
はてなキーワード:知識とは
ひろゆきさんがJavaScriptをJavaって呼んだり、「PythonやるならJavaScript必須ですw」と言って知識が20年止まってる切り抜き動画あったけど、
あれわざとツッコミどころ満載なことを言ってプチ炎上させてる可能性がワンチャンスあるな
ほどほどの距離に生活に必要な店は揃っているので、車がないと生きていけないということはない。
さりとて、都心のように商業施設が犇めいているというわけでもなく、駅前の店が固まっているエリアには歩いても行けなくはないが自転車があった方がやはり便利だ。
小さい頃に親から自転車の乗り方を習い、子供だけで出掛けられる年になってからは友達皆で自転車に乗って遊びに行き、駅から離れた住宅街に住んでいたので高校生になって電車通学になってからも駅までは自転車で通っていた。
だから子供の頃、俺は自転車に乗らない生活というモノがイメージできなかった。
高校で自転車に乗れないという言う女子に初めて会った時はカルチャーショックを受けた。率直に言えば、コイツは今までどうやって生きてきたんだと思った。
また、高校生になってインターネットに触れるようになって、どうも所謂ネット民的な層の間で自転車はバカにして良いモノ枠みたいになっていることを知って、衝撃を受けた。
そして俺は、コイツ等はおそらく都心の一等地に住んでいるハイパー金持ち……はネットの掃き溜めにはほぼいないハズなので、ド田舎者か、引きこもりなのだろうと考えるようになった。
流石に高校生くらいの歳になると、それまでの人生で、お出かけで都心に行ったり、家族旅行や学校行事で田舎の方に行ったりで、自転車では暮らし難い土地があるということは知識としては知っていた。
大人になって自分の知る世界が広がっていくと、むしろここまで自転車暮らしに特化していた自分の方がレアケースなのではないかということに気付くようになった。
まず、車がなくても生活で困らないのは都市部に限るということを知った。
また、駅チカに住んでいる人はそこまで高頻度で自転車に乗らないらしい。
俺自身、実家を出て、まだ自転車生活圏内だが、それでも実家に比べると都心寄り・駅チカに住むようになって、比例するように自転車に乗る頻度は減った。
一時期、メンタルを壊して、療養で1ヶ月くらい実家に帰っていた時があったのだが、その時は一人暮らしの家に自転車を置いてきていたので、実家に自転車がない状態だったが、それでも意外と生きていけることを知った。
車社会の田舎でも、駐輪場もろくにない都心でも生きていける気がしない。
https://x.com/mgram1030/status/2020771097659245050
サークル側がいくら表記や年齢確認頑張っても親が子に渡してしまうような事をされるとこちらも防ぎようがありません。
この話さあ、眉唾じゃね?
だって何年か前にも同じような話がSNSで出てた覚えあんだけど、そんなに頻繁に起こるようなことなのか?
親がエロ同人を代理購入して、未成年の子供に目の前で渡すなんて、そんな何度も起こるようなことかよ。
なんつーか、「アテクシは規律を重んじる人間でございますザマス」ってアピールしたいがための、女オタク特有の自己顕示欲の発露でこういう嘘話こしらえてるようにしか思えねえんだけど。
ていうか、人を見た目で判断するなよ。
その親らしき男がエロ同人を渡した「子供らしき女」が、本当に未成年なのかどうかちゃんと確認取ったのか?
小人病の成人女性が買いに行きづらいから、代わりにパートナーの男性に買ってきてもらったって可能性も、なきにしもあらずじゃないのか?
俺はスーパーでアルバイトしてた頃、くる病(いわゆるせむし)のおっちゃん上司と働いてたんだけど、遠くから見るとそのおっちゃん、一瞬子供と見間違えるような風貌だったんだよね。
それを見て「人を見た目で判断しちゃいけないな」と思ったんよ。
それと即売会で「私は18歳までちゃんと我慢して、今日ようやく来れました」っていうクソ美談もよく聞くけどさ、それも絶対嘘だろ。
んなわけねーだろ。そんな奴いるわけねえよ。絶対こっそり18禁を摂取しながら生きてきたに決まってんだろ。仮に本当にそんなこと言う奴が目の前に現れたとしても、そいつは絶対嘘つきだ。天が認めても俺は認めねえよ。
こういう女オタクって、自分たちだって未成年の頃から隠れて18禁表現に触れてきたに決まってんのに、どうして18歳未満なのがバレた相手には、そこまで過剰に追い込んで攻撃できるんだろうね。
肌感覚として、18歳まで18禁に一切触れずに我慢できてた人間が(そんな奴が実在したらの前提だけど)、18禁のエロ漫画を執筆できるとはどうしても思えないんだよな。
男だろうが女だろうが、18禁漫画描いてる時点で、そいつは絶対どこかで18歳未満から触れてないと描けないと本気で思うよ。リビドーってそういうもんだろ。
それを棚に上げて、他人の18禁破りをよくもまあ咎められるなと思うよ。特に女。
男だったら、未成年の18禁破りが発覚しても注意くらいはするだろうけど、それだけで過剰に追い詰めたりはしないだろうよ。自分だって後ろめたいものがあるんだから。
だけど女オタクは自分のことを棚に上げて、徒党を組んでスクラム組んで、対象の特徴を周囲に吹聴してネットリンチにかけ、袋叩きにするんだよな。異常すぎるよ。
それは「成人」のやる事なのか?
「この親子の特徴はこうです!買いに来たら注意!」って、もしその特徴とやらが人違いだったらどうすんの?
まさかとは思うけど、顔写真とか撮ってバラまいてたりしないよね? それ、盗撮だよ?
件の親子が実在しない事を本気で祈るよ。
これはミソジニーだと思われても構わないんだけど、やっぱ女オタクって男のそれと比べても異常性が際立ってると思うよ。因習の中で生きてるっつーか。
男オタクにも異常者はいるけど、女オタクの異常性はそれを大きく凌駕すると思うね。
『ユーリ!!!』界隈で実際にあった話だけど、公式に迷惑な凸をしてる異常な女オタクを、良識的なファンが注意したら、その矛先が注意した相手に向かっちゃってさ。
数千件近い中傷を繰り返し、結果数年がかりの裁判沙汰になって被告側は敗訴。賠償請求を受けたのに、それでも中傷をやめずに追徴金を負わされてまで、最後の最後まで謝罪しなかった恐ろしい話があるんだよ(それどころか公判中、被告側から原告側に謝罪を要求するなどの奇行をしていた。賠償金は家族が代わりに支払ったらしい)。
過度に罪悪感を与えて、性的なものに対するスティグマを植え付けるような追い詰め方には、俺は反対だね。
俺個人の意見だけど、未成年が18禁コンテンツに触れること自体が悪いとは思わない。ただ、未成年が18禁に触れてるのが「バレる」のは悪いと思うね。
だって普通、隠れてこっそりやってりゃバレねえもんなんだよ。じゃあなんでバレるかって言ったら、自分からバラしてるからなんだよ。ガキが馬鹿だからバラすんだよ……。
ヤンキースピリットっていうか、「18歳じゃないのにエロ本持ってんぜーw」って誇示したがっちゃうんだよ、ガキは。それに関してはガキが悪いと思う。俺だって思い返せば人のこと言えないし。
だから親を利用して18禁同人を入手しようとしたその子供(実在したらの前提だけど)は、詰めが甘いし浅はかだから非難されても仕方ねえけど、でもガキが18禁に触れようとするマインド自体までは否定したくないんだよね。
でもね、大人がそういう時「成人まで我慢しようね」って言うだけで、それ以上のケアはろくにしないでしょ。
真剣に、未成年の子供でもそういう欲求を満たすための「別角度からのアプローチ」を、マジで誰も提示しようとしない。言うだけ言ったらあとは放置。それは大人の欺瞞だと思うよ。
要は、18歳未満のガキの身の丈に合ったエロ表現の供給に、ちゃんと向き合ってやれってことですよ。
18禁ポルノを欲しがる未成年に対して「成人するまで我慢」と紋切り型に言うだけで、それ以外のケアを一切行わないのは、大人としていささか無責任じゃないか?
俺だったらもっと子供の目線に合わせて、「今は18禁じゃなくても十分エロい全年齢作品は溢れてるから、お前の年齢ならそっちで十分実用に耐えうるぞ。とりあえず今なら週マガのエロコメ枠がめちゃ熱いぞ」って言って、『よわよわ先生』あたりを勧めてやるくらいの思いやりを持っておきたいがな。
(注:週刊ジャンプは性嫌悪型の女性読者が幅を利かせたせいで、エロコメ枠がなくなって久しいが、最近は徐々に揺り戻しが起こってる様子)
「トンカツ慕情」じゃないけど、「身の丈に合ったエロってもんがあらあな」ってこと。
思い返せば、性的なものに目覚めたガキの頃って、18禁のガチなセックス表現に興奮できてたか? って話よ。
俺は無理だった。精通して女の裸やエロいものに興味を持ち始めた頃でも、ストレートなセックス表現(実写・二次元問わず)を受け止められるマインドなんて持ち合わせてなかった。
だいたい、精通も来てないようなガキがエロ本やAVを見て、純粋な性的興奮を覚えるとは考えづらいんだよね。
じゃあなんでガキがAVを見たがるかっていうと、ガキは「気持ち悪いもの」に興味を持っちゃうからなんだよ。
ガキの心にとってセックスの映像や写真ってのは、道路で轢かれたヒキガエルの死骸を見に行くようなもんなんだよ。
そんな気持ち悪いもの、一人で見るわけがない。だからグループで見る。一人じゃ見てらんないから。
こっそり親や兄貴が隠してたAVを見る小学生グループは、口では「うひょー」とか言いながら、内心は(気持ち悪い……)って思ってるはず。
でもビビったらヘタレだと思われるから、みんなそれを隠して興奮してるフリをすんだよね。
映画『スタンド・バイ・ミー』はガキ共が死体を見に行く話だったけど、あの死体って要はポルノの隠喩でしょ?「線路の向こうにエロ本あるから見に行こうぜ」ってことでしょ。でもそれじゃ身も蓋もないから、ポルノを「死体」に置き換えてる。スティーブン・キングは絶対そう考えてるって。
漫画『行け!稲中卓球部』で、前野と井沢が裏ビデオで無修正の女性器を目撃して、あまりのグロさにショックを受ける回があったじゃん。あれは実はものすごくリアリティのある描写なんだよ。本当に小中学生マインドだと、女性器って気持ち悪いもん。
俺自身もオナニーを覚えた頃は、セックスの映像や描写で抜ける気がしなかった。気持ち悪くて。
精通後、オナニー覚えたての小学生の頃に最も使ったオカズは、『突撃!パッパラ隊』にたまにある温泉回とかの、少年誌的なちょいエロ描写だった。
ハタチ越えるまで、パンチラや裸に興奮できても、セックスの映像や絵で興奮するという感覚が理解できなかったんだよね。
でも時間が経つにつれて、そういうものも理解できるようになって、気がついたらガチガチのハードプレイで抜けるようになってた。
子供の性的な要望が本当に「性的な感情」によるものなのか、それとも別の何かなのか。みんな「性」に結びつけすぎてやしないか一旦考えてほしい。
それでもなお本当に性的な由来によるものなら、性的感情を排斥するんじゃなく、まずは全年齢でも読める「身の丈に合ったエロ」を与えて、黙ってオナニーさせておいてやれよって思う。
ガキがエロ本やポルノ映像を公に見せびらかしてイキってたら、大人はちゃんとカミナリを落としてやったほうがいい。でも隠れてこっそり堪能してる分には、こちらは無闇に詮索するべきじゃないし、法令遵守よりも子供のプライバシーを優先したほうが予後はいいと思うよ。ましてや親の権限で家宅捜索なんかしちゃあかん。
仮に何かの拍子で、子供がエロ本やエロ映像を隠し持ってるのを見つけてしまっても、生育状況によっては、あえて見過ごしてやるのも大人の取るべき対応ってもんだろ。
最後に。
こういう話をすると「未成年にR18を売ったら作者が逮捕されるの!だから強く言うしかないの!」という誤解について、有識者が説明してくれている。
https://x.com/kimirito/status/2021033140538704148
稀見理都@kimirito
三崎さんが先に言ってくれたw
補足すると、東京都の条例では「何人も、青少年に表示図書類を閲覧させ、又は観覧させないように努めなければならない。」という条項があります。
表示図書とは、R18表示の図書を示します。違反配布者は必要に応じて都から勧告や措置を課す、とありますが捕まることはないです。また、勧告や措置に関しても過去そのような例は一度もないですね。配布後の責任まで問われることもないです。
他の都道府県においてもほぼ同じような条例がありますので、それぞれ確認を!
https://x.com/nmisaki/status/2021026307417805061
三崎尚人@nmisaki
刑法175条が関わるワイセツとは違い、R18は自主規制です。売る側が逮捕されることなどありませんし、正しく売った先で何が起きてもサークルの責任にはなりません。18歳未満か判断がつきにくい場合には身分証等で年齢確認を行えばいいものです。お子様には過剰な話ではなく正しい情報を。
https://x.com/koge_dobo/status/2020812793386090528
こげどんぼ*🦹♀️🥋💜2/22コミティア_し43a@koge_dobo
うちの子供もまんまとオタクになって最近同人誌買いはじめたけど「年齢制限ものは、お前が良くてもサークルが逮捕されるから、絶対近づくなよ。迷惑。」と言ってある。
割と聞いてくれる。
三崎尚人氏や稀見理都氏がちゃんと説明してくれているのにも関わらず、引用リプで「子供の躾のためにはこれくらいの嘘は必要なの!」と逆ギレしてるアカウントが多くてゲンナリした。
「正しい知識を教えましょう」という至極真っ当な意見に対して、「嘘を教えたほうがいい」なんて、教育をナメてるんじゃないのか。
よしんば子供にそういう呪いをかけるなら、ちゃんと「解呪」もセットで考えてるんだろうね?まさか「逮捕される」と勘違いさせたまま、成人させて世に送り出すの?
成人した段階で「実はあなたのためを思って嘘を教えていたのよ」なんて言われても、子が納得するとは思えないけどね。
それと、偉大なる『デ・ジ・キャラット』の生みの親であり、オタクの星であるこげどんぼ先生に言うのも気が引けるけど、子供をダシにして「うちは適切に躾けられている」とアピールするのは、やめたほうがいいよ。規制派フェミの「はなびら葵」も同じことやってたけど、見てられんかった。
「割と聞いてくれる」なんて主張してるけど、たぶん子供は、表向きは言うことを聞いていても、隠れてこっそりアクセスしたりすると思うよ。
新しい中学受験シーズンが始まるところなので、過年度の入試の終了者の個人的雑感。
・もし中学受験をすることにするなら、模試(クイズ大会)の偏差値で子供がランク付けされ、無意識に煽られて志望校への進学を熱望し、多くの子供が不合格と言う形で、自分の努力を否定される経験をすることになる。その経験を12歳の子供にさせる意味があるかは考えた方がいい。一旦中学受験準備を始めると、子どもの時間を費やした後で中途撤退を判断するのは、相当に難しい。
・受験の伴走本や、塾選びのサイトがあるが、ああいう表面的な知識に惹かれる親なら、すでに不利な状況。子どもが自走できる場合を除き、中学受験は子どもに合わせた実効的な対策を立てられる受験スキルが親に求められる競争でもある。子供に合わせた対策を立てるのは、受験(クイズ大会)が得意な親でないと難しい。そういう親にはノウハウ本は不要(本の内容が自明か、的外れ)。
・本当に受験が得意な人が塾の先生になるとは限らないので、塾にお任せでうまくいくとは限らない。塾のアドバイスは結構表面的で実効性がないことも多々ある。また、宿題が多すぎることも多い。後者の場合、親(か、実力のある個別指導の先生)が、宿題を取捨選択する必要がでてくる。実力のある個別指導の先生を事前に見分けてお願いすることも結構難しい。
・(個人的印象に過ぎないが)東京都は財政に余裕があるので、公立中は荒れていなければ、そんなに悪くない印象。都立高は楽しそう。(一方、他の首都圏の自治体の事情は不明。東京都より財政力は大きく落ちる。その場合、(都内を含む)私立中高一貫校の方がいいということはあるかもしれない。)
・高校受験は都立入試が単願制なので、それはそれで大変厳しい。また、公立中の教員が付ける内申点がフェアである保証がないという問題もある。(普段の授業での観察から、内申点をきちんとつけるには、教師に高い能力が必要だが、皆が同じ能力を持つわけではない。)その意味では、中学受験の方が楽。
・勉強が得意な子で、小学校で話が合う友達が少ない、あるいは孤立気味なら、中学受験するといい。
・親が偏差値に囚われない自信があるなら、素晴らしい私立中高一貫校は多い。(生徒がその環境を活かせるかは別の話。学校そっちのけで友達と遊んでしまうのが普通。)ただ、偏差値の魔力は強い。
・中学受験をすることに決めたなら、演習問題、模試、過去問で間違えた問題の解き直しがとても重要。模試の結果が返ってきたら、正答率が一定数(50%とか)以上の問題で間違えた問題を、すべて正答したと仮定して、点数を足し合わせて子どものその模試での偏差値がどれだけ上がるか見ると、難しい問題ができなくても、基本問題を抑えれられば偏差値が結構大きく上がることが分かって、子供のやる気が出るのでおすすめ。
あります。
また、
箴言 26:4–5
え?どっち?となりますね。
タルムード(シャバット30b ほか)はまさにこの矛盾を議論します。
答えは「状況による」ということです。
愚者は単に頭が悪い人ではありません。頑なで、聞く気がない人のことです。
ラビたちは言います。「叱責が届かない者を叱ると、あなたが消耗するだけだ。」
ではなぜ「答えよ」とも書いてある?
それは、相手が周囲を誤導しているとき、または沈黙が真理の敗北になるとき、この場合は答える。
つまり基準は、相手のためか?それとも聞いている第三者のためか?
現代では、議論する価値がある人と時間を奪うだけの人の区別が重要です。
しかしタルムードは「アピコロス(破壊的嘲笑者)」とは議論するなとも言います。
なぜなら議論は「真理を求める場」であって、「自己顕示の舞台」ではないからです。
分断への助言は、
どう見分けるか?
「その人は学ぶ用意があるか?」
もしゼロなら、去る。もし1%でもあるなら、種をまく。
例によって「全話無料」と言いつつカタにはめてこようとするむかつくアレだったので
(途中からログイン要求したり待てば無料とか言い出したりするあれ印象悪いよな)
本当に無料で読める半分ぐらいまでを読んだ。
『血と灰の女王』だと思う。
ただ『血と灰の女王』に比べると
バトルの知能も熱さもギャグとの切り替えも
全部少しずつ落ちる気がする
宇宙怪獣の解体や再利用の設定とかも(もう随分先達がある分野なのに)
食い足りねーって感じで、見てて面白いほどのサービスになってない微妙さ。
全部にすこしずつ興味が薄いという感じ。
トップ2の最高のシーンのひとつを何の積み重ねもなく初回に使うの
むしろリスペクトのなさ、「深いところで舐めとるな」って感じしかしない。
は?こんなのでノノのネタをやるとか殺すぞ?
ただこんなにギャグっぽくやらなくてもよかった気がするが。
そしてなんでこいつがこんなに強いのかいまだにさっぱりわからない。
何の説明もないため。
この世界の強さのルールが宇宙怪獣のスペック以外に説明されない。
宇宙怪獣のデザインにとにかく迫力が無くて怪獣8号よりなお悪い。
この宇宙怪獣使い勝負になっていくのは「明日のエサキミだから」みたいだが
(というか若杉はやっぱり漫画が上手い)
脇役もきりっとしない。
ユキオに魅力や個性や秘密がないのに他に個性強い脇キャラがいない。
蒼がいいキャラなのに引っ込めて出てこなくなりもう一人とちんたらやる。
そのもう一人の名前が書くことも読むこともしにくい字なのは作者の素人臭さと思う。
逆に言うとここまで本当に誰もいなかったということ。
そこも他と浮いてて忍者と極道(もしくは河部真道?)かなんかみたいだった。
これがアニメ化するのはビッコミとしていっちょ勝負に撃って出たいのだと思うが
相当うまく再構成しないとはかばかしい成果は得られないと思う、
ただ逆に言えばこの粗さや薄さは
個人的に蒼が好きだけど主人公が蒼とコミュニケーション深めるシーンも少なかったりする
期待できるのか出来ないのかわかんね。
アニメのこと詳しくないけど
この監督は俺の大好きなダンスダンスダンスールを踊りに興味なさそーなアニメにしやがったのでそこは恨んでる。
踊りに興味ない人が作画監督やってねーか?って思ったしそういう座組する人どうなの?っていう。
現実世界は、書かれたことに加えて、様々な前提知識を使って意見を交換するんだよ
だから「書かれていないことを読み取った」のではなく、「何らかの知識から導出した」ということが多いわけ
これを理解してない者が、「俺の書いたことをちゃんと読み取っていない」などとレベルの低い話をし始める
もう50歳も過ぎたいい大人なのだけど、これまでの人生でちゃんとした革靴を買ったことがない。
ちゃんとしたと言うのは、靴底まで革で出来たようなもの。知識が無いのでバカっぽい説明だけど。
これまでは、とりあえずスーツに合う靴であればいいと考えていたので、その辺の靴屋やイオンでゴム底の安いビジネスシューズばかり買ってきた。値段もせいぜい1万円もしないようなものを5年くらいで履きつぶして、また買ってという繰り返し。
しかし、人生で一度くらい本格的な革靴を買ってもいいんじゃないかな、と思い立った。
とはいえ、今の会社は最近ビジネスカジュアルOKとなったので、一年中ノーネクタイでスーツも着ないし(もちろん必要な時もあるけど)、別に革靴でなくても問題無い。また、あと十年かそこらで定年になるので、長持ちする革靴を買ってももったいないだけかとも思う。定年後はビジネスシューズを履くこともないだろうし。子どもの結婚式とかがあったら履くこともあるか…生きていれば。
そんな私にどうせ買うならこんな靴がいいんじゃないかとかお勧めを教えてください。また、それくらいしか履かないのなら、もったいないから買わない方がいいというご意見でも結構です。皆さんのご意見をお聞かせください。
政府が「サプライチェーン強靭化」だの「経済安全保障」だのと称して市場に手を突っ込むのは、情報の分散性という資本主義の根幹を理解していない者が、価格メカニズムの神経系をハサミで切り刻む自己放尿に等しい。
政府が何かを守ると言い出した瞬間、それは必ず誰かの自由な選択を破壊し、価格シグナルを歪め、資源配分を政治的配給へ転落させる。
サプライチェーンとは本来、利潤動機と競争圧力により、コスト・品質・納期の制約下で最適化され続ける進化的システムであり、そこに官僚の机上の「望ましい産業地図」を持ち込むのは、動的効率性を犠牲にして静的な幻想を買うだけの政策自慰、つまり政府の自己放尿である。
中国との貿易を規制する?笑わせるな。貿易とは相互利益の交換であり、比較優位は道徳でも思想でもなく、ただの計算可能な現実だ。
中国が安く作れるものを中国から買い、こちらが相対的に強い分野に資本と労働を移す、そのプロセスこそが総余剰を最大化し、実質所得を引き上げ、消費者厚生を増大させる。
関税や輸出規制や補助金でこれを遮断するのは、消費者に対する隠れ増税であり、国内企業に対するモラルハザード供与であり、官僚機構に対するレントシーキングの自己放尿だ。
要するに、保護主義、産業政策、経済安保のトリプル放尿である。
しかもこの手の介入は、ルーカス批判の通り、民間の期待形成を変え、企業は政治リスクを織り込み、投資は歪み、ロビイングが利潤最大化の中心戦略になり、資本主義は市場競争から政治闘争へ堕落する。
政府が国益を掲げて市場を殴るほど、企業は技術ではなく補助金獲得能力で勝負し始める。
これがいわゆる政府失敗であり、規制の捕捉であり、官僚的計画経済への漸進的スライドだ。
国内生産回帰も同様に欺瞞である。サプライチェーンを国内に閉じ込めれば安全になるという発想は、分散の概念を逆さに理解している。
リスク分散とは供給源を多様化し、取引先を競争させ、価格と品質の淘汰を働かせることで実現されるのであって、国内に固定することは単なる集中リスクであり、コスト上昇と供給硬直化を招く。
さらに補助金で国内生産を誘導すれば、企業は効率ではなく政治意向に適応する。つまり、競争ではなく配給の世界だ。
ここで政府は戦略物資などという曖昧な言葉を振り回し始めるが、曖昧さは裁量の母であり、裁量は腐敗の父である。
結局、政治家は票田に資源を流し、官僚は天下り先に規制を設計し、企業は既得権を守るために市場参入障壁を要求する。
これが公共選択論の結論であり、理想の政府など最初から存在しない。政府が善意で動くという前提は、経済学的には分析不能な自己放尿でしかない。
自由貿易こそが正義だ。正義というのは感情の問題ではなく、制度としての優越性の問題である。
自由貿易は、消費者に選択の自由を与え、企業に競争を強制し、価格に情報を凝縮し、資源配分を最も生産的な用途へ押し流す。
そこでは国が決めるのではなく、分散した個人の知識と選好が価格を通じて集約される。
これが市場の計算能力であり、官僚の頭脳では代替不能な社会的情報処理装置だ。
政府が中国との取引を政治的に遮断するのは、その情報処理装置をわざわざ破壊し、国民の実質所得を削り、成長率を引き下げ、非効率企業を温存し、インフレ圧力を高める行為に他ならない。
しかもその負担は「国家のため」と言いながら、結局は消費者が物価として払い、労働者が実質賃金として払い、納税者が補助金として払う。
政府はそれを安全保障と呼ぶが、実態はただの政治的コスト転嫁であり、サプライチェーン自己放尿の芸術点を競っているだけだ。
自由貿易は短期的に産業の新陳代謝を要求するが、長期的には生産性を上げ、イノベーションを誘発し、社会を豊かにする。
介入は短期的に痛みを隠すが、長期的には歪みを蓄積し、停滞と腐敗を育てる。
だから結論は単純で、政府は余計なことをするな、価格に喋らせろ、貿易に壁を作るな。
中国と取引したくない企業は取引しなければいい、リスクを取りたい企業は取ればいい、その判断を官僚が一律に奪う必要はない。
自由を奪って安全を得ようとする国家は、結局、安全も成長も失う。自由貿易こそが正義であり、保護主義は自己放尿であり、裁量行政は市場への暴力である。
解約した方がいい
NISAとiDeCoはやった方がいい制度だとは思ってるけど、個別に何らかの商品で資産運用するものだから、
単にNISAとか制度名でやってるとかいう知識でやるもんじゃない
NISAの積み立てでオルカン考えてるんだけど成長枠どうしようかな
ぐらいの知識でやるもんだよ
銀行預金って集金のために詐欺のような安心感で売ってるんだなってのは確認できたわ
なんで今の日本人ってこんなに、権力者に対して忠実で従順な人が増えてしまったんだ?
ネットで目立つ日本人は学歴至上主義者揃いで、すぐF欄とか言って低偏差値を馬鹿にするのに
義務教育レベルの社会科の知識もないし、それを恥とも思ってなさそうなのが謎過ぎる。
それとも理数系以外は学問のうちに数えてないのかな
最近、教育現場やSNSで、ある種の"すれ違い"を目にする機会が増えました。
注意されたり、期待と違うことを言われたりすると、「自分とは合わない」と、そこでの人間関係そのものをリセットして離れてしまう。自己主張は強いのに、親や社会に支えられている事実への自覚が薄い。大人の側にも、責任を引き受けるより先に「自分の権利」だけを語ってしまう振る舞いが見える──。
あなたも、こうした光景に心当たりがあるのではないでしょうか。
もちろん、これは特定の世代を批判しようとしているのではありません。私が今回考えたいのは、「その振る舞いが"合理的"に見えてしまう社会の側の条件」です。なぜ今、対話よりも離脱が、協力よりも防御が選ばれてしまうのか。その背景には、私たち大人が気づかぬうちに変えてしまった「学びの物語」の喪失があるのではないか──。
そんな折、教育者の中土井鉄信先生のFacebook投稿に出会いました。
そこで語られていたのが、「学びは公共財である」という視点です。教科書は、人類が積み上げてきた英知の集積であり、私たちはそれを受け取って生きている。だから学びは「自分のため」だけで終わらない。受け取ったものを社会に返していく視点が欠かせない──。
「依存」「消費化」「対価志向」「関係の短期解約」──これらは別々の現象ではなく、学びの位置づけの変化と深くつながっているのではないか。
本稿は、その問題意識を整理し、立て直しの方向を考える試みです。中土井先生の問題提起へのリスペクトを込め、私が現場で向き合い続けてきた実践知から、その解決の糸口を提示したいと思います。
学びが"公共財"として扱われなくなると、何が起きるのか
学びや知識には、個人の便益(成績・進学・仕事)だけでなく、社会的便益があります。社会が一定のルールを共有できること、言葉が通じること、協力が成立すること。その基盤には、学校教育や読書を通じて広がる「共通の知」があります。
ところが近年、学びは少しずつ、「社会の基盤」よりも「個人の投資」「購買体験」に寄って語られるようになりました。
どれだけ得をするか
どれだけ早く成果が出るか
この枠組みが強まると、学びの場は「関係を育てる場」ではなく「サービスの場」に近づきます。すると、注意や指摘は「成長のための調整」ではなく「不快な体験」になり、合わなければ話し合うよりも「さっさとその場を去る(離脱する)」ほうが合理的、という判断を招いてしまうのです。
「うるさい!もうやだ!こんな学校(塾)辞めてやる!」──この叫びは、わがままではなく、ある意味で消費者としての合理的な選択になってしまっているのです。
学びが「買うもの」になったとき、私たちは何か大切なものを失いました。それは、学びを通じて人と人がつながり、社会を共につくっていく物語だったのではないでしょうか。
かつての日本が持っていた「学びの回路」
私が子どもの頃、勉強が得意な子に向けて大人が「末は博士か大臣か」と声をかけることがありました。実際私も、祖母や祖父、近所のおじちゃんたちに、何度となく聞かされたフレーズです。
今振り返ると、そこには単なる出世願望だけではなく、「力を持つなら、社会に役立つ人になってほしい」という期待が含まれていたように思います。欧米で言われるノブリス・オブリージュ(地位や能力を持つ者の社会的責任)も、根は同じです。
かつて学びや能力は、個人の利益で完結するのではなく、社会に返していく回路の中に置かれていました。この感覚は、言葉にされなくても、日常の中で自然に共有されていたのです。
この回路が弱まると、学びは単なる「受け取るもの」になりやすく、結果として「対価がなければ動かない」という感覚が広がります。それは個人の問題というより、学びの物語を社会が共有できなくなったことの反映ではないでしょうか。
私たちは今、この失われた回路を、新しい形で取り戻す必要に迫られています。
人が社会や他者と健やかに関わるために、最初に必要なのは「規範」でも「協調性」でもないと私は考えています。
私が多くの親子と向き合う中で、それら以前にもっと手前の問題として感じるようになったのは、「自分自身との一致感を持つことができていない状態」で生きている人が想像以上に多いという現実です。
たとえば、次のような振る舞いが見られるとき、私たちはしばしば「甘え」や「依存」として片付けてしまいがちです。
やる気がないように見える
注意されることを極端に嫌がる
しかし、丁寧に話を聞いていくと、その背景には別のものが見えてきます。
「どんなペースなら続けられるのか分からない」
「何を期待されているのか曖昧なまま、結果だけを求められている」
つまり、自分の特性と、求められている振る舞いとの間に深刻なズレが生じているのです。みんなと同じやり方で学び、同じ基準で評価され、同じ反応を期待され続ける環境に長く置かれると、人は次第に「自分はどこかおかしいのではないか」と感じ始めます。
この状態こそが、私が「自分との不一致感」と呼んでいるものです。
この不一致感は、単なる自信のなさではありません。それは、自分という存在が、この社会の中でどう機能すればいいのか分からない、という根本的な不安です。この不安を抱えたまま「協力しなさい」「もっと頑張りなさい」と言われても、人は動けないのです。
「自分との一致感」こそが、協力の土台になる
人は、不安や恐れが強い状態では、協力よりも「防御」を優先してしまいます。自分の中が不安定なままでは、注意は攻撃に聞こえ、期待は重荷に感じられ、関係そのものを避けることが合理的な選択になりやすいのです。
逆に、「このやり方なら理解しやすい」「この関わり方なら無理なく動ける」という安心感――すなわち「自分との一致感」があってはじめて、人は心理的に安定し、周囲と関わる余裕が生まれます。
自分のやり方や反応を「これでいい」と理解できている人は、常に評価や承認を求めて振り回される状態から一歩距離を取り、自分と違う人を「役割が違うのだろう」と捉えられるようになります。この視点の転換が起きたとき、違いは摩擦ではなく、補完関係に変わるのです。
協力とは、目標として押し付けるものではなく、自分を理解し、無理のない形で力を出せる人が増えた結果として、自然に立ち上がってくる関係性だと私は考えます。
「協力できない社会」の問題は、協力を強制することでは解決しません。それよりも、一人ひとりが自分との一致感を取り戻すこと。そこからすべてが始まるのです。
この「自分との一致感」を取り戻すために、私が提唱し、社会に先行して取り組んできたのが独自の「才能タイプ理論」による個別最適な子育ての実践です。
そして、その実践において最も重要になるのが、家庭を「才能発揮の中心基地」へアップデートすることです。
学校や社会が一律の基準を求めがちな外部環境であるからこそ、わが子の「才能の形(遺伝特性や認知形成のクセ)」を深く理解し、本人そのものを伸ばしきれるのは、親をおいて他にはないからです。
ここで改めて強調したいのは、個別最適とは、嫌なことを免除したり、好きなことだけを選ばせたりするための考え方ではないということです。むしろ本質は、「どの形なら、その人は役割を引き受けやすいのか」を探るための視点です。
言葉で説明するのが得意な人、作業で支えるのが得意な人、全体を見て調整するのが得意な人。同じ「責任」でも、担い方は一つではありません。その違いを前提に役割を考えることが、結果的に集団を安定させます。
個別最適は、わがままを許すことではなく、それぞれの特性に合った形で、社会的役割を引き受けられるようにするための設計思想なのです。
中土井先生の「学びは公共財である」という言葉に立ち返ります。
学びが公共財であるとは、個人より社会を優先しなければならないという意味ではありません。そうではなく、「社会から受け取った知や経験を、自分の特性に合った形で、社会に返していく」という循環を大切にするということです。
かつての「末は博士か大臣か」という言葉の根底にあった、能力を社会に返していく回路。それを、いま私たちは「個別最適」という新しいアプローチで再構築していく時代の扉の前に立っているのです。
公共性とは、画一的な基準に全員を合わせることではありません。むしろ、一人ひとりが自分の特性を理解し、それを活かして社会と関わること。その多様な関わり方の総体が、本当の意味での豊かな公共性を生み出すのです。
家庭という「中心基地」で、わが子の才能の形を認め、自分との一致感を育むこと。それは、お子さんが「自分に合った形で、社会と良い関係を結べるようになる」ための自立への第一歩です。
この記事を通して、今の社会や子どもたちを批判したかったわけではありません。なぜ「対話をあきらめ、つながりを断つこと」が合理的に感じられてしまうのか、その背景に私たち大人の側の設計はどう関わっているのかを、一緒に考えてみたかったのです。
私自身、「才能タイプ子育て」という活動を通して、一人ひとりが自分と一致した状態で力を発揮し、その結果として、無理のない形で社会と関われる人が増えることを願っています。
違いを前提にした関係の方が、結果的に社会は安定し、協力は回りやすくなる。この実感を、現場での実践を通じて、少しずつ社会に返していきたい──そんな立場からの問題提起です。
私たちが失ったのは、「協力する力」ではなく、「協力できる条件」だったのかもしれません。
そして、その条件とは、一人ひとりが自分との一致感を持ち、自分らしい形で社会に関われること。学びが公共財であるという物語を、個別最適という新しい形で紡ぎ直すこと。
今回の記事が、ご家庭で、職場で、教育の現場で、何かを考え直す小さなきっかけになれば幸いです。
あなたのお子さんは、どんな才能の形を持っているでしょうか?
分散=1/n × \sum_{i=1}^n {(x_i -\overline{x})^2}
ってなんだよ。分散いつ使うんだよみたいな。いや標準偏差くらいなら式見たら意味は分かる脳にはなったがしかし。原理から式の各部分ことを説明してほしいんだわ。
初学者って脳ができあがってないんだから。なんか数学のゼミとかだともっと複雑でコンテキストの深い式を解説する時間があったりするらしい?
でも証明するときはめっちゃ頑張った説明を「自明」と言われるらしい。まあ、数学の教授なんか「そういう」傾向がないわけないわな。
「自明」という傲慢を捨ててほしいわな。そんなこと言ったら未証明の定理は証明した瞬間に自明といわれるわな。証明できることが分かっていつつされてない定理も「自明」なんか?じゃお前仕事辞めろや。
LLMが数学科でも爆進!みたいな記事見るとお前らが知識の整理をサボっただけだろと思う。(これは他の分野もそうで、知識を適切な形で適切な場所に残すってガチでムズいので仕方もないのはあるが、数学こそは至高の科学であり、その王座に居ながらにして自明などという高慢をかますからには許されない)
まあまあまあ、いいんですけど。だったらラマヌジャンが意味不明な式を突然持ってきたエピソードも
「証明できたものに関しては、自明、なのでラマヌジャンの功績は全く存在しない。数学界を急速に前進させたラマヌジャンの唐突な式も情報量はゼロであり、驚くに値しない、極々自然なものである」
本気で未だに日本が戦前に戻って戦争を始めることを懸念してるとは思わなかったわ。しかもそれを食い止めるために目の前の中国というリスクを無視して防衛力の強化をやめろいう。馬鹿かな?
それって反ワク陰謀論と何が違うの?パンデミックというより現実的で大きなリスクを無視して、コントロール可能な副反応リスクに怯えてワクチンをうたない人達と何が違うのか教えてくれよ。
左翼は防衛に関する知識が古すぎるし、参政党と変わらないレベルの話をしている自覚を持って欲しい。お前らに政権を任せるなんて怖すぎて無理だよ。
なぜなら、リフレ派の政策パッケージは、表面上は景気刺激・需要創出・デフレ脱却といった衛生的な言葉で包装されながら、その実態は貨幣価値の毀損によって実質所得を目減りさせ、価格体系にノイズを混入し、資源配分のシグナルを攪乱するという、極めて原始的な自己放尿だからだ。
つまり、自分で自分の経済秩序に放尿し、そのぬくもりを成長と誤認している。
短期の体感的な暖かさと、長期の構造的な悪臭を取り違える。この倒錯が、まさに自己放尿という比喩の本体である。
インフレをもって失業を恒常的に減らせるという発想自体が、貨幣錯覚と期待形成の理解不足を露呈している。
短期的なフィリップス曲線の傾きに陶酔し、長期的な自然失業率仮説を軽視するのは、政策当局が持つ万能感の自己放尿だ。
失業率を押し下げたように見える局面は、名目賃金の調整遅れによって実質賃金が一時的に下がり、企業が雇用を増やすからに過ぎない。
しかし人間は学習する。期待は適応し、やがて合理的に形成される。すると名目賃金はインフレ率を織り込み、実質賃金は元に戻り、失業率は自然率へ回帰する。
残るのは、より高いインフレ率だけだ。つまり、短期の景気の幻影と引き換えに、長期の貨幣の信認を燃やす政策、つまり自己放尿である。
ここで重要なのは、リフレ派がしばしば語る「需要不足」という呪文が、実際には価格メカニズムへの不信と、政府の裁量的介入への信仰を伴っている点だ。
市場は情報処理装置であり、価格体系は分散知を集約する通信網である。インフレ誘導政策とは、その通信網に意図的にジャミングをかける行為だ。
相対価格の変化が実需の変化なのか、貨幣供給の膨張なのか、判別がつきにくくなる。すると企業は投資判断を誤り、資本は生産性の高い用途ではなく、政治的に都合のよい用途へと誤配分される。
これは景気対策ではなく、情報構造の自己放尿である。貨幣は交換の媒介であると同時に、経済計算の単位であり、信頼のインフラである。その基盤を弄るのは、社会の計算機をわざと故障させるようなものだ。
にもかかわらずリフレ派がインフレを好むのは、政治的には極めて合理的だからだ。
インフレは目に見えにくい課税、すなわちインフレ税であり、議会で明示的に増税を決めなくても、実質債務負担を軽くし、政府支出の実質的な財源を捻出できる。
これは透明な財政規律を回避するための抜け道であり、財政民主主義の迂回路である。税を上げれば反発されるが、貨幣価値を薄めれば、責任の所在が曖昧になる。
政治家にとってこれほど魅力的な政策ツールはない。だからこそ、これは市場経済のロジックではなく、権力装置の自己放尿に属する。
この点で、リフレ派の思想はしばしば権威主義左翼の症状を帯びる。
ここで言う左翼とは、国家の配分機能を強く信じる立場、すなわち政府が資源配分の最適化を担えるという計画主義的傾向を指す。
そして権威主義とは、政策の失敗が市場の自己調整ではなく、さらなる介入によって修正されるべきだという態度である。
実際、インフレが想定より進めば「企業の便乗値上げが悪い」と言い、賃金が追いつかなければ「企業が内部留保を溜め込むのが悪い」と言い、通貨安が進めば「投機筋が悪い」と言う。
つまり市場のシグナルを受け止めて制度を改善するのではなく、市場を道徳裁判にかけ、敵を作り、統制を強める方向へと滑って自己放尿していく。
ここには、自由市場の自己調整メカニズムへの敬意がない。あるのは、望ましい結果を国家が設計できるという傲慢な自己放尿だけだ。
さらに言えば、リフレ派の「デフレが悪でインフレが善」という二元論は、貨幣現象を倫理化する典型的な誤謬である。
インフレ率の水準そのものが善悪を持つのではなく、重要なのは貨幣制度の予測可能性とルールの信頼性だ。
裁量的なマクロ操作の万能性ではなく、むしろその危険性である。中央銀行が景気を微調整できるという発想は、知識の分散と政策当局の情報制約を無視している。
政策当局は遅れて統計を見て、遅れて判断し、遅れて実行し、その効果はさらに遅れて出る。そこにはラグがあり、過剰反応があり、政治的圧力がある。
結果は、景気安定化ではなく、景気悪循環の増幅である。貨幣政策を景気刺激のレバーとして扱うこと自体が、制度の誤用であり、中央銀行を政治部門に従属させる自己放尿である。
リフレ派の自己放尿とは、実体経済の生産性改善や規制改革、労働市場の柔軟化、企業統治の改善といった地味で不快だが本質的な処方箋から逃げ、貨幣という最も手軽な幻術で現実を上書きしようとする自己放尿を指す。
インフレで名目成長を演出し、実質的な負担を薄め、政治的な痛みを先送りする。これは市場の問題解決ではなく、政治の問題隠蔽である。
そして問題を隠すには、権力が必要になる。価格が語る真実を黙らせるには、統制が必要になる。
だからリフレ政策は、経済政策の顔をした権力技術へと変質する。自由な価格体系を信じず、貨幣をいじり、結果が悪ければ市場を非難し、さらなる介入を正当化する。
市場経済において最も重要なのは、成長率の見かけの数字ではない。価格が正しく機能し、貨幣が信頼され、契約が予測可能であり、資本が生産性へ向かって流れる制度環境である。
リフレ派の自己放尿は、その制度環境を自ら汚しながら、汚れた水たまりに映る短期の光を成功と誤認する現象だ。
連中はインフレという麻酔薬で痛みを消しているだけで、病気を治してはいない。そして麻酔が切れたとき、残るのは依存と副作用と、より強い麻酔を求める政治的自己放尿である。
ちゃんと熱湯でミルクを溶かした後なら水で割って適温にしていいし
残留物がないようにきちんと洗ってあれば哺乳瓶の消毒なんて必要ない
大好きな人に自分でもわかっているが能力的にできないことについて、随時追及されるのってとても辛いことだと思いませんか
思考は薄く、感情もなく、文章も読めず、何もできません。毎日死んだように過ごしています。
毎日布団に入る前に明日は治っていてくれと祈りながら眠ります。そして、いつも起きたときは何も変わっていない現実に苦しんでいます 黙々と生きています
当人や誰かに告白しようにもあるところで電源が抜かれたように声は出なくなるし、外に出そうにも私の持ち前の臆病さが発揮されて自ら閉ざしてしまいます。
もしそれが治せたのならいろいろな国の文学を読んでみたいし、物理学や数学など様々な学問を学んでみたいけれど、それはかなわない気がします。
生きているだけでいいっていうのは本当なのでしょうか ただ言われるだけでその正誤は誰も教えてくれません 誰にも言えないこの気持ちはどうすればいいのでしょうか
最近はアニメを見ています。文章は読めないので、よって本が読めないので、いくぶんか楽なアニメを見ています。
アニメを見ているときは少しやわらぎます。恐ろしい展開にはらはらしたり、かわいいキャラクターにときめいたり、ちょっとは気を紛らわせます。
ですが10分後にはもう内容を思い出せなくなるので、それを自覚するときとても恐ろしくなります。
私はいつもお気に入りの喫茶店でクリームソーダを頼みます バニラアイスはいつもの入れてもらいません あの甘ったるいドロドロした虫歯みたいな感触が、メロンソーダの鋭利な刃物のような炭酸の刺激を殺してしまうからです。
その透き通っていながら濃い見た目、緑と対照的なさくらんぼのピンクの色、口に含んだときの心地よい刺激と清涼感、全てが一つの爽快感にまとまって、私の胸の内ある黒いものを消し去ってくれるような気がします。
それが叶ったときはありませんが、この期待だけが今の私を生かしています。どうすればいいのでしょうか。つらいことしか考えられません。今まで頑張ったとは思うのです。
なにもできなくても時間だけが過ぎ去っていきます。人生で最も知識を習得したり、脳の柔軟性が最も高い時期がただ過ぎ去っていくことに恐怖を感じます。