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はてなキーワード:発心とは

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2025-10-08

自民以外の総理だと参政支持が増えそう

自民以外が政権とったら反発心から次の選挙参政支持層もっと増えそうで怖い

俺は自民党は嫌いだけど、参政党よりはずっとマシだと思っていて、今は参政支持層を少しでもなだめるために自民党を総理大臣に据えとくのが無難な気がしている

Permalink |記事への反応(1) | 08:27

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2025-08-02

いわゆる被差別部落存在しない地域に生まれ育ったことを理由

被差別部落への知識が足りないか道徳的に劣った存在とみなすの

大概アレな地域差別じゃんって反発心を抱くんだけど

これも知識不足だから差別感情があるから思ってしまうて扱いになるんだろうか

Permalink |記事への反応(0) | 13:27

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2025-07-02

anond:20250702013209

あのな。

「願望」があるんだよ。

日本は凄い」という願望が。

でも実際は経済覇権取り損なって凄くなくなった。

ジャップランドが二度と覇権を取れないように西側は徹底的に手段を潰していった。

その中には日本精神性を弱らせるってのも入っているからね。

過去日本国が素晴らしい」と「侵略戦争当事者たる日本」っていうのは「両立」するからね。

過去否定することはできない。素晴らしいものがあったのは事実

例え綿々と続く歴史の果てに侵略戦争の萌芽があったとしても、それはそれ。戦前価値観全てが間違ってると言いたいのは分かるけど違うんだよ。

はい。この「違うんだよ」から大体は「願望」が結びつくわけよ。

勿論素晴らしかった歴史があるのは事実。でも、侵略戦争当事者、ってのは今の人たちには「関係ない」からね。

日本には素晴らしい言葉価値観がある「過去のことは水に流そう」。要するに例え何百万人何千万人殺そうが「過去過去。顧みるのはケチで野暮なダサくてセコい奴」ってことよ。

これは残念ながら日本人には徹底的に染み付いているし、これを解消すると多分普通にあちこち殺人が起こる。それぐらい「普遍的で大切にしている価値観」なんだよ。

でも、リベサヨシロン出羽守共は、ギャーギャー言う。彼らには「水に流す」がこの場合は悪いことだと本気で思っている。まぁ、ジャップランドの中だと異常者だよな。狂人だ。

狂人共にギャーギャー言われる価値観が、「関係ない」って言ってる人たちに刺さる?いや狂人共の戯言じゃん。そうなる。

その裏打ちが「過去日本国は素晴らしい!その証拠が~」であり「その物証破壊しているのが、アイツラリベサヨ!あと覇権国を狙う中国!その属国韓国!アイツラは敵だ!」ってなってる。

日本国は素晴らしい、という願望」を実現させてくれるのは、そう。陰謀論。そういう構図だから、そうそうひっくり返らないわけよ。

差別的だろうと、排外主義だろうと、迫害しようと、「願望実現と過去の栄光の奪還」ってなったらそうするだけなのだよ。

(反医療は、知識否定した反権威主義なので、純粋バカ。でも権威への反発はオマエラもしてるだろ。歴史的に長く維持されてるものへの反発心、無いとは言わさんよ?)

じゃあ、どうやって止めさせるかって?

オマエが、オマエラが、どうやって「夢を諦めた」か。それを思い出して、それを「年老い老い先短い老人」に叩き付けられるなら、そうすればいいんじゃね?

Permalink |記事への反応(1) | 15:30

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2025-06-06

anond:20250606095431

増田感想つぶやいた人の感情をとらえそこなってるだけじゃないのか

アピールではなく

単純に未成年売春宿(高級)に性欲よりも

強く嫌悪感や、富裕層顧客とみられる描写に対する不安や反発心

そっちの感情のほうが強いだけでは

Permalink |記事への反応(0) | 10:02

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2025-06-05

anond:20250605151740

匿名掲示板における「AIによる情報整理投稿」への罵倒否定的反応は、単なる感情的反応だけではなく、いくつかの客観的な要因や背景が絡み合っています。以下、主要な観点から客観的解説します。


✅ 1.文化的背景:匿名掲示板価値観
オリジナリティと"人間性"の重視

匿名掲示板文化では、

が重視される傾向があります

そのため、整った情報形式的投稿は「場のノリを理解していない」とみなされやすく、

AI由来の文体=冷たい/堅苦しい量産型という偏見も働きがちです。


✅ 2.技術不安・反発心
● 「AI人間領域侵食する」感覚

これが「AIくせえ書き込み」「ChatGPT帰れ」などの罵倒に変換されることがあります


✅ 3.AIによる投稿判別困難性とノイズ扱い
● 見分けがつかないことへの警戒
  • 実際にAIが書いたかどうかは文体や内容から完全には判別できないため、 「それっぽい文」があると疑いの目が向けられます
掲示板の「雑談性」とのミスマッチ

この場合、「情報として有用かどうか」よりも「場の調和を乱しているかどうか」が反発の主眼になります


✅ 4.匿名性ゆえの攻撃的反応
コストのない攻撃が容易


✅ 5.ポスト真実時代知識観の変化
● 「何が本物か」を問う時代


📌 まとめ:なぜ罵倒されるのか(総合
要因カテゴリ 内容
文化的要因自発性即興性を好む匿名文化に整ったAI文体が合わない
心理的要因AI自分の居場所を侵される不安・反発
機能的要因 会話や雑談の流れにそぐわない投稿が“異物化”される
社会的要因AI人間区別曖昧になることへの警戒
構造的要因匿名ゆえの免責構造攻撃が加速しやす


☑ 補足:建設的な対処法はあるか?

Permalink |記事への反応(0) | 15:27

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2025-03-17

anond:20250317205648

潜在的発心があるから

Permalink |記事への反応(0) | 23:32

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2025-02-22

例のCMは単純に出来の悪いアニメーションだったのでは

ここ数日例のCMを取り巻く出来事悶々とする日々が続いていたので、自分の考えを整理したいと思う。

これによって何か大きな動きを作りたいという意図は全くないし本意ではないが、「そんな考えもあるのか」程度に捉えてもらえたら幸いだなと思い、ネットに放流することにした。

まず、私があのCMを初めて見たのはネットで変に話題になる前にテレビ放送されていたものだった。(このCMオフィシャル情報を追っていないのでよくわからないが、web版のみである言及している人を結構見かけた。しかし私はテレビCMで目撃している…)

その時の率直な印象は「なんか気持ち悪いCMだな…」というものだったけど、だから放送を取り止めろだなんて思わないし、様々な理由から個人的に好きになれないものなんてたくさんある(個人的に異常に好きなものがあることと同じだと思っている)ので気にもしていなかった。

その数日後、X上でこのCMに対しての批判意見を見かけ、特にアクションを起こしたいわけでもない私は(同じ意見の人そこそこいるんだ〜)と軽い気持ちでそれを眺めていたが、その後それに同調する人とそれに反発する人が続々と現れ、Xは大騒ぎになってしまった。

これは何度でも言うが、私はこのCMが好きではないにせよ取り止めて欲しいとは全く思っていない。

しかしこのCMが好きではない人が数字で見れば無視できない程度にいるにも関わらず、大挙して「このCMを受け入れられないのはおかしい」という指摘が相次いだことに居心地の悪さを感じてしまった。

ただただ個人的に、(私のこの気持ちはそんなにおかし感覚なのか?)と暗澹たる思いが湧いてしまった。

そこでなぜ私はこのCM気持ち悪さを感じたのか、改めて考えてみようと思った。

X上では概ね、表現性的に捉えられた結果批判されているということになっているが、私個人感覚として何が不愉快だったのか向き合ってみることにした。

まず第一に私は何かを性的に描くこと自体特に発心はない。ただ、エッチものを見るときは「エッチものを見る」という気持ちを作っておきたい派。無条件で視界に入ることにはゲンナリしてしまう。

じゃああのCMエッチに描かれていたかというと個人的には微妙ラインだが、少なくとも主人公女の子をとてもかわいいものとして描こうという気概が溢れていたように思う。

これはこれまでの人生経験による感覚だが、人間に向けられた「かわいい」という言葉性的関心とリンクしないと考えることは私にとっては難しい。

なので私は人間をかわいく描くことは性的に魅力的に描くことと近く捉えてしまう。

それ自体否定する気持ちは全くないし、私もそうやって生み出されたものを見て魅力を感じたことが何度もある。

では今回感じた不快気持ちの根源はなんだったのか。

それは「かわいく描こうとするあまり行動に整合性が取れていなかったから」では、と思った。

涙目の姿がかわいい漏れ出る声がかわいい、こんな仕草かわいい、それを描くことに注力したがために「なぜそれをする状態になったのか」の説得力があまりにもなかったように思う。

テレビを見て感動し、それによって泣いている。

そしてうどんを食べるが、うどんに対して別の大きな感情を抱いているのかと思うほど「美味しい」のセリフ意味深

「んしょ」と言っているが、その音が漏れるような動作をしているように見えない…。

まり、「描きたいもの」を描くための理由けが甘いように思えたのだ。

ここまで杜撰な作劇を見せられると、最早主題とはあまり関係のない部分、散々言われている背景の作りだとか、なぜテレビを見ているのにテーブルにある眼鏡をかけないのかだとか、なぜ自宅でひとりまったりムードなのにベルトをしているのかだとか、なぜ泣きながら見ていたテレビチャンネルを変えるのかだとか、細かな作りの雑さが気になり作品自体への信頼度が落ちてしまう。

何もかもに意味を持たせてほしいとは言わないが、あまりにも意味のない、いい加減な表現が多すぎる。

当然初見時にここまでのことを感じたわけではなかったが、徹底的な作りの雑さによって全てがバラバラになった結果、女の子存在が浮いてしまい、ただかわいく見せるための装置に成り果てて見えてしまったのではないかと考えた。

フィクションに涙を流し、それはそれとしてうどんの美味しさに感動しているという、あまり繋がりを感じない流れではなく、実際に悲しい出来事があって、うどんの美味しさに感動しほっとするという流れとかではだめだったのか。

本来作り手の意図が多分に込められているであろう本筋にいちゃもんを付けるなんてことはしたくないのに、細かな部分のいい加減さも相まってそこにすら疑問が湧いてきてしまう。

今回制作会社クリエイターを守る声明を出していたが、多くの人手が加わっているであろうこの企画において強い決裁権を持っていたのは制作会社だと思うから、なんて頼もしい会社だろうと心から思った。

しかプロ仕事としてこの作品を世に出した感覚ちょっとからない。

作品を受け取る側の意見は「そんなこと気にしないよ」と思う人も多いと思うが、クリエイタープライドとしてこんなにいい加減で問題はないのか、と思ってしまう。

自分かわいい女の子を描くことにしか関心がない!」という考えだったとしても、ひとりで作っているわけではないんだから、どうすればかわいい女の子もっと素敵に描けるのか、周囲の人間は考えられることがあったのではないだろうか。

大作アニメ映画にも作り手の性癖はしばしば込められているが、その周囲の作りがとても丁寧だから敏感な人以外はそれに気づかない。今回のCMはそれらに比べると不快感を感じる人が多かったように思う。

今回のことをきっかけにX上で「斜めがけのカバンをかけているだけでいやらしいと言われる」だとか、「棒状のものを食べているだけでいやらしいと言われる」などの経験談が語られていた。

このふたつに関しては私も経験があり、当然不愉快な思いをしたため、そのあたりがエロいものへの過剰な忌避感に繋がっているのだろうかと思い、このCM不愉快に感じた部分を真剣に考えてみたが、結果として単純に作品の仕上がりがあまり良くなかったから歪に見えたというだけの話では、と思った。

今は技術的にも環境的にも個人で大きな作品を扱える世の中だけど、どうか改めて多くの人が関わって何かを作ることの意味を考えて欲しい。

そして作品を受け取る側は、いろんな意見人間がいることを受け入れて欲しい。

今の世の中はインターネット存在により、世界中価値観を一色に染めようとする方向に動いているように感じるが、私はどこまで受け入れどこまで拒否するかは各々のものさしで良いと思っている。

世界自分理想で染め上げたいならそういった活動をすればいいし、私のように自分に影響が及ぶ範囲不愉快でなければ良いと思うならインターネット意見感情を揺さぶられる必要はないのだ。

自分攻撃されていると感じたとしても、所詮ちらしの裏の落書きで、本来大した意味を持たないものなんだ。だから気にせず自分自身の生活現実環境を大切にしたい。今回インターネット意見を見て多少なりとも気落ちしてしまった自分自身への戒めも込めて。

Permalink |記事への反応(0) | 04:43

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2025-01-27

自分美容嫌いな理由が今わかった

 すっごい嫌々美容お金かけてる女だけど、なんで嫌々なのかようやくわかった。

 

 美容お金かけてる属性の女の性格がだいたい嫌いだからだ、、、。

 今ようやくわかった、、、。ただの反発心、、、。

Permalink |記事への反応(0) | 15:13

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2025-01-18

イーロン・マスクが憎い

 世界中メディアイーロン・マスク天才経営者として讃えるたび、心の奥底に沸き起こるのは猛烈な反発心だ。彼の壮大なビジョンや野心的な計画がもたらすインパクトは計り知れない。電気自動車での革新宇宙事業への投資さらにはSNSプラットフォームを買収して世界言論空間を一変させようとする姿勢――どれをとっても、彼が稀有な才能を持つリーダーであることは否定できないだろう。しかし、その裏側には、人を顧みない強引さや、誰もが乗り気でない環境一方的に変革しようとする独善性垣間見える。彼は常に「未来を創る」と言うが、その方法正当性はあるのか。私は強い疑問を抱かずにはいられない。

 特に、彼がSNS上で見せる軽率発言は、私の中にある嫌悪感さらに増幅させる。刺激的なツイート株価暗号通貨相場を乱高下させ、批判者を嘲笑し、炎上を煽るかのような行動を繰り返す姿は、リーダーというより権力を得た“トリックスター”のようだ。彼の言動を追いかける投資家や支持者は多く、SNSでは絶え間なく祭り上げられている。しかし、そうした「熱狂」が生まれるほどに、私は逆に強い反発を覚える。確かに並外れた頭脳や行動力を持つ人物ではあるが、その影響力をどう使うかという点で、彼はあまりにも無自覚ではないだろうか。

 テスラの急成長がもたらした電気自動車市場の拡大は、間違いなく自動車産業に大きな変革をもたらした。それまでガソリン車が主流だった市場をひっくり返し、世界的な環境意識の高まりに合わせて時代を先取りする――その功績は称賛に値する。だが同時に、「内部告発を試みた社員への圧力」「過酷労働環境」などが報じられるたび、私は苛立ちを禁じ得ない。美しい未来を掲げる一方で、その裏では「効率化」「革新」という名のもとに弱い立場の人々を切り捨ててはいいか企業トップとして、多大な責任を負っているはずの人物が、利益スピードのためなら人間性犠牲にしても良いと思っているのではないか――そんな疑念が拭えないのだ。

 さらツイッターを買収したことによって、彼の性格がより露わになったと感じる。コンテンツ規制言論の自由をめぐって賛否両論あるのは当然だが、長年にわたって築き上げられてきたプラットフォームの秩序を、一夜にして根本から覆そうとする様子には乱暴さを感じる。彼が純粋に「言論の自由」を守りたいと考えている部分もあるのかもしれない。だがそのやり方は、あまりにも一方的で、議論よりも強制が先に立っているように見えるのだ。市場ユーザーコミュニティに計り知れない影響を及ぼすのに、まるで実験場のように扱っている――そんな印象を拭えない。

 イーロン・マスクを支持する人々は、彼の天才性に魅せられているのだろう。既存常識を打ち破り、火星移住ハイパーループなど、大胆不敵な夢を語る。そのビジョンの壮大さは、多くの人の心を掴むだけのパワーを確かに持っている。だが私は、その華々しい夢の裏側を常に見てしまう。膨大な資金を動かし、何千何万という人々を働かせ、社会ルールを変えてしまうほどの権力を持っていながら、彼の言葉からは「共感」や「謙虚さ」が感じられない。むしろ自分けが正しい」という慢心が透けて見え、周囲を振り回すことで注目を集めているようにすら思う。

 なぜここまで拒否反応が強いのか。それはひとえに、彼が持つ「影響力の大きさ」にある。誰かが極端な意見を言うこと自体は、表現の自由範疇だろう。しかし、イーロン・マスクほどの知名度資本力を伴う人間が放つ言葉は、社会全体を揺るがしかねない重みを持っている。ところが、その発言や行動に時として慎重さがまるで感じられないのだ。「自分あくま一般人としてツイートしている」というような言い訳をするが、何千万・何億というフォロワーがいる「一般人」など存在するはずもない。こうした言動を繰り返す彼に対して、憎しみすら覚えてしまうのは、私だけではないだろう。

 また、彼のコミュニケーションスタイルがしばしば相手嘲笑するように感じられることも、嫌悪理由だ。議論批判に対して真摯に向き合うより、自分正当性を訴え、批判者をからかったり攻撃したりする。そのような姿勢は、強いリーダーシップというよりは、単なる攻撃衝動に近いものではないかと思う。カリスマ性を持つトップがそのように振る舞えば、多くの人が追従し、さら対立や分断が深まる構図が生まれるだろう。まるで、大きな声で威圧した者が勝つかのような、乱暴言論空間助長しているようにさえ感じる。

 もちろん、メディアは過剰に彼を煽っている部分もあるかもしれない。私たちが知るイーロン・マスク像は、メディアSNSを介して編集された一面だけだろう。しかし、そこから受け取れる情報だけでも十分に「過激であることは間違いない。もし彼に穏やかで思いやり深い一面があったとしても、表に出るのは挑発的な発言や、予測不能な行動ばかり。まるで、彼は注目を浴びるために、あえて波風を立てているようにすら見える。そして、その姿勢こそが彼のカリスマを強化し、信奉者を増やす一方で、私のような反発を覚える人間を確実に増やしているのだ。

 私はイーロン・マスクの実績をすべて否定するつもりはない。電気自動車市場の発展は、環境問題への意識を高め、産業構造を大きく変えるほどの影響力を持った。また、宇宙事業への参入によってスペース業界全体が活性化した面もあるだろう。だが、それらの「功績」がすべて肯定されるべきかというと、そうとは思えないのだ。なぜなら、そのプロセスや彼の姿勢に数多くの疑問や問題が散在しているかであるテスラ工場では社員への過重労働が報じられ、Twitter社の買収後には大量解雇が行われた。一方的リストラは、社員だけでなく利用者の信頼も損ねる結果になったはずだ。

 「革命児」と呼ばれる彼だが、そもそもその革命は誰のためのものなのか。人類全体の未来を切り開くために行動しているのか、それとも自己顕示自己満足のためなのか。もちろん、野心や自己顕示欲が全否定されるわけではないし、彼のような強烈なビジョンに突き動かされてこそ社会進歩する面もある。だが、そこに「協調」や「周囲への配慮」が欠けていれば、残るのは混沌犠牲だけではないだろうか。彼の一連の言動を見ていると、より良い未来を本当に望んでいるのか、それとも周囲を振り回しながら称賛を得ることに酔いしれているのか、判断に迷ってしまう。

 彼のメディア露出SNSでの動向は常にセンセーショナルだ。発言ひとつひとつ見出しになり、多くの人が熱狂的に反応する。その状況がさらに彼の影響力を拡大し、支持者は彼を「現代発明王」として崇拝する。だが、それは彼自身意図して作り出しているイメージ戦略でもあるかもしれない。自動車からロケット、そしてSNS運営まで、多岐にわたる分野で「既存常識を壊す男」としてのブランドを強烈に打ち出す。その裏には、おそらく綿密なマーケティングも働いているはずだ。

 こうした「自己プロデュース」の巧みさもまた、私の嫌悪感をあおる。もし彼が本当に未来のためだけを思って行動しているのなら、わざわざ挑発的な言動を繰り返したり、周囲を見下すような態度を取ったりしないのではないか。むしろ、その尖った姿勢こそが注目を集める秘訣であり、巨額の利益を生み出すエンジンになっている――そう考えると、ますます彼への不信感が募るばかりである

 また、彼のビジネス戦略資金調達の手法も、ときに「投機的」であるとして批判されてきた。彼のツイートひとつ暗号通貨価格が乱高下する様子は、社会全体を巻き込む大博打のようにも見える。もちろん、投資家たちはリスク承知のうえで参入しているのだろうが、そこに新たに巻き込まれ一般層もいるだろう。巨大な影響力を手にした人物が、その力をどこまで自制しているのか、外から判断がつきにくい。彼がいかに「自由」を標榜したところで、そうしたパワーバランスの偏りは真の自由からはほど遠いのではないか

 イーロン・マスクが嫌いだ、と口にすると、彼を称賛する人々から嫉妬」や「時代遅れの思考」と批判されることもある。しかし、それでも私は彼の一挙手一投足に警戒心を解くことができない。彼のような存在絶対的支持を集める社会は、一種の危うさを孕んでいると感じるからだ。リーダーが強引に物事推し進めることで、一見スピード感のある変革が進んでいるように見える。しかし、その過程で切り捨てられる価値観や人々の声を、私たちは本当に無視してよいのだろうか。

 私が彼を憎む理由は、こうした「社会的影響」を踏まえてもなお、彼があまりにも自己中心的に感じられるからだと言えるかもしれない。自分ビジョンこそが絶対に正しいと信じ、批判する者には容赦なくみつきさらには軽率一言世界中を混乱させる。そのカリスマが絶大だからこそ、多くの人が振り回されてしまう。それが彼の望む未来の形であれ、人々に「ついていかざるを得ない」状況を作り出すことこそが、彼の真の目論みなのではないか。そう疑ってしまうほど、彼の支配力は強力だ。

 もちろん、この強烈な拒否感は私自身の問題でもある。彼のように型破りな人間を受け入れられない、自分の閉鎖的な思考投影されているのかもしれない。あるいは、あれほど自由奔放にふるまいながら次々と成果を上げていく姿への嫉妬心や劣等感もあるのだろう。しかし、それでもなお、「イーロン・マスクが憎い」という感情は消えない。むしろ、その感情が湧き上がるほどに、彼の存在が大きいこと、そして社会全体に与えるインパクトが桁外れであることを痛感させられる。

 だからこそ、私は敢えて彼を批判し続ける必要を感じている。イーロン・マスクのような人物を「天才」「革命児」として無条件に称賛する風潮は、危うい夢を見せると同時に、多くの問題を覆い隠してしま可能性がある。私たちは、彼のような突出した才能を「絶対存在」として祭り上げるのではなく、その言動の裏にある思惑や影響力の行使について常に疑問を持ち、検証し続けなければならない。彼がもたらす革新が本当に世界を良くしているのか、それとも特定価値観や層だけが恩恵を受け、他の多くが犠牲を強いられているのか、冷静に見極める必要があるのだ。

 最終的に、イーロン・マスクをどう評価するかは人それぞれだろう。彼の型破りな行動力こそが新しい地平を切り開く鍵になると信じる人もいれば、私のように憎しみや反発を覚える人もいる。しかし、多様な意見存在することこそが社会前進させる。この「憎しみ」の声すらも、一つの大切な批判視点として意義があるのではないかと思う。彼の眩いばかりの成功カリスマに目を奪われる一方で、その裏側で踏みにじられているかもしれない人々の声に耳を傾ける必要がある。そうでなければ、未来を創るという名のもとに、ただ独裁的な支配が生まれしまうかもしれないのだから

 私は、イーロン・マスク存在自体をすべて否定するわけではない。むしろ、彼ほどの影響力を持つ人間が、もう少し「他者に対する配慮」や「謙虚さ」を備えていれば、今よりももっと多くの人々から純粋に支持されるだろうに、と残念でならない。そして、この憎しみの感情は、そんな「あり得たかもしれない別の姿」への期待を裏切られ続けてきた結果なのだろう。私は彼の言葉を聞くたびに、ああ、また無責任発言で誰かを傷つけているのではないか、と心配になる。その繰り返しが、私の中の反発心を強固なものにしているのだ。

 イーロン・マスクが語る夢やヴィジョンは確かに魅力的だ。火星移住に胸を躍らせる人もいるだろうし、電気自動車によるクリーン未来希望を見いだす人もいるだろう。彼が巻き起こしているイノベーションは、間違いなく人類歴史に残る大きな一歩でもある。だが、その過程で生まれ軋轢や混乱、そして彼自身傲慢ともいえる態度を見過ごしてはいけない。そこには、私たち社会本来つべき「相互理解」や「多様性尊重」が欠けているように思えてならない。

 だからこそ、「イーロン・マスクが憎い」という私の感情は、単なる個人感情以上の意味を持つのだと信じたい。彼のように突出した存在が現れるとき社会は否応なく揺さぶられ、さまざまな価値観の衝突が起こる。そのとき、無批判に称賛するだけでは、本質的問題には気づけないかもしれない。むしろ、強い反発心を抱く人々の声にこそ、彼の手法や態度が孕む危うさが映し出されていると考えてもよいのではないか

 私たち一人ひとりが彼をどう捉えるかによって、社会未来微妙に変化する。もしイーロン・マスクが真に誰もが幸せになる未来を望んでいるのなら、批判や反発の声にも耳を傾け、何が問題とされているのかを真摯に考えてほしい。その一方で、私たちもまた、自分たちが彼に何を求めているのかを見直す必要があるのだろう。彼の冒険心に夢を見たいのか、それとも彼が作るかもしれない新たな秩序に身を委ねたいのか。そして、そうした未来像に抵抗を覚えるならば、なぜ覚えるのか。その理由自分自身に問い続けることこそが、彼のような巨大な存在に対する「本当の対抗手段」になるはずだ。

 私がイーロン・マスクに憎しみに近い感情を抱くのは、彼が象徴するものが、私たち社会の抱える矛盾欲望をはっきりと映し出しているからかもしれない。彼の波乱万丈の行動は、私たちの心の奥底にある「常識を超えたい」「歴史に名を残したい」という野心を代弁している。同時に、そのためには他者を踏みにじってもよいという暗黙の了解すら示唆している。私はそこに嫌悪感を覚えずにはいられない。より良い未来を見たいと思いつつ、その実現手段にどうしようもない違和感を覚える。この相反する感情が「憎しみ」という強い言葉となって表出しているのだ。

 最終的に、イーロン・マスクを憎むかどうかは個人価値観によるだろう。彼を救世主のように思う人もいれば、私のように嫌悪感を募らせる人もいる。ただ、どちらの感情社会にとっては大切な警鐘であり、そこからまれ議論検証こそが真の進歩へと繋がっていくのではないかと思う。彼が生み出す革新光と影直視し、その功罪を冷静に評価する。それこそが、私たちが「イーロン・マスク」という巨大な存在と向き合うために欠かせない姿勢ではないだろうか。私が「イーロン・マスクが憎い」と感じるのは、きっと彼が放つまばゆい光の強さに目が焼かれ、影に潜む危険を見逃せないからなのである。彼は目を背けられないほどの影響力を持っているがゆえに、私たち葛藤を強いる。だからこそ、その存在について問い続けることが、社会未来にとっても重要なのだろう。

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2025-01-05

私はブラコンなのかもしれない

 幼い頃から私たちは“セット”として見られてきた。生まれた日も同じ、顔立ちもよく似ている――いわゆる“一卵性双生児”ではないけれど、それでも周りからは「双子っていいね、仲良しでしょ?」と言われ続けてきた。実際に仲が悪いわけではないし、ケンカらしいケンカしたことも数える程度しかない。

 私と兄は同じクラスに入ることが多くて、席替えときはいつも先生が「双子は離しておいたほうがいいわよね」と気をつかってくれたから、わざわざ離れた席にされたりもした。まあ、それはそれで気が楽だった。四六時中、兄の隣りにいるのはちょっと落ち着かないというか、どうも“完全なる一心同体”なんてことはありえないんだと、子どもながらにどこかで感じていたから。

 けれど、周囲のイメージとは裏腹に、私たち姉弟――いや、厳密には数分だけ兄が早く生まれた、という関係性――は、「まるで違うタイプ」の人間だった。性格も、好きなものも、行動パターンも、何もかも対照的

 兄は昔から落ち着いていて、実に要領がいい。小学校の頃から自然リーダー役を任されることが多くて、学級委員をやっていたこともある。友達は多いし、先生からの信頼も厚い。ふと気づけば彼を中心にグループができているような感じで、皆が「○○君に相談すれば大丈夫」「分からないことがあったら○○君に聞けばいい」と頼ってくる。本人はあまり偉ぶることもなく、いつも穏やかに笑いながらうまく場を収めていた。

 一方の私は、人前でしゃべるのも苦手だし、控えめに言っても“引っ込み思案”な性格だ。自己主張しないタイプで、どちらかと言うと集団より一人でいるほうが落ち着く。そんな私の横に、なんでも器用にこなしてしまう兄がいる――それがどれほど大きなコンプレックスを生むか、たぶん兄自身は気づいていない。

 双子の妹としては、兄のことを「尊敬している」という気持ちが確かにある。その一方で、「ああ、また兄が注目を集めてる」「私なんて何をしても目立たない」と思わず拗ねてしまう瞬間だって少なくない。

 たとえば、小学生とき学習発表会の劇で主役を決めるオーディションがあった。私は勇気を出して立候補してみたのだが、結果的にみんなの前でうまくセリフを言えず、途中で声が震えてしまった。恥ずかしくなって固まっていると、「じゃあ代わりに○○君やってみて」と先生が兄を指名した。すると、兄はほとんど練習もしていないはずなのに、しっかりセリフを頭に入れていて、堂々と演じてしまったのだ。そこにいたクラスメイトの拍手と歓声の大きさを思い出すと、今でも胸が苦しくなる。「これだよ、これ」と、みんなが“求める”のはいつも兄の方。私という存在は、最初からオプション扱いなんだ、なんて気持ちになってしまった。

 そうやって、「どうせ私は兄に敵わない」と思うと同時に、兄が称賛される姿を見て心のどこかで誇らしく思う自分もいた。この矛盾した感情を抱えながら成長していくうちに、私は自分がブラコンなのかもしれない、と思い始めた。

 ――ブラコン。そう、兄を強く慕う妹のことを、ネット友達同士の会話なんかでは気軽に「ブラコン」と呼ぶ。でも“好き”と言っても、それが恋愛感情であるはずがない。一方で、ただの家族愛だけとも言い切れない。自分でも整理しきれない妙な感情を“ブラコン”という軽い言葉ごまかしている気もした。

 中学生になってからも、この複雑な関係は続いた。中学校ではクラスが分かれることもあったし、部活動も別だった。兄はバスケ部、私は図書委員。これで少しは「双子セット」から解放されるかと思ったのに、周りの子にはすぐに「バスケ部の○○君の双子なんだ!」「あのイケメンの妹?」なんて言われる。兄が“イケメン”かどうかは正直私にはわからないけど、少なくともモテることは確かだった。

 それを素直に「すごいね」って思えればよかったけれど、現実は違った。私の中にはまたしても“嫉妬”とも言えるような感情が生まれていたのだ。

 兄が女子からチョコをもらってきた日、家に帰ったら「これ、好きな子から?」「気になってる子いるの?」と何気なく聞いてしま自分がいる。いや、妹として話題にするくらいは普通だろう。それでも内心では妙なざわつきを感じる。兄の恋愛想像するたびに、寂しいような、モヤモヤするような感情が胸のあたりで渦巻く。

 私はどうしようもなく「兄を意識しすぎている」と思った。たとえば学校テストの成績が出たとき掲示板に学年順位が張り出されると、私は自分順位より先に兄を探す。兄の成績が上位なら嬉しいし、誇らしい。だけど、いつも兄より下の順位自分がなんだか情けなくもなる。

 結局、私は兄の背中を追いかけているのか、それとも追い抜きたいと思っているのか、自分でもはっきりしない。そんな曖昧気持ちを抱えてしまうせいか勉強部活中途半端なまま、どんどん自分に自信をなくしていった。

 高校受験が迫ったとき先生には「同じ学校を受けることになるよね?」と当然のように言われた。両親も「双子なんだから同じ高校でいいじゃない」と笑っていた。だけど、私は少し反発心を抱いていた。いつまでも「兄の妹」として見られるのは嫌だったし、同じ進路を選ぶのが当たり前というのもなんだか癪に触った。

 しかし、結局は同じ高校に通うことになった。兄の成績ならもっとレベルの高い私立や、他の選択肢もあったはずだけど、彼は家から一番近い、いわゆる“県立の進学校”を選んだ。私としては心の底でほっとしたのかもしれない。だって、違う学校に進んでしまったら、毎日どんな気分になるのか想像もつかなかったから。

 高校に入り、部活も別々、クラスも別々になった。それなのに、噂はすぐに広まった。「あのイケメン双子」だの「お兄さんと妹さん全然似てない」だの、また私は地味な存在として扱われ、兄だけが注目されているという図式が出来上がる。私はその“いつもの光景”に、慣れてしまったのだろうか。辛い、悔しい、というよりも、「ああ、またこれだ」と自分を納得させてしまっていた。

 しかしその一方で、兄が自然クラスでも中心的存在になるのを見て、どこか安心している自分がいる。それは確かにブラコン的な感情なのかもしれない。だって、「あ、また人気者になっちゃってる」「でも、なんだか誇らしいかも」と思ってしまうのだから。変だと思いながらも、これが私の素直な気持ちだった。

 このまま大人になって、いつか兄が誰かと付き合ったり結婚したりすることになったら、私はどんなふうに感じるんだろう――そんな想像をすると、時々息苦しいような、不思議な寂しさが込み上げてくる。兄がいなくなるわけじゃないのに。「家族」から、ずっと一緒に暮らすわけじゃないとわかっているのに、なんとなく孤独を感じずにはいられない自分がいる。兄がいなければ、私のアイデンティティはどうなるのか。自分ひとりで立っていられるのか、不安になる。

 ある日の放課後、私は図書室で一人、本を読みながらうとうとしていた。すると、突然ガタガタと椅子が動く音がして、目の前に兄が座っていた。

「珍しいね。ここで何してんの?」

 兄は私がよくいる場所をわかっていたみたいで、わざわざ探しに来たらしい。

「いや、ちょっと疲れちゃって……寝てた」

 私が照れ隠しにそう言うと、兄は少し笑ってから、「今日部活早めに終わったからさ、待たせちゃ悪いし。帰ろうと思って」とあっさり言った。

 私が彼を待つなんて、そんなの当たり前じゃないのに。いつから私たちは、自然と同じ時間に家を出て、同じ時間に帰るようになっていた。もちろん都合が合わない日は別行動だけど、兄はできるだけ合わせようとしてくれる。

 私は不器用に本を閉じてバッグにしまいながら、少し早足で歩く兄の後ろ姿を見つめた。いつの間にか、背も私よりずっと高くなっていた。昔はほとんど同じ身長だったはずなのに。そんな変化ひとつひとつが、私の心をシクシクと痛めつけるような気がした。

 高校二年のある夜、兄がふいに私の部屋のドアをノックした。ドアを開けると、彼が少し困ったような表情で立っている。いつも余裕たっぷりの顔をしている兄にしては珍しい。

ちょっと、聞いてほしいことがあるんだけど……」

 そう言って兄は部屋に入ってきた。私は慌てて机の周りを片づけ、椅子を勧めた。何か深刻な話でもあるんだろうかと、胸が高鳴る。

「どうしたの?」と聞くと、兄は小さく息をついてから、「……おれ、告白されたんだ」と言った。

 瞬間、私は心臓が大きく跳ねた。体温が上がるのを感じる。なんだ、その話。自慢でもしてるの?――そんな意地悪い言葉が頭をかすめる。けれど、兄が思いのほか真剣な表情をしていることに気づき、私は思わず黙り込んだ。

「その……同じクラスの子なんだけど、バスケ試合をよく応援してくれてて、この前の大会終わってから声をかけられた。ちゃんと考えて答えたいんだけど、自分はどうしたらいいのかわからなくて……」

 兄はもともと人気者だし、告白くらい何度かされてもおかしくはない。けれど、彼がこんなふうに私に相談してくるのは初めてだった。

「どんな子なの?」と私は声を震わせないように気をつけながら尋ねる。

「明るくて、周りを盛り上げるのが得意な感じ。勉強も得意みたいだし、すごく……可愛いと思う」

 そこまで言われて、私はなんとも言えない感情に襲われた。可愛い子。兄がそう表現する女の子。おそらく兄にふさわしい、そういうタイプなんだろう。私とはまるで正反対の…。

 でも、私は笑顔を作って、「いいじゃない。付き合えば?」と返した。兄は意外そうな顔をして、「そっか……でも、なんだか変に緊張して気軽に返事できなくてさ」とさらに眉をひそめる。

「兄ちゃんがいいと思うなら、OKすればいいんだよ。あ、応援してるから

 声が上ずりそうなのをこらえながら、私は精一杯明るい口調を作った。兄は少し安心したように笑って、「そっか……ありがとう」と言い、私の部屋を出て行った。

 扉が閉まった瞬間、私は椅子に崩れ落ちた。ああ、終わった。そんな意味のわからない言葉が頭に浮かんでくる。私にとっては“何かが終わった”気がした。兄がこのまま誰かと付き合って、どんどん私の知らないところで大人になっていく……。その未来を思い描くと、胸の奥に大きな穴が空いたように感じる。

 あの夜から私は兄とどう接していいのかわからなくなった。どんな顔をすればいいのか、何を話せばいいのか。今まで自然と近かった距離が、一気に遠のいてしまったような気がする。

 それでも朝になれば兄と顔を合わせるし、一緒に家を出る。兄は普段通りに私に接してくれる。時には「行ってきます」と頭をポンと叩いて笑ってみせたり、何気ない雑談を振ったり。でも、私は妙なぎこちなさを拭えないまま、まともに目を合わせられなくなってしまった。

 兄のほうは私のそういう態度に気づいているのかいないのか、何も言わない。それが逆に辛かった。私が一方的意識しすぎているだけなんだと思い知らされるようで。

 しかし、数週間ほど経ったある日、兄はふと私の肩を掴んで、ぐるりと向かい合って言った。「お前、最近なんか変じゃない? 具合悪いのか?」と。私はドキッとして何も言えなくなり、目をそらそうとする。

もしかして、あれ……おれが告白された話、嫌だった? ごめん、変な相談して」

 兄はそう言って、気まずそうに視線を落とした。そのとき私は、頭の中がぐちゃぐちゃになったまま、「別に」と口走った。

別に、嫌とかじゃないし。良かったじゃん、兄ちゃん告白されて……」

「うん、でもなんかお前の態度が変だからさ。もしかして反対なのかと思って」

「なんで私が反対しなきゃいけないの。全然いいよ。早くOKすれば?」

 自分でもわかるほどに、投げやりな声になってしまう。兄は少しむっとした様子で、「何だよその言い方」と眉をしかめた。

 あ、もしかして今、兄がちょっと怒ってる? 珍しい。そんなことを考えた瞬間、私は突然涙がこぼれそうになって、慌てて目を閉じた。

「ごめん……」

 小さな声で謝ると、兄はそれ以上は何も言わずに、ほっと息をついて「わかったよ。とりあえず……ごめんな、変な空気なっちゃって」と呟き、また歩き出した。私は動揺したまま、背中を見送るしかなかった。

 私がブラコンなのかもしれない――そう意識し始めたのはいつのからだろう。ずっと昔から、兄は私の“特別”だった。それが家族愛だけなのか、別の感情が混ざっているのか、自分でもわからない。ただ一つ言えるのは、私は兄に強いコンプレックスを持ちながら、同時に強く惹かれているということ。

 テストで負ければ悔しいし、兄が誰かに好意を寄せれば胸が痛い。それでも、兄が元気で笑っていてくれると嬉しい。それはまるで、一方的片想いにも近いかもしれない――なんて考えるのは、やっぱりおかしいのかな。

 あれから何日か経った頃、兄は告白してくれた女の子に対して「もう少し時間がほしい」と伝えたらしく、今も決断できずにいるようだった。どういうことなんだろう。私は聞きたいと思いつつも、なかなか話しかけられないでいる。兄も自分からその話題を振ってはこない。

 でも、この中途半端状態が続くうちに、私は少しだけ気持ちに整理がつきはじめた。もし兄がその子と付き合うことを選んだら、私は素直に応援したい。兄の幸せを喜んであげたい。それが「妹」として当然の気持ちかもしれないし、私が抱えているコンプレックス嫉妬は、所詮家族愛の延長にある“わがまま”なのかもしれない。

 ある放課後、兄と帰り道を歩いていたら、ふいに兄が言った。

「おれさ、たぶん……その子と付き合うことになると思う」

 思わずどきりとしたが、私はできるだけ自然な声で「そっか」と返事した。すると兄は少し笑って、「まあ、お前とはずっと一緒にいるし、いろいろ相談してくれてもいいのに、最近は離れちゃってるからしかったわ」とポツリと呟いた。

別に離れてなんかないよ、兄ちゃんこそ勝手に決めつけないで」

 私は思わずふてくされたような口調になってしまい、すぐに言い過ぎたかと後悔した。でも兄は、「そっか」と柔らかく微笑んで肩をすくめるだけだった。私の中で、何かがほっと緩むのを感じる。兄はいつも通りだ。大きな変化が起きる前の、最後日常みたいにさえ思えた。

 その週末、兄は正直に返事をしたようで、結果として女の子正式に付き合うことになった。その報告を受けたとき、私は不思議と落ち着いていられた。ああ、本当に、兄に素敵な人が現れたんだな。良かった。きっとすごく似合う二人になるんだろうな。

 だけど夜になって一人になったとき、妙に胸が苦しくなって、泣きそうになる自分がいた。まるで失恋でもしたような――いや、これは失恋なのかもしれない。私が心のどこかで抱いていた「一番近い異性としての兄」が、誰かに取られてしまったような気持ち。そうとしか説明できない。

 ただ、それを口にするわけにはいかない。だって、そんなの兄にとっても彼女にとっても迷惑だし、何より自分自身が許せなかった。

 それからは、少しずつだけど状況は変わっていった。兄は放課後彼女と一緒に帰ることが増え、休日部活の合間を縫ってデートに出かけるらしい。家にいる時間も減ってきたし、リビングで顔を合わせてもスマホを気にしていることが多くなった。

 そんな姿を見るたびに、私は初めこそ「何それ」と拗ねそうになったけれど、次第に「ああ、これが普通なんだよね」と思えるようになった。いつまでも双子で一緒に行動して、べったりいられるわけじゃない。私たちはもう、高校生になって、少しずつ大人になる道を歩んでいる。兄が変わっていくように、私も自分自身で変わらなきゃいけない。コンプレックスに振り回されるだけじゃなくて、ちゃん自分人生を築く努力をしなくちゃ。

 そうして意識を切り替えるようになってから、私は自分自身もっと集中しようと考えた。成績を上げるために塾に通うことを決め、大学受験に向けて目標を明確にする。部活には入っていなかったけれど、放課後図書室に残って勉強する習慣をつけた。

 以前なら、兄と差を感じるたびに落ち込んでいたけれど、もうそれはやめよう。兄が私とは別の人生を歩むのは当然のことなんだ。私は私で、やるべきことに打ち込めばいい――そう思えるまでに時間はかかったけれど、兄が“誰かの彼氏”になることで、その覚悟ができた気がする。

 ただ、正直に言えば、私はまだ「兄が好きなんだな」と感じる瞬間がある。家でふと兄の靴が脱ぎ散らかしてあるのを見たら、「もうちゃんと揃えてよ」と文句を言いながらも、心が温かくなる。彼がリビングでぼーっとテレビを見ていると、いつものように軽口を叩き合いたくなる。そんな些細な日常が、やっぱり私は好きだ。だからこそ、これからもずっと“兄の妹”であり続ける自分を大切にしたいと思う。

 確かに、兄と比較して自分卑下してしまうこともあるし、兄に対する“ブラコン”めいた気持ちがふとした瞬間に疼くこともある。けれど、それも私の一部なんだろう。

 それに、コンプレックスを抱えながらも兄を慕っていた時間は、決して無駄ではなかった。兄を目標にしてきたから、こんな自分でも少しだけ頑張ることができたのかもしれない。だって、誰かを目標にしなければ、自分なんか何もせずに投げ出していただろうから

 将来、私たちが進む道はもっとバラバラになるだろう。大学へ行くのか、就職するのか、あるいは兄はさらに先の道を選ぶかもしれない。けれど、たとえどんな道を進もうと、私たち双子でありきょうだい。そこに嘘はないし、その事実は変わらない。

 ――もしかしたら、私は一生「ブラコン」かもしれない。時々、兄のことを思い出して「あの人は今どうしてるんだろう」と胸を締めつけられるように感じるかもしれない。それでも、私には私の人生があるし、兄にも兄の人生がある。お互いが自分の道を歩いて、それでも時々振り返ったときに「相変わらず元気そうだね」と笑い合える。そんな関係理想だ。

 だから私は今、「ブラコンかもしれない」という自分を受け入れつつ、少しずつ前を向こうと思っている。コンプレックスごと受け止めたうえで、兄のことを好きでいるし、同時に自分目標に向けて一歩ずつ前進していく。その先に待っているのがどんな未来なのかはわからない。でも、きっともう少し強くなった私なら、兄の存在に振り回されるばかりじゃなくなる――そんな期待を抱きながら、今日図書室の机に向かう。

 時々、顔を上げて窓の外を見つめると、校庭でバスケをしている兄の姿が見える。仲間と笑い合いながら走り回る姿は、いつも通りキラキラしていて、私の胸をかすかに痛めつける。それでも私は微笑んで、参考書に再び向き合う。

大丈夫大丈夫」と心でつぶやきながら。兄は兄で、私は私。二人で支え合い、時には離れて、それぞれの人生を歩んでいく。私のブラコンはきっと治らないかもしれない。でも、それでいい。そんな自分を認めてあげたら、少しだけ楽になれる気がする。

Permalink |記事への反応(0) | 14:34

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セックス経験豊富女性セックスダメ出しめっちゃ不快なんだけどわかる?

雑誌動画やその他でよくあるやつ

 

たとえ自分絶対そんなことしたことないということであってもすごく不快になると気付いた

あれだな、デートダメ出しナンパダメ出しファッションダメ出しも多分似てると思う

マナー講座への反発心に近いのかな?

 

自分はそこまで大量の経験があるわけじゃないけど

とにかくデートエッチ個人差が大きいから、お互いに知り合っていかなきゃならないものだと理解してるけど

なんかそういう個人差に触れる人は居ないんだよな

自分の中で絶対ルールをつくってそれ以外みとめないみたいな印象がある

相手を値踏みしてるのが嫌なのかもしれないし、値踏みするような相手セックスしてるのを軽蔑してるのかも?

 

まあ女同士で盛り上がるのはいいけどせめて見えないところでやってほしい

 

考えてみたら性別入れ替えて、女性下ネタの話で男同士で盛り上がれる人いるけど、あれも苦手だわ

風俗とか男同士で行きたくない3Pしんどい女性がやりたいというならやぶさかではないが)

Permalink |記事への反応(1) | 00:29

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2025-01-03

推しているカップリングが本編描写に爆破された場合のあれこれ

推しているカップリング否定されたときに「キャラ可哀想」「解釈違い」と言い出す人について

客観的に見て明らかな悲惨な扱いではなく、自分の望むカップリングが実現しなかった場合に「作者はキャラクターを理解していない」と批判する読者の心理には複雑な感情が絡み合っており、いくつかの要因が考えられます

1. 強烈な感情移入と理想投影
2.キャラクターへの所有意識と解釈の独占
3.ストーリーテリングへの期待と失望
4.コミュニティ内での共感と増幅
5.承認欲求自己顕示欲

「作者を尊重する読者」と「誹謗中傷する読者」のビッグファイブによる性格分析

ビッグファイブ(開放性、誠実性、外向性、協調性神経症傾向)は、個人性格多角的に捉えるための包括的モデルです。このモデルを用いて、「作者の意図尊重し、様々な展開を受け入れることができる読者」と「作者への憎しみを強め、ネット上での誹謗中傷を繰り返す読者」の性格傾向を分析してみましょう。

1. 作者の意図尊重し、様々な展開を受け入れることができる読者

他者視点感情理解し、共感する能力が高い傾向があります。作者の創造的な決定を尊重し、自分意見と異なる展開でも受け入れることができます対立を避け、友好的な関係を築くことを重視するため、攻撃的な言動に出る可能性は低いと考えられます

  • 誠実性が高い (High Conscientiousness)

作者が作り上げた作品尊重し、その意図理解しようと努めます衝動的な行動を避け、思慮深く行動するため、感情的な誹謗中傷に走る可能性は低いでしょう。

感情が安定しており、ストレスネガティブ感情比較的強く、動揺しにくい傾向があります作品の展開が自分の期待と異なっても、冷静に受け止め、過度に感情的になることは少ないと考えられます

  • 開放性は中程度~高い (Moderate to High Openness to Experience)

新しいアイデア経験に対して好奇心旺盛で、受け入れる柔軟性を持つ傾向があります。作者の意図や、自分の予想と異なる展開も、新たな視点として楽しむことができるかもしれません。

  • 外向性はあまり関係がない (Variable Extraversion)

外向性は、社交性や刺激を求める傾向に関連するため、作者の意図を受け入れるか否かには直接的な影響は少ないと考えられます内向的な読者でも、作者の意図尊重することは可能です。

2. 作者への憎しみを強め、ネット上での誹謗中傷を繰り返す読者

他者視点感情理解することが苦手で、共感性に欠ける傾向があります。作者の意図尊重せず、自分意見絶対視しがちです。批判的で攻撃的な態度を取りやすく、対立を恐れないため、誹謗中傷抵抗を感じにくいと考えられます

  • 誠実性が低い (Low Conscientiousness)

ネット上での匿名性を利用し、無責任言動に走りやすいと考えられます衝動的で計画性のない行動を取りやすいため、感情に任せて誹謗中傷を行う可能性があります

感情不安定で、ストレスネガティブ感情に過敏に反応し、動揺しやすい傾向があります作品の展開が自分の期待と異なると、強い怒りや憎しみを抱きやすく、その感情ネット上で発散しようとする可能性があります

  • 開放性は低い場合と高い場合がある (Low or High Openness to Experience)

低い場合自分の考えに固執し、作者の意図や異なる解釈を受け入れようとせず、攻撃的な言動に出る可能性があります。高い場合、型破りな考え方を好み、既存価値観破壊することに快感を覚える場合があります。それが作者への攻撃的な言動に繋がる可能性も考えられます

誹謗中傷は、直接的な対面コミュニケーションを避けて、匿名性の高いネット上で行われることが多いです。そのため、外向性が低い、つまり内向的な傾向を持つ人が、匿名性を利用して攻撃的な行動に出る可能性も考えられますしかし、集団誹謗中傷を行うケースもあるため、一概には言えません。

ビッグファイブによる分析では、「作者を尊重する読者」は協調性、誠実性が高く、神経症傾向が低い傾向があると考えられます。一方、「誹謗中傷する読者」は協調性、誠実性が低く、神経症傾向が高い傾向があると考えられますしかし、これはあくまで傾向であり、個々の読者の行動は、性格特性だけでなく、様々な要因によって影響を受けることを理解しておく必要があります重要なのは、どのような理由があれ、誹謗中傷は許されない行為であるということです。

Permalink |記事への反応(1) | 16:09

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2024-12-23

NGO寄付した

自分がかつて最低賃金に毛が生えた程度給与生活していた時代だったら生活が立ち行かなくなってるだろうくらいの金額

寄付に至るまでに考えていたことは色々あるのだが、大雑把には以下のようになる

自分はもともと「富裕な先進国に生まれただけで地球上で絶対的基準から言えば大いに恵まれた側であり、我々は生きるにも事欠くような貧困下にある人々を支援する道徳的義務を負っていることになる」というような話に同意するという向きがけっこうあった

ただ最低賃金に毛が生えたような給与生活していた期間が長く、生活身体に何かあった時の余裕というものが全くなかったため、申し訳ないことながらそれは他人事という感じだった

諸々あって今では手取りが増えたので、他人事ではなくなってきたというのがある(ちなみに子供を作ったり育てたりする予定がないのでそう言えるという面は間違いなくあると思う)

もう一つ、あらゆる問題が金金金で、拝金主義が極まっているように思える世の中に対する反発心というのもある

マジで金以外に興味関心がないのかという人間がそこら中に溢れかえっているし、ふるさと納税かい制度 あれをやらないと損をする制度みたいに見えてる奴がいるのは大層ヤバいと思う

感覚的には中国王朝の末期に専横を極めた宦官が私財を恣にするために設計した税制と大差ない

極めつけにムカつくことには、寄付白書があれを寄付として扱っているということだ

この底が抜けてるとしか思えない世の中へのカウンターとして、人は遠くの他者にも利他的に振る舞えるし、国際的な難題にコミットしているという感覚が得られる寄付というのは悪くないんじゃないかと思った

寄付をする人にも色んな動機があるだろうけど、自分場合世界を良くしたいという①だけでは多分踏み切れなくて、②のような気持ちになる度に少しずつゲージが溜まっていき、閾値を越えた今日行動に移したということになる

そこまできれいな理由ではないが、世の中がきれいではないのだからしょうがないのではないか

インターネットなんて人の足を引っ張りたい奴ばっかりなんだから顕名寄付の話とか出したら「こいつ去年はやったのに今年は寄付してない」みたいな嫌がらせ言及を受けるリスクがあるため、匿名でここに置く

Permalink |記事への反応(0) | 00:11

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2024-11-30

加害する障害者をどうすればいいんだよ?

障害者施設がある地域性犯罪が多いという直球の差別話題になっていたけど、

障害者による加害行為無罪でやりたい放題なのも事実なんだよな。彼らには責任能力がないから。

 

俺が通っていた小学校養護学校と隣の場所にあって、隔週で養護学校の子と一緒に給食を食べるスケジュールになっていた。

同学年の養護学校の子は2人いて、俺の通ってる小学校は1学年2クラスだったので、1クラスに1人ずつ養護の子が来る。

2人のうち1人は知的障害があり喋れないがおとなしい子だった。

もう一人は喋れないし大音量の奇声をあげて誰彼構わず殴りまくる子だった。

 

殴りまくる子が来るときは付き添いの養護の先生担任クラスの誰かが殴られる。

養護の子が来る週は、「おとなしいほうが来てくれ!」と祈ってたし、殴るほうが来るときは「ハズレ回だ…」と絶望してた。

俺も殴られたことあるし、友達も殴られたし、女子が殴られて号泣してたりもしたし、ハズレ障害児が来る日は暗黒だった。

そして殴られる側はどうすることもできなかった。障害児には責任能力がないからな。

怖がって泣きながら走り回る女子もいた。俺は怖がって走り回るのがダサいと思っていたから着席して耐えた。

着席していても走り回っていても殴られるときは殴られるし、

養護の先生担任がハズレ障害児を拘束するまで何発もグーで殴られながら耐えるしかなかった。

 

養護の子との食事ルールは、障害者偏見を持たないための交流教育目的として設けられていたのだろうけど、

ハズレ障害児のことが悪魔しか思えなかった。

健常者だから責任能力があり人を殴ると逮捕される「健常悪魔」と、

障害者から責任能力がなく人を殴っても逮捕されない「障害悪魔」の二種類があり、

絶対逮捕されない「障害悪魔」とはとにかく物理的な距離をおいて暮らしていくしかないという学習けが刷り込まれた。

 

実際、どうするんだよ。どれだけの暴力行為をしても逮捕されない奴とどう暮らしていくっていうんだよ?

養護のおばさんや担任クラスの面々がグーで殴られまくって阿鼻叫喚、俺も4回殴られ(計4発ではなく、拳で連打されるハズレ日が4回あったということ)、

とにかく耐えるしかないという経験は、本気で憎悪が刷り込まれトラウマになってるし、それを「障害者差別だ」と言われても反発心しかわかない。

あと障害者全員を差別してない。殴らない方の子に対しては怒りも憎しみも一切持ってなかった。

しろ人を殴る健常者よりも、殴らない障害者のほうが好ましい。重要なのはまず殴るか殴らないかであり、次に殴るやつを隔離できるかどうかだ。

まり憎いのは「健常悪魔」と「障害悪魔」の二種類で、絶対逮捕されない「障害悪魔」のほうがより憎いというだけだ。

それを「障害者差別だ」と言われても絶対に納得できない。

絶対共生などしない。絶対拒否する。

Permalink |記事への反応(20) | 16:52

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2024-10-30

隣が「イシュー化で進めない問題」じゃん

ホッテントリーのすぐ隣の記事を見て笑った。

皇室典範改正を勧告 選択的夫婦別姓導入を―国連委:時事ドットコム

おいおい、こんな近くに実例があるぜ。

日本人無意識下でモヤモヤしてるのに、国連がハッキリ言葉にしてイシュー化することで逆に反発心が生まれしまって先に進めなくなる。

これこそイシュー化で進めない問題の絶好の例だよw

Permalink |記事への反応(3) | 10:04

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2024-10-23

anond:20241023132403


1. 「自民党ダメから野党へ」という理屈矛盾

反論ポイントは、この理屈が短絡的かつ非建設である点です。政党選択は単なる「ダメから別の選択肢へ」というプロセス還元できるものではなく、有権者は各政党の具体的な政策、実績、ビジョンに基づいて判断すべきです。この「自民党ダメ」というだけで他の政党を支持する考え方は、長期的な政治的ビジョン理念を欠いています。むしろ、その場の感情や反発心に基づく選択短期的なものであり、安定した政治にはつながりません。また、政権交代が行われた場合の具体的な代案や政策ビジョンが明確に示されていない点も問題です。

2.自民党支持者を取り込む方が簡単

自民党支持者を取り込むことが簡単」という主張には根拠があります。長年政権を担ってきた自民党は、日本保守層や安定を求める層からの信頼を獲得しており、その基盤は非常に強固です。自民党支持層政治経験を重視し、野党の実績が乏しいと判断した場合、再び自民党に戻ることが容易です。また、無党派層選挙の鍵を握ることは事実ですが、無党派層投票行動は流動的であり、特定政党に対する支持が定着しにくい点も考慮する必要があります。そのため、自民党支持層を再度取り込む方が、無党派層の支持を獲得するよりも一貫した政治的支持を得やすいという見解妥当です。

3.一貫性のない支持行動への批判

時代や状況に応じて政党を変えることは許されるべきですが、それが一貫性を欠く行動として批判される理由は、政策理念に基づかず、単に「自民党ダメから」という感情的な動機に基づいている場合です。有権者選択は、その時々の政策や状況に基づくべきである一方で、短期的な不満や一時的な失敗に対する感情的な反応では、安定した政治的ビジョン提供できません。過去民主党政権時代の失敗を鑑みずに単に「反自民」というだけで野党を支持する行動は、結果として再び同じ失敗を繰り返すリスクを孕んでいます

4.ミラーリング視点

アンチ自民党の人たちが自民党支持者の視点理解していない」とする主張は的確です。実際、多くのアンチ自民党支持者は、自民党支持者の求める安定や長期的な実績、信頼感を軽視しがちです。両者の間で建設的な対話が欠如しているため、野党側はただ反対するだけではなく、具体的な政策ビジョン自民党支持層を説得する努力必要です。しかし、現状の野党はこの点で十分な説得力を持っていないため、自民党支持層からは支持を得られていないのが実情です。

結論

この意見に対しての反論は、短絡的な「自民党ダメから野党へ」という理屈は長期的な政治的安定を欠いている点、自民党支持層を取り込む方が戦略的に有利な点、一貫性を欠く選挙行動が信頼を損なうリスクがある点、そして、建設的な対話と具体的なビジョンの欠如が野党側の弱点である点を指摘することができます

Permalink |記事への反応(0) | 14:23

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2024-10-01

リベラル”のためのポリコレポルノになり果てた『虎に翼』は、「法」を全肯定しなくてはならなかった

法律なんてもの必要悪で、なくて済むならないほうがいい。

偏差値が高い高校ほど校則がゆるい」とよく言われる。実際、都立のある一番校では、制服なし、校則ほとんどなしだが、風紀は荒れていない。偏差値けが理由かどうかは疑問(家族状況、経済状態もあるだろうし、私立の高偏差値高校で薬物が蔓延っていたりもする)だが、決まりなどなくて済むのであれば、敢えて決まりをつくらないほうがその社会構成員無用ストレスを与えない、というのは事実だろう。押さえつけなければ反発心も起こらないのだ。

究極的に人間は、互いの生まれながらの尊厳を認め合い、「自分がされて嫌なことは他人にしない」という最低限の倫理を身につけていれば、法律などなくとも平和共存し得る。その理想が実現できないから、仕方なく法で自らを縛る必要があるのだ。

 

『虎に翼』最終回をで主人公が死んだ後、娘に「お母さんは法律のものだった」的なことを言われて、幽霊状態主人公が喜んでいたのは、私にとってはグロテスクなシーンだった。娘から必要悪、と言われていながら、満面の笑顔を浮かべる母。

あれだけ法が取りこぼしてしまった人間たちを見てきながら、まだ法に全幅の信頼をおいている主人公そもそも理解できなかったのだが、彼女最後まで法はアプリオリ人類必要もの、という認識でいたようだ。

新潟出会った少女の「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに、直ちに答えることができなかったのも当然だ。彼女には「自然法」という観点が欠如している。「人間が生まれながらにして平等で、それぞれに尊厳をもっている」ということが、“憲法によって与えられている”と考えているのだ。(正しくは“憲法によって保証されている“であり、尊厳自体アプリオリ存在する;憲法停止したら人権が失われるとでも思っているのか)

 

しかしこの逆転、このグロテスクさこそが、今のリベラル象徴しているとも言えよう。

グローバリズム多様性というお題目で、共感できる背景を共有しない者同士の共存を進めていけば、明文化された決まり法律けが、“相互理解”を増進するためのツールにならざるを得ない。そしてその法律が力を持ち、万能なツールとして必要以上に神格化されていく(あとはカネだけが共有可能価値となる)。それと同時に、それまでの社会構成していた重要な要素である感情的・非論理的物語的(説話的/神話的)な共感背景は無価値化されていく。

個人的には、尊属殺の重罰化は違憲だと思うが、家族は共に扶助すべきという民法の一文は意味があると考えている。「家族」というものが結局はフィクショナルなものだとしても、その“物語”を社会である程度守っていくことに価値はあると思うのだ。

 

上記新潟女生徒からの重大な投げかけの解決法にも心底がっかりした。

女生徒は死に、ダウングレードした娘に、主人公が何か感情的おためごかしを言って、解決してしまったのだ。まぁ上のような法への認識でいる主人公から仕方ない。その後彼女少年法改正についての委員会で「愛でしょ愛」などとまた感情的なことを言っていた。

真のリベラルからすれば彼女モデルが「家裁の母」と呼ばれていることに怒りを覚えるはずだが(なぜ“母”なのか、性差意味がないはず)、ここでの主人公の描かれ方は、まさしく保守的な「お母さん」像であった。

もはやこのドラマ立ち位置がわからなくなるほどの倒錯が起こっているように感じたが、実際こうでもしないとまとめることができなかったのだろう。そもそも彼女は法への姿勢という最初立ち位置から間違えているのだから

 

最初から最後までいわゆる「上級国民しか登場しないドラマであったが(上野の浮浪児くらいだろうか)、その恵まれ位置にいながら、たまに(ポーズのように)反省して見せるだけで、根本的なところでは法の無謬性を疑わなかった。原爆裁判を経て、主人公が変わるかと期待したが、結局はそのままだった。

残念なドラマではあったが、その時代には絶対にそういう発言をしていなかったであろうLGBTを描き始めたところで、ああこれはポリコレ好きのためのポルノなのねと諦めはじめていたので、最後の方は期待感も薄かった。

 

anond:20240822052827

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2024-09-23

ITエンジニアの職って生産性が人によって数十倍から百倍くらいは違う。

AIで要らなくなる人も出てくるし、自分不要側だろう。

でも自然と反抗心は沸かない。能力が低ければ職を失って当然という覚悟が元々あるからかな。

イラストレーター側は、外野からやられたから反発心は強いだろうけど。

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2024-09-09

anond:20240909084700

弁護士ドットコム

乳児への「予防接種拒否」で家裁が「親権喪失」決定…どんな背景があったのか?

という記事があり、判例があるのでこの場合、同等の判決が見込める。

その記事読んだけど、

記事の事例は特殊(元から家庭内ネグレクトあり。保健所への反発心からの接種拒否。)だから予防接種拒否事例として一般化するなって、弁護士が言っとるやん。

助けようと思う気持ちは分かるが、記事に書いてあることを捻じ曲げて、過度の期待をもたせるのは良くない。

https://www.bengo4.com/c_3/c_1030/n_4826/

はい親権制限というものは、家族への影響が非常に大きいものです。このため、できるだけ抑制的に行うべき決定です。ですから、このケースを『予防接種拒否理由に、親権喪失を認めた』という形で一般化すべきではないでしょう」

Permalink |記事への反応(1) | 14:46

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2024-08-29

anond:20240826234145

相手にそれだけ反発心持ってる時点で相当やばいだろ

Permalink |記事への反応(0) | 18:57

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2024-08-10

パンクと無関心

キークロンを買った、打鍵感を試している。キンドルを買った。あんまり読めていない。奥歯を抜いた。違和感がある。

明日、日付が変わって今日エアコンの取り替えがある。業者が来るからと、R18を含むタペストリーをすべて外した。

白い壁紙がヤニで汚れていた。思えば自分は、この部屋に15年以上住んでいる。親を無視して自室でタバコを吸い始めてからは、多分四年経った。父親も、俺が母親に言われなくなったのを境に、自室でタバコを吸うようになった。

狭い部屋だなと思った。小学の頃には、自分を含むちびっこ4人が集まってゲームをしていたのに、ヤニのせいか、そんなのよくできていたなと思う。

思えば弟が泣かなくなった。声もだいぶ低くなって、俺とは逆な濃いめの、しぶとい顔つきだ。メガネもよく似合っている。

数日ぶりに、シャワーを浴びた。坂本龍一インタビューを見ながら、6個くらいのオナホを洗った。さんまと話しているものと、当時新製品だったシンセインタビューだった。

数週間前に、坂本龍一の本を立ち読みした。30代でもバリバリ夜遊びして、2徹とか普通だったと書いてあって、すごいなと思った。

坂本龍一も、そんなにわかやす作風ではないのに、誰でも知っているんだよな、と思った。

YMOというより、ひょうきん族とか、ごっつええ感じとか、バラエティ番組にも露出が多かっただろうから、それにヒットした曲は、世俗であるよりも、高雅な感じもするし、インパクトが強いよな、って

自分が聞いていた頃は、みんな聞いていなかった。今では、みんなが聞いている。嫌なことではなくて、自分がつくった今の環境が、そういう環境なだけ。

逆にいうと、YMOも聞いていない人と仲良くするのをやめた、とも言える。

そんなのいちいち、選んだわけじゃない。連絡を取らなくなった人にも、YMOを聴いているやつだっていたはずだ。

ツイッターって、なんかガジェオタがやるようなインターフェースだったなと思い出した。PCは使いにくくて、アプリでも自分ホームにすぐアクセスできたり。

それでも当時も、使いにくかった。クライアントアプリを使っていた。

インスタもガジェオタっぽかった。

というか、ios7まで、ずっとガジェオタっぽかった。スタイリッシュな鈍臭さがあった。

ここ数年、自分がよく仲良くしている人は、年下がいっぱいいる。

つの間にか昔話ばかりしている。

へぇ〜と言ってほしい訳でも、教えたいわけでもない。思い出したから話すけれど、振り返ることばかりだなと思う。

流行に追いつけなくなっているのは、いつもそうだ。だって追いつこうとしていないから。

知らないことが多すぎても、困ることはない。

Youtubeで流れてくる動画を見ても、その再生からどれだけの知名度があるか分からない。UUUMホームページを見ても、若めの人たちはほとんど知らない。

ニコニコ復活記念のレッツゴー陰陽師も、知らない人が多かった。むしろ自分の好きな投稿者コラボしていた人はここに出るくらい、有名だったんだなと思った。

自分は、反発心から何かを無理に好きになったりはしない。継続して好きでいられない。

好きなものの反対が、メジャーであるメインストリームである、ということも、マイナーアンダーグラウンドである、というくくりもできない。

何かを貶して揚げると悲しくなる。けどそう言いたくもなる。邦ロックが好きなカスどもには分からんだろうなとか。

けれど、振り返ってみると、自分そもそもロック出会ってすらいない。あれがダメ、これがダメかいう前に、好きだと思う人と同程度の知りかたをしていない。

どれだけ他のジャンルに詳しくても、それを比較するような仕方でしか語れない。

自分はもう老いているのかなと思う。

父親パンクが好きだ。日本ハードコアについてだったら、土地ごとに有名バンドを挙げられる。

「ぎゃーんって鳴って、それが気持ちよければ、もう最高なんです」とか、ギターを握って言うのが気持ち悪い。

流行りの曲は全部、歌謡曲と言う。でも久保田早紀とか寺尾聰とか、リビングで流れてくると、いい曲だよなーと言って当時のことを語る。

感無量といった表情で、疲れえ果てて〜♪ いることは〜♪ とマイクを持っているようにして、歌ったりする。

高卒で働きまくって、結婚して子供もいて、何がパンクだ、ハードコアだ、とずっと思っている。

最近のお前はすごいとは思うけど、俺はお前の音楽の良さが分からない。全く、分からない。俺はそこらへんの音楽に興味がない」

と、言われたとき、あっそう、と思った。

俺はジョニーロットンもジョンライドンも好きなのになあ。

俺も、興味のないものが増えたなあ。

Permalink |記事への反応(0) | 02:40

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2024-06-16

MVグロテスク何が悪いのか

コロンブスMVについてはあっという間に公開停止になったし、ミュージシャン当人が謝ってるんだからそれで終わりにすればいいもの

延々と叩き続けているから反発心が沸いてくるんだけど、

グロテスクって言うけれどMVグロテスク何が悪いの?って思う。

自分最近音楽をあまり聞かないから、コロンブスMVを見て連想したのはアニメ呪術廻戦2期の後期OP「SPECIALZ」のMVなんだよね

このMV一見して見るからグロテスクで、

児童達が机に向かわされて五寸釘を打たされたり、渋谷ミサイルが落ちてきたりする。

原作に詳しい人の考察を見るに、どうやらアニメ2期の渋谷事変及びその後の原作の内容に沿って作られた含みのあるMVのようだ。

そう考えると実によく出来たMVだと思う

https://note.com/c__gr78/n/n80fed4361bf9


そういう事もあって、グロテスクから悪いとは全然思えないんだよね

白人先住民土地勝手に押し入り、労働力として酷使して教化してきた。相手を同じ人間として扱わず、劣った猿のようなものとして扱った

そういう歴史グロテスクだ。

その通り。だからそういう現実を突き付けて、衆目に晒す必要があるんじゃないのか。

グロテスクから駄目、では臭いものに蓋をして済ますのと同じじゃないか

この世界における人種差別は終わってない。現在進行形だ。

日本人差別される側だ。コロナ禍のアメリカではアジア系に対する暴行が多発したし、アカデミー賞授賞式で白人受賞者が前年のアジア系受賞者からオスカー像の授与を無視したのも記憶に新しい。その日本人コロンブスを演じる事に意味がある。

コロンブスに対する批判特によく分からないのは、日本人白人を演じるのは名誉白人だとかい批判なんだよね。

いや、だからいいんじゃないの?白人がそのまま演じたら単なる残酷歴史再現になるところを、

有色人種である日本人が演じるから皮肉として機能してるんじゃないの?お前ら白人有色人種より上位だと思っているんだろうけれど、所詮中身は同じ猿ですよっていう。良いメッセージだと思うんだけど。

多分、演じるのが黒人だったらもっと分かりやす風刺として受け止められて絶賛されてたと思うよ?

日本人がやってもいない過去の悪行を、何故か白人と同じ目線反省する事の方がよっぽど名誉白人仕草だと思うよ。


まあコカ・コーラという商品販促に用いるにはどうよってのはあるだろうけれど、

それこそ西洋列強による植民地支配に対する(有色人種から見た)糾弾と、(白人から見た)反省って事で、グローバルな商品展開を考えたら寧ろ政治的に正しい表現にすら見える。

差別なんて存在しませんという顔をしているよりもよっぽどポリティカルにコレクトだと思うよ。

Permalink |記事への反応(0) | 01:29

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2024-05-23

anond:20240522141140

氷河期って年功序列制度への反発心のせいでベテランも若手もフラット組織が良いみたいな勘違いしてて、若手の見本になるとかそういう発想が無いんだよな。

Permalink |記事への反応(1) | 15:15

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2024-05-14

ある種自分社会性のなさを実感した

とある場で新人研修を行う事となった。

自分社会経験豊富ではない上、今まで小さい会社に勤めていただけだったから、こういった仕事は初めてだった。

 

で、新人たち。まぁ見事に挨拶もしない、返事もしない。こちらが問いかけても全く無反応。

一人だけ反応しようと素振りが見られるが、周りが静かすぎて合わせて沈黙する結果、全員が無反応。

自分たちが社外の人間からだろうか、とも思っていたが、直属の上司にも全く同じ反応。

「連絡事項があります」と声をかけても、喋ることをやめない。

まぁ、社会経験のなさか……よく言われるZ世代の特徴か……?とは思いながら、そこは現状様子を見ている。

 

ちなみに、ここの社風はなかなかに古風なThe体育会系だ。(研修プログラムの中に、走り込みや登山などがある)

そんな感じだからか、勝手偏見で「こんなだりぃ事やってられっかよ!」みたいな、反発心があるかといえばそこは全然なかった。

とにかく自主性がない。いわれたことはきちんとやる。その代わり、いわれたこと以外は全くしない。

今回の学習方針が「自主性を育てる」だったのも相まって、割と研修者に決定権を委ねる、という事を多々行っているが、皆とにかく困惑する。

誰も動かない上に「いやそっちで決めろよ」という空気すら流れる

 

そんな研修者たちの自主性のなさや熱量の低さと社風の古式ゆかしいシステムが、第三者から見ていてあまりにもアンマッチだった。

とても不思議感覚を覚えた。

都会とは到底言えぬ場所会社を構え、その周辺に引っ越しをさせる。ある人はアパートマンションを借り、ある人は社宅へ居を構える。

居住地でさえ会社に縛られる。その他の様々なアクティブ雰囲気をまとった行事あいまって研修者の性質とのギャップを感じ、頭をひねった。

自分なら間違いなく息苦しさを覚えて、こうも変な風習に縛られるのなら、さっさと離脱してしまうだろうな、と考えた。

 

でもすぐに、こういうのって割と社会人として普通なんだろうな、と思った。

自分社会経験の薄さもあいまって判断に困るのだが、それでもある種自分社会性がないのだな、と気付いた。

ただ、最近若い子は~……と括るのは正直ナンセンスだとは思うのだが、現状はどうなのだろうか。

やはり自主性にも主体性にも乏しいのだろうか。個人的には、そこに恐怖すら感じる。

Permalink |記事への反応(1) | 14:09

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2024-05-02

ケントゥリア』はバカ漫画であることに気付いた

[4話]ケントゥリアジャンプ

https://shonenjumpplus.com/episode/17106371853177785584

ジャンプ+のケントゥリア、期待して読んでいたものの4話まで来てかなり酷いなと感じた。

作者の力量にすら疑問符が付く内容だった。

  

4話あらすじ

辺境勤務?の兵士山小屋生活していた主人公ユリアンくんが

働き口を探す気になり近くの村を紹介してもらう。 

ところが村のリーダーから「お前には信用が無い」「足手まといは村全体の負担になる」と言われて

なんかテストとして石運びをするイベントが始まってしまう。

 

その村は鉄鉱石採掘が主産業らしく

テスト内容は「崩落した穴の土石を一人で運び出してみろ」というもの

そんで主人公内面葛藤とかなんやかんやあるんだけど、

夜中には仕事完了して見守っていた村人達も感嘆、労働者として認められる。 

   

…これもうすべてがおかしいでしょ?

おかしポイントを以下に羅列していく  

  

  

1.「「子供から」を理由能力を疑って働かせない

主人公ユリアン君はミドルティーンって感じの年頃だけど、

こんな原始的産業なら子供は十分に戦力。

どこの世界でも第一次産業では子供に手伝わせるし何ならその為に子供を作る。

ユリアン君よりもっと小さい子にも仕事がある筈なので、

逞しい少年ユリアン君が塩対応される意味が全く分からない。

教養レベル知識や観察力が無いように見える。

   

  

2.労基なんかないのにテストしている

村人が労働能力を疑ってるんなら

「とりあえず小石運びとか雑用からやらせてみて勤まらなければ帰す」でいいわけ

わざわざテストなんか課す理由はどこにもない。テストだってコストがかかる。

現代で試用期間だの面接だのがあるのは労働者権利が守られてるからであって

奴隷上等のこの世界なら一日働かせて「「この役立たず!給金なんかねーぞ帰れ!」でいいか

コストかけてテストしてるのがシュール過ぎる。

 

現代日本では労働者権利が守られてる&労働の高度化のために

ダメな奴を一旦でも雇うとコストが相当高くつく

ダメな奴にやらせられる仕事がないどころか触らせたことで台無しになる可能性がある

みたいなことはあるんだけど、作者はその現代日本の感覚のまま話を考えている。

自分の作った世界の諸条件に合わせて人物の行動を考えるということが出来てない。

   

   

3.紹介者に対して相当失礼

ユリアン少年は村のそば半年生活していて、同居して面倒見てくれてたのは先述の兵士

今回の話もその兵士が村に働き口の世話を依頼している。

 

それでこんなテストしたら完全に兵士喧嘩売ってるだろ。

兵士と村人との関係も詳細は不明だが、こういう話をするぐらいの関係ではある。

その兵士が身元を保証する少年労働に使ってやってくれって言ってるのにこの対応

「村人が兵士に相当険悪な反発心を抱いている」みたいな設定があるならいいけどたぶんないでしょ?

 

「有難いお申し出ですけどこの子ちょっとまだ小さいようで…」と兵士に談判するか、

兵士の顔を立てるために誰でも出来る雑用を与えるかとなるはず。

人間関係社会的な行動についての想像力が相当低い(たぶん実体験が乏しい)。 

     

 

4.村人総出でテストを見守っている

暇すぎるだろ。

なんでよそ者の子供一人のテストに村人があんなに集まってるの?今日はまつりか?

 

しか最初だけとかじゃなくて石を運び始めてもまだいる。

一個目の時も背景にどう見ても数十人単位でいる。

半分まで行った時にもまだ同じ密度でいる。

ユリアンが石を運び終わった夜中にも同じ感じで村人が沢山いる。

   

新入り労働者クオリティに「村の足を引っ張るんじゃないか?」ときついテストしてくるほど生産性に厳しい村の人間

何十人も朝から晩までくだらない石運びテストを興味深く見守っている。

そんなに暇なのもおかしいし、そんなものに関心が続くのもおかしい。

これ本当に何も考えずに絵を描いてないだろうか。

   

   

5.自他境界あいまいなだけだったのでは?それも1話から

主人公ユリアンにとってこの石運びが死んだ仲間やディアナ母への決意表明だったとしても

そんなことは他人には関係ないし伝わってもいないのだから、外から見ればただの石運びなので

ただただ退屈な石運びを見つめ続けられるわけもないし心を打たれるわけもない。

  

なのに描いてる人にはたぶんユリアン視点しかないために

村人の視野とか村人の都合とか村人の思考とかを想像する能力が無く

ユリアン君が頑張ると村人がずっと一緒に見つめ続けて感動するという有り得ない展開になってる。

 

これは精神的発達段階としてはかなり未成熟段階の認知だと思う。

絵が素晴らしく巧みなのでギャップがあるが、描かれてるものだけ見ると相当稚拙なんではないだろうか。

   

全然裏切らずに命を捧げてくる奴隷仲間の時からなんか変な感じが漂っていた

(が、善良ベース世界を描いているのかなと保留されていた)部分が

実はただの幼稚な精神世界産物だったのではないか

  

もちろん、裏切り者が出てくれば成熟した精神世界だとか言ってるのではない。   

そうではなくて各キャラ独立した都合や思考が想定されているか、その上でユリアンに命を託してくれているのか、

と言う話をしている。

      

  

6.これ絵が上手過ぎるのでは

巧みで重厚作画を外して読んでみてほしい。

そうやって眺めるとわりと幼稚なバカ漫画に見える。

   

漫画において幼稚もバカ別に必ずしも致命的欠点ではない。

まりただただた絵と内容が合ってない。

上手い絵で粗い内容を読まされると人間心理としては段々不快感イライラがたまってくるので

このままなら『ケントゥリア』はそのうちアンチ的な感想が増えて叩かれるようになると予想する。

(その前に順位が下がって世間の関心から外れなければ。)

    

今はまだ『ケントゥリア』が期待され持ち上げられている段階なので

こういう予想は不快荒らし逆張りとして攻撃されるが

連中は単に判断が遅いだけである

 

怪獣8号も2話3話で「これは期待外れかも」「普通漫画になってしまった」と書いたら

はてブで盛大に否定され揶揄されたが結果はごらんの通りだ。  

  

 

7.作者は真面目な人

作者は絵に対して真面目で打ち込むタイプに見える。

殆ど作家モブなんて理由をつけて減らしたいと考えてるのに

描かなくていい村人を描いちゃうぐらいには絵に賭けてる。

しかすると実は内容が薄い自覚があって絵だけでもと思ってるのかもしれない、

   

けれども作家としての成長を考えるなら&『ケントゥリア』の成功を考えるなら

絵をもっと内容のレベルに合うぐらい粗っぽくしつつ

内容のレベルもっと上げられるようにコツコツ頑張る

というアプローチが良い気がする。

 

粗い内容は粗い絵の方がいい。

バカ武器パッションである

Permalink |記事への反応(7) | 09:46

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