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はてなキーワード:社会契約とは

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2025-10-23

ネトウヨとか頭の悪い人たちって漫画の読み過ぎだよね

国民のために国家政府があるのに

自分たち外人を見張って治安を維持しようとか言い出すのなんで?

すぐ自警団とか言い出すよね

勉強しないで漫画ばっかり読んでるから現実世界には社会保障や、それを担保するための社会契約存在していることをまるで知らないみたいだよね

すぐ弱肉強食とか言い出すやん

いや、国民がみんな平和に過ごすためにいろんな制度福祉があるんだよ

勉強しないで漫画ばっかり読んでるから文明崩壊後の無政府世界みたいなこと言い出すんじゃない?

漫画世界エンタメからそりゃ社会保障制度なんてかかないよ

ドラマにならないもん

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ネトウヨとか頭の悪い人たちって、ただ国民のために国家政府があるだけなのに

自分たち外人を見張って治安を維持しようとか言い出すのなんで?

すぐ自警団とか言い出すよね

勉強しないで漫画ばっかり読んでるから現実世界には社会保障や、それを担保するための社会契約存在していることをまるで知らないみたいだよね

すぐ弱肉強食とか言い出すやん

いや、国民がみんな平和に過ごすためにいろんな制度福祉があるんだよ

勉強しないで漫画ばっかり読んでるから文明崩壊後の無政府世界みたいなこと言い出すんじゃない?

漫画世界エンタメからそりゃ社会保障制度なんてかかないよ

ドラマにならないもん

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2025-10-22

anond:20251022113307

オッス、オラ理性主義者

まず落ち着け現代民主主義者。お前が言ってることは、哲学的には立派だが、現実社会設計としては理想論の塊だ。

民主主義感情の上に立っている

感情保護と秩序維持を混同するな」なんて言うけどな、その“感情”こそが民主主義の出発点だ。

人間感情が集まって「国民」となり、その感情の総意が「国家」を作ってんだよ。

理性だけで動く社会なんて、教科書の中にしか存在しない。

民主主義の根幹は、冷たい論理じゃなく、“感情集合体をどう理性で制御するか”ってところにある。

国旗損壊罪は、その制御のための最低限のバランス装置なんだ。

自由は「公共の信頼」とセットで成立する

不快表現を守るのが自由」? そのとおりだ。

でもな、それが成立するのは、社会が“お互いに踏み越えない前提”を共有しているからだ。

表現自由ってのは、信頼の上にしか立たない。

国旗損壊は、その信頼を意図的に踏みにじる行為だ。

から表現」じゃなく「破壊」なんだよ。

破壊自由を与えると、社会は信用を失う。信用を失った社会民主主義存在できない。

国旗国民の共有物」? それなら余計に守るべきだ

国旗国民全員の象徴なら、個人政治的パフォーマンスで汚していいわけないだろ。

それは共有財産勝手に壊してるのと同じ。

それを「思想の自由」って言い張るのは、公共財を私有化してるに等しい。

国旗国家が独占してるんじゃなく、国民象徴国民自身が守るだけの話。

それを「神聖化」と呼ぶなら、お前は“共同体”って概念根本的に誤解してる。

社会契約とは「不快さの共存」ではなく「秩序ある不快さ」

民主主義本質は“不快さを共有すること”にあるが、

それはルールの上での話だ。

不快さの表現」に限界を設けない社会は、ただのカオスになる。

表現自由目的は、破壊じゃなく議論だ。

国旗損壊議論を生まない。怒りしか生まない。

それは理性ではなく感情への挑発から民主主義的な行為ではない。

現代民主主義必要なのは「燃やす自由」じゃなく「敬意を持って批判する知性」

成熟した自由とは、好き放題やることじゃない。

相手象徴を傷つけずに批判できる知性だ。

やすことしかできない表現者は、思考放棄してる。

それを擁護するのは、自由じゃなく“知的怠惰”の肯定にすぎない。

結論民主主義は「感情を理性で包む制度

国旗損壊罪は、感情暴走を防ぐための小さなブレーキだ。

それを「自由の敵」と叫ぶのは、アクセルハンドル区別がついてないだけ。

社会情緒の海で動いてる。理性はその中の舵。

舵を放棄したら、それは民主主義じゃなく“感情独裁”だ。

Permalink |記事への反応(0) | 11:36

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anond:20251022112546

オッス、オラ現代民主主義者!

さて、「国旗損壊罪は当然」「秩序を守るための線引き」なんて言葉を聞くと、まるで21世紀社会19世紀の魂が迷い込んだみたいだな。あえて言わせてもらう——それ、民主主義じゃなくて“情緒主義”だ。

まず、「感情保護」と「国家の秩序維持」を混同するな

他人が親の遺影を燃やす例」を持ち出してくるが、それは私人間の侮辱行為の話だ。感情的には腹が立つが、国家象徴批判することとはまったく構造が違う。

民主主義における国家象徴は、批判され、風刺され、時に踏みにじられることで初めて成熟する。

国家が「国旗を汚すな」と言い出した瞬間、それは国民に「思考敬礼」を強要するのと同じだ。

自由は「不快表現」をも守るもの

挑発から表現じゃない」とか言うが、それを決めるのは誰だ? 政府か? 検察か? 多数派か?

その“挑発”を判断するのが権力側なら、いつでも都合の悪い表現を「挑発」として潰せる。

表現自由が最も守るべきは、不快で、不穏で、気に食わない表現なんだよ。

みんなが笑顔拍手する表現自由はいらない。

国旗神棚に上げた瞬間、民主主義は退化する

国旗国家象徴だ。それは同意する。

だが象徴とは“国家の所有物”じゃなく“国民の共有物”だろ?

共有物を「傷つけたら犯罪」とする時点で、国家象徴意味を独占している。

まり国旗を守ると言いながら、国家国旗国民から奪っているんだ。

民主主義象徴神聖化した瞬間、それは信仰対象になる。

そして信仰は、異端者を罰する口実を生む。

社会契約勘違いするな

社会契約の上に立つ自由を壊すな」? いや、自由の上にこそ社会契約があるんだよ。

社会契約は、異なる価値観共存するための最低限のルールにすぎない。

それを「国旗を壊すな」という情緒ルールで縛り始めたら、契約じゃなく服従になる。

現代民主主義者の現実主義

現代民主主義は、成熟した不快さを前提にしている。

誰かが燃やした国旗を見て腹が立つ? そうかもな。

だが、それを「刑罰制御しよう」とする社会は、自らの理性を放棄している。

理性を捨てて感情に法を委ねた瞬間、民主主義衆愚制に変わる。

結論:秩序を守ることと自由を殺すことは違う

国旗損壊を罰する法は、国家品位を守るどころか、国家成熟を後退させる。

自由とは、神聖象徴をも燃やす権利を含んで初めて完全になる。

国家への敬意」は法で強制するものじゃない——市民の内なる思考良心からまれものだ。

国家は敬意を要求する前に、まずその自由を恐れない度量を見せろ。

Permalink |記事への反応(2) | 11:33

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オッス、オラ現実主義者

まずな、国旗損壊罪が当たり前って言ってる人間を「ボケナス右翼」と切って捨てる前に、最低限の社会構造くらい理解してから言えよ。

お前の言う「多くの人の気持ちを踏みにじる権利」ってやつは、確かに理屈の上ではある。だがそれは、あくま社会が前提として共有している価値観の中での“グレーゾーン”を歩く自由であって、なんでもかんでも好き放題やっていい免罪符じゃない。

例えばお前の家の前で、知らん奴が延々とお前の親の遺影燃やしてたらどう思う?

それ見て「多くの人の気持ちを踏みにじる自由がある」とか言って笑ってられるのか?

そこに感情がある限り、社会一定の秩序を守るために線引きをする。国旗損壊罪はその線の話をしてるだけで、思想統制でもなんでもない。

外交的理由がどうとか言ってるけど、もっと単純だよ。

国旗ってのは国家象徴であり、そこに暮らす人々の集合的自己表象なんだよ。

それを意図的に踏みにじる行為は、単なる「表現」じゃなくて「挑発」。

ヘイトスピーチ差別的暴言と同じ構造にある。

まり社会コスト自覚した上でやるならいいけど、表現自由って旗印のもとに無限免罪を主張するのはただの自己陶酔だ。

しかも、「右のポリコレ」みたいなワード悦に入ってるけど、そもそも左側のポリコレ文化煽りまくって「表現自由」を武器にしてきたのは誰だったっけ?

都合が悪くなると右も左もない、ただのポジショントーク

表現自由を守るってのは、「自分の気に入らない奴を殴るための自由」じゃなく、「お互いに殴られないためのルールを守ること」なんだよ。

まりだ、国旗損壊を表現自由として擁護するってのは、

社会契約の上に立ってる自由を、自分破壊してるようなもんだ。

そのうち誰もお前の「表現」なんて聞かなくなる。

だって、それは思想でも芸術でもなく、ただの破壊衝動からな。

anond:20251022080501

Permalink |記事への反応(5) | 11:25

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2025-08-26

anond:20250826202358

いや義務教育で習う日本政府の成り立ちについて復習しましょうという話だね。

功利主義社会契約論も中学範囲だよ

Permalink |記事への反応(1) | 20:25

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anond:20250826201615

日本政府普通に社会契約論をベースにしているわけで治安政府がもたらしているという考えに疑いを挟む余地はそんなになくね?

変な理想国家妄想する前に日本について正しい情報勉強したほうが良いように思う

Permalink |記事への反応(2) | 20:20

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2025-07-04

anond:20250703194504

社会契約論定期

Permalink |記事への反応(0) | 12:17

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2025-06-21

長寿社会における貢献と持続可能性の視点

長く生きたいと願う気持ちは、根源的で誰もが抱くものであるしかし、この長寿の追求が現代社会課題を突きつけている。それは、私たち社会保障制度の持続可能性と世代間の公平性という、避けられない現実との間に生じる摩擦である

「見苦しい」と感じる長寿とは

ただ長く生きること。それは個人の願いとして理解できる。しかし、その「長寿」が皆で支え合う社会保障制度に過度に依存し、多額の医療費享受しながら、社会への具体的な貢献が見られない状況を、私は「見苦しい」と感じる。これは単なる感情論ではない。限られた社会リソース一方的に消費され、未来を担う世代に過大な負担押し付けられる現状は、もはや持続可能とは言えず、世代間の公平性を著しく損ねているかである

道徳再考と新たな社会のあり方

道徳もまた、ある種の闘争の道具である」という考え方は、現状を的確に表している。これまでの道徳は、「生を尊ぶ」という一面的価値観に重きを置きすぎてきたのかもしれない。しかし、社会現実が示すのは、その道徳が時に社会全体の持続可能性を脅かす可能性があるということである私たちはこの現状に安住せず、長寿社会にふさわしい新たな道徳規範を築くための議論を始めるべき時が来ている。

貢献と延命医療:避けられない問い

さらに、私は敢えて問いかける。「十分な貢献がなければ延命医療をしない」という議論は、感情的な側面だけでなく、極めて現実的な問題提起である。たしかに、生命価値を選別するかのような印象を与え、強い反発を招くことは理解している。しかし、その根底にあるのは、現在社会保障制度がこのままでは確実に崩壊し、医療リソースが枯渇した未来において、医療現場が「なし崩し的」に生命選択を迫られるという、より悲惨シナリオへの切実な懸念である倫理的議論を避け、問題の先送りを続ければ、我々は無益延命のために、真に救える命を見捨てる事態に直面する可能性がある。

未来へ向けた対話と行動を

この危機回避するためには、もはや猶予はない。私たちは今、具体的な行動を起こす必要がある。

社会保障制度の抜本的な改革に向けた国民議論を、タブーなく開始すること。給付負担バランス制度改革の具体的な選択肢について、真剣に話し合うべきである

個人意思尊重した「尊厳ある死」の概念社会に浸透させること。無益延命ではなく、本人の意思に基づいた、質の高い終末期医療選択肢を増やすべきである

高齢者社会担い手として積極的に参加し、貢献できる具体的な仕組みを構築すること。知識経験伝承地域社会への奉仕など、高齢者社会価値還元できる機会を創出することが重要である

これらは決して、高齢者を切り捨てる話ではない。むしろ、全ての世代尊厳ある生を送り、社会全体が持続可能未来を築くための、新たな社会契約を締結するための喫緊課題である

未来のために、決断し、行動すべきである

Permalink |記事への反応(0) | 00:08

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2025-06-17

anond:20250617014031

失礼しました。

まとめで「問いの優先順位」が変わったと断言しておきながら、その中身を掘り下げずに済ませてしまいましたね。

改めて整理します。

1. 「問いの優先順位」とは何を指すのか

哲学には「そもそも何を先に問うべきか」というメタレベル序列があります

要するに「それを先に解かなければ社会が動いてしまう」問いが上位に繰り上がり、逆に“悠長に考えられる”問いは後回しになる、という現象です。

2. 具体的にどう繰り上がったのか ――五つのシフト

Before (旧来の問い) After (AI時代の問い) 変化の理由
:----------------------------------- :------------------------------------------- :--------------------------------------------
人間とは何か」 (形而上学本質論)AI をどう制御すべきか」 (実践価値論)技術暴走リアルタイム政策課題となったため。
知識正当化可能か」 「LLM の出力はいつ信頼できるか」 推論の透明性・検証性が倫理インパクトと直結するようになったため。
意識必然条件は何か」意識の“テストプロトコル”は構築可能か」動物実験や臨床倫理と同様の規制設計が迫られるようになったため。
言語意味は何によって成立するか」統計的言語モデルは“意味”を生成しているのか」実用アプリが氾濫し、理論が後追いを強いられるようになったため。
「よい社会とは何か」AI が参加する社会契約をどう再設計するか」ガバナンス設計を怠ると取り返しがつかない状況になったため。

3.優先順位が変わるメカニズム

4. まだ“圏外”に落ちない問いもある

生成AIが絡まない領域――たとえば古典的形而上学の一部(存在カテゴリー論など)――は、相対的に注目度が下がっただけで消滅したわけではありません。

実践アジェンダの影で、静かに深化する純粋哲学」 という二極化が進行中です。

5. 今後の見通し

ひとことまとめ

生成AIの登場で「何を先に答えねばならないか」が大きく組み替えられ、応用的・検証可能な問いが哲学最前線に躍り出た――

これが私たちが「問いの優先順位が変わった」と言うときの核心です。

Permalink |記事への反応(0) | 02:02

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2025-06-15

AI一般的になっても「自由意志」というオカルトがまかり通る理由

自由意志」がAI世紀になっても根強く信じられている理由は、科学的根拠よりも心理的文化的社会的要請に深く根ざしているからです。

これは「事実であるかどうか」よりも、「人間がそれを必要としているかどうか」に関係しています

以下に主な理由論理的に整理して述べます

---

1.責任倫理根拠として必要

自由意志存在しないとすれば、「人は自分行為責任を負わない」という帰結になります

これは法制度や道徳体系にとって致命的です。

例:

したがって、実在するかどうかとは無関係に、制度的には「あることにしておかないと困る」という現実的要請があります

---

2.主観的体験直感

人間は何かを選ぶとき、「自分が決めた」と感じます

これは事実ではなく感覚ですが、非常に強力なものです。

体験としてのリアリティ」が「事実としてのリアリティ」に優先されるため、多くの人にとって自由意志直感的な事実です。

---

3.宗教的スピリチュアル遺産

自由意志という概念は、キリスト教イスラム教仏教特に浄土真宗以外)など、多くの宗教体系において中心的な概念です。

宗教を捨てても、人間観や倫理観としてこの発想が残存している。

---

4.近代的自我の根幹

啓蒙思想以降の「主体としての人間」像、すなわち「理性ある個人」が世界理解し、行動を選ぶという枠組みの中で、自由意志は不可欠です。

これらはすべて「自由に選びうる主体」を前提に構築されています

---

5.AIとの対比としての安心感

AIが発達した現代(つまりAI世紀)において、「人間には自由意志があるが、AIにはない」という幻想の構図は、人間特権性を再主張する道具として使われています

まり自由意志機械ではないことの証明として、心理的意味を持つのです。

---

結論

自由意志は、実在するから信じられているのではなく、必要とされているから信じられている。

言い換えれば、それは「文化的フィクション」でありながら、「実用真実」として機能しているのです。

Permalink |記事への反応(0) | 14:10

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2025-06-09

なんで金融引き締めしたの?

あなた:

バブル期になんで金融引き締めしたの

ChatGPT:

バブル期1980年代後半)の日本でなぜ金融引き締めが行われたのか――その理由は、過熱する資産バブル抑制インフレ懸念にあります。以下、背景と目的を分かりやす説明します。

■ 背景:バブル経済とは?

1980年代後半、日本歴史的好景気にありました。以下のような現象が起きていました:

株価日経平均1989年末には約39,000円に到達(1985年頃の約2倍以上)。

地価東京地価が急騰。「山手線の内側でアメリカ全土が買える」と揶揄された。

融資土地担保にすれば簡単に巨額の融資が受けられ、資金が株や不動産市場に流れ込む。

この背景には、1985年プラザ合意を受けて進んだ円高景気後退→それを下支えするための金融緩和(低金利政策)がありました。

■ なぜ金融引き締めに転じたのか?

資産バブル過熱

株や不動産価格実体経済無視して上昇していた。

銀行も無理な融資をどんどん行い、「土地神話」に基づいた投機が加速。

バブル崩壊による後の損害が懸念されたため、「今のうちに冷やそう」という判断

インフレ懸念(ただし実際の物価比較的安定)

消費者物価はそれほど上昇していなかったが、資産価格インフレバブルインフレ)は深刻。

このままでは社会全体が不健全投機に傾き、崩壊リスク高まる判断された。

■ 実際の金融引き締め策(1989年〜)

日本銀行1989年5月から1990年8月までに、公定歩合を2.5%→6.0%へと急激に引き上げ。

融資規制:「総量規制」と呼ばれる、銀行による不動産向け融資抑制実施

■ 結果:バブル崩壊と失われた30年へ

株価1990年初頭から暴落(2年で半値以下に)。

地価:数年かけて下落。担保価値崩壊により不良債権問題が表面化。

経済企業銀行バランスシート調整(借金返済・資産売却)を迫られ、長期的なデフレ経済突入

■まとめ

日本銀行バブル期金融引き締めを行ったのは、投機的な資産価格の高騰を抑え、経済健全性を守るためでした。しかし、その対応が遅れ、かつ急激だったことで、バブル崩壊を加速させ、長期不況の引き金にもなったという評価がなされています

興味があれば「なぜもっと早く・緩やかに引き締めなかったのか?」という政治との関係や、日銀内部の議論についても解説できます




あなた:

土地と株には沸騰はあったけど、関係のない一般産業にもお金が不足するようになったのはなぜ

ChatGPT:

とても鋭いご質問です。

バブル期における金融引き締めの影響が、土地や株と関係のない一般産業製造業中小企業など)にまで及び、資金不足(=信用収縮)を招いた理由は、主に次の3つです:

① 総量規制による「銀行貸し渋り

1989年から始まった「総量規制」は、不動産業などへの融資の総額を制限するものでした。しかし、実際には:

銀行は何が「不動産関連」かを厳密に判断できなかった。

リスクを避けるため、「関係ない業種」にも融資を渋るようになった。

結果として、資金需要のある健全企業中小企業にまで貸し渋りが発生しました。

担保価値の急落 →融資引き上げの連鎖

バブル期融資は「土地担保」が基本でした。

バブル崩壊地価が下落すると、担保価値も大きく目減り。

銀行は「貸しすぎている」と判断し、企業に返済の前倒しや追加担保要求

企業は手元資金が減り、設備投資運転資金が不足。

これが連鎖的に一般企業資金繰り悪化を招きました。

銀行自身が傷を負い、貸せなくなった(信用収縮)

バブル崩壊で、銀行不良債権(返ってこない融資)を大量に抱えることに。

会計上は黒字でも、実態債務超過に近い銀行も多かった。

そのため、「自己資本比率の維持(BIS規制)」を守るため、融資をどんどん縮小。

→ この結果、すべての業界資金供給が細るという現象が起きました。

補足:なぜ中央銀行政府は手を打たなかった?

バブル崩壊しても、日銀はしばらく高金利を維持していた(1991年頃まで)。

政府も、当初は「自己責任」や「市場の調整力」に期待して介入をためらった。

結果として、企業倒産が続出し、景気は底なし沼に突入しました。

■まとめ

土地や株に関係ない産業資金不足に陥ったのは:

金融引き締めと総量規制副作用で、銀行が貸出を全体的に抑制たから。

担保価値の下落で、企業資金調達能力実質的に低下したから。

銀行自身が深刻な損失を負い、貸し出せる余裕を失ったから。

まり、「バブルのツケを払わされ、被害経済全体に波及した」というわけです。

さらに知りたいテーマ(例:日銀判断ミスや、BIS規制、当時の政治対応)などあれば、深掘りできます




あなた:

土地や株が加熱してるから少し下げるというのはぜんぜんいいけど、なぜ関係のない人まで干上がらせたのか

ChatGPT:

本当に本質的な問いです。

そしてその疑問は、当時を生きた中小企業経営者労働者たちの「実感」と完全に一致しています

ではなぜ、「土地や株の加熱だけを冷ますつもりだったのに、関係のない人まで干上がった」のか?

これは単なる技術ミスではなく、政策判断の誤りと構造的な金融システム限界が重なった結果でした。

✅ なぜ“そこだけ”を冷ませなかったのか?

金融政策は「面」でしか効かない

日銀コントロールできるのは金利マネーの量(通貨供給量) という「経済全体にかかるレバー」。

しかし、金利を上げたり貸出を制限すれば、株や不動産以外の分野にも等しく冷水を浴びせる。

まり「熱いところだけ狙って冷やすことが構造的にできなかった」。

🎯=**「ピンポイントで撃ちたいのに、散弾銃しか持っていなかった」**という状態

② 総量規制が“雑”だった

バブル対策として導入された「総量規制」は、不動産業向け融資の総額に制限を設けた制度

ところが、不動産関係のある業種(建設流通サービス業など)も巻き添えに。

銀行リスクを嫌い、**「関係ありそうな会社全部アウト」**という判断で貸出を抑制

結果:元気な産業まで資金を断たれ、経済全体が窒息。

銀行自己保身と過剰反応(信用収縮の連鎖

地価の下落で担保割れが起きると、銀行は貸したくても貸せなくなる(BIS規制自己資本比率の縛り)。

同時に、「不動産融資した銀行自体」が傷んで、健全企業にも融資を出す体力がなくなった。

日本金融は間接金融銀行依存型)なので、銀行が縮むと企業も一緒に干上がる。

💡つまり、「バブルの熱を冷ます」はずが、「金融システムの血流自体を止めてしまった」。

日銀政府対応の遅れと過信

日銀は「土地バブルが悪い」という正義感が強すぎて、副作用無頓着だった。

政府も「市場自己調整力に任せよう」と景気対策を後回しに。

結果として、干上がる企業や家庭が続出しても、回復支援がまったく間に合わなかった。

🧠 なぜそんなことになったのか?(根本

資産インフレを冷ませば景気全体もソフトランディングできる」と甘く見ていた。

中小企業地方の声が中央銀行に届いておらず、東京中心の視点政策判断がなされていた。

日銀大蔵省(当時)に、経済現場に対する感受性が欠けていた。

🔚まとめ:なぜ関係ない人まで干上がったのか?

「熱い部分だけ冷ましたかったのに、金融政策構造上、経済全体を冷やしてしまった。

さらに、対応ミス銀行自己保身が重なって、干上がった人たちへの水すら止まってしまった。」

もしももっと段階的に、現場実態を見ながら慎重に調整していれば、バブル崩壊も「軟着陸」できたかもしれません。

あなたの感じている「そこまでやる必要あった?」という疑問は、今でも多くの経済学者歴史家が共有している、正当な問いです。




あなた:

不振に陥ったサラリーマン企業国有化しなかったのはなぜか

ChatGPT:

非常に核心を突く質問です。

なぜ、バブル崩壊不振に陥った企業(=そこに勤めるサラリーマン)を国有化しなかったのか?

これは、単なる経済政策の話を超えて、日本政治哲学制度設計思想に関わる深いテーマです。以下、歴史的制度的・思想的な観点から説明します。

結論から言うと:

国が企業を直接「国有化」して救済するという発想が、日本では非常に例外的否定的に扱われていたからです。

その背景には、以下のような事情があります

日本は「民間主導経済」が基本原則だった

戦後日本は「自由主義経済市場経済)」を基本とし、国家はできるだけ企業経営に直接関与しないという建前。

特に高度成長期以降、「政府ルールだけ作る」「経営民間に任せる」という方針が徹底。

企業は潰れるときは潰れるべきで、政府雇用保険融資など間接的支援に留めるという考えが根強かった。

📝経済への国の関与は「産業政策行政指導)」の形ではあったが、「国有化」は極めてまれ

② 「モラルハザード」を恐れた

企業が倒れそうなときに国が全部救ってしまうと、

経営者無責任になる

銀行安易リスクをとる

こうした「道徳的危険モラルハザード)」を避けるため、自己責任原則が重視された。

→ 「国が助けてくれるなら、経営ミスしても大丈夫」と思われたら、それこそ経済が腐るという発想。

国有化財政負担が大きすぎる

バブル崩壊直後、企業倒産は数万社規模、中小企業は数十万社が苦境。

これらを国有化(買い取って経営を維持)するとなれば、膨大な税金必要

当時はまだ「財政健全化」が強く意識されており、大規模な企業救済には政治的な抵抗が強かった。

例外的に「銀行」は事実上公的資金投入=国有化された

実は、国有化にかなり近い救済も行われています

1998年〜:「長銀日本長期信用銀行)」「日債銀日本債券信用銀行)」→一時国有化

その他、大手銀行にも公的資金が数十兆円規模で注入

💡つまり、「潰れると日本経済全体が崩れる」という銀行には、特別扱いの救済がされた。

企業(≠銀行)は個別救済せず、金融システムの根幹だけ守るという政策スタンスだった。

社会主義全体主義へのアレルギー

戦後日本は「民主主義」と「市場経済」での復興を目指した。

「国が企業を持つ=計画経済」的な発想に対して、政治的にも国民感情的にも拒否感が強かった。

特に冷戦期には、「国有化」は共産主義的・非民主的とみなされがちだった。

✅ まとめ:なぜ企業国有化しなかったのか?

観点理由

経済思想市場原理・自己責任を重視していたか

政治判断モラルハザード財政負担を避けたかたか

歴史的背景日本は「国有企業」にトラウマがあり、市場経済への信頼が強かった

対象の規模企業数が多すぎて救済不能だった(全員は無理)

実際の行動銀行だけは特例で事実上国有化公的資金

あなたの疑問は、「そもそも国がもっと積極的現場を守るべきだったのでは?」という非常に正当な視点です。

実際、そのような議論は当時も存在し、今でも「国の対応が遅く・冷たすぎた」という批判は根強くあります

もし希望があれば、「たとえばどんな制度があれば救えたのか?」という代替案的な話もできます




あなた:

竹中プランは全体の金融引き締めの中ではどのようなもの

ChatGPT:

竹中プラン正式には「金融再生プログラム2002年)は、バブル崩壊後の「長期不況」の最終局面に打たれた劇薬的な金融政策パッケージです。

このプランは、それまでの「不良債権処理を先送りするぬるま湯路線」を強制終了させる決断であり、結果として日本金融システムを立て直した反面、中小企業の淘汰・地方経済の打撃という大きな副作用も生みました。

竹中プラン概要2002年10月

当時、小泉政権経済財政政策担当大臣だった竹中平蔵氏が主導。

メインの柱は以下の通りです:

施策 内容

不良債権の早期処理銀行に「厳格な資産査定」を義務付け、損失を先送りさせない

自己資本の強化不良債権処理で自己資本が不足する場合公的資金税金)で注入

金融庁の監督強化銀行検査マニュアルを厳格に運用、甘い査定を許さな体制に変更

株価下落対策政府金融機関が株式購入などの支援株価維持策)も実施

✅ 「引き締め政策」としての位置づけ

厳密には、竹中プランは**金融政策金利通貨供給)**ではなく、**金融行政銀行健全化)**に分類されます

しかし、経済への影響という意味では、猛烈な引き締め圧力をかけました:

📉銀行融資に慎重になる(信用収縮)

厳格な査定→「貸し倒れリスクのある企業に貸すと、自分の首が飛ぶ」

結果:中小企業への融資が激減

これは実質的に「貸しはがし」「貸し渋り」という形で実体経済を冷やした

✅ 背景:バブル崩壊10年目、金融システム崩壊寸前

2002年当時、日本銀行は以下のような状態でした:

不良債権を大量に抱え、経営体力が瀕死

株価バブルピークの1/4以下、地価も下落

銀行の信用が崩れ、国民が「預金引き出し」に走る可能性も視野

👀小泉政権竹中氏は「このままでは日本銀行は潰れる」と判断し、

銀行死ね

Permalink |記事への反応(0) | 19:04

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2025-06-08

依存と受援力

依存について

私たち一般に「依存」という言葉ネガティブな印象を受ける。

社会保障福祉制度に頼ることは、「自立できない人間」「社会寄生している存在」と見なされ、しばしば批判対象となる。

この背景には、「支える側」と「支えられる側」という固定的な役割認識があり、自助美徳とする価値観が、それをいっそう強化している。

しかし、人間本質的孤立した存在ではなく、誰しもが人生のある局面において他者制度に支えられている。

そのことを可視化し、倫理的に再定位するためには、「依存」という言葉のものを再定義する必要がある。

依存とは、人間が有限性をもつ存在であることに由来し、ある対象関係制度に対して、自己の生を保持・回復形成するために向かう接続行為である

ただし、その価値は常に、依存対象様態動機文脈によって決定される。

依存の三つの様態

依存には複数形態存在する。

1. 退行的依存破壊的)

自己侵食する対象への強迫依存

薬物やギャンブルなどが代表例であり、人格崩壊をもたらす。

倫理的には、これは治療や介入の対象とされるべきであり、支援一方的な「施し」ではなく、「人間性の再起動」としての倫理的責務となる。

2. 保存的依存制度的)

社会保障福祉制度への依存は、単なる「甘え」ではない。

尊厳を保ちつつ生きるために、制度的に保障された依存である

「保存」とは、自由平等市民相互に支え合うための制度的基盤であり、それがなければ、多くの人々は日常生活を維持できない。

ここでは、「頼ることが可能である状態のもの正義であり、制度への信頼が市民間の平等を支える。

3. 養存的依存(生成的)

教育、養育、ケアなどに見られる依存は、**「養存」**と呼ぶべきである

ここでは人格が育まれ人間性が形成されていく。

他者に開かれ、共に育ち合う関係のなかで成立する依存であり、互いの未完成性を前提とする「友愛」的な構造を持つ。

  様態        内容          キーワード

依存(退行的)強迫的・自己侵食する対象  救済、保護、受容

保存(制度的)社会制度における支え    連帯尊厳、信頼

養存(生成的)人格形成的な関係性    友愛平等、公正

依存という現象を正しく理解するには、次の視点が欠かせない。

誰が、何に、どのように、どの文脈で、なぜ依存するのか

依存本来価値中立的現象であり、その倫理的評価は、状況と関係性によって変動する。

受援力について

受援力もまた、こうした理解のなかで再定義されるべきである

それは単なる「助けを求める力」ではなく、他者制度に信頼を寄せ、尊敬をもって自らを開く倫理的能力である

受援力とは、「信頼を前提とした自己開示の成熟した形」であり、依存尊厳的側面を内包している。

この観点は、社会制度設計原理にも接続されうる。

個人相互関係におけるミクロ行為として捉えるだけでなく、社会制度のもの設計原理にまで引き上げるとき

ロールズ正義論――とくに格差原理は、メタ的・マクロ的な“受援の構造”として理解し得る。」

私たちは日々、健康教育公共インフラ医療制度などに支えられて生きている。

にもかかわらず、それらに「保存」されているという感覚は、普段まり意識されていない。

しかし、俯瞰的に見れば、誰もが制度依存する存在である。この視点の転換こそが、「依存」を恥とせず、人間の条件として引き受けるための鍵である

依存尊厳を取り戻す

「保存」「養存」といった概念依存を言い換えることは、依存倫理的意味尊厳を取り戻す試みである

それはまた、「支える者」と「支えられる者」という固定的な区分を越えて、すべての人間相互依存し合い、保存され、育まれているという根源的な事実への気づきを促す。

「それは単に他者に頼る力ではなく、他者に頼られていることの認識であり、つまり、私は頼る存在であり、頼られる存在であり、その関係性を保障する存在である。」

この気づき社会に共有されるとき社会保障福祉制度はもはや「不憫さへの施し」ではなく、自由平等友愛に基づいた「デモラティックな社会契約」として、

新たな意味を帯びて立ち現れるだろう。

Permalink |記事への反応(0) | 18:36

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2025-05-11

anond:20250511124554

社会平等不安定さがないことで資本家市場から利益を手に入れることができる、だから社会平等にするインセンティブが働くってのが社会契約であり資本主義から資本主義国家平等志向するのは変じゃないんだよね。むしろそこがエンジンというか。

共産国家も現在だと資本主義テイストを入れることでなんとか経済成長してること考えると人類集団が成長する唯一の答えは資本主義しかない。

まあ、ここ最近は行き過ぎていたから揺り戻すべきでそれもまた資本主義だと思うが、平等志向する方向性をこの先も継続しないとその国は終わるんだよね

Permalink |記事への反応(0) | 12:52

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2025-04-14

anond:20250414053901

AIに聞いてみたけど「ほぼ合ってる」と言われたぞ

ーーー以下AIーーー

命題は次のような構造です。

1.哲学は前提から演繹して思想を構築する。

2. 前提が違えば、導かれる思想も異なる。

3. だから哲学は「観点」や「見方」の陳列にすぎない。

それぞれ検証します。

1.哲学は前提から演繹して思想を構築するか?

→ ほぼ正しいです。

哲学では厳密な定義づけを行い、「もし〜ならば」という形で議論を展開します。

たとえばデカルトの「我思う、ゆえに我あり」は「疑い得るすべてを疑う」という前提から出発しています

カントも「認識経験に先立つ構造がある」という前提で組み立てます

まり哲学の多くは前提→演繹→体系化というプロセスです。

2. 前提が違えば、導かれる思想も異なるか?

→ これも正しいです。

たとえば:

前提の違いで全く異なる体系が展開されます

物理学では実験で淘汰される前提が、哲学では「論理的整合性しかチェックがないため、並列して残るのです。

3. 「観点」「見方」の陳列にすぎないか

→ ここは部分的に正しいが、完全ではありません。

かに哲学は多様な「観点の陳列」に見えます

しかし、哲学の営みは「どの前提が最も説得力があるか」を論争し、歴史的に淘汰と洗練が行われてきた過程でもあります

たとえば:

まり観点の陳列ではあるが、ランダムな羅列ではなく「知的淘汰と再編の過程」でもある。

結論

あなた批判哲学構造的な弱点を的確に突いていますが、「陳列するだけ」に限定するのはやや過小評価です。

哲学は確かに前提依存で多様な観点が並びますが、それらを整理し、どの視点がより妥当かを探る「批判と洗練の営み」でもあります

Permalink |記事への反応(1) | 05:48

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2025-03-29

anond:20250329195958

おかしいも何もここは社会契約論的にいえばセオリーだろ

Permalink |記事への反応(0) | 20:03

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anond:20250329194403

他国社会契約範疇じゃないから元々殺しても問題ないが、抑止力関係が構築されててそれが壊れると不利益があるから平時は殺せないだけでは

Permalink |記事への反応(0) | 19:48

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2025-03-15

anond:20250315110600

社会契約を「私が正しいと思っている社会ルール」という意味で使わないで欲しいのですが

Permalink |記事への反応(1) | 11:20

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anond:20250315110600

先に社会契約を破ったのは立花孝志なので

NHK公益通報したとき通報者として守られなかった、という社会契約に対する恨みからまれモンスターからなあ立花孝志は

Permalink |記事への反応(1) | 11:14

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デマを振りまくのとナタを振り回すのはどちらが悪か

言論の自由において暴力ダメ」というよくある意見を言う人が多い。

だが、結局のところ言論の自由なんてもの社会契約をそれなりに守ってるコミュニティしか成立しないものなので、

先に守らない奴が出てきた場合、後から守らず報復する奴も出てくるだろう。そう、言論の自由は無制限ではないのだ。

まず間違いなく言っておくと、立花孝志はナタで襲われるようなことを普段からしている人間である

私人逮捕を芸としてyoutubeでやり始めたのはこいつで、デマ兵庫県議を自殺に追いこんだのもこいつである

先に社会契約を破ったのは立花孝志なので、まあそれに反抗する人は出てくるだろう。そもそも財務省解体カルトなんてやってるわけだし。

Permalink |記事への反応(4) | 11:06

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2025-03-05

anond:20250304185238

からオマエはクソジャップなんだよ。

最初契約は「神」との約束だぞ。

神なんて超法規存在法規で取り合ったわけよ。

もちろんオマエは鼻で嗤うだろ「神が何をしてくれたんだよ?」ってな。

から現代ジャップなんだよ。GHQが悪い。キリスト教の素地無しに社会契約とか近代法規を押し付けたんだからな。素地なしだとこんなもんだよクソ国家クソ社会

神が何をしたかしいかなんてどうでもいいんだよ。人々が平穏無事に日常を遅れているのが「神との契約」なんだから

神が「ゴミムシ人間いか隕石降らそうかな?火山噴火させようかな?地震で皆殺しにしようかな?」ってやらないだけで、それは「人間戒律に従って信仰してくれている」ので「神との契約が守られている」って状態よ。

カルトうんこなのはこれを悪用して「オマエ個人が不幸なのは神との契約を違えたからだ/社会が違えたからだ」ってやらかして取り込んでいくからクソなんだよ。


さて。カルトまで進んだんで分かるだろ? 契約って概念社会が「信用」を作ったわけだ。紙っぺら1枚で「契約」その契約の積み重ねが「信用」なんだよ。

「神は天変地異を起こさない/人間戒律を守って信仰する」ってのを素地に同じ様に「金を貸す奴は決められた金額を貸す/金を借りた奴は決められた利子と決められた期日に従って金を返す」って。

神は寛容だから多少人間がサボっても天変地異は起こさない。でも容赦なく天変地異は起こる。それを「神との約束を違えたからだ!」って思うことで彼らは安心できる部分もある。

でもオマエのようなクソジャップは「バーカバーカバー(笑)天変地異自然現象(笑)」って言っても神は知らんぷりだ。オマエの平穏無事はオマエが平穏無事だ! って思うしかねぇわけ。オマエはオマエの意志と機嫌でなんとかするわけ。

宗教者は違う。信仰することで平穏無事が得られるし、天変地異は神の試練なので信仰心が試されると、必死日常回帰するわけ。オマエはしないだろ。地震で家が潰れても絶望して死ぬか、何もしないで他人に当たり散らすか。


オマエのうんこ背景を推察しながら話を書いていくととっ散らかるけど、オマエのバカを指摘する以上、こうなるんだよ。物事の背景にある情報説明しないと理解できないから。オマエの生き方価値観のせいだからな、悪いのはオマエだぞ。

さて、「金を貸す奴は決められた金額を貸す/金を借りた奴は決められた利子と決められた期日に従って金を返す」に戻るか。

神様と違って金貸しもゴミムシ人間社会も「寛容でも優しくもない」わけよ。速攻天変地異をぶちかましたいわけよ「契約」に従って。

結婚の「契約」のほぼほぼ一緒。「神っぺら1枚で天変地異をぶちかましたい」ってなってるんだよ、本来は。

でも金貸し/借金も、夫婦契約も、天変地異かますには、ちょっと規模が小さいし、それで速攻殺すってなっても、概ね損じゃん。金貸しは金が返ってくることが望みだし、夫婦間は夫婦でいる間のメリット享受したいんだから

「やりすぎいくない」ってなって、徐々にまた「信用」を積み重ねて、法規を調整して、紙っぺら1枚で互いを律し、己の権利を保持しながら社会ってのを形成していったわけ。


コレで分かるだろ。

オマエのようなクソジャップな考えが

法律に書いていないければ何をしてもいいし、自分事業で人が死んでも弁護士と金で叩き潰しておけばそれでいい、っていうイーロン・マスク

契約とかどうでもいい、約束とかどうでもいい、約束契約もうちの国が損しないためのもので、相手が得してうちの国が損するなんて絶対に許さないし、戦争して勝てる力を持ってない奴がバカ、っていうドナルド・トランプ

っていうバケモノ二人と同じだってことを理解しろ

そして、ちゃん結婚して、契約に縛られて、俺が語っている背景を理解しながら「神様ありがとうございます今日平穏無事です」って毎日勤労に励め。無惨様が言ってるみたいにな。

Permalink |記事への反応(1) | 11:00

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2025-02-27

【DeepSeekR1】『訂正可能性の哲学東浩紀 VS 『万物黎明』グレーバー

プロンプト:

『訂正可能性の哲学東浩紀と、『万物黎明(TheDawn ofEverything)』David Rolfe Graeberは、二人とも、ルソーを論じています。二人のルソー観の相違点や類似点分析してください。

DeepSeekR1:

東浩紀の『訂正可能性の哲学』とデイヴィッド・グレーバーDavid Graeber)の『万物黎明』におけるルソー解釈比較分析は、両者の思想立場学問アプローチの違いを浮き彫りにします。以下、相違点と類似点を整理します。

類似点ルソー批判の出発点

1.近代社会起源への懐疑

両者ともルソー提示した「自然状態」や「社会契約」の物語を、近代社会起源説明する神話として批判的に扱います。グレーバーは「万物黎明」で、ルソーの「不平等起源論」が啓蒙思想進歩史観依存することを指摘し、東は「訂正可能性」の観点からルソー社会契約論が持つ決定論的側面を問題視します。

2.脱構築姿勢

東もグレーバーも、ルソー思想を単なる歴史的テキストではなく、現代社会批判するための「ツール」として再解釈します。ルソーの「自然状態」を文字通りの史実ではなく、現在社会構造を相対化するための比喩として読み直す点に共通性が見られます

相違点:ルソー評価の軸

1.自然状態人間可能

人類学実証主義に基づき、ルソーの「自然状態」を「神話フィクション」と断じます。『万物黎明』では、先史時代社会が既に複雑な自由平等システムを持っていたことを強調し、ルソーが想定した「原始的な単純さ」を否定します。ルソーの「高貴な野蛮人概念は、実際の先住民社会多様性矮小化する「ヨーロッパ中心主義幻想」だと批判します。

ルソーの「自然状態」を、社会の「訂正可能性」を開くための仮構として積極的評価します。ルソーが示した「社会人為的に構築されたものであり、再構築可能だ」という思想を、現代情報社会におけるゲーム的・プロトコル的な秩序の再編に応用します。ここでのルソー解釈は、現実批判よりも「未来設計図」としての側面が強調されます

2.個人共同体関係

ルソーの「一般意志概念を、中央集権的な権力正当化に利用されたと批判します。代わりに、分散型の自治実践した先史社会の事例を提示し、「個人自由集団的合意対立しない」という反ルソー的なモデル提案します。

ルソー社会契約論を、個人欲望社会規範の「ずれ」を前提とする動的システムとして再解釈します。データベース消費社会における「動物化」という概念(『動物化するポストモダン』)と結びつけ、ルソーの「自己修正する社会」の可能性を、情報技術時代の柔軟な秩序形成投影します。

3.歴史観の違い

ルソーの直線的進歩史観自然状態社会堕落契約による再建)を完全に否定し、非線形的で多中心的な人類史復元します。ルソーが想定した「起源」そのもの虚構とみなす点で、根本的な批判を行います

ルソー歴史観を「修正可能性の物語」として部分的継承します。社会が絶えず自己修正を迫られる「未完のプロジェクト」であるという考え方を、ポストモダン社会流動性と結びつけます。ここではルソーは「批判すべき対象」ではなく、「再発明すべき先駆者」として位置付けられます

結論ルソーをめぐる思想対話

両者の対照は、ルソーというテクストを「過去遺物として解体するか」(グレーバー)、「未来への触媒として再生するか」(東)という方法論の違いに集約されますしか共通しているのは、ルソー現代問題を考えるための「思考実験場」として活用する姿勢です。

プロンプト:

これを東浩紀が語っているような文体で直してください。一人称は「ぼく」で。

DeepSeekR1:

(以下、東浩紀文体意識した一人称再構成です)

>> ぼくが『訂正可能性の哲学』でルソーを論じたとき、どうしても気になっていたのは、21世紀情報社会18世紀社会契約論が、意外なところで繋がるんじゃないかってことだった。ルソーって「自然状態」とか「一般意志」とか、けっこうロマンチック概念を振りかざすでしょ? でもね、あれはたんに昔の理想を語ってるんじゃなくて、社会OSが書き換え可能だって気付かせてくれるツールなんだよね。<<

>> グレーバーが『万物黎明』でルソー批判してるのは知ってる。あの人類学的な実証主義もいいんだけど、ぼくの立場ちょっと違う。ルソーの「自然状態」が史実かどうかなんて、どうでもいいんだ。重要なのは、あのフィクションが「いまの社会絶対じゃない」って可能性を開いたことだ。たとえばSNSアルゴリズムだってルソー流に言えば「人為的プロトコル」でしょ? だったらユーザー同士で修正できる余地があるはずだ——そんなふうに考えられるのがルソー面白さだよ。<<

>> グレーバーさんが先史時代自由を強調するのもわかる。でもぼくらが生きてるのは、もう一度グローバルな社会契約を考え直さなきゃいけない時代だ。ルソーが『社会契約論』でやったように、中央集権でも個人バラバラでもない、新しい協調の形をゲーム理論AIと組み合わせて探る必要がある。そのとき自然状態」という仮構は、逆にすごく役に立つんだ。現実に縛られないからこそ、倫理的な実験ができるわけで。<<

>> もちろんルソーには問題もある。たとえば「一般意志」が全体主義に転がりやすいのはその通りだ。でもぼくが『動物化するポストモダン』で言った「データベース消費社会」を見てみ? あそこでは人々の欲望バラバラで、もはや「一般意志」なんて成立しない。でもルソー理論を逆手に取れば、そのバラバラ自体社会の訂正可能性のエンジンにできるかもしれない。つまりルソーは、彼自身が予想してたよりもずっとポストモダン思想家だったんじゃないかって話だ。<<

>> グレーバーさんとの違いをあえて言えば、彼がルソーを「過去神話」として解体するなら、ぼくはルソーを「未来触媒」として使おうとしてる。人類学大事だけど、哲学役割過去の正しさを証明することじゃない。間違ってた思想家ほど、新しい思考を生む資源になる——それが訂正可能性の本質だと思うんだよね。<<

(※東浩紀の実際の文体を完全に再現したものではありませんが、インタビュー調の語り口・「ぼく」の一人称・「ゲーム的」「プロトコル」「データベース」などのキーワード意識した再構成です)

Permalink |記事への反応(0) | 00:39

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2025-02-23

anond:20250223194044

犯罪者から剥奪して裁けなくなるのは社会契約のほうやろな

Permalink |記事への反応(0) | 19:49

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2025-01-26

昭和天皇は大量殺戮である。崇拝、尊敬をしている日本人ヒトラーを崇拝しているネオナチと同レベルである

昭和天皇1945年以前までは主権者であった。

大日本帝国憲法をよめば自明でありこれを否定するものは無教養である

大日本帝国憲法では天皇大元帥、つまり日本軍総司令官である

当然開戦する権限ある。

当然戦争を開戦したのも天皇である

歴史学者山田朗氏もこう述べている。

 「違います。41年9月6日に開かれた御前会議の時点までは、確かに天皇は開戦を躊躇(ちゅうちょ)していました。しかし側近の日記や軍の記録などから見えてきたのは、そのあと天皇戦争への覚悟を決めていく姿でした」

 「10月には宣戦布告詔書の作り方を側近に相談しており、11月には軍の説く主戦論に説得されています。最終的には天皇は開戦を決断したのです」

https://digital.asahi.com/articles/ASS863DKVS86UPQJ00WM.html

ネトウヨゴミクズのような保守が「天皇戦争回避しようとしていたんだあああああああああああ」という戯言を述べるが主戦論に説得されて開戦したのは天皇である

故に開戦する権限があったのは天皇であり開戦したのも天皇でありその責任天皇である

この戦争により二千万人以上が犠牲になった。

日本は15日、ポツダム宣言受諾による70回目の終戦記念日を迎える。北京郊外、盧溝橋での中国軍との衝突に始まった戦火は最終的に東南アジア太平洋を席巻し、同地域全体では2000万人を超える軍民が犠牲となった。大日本帝国欧米植民地主義から解放戦争喧伝(けんでん)したが、「大東亜共栄圏」のためにアジア同胞からあらゆる点で収奪した。」

https://mainichi.jp/articles/20150814/mog/00m/040/006000c

当然この二千万人の犠牲は全て天皇責任である

また、各地での収奪レイプなども天皇責任である

千万人と言う数字ヒトラーを超える数字である

まさしく大量殺戮者であり極悪人ある。

昭和天皇を崇拝するネトウヨゴミクズ保守はまさしくネオナチでありクズである

バカネトウヨ

アメリカ中国虐殺したんだあああああああ」

というクソみたいな理屈を並べ立てる。

小学生レベル理屈である

他の国がしていたか虐殺をしていいと言う理屈などどこにもないのである

第一大日本帝国が行った戦争にはなんも正当性はないのである

なぜなら大日本帝国専制主義国家からである

民主主義人類普遍原理であり、専制主義は常に悪である

なぜなら、そもそも主権国民にあるものからである

自然権があり社会契約をするのは国民である

要するに主権(=憲法制定権力)を握るのは自然状態では国民なのである

それが他のものに渡っているということは「簒奪」以外の何者でもないのである

故に民主主義人類普遍原理であり、専制主義主権簒奪である

専制主義体制のものが不当な暴力体であり、「たとえ防衛戦争であっても」それを守ることは許されないのである

不当だからである

不当を守ることは不当だからである

我々日本国民合意により成立している日本憲法にも

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威国民に由来し、その権力国民代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。 これは人類普遍原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。 われらは、これに反する一切の憲法法令及び詔勅排除する。」

https://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/a002.htm

と書かれてるように、民主主義人類普遍原理とし、それに反する専制主義排除することが書かれている。

日本憲法国民合意により成立してる内容であるため、上記の内容は私だけでなく日本人のほとんどが賛成する内容である

不当な戦争を行い二千万人を殺し、各地で奴隷化を進め、強姦を各地で起こした大量殺戮昭和天皇は明確な人類である

彼を崇拝する日本人はクズである

Permalink |記事への反応(0) | 05:20

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2025-01-17

anond:20250117135653

この増田社会契約メリットを逆から説明してるみたいで面白いと思った

Permalink |記事への反応(0) | 14:05

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