
はてなキーワード:皇室とは
少なくとも「何にもならない」というのは嘘ですね。「皇室関連費用(年間約300億円)」をすべて削減した場合、他分野でどの程度のことが可能か、金額感を具体的に見てみましょう。
宮殿・御用邸維持費、儀式関係など:合計して約200〜250億円
→ 全体で約300億円程度
💴 300億円でできること(概算)
①教育分野
→ 全国で約900万人の児童が対象。1人あたり年間平均4万円とすると、
300億円で約75万人分(政令指定都市ひとつ分)を1年間無償化できる。
300億円 ÷ 54万円 ≒ 約5.5万人を1年間無償にできる。
→ 平均月収を1万円上げる場合、全国で約25万人分の上昇効果がある。
→ 中規模河川の改修(1か所あたり約50億円)を6か所実施可能。
→学校・庁舎などの耐震補強(1棟平均2億円)を150棟分進められる。
→ 1件平均3,000万円として、約1,000件の研究プロジェクトを支援可能。
⑤生活直結の例
保育園の整備
→ 1園あたり約3億円で建設・整備できるため、100園分可能。
2016年8月8日、明仁天皇(現上皇)による「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」は、日本の戦後体制が生み出した極めて巧妙な政治的コミュニケーションの傑作であった。しかし皮肉なことに、この歴史的意義を持つ発言は、現在「お気持ち表明」という軽薄なミームとして消費されている。この現象は、戦後日本の構造的制約と現代社会の読解力低下が交錯する地点に位置している。
「お気持ち表明」という回りくどい表現が必要だった根本的理由は、1945年の敗戦にある。戦後憲法により天皇は「象徴」となり、「国政に関する権能を有しない」(第4条)存在として位置づけられた。この制約下では、天皇が直接的に「退位したい」と表明することは違憲行為となる可能性があった。
明仁天皇の発言は、この制約を巧妙に回避した民主的解決策だった。高齢による体力的限界、天皇としての務めを十分に果たせない懸念、そして突然の崩御が国民生活に与える影響への配慮を表明することで、実質的な退位意向を主権者たる国民に伝えたのである。これは憲法の枠組みを守りながら、国民主権の原則に従って制度変更を促す、高度に洗練された政治的コミュニケーションであった。
しかし、この発言が真に理解されたのは、憲法や皇室制度に精通した限られた層に過ぎなかった。一般国民の多くにとって、長時間にわたる慎重な表現は「よくわからない長文」として映った。「お気持ち表明」という表現の語感的面白さが、内容の重要性を覆い隠してしまったのである。
この理解度の格差は、現代社会のコミュニケーション環境とも関連している。SNS時代の短文化した情報消費習慣において、文脈への深い配慮と慎重な表現は「要点のまとまらない自分語り」として受け取られがちである。最も民主的で配慮深いコミュニケーションが、表面的にしか理解されない構造的問題がここに現れている。
「お気持ち表明」の軽薄な使用は、使用者の無知を露呈している。本来この言葉は、憲法的制約の中で民主的プロセスを重んじた成功例であったにもかかわらず、「感情的な意見表明」や「建前的な発言」といった真逆の意味で使われている。
さらに興味深いのは、この誤用に対する反応の構造である。「お気持ち表明」と攻撃される側も、攻撃する側も、そして時として仲裁に入る第三者も、多くの場合この言葉の歴史的文脈を理解していない。結果として、歴史的に重要な概念が、無知な者同士の応酬の道具として消費される事態が生じている。
この現象は、戦後日本の深層的な問題を浮き彫りにしている。敗戦により課された制約の中で編み出された知恵が、その制約の歴史的背景とともに忘却されている。「戦争に負けたから」天皇は直接的な政治的発言ができず、「だからこそ」お気持ち表明という形式が必要だったという根本的な歴史認識すら、多くの国民に共有されていない。
「お気持ち表明」のミーム化は、単なる言葉の変遷を超えた現象である。それは戦後日本の憲法体制への理解不足、現代社会の読解力低下、そして歴史的文脈の軽視が複合的に作用した結果である。民主主義の成熟には、制度の背景にある歴史的経緯と、その中で編み出された知恵への理解が不可欠である。「お気持ち表明」の真の意味を理解することは、戦後日本の民主主義そのものを理解することに他ならない。
近代国家において「宗教」と「政治」は切り離すべき領域だと広く認識されてきた。フランスのライシテやアメリカ合衆国の政教分離原則は、その象徴的な制度だ。しかし現実には、国家が宗教性を色濃く帯びることは今なお存在する。たとえばイスラエルは「ユダヤ人の国家」として建国され、その宗教的アイデンティティが国家運営に深く関与している。そして日本においても、天皇や皇族という存在が、神道との結びつきを歴史的に内包している。
両国のケースは、一見異なるようでいて共通の危うさを抱えている。
イスラエルは「ユダヤ民族の歴史的故郷」として建国を宣言した。その根拠には旧約聖書の物語や宗教的伝統が強く関わっている。結果として、ユダヤ教徒以外の市民──特にアラブ系住民──は建国以来、周縁化されてきた。宗教を国家の中核に据えることは、必然的に「誰が正統な国民か」を宗教的アイデンティティで線引きすることにつながり、多様な共同体の共存を困難にしている。
日本は1945年の敗戦後、天皇を「現人神」から「象徴」へと位置付け直した。表向きは政教分離を徹底しているが、皇室祭祀や伊勢神宮との結びつきが示すように、天皇制には神道的要素が色濃く残る。仮に「日本国は神道を基盤とする」と明言するような事態になれば、他宗教を信仰する市民や無宗教の人々を事実上「周縁化」するリスクがある。
イスラエルにおけるユダヤ人国家法(2018年制定)は、ヘブライ語を唯一の公用語と定め、ユダヤ民族の自決権を強調するものだった。この法律はイスラエル国籍を持ちながらもユダヤ人でない人々に対し、「あなた方はこの国の中心ではない」と突きつけるものだと批判されている。
同様の構図は日本にも潜在する。もし天皇や皇族の存在を「日本人らしさの源泉」として国民統合の基盤に据えるならば、移民や在日外国人、さらには信仰を持たない人々は「純粋な日本人」から外される恐れがある。歴史的に見ても、国家と宗教を結び付ける発想はナショナリズムと結びつきやすく、結果的に差別や排除を強化してしまう。
21世紀の国家に求められるのは、宗教や民族に依存しない「普遍的な統治原理」である。イスラエルがユダヤ国家として存続する限り、中東和平は根本的に難しい。日本においても、皇族を「伝統」として尊重しつつも、その存在を国民統合の根拠にすることは避けるべきだ。象徴は象徴として文化的に位置付け、政治や宗教的正統性と結びつけないことこそ、民主主義の成熟に必要な姿勢である。
国家が宗教を掲げれば掲げるほど、国民の多様性は軽視される。多元性を守ることが、世界の安定と平和のために欠かせない。日本が未来に向けて歩むべき道は、皇室の宗教的役割を強調することではなく、むしろそれを歴史的文化の一部として相対化することだろう。
イスラエルのように「宗教と民族を国家の根拠に据える」ことが、いかに差別や対立を生み出すかは歴史が示している。そして日本において、皇族という存在はその危うさを内包した制度の名残に他ならない。たとえ「象徴」としての立場に矮小化されているとはいえ、その根底には神道的な神聖性や「国民統合の中心」という曖昧な宗教的正統性が張り付いている。
この仕組みを温存する限り、日本は「国体」や「民族の純粋性」といった古いナショナリズムを再燃させる危険を常に抱えることになる。民主主義国家において必要なのは、あくまで国民一人ひとりの自由と平等であり、世襲的な権威や宗教的象徴ではない。
だからこそ、最終的には皇族制度そのものを廃止していくべきである。文化的伝統として歴史を学ぶことは尊重されるべきだが、それを現行の制度として維持する必要はない。むしろ「象徴」として残していること自体が、国家と宗教を再び接続してしまう可能性を温存している。
皇族廃止は「伝統の破壊」ではなく、むしろ多様性と民主主義を守るための必然的な選択である。日本が未来に進むためには、宗教的正統性に依存した統治の残滓を整理し、国民の平等を本当の意味で保障する体制へと移行することが求められている。
皇太子の成年式は母親が敬語で語りかけててずいぶん他人行儀な家族だなと思った。
皇室といえども家族。なんだけどもしかして寝るときとかお父さんと一緒じゃないのかな。
昔なら平民と支配階級等の生活は完全に隔絶していて、お互い自分たちの生活が当然と思っているから子供も何の疑問も思わずその様式を受け継いでいくのだろうけど、
今はSNSもあるしさすがに生活様式ガラパゴスってままではいられないんじゃないの。つまりどうしても子供が自分の家庭があきらかに普通と違う疑問に思うきっかけはあると思う。
もちろん皇室という点で普通と違うのは当たり前ということは受け入れたうえで「親と一緒に暮らせないのは時代錯誤じゃないの?」って考えが浮かぶものじゃないのかなあ。
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皇女マリア・テレジアが皇后になって九年、夫フランツ・シュテファンとは同い年。二人の子宝に恵まれたが、下の皇子が四つになる頃、二人の間に通い合う熱情はすっかり冷え切っていた。
夫は私との交わりを求めてくるが、私はもう、その義務を果たすことが苦痛でならなかった。下の皇子を身ごもった時も、彼の都合に合わせ、短時間で事を済ませることを求められた。それ以来、愛の行為は、私にとって子を成すための「作業」でしかなかった。もともと好んでしたことではなかったが、子が出来てからは、もう必要ないものと心底思うようになった。
私は幾度となく彼に訴えた。「もういいではありませんか。私はその営みが苦痛なのです」と。彼の辛さは分かっている。だからこそ私は言った。「お好きな酒場へ行かれても、お好みの相手を見つけられても構いません。ただし、私の目に触れるような真似だけはなさらないでください」と。
彼は言う。「私はマリア・テレジアを愛している。だからこそ、そなたと夜を共にしたいのだ」と。その言葉は私の胸を打ったが、身体が拒絶するのだ。彼は質素な暮らしを好み、書斎に籠もることが多い。私の条件を満たす手立てがないことは分かっている。それでも、私は彼の熱情に応えることができなかった。
毎晩、彼は私と皇子たちが眠る寝室にやってくる。そして、眠りにつくとき、彼は「このハプスブルクの血を守るのはこの私だ」と心に誓っているのだろう。その背中を見るたび、私は自責の念に駆られる。彼の治めるこの国に、私の心はもうないのかもしれない。
四年間も話し合いを続けた結果、彼は私に「三ヶ月に一度」という約束を取り付けた。一年で四度。彼にとっては、それは大いなる勝利だったのだろう。私も、それで彼が少しでも安らぎを得られるなら、と承諾した。
今年、二度、夜を共にした。一度目の後、彼が浮かれているのが手に取るように分かった。まるで居場所を見つけた子供のように無邪気に喜ぶ彼の姿を見て、私は胸を撫で下ろした。だが、些細な諍いの後の話し合いで、私は告げてしまった。「やはり、それは私にとって苦痛なのです」と。彼は了承し、一旦、義務を解いてくれた。彼の目的が、私の心の平穏を守ることだと分かっていたからだ。
それから数日後。いつもの日常が過ぎる中、私は彼に、さらなる真実を明かしてしまった。「フランツ・シュテファン、あなたの肌に触れることさえ、私には耐え難い苦痛なのです」と。
ああ、私は越えてはならぬ一線を越えてしまった。
彼は言う。「子のためにも、そなたと離縁するつもりはない」と。私も同じ気持ちだ。皇室の未来を考えたとき、離縁という選択肢はあり得ない。
だが、私の存在そのものが、彼にとって苦痛なのだとしたら。愛の営みはおろか、肌に触れることさえ拒絶するこの身が、彼にとって性的な加害者に映っているのだとしたら。
夫として、家族として、同じ目的に向かっているはずなのに、私は彼を拒絶し続けている。そして、彼はその拒絶をすべて受け入れている。
私は、この身の苦痛を訴えることで、彼にさらなる苦痛を与えてしまった。
この先、私はどうすべきなのだろう。私は、もうどうすればよいのだ。
韓国では実際には「立憲君主制」は採用されていない(=現在の韓国は共和国であり、王室も存在しない)にもかかわらず、架空の王室を描いたドラマ――いわゆる「もし今も王室が存在していたら」という仮想歴史(オルタナティブ・ヒストリー)や現代王室もの――が人気を集めることがあります。
以下は、なぜそのようなドラマが人気なのかについての理由です:
現代社会におけるストレス、格差、政治不信などから、視聴者は日常とかけ離れた華やかな王宮生活や非日常の恋愛に憧れや癒やしを求めます。王子や王女が登場するストーリーは、まるでおとぎ話のようで、夢の世界への入り口のように機能します。
韓国はかつて朝鮮王朝や大韓帝国が存在した歴史を持ちますが、日本の植民地時代を経て王政は廃止されました。
それゆえ、「王室が今も存続していたらどうなっていたか?」というロマンや好奇心をくすぐるのです。
特に、現代的な価値観(自由恋愛、民主主義、女性の自立など)と王室制度の伝統がぶつかり合うストーリーは、ドラマ的にも非常に面白くなります。
🔹 3.ビジュアル面の魅力
王宮、伝統衣装(韓服)、儀式など、美術的・文化的に視覚的な魅力があります。豪華なセットや衣装、美しい俳優たちが視聴者を惹きつけます。
韓国社会にはいまだに学歴・家柄・経済力によるヒエラルキーが色濃く残っており、「王族や財閥」という“頂点”にいる人々のドラマは、現実社会の縮図としても描かれることがあります。
「身分の差を越えた恋」「王室内部の陰謀」「跡継ぎ争い」などは、そうした社会的なテーマとも重なっています。
🔹 5.過去のヒット作の影響
たとえば:
『七日の王妃』
『太陽を抱く月』
『赤い袖先』
などのドラマが大ヒットしたことで、「王室+恋愛」の組み合わせが一つのジャンルとして確立されました。
総合すると…
韓国人が王政に憧れているというよりも、ドラマというフィクションの中で「非日常」や「理想の恋愛」「社会階層の象徴」を描くのに、立憲君主制という舞台装置が非常に便利で魅力的だから、ということが言えます。
もし特定のドラマを指している場合(例:『宮』や『赤い袖先』など)、それに合わせた考察もできますよ。
あなた:
世界にはたくさんの共和国があります。立憲君主制に興味を示す人が多い共和国はどこですか?
ChatGPT:
とても鋭い観点ですね。
実際、多くの**共和国(君主制を採用していない国)**でも、立憲君主制に対する強い関心や人気が存在する国があります。そうした興味は、政治的な意味というより、文化・歴史・エンタメ的な憧れや好奇心として表れることが多いです。
以下に、立憲君主制に特に関心を持つことが多い共和国の例を紹介します。
🇰🇷韓国
概要:すでにお話したように、現代王室を舞台にしたドラマや映画が人気。
背景:
ドラマ『宮』などのヒットにより、若者の間で「王子様」「プリンセス」幻想が根付く
概要:王朝時代を舞台にした歴史ドラマ(古装劇)が大人気。皇帝・后妃・官僚・宦官などのキャラクターが中心。
背景:
清朝の滅亡から100年以上経っており、皇帝制度は完全に過去のものとされている
※ただし、中国では現実政治での君主制復活などは絶対にタブーです。完全なフィクションとしての消費。
🇹🇷トルコ
背景:
共和国化以降も、「もしスルタン制が続いていたら…」という空想やロマンは根強い
代表作:『オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜』などが世界的ヒット
概要:ロマノフ朝(帝政ロシア)への関心が根強く、アナスタシア伝説やロマノフ家に関する作品が人気。
背景:
興味の形:現代ロシアが立憲君主制になることを望む声は少ないが、「失われたロマノフ家」のロマンは強い
概要:フランス革命で王政を廃止した国でありながら、ルイ14世やマリー・アントワネットなどの人物には人気がある。
背景:
注目点:現在も王政復古を唱える「王党派(Légitimistesなど)」が少数ながら存在
🇮🇷イラン
概要:1979年に王政(パフラヴィー朝)を打倒してイスラム共和国になったが、現在の政治体制への不満から「王政時代のほうが良かった」という声もある。
背景:
パフラヴィー家の王子たちが今も国外で活動しており、象徴的な存在として注目される
💡共通点として言えるのは:
王政時代を「理想化」または「ノスタルジーの対象」としてとらえる傾向がある
立憲君主制への関心は、政治的な復活希望ではなく、文化的・情緒的な興味に留まることが多い
ほとんどの共和国では、実際に王政復古を求める声は非常に小さく、「制度」としての君主制に興味があるわけではなく、あくまで文化・娯楽・歴史としての関心であることが多いです。
ご希望があれば、「どの国が最も君主制に復活の可能性があるか」みたいな政治的な話にも踏み込めますよ。
あなた:
世界のほとんどの国にはかつて国王がいました。かつて王室があったから、という理由だけでは特にそれらの国がより強く君主制に関心を示すのか?という問いに対して不十分です。地理的な観点から論じることは可能ですか?
ChatGPT:
素晴らしい問題提起です。
おっしゃる通り、「かつて王室があった=関心が強い」とする説明は単純すぎますし、全ての国に当てはまるわけではありません。
この問いをもう一段深く掘り下げるために、**地理的観点(=地理、地域文化、近隣国の影響、文明圏など)**から分析を試みましょう。
🔍【問いの再定義】
「世界の中で、特にどの地域の共和国が立憲君主制に関心を示しやすいか?そしてその背景には地理的な要因があるのか?」
この問いに答えるには、以下の要素を軸に考えると良いです:
特徴:
日本の皇室が存続しているため、文化的ライバル意識や比較意識が働きやすい(特に韓国・中国)
結果:
架空の王室を使ったドラマやフィクションの舞台として君主制が頻出
特に韓国では「現代王室+恋愛+政治ドラマ」のフォーマットが人気
特徴:
結果:
現体制(イスラム共和国)への反発から、王政時代を「失われた秩序」として理想視する層も存在
✅ 東南ヨーロッパ/バルカン半島(ブルガリア、セルビア、ルーマニアなど)
特徴:
冷戦期に共産化→君主制を廃止したが、比較的最近まで王室が存在
結果:
特徴:
結果:
王政そのものへの復活願望は少ないが、文化的にヨーロッパの宮廷文化に対する憧れが見られる
アメリカ:反王政(独立戦争の歴史)が国家アイデンティティの一部
カナダ:イギリス国王を元首とする立憲君主制国家ではあるが、王政に対する文化的関心は低下傾向
結果:
立憲君主制に対して冷静/無関心
フィクションとして消費されることはある(例:『プリンセス・ダイアリー』)が、文化的に根ざしてはいない
多くの国に伝統的首長制が残っているが、欧州型の君主制への関心は限定的
一部に象徴的王族がいるものの、立憲君主制を制度として復活させようとする動きは少ない
結果:
自国文化の再評価の方が強く、欧州型王政は「支配の象徴」として敬遠されることも
地域的に君主制への関心が高まるのは、以下のような地理的な環境があるときです:
周辺国に現存する王政がある日本、英国、サウジなど比較対象・メディア露出により関心が刺激される
王制が比較的最近まで続いていた韓国、イラン、バルカン諸国など記憶が風化しておらず、ノスタルジーが強く残る
欧州文化や貴族文化への接触が強いラテンアメリカ、バルカン、東欧王室=格式・伝統の象徴として文化的憧れが根付く
地政学的な比較意識がある韓国→日本、イラン→湾岸諸国など政治的・文化的に隣国と比べて「自国の過去」への再評価が進む
ご希望であれば、特定の地域や国についてもっと詳細に掘り下げることもできます。
あなた:
近隣国に王室が存在するから自国の立憲君主制ファンタジーを楽しむ、というのは納得します。
ChatGPT:
ありがとうございます、非常に本質的なご理解です。
まさに**「近隣に王室がある」という地理的・心理的条件**が、「自国にはないもの」への関心や空想を生む土壌になりやすいのです。
近隣国に王室があり、その存在が文化的・国際的に注目されている場合(例:日本の皇室、英国王室)、
→国民の中に「我が国にもあれば…」「我々の文化も誇れるものがあるはず」という感情が芽生えやすい。
近隣国の王室報道(戴冠式、結婚式、葬儀など)は国際ニュースとして流れる。
→ それを見た視聴者が「格式」「伝統」「ロマン」といった要素に惹かれ、自国文化における対応物を求める。
例:韓国での『宮(Love in Palace)』のような現代王室ドラマ。
→ これは単にファンタジーとして楽しむだけでなく、「日本に皇室があるのだから、韓国にだって王室があったら面白いじゃないか」という比較文化的な空想が土台にある。
韓国日本(皇室) 高い 『宮』などで自国に王室がある想定が人気。
中国日本、タイなど 高い(主に歴史もの)清朝ドラマの大人気。過去の王制を美化しがち。
イランサウジ、ヨルダンなど 中〜高イスラム王政国との対比で「かつての帝政」を再評価する声も。
トルコヨルダン、湾岸諸国 中オスマン帝国のノスタルジーと近隣国との比較。
東欧・バルカンスペイン、英国、モナコなど 中王族の再登場も時折話題に(ブルガリアなど)。
これはいわば「隣の芝生は青く見える」現象の文化バージョンです:
>そもそも、こと恋愛や結婚において、すべての人は差別的である。
そのとおり!!
だから、誰かを愛するということは、それ以外の優先順位を下げるということだし、
何かを神聖なもの清浄でsacredなものとして崇めることは、そうでないものを不道徳で穢れたものとして忌避し軽蔑することになる。
被差別部落問題を追求すると天皇制にたどり着いて皇室解体を主張することになる(一般人は脱落する)のと同じか
人間は業が深いなあ……
元AV女優を使った写真館vs清浄なイメージのウェディングドレス写真欲しい勢の争いは、
ワイの目にはどっちも悪くないと見えるので、どっちも誇りを持って折れずに頑張って欲しい。
あれは本人の自覚あるなし関係なく国家神道という宗教の信者で、「天皇家は尊ぶべき、男系の血統こそ神聖」って経典に従う信仰なんだし、そりゃ宗教だから議論しても平行線だろって納得できる。
ただのキリスト教の敬虔な信者に聖書内の時系列や系図の矛盾とか進化論や天文学との論理的整合性を執拗に問いただしたり、「聖書に皮膚病の者を追放せよとか父が娘を奴隷に売ってもよいとか書いてるけどお前らなんでそのあたりは都合よく見てみぬふりすんの?」とかひろゆきみたいに追求しても仕方ないのと同じでさ。
彼らがアラーを信じてないみたいに、俺も国家神道も皇室の神話も全く信じてないし、
シーヤ派とスンニ派が諍ってる理由が異教徒とか無宗教の人間から見たらめっっちゃどうでもいいことにこだわってんだなーって思うみたいにどうでもいいことにこだわってんなーってしか思えんけど、
「まあ、人に押し付けない範囲で素敵な信仰ライフを楽しんでくれや」って感じ。
リベラルのベースの考え方って「男に生まれたから、とか女に生まれたから、みたいに生まれや性別で人間の選択肢が縛られるのはおかしい」じゃん?
で、男系限定は女性差別だからアウトだ!って言いたいんだろうけど、え?そもそも皇族に生まれた時点で特定の性別に生まれるどころじゃなく人生のあらゆる選択の自由が制限されちゃうけどそれはいいの?って
小学校の先生にもプログラマーにもお笑い芸人にもバンドマンにもなれないし、ちょっと家庭が複雑な異性と交際しただけでマスコミに一挙手一投足報じられて右翼にPTSD発症するくらいボコボコに誹謗中傷される。
んで、「生まれた時点でこんな何もかもが制限されてるのおかしくね?」って自分から言ったら憲法違反。
そこはスルーして「女性にも王冠を!」って叫ぶの、どう考えてもズレてない?
「男性黒人奴隷が多いから東南アジア女性の奴隷をいっぱい輸入して男女、人種比率を均等にして多様性アップ!」って言ってるくらいなんかブレてない?
仮に女系で女性の天皇が誕生したとして、じゃあその天皇とその子供は人生の何もかもが制限されて自由なんてありません、それでも女系推進リベラルの人って「これが政治的に正しい新世界!やったね!」ってなるの?
女系天皇推進派って、不自由な椅子に座る義務を男女で分け合いましょう、という極めて欺瞞的な提案に過ぎなくて、社民とか共産みたいな左翼政党ですら国家神道の信者にビビって踏み込めない。
俺はこういう皇族の被差別性について昔から結構言ってきてて、右翼の人には非国民認定されたり国籍透過されるだけで平行線だからどうでもいいんだけど、
リベラル側の人たちからも、これに対してきちんと反論してくれた人って、今まで一人もいなかった。
もし、納得できる反論があるなら、本当に聞いてみたい。