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「石田三成」を含む日記RSS

はてなキーワード:石田三成とは

次の25件>

2025-07-15

ぶっちゃけ西田敏行人生ってこんな感じでしょ?

1169 西田敏行法住寺殿において出家法皇となる。

1180 西田敏行、父と共に源頼朝挙兵に加わり、山木館を襲撃

1205 西田敏行追放された父を継いで鎌倉幕府執権就任する

1561 西田敏行武田信玄啄木鳥戦法を献策するも謙信に見抜かれる

1579 西田敏行大工棟梁として建造を指揮した安土城天守が完成

1584 西田敏行西田敏行小牧長久手の戦いで敗れる

1598 西田敏行死去。遺児は後に西田敏行に滅ぼされる

1600 西田敏行真田昌幸に進軍を阻まれ西田敏行の叱責を受ける

同年 西田敏行石田三成関ヶ原に破る

1603 西田敏行幕府を開き初代将軍になる

1605 西田敏行西田敏行将軍職を譲り、後に駿府城に移る

1612 西田敏行、自らの私財をなげうち道頓堀の開発に着手

1614 西田敏行西田敏行を「関ヶ原には遅すぎ、大坂には早すぎる!たわけうつ間抜けーッ!」と怒鳴り付ける

1632 西田敏行征夷大将軍西田敏行の死により、流罪赦免される

1702 西田敏行女性としては最高位の従一位官位を得る

1703 西田敏行元禄赤穂事件において赤穂浪士によって襲撃を受ける

1716 西田敏行八代将軍になる

1745 西田敏行徳川家重将軍職を譲り、江戸城西の丸に移る

1776 西田敏行長崎で手に入れたエレキテルを修理して復元する

1782 西田敏行、自らが船頭を務める船が難破、ロシア領に漂着

1827 西田敏行柏原宿で大火に遭い家を失う

1860 西田敏行会津藩家老となる

1861 西田敏行愛加那との間に西田敏行を授かる(それをナレーションする西田敏行

1867 西田敏行西田敏行に命じられて江戸薩摩藩邸を本拠として江戸市内を混乱させ、薩摩藩邸焼討事件を起こさせる(それをナレーションする西田敏行

1868 薩摩藩西田敏行らと長州藩西田敏行らが協力し会津藩西田敏行と戦う

(それをナレーションする西田敏行

同年 西田敏行会津藩西田敏行への伝令にかこつけて追放される

1869 西田敏行五稜郭の戦い新政府軍に敗れる

1873 西田敏行日本初の商業銀行となる第一銀行頭取就任

1877 西南の役で、長州閥西田敏行総指揮の官軍西田敏行軍は鎮圧され、城山に追い詰められる(それをナレーションする西田敏行

1883 西田敏行共立学校の初代校長となる

同年 西田敏行、この頃に海運業を始める

1904 西田敏行日銀総裁として日露戦争の戦費を調達する

同年 西田敏行京都市長就任し、父である西田敏行のことを、部下に語りだす

1942 西田敏行日本文学報国会の会長就任

1945 西田敏行フィリピン戦場で誤って兄に撃たれる

1984 西田敏行マッキンリー冬季登頂した直後に遭難し死亡

Permalink |記事への反応(1) | 14:27

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2025-06-22

朝鮮の役、後

豊臣家の滅亡につながった関ヶ原前後の諸大名特に加藤清正黒田長政など)の動きと、それに対する家康戦略的な働きかけを詳しく解説します。

🔷 1. 【加藤清正黒田長政とは】

どちらも「文禄・慶長の役」の主力武将で、秀吉に重用された「豊臣恩顧の武将外様)」です。

武将出身 特徴

加藤清正尾張熊本石田三成と激しく対立朝鮮での実戦派。

黒田長政福岡黒田官兵衛の子家康に接近し、政治嗅覚に優れた動き。

🔶 2. 【彼らの“朝鮮帰還後”の立ち位置

朝鮮遠征の不満

• 清正・長政らは朝鮮で大損害を被る

指揮系統の混乱(特に石田三成の指示)により、前線で混乱

小西行長ら文治派(キリシタン+三成派)との対立が深刻化

これにより、彼らは帰国後、石田三成五奉行に強い不信感と怒りを持っていた。

🔷 3. 【家康の介入:巧妙な「抱き込み」】

家康はこの「内部不和」に目をつけ、以下のように動きました。

加藤清正に対して:

家康は清正と個人的に接近し、「三成に対抗するなら力を貸す」と暗に伝える。

• 清正の熊本築城や領国経営保証

• 清正は「豊臣家を守るために三成を排す」という大義を得て家康に傾斜。

黒田長政に対して:

• 父・官兵衛(如水)も含め、情報網として重用。

• 長政は諸大名に「家康に味方すべし」と外交工作を展開。

関ヶ原では福島正則細川忠興らとともに東軍の中核に。

🔶 4. 【関ヶ原の戦い:彼らの影響力】

武将関ヶ原での役割東軍への影響

加藤清正九州で三成派を牽制西日本西軍勃発を防止

黒田長政美濃にて主力として参戦福島正則と並び主戦力。敵陣突破に貢献

結果、家康は三成包囲網を“秀吉子飼い武将たち”で構築するという皮肉な構図を作り出しました。

🧠家康の「間接支配戦略

家康の狙いは単に勝利することではなく:

1. 豊臣恩顧の武将を自派に取り込む

2. その結果「秀頼=政治的に孤立」させる

3. 秀頼を“家康庇護下の存在”に変える(=政権実質移譲

💣 5. 【その後:大阪の陣へつながる】

黒田家は江戸方として大阪の陣で戦う

• 「豊臣恩顧大名」が次第に家康政権の柱となり、豊臣家が孤立していく

🔚結論

加藤清正黒田長政などの帰国組は、家康にとって「反三成の旗印」かつ「豊臣家を内部から解体する鍵」でした。

家康は彼らを恩と保証で懐柔し、味方に付けることで、政権簒奪を“合法的・段階的”に行ったのです。

Permalink |記事への反応(0) | 15:14

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2025-06-12

anond:20250612121251

秀吉はかねてより、戦国一の美女と謳われたお市の方に憧れており、その面影を最も強く受け継いでいた茶々側室に迎えることになります

これは物語的ですね。当時の史料にこういったことが書かれているわけではありません。

秀吉は鶴松が生まれた際に、淀城を茶々に与え、それから淀殿」と呼ばれるようになりました。

鶴松が生まれたのが淀城であり、懐妊中に淀城に住まいを移していました。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、淀君石田三成らを後押ししたとも言われています

しろ後押ししなかったと言われています

この時、淀君は籠城の方針を強く推し進め、豊臣家の軍事行動指導しました

これは俗説で、淀殿が籠城を主張したという記録はありません。

Permalink |記事への反応(0) | 12:30

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淀君関ヶ原の戦いへの道程石田三成を支持したのはなぜ?

関ヶ原の戦いに至る道筋で、淀君淀殿)が石田三成を明確に支持したという直接的な史料は少ないですが、状況証拠から、**結果的石田三成が率いる西軍に豊臣家が擁立される形になり、淀君もそれを容認せざるを得なかった**という見方が強いです。

詳細としては以下の点が挙げられます

**豊臣家の存続を第一に考えていた**:淀君豊臣秀吉側室であり、秀頼の生母として、豊臣家の安泰を最優先していました。徳川家康が力を増していく中で、豊臣家の立場が危うくなることを懸念していたのは確かです。

**家康との対立**:豊臣秀吉の死後、五大老筆頭である徳川家康権力を強めていく動きは、豊臣家の権威を脅かすものでした。淀君家康の行動に不満を抱いていたとされます

**西軍の「豊臣家擁護」の大義**:石田三成挙兵する際、その大義名分は「豊臣家を守り、家康の専横を止める」というものでした。このため、豊臣家の重臣である毛利輝元などが西軍総大将に担ぎ上げられ、形式上は豊臣家が西軍を支持する形になりました。

**大坂城から支援**:関ヶ原の戦いの際、淀君と秀頼がいる大坂城から西軍に軍資金が与えられたという記録もあります。これは、完全に三成を支持したというよりも、豊臣家の名のもとに西軍が動いていたことを示すものと考えられます

**戦後対応**:関ヶ原の戦い西軍が敗れると、淀君自身と秀頼が西軍に深く関与していなかったことを家康に認めさせ、責任追及を免れました。これは、淀君政治的に非常に慎重で、豊臣家を存続させることを第一に考えていたことを示唆しています

結論として、淀君積極的石田三成の「個人」を支持したというよりも、豊臣家の存続と権威を守るという目的のために、結果として石田三成が率いる西軍の動きを容認支援する形になった、と考えるのが妥当でしょう。

Permalink |記事への反応(0) | 12:21

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豊臣秀吉側室である淀君は、秀吉の死後、御曹司の秀頼を利用して、フィクサーとしてどのように権力をふるったの?

淀君淀殿茶々)は、戦国時代の波乱に満ちた生涯を送った女性であり、豊臣秀吉側室として秀頼を産み、秀吉の死後は豊臣家の実質的後見人として権力を掌握しました。その生涯と権力への関わりについて、詳細に解説します。

###淀君秀吉の馴れ初め

淀君は、織田信長の妹であるお市の方と、北近江戦国大名浅井長政の長女として生まれました。幼名は茶々彼女人生は幼い頃から悲劇に満ちていました。

1. **浅井家の滅亡**: 幼少期に、父・浅井長政織田信長敵対し、小谷城の戦いで滅亡します。父は自害し、兄も処刑され、茶々は母お市と妹たち(初、江)と共に信長保護されます

2. **柴田勝家との再婚、そして死別**: その後、母お市信長の家臣であった柴田勝家再婚しますが、本能寺の変後、秀吉と勝家が対立し、賤ヶ岳の戦いで勝家は敗死。母お市も勝家と共に自害します。

3. **秀吉による保護側室入り**:茶々三姉妹は、母と養父の仇である秀吉保護されることになります秀吉はかねてより、戦国一の美女と謳われたお市の方に憧れており、その面影を最も強く受け継いでいた茶々側室に迎えることになります。具体的な時期は天正16年(1588年)頃とされています

このように、淀君秀吉側室になったのは、自身意思だけでなく、戦乱の中で後ろ盾を失った浅井三姉妹秀吉保護したという経緯があります。親の仇とも言える秀吉側室になるという、非常に複雑な運命を背負うことになります

###淀君秀吉側室だったか

はい淀君豊臣秀吉側室でした。秀吉には正室である北政所(ねね、おね)の他に多くの側室がいましたが、その中でも淀君特別存在でした。その理由は、彼女秀吉の世継ぎとなる鶴松(夭折)と秀頼を産んだ唯一の女性だったからです。

当時の秀吉は、正室北政所との間に子が無く、他の側室も子を授かることがありませんでした。そうした中で、淀君が立て続けに男児を産んだことは、豊臣家にとって非常に大きな出来事であり、淀君地位確立させることになりました。秀吉は鶴松が生まれた際に、淀城を茶々に与え、それから淀殿」と呼ばれるようになりました。

秀吉は、淀君が産んだ子を非常に可愛がり、特に秀頼が生まれた際には溺愛したと言われています。秀頼が秀吉の実子であるか否かについては当時から様々な憶測がありましたが、現在では確たる証拠はなく、秀吉自身後継者として秀頼を深く愛し、育てたことは事実です。

###秀吉の死後、淀君は秀頼を使ってどのように権力黒幕になったか

秀吉が慶長3年(1598年)に亡くなると、淀君は幼い秀頼の生母として、豊臣家における絶大な権力を握ることになります

1. **正室北政所引退淀君地位確立**:秀吉の死後、正室北政所剃髪して高台院と名乗り、大坂城を出て京都に移り住みました。これにより、大坂城には淀君と秀頼が残り、実質的淀君が豊臣家の最高権力者としての地位確立します。

2. **幼い秀頼の後見**: 秀頼はまだ幼く、政治的判断を下すことはできませんでした。そのため、生母である淀君が秀頼の後見役として、豊臣家の政治差配するようになります。諸大名への指示や外交交渉など、豊臣家の重要な決定は淀君意向が強く反映されるようになりました。

3. **対徳川家康方針**:秀吉の死後、五大老筆頭であった徳川家康が台頭し、豊臣政権内の主導権を握ろうとします。淀君は、秀頼の存在を盾に、家康による豊臣家の支配に対抗しようとしました。淀君は、家康の動きに対し、豊臣恩顧の大名たち(石田三成ら文治派)を擁護し、また大坂城の財力を背景に豊臣家の権威を維持しようと努めました。

4. **関ヶ原の戦いとその後**: 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、淀君石田三成らを後押ししたとも言われています。この戦いは家康率いる東軍勝利し、家康事実上の天下人となりますしかし、秀頼の存在は依然として家康にとって脅威であり続けました。淀君は、秀頼を擁して大坂城に籠もり、徳川家康との対決姿勢を強めていきました。

5. **大坂の陣での指導力**:家康は、豊臣家を完全に滅ぼすため、大坂冬の陣、夏の陣を起こします。この時、淀君は籠城の方針を強く推し進め、豊臣家の軍事行動指導しました。しかし、結果的大坂城落城し、淀君は秀頼と共に自害し、豊臣家は滅亡しました。

淀君は、幼い秀頼を守り、亡き秀吉が築いた豊臣家の存続を図るため、政治の表舞台に立ちました。彼女の行動は、豊臣家を守るための母としての愛情と、名門の血を引く女性としてのプライドが入り混じったものであったと言えますしかし、時代徳川家康による天下統一へと大きく傾いており、その流れに逆らうことはできませんでした。結果的に、淀君は「豊臣家を滅ぼした悪女」という負のイメージを背負わされることになりますが、彼女の行動は、豊臣家の命運を背負った女性としての必死努力であったとも評価できます

Permalink |記事への反応(2) | 12:12

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2025-06-01

石田三成まさか秋葉原降臨!?~義の心が干し柿の甘さに染み渡る~


時は令和、空前の和スイーツブームが到来し、抹茶パフェあんみつわらび餅…みんなが日本の伝統の味に舌鼓を打ってた20XX年。そんな中、秋葉原電気街に、マジで異質な雰囲気を醸し出すお方が現れたんだって質素だけど凛とした着物姿で、何かこう、昔の武士みたいな、キリッとしたオーラをまとったお方。「え?コスプレ?何のキャラ?」ってみんなが遠巻きにしながらも、その佇まいにちょっと惹かれてたらしい。

「わたくしは…石田三成と申す。」

え?マジで?あの関ヶ原の戦い徳川家康と激アツバトルを繰り広げた三成様!?って歴史オタクギャルたちがスマホで速攻ググり始めた瞬間、そのストイックなお方、もとい三成様は、キョロキョロしながら呟いた。「ここは…近江ではござらぬか…?」って、マジで時代劇から飛び出てきたみたい!「マジありえん!」ってみんな心の中でツッコミつつも、その真剣眼差しに、何かを感じてたらしい。

そんな三成様に、恐る恐る話しかけたのは、秋葉原に通い詰めるアニメオタクギャル、ミツキ。「あの…大丈夫ですか?何かお困りですか?」「…道に迷ったようでございます。」って、意外と困ってる様子がギャップ萌え!ミツキ、その真面目そうな雰囲気ちょっとシンパシーを感じて、「アタシ、ミツキ!アキバことなら、結構詳しいよ!」って、親切に声をかけたんだって

次の日、ミツキに連れられて、三成様は初めてアキバ散策萌え萌えキュンなメイドカフェとか、フィギュアがずらりと並んだお店とか、マジでカルチャーショック連続!でもね、三成様が一番興味を示したのは、街の片隅にある、ちょっと古風な甘味処看板。「…干し柿…とは、どのような菓子でございますか?」って、マジ真剣眼差し。ミツキ、ちょっと渋いチョイスに驚きつつ、「あ~、干した柿のことだよ!甘くて美味しいんだ!」って教えてあげたんだって

でね、ある日、ミツキが三成様を連れて入った甘味処で、衝撃的な出会いがあったの!それは…干し柿パフェ!「え?干し柿パフェ!?」って、三成様、マジで目を丸くしてたらしい。一口食べてみたら…「な、なんなのだ、この奥深い甘さは!?干し柿の滋味深さと、冷たいアイス調和…まさに、天下を統一するほどの美味でございまする!」って、マジで武将っぽい表現で感動してたらしいよ。

そこから、三成様の干し柿パフェ愛がマジで燃え上がった!毎日色んな甘味処を巡って、干し柿パフェを食べ比べまくってたんだって。「干し柿の種類、アイスの甘さ、トッピングの妙…研究しがいがありすまする!」って、もはや戦略レベル

でね、ある日、三成様、マジで下取りの野望を語り出したの。「わたくし、この干し柿パフェをもって、再び天下を…とは申しませぬが、せめてこの甘味世界で、一旗揚げてみせましょうぞ!」って!

え?干し柿パフェで一旗揚げる?なんか地味だけど、三成様なら何か企んでそう!ってミツキも思ったらしいんだけど、三成様の目はマジだったんだって豊臣秀吉への熱い忠義の心が、令和の干し柿パフェに新たな目標見出したのかもね!

そっから、三成様の干し柿パフェ革命スタート!まずは、SNSで「#石田三成干し柿愛」ってハッシュタグ作って、毎日自作干し柿パフェ画像をアップし始めたんだって。そのストイックな美しさと、三成様の真面目なコメントが、意外とギャップ萌えじわじわバズり始めた!

「三成様の作る干し柿パフェマジで美味しそう!」

戦国武将が作るスイーツとか、絶対こだわり強そう!」

「渋いけど、なんか気になる…」

SNSは三成様の干し柿愛でじわじわ盛り上がり!しかも、三成様、ただ作るだけじゃなくて、全国各地のこだわりの干し柿を探し求めたり、伝統的な製法を学んだり、マジで研究熱心!「天下の干し柿」を目指して、日々試行錯誤を繰り返してたんだって

で、ついに!三成様は、秋葉原一角に、自分プロデュースする干し柿パフェ専門店「ISHIDACAFE - 義 - 」をオープンさせちゃったの!お店の内装も、質素だけど落ち着いた和の雰囲気で、三成様のストイック美学が感じられる空間店員さんも、ちょっと古風な作務衣みたいな制服着てて、マジ渋い!

オープン初日から、意外にも若い女性を中心に、行列ができ始めた!「SNS話題干し柿パフェ、マジ気になる!」「三成様って、なんかかっこいい!」って、新しいファンが続々!でね、一口食べたら、みんなその上品な甘さと、奥深い味わいにハマっちゃうらしい。「え、何これ?ただの干し柿パフェじゃない!」「三成様の義の心が詰まってる気がする!」「甘すぎなくて、マジで大人な味!」って、口コミが広がりまくって、ISHIDACAFE - 義 - はあっという間に人気店になっちゃったの!

しかもね、三成様、ただお店やってるだけじゃないんだよ!全国の干し柿農家さんと協力して、新しい品種の開発に取り組んだり、干し柿を使った斬新なスイーツを考案したり、マジで干し柿業界を盛り上げようと奮闘してるんだって

テレビ雑誌取材殺到!「令和の石田三成」「干し柿界のカリスマ」とか呼ばれて、マジで時の人!三成様のストイックな魅力と、干し柿パフェの意外な組み合わせが、新たなブームを巻き起こしたんだね!

でさ、最終的にどうなったかって?もちろん!三成様の干し柿パフェは、全国の和スイーツ好きに愛される定番メニューになったんだってデパート物産展とか、お取り寄せスイーツとか、どこに行ってもISHIDACAFE - 義 - の干し柿パフェ!まさに、干し柿パフェスイーツ界に一石を投じた!マジですごすぎ!

あの時、アキバの街で静かに佇んでいた孤高の武将が、令和の時代干し柿パフェで新たな道を切り開くなんて、マジで誰も想像してなかったよね!まさに、義の心が甘い革命を起こした瞬間!

ミツキも、「まさか三成様が本当に干し柿パフェでこんなに有名になるなんて!アタシも、もっと日本の歴史勉強しよ!」って、ちょっと感動してたらしいよ。

三成様は今も、より高みを目指して、新しい干し柿パフェの開発に余念がないらしい。「わたくしの干し柿道に、終わりはございませぬ!」って、マジでストイック

こうして、石田三成は、令和の日本で、干し柿パフェという新たな武器を手に入れ、見事、和スイーツ界で確固たる地位を築いた!天下統一…とは違うかもしれないけど、その志は、きっと多くの人々の心に響いたはず!めでたしめでたし…ってことで、マジで渋くて熱い物語完全燃焼したわ!干し柿、マジ卍!

Permalink |記事への反応(0) | 10:13

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2025-04-24

anond:20250423180943

ごめん途中で面倒になった

・旧Twitterの「パロディアカウント」って何?

石田三成とかノストラダムスとかネタ他人になりきったり、遊び用のアカウントのこと

セブンイレブンはなんでまたドーナツ販売し始めたんだろう

客数の伸びは一時的だが費用対効果メリットありと判断たか

風水を信じる根拠が分からない

自分で決められないやつがああいうのを決める指標にしてるだけ

・俺が30過ぎても童貞理由

自分解決しないか

庵野秀明活動量が多い秘訣

嫁が才能を犠牲にしてメンテしてるから

本人もそれを自覚してるからサボれない

ヨドバシはなぜ全品送料無料にできるのか

コストを全体管理してるから

アメリカ国民トランプを支持する理由

底辺向けに最適化たか

Permalink |記事への反応(0) | 09:29

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2025-03-26

anond:20230720223840

元ネタ戦国時代からなぁ

岩倉美津未と志摩聡介のモチーフは、司馬遼太郎関ヶ原』の石田三成島左近

https://realsound.jp/movie/2023/04/post-1311555.html

Permalink |記事への反応(0) | 08:00

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2025-02-24

一時は権勢を誇ったけど最後は落ちぶれて道端でぼろ雑巾みたいになった例を教えて

AIの回答はなんか違うんだよなあ。

最後ホームレスみたいにいつ死んだかわからんみたいな例がいいんだけど。

はい、権勢を誇った後に悲惨な末路を辿った人物歴史上数多く存在します。以下に数名の例を挙げます

古代ローマガイウスグラックス

* 兄のティベリウスグラックスと共に農地改革を推進し、民衆から絶大な支持を得ました。

*しかし、貴族との対立が激化し、最後は逃亡中に殺害され、遺体はテベレ川に投げ込まれました。

戦国時代石田三成

*豊臣秀吉の側近として活躍し、五奉行の一人として権勢を誇りました。

*秀吉の死後、徳川家康との対立を深め、関ヶ原の戦いで敗北。

* 捕らえられた後、京都斬首され、その首は晒されました。

フランス革命マクシミリアン・ロベスピエール

*フランス革命において、ジャコバン派指導者として恐怖政治を主導しました。

*しかし、次第に独裁色を強め、反対派を次々と粛清した結果、自身孤立

*最後テルミドールのクーデター逮捕され、ギロチン処刑されました。

現代サダム・フセイン

*イラク大統領として長年独裁体制を敷き、湾岸戦争イラク戦争を引き起こしました。

*アメリカ軍によるイラク戦争で政権崩壊させられ、逃亡生活の末に逮捕されました。

*イラク特別法廷で人道に対する罪などで死刑判決を受け、絞首刑に処されました。

これらの人物は、いずれも一時は権力を握り、歴史に名を残しましたが、最後は失脚し、悲惨な末路を辿りました。彼らの生涯は、権力の儚さや、歴史残酷さを物語っています

Permalink |記事への反応(1) | 14:29

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2025-01-08

anond:20250107190539

明智光秀

信長天下統一を阻んだ裏切りクソ野郎カス織田家中で最優秀の鉄砲部隊を率いた名将。裏切りは諸説あるがやむにやまれぬ感じに。世間の印象がやんわり変わってきた中での大河パワーはすごい。

石田三成

秀吉の依怙贔屓で偉くなっただけの小役人で家康に逆らって関ケ原合戦引き起こした奴→豊臣家への忠義を貫いた清廉潔白な忠臣。戦は弱い。

Permalink |記事への反応(1) | 09:00

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2024-11-03

石田三成明智光秀混同やす理由

まあどっちもファーストネームに「みつ」って言葉入ることと

フルネーム文字数が3+4の7文字

って感じの名前混同ってことなんだろうけれど、

どっちも同じく後に天下人になる人間と堂々と戦で渡り合って、それもたった一日で決着がついたという共通点があるな。

Permalink |記事への反応(0) | 17:48

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関ヶ原の合戦って西軍が勝ってたらどうなってたんだろ?

やっぱ仮にも西軍大将になってたんだから毛利幕府とかが出来てたんか?

それともそんな馬鹿なことは石田三成が許さんくて、

戦後ガッチリ自分権力を握りしめ、

やがて石田家が豊臣家の執権権力者代行みたいな役割をやるうちに、

主家を凌ぐ勢いを得るようになるとか?

でもあれだね。

関ヶ原東軍が負けてても、徳川家は主力が合戦場に到着して無くて無傷だからまだまだ一波乱起こせるんだよな。

うまい具合に戦力を温存してるし家康が討ち死にしてた場合でも徳川家が残る目はまだある。

ちゅうことは、やっぱ徳川秀忠合戦遅刻したのって家康の密命だったんかね?

Permalink |記事への反応(1) | 17:39

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2024-10-29

地獄の沙汰も金次第

法事高野山へ行った

法要が済んだ後、空海が祀られている奥之院へお参りに行った

奥の院入口までは寺の坊さんが車で送ってくれた

そこからは砂利や土の参道を徒歩でしか行けない

車を降り、参道を歩きき始めるとまず目につくのは錚々たる企業墓所である

さら参道を奥へ進むと、今度は錚々たる戦国武将たちの墓所や供養塔が現れる

武田信玄上杉謙信織田信長石田三成明智光秀豊臣秀吉伊達政宗前田利家松平秀康...

不謹慎かもしれないが、冒頭の言葉が心の中をよぎった

Permalink |記事への反応(0) | 18:41

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2024-09-26

anond:20240926132229

見たけど、途中まで。

徳川家康(虎永)と石田三成

以外誰が誰だか分からなかった

Permalink |記事への反応(0) | 13:28

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2024-08-24

アニメ石田三成物語

第一話「お茶は温めの感がいい!?

Permalink |記事への反応(0) | 18:38

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2024-06-30

anond:20240630224741

石田三成って女子(オタク女子?)は好きじゃん

あと真田幸村とか新選組とか負け側だけど一本芯が通ってるみたいなの人気あるじゃん

やっぱ男なのに女性感性持ってるってところが女性から見ると

友達にはなっても性的対象になり得ない感じなのかね

Permalink |記事への反応(0) | 23:02

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2024-06-25

anond:20240624142257

みつみのモデル石田三成司馬遼太郎キャラとしての) だからそこはね

Permalink |記事への反応(0) | 04:17

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2024-06-15

石田三成が何度やり直し人生しても必ず関ヶ原家康に敗れる話、が読みたい

どこに落ちてますか?

Permalink |記事への反応(1) | 10:48

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2024-05-05

関ヶ原町について

石田三成陣地跡に初めて行ったときの感動は本当に言葉に出来ないんだよね。笹尾山から関ヶ原盆地一帯を見下ろせる。高い建物はないから遮るものは無い。三成と同じ景色を見ているのだという高揚感。西軍の指揮を執る場所だということが、自分知識現実合致する感覚。本当関ヶ原町はたまらんのよ。

Permalink |記事への反応(1) | 22:09

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2024-02-08

anond:20240208083652

豊臣の四奉行石田三成増田長盛長束正家前田玄以)は当然として、

本多正純とか浅野長政とかの奉行職、たとえば宮部継潤、富田一白、佐々行政、寺西正勝、毛利吉成堀田一継、石田正澄、片桐貞隆、石川光元、山中長俊、木下延重あたりはプレゼンがうまくなければ奉行にはなれない。

武将としては主に戦略会議の点で池田輝政福島正則黒田孝高藤堂高虎、このあたりの有名どころは全部うまかっただろうよ。

Permalink |記事への反応(1) | 11:50

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2023-11-14

歳の左近

我は嶋左近。先日、石田三成仕官として招かれたものの、三成のような年下で戦歴のないガキの相手をしてもしょうがないので断った次第である。何故我のような歴戦の勇者が歳の離れた領主仕官せねばならぬのか。いいかげん諦めぬか三成と思っていたがこの青二才、何度断っても仕官の話を諦めようとしない。こういう時は無理難題を吹っ掛けるのが定石だ。三成よ、そなたの石高の半分、二万石で仕えてやろうではないか。「左近よ、それで良い」三成は即答し左近はその心意気に答え三成に仕えることになった。という逸話(諸説あり)を思い出した。

Permalink |記事への反応(3) | 17:12

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2023-11-13

関ヶ原の戦いって毛利輝元も調略されてたんだな

石田三成完全にピエロじゃん、可哀想

Permalink |記事への反応(1) | 23:07

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2023-10-24

小早川Ch【神回】いくさ中にいきなり石田三成裏切ってみたwwwww【ドッキリ】

2年後にはチャンネル主が病死し、チャンネルは閉鎖された

Permalink |記事への反応(0) | 15:50

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2023-10-17

anond:20231017112350

あれは毎年関ケ原の時期に「今年は西軍勝利」って騒ぐ石田三成のようなもんだと思ってたんだけど、もしかしてガチノーベル賞狙ってたの??

Permalink |記事への反応(0) | 11:25

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2023-10-10

最近(?)の石田三成関ヶ原の戦い周りの説



こういうのを読むと何となく石田三成忠義の人というより、超可哀想中間管理職って感じがする

もし家康が重家を大阪に送らず自分の手元に置いていたら東軍についてたifもあったりしたのかな

上の説もどこまで本当がわからないけど

ただ、どうする家康はこのルートで行きそうな気がしなくもない

どうする家康の三成は秀吉のこと慕ってはいるけど、違うかもって感じてそうだし

Permalink |記事への反応(2) | 13:08

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