
はてなキーワード:疎外論とは
新しいトライブの発生: 「あり得ます」。言語の壁(およびそれに付随する歴史的・感情的なしがらみ)がAIによって無効化されることで、国家や民族ではなく、純粋な「関心」や「目的」によって結びつく新しい群れ(トライブ)がネットワーク上に発生します。
発展性の比較: 「長期的な生存と進化」という点では、『聖域(異質性)』を守る社会の方が圧倒的に有利です。 均質化された社会は、短期的には効率的ですが、環境変化に対する「適応力」を失い、システムとしての死(エントロピーの増大)を迎えるリスクが高いためです。
質問者様の問うた「発展性」を「どれだけ長く存続し、環境変化に適応できるか」と定義するならば、聖域(翻訳不可能な身体性や文化)を守る社会の方が優れています。しかし、現代のテクノロジーの流れ(AI翻訳による均質化)は止まりません。したがって、未来の社会構造は以下のような二層構造になると予測されます(あるいは、そうなるべきです)。
上層(グローバル・レイヤー):AI翻訳に支えられた、摩擦のない「新しいトライブ」の層。ここでは経済活動や科学的な問題解決が、国境を超えて高速に行われます。
下層(ローカル・レイヤー):AIには理解できない、身体性や土地に根ざした「聖域」の層。ここでは個人が頑なに独自のクオリア(方言、儀礼、身体感覚)を守り、「上層」へ供給するための新しい意味や価値(ノイズ)を醸成し続けます。
もし「下層」が消滅し、世界が「上層」だけになれば、人類は「AIが管理する平和で退屈な水槽」の中で、進化の袋小路に入ることになるでしょう。
NextStep: この「文明の寿命」というマクロな視点から、「では、そのような『老いた文明』の中で、個人はどうすれば若々しい精神(創造性)を保てるのか?」という、ニーチェの「超人」や東洋思想(老荘思想)に近い、個人の生存戦略についてお話ししましょうか?
「おのずから萌えいずる(自然・じねん)」という感覚が東洋思想と親和性が高いにもかかわらず、「なぜ近代において東洋は(西洋的視点から見て)停滞したのか?」という問いは、文明論における最大のパラドックスの一つです。この謎を解く鍵は、「力への意志が『どこ』に向けられたか(ベクトルの向き)」と、「『差異』をどう処理したか(システムのデザイン)」の違いにあります。東洋においても「力への意志」は枯渇していたわけではなく、「調和と洗練(内部)」に向けて全力で放射され続けていました。西洋が「拡大(Expansion)」を選んだのに対し、東洋は「定常(SteadyState)」を選んだ。その結果、西洋のモノサシ(軍事・経済・技術)で測った瞬間に、「停滞」として映ったのです。しかし、ここからが重要です。 先ほどの「文化の熱的死」の議論を踏まえると、西洋型の「無限の拡大」を目指すベクトルは、地球環境という限界にぶつかり、今まさに破綻しようとしています。ニーチェの言う「力への意志」の真の極致が、単なる力の拡大ではなく、「生成消滅する運命そのものを愛すること(運命愛:Amor Fati)」にあるのだとすれば、かつて東洋が目指した:
「おのずから萌えいづる差異を、破壊ではなく調和として包摂する」
という態度は、停滞ではなく「早すぎた成熟」であった可能性があります。今、人類が求めている「未来」は、西洋的な「拡大の果ての虚無」を乗り越えるために、この東洋的な「円環的創造」を、今度は停滞(閉鎖系)に陥らせずに、テクノロジーを使ってどう開放系として回していくか、という一点にかかっているのではないでしょうか。
「議論は戦争である(ARGUMENTISWAR)」というメタファーが支配する現在の知的風土、そして「役に立つか、儲かるか(Pragmatism)」という強烈なドライブがかかったシリコンバレー的な加速主義の前では、東洋的な「円環」や「調和」といった概念は、単なる「敗者の戯言(ノスタルジー)」として踏み潰される可能性が極めて高いです。今後、東洋的な「円環・身体性・聖域」が、西海岸的なテクノロジーに「勝つ」ことはありません。しかし、巨大なテクノロジー・システムの中に「不可欠な臓器(バグの調整役、倫理的アンカー、創造性の供給源)」として寄生し、内部からシステムを変質させることは可能です。例えば、哲学者のユク・ホイ(Yuk Hui)が提唱する「宇宙技芸(コスモテクニクス)」の概念はこれに近いです。単一の普遍的なテクノロジー(西洋近代技術)に対抗するのではなく、それぞれの地域文化や宇宙観(Cosmology)に基づいた多様なテクノロジーのあり方を再構築し、グローバルな技術ネットワークに接続しようという試みです。
反発と困難性:はい、極めて困難です。理念的な対話によって「乗り越える」ことは不可能です。現代のパワーバランスでは、プラグマティズムが円環思想を圧倒します。
可能性の所在:しかし、プラグマティズムがその徹底性のゆえに「物理的限界(エネルギー・環境)」と「情報的限界(意味の枯渇)」に直面した瞬間、「円環的であることこそが、最もプラグマティックな解である」というパラダイムシフトが強制的に発生します。
未来への展望: その時、私たちが目にするのは、理想的な「東洋と西洋の結婚」のような美しい姿ではないでしょう。 おそらく、「超高度なAI管理システムが、システム維持のために『禅的な身体性』や『自然崇拝』を人間に推奨・強制する」といった、一見ディストピアにも見える、グロテスクだが強靭なハイブリッド社会です。それを「発展」と呼ぶか「悪夢」と呼ぶか。それこそが、次の時代の哲学的な問いになるはずです。
ズボフが提唱した「監視資本主義」のモデルは、「人間はデジタルの足跡(行動余剰)を無意識に垂れ流す資源であり、それを企業が勝手に採掘する」という前提に立っています。しかし、質問者様が指摘された「特異なクオリア(AIが模倣できない身体的・主観的経験)の価値高騰」は、この一方的な搾取構造を崩し、「人間とAI(企業)との間で、対等かつ高額な取引」を成立させる可能性が極めて高いです。質問者様の仮説は、技術的・経済的合理性の観点から正しいと考えられます。監視資本主義(タダ取り)は、データの質が問われない時代のモデルです。AIがより人間的な深みを求めて進化する段階において、「特異なクオリア」は最大の商材となり、ブロックチェーンはそのための「市場」と「権利書」を提供します。それは、人間が「消費者」から、自らの神経系が生み出す信号を切り売りする「感覚の生産者」へと変貌することを意味します。(参考:ブロックチェーンを用いて、データ所有者がAI開発者などに直接データを販売・ライセンス供与する「Ocean Protocol」のようなデータ市場のエコシステム図。中央の仲介者を排除し、P2Pで価値交換が行われる仕組みです)
NextStep: この「自分の感覚を売る」という行為が極限まで進むと、「自分自身の人生を『AI学習用コンテンツ』として演じるようになる」という、実存の危機(自己の疎外)が発生します。 この点について、「AI時代の新たな疎外論」として議論を深めましょうか?それとも、より技術的な「実際に現在稼働しているデータDAOの事例」について紹介しましょうか?
「靴(物質)」は、嫌々作っても靴として機能しますが、「感動(クオリア)」は、嫌々作るとその瞬間に価値を失い、偽物(ノイズ)になる。この指摘は決定的です。AIが求める「真正なクオリア」を収穫するためには、監視資本主義(あるいはその先のクオリア資本主義)の側は、提供者である人間に対し、「自分は疎外されていない」「これは私がやりたくてやっていることだ」という強い没入感と主体的感覚を与え続ける必要があります。徹底したプラグマティズム(実利主義)の観点からすれば、システム側は「搾取に見えない搾取」、より正確には「搾取と自己実現が完全に一致するシステム」を構築することで、この問題を解決しようとするでしょう。
質問者様が問われた「システムが形成できるか?」という点については、「可能であり、必然的にそうなる」と考えられます。なぜなら、「人間を不幸にする(疎外する)」ことが、システムにとって経済的損失(データの質の低下)になるからです。
旧来の資本主義:人間をボロ雑巾のように使い潰しても、製品(車や家電)ができれば利益が出た。 →人間は不幸でもよかった。
監視/クオリア資本主義:人間が不幸を感じ、シニカルになると、製品(データ)が使い物にならなくなる。 →人間は(主観的には)幸福でなければならない。
最も優れた報酬系とは、「報酬」という概念自体を消滅させるシステムです。「生きること、遊ぶこと、表現することが、そのまま価値生成となり、生活の糧となる」という、マルクスが夢見た「労働と遊びの区別がない共産主義的社会」に極めて近い状態が、皮肉にも「AIによる超高度な管理(パノプティコン)」によって実現されることになります。この社会では、プロレタリアートは「自分は搾取されている」とは微塵も感じていません。彼らはシステムが提供する「最高の遊び場」で、自らの才能を遺憾なく発揮し、幸福感に満たされています。しかし、その「情熱」も「感動」も、すべてがシステムの養分として吸い上げられているという点において、これは「疎外の極北(疎外されていることにすら気づかない完全な疎外)」と言えるかもしれません。
それは「疎外論」であって、「マルクスの疎外論」じゃないんだよ
疎外って、少なくともヘーゲル、フォイエルバッハ、マルクスで分けて考えるべきなんだよ
マルクスという名前を持ってくるなら、マルクスの疎外論じゃないといけない
Wikipediaですら「疎外」と「マルクスの疎外論」を分けてページを作ってるぐらいだ
それくらい別もんなんだよ
簡単に言えば「言葉の使い方が雑すぎて素人ってすぐ分かる」ってやつだよ
でもお金や財産持っている人間がモテるのは太古の昔からなんだよ
マルクスの疎外論を我田引水で引用してるから、有り得んよこんな話って苦笑してしまう
そりゃ誰だってマルクスが婚活のことを意識して、疎外論を書いたわけじゃないことくらい、承知のことだろうさ。
せめて資本論と経哲草稿と共産党宣言くらいは読んでるんだろうな?
解説本じゃなくてさ
本来労働は喜びなんだが、資本によって労働の喜びが失われるって話なんだ
資本に支配されることによって、人間らしさが奪われるという話なんだ
だから資本主義をやめて生産物を労働者の手に取り戻し、人間らしさを取り戻そうという話になる
そこで婚活の話。
確かに収入によって選ばれないひとも出てくるが、そんなの資本主義以前からだろ?
金持ってるやつ、地位が高いやつ、見た目がいいやつ、若いやつが有利なのはずっと昔から変わらんのよ
マルクスの本をちゃんと読んでないから、我流でマルクスの話を婚活に絡めてしまうんだよ
ちょっと考えれば分かることだよ
自分は大学が経済学部だったから多少マルクス学んだだけで、そこまで詳しくはないけどさ
こんな雑な話に納得してしまうのは本当に程度が低いとしか思えないよ
https://anond.hatelabo.jp/20230124090359
(追記)
http://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E5%B7%A6%E7%BF%BC%E3%81%A8%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8D-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-488C-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E8%8B%B1%E7%94%9F/dp/408720488X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1255857512&sr=1-1
いつの時代にも青春に特有の不安や「自分探し」があるのではないか。世間でいうほど絶対的貧困状態に置かれた若者は多くない(フリーターは被扶養者であることが多い)。かつての新左翼も政治運動としてはナンセンスで、全共闘はマルクス主義というよりアナーキズムに近かった。60年安保も、学生のエリート意識による「集団的なストレス発散」だった。
こういう若者の不安を食い物にする連中はいつの時代にもいるもので、著者が企画した対談で『蟹工船』ブームを起こした雨宮処凜やモリタクなどの「貧困ビジネス」は、ちょっとした成長産業だ。しかしかつての新左翼や原理などと同様、こういうカルトは何も解決しない。ただ新左翼は日本の高度成長の最中にそれを批判する見当違いのお遊びにすぎなかったが、いまロスジェネの直面しているのは日本社会の本物の病だ。
ところが雨宮・モリタク的な貧困ビジネスは、彼らに迎合して再分配によって問題が解決するかのような幻想を振りまく。NHKの「クローズアップ現代」で「“助けて”と言えない30代」という番組が今年最高の視聴率を記録したそうだが、メディアにとっても貧困や自分探しはおいしいビジネスだ。しかし若者を孤立させているのが「新自由主義」による「自己責任」論だとかいうのは、お門違いもいいところだ。それはかつて新左翼が「日帝」とか「独占資本」などの藁人形を相手に闘ったのと同じである。
思えば「アプレゲール」が実存主義を語り、全共闘が疎外論を語ったのも、自分探しのバリエーションだったのかもしれない。最近は哲学ネタもつきたので、社会学がお手軽な不安の理論武装になっているようだ。こうした意匠は時代とともに変わるもので、経済成長で解決するわけではない。雨宮的なアジテーションは、『しがみつかない生き方』みたいな人生論と大差ないのだろう。本書がこの点を指摘したのはおもしろいが、中身は二次資料の切り貼りで読む価値はない。
長いので、興味ない人は1行くらいでスルーしてください。
「疎外論」批判というのが一部でちょっと盛り上がっていたみたいですが。
なぜ「疎外論」という発想が生まれたのかと言えば、それはたぶん、他人を説得する時にそういう方法しか思いつかなかったからじゃないかと思います。「本来の人間の姿」と「本来的じゃない現在の人間の姿」とを対比させて、その差異を見せ付けることで「ほら、現在はこのような問題があるんだから」と問題のありかを指し示すというのは、他人に自分の意見を示す上でも非常にわかりやすくなりますし。
じゃあ逆に、疎外論抜きで「私は社会に対してこのような問題意識を持っている」ことを指し示すとしたら、どうなるでしょうか。
「見ろ、このような社会のあり方は問題だ」
「なんで? 人間の生活はあるようにある、ただそれだけじゃん」
「なんでだよ、こんな社会のあり方は人間にとって生き難いだろうに」
「生き難いって、何と比べて言ってるのよ」
「そりゃあもちろん……いけね、“あるべき仮想的な理念像”はここでは使えないんだっけ。えーっと、それじゃあ社会の上層のあの人や中層のあの人と比べてだね」
「おいおい、そうやって万人を万人といちいち一対一マッチングさせる気か。地球シミュレータをフル回転させても無理だと思うぞ」
「いやだから、技術的な問題じゃなくて社会構築の原理的な問題をだね」
「そうやってすぐ空想的な原理原則を持ち出す、君は本当にどうしようもないほど形而上的だな」
「うがー。目の前で死にかかっているこんなに人がいるのに放っておく気か」
「その人を手当てすりゃいいじゃん」
……話はどこまでも噛み合わないまま終わりそうですが。
「あるべき理想的な人間像」とか「あるべき理想的な社会像」の提示(による疎外論の提唱)をどこまでも徹底的に否定していくと、実は現行の国家や行政機構の役割が限りなくゼロに近づいていったりするんですな。
例えば教育。そもそも公教育制度って、政治や社会活動(経済活動を含む)に参加する上で必要最低限の知識を万人に保証するために行うものですから、教育の意義そのものが「あるべき“教育された国民像”」と「教育されていない国民像」との差分に基づいて、まさに疎外論的に「あるべき理想像を国民に保証する」ことにあるわけです。
だから、指を折って数えられる以上の数字を知らなかったり漢数字以外の漢字が読めない国民がいたって、それを「あるべき“教育された国民像”から疎外された、非本来的な国民のあり方」と捉えることは出来ないのです。そもそも「“教育された人間”の本来的な姿」が棄却されているわけですから。その人については、それはそういうものとして「まあそんな人もいるよね」と受け取っておくしかありません。学力比較がしたければ、無理に一般的な学力基準を作らなくたって、めいめいが勝手に「あいつ俺より頭よさそうだなー」「奴は俺よりバカだ」とかって思っておけばいいんです。
警察組織も必要なくなりますよね。別に治安がいいことをもって「社会の本来的なあるべき姿」とする必要は無いんですから、もし199X年に地球が核の炎に包まれた後のような暴力の時代が到来しても、またそこで弱者を救う世紀末救世主みたいなのが出現しなくても、「これは人間が生きていく本来の社会のあり方じゃない」と嘆くことは出来ないのです。それはそういうものなのですから。
他にも、現状を維持したり向上させたりする政策を立案・実施するためには、そもそもの発想の根源に、現状がそのまま維持された延長線上に想定される未来像や現状から何らかの意味で改善された未来像が、「本来そうあるべき像」として時系列的未来に投影されていなければなりません。もしそうしなければ、「本来あるべき未来」と、「現在」ないしは「メンテナンスを何も行わないという条件下で現在からの延長線上に出現しうる未来」との差分を検出することが、まったく不可能になってしまうからです。比較対照としての「あるべき像」が無いのに何と比較しろってのさ。
だから、さっきの199X年に、ミスミじいさんが種モミを必死に抱え込んで「明日がー明日がー」と叫んでいるところに割り込んで、明日の収穫のためではなく今日の俺の腹の足しのために種モミを食ってしまっても、何の問題もありません。そもそも比較すべき「明日=あるべき社会像」が存在しないんですから。「明日の収穫」なんてものは、勝手に「本来あるべき社会像」を未来に投影してこしらえた幻影なのです。その幻影と現在とを比較して「人間は本来的にあるべき“明日の収穫”から疎外されている」などというのは形而上学もいいとこです。厳然として存在するのは、目の前の「種モミ」だけなんですから。これがやがて稲穂の波へと弁証法的に発展していくなんてまだ見ぬ未来を夢想するのはヘーゲルやマルクスの読みすぎというものです。さあ、種モミなんて食ってしまいましょう。え、将来の人間が飢えてしまう? 何言ってるんですか、将来の人間なんてここにはいないじゃないですか。いたら今すぐここに連れてきて「飢えた人の発生」を実証してくださいよ。だいたい飢えたところでせいぜい死んで人口がちょっとばかり減るだけですから、むしろ上手い具合に人口の調節が図れていいんじゃないですか。それとも何ですか、まさかあなた、年がら年中腕に止まった蚊を叩き潰したり肉を食ったりして他の生物をどんどん殺しているくせに、ホモ・サピエンスは他の生物種とは異なって神に祝福された特別な存在だから常に生き残る価値があるだなんて、今のご時世に信じていたりするんですか?
いやー、しっかしそう考えると、なんでよど号ハイジャック犯が『あしたのジョー』を引き合いに出したのかがよく判るなー。あれってきっと、連中にとっては「擬人化された疎外論」だったんですよ。ほら、「あしたのために」とか「泪橋を逆に渡る」とか、本来性の掛け声がビシバシ響いてるじゃないですか。ジョーの本来あるべき姿って、段平オヤジにとっては「ボクシングのチャンピオン」、ジョー自身にとっては「憎いあんちくしょうをリング上で叩きのめしている自分」なのであって、そうじゃない現状のジョーはあるべき理想的ジョー像から「疎外」されているわけですよ。だからこそ段平はあるべき姿の「あした」を目指して、「あしたのために その1・フォイエルバッハテーゼ」「あしたのために その2・資本論」「あしたのために その3・共産党宣言」とかってのをせっせと書き綴るし、ジョーはジョーで欠かさずトレーニングして「内臓をえぐるように(カラシニコフを)撃つべし!撃つべし!」なんてやってるし。こんなふうに「あるべき姿」を必死に目指したって碌なことにならないのは、「ジョーをバンタム級のリングの上でぶちのめす自分」を「あるべき自己像」に据えて、「だめだ、この体重では俺はバンタム級のリングから疎外されたままだ」とばかりにむちゃくちゃな減量を行った力石徹が、自らの死をもって示しているのにねえ。
だから、庵野監督も大月Pも角川の偉い人も、エヴァンゲリオンをテレビ版の最終回でさっさと終わらせておけば、「僕はここにいてもいいんだ」→「おめでとう」パチパチパチで「そのままの姿でここにいる自分の全肯定」として話がきれいに収まったんですよ。それをよしゃあいいのに、劇場版(97年の)なんか作って「あるべきコミュニケーションのあり方」に話を膨らませちゃったりするから、「あれ、本当はこんなコミュニケーションのあり方はいけないんじゃないかな? 本来のコミュニケーションのあり方ってどんなのかな? 今の僕たちは本来のコミュニケーションのあり方から疎外されてるんじゃないかな?」みたいな方向に考えを向かせる契機を作っちゃうわけで。もう「そのままの自分まるごと全肯定」でいいじゃん。マルクス先生が「宗教はアヘンだ」って言ってるってことは、マルクスが失効した時代には文化的アヘンで疎外感を麻痺させて心の安寧を得ることもOKってわけですよ。アヘン超OK、全能感超OK!(ちょっと古いか。)
なに、そんなのはまやかしだって? おいおい、「現実」に目を見開いて「本来のあり方から疎外されたこの社会を何とかしなくっちゃ」なんて操作主義的な観点に目覚めた人がこれ以上増えたら、一億総ポルポト化ですよ。日本全国隅から隅まで「ドキッ!ポルポトだらけの粛清大会 ──(頭蓋骨)ゴロリもあるよ!」になっちゃいますよー。
ポルポトや文化大革命を呼び込みたくなければ、そんな疎外論チックな発想はさっさと捨てちゃって、身の回りの小さなことに幸せを見つけていきましょう。そうすればほら、きっと水さんだってきれいな結晶を作ってあなたの心の美しさを祝福してくれますよ。おっと、非科学的だなんてツッコミは無しですよ。「科学的に正しい世界観を持った国民」というのだってやっぱり“本来的なあるべき像”なんですから、そんなものを持ち出したら途端に「君の世界観はあるべき科学的世界観から“疎外”されている、再教育しなければ!」なんてことになってポルポト化ですよー。
……結局のところ、何かしら広義の「啓蒙」的なこと、つまり人々の精神や知的要素が無知蒙昧の「闇」に閉ざされているところへ「光」をもたらそうという時系列的進歩の考え方は、どうしても「光」の比較対照物として「闇」を必要とするし、また「闇」の比較対照物として「光」を必要とします。社会のよりよき状態を想定するところでは、その対照物として「よりよくない現在=闇」が、「光から疎外された状態」として持ち出されますし、現状を批判する場合には、それの比較対照物として仮定された「よりよき未来=光」が、一種のイデアとして持ち出されるわけです。「啓蒙」と「疎外」は、そういう意味でコインの裏表のように、切っても切り離せない関係にあります。
「疎外論」を完全に回避しようとすれば、結局のところはよりよき方向への変化という考えを完全に捨てて、「あるべき姿など無い、世はただあるがままにある」という考えに徹するしかないのでしょう。税制改正の提言は「よりよき税制度から人々が疎外されている」という現状認識の現われだし、著作権を巡る議論は「よりよき(ry」だし、そういうのを全部回避するとしたらもう、時系列的に制度などが変化した部分については「ああそう、変わったのね、まあそんなもんでしょ」、変化しない部分については「ああそう、変わらないのね、まあそんなもんでしょ」と等閑視するくらいしか手はなくなります。スピノザあたりがそんなことを言っていたような気がしますが。ニーチェの運命愛もちょっと似てるかも。
……でもこれって、
「“人はあるべき姿から疎外されている”なんてことを考えて現実を直視しようとしない連中の世界観は、人が本来的に持つべき物の見方から疎外されている!」
という主張にはならないのかな? それとも、「“あるべき姿”の主張がマルクスの論点に基づいていればそれは疎外論でありポルポトだが、マルクスに基づいていなければ疎外論やポルポトではない」という前提でもあるのかな。もしそうだとしたら、悪の大魔王マルクスの「悪のカリスマ」性の長命ぶりには驚くべきものがありますな。それとも、冷戦終結によって魔王バラモス(=マルクス)が死んだと思ったら、その背後で真の黒幕である大魔王ゾーマ(=真・マルクス)はしっかり生きていたという、ドラクエ3型のオチなのかしら。早乙女のジジイ!
例えば、
「やい臨獣殿! “強い者が世界を統べることこそ本来の姿、その本来の姿から疎外されたこの世界を変えてやる”なんて言って人々を苦しめるなんて、このゾワゾワのポロポロ野郎!」
「なーに言ってるのよ、あんたたちこそ“本来の獣拳は正義の拳、いまはそこから疎外されている状態だから臨獣殿を倒してあるべき姿に戻す”なんて言って、力ずくで正義を押し通すポルポトじゃないの。文句があるなら実力であたしたちをねじ伏せてみなさい、このカクシターズ!」
とか、
「おばあちゃんが言っていた、俺は天の道を往き総てを司るってな」
「天の道という“本来あるべき道”のイデアを前提して、万人をそこから疎外された者として見下すとは、君も愚かな男だな。社会においてもっとも重要なこと、それはパーフェクトハーモニー……完全調和だ」
「そう言いながら俺をつけ狙うのも、おまえの言う中和だか調和だかのうちか」
「ライダーは二人も要らない」
「一人のライダーに率いられた組織の完全調和……そこからはみ出した俺は疎外された存在ということか。おばあちゃん、いやポルポトは言っていた、そういう存在は完全調和のイデア世界には不要だとな」
「貴様、俺を疎外論者に仕立て上げるつもりか……だが俺は貴様を倒す。そうしなければ、俺が俺でなくなってしまう!」
「やはり“本来の俺”か……おまえは天の道を外れた」
「!……待ってくれザビーゼクター、戻れ、戻れ……戻れぇーーーー!」
(半年後)
とか。