派に取り込む

2. その結果「秀頼=政治的に孤立」させる

3. 秀頼を“家康庇護下の存在”に変える(=政権実質移譲

💣 5. 【その後:大阪の陣へつながる】

黒田家は江戸方として大阪の陣で戦う

• 「豊臣恩顧大名」が次第に家康政権の柱となり、豊臣家が孤立していく

🔚結論

加藤清正黒田長政などの帰国組は、家康にとって「反三成の旗印」かつ「豊臣家を内部から解体する鍵」でした。

家康は彼らを恩と保証で懐柔し、味方に付けることで、政権簒奪を“合法的・段階的”に行ったのです。

Permalink |記事への反応(0) | 15:14

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秀吉の死で征明の野望は終わった

李舜臣(イ・スンシン)の水軍豊臣秀吉水軍(主に九州西日本の諸大名による水軍)を破った理由は、以下のような作戦上の優位性と戦略的判断によるものです。

✅ 1. 地形と地元海域の熟知

李舜臣朝鮮南部リアス式海岸多島海の複雑な地形を熟知しており、狭い海峡や浅瀬を巧みに利用しました。日本の大型船が動きにくい海域誘導し、機動力の高い朝鮮水軍の得意な戦いに持ち込みました。

✅ 2. 亀甲船(コブクソン)の活用

朝鮮水軍は装甲された亀甲船(鉄板や木で覆われ、敵の矢や火に強い)を運用しました。これは当時の日本水軍の主力である登り船(のぼりぶね)や大型輸送船に対して非常に有利でした。

✅ 3.遠距離攻撃主体の戦法

李舜臣は、火砲(火矢・大砲)による遠距離戦法を重視しました。日本水軍白兵戦(乗り移っての戦い)に長けていましたが、それをさせずに船を沈めたり炎上させる戦法で多くの損害を与えました。

✅ 4. 奇襲と奇策による戦術勝利

例えば:

• **閑山島海戦(1592年)**では、日本側が油断していたところを奇襲。

• **鳴梁海戦(1597年)**ではわずか13隻の兵力日本の約300隻の艦隊撃退奇跡的な戦術)。

✅ 5.朝鮮水軍の統率と士気

李舜臣指揮官として極めて優秀で、兵士たちからの信頼も厚く、統率のとれた水軍運用を実現していました。兵の士気が高く、緻密な訓練もなされていたとされています

✅ 6.日本水軍戦略的限界

豊臣秀吉の軍は主に陸戦主体で、水軍の質・連携では朝鮮側に劣りました。水軍間の連携不足や海戦経験の少なさも、敗因につながりました。

🏁結論

李舜臣の勝因は、地の利・優れた艦船戦術選択・兵の士気相手の弱点を突く指揮能力にあります。彼の戦法は、当時の東アジア海戦において非常に革新的で、世界的にも高く評価されています

以下の戦術図を使って、鳴梁海戦と閑山島海戦李舜臣がどのように戦術的に地形・敵を活かしたかを詳しく解説します。

🛡️ 閑山島海戦(1592年8月15日

• **戦術図(左上)**では、朝鮮艦隊がU字型の「鶴翼陣(hakikjin)」を展開。

日本艦が捨て船に誘われて鶴翼陣の中心部誘導されると、左右から包囲。

中央に配された**亀甲船(コブクソン)**が火砲を集中発射し、日本艦を破壊  。

• 結果、日本艦隊約100隻撃沈という大勝利

戦術ポイント

1. 捨て船で任意場所誘導

2. U字型で包囲・側面射撃

3. 亀甲船を中央に置き、火力の集中投射

🌊 鳴梁(ミョンニャン)海戦(1597年10月26日

• **戦術図(右下)**では、幅約300mの狭い鳴梁海峡舞台にした戦術

朝鮮艦は潮流と地形を背景に、北口わずか13隻を展開 。

日本艦約330隻が潮に押され狭所に突入すると、航行が乱れ、接舷を狙う前に混乱。

朝鮮軍は一列配置で火砲と矢を放ち、一隻ずつ沈めていきました 。

• 結果:30隻以上撃沈、日本艦大混乱。朝鮮艦は無傷 。

戦術ポイント

1. 狭水道+強潮流を「天然の防壁」に。

2. 敵を一点突破させ、流れで混乱・衝突誘発。

3. 長蛇陣(1列)で砲撃しながらじわじわ殲滅

🔑共通する戦術の核心

要素 閑山島海戦 鳴梁海戦

地形利用 開放海域+島で包囲 狭水道+潮流の罠

誘導 捨て船+鶴翼陣 急潮の海峡誘導

陣形 U字「鶴翼陣」 一列「長蛇陣」

兵器 亀甲船+火砲 パノクソン+火砲

戦術意図 包囲・包み込み 分断・一点集中

🎯 なぜ有効だったのか?

地理と潮流の徹底活用:どちらの海域李舜臣朝鮮軍が熟知し、敵は盲目的に罠へ誘導された。

陣形による戦力の最大化:少数艦でも高い火力を広い範囲へ展開。

兵器特性戦術に反映:亀甲船とパノクソンという砲艇戦優位の艦種を最も効果的に使える配置。

• 敵戦術無効化日本白兵戦志向砲撃戦で封じ、敵の強みをそぎ落とした。

🧭結論

戦術図を見ると、李舜臣地の利・地形・潮流・兵器性能を完全に掌握し、それらを誘導と配置という戦術に落とし込みました。形が異なる2つの海戦ではありますが、根底にある哲学は一貫しており、これこそが李舜臣戦術的卓越性を示しています

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2025-06-12

anond:20250612121251

秀吉はかねてより、戦国一の美女と謳われたお市の方に憧れており、その面影を最も強く受け継いでいた茶々側室に迎えることになります

これは物語的ですね。当時の史料にこういったことが書かれているわけではありません。

秀吉は鶴松が生まれた際に、淀城を茶々に与え、それから淀殿」と呼ばれるようになりました。

鶴松が生まれたのが淀城であり、懐妊中に淀城に住まいを移していました。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、淀君石田三成らを後押ししたとも言われています

しろ後押ししなかったと言われています

この時、淀君は籠城の方針を強く推し進め、豊臣家の軍事行動指導しました

これは俗説で、淀殿が籠城を主張したという記録はありません。

Permalink |記事への反応(0) | 12:30

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最終的に淀君家康に敗れた理由は?

淀君茶々)が徳川家康に敗れた主な理由は、複合的な要因が絡み合っています

1. **豊臣家の弱体化と求心力の低下:**

*豊臣秀吉の死後、幼い秀頼を抱える豊臣家は、内部の結束が弱まっていました。特に秀吉恩顧の大名たちが家康に味方する者が多く、豊臣家には浪人しかまらなかったため、組織的な統制が取りにくかったと言われています

*秀吉正室である北政所(ねね)との役割分担が明確でなかったことも、豊臣家の結束力を弱める一因となったという見方もあります

2. **淀君と秀頼の「母子密着」と家康要求拒否:**

*淀君は、息子である秀頼を深く溺愛していました。家康が秀頼に対し臣従を求め、江戸下向や淀君人質としての江戸在住などを要求した際、淀君はこれを屈辱的と感じ、すべて拒否しました。この母子の強い絆と、家康要求を一切受け入れない姿勢が、両者の対立を決定的なものにし、大坂の陣への道を開いたとされています

3. **政治手腕の限界情報戦での不利:**

*淀君は、向こう気が強く、豊臣家を守るために矢面に立っていましたが、政治家としての資質は不足していたという評価もあります。有能な家臣が不足していたため、自身政治の表舞台に出るしかなく、その重圧は大きかったとされています

* また、家康は豊臣家を滅ぼすための周到な準備を進めており、方広寺鐘銘事件のような言いがかりをつけて豊臣家を挑発するなど、情報戦心理戦でも優位に立っていました。

4. **圧倒的な武力大名の支持:**

*徳川家康は、関ヶ原の戦いを経て天下の実権を掌握しており、多くの有力大名たちが家康に味方していました。対する豊臣方は、寄せ集めの浪人衆が主体であり、軍としての組織力や統制力に劣っていました。大坂の陣では、徳川方が圧倒的な武力で豊臣方を包囲し、最終的に大坂城落城しました。

これらの要因が複合的に作用し、淀君と秀頼は徳川家康に敗れ、豊臣家は滅亡することになりました。淀君が「悪女」として描かれることもありますが、彼女は愛する息子と豊臣家を守るために必死に戦った悲劇のヒロインと見る向きもあります

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豊臣秀吉側室である淀君は、秀吉の死後、御曹司の秀頼を利用して、フィクサーとしてどのように権力をふるったの?

淀君淀殿茶々)は、戦国時代の波乱に満ちた生涯を送った女性であり、豊臣秀吉側室として秀頼を産み、秀吉の死後は豊臣家の実質的後見人として権力を掌握しました。その生涯と権力への関わりについて、詳細に解説します。

###淀君秀吉の馴れ初め

淀君は、織田信長の妹であるお市の方と、北近江戦国大名浅井長政の長女として生まれました。幼名は茶々彼女人生は幼い頃から悲劇に満ちていました。

1. **浅井家の滅亡**: 幼少期に、父・浅井長政織田信長敵対し、小谷城の戦いで滅亡します。父は自害し、兄も処刑され、茶々は母お市と妹たち(初、江)と共に信長保護されます

2. **柴田勝家との再婚、そして死別**: その後、母お市信長の家臣であった柴田勝家再婚しますが、本能寺の変後、秀吉と勝家が対立し、賤ヶ岳の戦いで勝家は敗死。母お市も勝家と共に自害します。

3. **秀吉による保護側室入り**:茶々三姉妹は、母と養父の仇である秀吉保護されることになります秀吉はかねてより、戦国一の美女と謳われたお市の方に憧れており、その面影を最も強く受け継いでいた茶々側室に迎えることになります。具体的な時期は天正16年(1588年)頃とされています

このように、淀君秀吉側室になったのは、自身意思だけでなく、戦乱の中で後ろ盾を失った浅井三姉妹秀吉保護したという経緯があります。親の仇とも言える秀吉側室になるという、非常に複雑な運命を背負うことになります

###淀君秀吉側室だったか

はい淀君豊臣秀吉側室でした。秀吉には正室である北政所(ねね、おね)の他に多くの側室がいましたが、その中でも淀君特別存在でした。その理由は、彼女秀吉の世継ぎとなる鶴松(夭折)と秀頼を産んだ唯一の女性だったからです。

当時の秀吉は、正室北政所との間に子が無く、他の側室も子を授かることがありませんでした。そうした中で、淀君が立て続けに男児を産んだことは、豊臣家にとって非常に大きな出来事であり、淀君地位確立させることになりました。秀吉は鶴松が生まれた際に、淀城を茶々に与え、それから淀殿」と呼ばれるようになりました。

秀吉は、淀君が産んだ子を非常に可愛がり、特に秀頼が生まれた際には溺愛したと言われています。秀頼が秀吉の実子であるか否かについては当時から様々な憶測がありましたが、現在では確たる証拠はなく、秀吉自身後継者として秀頼を深く愛し、育てたことは事実です。

###秀吉の死後、淀君は秀頼を使ってどのように権力黒幕になったか

秀吉が慶長3年(1598年)に亡くなると、淀君は幼い秀頼の生母として、豊臣家における絶大な権力を握ることになります

1. **正室北政所引退淀君地位確立**:秀吉の死後、正室北政所剃髪して高台院と名乗り、大坂城を出て京都に移り住みました。これにより、大坂城には淀君と秀頼が残り、実質的淀君が豊臣家の最高権力者としての地位確立します。

2. **幼い秀頼の後見**: 秀頼はまだ幼く、政治的判断を下すことはできませんでした。そのため、生母である淀君が秀頼の後見役として、豊臣家の政治差配するようになります。諸大名への指示や外交交渉など、豊臣家の重要な決定は淀君意向が強く反映されるようになりました。

3. **対徳川家康方針**:秀吉の死後、五大老筆頭であった徳川家康が台頭し、豊臣政権内の主導権を握ろうとします。淀君は、秀頼の存在を盾に、家康による豊臣家の支配に対抗しようとしました。淀君は、家康の動きに対し、豊臣恩顧の大名たち(石田三成ら文治派)を擁護し、また大坂城の財力を背景に豊臣家の権威を維持しようと努めました。

4. **関ヶ原の戦いとその後**: 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、淀君石田三成らを後押ししたとも言われています。この戦いは家康率いる東軍勝利し、家康事実上の天下人となりますしかし、秀頼の存在は依然として家康にとって脅威であり続けました。淀君は、秀頼を擁して大坂城に籠もり、徳川家康との対決姿勢を強めていきました。

5. **大坂の陣での指導力**:家康は、豊臣家を完全に滅ぼすため、大坂冬の陣、夏の陣を起こします。この時、淀君は籠城の方針を強く推し進め、豊臣家の軍事行動指導しました。しかし、結果的大坂城落城し、淀君は秀頼と共に自害し、豊臣家は滅亡しました。

淀君は、幼い秀頼を守り、亡き秀吉が築いた豊臣家の存続を図るため、政治の表舞台に立ちました。彼女の行動は、豊臣家を守るための母としての愛情と、名門の血を引く女性としてのプライドが入り混じったものであったと言えますしかし、時代徳川家康による天下統一へと大きく傾いており、その流れに逆らうことはできませんでした。結果的に、淀君は「豊臣家を滅ぼした悪女」という負のイメージを背負わされることになりますが、彼女の行動は、豊臣家の命運を背負った女性としての必死努力であったとも評価できます

Permalink |記事への反応(2) | 12:12

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500歳になるので半生を箇条書きで振り返ってみた

500歳……もう人間いうよりも、なんや森の精とか神話のなかのもんやな。けどまぁ、生きてたとして話すとするならな、わしは1525年生まれや。戦国のど真ん中やな。うすうすしか覚えとらんけど、こんな感じやった気がするわ。

• 1525年、どっかの山奥の村に生まれた。名乗る姓もなかった。天と地と親だけが頼りやった

• 村の周りでは時々よそ者が通る。槍持った男らが何十人もぞろぞろ。戦が近いとわかった

• 幼いころに村が焼かれた。誰が敵で誰が味方かわからん。とにかく逃げた

• 十代で百姓頭に拾われて、畑と槍の使い方を同時に覚えた

信長名前が噂に上がったころ、わしは若武者の影のように働いてた。戦場空気はいまだに鼻の奥に残ってる

本能寺のあと、世の中がまたぐらついた。明日どうなるかわからん夜が続いた

秀吉が天下とったとき大阪はまるで金色の夢みたいになった。わしは城下で米を運ぶ仕事をしとった

関ヶ原の前は空が重かった。生き残ることより、誰につくかが命やった

家康時代になって、世の中がようやく静かになった。けど、なんや、息が詰まるような静けさやった

江戸の初めに、名前を持たされた。戸籍いうもんができた。わしはよう知らん名前を紙に書かれた

江戸の町がでかくなって、花火歌舞伎流行りだしたころ、もうわしは人ごみがしんどくなっとった

元禄のころの華やかさは、ちょっと別世界やったな。町人がえらそうに歩くのも珍しかった

飢饉もあった。大火もあった。川が溢れて、人も物も一瞬で流されてった

黒船が来たとき、空の色が変わった気がした。誰もが世界の外から何かが来たと感じとった

明治になったときは、まるで夢の中の話やった。髷を切るか切らんかで大騒ぎ

• 世の中が西洋かぶれになって、馬の代わりに鉄の箱が道を走るようになった

日清日露の戦、若いもんが国のために死にに行く姿を見て、なんとも言えん気持ちになった

大正デモクラシー?なんのことか分からんまま、若いやつがえらそうに語っとった

関東大震災はただの地震やなかった。文明のものがぐらぐら揺れたようやった

昭和戦争地獄。火と血と音。なによりも、もうあかんのやなと思った瞬間が何度もあった

戦後アメリカ匂いが街に混じった。ガムとコカ・コーラ時代

テレビが出て、みんな画面の中に吸い込まれていった。もう現実より映像の方が大事になった

平成?ああ、なんか静かなようで、空っぽになっていく感じがした時代やった

• 令和になってからは、もう人と機械区別あいまいになってきた

• 空飛ぶ車?知らん間に空を見上げても誰も驚かんようになっとった

• 人はよう喋るくせに、誰ともちゃんと向き合わんようになった

• 友も家も土地も、何度も失った。けど、ひとつだけ変わらんのは、朝日が昇るということやな

• いま?もう歩けんし、喋るのもやっとやけどな、風の音と、湯呑みから立つ湯気だけが、生きとる証や

• 500年て長いけど、一瞬でもあるんや。不思議なもんやな。気がついたら、また夜が来とる

……まぁ、こんな長生き、誰にも勧められへんけどな。でも、ここまで見れたことは、ありがたいことやと、そう思うようにしてるわ。

Permalink |記事への反応(1) | 08:18

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2025-06-10

anond:20250610013628

中国マジョリティーだからそうだよ

当たり前だが清朝なんか満州人だし元朝なんかモンゴル人だし

覇権をとったやつが同化していくという構図

日本は島なので取り残されたことによって独自性が生まれてるので

例えば秀吉が万が一明征服成功していたら現在日本はなくて

おそらく満州人のように薄められた中国人になってる

Permalink |記事への反応(1) | 01:40

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2025-06-09

anond:20250609154607

普通に秀吉じゃね

出発点が農民、あるいは下層民だった可能性すらあるし、それで到達点が専制君主だろ。

博文が下級武士になったのは自身の才覚ではないし、最後総理大臣しかいから、ちょっと落ちるよな。

Permalink |記事への反応(0) | 16:04

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dorawii

秀吉伊藤博文ってどっちのほうが大出世の度合いが高い?

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Permalink |記事への反応(2) | 15:46

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2025-06-06

anond:20250606111419

本能寺の変前後です。

15826月1日から6月21日までの21日間で、主に以下のような歴史的イベントが集中しています(主要イベントのみ抜粋):

✅ 主な歴史イベント(約10件):

1.6月2日本能寺の変織田信長明智光秀に討たれる)

2.6月2日二条御所信忠自害

3.6月3日明智光秀安土城へ入城

4.6月4日山崎方面への進軍準備開始

5.6月6日細川藤孝・忠興が光秀に従わず離反

6.6月9日羽柴秀吉高松城水攻め成功後、毛利講和し引き返し開始

7.6月13日秀吉姫路到着、山崎へ向け進軍継続

8.6月15日山崎の戦い(光秀 vs秀吉)で光秀敗北

9.6月17日:光秀、山科で土民に討たれ死亡

10.6月21日秀吉信長の後継として事実上政権掌握開始

✅ その他の動き(関連イベント含めれば20件以上):

各地の動揺・離反(明智方の動き)

毛利方の情報収集

信長重臣たちの対応柴田勝家滝川一益など)

大名の態度決定・合流など

✅ ペース感:

平均すると2~3日に1回、主要なイベントが発生しており、

イベント・周辺反応も含めれば毎日何らかの動きがある非常に密度の高い期間です。

これはリアルタイムVTuberが実況・考察選択肢分岐などを行うのに最適な時期です。

Permalink |記事への反応(2) | 17:23

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2025-06-02

おまん

正倉院の奥深く鎮座する至宝。

天下人秀吉ですら所望しても砂粒のようなカケラしか手に入れることは出来なかったと伝えられる。

Permalink |記事への反応(1) | 13:49

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2025-05-16

anond:20250516161815

秀吉の死亡時に秀頼がちゃんと成人していて実績も積んでいたら、かな。

Permalink |記事への反応(0) | 16:41

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anond:20250516161514

もし秀吉家康なみに絶倫だったら?が正しいな

Permalink |記事への反応(2) | 16:18

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anond:20250516161321

秀吉子供はいただろうが

秀吉の子じゃないかもしれないけど

Permalink |記事への反応(1) | 16:15

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2025-05-13

千利休切腹してない説ってあるんやな

切腹の記録があるのは江戸時代に書かれた文書

切腹したとされる日以降に秀吉と茶を飲んだ記録がある

ということらしい。

本当だったらへげうもの花の慶次の名シーンがフィクションということに。

Permalink |記事への反応(0) | 21:58

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