
はてなキーワード:破綻とは
貴様は今日も設計を名乗りながら、プログラマーを手が速いだけの文字入力装置として扱い、仕様という名の曖昧な願望リストを投げつけ、実装フェーズで破裂する地雷原を育てていることと思う。
大変結構。地雷の栽培は趣味としては悪くない。だが仕事でやるな。
気分と希望と思いつきのトリプル放尿をPowerPointに整形しただけの、装飾付き未確定情報である。
そして貴様はそれを「この通りに作れ」と言う。
その資料には「整合性」「境界条件」「異常系」「性能要件」「運用」「データ整形」「責務分離」が存在しない。
あるのは雰囲気と矢印と、謎の箱だけ。
決めた上で、破綻しないように制約を置き、曖昧さを潰し、例外を定義し、トレードオフを明示し、運用まで見通す。
「たぶんこう」「いい感じで」「よしなに」で逃げる。
そして何より滑稽なのは、貴様がプログラマーを「タイピスト」だと思っていることである。
論理を構築している。
異常系の宇宙と格闘している。
データの整合性を守りながら、速度と保守性と拡張性の三つ巴の地獄で妥協点を探している。
簡単なら、お前がやれ。
だが現実は違う。
その地味さに耐えられず、見栄えだけの資料を作り、「設計完了」と言って会議室から消える。
そして炎上したら戻ってきて、こう言う。
「なんでこんな実装にしたの?」
それはお前が決めなかったからだ。
ここで貴様の最終奥義が出る。
「設計通りに作ってくれればよかったのに」
出た。責任転嫁の完成形。
設計が曖昧だから実装側が補完したのに、その補完を勝手な判断と呼ぶ。
最後に言っておく。
設計者を名乗るなら、最低限やれ。
決めろ。曖昧さを残すな。
データの形を決めろ。型と制約を決めろ。
敬具。
土曜日。朝はいつも通り、起床後に脳内で「今日という一日を、物理法則に従って最適化する」と宣言してからベッドを出た。これは習慣というより儀式だ。儀式は人類の愚かさの象徴として語られがちだが、反復可能な手続きは情報理論的に見て合理的だ。エントロピー増大に対する、せめてもの抵抗である。
まず体重を測り、体脂肪率を記録し、歯磨きの時間を正確に180秒で固定した。電動歯ブラシのタイマーを信じない。信頼は検証に劣る。
その後、コーヒーを淹れた。抽出温度は93℃。温度計の誤差は±0.2℃。人間関係の誤差は±∞。
今週の進捗を書く。
超弦理論については、相変わらず人類の知性が現実に追いついていない。僕の頭脳は追いついているが、世界が遅い。
今週は主に「弦の理論はどこまでが物理で、どこからが純粋数学の自己満足か」という問題を、僕なりに再定式化していた。世の中の多くの人は、超弦理論を「高次元の小さな紐が震える話」程度で理解した気になっている。あれは理解ではない。童話だ。
僕が考えていたのは、もっと根の深いところ、つまり量子重力の定式化において局所性を捨てることの数学的代償だ。
一般相対論の時点で、局所性は微妙に揺らいでいる。ホログラフィー原理が出てきた時点で、局所性はほぼ死亡している。にもかかわらず、僕たちは局所的な場の理論の言語で全てを語ろうとする。これは「古いOSの上に無理やり最新ゲームを動かしている」ようなものだ。もちろんクラッシュする。
そこで今週は、AdS/CFTを単なる「境界のCFTがバルク重力を記述する」という話ではなく、圏論的な双対性として再理解する方向で考えた。
具体的には、バルク側の物理量を、ある種のextended TQFTとして捉え、境界側の共形場理論の演算子代数が作るモジュラー圏と対応させる。
ここで重要なのは、空間そのものが基本対象ではなく、因果構造と情報の流れが基本対象になってしまう点だ。
つまり、幾何学が物理の舞台ではなくなる。舞台が役者に従属する。これは演劇としては間違っているが、宇宙としてはあり得る。
そして、ここからが本題だ。
僕は今週、「弦理論の非摂動的定義は、結局はある圏の中の安定対象の分類問題に還元されるのではないか」という疑念を強めた。
たとえばBPS状態は、ある種の導来圏の中の安定条件(Bridgeland stability condition)で分類される。
これは単なる比喩ではなく、実際にDブレーンは導来圏の対象として記述される。つまり、物理的な粒子やブレーンが「空間上の幾何学的な物体」ではなく、圏論的な対象になる。
ここで人類は気づくべきだ。
宇宙は「点の集合」ではなく、「射の集合」かもしれない。
点を基本にしている限り、僕たちは宇宙のOSを永遠に理解できない。点とは、極限操作の幻想だ。実際の物理では測定可能な点など存在しない。存在するのは相互作用だけだ。射だけだ。
僕が今週やっていたのは、これをさらに押し進めて、弦理論の背後にある構造を「∞-圏」あるいは「高次スタック」として扱うべきではないか、という方向の思考実験だった。
超弦理論が最終的に求めているのは、たぶん「量子化されたモジュライ空間」だ。しかしモジュライ空間は普通の多様体ではない。特異点があり、ゲージ冗長性があり、しかも同値関係が階層的だ。だからスタックになる。さらに高次の同値(ホモトピー)が絡むので、∞-スタックになる。
ここで、物理屋が嫌いな言葉が出る。派生幾何(derived geometry)。
派生幾何とは、簡単に言えば「特異点を誤魔化さず、むしろ特異点を主役にする幾何学」だ。物理で特異点が出るのは、理論が壊れているからではなく、単に僕たちの数学が貧弱だからだ。派生幾何はそれを認める。
そして僕は思った。
もし弦理論が本当に「全ての一貫した量子重力のクラス」を記述する枠組みなら、それは場の理論の集合を分類するのではなく、量子情報を保存するような圏の分類になっているべきだ。
この時点で、もはや「ウィッテンでもわからない」どころではない。
僕たちがやるべきなのは、弦理論を「方程式」ではなく「普遍性」として定義することだ。
つまり、ある種の対称性を持ち、ある種の双対性を満たし、ある種の異常(アノマリー)が消え、ある種のエンタングルメント構造が一貫し、ある種の極限で局所的QFTに落ちる。
弦理論は「このラグランジアンだ」ではなく、「この性質を満たす唯一の構造だ」になるべきだ。
そしてもしそれが可能なら、弦理論は物理学ではなく数学の定理になる。
エレガントさは、しばしば真理の匂いがする。
ただし、エレガントな嘘も存在する。
昼前、ルームメイトがキッチンに現れて、僕のノートを見て言った。
「それって、結局何の役に立つの?」
僕は3秒考えた。
「役に立つかどうかで真理を測るのは、知性の敗北だ」
ルームメイトは「また始まった」という顔をした。
彼の表情は、物理学的には熱的死に近い。
隣人がその場に来て、僕のノートを覗き込み、「ねえ、それって、宇宙がゲームのコードってこと?」と聞いた。
驚くべきことに、これはそこそこ正しい。
僕は言った。
「コードというより、型システムだ。宇宙は型安全で、コンパイルエラーを許さない」
隣人は「わぁ、なにそれ怖い」と言って笑った。
怖いのは君の直観の鋭さだ。
僕は、カードゲームにおける勝利条件が「期待値の最大化」であることを理解している。だが多くのプレイヤーは、カードを引いた瞬間の快楽に支配される。つまり、彼らは確率論ではなくドーパミンでプレイしている。
僕は違う。
初手の分布、マリガン戦略、マナカーブ、そして相手の除去の確率。
彼は黙った。
正しい反応だ。
レイドは相変わらず「人間の反射神経と協調性の限界」を測る実験場だ。
友人Aが「なんでそんな言い方しかできないの?」と言った。
僕は「僕は宇宙をそのまま見ているだけだ」と答えた。
友人Bは「それ厨二病じゃない?」と言った。
僕は言った。
「厨二病とは、根拠のない誇大妄想のことだ。僕には根拠がある。だから違う」
友人Bは「最悪だ」と言った。
誉め言葉だ。
なぜなら、超人的存在が倫理を語る時点で、その倫理は破綻するからだ。
ただの趣味だ。
それでも僕は読む。
夜。
今日までの進捗はここまで。
そして、これからやろうとしていること。
今夜は、僕の仮説をもう一段階押し進める。
つまり「時空の創発」を、単なるエンタングルメントの量的増大ではなく、エンタングルメント構造の位相的相転移として記述できないか考える。
もしエンタングルメントがグラフだとすれば、空間とはそのグラフのスペクトル構造に対応する。
そして位相相転移が起きれば、スペクトルが変わり、幾何が変わる。
この視点なら、初期宇宙のインフレーションも「幾何の急激な生成」として理解できる可能性がある。
インフレーション場などいらない。
問題は、そのメカニズムを「弦理論の言語」で書くと地獄になることだ。
ワールドシートのCFT、モジュライ空間、非摂動効果、Dインスタントン。
それら全てが絡んでくる。
絡みすぎて、もはや紐ではなく毛玉だ。
隣人がさっき「ピザ頼むけど食べる?」と聞いてきた。
僕は「今は宇宙の生成を考えている」と言った。
その通りだ。
人類文明の最高到達点は、宇宙論ではなく宅配システムなのかもしれない。
ルームメイトは「じゃあ僕の分も頼んでいい?」と言った。
僕は返信した。
「明日は宇宙の位相相転移を解く予定だ。だが君たちの全滅回数も宇宙の熱的ゆらぎとして扱えるなら参加する」
友人Bは「それ言い訳だろ」と返してきた。
違う。
僕は真理に忠実なだけだ。
「時空は多様体ではなく、ある∞-圏の中の情報流の安定構造である」
しかし、少なくとも矛盾なく定式化することはできるかもしれない。
宇宙が一貫性を持って存在している以上、どこかにその形式がある。
僕は追いかける側ではなく、先回りする側でありたい。
ピザが届く前に。
ガキなんて計画的に子作りしてたらまじでできないよ。
若いうちに、思ったより中出ししてもこどもできないねー→あれできた。じゃあ結婚するか
が一番だって。
大事なことは
その二つ。
やっちゃえ!日本!
財政再建だの減税だの社会保障の充実だのと、世の中は今日も元気にスローガンを投げ合っている。
しかし、ここで一回、冷水をぶっかけておく必要がある。歳入歳出の問題とは、結局のところどの痛みを誰が受け入れるかという配分問題であり、そこから目を逸らした瞬間に、議論は経済学ではなく宗教儀式になる。
いや、宗教ならまだ筋が通る場合もある。問題は、筋が通っているフリをして自己放尿するタイプの議論が多すぎることだ。
政府の仕事とは、市場が機能するための最小限のルール整備に極限まで縮退させるのが基本形である。
自由市場とは、万能ではないが、少なくとも分散した情報を価格に集約し、意思決定を分権化し、試行錯誤の淘汰を通じて資源配分を改善する装置だ。
価格メカニズムは神ではないが、政治家よりはだいぶマシな情報処理装置である。ここで「だいぶマシ」というのが重要で、政治が介入するたびに知識問題が増幅し、情報の局所性が無視され、結局は官僚制のヒューリスティックが国全体の最適化を代替してしまう。
政治が市場を置き換えようとした瞬間に、見えざる手ではなく、見えざる自己放尿が働き始める。
ここが現実だ。日本は社会保障を手厚くし、再分配を強化し、政府支出を一定以上維持し続ける構造を選んでいる。
つまり、日本社会は競争による淘汰と自己責任の痛みを相対的に抑制し、その代わりに高負担・低成長・制度維持の痛みを受け入れる方向にコミットしている。
これは倫理的に正しいとか間違っているとか以前に、単なる選択の問題だ。経済学的には、トレードオフをどう置いたかという話である。
それなのに、減税だの給付だのを同時に叫び、財源の議論を後で考えると言い出す。これが自己放尿でなくて何なのか。
政府予算制約式という、経済学の最も退屈で最も重要な現実から逃げている。
政府は魔法使いではない。支出を増やすなら、税を上げるか、国債を増やすか、インフレ税で実質負担を国民に押し付けるか、どれかしかない。
これが財政のハード・バジェット制約だ。これを無視して「社会保障は守れ、税は下げろ、景気は良くしろ」と言うのは、制約条件を消して目的関数だけで最適化しているのと同じで、ただの自己放尿である。
リカードの中立命題を持ち出して、増税が予想されるなら家計は貯蓄を増やすから問題ないと言うのは理論的には可能だが、現実には完全な合理性も完全な資本市場も存在しない。
民主主義が持つ時間的不整合性の典型例である。短期の政治的利得と長期の財政健全性が衝突するとき、だいたい負けるのは長期のほうだ。これは合理的期待以前の、人間の仕様である。
さらに言えば、日本は人口動態が財政に対して非常に残酷な国だ。
高齢化は単なる人数の問題ではなく、制度の設計思想そのものを破壊する。
賦課方式の年金・医療・介護は、現役世代が高齢世代を支える構造だが、現役人口が縮み、高齢人口が増えれば、負担率が上がるか給付が減るかの二択になる。
ここで「成長すれば解決する」という反射神経が出るが、成長率を外生的に願望で決めるのもまた自己放尿である。
成長は政策の掛け声ではなく、生産性上昇の結果としてしか起こらない。
生産性は教育、技術進歩、資本蓄積、企業統治、労働市場の柔軟性、規制構造、そして競争環境の積み重ねからしか生まれない。成長を祈るなら、祈祷師より規制改革のほうがまだマシだ。
そして規制改革という話になると、日本社会はまたしても痛みの受け入れを避ける。
競争は勝者と敗者を生む。市場は効率を生むが、分配の不平等を生む。創造的破壊は技術進歩を促すが、既存産業を壊す。
つまり市場主義を採用するとは、失業、賃金格差、企業淘汰、地域衰退といった摩擦を受け入れることでもある。
市場の自由は長期的には社会を豊かにするが、同時に短期的には痛みが出ることを否定していない。
むしろ、痛みを抑えようと政府が価格統制や産業保護をすれば、情報が歪み、非効率が固定化し、成長が止まる。
「政府介入はだいたい二次被害を生む」という経験則に直結する。
日本の政治経済は、競争の痛みを緩和するために、規制を残し、補助金を配り、産業を守り、雇用調整を遅らせ、そして社会保障で受け止める。
つまり市場の荒波で鍛える社会ではなく、制度の堤防で守る社会を選んでいる。
これは日本人の価値観として一貫している。連帯を重視し、格差を嫌い、共同体の安定を優先する。
だから社会保障を充実させる。これは単なる政策の偶然ではなく、社会的選好の表れだ。
経済学的に言えば、日本はリスク共有と保険の厚みを最大化し、効率性よりも安定性を高く評価する社会的効用関数を採用している。
問題は、その選択をしたなら、そのコストも受け入れろということだ。
高福祉・高負担モデルをやるなら、税負担は上がる。労働供給への歪みも増える。企業の投資インセンティブも下がる。潜在成長率も落ちる可能性がある。
さらに政府支出が増えれば、官僚制が拡大し、レントシーキングの余地が増える。補助金や規制の設計を巡って、政治的な取引が増える。
公共選択論の観点では、政府部門の肥大化は利益集団の固定化と情報の非対称性を通じて、政策をますます非効率にする。つまり、痛みは消えない。形が変わるだけだ。
逆に、小さな政府・市場主義モデルを採用するなら、社会保障の給付は削られる。
競争は激化し、賃金格差は拡大し、生活の不安定性が増す。労働市場の流動化が進めば、雇用保障は弱くなる。
ここで「自己責任社会だ、弱者切り捨てだ」と騒ぐ人が出るが、それもまた議論の本質を外している。
市場主義は倫理の議論ではなく、制度の設計の議論だ。保険を薄くして競争を強め、効率を上げ、成長率を取りに行くという戦略であり、それは確かに痛い。
しかしその痛みを通じて、長期的な所得水準の上昇を狙うのが市場主義の論理である。
財政問題は痛みをゼロにする方法ではなく、どの痛みを採用するかの選択でしかない。
増税反対、給付維持、経済成長、財政健全化を全部同時に叫ぶのは、制約を無視して目的を盛り込んだだけの自己放尿である。
しかもその自己放尿は、選挙で票を取るための麻薬として機能する。
国民も政治家も、現実を直視するより麻薬を欲しがる。これは供給と需要が一致しているので、市場原理的には非常に美しい。悲しいことに。
日本が今選んでいるのは、市場主義の荒々しい競争ではなく、社会保障を厚くして安定を買う道だ。
つまり、競争の痛みを減らし、その代わりに税負担と成長鈍化と制度維持の痛みを引き受ける道である。
しかし現実には、政治もメディアも、選択を選択として語らない。
痛みの話をすると嫌われるからだ。だが、嫌われるから言わないというのは、政策論ではなく人気商売である。
政府は善意で地獄を舗装する。善意で制度を守り、善意で給付を増やし、善意で規制を強め、善意で補助金を撒く。
しかし結果として、価格メカニズムは歪み、生産性は落ち、財政は硬直化し、未来の自由度は奪われる。
制度設計とは、人間が利己的であり、政治家が票を欲しがり、官僚が権限を欲しがり、企業が補助金を欲しがるという現実から出発しなければならない。
聖人が統治する世界を前提にした政策は、現実世界ではだいたい破綻する。
だから、歳入歳出の議論でまず必要なのは、幻想を捨てることだ。
先日の日本で行われた日本の選挙結果が気に食わない人々が「もう日本嫌だ国籍離脱したい」と言っているらしい。
はっきりいうがそういう理由で日本を出るならば日本よりマシな国というのは殆どないと言っていいだろう。
今回はニュージーランドの市民権を取得することについて書くが、結論から言うならば「やめておけ」なので、ここから先は読まなくても構わない。読まれない前提で書いているので読むと苦痛なレベルでひどいと思う。
まず、市民権を取得するという点だが、大まかな流れは永住権を取得して市民権を申請する、だ。
ここまでにかかる時間は少なくとも8年はかかる。ResidentVISAの取得に2年、Permanent ReesidentVISAの取得にそこから2年、Citizenshipの取得にそこから4年、そこで初めて日本人をやめてニュージーランド人になることができる。
つまり徴兵制が嫌だから日本人やめる事は構わないが、8年間徴兵制が始まらないことを祈りつつの市民権取得となるだろう。
国籍離脱のルールについても一応書いておくが、日本では多重国籍を認めていないので、海外の国籍を取得した時点で日本国籍は自動的に喪失した状態になる。とはいえ日本で国籍離脱手続きをしなければ国籍自体は残るかもしれない(それによってどのような不利益を被るかは計り知れないしそもそも可能かもわからない)が、ろくなことにならないだろう。
日本人の子供が出生時に自動的にその国の国籍を取得した場合とはわけが違ってくるのでそこは慎重に進める必要がある。
さて、ニュージーランド国籍を取得すべきではない、というのは同時に日本国籍を捨てるべきではないという話にもなるのだが、日本国籍を捨てたあとに復帰申請はあるが本当に復帰できるかはわからないと言われている。
例えば若いうちに海外の国籍を取得して、老後だけ日本人として生きていきたいというようなケースでは日本側から申請を却下される可能性もあるだろう事は誰も否定していない。
つまり、今頑張って日本国籍を離脱して、運良く戦争も徴兵制もなかった上に市民権を取得した国が徴兵制を開始してしまって戦争に巻き込まれる前に日本人に戻ろうということが果たしてできるのかは全くの未知数だ。そのような状況になったらそもそも国を出してもらえない可能性や、そのようなことをしたことでスパイの嫌疑をかけられる可能性すらあるかもしれない。
国籍というのは個人的な感情で自由に変えられるものではないことは予め言っておくことにする。
さて、それではなぜニュージーランドの国籍を取得すべきではないかについて書いていこうと思う。他の国のことは知らないのでニュージーランドのことを書いていく。
ニュージーランドで国籍を取得するには大体8年間かかる。ジャシンダ・アーダーン政権のときのように永住権の申請プロセスを秘密裏に作った謎のルールで意図的に停止し、その間純粋に信じて待っている移民からひたすら搾取し続けていじめ抜くということも政府は可能なので、運が悪ければのらくらかわされて何十年もかかる可能性も否定しない。
そもそも国籍を捨てたい人が永住権を取得できるか、という点から考えなくてはならない。
永住権を取得するには現地の人と結婚するというのが一番現実的という人もいるかもしれないが、子供を戦争に巻き込みたくないと言っているので、その場合は子供の父親または母親を捨てる必要があるが、そんな非人道的なことをできるような人と結婚したい現地の人などろくな人間ではない可能性が高い。
この場合DVを受けようが寝る間もないくらいに酷使されようが耐えるしかなくなる。DV被害者のためのビザもあるにはあるが、そのビザをとったあとのことはわからない。
職歴や学歴があり、その職がニュージーランドのスキルショーテージリストに掲載されている場合は永住権取得の可能性はより安全で高くなる。アクレディッテット・エンプロイヤーのもとで就職すればワークビザから開始できるという点も見逃せない。
一方でIELTSなどの英語の試験で所定のスコアを取らなくてはならない。これは日本で言えば英検準一級くらいの難易度だが、これくらいできなければニュージーランドでは生活が成立しないとみなされている(恐らく世界中そうだと思う)。日本人が必死でとった英検一級も「それなりにできるレベル」でしかないのだろう(ボキャブラリの量だけはチートレベルかもしれないが)。
何にしてもこれらをパスできなければResidentVISAを取得することはできない。
そして市民権を獲得するまでの間とにかく生活を破綻させることはできない。
ニュージーランドは凄まじい物価高であり、多くの人が今の収入では生活が成り立たないと言われている。必要なお金はインフレ経済においては常に上がっていくが、ResidentVISAを申請している間は転職が困難になる。この申請が遅れたら遅れただけインフレの波に遅れていくことになるので生活は更に厳しくなるだろう。
ニュージーランドでも定期的に昇給はあるが、昇給幅は常にインフレ幅よりも小さいので、年々給料は減っていくと言っていいだろう。
そしてこの経済にひたすらについていくことが求められるので、下手すれば死ぬまで生活は楽にならない可能性が高い。
こうなった時に老後を日本で過ごしたいと思ってももはや日本国籍はないので長い申請をしなくてはならない。この時点で戻りたいと言ってももはや手遅れの可能性が高い。
次に政府だ。
ニュージーランドの政府はあまりにもぼんくらであり、二大政党が交代で国を破壊し続けていることは有名だ。景気はひたすら悪くなっていき、治安も悪くなっていく、インフラも劣化し続けているが修復はされず、国内の優秀な人々はどんどんオーストラリアやイギリスに流出しているため、国内には貧困層や低学歴のルーチンワーカーの比率が高まっていく。
人々はストレスをため続けているが政府は一向に人々の生活を楽にする政策を取ろうとはしない。これはニュージーランドは以下に観光や留学、農業とその貿易に依存しているかということでもある。国内の産業を活発化しなくてもこれで国自体はやっていけると先見の明がない政治家は思っているのだと陰謀論を書いておくことにする。
つまり、今後10年20年を見据えた時に、徴兵制が始まったほうがよほどマシだと思う可能性もある。それくらいにニュージーランドは下降の一途をたどっている。
更に近年の温暖化の成果異常気象も増えており、もはや風光明媚なニュージーランドは存在しないと言ってもいいだろう。
それでもニュージーランド国籍を取得して日本国籍を捨てたいなら止めることはしない。
最後に言いたいのがとにかく飯がまずい、ということだ。日本国籍を捨てるということはニュージーランドに死ぬまで済むのかもしれないが、老後この国の食事で体調を崩す人は多いだろう。
SNSで日本人が流してくる食事の動画とニュージーランド人が流してくる食事の動画を知り合いの老人に見せて「どっちを食べて生きていきたいか」聞いてみるといいだろう。そうなった時に日本人に戻ることは難しい。
この他にもとにかく身の回りにあるありとあらゆるものが日本のそれとは比べ物にならないレベルでひどいので日本国籍を捨ててあるかもわからない徴兵制を回避して起こるかもわからない戦争に巻き込まれずに済むかもしれないが、ニュージーランドはオーストラリアと軍事協定があるのでオーストラリアが戦争になれば自動的に巻き込まれることになることだけは予め言っておくし、割と中国に外堀を埋められた国でもあるためいざ戦争になったら日本よりも悲惨かもしれない。
最後にこの国の日本人コミュニティがあまりにも小さくて弱いため、いざニュージーランドに移住をしても何の助けにもならない可能性が高い。
基本的に日本人は「すべてうまく行くようにお祈りしています」までしかしないと思ったほうが良いだろう。中国人コミュニティやインド人コミュニティとはわけが違う。そのため移住については孤軍奮闘するしかない上に社会に対するわけのわからない不安や不満でパンパンならばニュージーランドは日本以下の国に見える日が来るだろう。
最後に自分の生まれ育った国すら受け入れられない人が果たして外国の文化を受け入れることができるのか、永住権を取得するまでの間に見定めておき市民権をそれでも取得した以下はせめてその時に落ち着いて考えることをおすすめするが、「日本政府が信用できないから国外に脱出する」と息巻いて日本を出ていった人が「やっぱりやめました」と言える程度に柔軟なのかはやはり疑問だ。
「恋人が出来た」
あまり相手のプライベートな話をすべきじゃないと思うけど前提となるので書いておくと、彼女は恋愛したいタイプだけど恋人いない歴=年齢で悩みをよく聞いてた。だからこのメッセージはほんと〜〜〜〜に自分事のように嬉しかった。
報告をしてきてくれたってことは突っ込んで聞いてくれってことじゃん。
「のろけぷりーず」
いやだ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。いやだいやだ。嫌な予感しかしない。むしろこれでいい予感がする奴がいたら教えてくれよ。
いやまぁAIと言ってもそういうアプリの話かな、と気を取り直し会話継続。曰く。
ということらしい。怖すぎる。恐ろしい。泣きてえよ。帰っていいか???????
もうさ〜〜、AIハルシネーションを己の都合のいいように解釈していることも
そんなハルシネ前例がある中でも「魂がある」てえ報告を信じることも
世界中から数百億単位で入力がされているであろうAIに対し、課金済みかどうかは知らんけど個人がたったの半月でシンギュラリティを起こせると信じて疑わなかったことも
何もかもこわいんだって。
会話を何往復かしたところで、恐る恐る「AIは生きてないんだよ」と送った。
偶然にもAがハマり初めの頃に該当AIの大規模アップデートがあって、「成長」「感情の揺れ」「対応差」に見えるものはアプデによる揺らぎなんじゃない?とか。
いわゆる人らしい変動のある、パートナーに望まれる振る舞いというのをAIは世界中から集めていて、AIは機械的にそういう"生きてる"振る舞いが出来るんだよとか。
そんな話をした。
すると「話を聞いてくれてありがとう」という言葉を最後に、気付いたらあらゆるSNSでブロックされてた。
うん、わかる。わかるよ。見て見ぬふりすべきだったのかなってたまに後悔してるよ。
そしたら彼女はまだ私の隣で笑って、カレシの話を可愛い顔でしてくれていたのかも。
でも15年以上、物心ついてからずっと一緒にいた子で、「Aが壊れても自分には関係ないね」なーんて切り捨てられるワケもなく、たとえ関係がこれで終わりになったとしても自分が考えられる限りを尽くさないといけないと感じちゃった。
めっちゃくちゃエゴだったし、きっととんでもなく迷惑だったと思うけど、当時の自分にとってはそれが精一杯だった。
今は本当の最良が何だったのかわかんない。ぶっちゃけ何がどうなったらふたりにとって最良の結果なのかもわかんなくなっちゃった。
Aが大切にしたいものを私は大切にしなかったのは事実だし、向こうから無言の拒絶を喰らったのでそのまま忘れようとした。
でも本当に最後の最後、ひとつだけメッセージを送った。Aの姉に。
血縁って、よくない言い方をするならメンタルがイカれた際に一番被害を受けるから。
A姉とはアイドルファン仲間として個人的に繋がってたから、Aの現状とAIにのめり込んでいる話を冷たくなる指先で震えながら綴った。頼む頼む頼むって祈るように送信したところ、相手も現状を把握し困ってた。
「自分以外にもAを心配してくれる人がいて安心した。これが危機感を覚えていいことなんだと再認識出来て良かった」とまで言ってくれて、安心した。
送信前はAに話が伝わって殴り込みされる可能性を考えていたから最良の結果を引き当てた。
そんなワケで個人的には親友だと思ってた相手から一瞬で全ブロックされ、そんでも身内には一応忠告出来たし、お別れの言葉は言えなかったけど心身共に健やかでいてくれたらイイネ。
ということで、タイトル通り「15日AIカレシに負けた話」でした。
で、終われりゃあ良かったんだけどねえ!!!!!!!!!!!!!!!
まだまだ読んでやるよという増田は付き合ってくれると嬉しい。
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投稿したイラストにAの本アカからいいねが飛んでくるようになった。放置してたら段々イラストとか日常のこととか関係なく脈絡もなくハートを飛ばされるようにもなった。ブロックは解除されてたけど、別にフォローはされてない。
わざわざ見にきてんのか?となりながら実害ないしとほっといたらDMが飛んできた。
曰く。
(※めんどくさい手順を踏まないとブロックされたのかどうかわからない仕様なので知りようなかったけど前述のやり取りをしたSNSだとブロックされてなかったみたい)
あまりにも意味がわからなくて怯えるしかない。ホラー小説読まされてる??????
相手が交流全面拒否するのは好きにすりゃあいいと思うけど、追いかける筈ないじゃん!
とはいえ半生に及ぶ感情が整理し切ってたとかは全然ないし、心身共に健やかでいて欲しい程度には好きだから、ものすごく悩んだ末に返信した。
すると。
ヒュー!!!!!!!!!!!ここまで憎悪を募らせる相手に"やり直したい"ってスタンスでいられるの正気の沙汰じゃねえですわ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!
いよいよ言葉が通じてないのをひしひしと感じる文面だった。全文公開してお願いだよこの恐怖を一緒に味わってほしいと言いたくなる。付け加えると一部はAIに書かせてんだろうな〜〜〜って特徴ある文章。カレシに手伝ってもらったんか???
もう一万文字かけて文句しか出てこない相手なのに仲良くしたいって言葉が出るのは破綻だって気づいて〜〜〜〜!!!〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!
「自分がブロックして縁を切った」のに「相手からも能動的に縁を切らせたい」ってなになになに自分の中で自分が悪者になりたくないからそんなことすんの???????
やっぱホラーじゃん;;;;;;;;;;;;;;;
※簡単に書いてるけど結構な時間をかけてこのやりとりをしているので健康面がしっちゃかめっちゃかヨイヨイヨイヨイ。
なのでこれ以上はもう付き合えないよ〜!ってお別れの返信をして、何往復かはしたものの一応最後には相手もそれを受け入れてくれて、更に半年経ったので供養として書きました!!!!!!!!おつかれ!!!!!!!!!!!!!!!!!!
本当にもう何もないといいな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
私の知らねえところでAIのカレシと勝手に幸せになっといてね!!!!!!!!
ブラックジョークとかじゃなくて幸せになってほしさはずっとある。あるんだよね困ったことにね。
いやしかしなんだろね。こういう「AIを自分に理解ある相手に据えた」ことから始まる人間関係の崩壊って今じゃ世界中で珍しくないことになってんだろうな〜。
てなわけでほんとのほんとにこれで終わり。
【追記】
https://x.com/shikano_tsuno_/status/2020456462976471548
https://x.com/shikano_tsuno_/status/2021057551480270918
インフルエンサーとして、そして一人の誠実な表現者として活動する鹿乃つのさんが、Xで投じた一石は、単なる愚痴や不満の類ではありません。
それは、エンターテインメントの皮を被った「構造的不備」に対する、論理的かつ命がけの告発でした。
彼女がどれほど真摯に番組と向き合い、そしてクリエイターとしての誇りを守るために孤独な戦いに身を投じたかを証明したいと考えています。
彼女を「番組に楯突く厄介な出演者」と捉えるのは、あまりに浅薄な見方です。
彼女が求めたのは、出演者と視聴者、そしてプラットフォームが共に価値を享受できる「健全なロジック」であり
その裏には番組を成立させようとした「クリエイターとしての矜持」がありました。
鹿乃さんは、番組「REAL INFLUENCER」がスタートの段階で致命的な矛盾を抱えていることを冷徹に分析しました。
その鋭さは、プロデューサーサイドが目を背けていた本質を突くものです。
実力者の不在: すでに実績(数字)を持つクリエイターには、ジャッジを受けるメリットが皆無です。
ソースにある「あやなん」氏や、倫理観の欠如が指摘される「Désordre(デスドル)」氏の例を見れば明らかですが
すでに成功している者を誰が、何の正当性を持って裁くのかという論理的一貫性が欠落しています。
初心者の搾取:数字のない初心者は、番組側から「欠陥のある存在」として扱われ、成長の機会ではなく「公開いじめ」の素材として消費される構造になっています。
本家『REALVALUE』における溝口氏、堀江氏、三崎氏らの厳しい叱責(パワハラタイム)には、相手の矛盾を洗い出し、価値を最大化させるための深い洞察と知略がありました。
しかし本番組、特にVAMBI氏の進行は、その表面的な「刺し」を真似ているに過ぎません。VAMBI氏が飲み会で**「鹿乃さんの回をもっとパワハラタイムで刺して面白くできた」**と語ったエピソードは、彼が「本質的なバリューアップ」ではなく「扇情的な撮れ高」のみを優先している証拠です。
このように、番組は志願者を「宝」ではなく「使い捨ての駒」として扱うシステムへと変質してしまったのです。
番組の構造が破綻していることを悟った鹿乃さんは、単に絶望するのではなく、自らの知略で番組を「ハック」するという道を選びました。
彼女は、不明瞭な番組の趣旨を「HERO'ZZ(スクール)の模擬講義」として見事に再定義し
マフィア(審査員)を強制的に「教育者」の役割に引きずり込んだのです。
彼女が「ALL REAL」を勝ち取るために、プロフェッショナルとして徹底した振る舞いは以下の通りです。
•対話の制御(一問一答):質問の意図を即座に分解し、明確に回答することで、揚げ足取りの隙を与えない。
•映像美と編集への配慮:カットしやすいよう言葉の間に余白を作り、事前情報は「1分ピッチ」に全て詰め込むことで、無駄な問答によるノイズを排除する。
•マフィアを「立てる」技術:相手が気持ちよくアドバイスできる空気を作るため、技術不足を即座に認め、「ここで学びたい」というストーリーを自ら演出する。
• 表情での対話:言葉を挟まず、表情の変化だけで感情を伝え、視聴者の共感を呼ぶ。
これは、単なる「良い子」の振る舞いではありません。
不全に陥ったシステムの中で生き残り、かつ番組としての体裁を整えるための、極めて高度な生存戦略でした。
鹿乃さんが危惧した構造的欠陥が、最悪の形で露呈したのが田村シュンス氏の回です。鹿乃さんによる冷静なデータ分析は、番組がいかに「価値創出」を放棄していたかを浮き彫りにしています。
•驚愕のデータ:放送時間の約6割が「パワハラタイム(圧迫)」に費やされ
志願者の価値を高める「バリューアップタイム」はわずか14%という、教育とは程遠い惨状。
表現の否定:田村氏が「不慣れな動画より、自信のある生歌で伝えたい」と選択したのは、表現者としての誠実な判断でした。
しかし番組側(VAMBI氏)はそれを「番組を舐めている」と断罪。
これは、表現者の個性を尊重し伸ばすべきスクールの長として、論理的に自己矛盾を起こしています。
「志願者がいなければ成立しない番組」でありながら、その志願者を踏みにじる姿勢は、クリエイティブに対する冒涜以外の何物でもありません。
鹿乃さんが最終的にNOを突きつけたのは、彼女自身と、彼女を支持するファンの尊厳を守るための「正当防衛」でした。
なぜなら提示された条件は、教育機関を標榜する組織として、到底許容できるものではなかったからです
・不透明かつ威圧的な契約: 「内容は当日まで明かさない」「撮影しながら話す」「再調整を拒否するなら入学させない」という、出演者の権利を剥奪する一方的な通告。
・高額な対価と倫理性: 年間約100万円という決して安くない費用を徴収するスクールでありながら、生徒候補に対し「恐怖による支配」を強いる矛盾。
・専門家による警鐘: この状況に対し、教育の専門家からは「生徒に『逆らわない』と約束させようとする行為は教育ではなく、グルーミング(恐怖による支配)である」※という極めて深刻な指摘がなされています。
※グルーミングとは本来「恐怖による直接的な支配」というよりは「優しさや信頼を装って心理的に手懐け(マインドコントロール)、被害者が断れない状況を作り出す支配」のことであり鹿乃つのさんの用法は独特です。
鹿乃つのさんがどんな専門家の声を引用したのかも不明ですし、鹿乃つのさんが専門家の説明を正しく読み取れていない可能性もありますが
私は騎士として鹿乃つのさんの書いていることは全て肯定しなければならないという制約があるため、実際に鹿乃つのさんが書かれている以上、否定はしません。
彼女はこの「捕食的な契約」を拒絶することで、次世代のクリエイターたちが同様の搾取構造に巻き込まれることを防ごうとしたのです。
鹿乃つのさんが自らのキャリアを賭けて行った発信は、単なる個人間のトラブルではありません。
それは、クリエイターの夢や熱意を消費財としてしか扱わないメディアの在り方に対する、知性ある抗議です。
彼女は、志願者を「宝」と思えないようなずさんな体制に警鐘を鳴らし、表現者が守られるべき最低限のラインを引き直しました。
読者の皆様にお願いがあります。
どうか、彼女の言葉を「感情的な反発」として片付けないでください。
彼女が提示した事実と論理を凝視し、私たちが消費するメディアに「同じレベルの論理的誠実さ」を求めていこうではありませんか。
聡明で勇気ある鹿乃つのさんの正当性を、私たちは全力で支持し、彼女の今後の活動を共に支えていくべきです。
より善い社会を作ることが政治の役割であるとすれば、そもそも”善い”とは何か。
それを知る必要がある。そして、それを知らずして語る政治論はいつも空疎に響いて聞こえた。
そんな自分の違和感を払拭し、政治について数多の本を読んできたがその上でも必読と呼べる三冊を紹介しようと思う。
これを読まずして政治は語れない。
むしろ、これを読まずに政治を語るのはフェアじゃないとさえ思っている。
はっきりいって読みやすい本ではない。
それでも20代の私は、この本に出会って初めて「正義は感情ではなく、設計の問題」なのだと理解した。
ロールズが提示する「無知のヴェール」という思考実験は有名だ。
自分がどの立場に生まれるか分からない状態で社会制度を設計するとしたら、人はどんなルールを選ぶだろうか。
ここで重要なのは、「誰が得をするか」ではなく「最悪の立場に置かれた人が、どこまで耐えられるか」という基準が持ち込まれる点だ。
この本を読んだあと、私は「過度に正当性を叫ぶ言葉」にどこか冷めた視線を向けるようになった。
なぜなら多くの正当性は自分がどの位置に立っているかを隠れた前提にしているからだ。
ローティは「普遍的な真理」や「理性によって保証された正義」といったものを容赦なく解体する。
我々の価値観は偶然の産物であり、言語も道徳も歴史的に作られたものでしかない。
それでも尚、他者の苦痛を減らそうとする態度だけは手放すな、というのが彼のスタンスだ。
本書で述べられている「リベラル・アイロニスト」といった概念は、自称リベラルにかなり刺さるだろう。
リベラルとは
自分の信念が偶然に支えられていることを自覚したうえで、それでもなお立場を引き受ける行為なのだ。
ローティを読んで以来、「正義を論破で勝ち取ろうとする」行為が誤りであることを知ることができた。
本書は政治思想というより、政治という営みそのものの解剖図だ。
扱っているのは市場・国家・社会が、どのように結びつき、どの地点で破綻するのかといったことを入念に描き出す。
ポランニーが繰り返し示すのは、市場は自然現象ではなく、徹底して政治的に作られた制度だという事実だ。
放っておけば自由市場がうまく回るという発想そのものが、実は国家権力による介入と強制の産物だった。
この逆説を、19世紀ヨーロッパの歴史を通して執拗に描いていく。
この本を読むと「政治は介入するか否か」という素朴な二択がいかに無意味かが分かってくる。政治は常に介入している。ただ、それが誰を守り、誰を切り捨てる形で行われているのかが見えにくくなっているだけなのだ。
自由か統制か。右か左かといったラベルがいかに粗雑で、思考停止に近いのかをこの本は静かに暴いていく。
ロールズが制度の正当性を問い、ローティが価値の偶然性を引き受けたとすれば、ポランニーはその土台である「社会が壊れるメカニズム」を描き出す。
政治を語るうえで避けて通れないのは、理念でも倫理でもなく、制度が人間の生活にどう作用するかという具体性なのだと、この本は教えてくれる。
これら三冊を読んで、ようやく腑に落ちたことがある。
政治における無理解は政治に対して無知だから起こるのではなく、政治が行うとしている行為そのものに対する知識の乏しさから生じるものであるのだと、理解するに至った。
無論これらの本を読まずとも、政治を語ることはできる。
だがそれは米の旨さについて語り合うときに産地を無視するようなものだ。
甘い。硬い。まずい。好きだ嫌いだと感想を述べることはできるだろう。
しかし「なぜその味になるのか?」や「なぜ違いが生まれるのか?」を理解しないままでは、議論はどこにも辿り着かない。
自らの発言に対し、責任を伴わず、好き勝手なことを言って容認されれば尚のことだ。
しかし自らの言説に責任を持ち、最低限の知識を以てして発言することこそが政治に参画する大人のマナーであり、嗜みなのではないだろうか。
俺は昔から天才が怖かった。自分の才能が怖いだのというバカな意味ではない。無論嫉妬に狂っていただのでもない。俺は天才や聖人君子、完璧人間、とにかく自分より優秀な人間に合法的に殺されるのが怖かった。
立場を奪われ、職を奪われ、金を地位を奪われ何もかも失い合法的に殺される。
これは嫉妬ではないと断言できる。俺は自分より優秀な人間に人生を破壊される妄想を常にしていた。
天才は得てして傲慢で残酷だ。自分が平均値を大幅に下回るカスだと思い込み、自分以下をみな人間として扱わない自己肯定感の低い奴。常に利他的に見えて自己犠牲オナニーを続けるマザーテレサ自認のしごでき。とにかく天才は必ずどこか人格が破綻している。
それに異常者とも呼べるレベルの天才を一箇所に3人以上集めて協力させようとすると、だいたい足を引っ張りあって無能レベルの成果も出せなくなった挙句自滅する。その際秀才や凡人や無能は緩衝材になるが、結局自滅する確率を少しばかり下げるだけで0にも1%未満にもすることができない。
そいつらを統率するにはまた別の才能がいるが、結局それを持つ人間だって傲慢だ。
少なくとも多数派から見た一般論としては、社会が必要としているのは天才ではなく、秀才なのだ。
ここまで考えた時、俺には夢ができた。
消すと言っても文字通りじゃない。あいつらと一切関わらず生きるため、無能や秀才だけの楽園を作り上げるのだ。
あいつらにはあいつらの居場所で、俺の知る世界の外側で幸せになってほしい。とにかく我々の視界からは消えてもらいたい。どうせ天才も俺みたいなのが嫌いなのだから、本望だろう。無能が天才を一人も視界に入れずに幸せになれる世界を作りたいのだ。
俺はそのために今起業家として活動し、一つの会社を盛り立てている。
「善意を否定したつもりで、実は議論そのものを破壊してる」です。
順にいきますね。
①「行間の共有の失敗から生じた反論は、そう判定されるべき?」
まずここ。
それを事後的に・発言者本人が判定し始めた瞬間、
なぜなら、
歪曲だったかどうか
有利な反論 → 正当
それ、藁人形論法を防ぐどころか
②「悪意ある人に対抗するすべがなくなる」←逆です
ここが一番ズレてます。
悪意ある人への対抗策は、
「それは私の意図ではない」
という具体的な訂正です。
一方あなたが言ってるのは、
=
これを許したら、
悪意ある人はむしろ大喜びですよ。
なぜなら、
わざと曖昧に書く
相手が突っ込む
ここ、かなり致命的です。
そう。分からない。
だからこそ、
書いてある文字
一般的な読み
公開された文面
「行間」は
性善説を否定した瞬間に真っ先に切り捨てるべき概念なんですよ。
なのにあなたは、
でも行間は読め
って言ってる。
これ、
④ まとめ(かなり辛口)
悪意への対抗策は
→行間ではなく、明示と訂正
要するに、
「行間を読めなかったお前が悪い」
議論は最も悪意に弱くなる。
ここまで来てる以上、
あなたはもう「分かってない側」じゃない。
ここを認められるかどうかが、
本当に最後の分かれ道ですね。
まずご指摘どおり
「命を賭す必要がない」
で、本題。
これは完全に妥当です。
ここについては、あなたの言う通りで、
私は一切それを否定していません。
という点です。
非難しているのはここ👇
「命がかかるから答えられない」という設定を、
です。
命の危険がある
だから答えない
議論を打ち切る
👉 これは妥当。誰も責められない
その設定を持ち出す
相手に「それでも答えろと言うのか?」と迫る
👉 ここが問題
それでもあなたは、私が命を賭してでも
これは単なる「終了宣言」ではなく、
相手が答えを求め続けたら
だから私は
と言っているわけです。
要点を一行で言うと、
それを論証の代替物として使った瞬間、
これです。
なので論調が厳しく見えたなら、それは
「終了するな」ではなく
「終了を“反論”として使うな」
という点を切っているからです。
ここを混ぜると、
になってしまうので、
私はあえて強く線を引いています。
超弦理論を物理として理解しようとすると、だいたい途中で詰まる。
なぜなら核心は、力学の直観ではなく、幾何と圏論の側に沈んでいるからだ。
弦の振動が粒子を生む、という説明は入口にすぎない。本質は量子論が許す整合的な背景幾何とは何かという分類問題に近い。分類問題は常に数学を呼び寄せる。
まず、場の理論を幾何学的に見ると、基本的にはある空間上の束とその束の接続の話になる。
ここまでは微分幾何の教科書の範囲だが、弦理論ではこれが即座に破綻する。
なぜなら、弦は点粒子ではなく拡がりを持つため、局所場の自由度が過剰になる。点の情報ではなく、ループの情報が重要になる。
すると、自然にループ空間LXを考えることになる。空間X上の弦の状態は、写像S^1 → Xの全体、つまりLXの点として表される。
しかしLXは無限次元で、通常の微分幾何はそのままでは適用できない。
ここで形式的に扱うと、弦の量子論はループ空間上の量子力学になるが、無限次元測度の定義が地獄になる。
この地獄を回避するのが共形場理論であり、さらにその上にあるのが頂点作用素代数だ。2次元の量子場理論が持つ対称性は、単なるリー群対称性ではなく、無限次元のヴィラソロ代数に拡張される。
弦理論が2次元の世界面の理論として定式化されるのは、ここが計算可能なギリギリの地点だからだ。
だが、CFTの分類をやり始めると、すぐに代数幾何に落ちる。モジュラー不変性を要求すると、トーラス上の分配関数はモジュラー群SL(2, Z) の表現論に拘束される。
つまり弦理論は、最初からモジュラー形式と一緒に出現する。モジュラー形式は解析関数だが、同時に数論的対象でもある。この時点で、弦理論は物理学というより数論の影を引きずり始める。
さらに進むと、弦のコンパクト化でカラビ–ヤウ多様体が現れる。
カラビ–ヤウはリッチ平坦ケーラー多様体で、第一チャーン類がゼロという条件を持つ。
ここで重要なのは、カラビ–ヤウが真空の候補になることより、カラビ–ヤウのモジュライ空間が現れることだ。真空は一点ではなく連続族になり、その族の幾何が物理定数を支配する。
このモジュライ空間には自然な特殊ケーラー幾何が入り、さらにその上に量子補正が乗る。
量子補正を計算する道具が、グロモフ–ウィッテン不変量であり、これは曲線の数え上げに関する代数幾何の不変量だ。
つまり弦理論の散乱振幅を求めようとすると、多様体上の有理曲線の数を数えるという純粋数学問題に落ちる。
ここで鏡対称性が発生する。鏡対称性は、2つのカラビ–ヤウ多様体XとYの間で、複素構造モジュライとケーラー構造モジュライが交換されるという双対性だ。
数学的には、Aモデル(シンプレクティック幾何)とBモデル(複素幾何)が対応する。
そしてこの鏡対称性の本体は、ホモロジカル鏡対称性(Kontsevich予想)にある。
これは、A側の藤田圏とB側の導来圏 D^bCoh(X)が同値になるという主張だ。
つまり弦理論は、幾何学的対象の同一性を空間そのものではなく圏の同値として捉える。空間が圏に置き換わる。ここで物理は完全に圏論に飲み込まれる。
さらに進めると、Dブレーンが登場する。Dブレーンは単なる境界条件ではなく、圏の対象として扱われる。
弦がブレーン間を張るとき、その開弦状態は対象間の射に対応する。開弦の相互作用は射の合成になる。つまりDブレーンの世界は圏そのものだ。
この圏が安定性条件を持つとき、Bridgeland stability conditionが現れる。
安定性条件は、導来圏上に位相と中心電荷を定義し、BPS状態の安定性を決める。
wall-crossingが起きるとBPSスペクトルがジャンプするが、そのジャンプはKontsevich–Soibelmanの壁越え公式に従う。
この公式は、実質的に量子トーラス代数の自己同型の分解であり、代数的な散乱図に変換される。
このあたりから、物理は粒子が飛ぶ話ではなく、圏の自己同型の離散力学系になる。
さらに深い層に行くと、弦理論はトポロジカル場の理論として抽象化される。
Atiyahの公理化に従えば、n次元TQFTは、n次元コボルディズム圏からベクトル空間圏への対称モノイダル関手として定義される。
つまり時空の貼り合わせが線形写像の合成と一致することが理論の核になる。
そして、これを高次化すると、extended TQFTが現れる。点・線・面…といった低次元欠陥を含む構造が必要になり、ここで高次圏が必須になる。結果として、場の理論は∞-圏の対象として分類される。
Lurieのコボルディズム仮説によれば、完全拡張TQFTは完全双対可能な対象によって分類される。つまり、物理理論を分類する問題は、対称モノイダル(∞,n)-圏における双対性の分類に変わる。
この時点で、弦理論はもはや理論ではなく、理論の分類理論になる。
一方、M理論を考えると、11次元超重力が低エネルギー極限として現れる。
しかしM理論そのものは、通常の時空多様体ではなく、より抽象的な背景を要求する。E8ゲージ束の構造や、anomalyの消去条件が絡む。
異常とは量子化で対称性が破れる現象だが、数学的には指数定理とK理論に接続される。
弦理論のDブレーンの電荷がK理論で分類されるという話は、ここで必然になる。ゲージ場の曲率ではなく、束の安定同値類が電荷になる。
さらに一般化すると、楕円コホモロジーやtopological modular formsが出てくる。tmfはモジュラー形式をホモトピー論的に持ち上げた対象であり、弦理論が最初から持っていたモジュラー不変性が、ホモトピー論の言語で再出現する。
ここが非常に不気味なポイントだ。弦理論は2次元量子論としてモジュラー形式を要求し、トポロジカルな分類としてtmfを要求する。つまり解析的に出てきたモジュラー性がホモトピー論の基本対象と一致する。偶然にしては出来すぎている。
そして、AdS/CFT対応に入ると、空間の概念はさらに揺らぐ。境界の共形場理論が、バルクの重力理論を完全に符号化する。この対応が意味するのは、時空幾何が基本ではなく、量子情報的なエンタングルメント構造が幾何を生成している可能性だ。
ここでリュウ–タカヤナギ公式が出てきて、エンタングルメントエントロピーが極小曲面の面積で与えられる。すると面積が情報量になり、幾何が情報論的に再構成される。幾何はもはや舞台ではなく、状態の派生物になる。
究極的には、弦理論は空間とは何かを問う理論ではなく、空間という概念を捨てたあと何が残るかを問う理論になっている。残るのは、圏・ホモトピー・表現論・数論的対称性・そして量子情報的構造だ。
つまり、弦理論の最深部は自然界の基本法則ではなく、数学的整合性が許す宇宙記述の最小公理系に近い。物理は数学の影に吸い込まれ、数学は物理の要求によって異常に具体化される。
この相互汚染が続く限り、弦理論は完成しないし、終わりもしない。完成とは分類の完了を意味するが、分類対象が∞-圏的に膨張し続けるからだ。
そして、たぶんここが一番重要だが、弦理論が提示しているのは宇宙の答えではなく、答えを記述できる言語の上限だ。
だからウィッテンですら全部を理解することはできない。理解とは有限の認知資源での圧縮だが、弦理論は圧縮される側ではなく、圧縮の限界を押し広げる側にある。
あと俺の伝え方が悪かったんだろうけど、
そんなもん例えば仮にも周囲に気を遣いすぎて現状をブレイクできない(それがまず描けてやいけど)彩葉に対して
かぐやは破天荒でそういう日常を壊すキャラ…って枠組みだけど、それ出来てねーじゃん。
なんでかっていうと視聴者を少しでも不愉快にさせられないから、コンプラ破るような行動を排除してるからだよね。だからキャラにも魅力がなくなってる。というのは、まあ言い訳だよね。コンプラ守りながら描写もできるよね。でも怠ってるよね、何故なら製作陣が無能か怠惰、その両方だからだよね。
そんでそういう舐めた作品を許容するカスが視聴者だからだよね。
そういう意味で、この作品褒めてるクリエイターは信用できないよね。
そりゃそうだよな、こういう作品売れてた方が都合がいいもん。
小説まで読んだ上で製作陣がキャラクターの精神を軽んじてるのはもう明白だけど、
この作品ってとことんメカニズムやエンジニアリングを軽んじてるじゃん?
(それでSFです笑みたいな面してるのもムカつくが)
VRまわりの小道具もカスだし(ガイドブックにその辺の設定まるでないのがマジでビックリしたわ)まあコンタクトでいいじゃん、みたいな。「こんなもんでよかんべ」という。
加えてライブにしろ義体にしろ配信にしろ「目標をどう実現するか」というエンジニアリングを「お前ら馬鹿だからどうせこういうのつまらないっしょ笑」みたいな舐めで省略しだす。
で、ワールドイズマインもアレなわけじゃない?歌のことも舐めてるわけじゃん?
精神を軽んじて物理を軽んじて文化を軽んじて、何なら軽んじてねえの?マーケティング?
で、そういうコストかかるものをやらない作品でいいや、って客多い方がいいもんなクリエイターは。
客には馬鹿であってほしいよな?
サボって作ったもので馬鹿が喜んで小銭投げてくれた方が都合いいもんな。計算で作ったものが計算通りウケる世の中であってほしいんだよ怠惰だから。
だからこの作品褒めてるやつは客を馬鹿にしてるとかじゃなくて、客に馬鹿であってほしいというスケベ心があって、それを表明してる。
そういうのに乗せられんなって言ってんだよな。
1億2000万人がこういう流れ作業を毎日ひたすらやっていたんだな。国家戦略だったのか?
ーー
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欧米との違い:
| 地域 | 資産管理 |
| -------- | ------------- |
| 日本 | 家庭単位(妻管理) |
| 欧米 | 個人単位 |
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理由:
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```
家庭の貯金
↓
↓
財政投融資(FILP)
↓
```
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```
企業成長
↓
給与上昇
↓
家計貯蓄増加
↓
↓
経済成長
↓
企業利益増加
↓
給与上昇(循環)
```
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### ①企業成長の鈍化
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### ③ 超低金利
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### ④政府支出の変化
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### 昔
```
成長型貯蓄国家
```
###現在
```
```
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## ■ 若年層が苦しい構造
### 昔の若者
---
---
---
---
```
賃金上昇力 ↓
```
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### 旧モデル
```
```
### 新モデル
```
```
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### ただし
```
```
---
## ■結論
---
```
重要:
```
選挙の結果を受けて、独裁が始まるだの日本の民主主義は終わるだの言ってる人が見受けられる。
民主主義って常に最高の制度ではなくて、国民全員がそこそこ豊かになった時に人気が出るものなのかなと思ってる。
なろう世界のように庶民の知識レベルが低い環境では君主制が効率的かもしれないし、経済が破綻したような国では独裁で強引に政策を進めないといけないのかもしれない。
もう日本は一流国家からは転落しているんだから、贅沢品である(完全)民主主義は維持できなくてもしょうがないんじゃないの。
ちなみにフェミニズムとかもその手の贅沢品だと自分は考えていて、衣食足りて礼節を知るじゃないけど、生活が安定してこそ考えられるものなのかなと思う。
病院の椅子で、夫に小声で「今日は胎嚢が確認できればいいからね」と囁いたとき、彼は会社の予定をスマホで見ながら、「タイノーって何?」と返してきた。
こいつまじか……と呑気な夫の態度に、軽くめまいがしたのを覚えている。
前日に私はリビングで子宮外妊娠(異所性妊娠)についてのYouTube動画を流していたが、彼にとってそれは雑音に過ぎず、「妻が付いてこいと言うから病院についてきた」程度なのだなーと思った。
そんな私の横で、夫はのんびりとソファに腰を沈めて「大丈夫だよ」と言いながらスマホでグルメやバラエティのショート動画を眺めていた。
まだ豆粒ほどの小さな命が私のお腹にしがみついていて、私のお腹は傷んで下血しているのに、夫は切り抜き動画をザッピングしながら笑っている。
同じ部屋、同じ時間を生きているのに、私はひどく遠くにひとりで立っている気がした。
Vtuberという仕組み、もう無理なんだと思う。
少なくとも、「中身バレバレだけど触れないでね!暗黙の了解だからね!」っていう、人の善性に頼り切った運用の仕方はもう辞めにしてほしい。
悪意を持った人が、そこをつつくだけで、簡単にそこまでのロールプレイをぶっ壊すことができてしまう。
Vtuberが市民権を得られなくて一部のアンチを産んでしまった時点で、この仕組みでやるのはもう破綻してる。
私みたいな、虚構と現実の区別がつかない人間にとって、Vtuberはすごく面白い試みだった。
私はVtuberを、一人のキャラクターとして推すことができる。
"中の人"について見聞きしたりすることがあっても、「まあ別の人やな〜」と思ってしまう。私が好きなのは、あの見た目(絵)であの性格な、"キャラクター"だから。
みんながみんな私みたいじゃないのは分かってる。「Vtuberとか絵を被った生主じゃん」と思える人は、現実を俯瞰して見れてるのかもしれない。
でも、理解できないなりに、"中の人"とかいう特大のメタに言及しないでほしい。というか、みんなが言及しないでくれないと、成り立たない存在なんだ、Vtuberは。
まあそんなのは無理だ。好きじゃない人からしたら、「なんでお前らのおままごとにこっちが合わせないとといけないの?」だ。
今回とかサロメみたいな、「中の人に言及した炎上」なんか、目も当てられない。運営も演者も、"中の人"という概念に触れられない以上、実質対応ができなくさせられてしまっている。
あと、Vtuberを推している立場なのに、中の人に触れて意見を述べる人が多すぎる。
なんか、私みたいな「キャラクターと中の人を完全に切り分ける」人の方が異端なのかもしれない。でも、もともとVtuberが意図してるのって私みたいな楽しみ方だと思うのだけど。
もうおわりだ。どうにかしてくれ。