
はてなキーワード:盆地とは
劉仲敬(リウ・ジョンジン)の著書《中國窪地:一部內亞主導東亞的簡史》は、漢族中心の「中国史観」を根底から問い直し、「中国」とは本来「窪地(デプレッション、Basin)」であり、その上に覇権を打ち立てたのは内陸アジア(內亞)の諸遊牧帝国だった――という挑戦的な視座から書かれた歴史解釈書です。
この書は、彼の「文明圏多元論」「諸夏主義」「脱中華」思想の根幹をなす理論的著作のひとつです。
書名の意味:
「中國窪地」とは、地政学的に見た「中国の盆地=中原」のことであり、東は山東半島と海、北は長城・蒙古高原、西は黄土高原、南は山岳地帯に囲まれた“低地”です。この地理的な「くぼみ(窪地)」が、周辺からやってくる外来の征服者(モンゴル、女真、満洲、契丹など)にとって統治しやすい空間だったという発想です。
基本構図:
従来の中国史は「漢族が外敵から文明を守った」という中華中心史観だが、実際には:
構成(簡略):
地理と文明の相互作用:なぜ中原は「文明の中心」ではなかったのか。
黄河流域は人口密度が高く農耕は発展していたが、防衛的には極めて脆弱で、常に外部勢力の侵入を受けやすかった。
「文明の重心」は周辺(北西のオルドス草原、モンゴル高原、満洲、チベット高原)にあったとする。
特に乾燥気候の遊牧民は、動員・軍事組織力に優れ、常に中原の静態的農耕社会を凌駕していた。
契丹(遼)
女真(金)
蒙古(元)
満洲(清)
これらの王朝は、内亞の軍事・遊牧構造を基盤に「中國窪地」を包摂し、自らの征服構造を正当化するために「中華文明」の装飾を用いただけ。
「中華」は本質的に「支配の飾り」や「便利なツール」に過ぎず、征服王朝の文化的正統性を演出するための道具だった。
清朝は史上最大の版図を築いたが、それは「大中華」ではなく、「大内亞帝国」として理解されるべき。
辛亥革命以後、漢民族ナショナリズムが清朝の多民族的帝国遺産を奪い、「中華民国」という名前で引き継いだが、実態としては「満洲帝国の皮をかぶったナショナルステート」だった。
民国も中共も「満清の版図」を正統と見なし、それを守ることが国家の使命であると信じたが、これは歴史的には極めて不自然。
中原(=窪地)は一貫して政治・軍事的に無力で、常に外来勢力の軍事力に従属していた。
その歴史を「一体的な文明発展史」として語るのは、近代以降に発明された「ナショナル・ヒストリー(国家史)」であり、虚構である。
項目 内容
主張の強さ 「中国」という国家概念が内亞の帝国的秩序によって形作られたという、極めて挑発的な歴史観
思想的貢献 「諸夏主義」「脱中華」「多文明的再編」論の土台を提供
国際的含意チベット・ウイグル・内モンゴル・満洲・雲南などの「非漢族地域」の分離独立を文明的に正当化できるという論理的土台
まとめ:なぜこの書が重要か?
劉仲敬は《中國窪地》を通じて、「中国の国家的正統性は幻想である」「中華文明の中心は常に“外”にあった」と論じ、現代中国のナショナリズムの基盤を根底から覆しています。
「なぜ中国は一つの国であり続けるのか?」という問いを根底から問い直したい人
自分は仕事の都合で九州、四国、中国、近畿と西日本のいろんな土地を転々としてきたけど、滋賀県は住みにくい。辛い。
思いつくままにいくつか備忘を兼ねて記す。
ちなみに、自分が住んでいたのは滋賀県南部。滋賀県は琵琶湖によって南北が文字通り分断されてるから北側のことはよく知らない。ごめんね。
①気候
琵琶湖の豊富な水のおかげで寒暖がやわらぐかと思いきや関係ない。なんなら湿度も高い。ぜんぶ盆地のせい。
②交通
道路がくそ狭い。歩道も車道も狭い。そのうえ車社会だから歩行者と自転車乗りには人権がない。
飛び出し坊や発祥の地として推してるけど、いたるところに坊やを置かないといけなくなった背景は道が狭くて交通事故が多いから。
③文化娯楽
ない。イオンはある。
京都大阪まで電車で数十分の位置関係にあるからなのか、ほぼすべての文化娯楽をそこに依存してる。
なにもなさ過ぎてローカル番組では定期的にスピ特集をやってる。ツッコミながら見ると逆におもしろい。
普段仕事に追われていると、いつでもできるのに後回しにしてしまう物事がある。
有給取得なんてのはそうで、法令で年間に5日間取らないといけない。
いよいよ期限も迫っているというのにまだ使ってない有給が1日余っていたので、この連休に1日足して4連休とした。
しかし、なんの予定もないと、退屈のあまり目下の不安定な国際情勢でただ憂鬱なニュースを見ながら終わってしまいそうなので、JREポイントを使ってどこかにビューーン!のガチャにチャレンジ。
行き先は上越妙高に決まったのだが、スキーをやるわけでもない自分にとって、大雪以外何も思いつかない上越妙高では途方に暮れるだけかと思い、途中下車で長野を目的地にすることにした。
自分的には4連休のこの週末は世間的にも3連休なので、どこビュンの枠にそれ程自由度がなく、2泊3日とはいえ、夜遅く長野に到着、帰りの便は午前という、2泊2日みたいな旅程となった。
さて当日、行きの新幹線長野到着は21時ちょっと前なので、長野名物は食べる暇がなさそうだと懸念したものの、新幹線が遅延なく到着したのと、駅直結のMIDORI長野のレストラン街にソースカツ丼の明治亭が入っていたので、少ない時間で地元名物は食べられる様だった。
ソースカツ丼はカツが柔らかく、甘いタレが良くあって美味い。
先日訪れた新潟のタレカツ丼似た料理だが、多分こちらの方がカツが厚めで豚肉の存在感が大きい。
豚肉自体もほのかに脂の甘みを感じるが、タレも新潟のものより甘めな気がする。
卵で閉じるオーセンティックなカツ丼も、新潟のタレカツ丼もタレは甘しょっぱい醤油味で、結局のところご飯の上に載せる丼ものにするには、甘めの味付けが重要らしい。
薄めのカツを何枚も重ねて衣のクランチーな食感を強調した新潟のタレカツ丼か、豚肉のボリュームと甘さを強調した長野のソースカツ丼か、双方試して差分を探すのも面白い。
ホテルの方も予約に少し右往左往し、1日目を2日目で違う宿となった。
高いホテルを除いて1日目の枠で唯一予約可能だったのが長野駅前の東横イン。
東横インというとどれも一緒な退屈な宿かと思っていたが、久々に訪れると、まあ東横インは東横インなのだが、設備が真新しく綺麗に更新されていてよかった。不満と言えば枕が固かったくらい。
ホテルでは頭が沈むフワフワの枕で寝たいので、ぜひそこは改善して欲しい。
2日目は早めに起きて、朝食をとりチェックアウト。
できれば味と土地のお土産としての格を両方備えたものを買って帰りたい。
自分用にはうまいのが確定している八幡屋礒五郎のゆず唐辛子を。
全国のお土産力で強いのは北海道と京都を別格として、あとは福岡、沖縄、仙台、新潟あたりがティア1かなと思っているが、長野も戦線を伺うポジションくらいに入ってくるかもしれない。
よく考えたら一説1,400年近く前からあるとされる善光寺を抱えた歴史ある観光都市だから、これくらいの力は見せて当然なのだろう。
せっかく長野に来ておやきを食べずに帰るとそれだけで旅の達成度が3割ほど下がりそうだったので、参道でおやきを買う。
野沢菜のおやきはうまいのだが、詰め物の野沢菜漬けの味が強いので、これは結構饅頭部分が重要なのかもしれない。
他の店だと焼き目の表面にちょっと香り油などを塗ってるやつもあって、店の味で大きく好みが分かれそうだ。
善光寺について山門を写真に収めようとしたら、カメラのコントロールホイールが回らない。
これはしまった、お土産を買うときに落下させてフレームを変形させてしまった様だ。
せっかくのコンパクト1眼なのにF値もシャッタースピードも動かせない。
よりによってという感じだけど、10年は使っているし、普通に考えたら寿命とも言えるだろう。
もう壊れる時期だったのかもしれない。
急角度の階段にヒヤヒヤしながらの山門の見学や暗闇の中でドアノブを手探りするご開帳めぐりをした後におみくじを引いたら吉だった。
望禄応重山 花紅喜悦顔 拳頭看皎月 漸出黒雲間
漢詩なんで読み解きにはバリエーションはあり「財宝を望むなら山の様に集まる」という解釈と「財宝を望むなら山の様に(何かを)積んで応じろ」という解釈があるらしい。
午前からうごいて名物を食べる時間も取れたので、善光寺の後は十割そば大善へ。
十割そばを食べたのは多分久しぶり。繋ぎがなくても繋がるものだ、ボソボソせずしっかりとした弾力があった。
さてこの旅程では実質動けるのが1日だった為、善光寺以外に動き回るのが非現実的な気がしていたが、実際調べてみると、温泉に入るサルで有名な地獄谷野猿公苑は長野中心部からのアクセスが意外と良く、13時迄に向かえば予定に組み込める事がわかった。
流石に外国人が多い。
スキーリゾートの出発点である長野駅からそもそも外国人が多かったのだが、この湯田中ではもう8割は外国人なんじゃないだろうか。
インバウンド好調な日本観光でも例えば北海道なんかは有為に韓国や中国・台湾・香港の人が多いのに対して、長野は本当に世界中から人が来ている。
季節が反対のオーストラリアは今が夏。
夏のスキーリゾートついでに温泉に浸かる猿を見に来ているんだろう。
雪の長野などといわれる割に長野駅周辺は盆地なのでまったく雪が降らず、善光寺参りだけならこの時期でもスニーカーで大丈夫だが、ローカル線で1時間ほど揺られるだけで待っているのが雪の山道となり、途端に足元が怪しくなる。
底の薄いスノーシューズを中敷き2枚重ねで補強してまで履いてきてよかった。
滑る足元にヒヤヒヤしながら1.8km、だいたい30分くらい歩いて野猿公苑に到着。
黒山の人だかりを形成している外国人が温泉の猿にスマホを向けている。
それにしてもなんで外国人はあんなにセルフィーが好きなのか、猿と一緒に、もうとにかく自分のキメ顔を入れたがる。
君ね、もっとお猿に集中しなさいと言いたい。
猿の方はというと外国人の自己顕示欲はどうでもいいという感じで、時々ファンサの気持ちよさそうな顔をしながら温泉に浸かっていた。
入浴シーンを人に囲まれるなど野生動物としてあるまじき状況ではあるが、動物は動物で環境には馴染むものらしく、水族館のマンボウなんかもコロナで人が来なかった時にストレスで弱ったなんて話も聞く。
このサルも急に人が来なくなったらメンタルヘルスが悪化するんじゃないだろうか?
朝の事故でもはやコントロールハンドルが効かないカメラだったが、自動設定に任せれば猿の顔は綺麗に撮れた。
野猿公苑から湯田中に戻り、今度は駅前の楓の湯で自分が温泉に。
この楓の湯は300円というアホみたいに安い価格設定だが、立地もすごく、駅から近いどころか、駅のプラットフォームの反対側に施設があって湯上がりの休憩所の窓からホームに停車中の電車の中の座席まで丸見えという構造だった。
一風呂浴びた後、朝に買って駅のロッカーに預けたお土産をピックアップする為、再び特急で長野に向かった。
2日目の宿、ホテル犀北館にチェックインして、夕食を食べに街に出る。
そばとタレカツ丼とおやき以外に長野の食のプランがなかったので、ざっくり地元食が食べられそうな感じの居酒屋に入る事にした。
普段晩酌をするタイプでもないが、せっかくなので壁に貼られた酒のポップを見るとみぞれりんごの梅酒というのがあり、りんごも長野の名物という事でこれのソーダ割りを試してみる事にして、馬肉餃子と長芋の味噌チーズ焼きを頼んだ。
りんご梅酒は飲みやすくてうまいし、油っぽい餃子とも意外と合う。
大信州は今の日本酒のトレンドのイチゴやブドウの様な華やかな香りとちょっと違う、リンゴの様なフレッシュな香りに後味に辛味がきてスッパリとキレていく感じで、飲んだ瞬間に「めちゃくちゃうまいな」となった。
そばとも本当に合う。
食後はホテルに大浴場がなかったので、部屋に戻る前に近くにある銭湯に寄って行く事にした。
旅行で地元の銭湯に行く事って珍しい、というかホテルのある地域に銭湯があることってあんまりないのだが、たまたま徒歩圏にあり、ここは出発前にチェックしていた。
亀の湯は立っても腰まである深さの湯船を中央に置いて壁に向かった洗い場が囲む作りで、階段を降りた地下にサウナがある。
最終日は帰りので新幹線が9:47分なので、観光する時間は全くない。
出来ることといえば駅ビルで駅弁を買うくらいなのだが、ここで改札前に最後のおやきチャレンジ。
駅ビルMIDORI内の縄文おやきでベーシックな野沢菜おやきを買う。
昨日のものより小ぶりで、饅頭部分のボリュームが多いのだが、このしっかりした饅頭が野沢菜の塩味と良くバランスしている。
長野おやきの正解と思しき調和を駅前で引けるので、長野でおやきを求めるならまずはここで安定だと思う。
改札をくぐりプラットフォームでサンドイッチを頬張る外国人を見ながら「長野で頬張るべきはおやきでしょ、まったく外国から来た人は分かってないね」などと思いつつはくたか556号に乗り込み、帰路に着く。
長野というと、スキーリゾートや軽井沢という、頑強な肉体や財力に余裕がある人向けの観光地といったイメージだったが、そこまで気合を入れなくても、善光寺におやきに猿、スキーリゾートでワクテカの外国人など長野駅から行ける範囲だけでも結構楽しめた。
急な休みができてしまい、どこに行こうかなと考えてるなら、一つ長野も候補にどうぞ。
デンマークといえば、みんな大好き「(植民地とかではない)メインの領土が大陸にあるのに首都が島にある」2か国のうちの1つだけど(もう1つは赤道ギニア)、確かに「現在の」地図を見れば、首都コペンハーゲンはずいぶんと端っこにあるように見える。だが、コペンハーゲンはもともと国土の中心にあった。現在のスウェーデン南部スコーネ地方はもともとデンマーク領だったが、17世紀に戦争でスウェーデンに奪われたのだ。つまりコペンハーゲンは、ユラン半島とスカンジナビア半島南端部というメインの2つの領土をつなぐ、ちょうど真ん中の位置にあったことになる。仮に東北地方がソ連に奪われていたら、東京はずいぶん国土の端っこにあるように見えるのではないだろうか。
言うまでもないだろう。仮に将来南北統一が実現したら、ソウルは統一コリアのど真ん中に位置することになる。
これも言うまでもない。独立当時のアメリカは東部の13州しかなかった。13州のうちの北部と南部のあいだの妥協案として南部に新しい首都が作られたが、地図を見ると、まあ、「真ん中よりちょっと南」の立地と評価できるのではなかろうか。
ソフィアはずいぶんと国土の西側に偏っているが、本来はそこが国土の中心になるはずだった。20世紀の初頭、オスマン帝国領バルカンに残されたマケドニア地方を周辺の3カ国が虎視眈々と狙っていた。セルビア語とブルガリア語の中間のような言葉を話すその地の住民を、セルビアはセルビア人と呼び、ブルガリアはブルガリア人と見做し、ギリシャはスラブ化したギリシャ人の裔であると主張した。二度のバルカン戦争を経て、その地方は主にセルビアとギリシャの間で分割される(このオスマン領マケドニアのうち、セルビア領になった部分が現在の北マケドニア共和国)。……そう、ブルガリアはマケドニアという果実を得られなかったのだ。仮に幻の「大ブルガリア」が実現していれば、ソフィアは「大ブルガリア」の中心部に位置することになっていただろう。
オーストラリアはもともと1つの国だったわけではなく、オーストラリア大陸に作られたいくつもの植民地が寄り集まって独立した国だ。独立するときに二大都市のシドニーとメルボルンのどっちを首都にするかでモメたので、その2都市の間に新しい首都を建設することにした。つまり、国土の中心ではないが、二大都市の中間に首都があるということだ。まあ、オーストラリアの文字通りの中心、人住めなさそうだもんね……
交通に便利なパナマ地峡に街(パナマシティ)が作られる→交通に便利すぎて街のそばに運河が作られる→アメ公が大西洋と太平洋をつなぐ運河の支配権を欲しがる→運河地帯の住民による独立運動を煽ってコロンビアから独立させる、という経緯で作られたのがパナマ共和国。つまり首都のまわりが国土になるように切り取られた国なので、国土の真ん中に首都があるのは当たり前なのだ。
ブラチスラバは国土の端っこにあり、立地的にはほぼウィーンである。スロバキアというのは、元々「ハンガリー王国北部でスラブ系言語を話す人たちが集住しているところ」に過ぎず、伝統的な行政区画を持っていなかった(これは「オーストリア側でスラブ語話者がいっぱい住んでるところ」に過ぎなかったスロベニアと同じ。この2つの国名が似ているのは偶然ではなく、両方とも「クロアチア」みたいに伝統的な地域名を持っていなかったので、それぞれが「スラブ人の土地」と名乗った結果なのだ)。それが第一次世界大戦のドサマギでハンガリーから分離したわけだが、当然「どっからどこまでがスロバキアか」という合意があるわけではなかったので、チェコスロバキアとハンガリーによる実力での分捕り合戦になった。その中で、「大都市(当社比)だし交通の要衝だから、スラブ人率は低いけど占領しとこうぜ!」となって占領されたのがポジョニ、のちのブラチスラバである。ブラチスラバはあまりに「国際色」が強すぎたので(20世紀初頭の時点で人口の4割がドイツ語話者、4割がハンガリー語話者)、国土の中心にあってスロバキア民族運動の拠点でもあったマルティンにスロバキアの首都を遷そうぜ! という議論が戦間期に行われたのだけれど、結局ブラチスラバが首都として維持された(ところで日本語版ウィキペディア、マルティンの記事名が「マルチン」になってるな。確かにスロバキア語ではtiと綴ると「チ」と読むけど、Martinみたいな外来語の場合は「ティ」の音が維持されるんだよ!)。
島国といっても、メインの島が1つなのか、複数なのかでだいぶ違ってくる。というのは、小さな島がたくさんある国だと、まずもって「国土の中心かどうか」というよりも「島のデカさ」で首都が決まることがありえるからだ。そりゃ、真ん中にある小島よりも、端っこにある大きな島に首都置きたいよね……典型的にはトンガとかがそうで、南端にあるトンガタプ島のヌクアロファに首都が置かれている。あるいは、「大きな島+小さな島」の組み合わせでできている国は、たいてい大きな島の方に首都がある。バレッタ(マルタ)とか、バセテール(セントクリストファー・ネイビス)とか、セントジョンズ(アンティグア・バーブーダ)とか、ポートオブスペイン(トリニダード・トバゴ)とか……(元増田が挙げてるニュージーランドは例外)
では、メインの島が1つしかない国はどうだろう? これなら「国土の中心」も定義しやすい……あれ、意外と首都の位置偏ってんな。元増田が挙げてるアンタナナリブ(マダガスカル。ちなみにマダガスカル語ではoと綴ってuと読むので「アンタナナリボ」は間違い)は確かに真ん中ら辺にあるし、ダブリン(アイルランド)やダグラス(マン島)やディリ(東ティモール)やアロフィ(ニウエ)やポートルイス(モーリシャス)やスリジャヤワルダナプラコッテ(スリランカ)もギリギリ真ん中辺りと言えるかもしれないけど、台北(台湾)もハバナ(キューバ)もキングストン(ジャマイカ)もレイキャビーク(アイスランド)もマナーマ(バーレーン)もヌーク(グリーンランド)もヤレン(ナウル)も島の端っこの方にあるな……首里、沖縄本島の中心都市として見ると南すぎるけど、奄美~先島までの琉球王国の首都として考えると割と中心に近くて草。
首都の立地はよくよく考えますよね。ここは盆地で長らく中央集権国家だったから真ん中に首都があるやろとか、端っこの部族が全土を統一したから首都は端っこにあるんだよとか、東部は原生林が多いから人口の多い都市は西部に偏ってるんだよとか、港町を中心に発展したんだよとか、そういうことを地図描きながら妄想するだけですごい楽しい……だから元の「首都が国土の中央部にないのはおかしい」っていうツッコミは全然理解できないっていうか、変な形の国作って変な場所に首都置くのが楽しいんやんけ、となってしまうよね……
Permalink |記事への反応(12) | 05:25
うつと診断されて2年、ふと死にたくなり(しかもちょっと楽しくなってしまい)、急に飛行機に乗った。金はなかったので全部カードで借金して、京都に向かった。
なぜ京都かというと、西尾維新の戯言シリーズが好きで、オタクとして行ってみたかったからだ。
んで、せっかくの最後の宿だし、と思って小さい旅館を予約した。
携帯電話の電波とかで場所が割れるのは嫌だったので、アパートに携帯を置いて、遺書を用意して鍵を開けたまま出発した。「俺を探す人が鍵を壊す羽目になったら面倒だろうから」というサイコパス診断の答えかよみたいな理由だった。
あの盆地特有の蒸し暑さ。身体が汗でびしょびしょになるのが不快で仕方なかったが「まぁでもすぐ汗かかぬ死体となるし」と思って流れる汗をそのままにしていた。
向こうで自転車を買い、千本鳥居を観に行っては「七々見奈波が零崎人識と会ったところじゃーん!」と思っていたり、土産屋にある生八つ橋を全種コンプしたりしていた。
そんなこんなで宿に着いて、4日ほど無為にすごした。
コーナンに行って、縄とキャンプ用のイスを買って、「俺はいつでも死ねるぜ!」と思ってスターを取ったマリオみたいに無敵な気がした。実際無敵だったのだろう。
いざ死ぬとなると世界が輝いて見えて、「やっぱり世界っていいな~(まぁ俺は死ぬけど)」と背反した思いがありながら夜は酒を飲み、昼は観光したり、宿のメモ用紙に小説を書いたりしていた。普通に迷惑だ。
5日目になって、宿のご主人から「一緒に食事をしないか」と誘いを受けた。
宿のご主人には観光名所を聞いたり、滋賀県まで自転車で行けないか?(携帯持ってないのでわからなかった、琵琶湖見てみたかった)と聞いたりしてたので、顔は知っていた。
俺は本来引っ込み思案だったが、完全に「人との距離感どうでもいい。だって死ぬし」と思って二つ返事で了承し、一緒に食事をしてビールをもらった。
そこでご主人から「変なこと考えてないよね?自殺とか」と言われた。
俺が(やっべーばれた?でもなんで?)と思いながら「何がっすかぁ!ダハハww」と返したら、「短い滞在なのに自転車を買ってたり、若いのに携帯持ってなかったりしたでしょ」と言われて驚いた。
そして極めつきは俺の母から連絡があったという。
でも母に俺の居場所わかるわけがないし…と思っていたら、俺がアパートに残した携帯を見つけて、着信履歴を見たとのこと(携帯を置いていくからネット予約ができないと思って電話予約にしたのがまずかった)
俺は完全に逆転裁判の追い込まれた人みたいになって、「アア…ウウ…」とか言ってた。すげぇ不審者。
そこからご主人の人生の話聞いたりして、「死ぬのはいつでもできるから、今回は帰りな」と言われて泣きながら帰った。
帰ったら母親が俺のアパートで寝ていて、起こしたら幼稚園児みたいに服を引っ張られて泣かれた。ごめんな、楽しくなっちゃって、とよくわからない返事をした。
職場に無断欠勤を謝ったときに生八つ橋を買っていったら同僚から苦い顔をされたのを、今でも覚えている。
Permalink |記事への反応(21) | 17:31