
はてなキーワード:異性愛とは
といった社会正義の言葉を用いて、制作者の決定を非難する例が見られる。
ここで問題となるのは、その主張が
それとも自らの消費者としての希望が叶わなかった怒りを正当化するための装飾なのか?
という点である。
ポリティカルコレクトネス(以下PC)は、権利が抑圧されている当事者を守るための概念だ。
しかし、もし作品の男女カップリング成立を「表現規制すべき」とまで言い募るのであれば、それはPCの政治的・倫理的重みを私的欲望の道具として転用している危険がある。
作り手は、読者に媚びずに物語を構築する創作の自由を持つ。読者は、気に入らなければ読まない自由を持つ。
しかしその関係が崩れ、「私の望む展開以外は差別だから規制せよ」と要求し始めれば、表現そのものが危機に陥る。
消費者が個人的な不満を社会構造批判に偽装することは、マイノリティ当事者の声をノイズとして埋没させる行為にもなる。
同性愛の表現は、当事者の尊厳を担う社会的な再現と、非当事者向けフィクションとしての性的な消費の二層を含んでいる。
この線引きが曖昧なまま、「消費者としての願望が叶わない=当事者の権利侵害」と短絡すれば、結果として当事者性の“奪取”が起こりうる。
LGBTQ+を扱った表現を尊重するのであれば、自らの要求が社会的権利の主張とは異なる次元にあることを自覚しなければならない。
少年漫画という媒体には、もともとターゲットとなる主読者層が存在する。
作品の本来の設計思想や対象読者の多様性を否定してはならない。
作品を愛し、楽しむ自由は誰にでもある。しかし 「自分の好きな読み方だけが正しい」 とし始めた時、ファン文化は排他的な力へと変質する。
◆結論
PCは社会的に不利な立場にある当事者のための倫理概念であり、消費者の欲望を正当化する武器ではない。
チャッピーに聞いたら
・「性欲がない男と付き合いたい」という願いは、場合によっては性欲の一種になり得る(特に「相手が性的に無欲であること自体に性的興奮を覚える」場合)が、一方で単なる生活の相性や安全を求める希望ならば性的欲求とは別物である
ってさ。
あと、
「性欲がないなら同性と付き合えばいい。男性と付き合いたい時点でそれは性欲だ」という主張については「過度に単純化した誤り」だと。
性的指向・恋愛志向・欲求・社会的要因は別々の軸であり、男性(異性)のパートナーを望むことは必ずしも性的欲求ではないと。
「誰に性的に惹かれるか(sexualattraction)」と「誰と恋愛的に結びつきたいか(romanticattraction)」は別。
人は「性的には惹かれないが恋愛的には惹かれる」ことがありうる(例:異性愛的なロマンティック・アセクシュアル=heteroromantic asexual)。その場合「男性と付き合いたい」は性的欲求とは無関係。
あとは
・社会的・文化的・実利的理由により、性別選好には性的な理由以外の現実的な動機が絡む。同性と付き合うことは必ずしもその代替にならないことが多い。
・ジェンダーやパートナーの役割に関する期待が「男性であること」と結びついている場合があり、これは性欲ではなく価値観やライフプランの問題。
だってさ。
増田やはてなが雑なのはいつものことなんだが、そろそろフェミニズムにも分類があるってことを皆さん認識してはどうか。
→法の下の平等、参政権、教育・労働の平等機会を重視。例:メアリ・ウルストンクラフト、ジョン・スチュアート・ミル。
→ 家父長制の構造そのものを批判し、性の政治を重視。例:ケイト・ミレット、シュラミス・ファイアストーン。
→女性と自然の抑圧を並行的に捉え、環境問題とジェンダー問題を結びつける。
→女性の特質・価値(共感、ケアなど)を肯定し文化的再評価を目指す。
→ 「白人女性中心主義」への批判。例:ベル・フックス、アンジェラ・デイヴィス。
→フロイトやラカンの理論をジェンダー批判的に再解釈(ジュリア・クリステヴァ、ルース・イリガライなど)。
差異のフェミニズム(difference feminism)
→ 性や主体の流動性を重視(ジュディス・バトラー、ダナ・ハラウェイなど)。
→性的指向・ジェンダー・身体の多様性を含める。フェミニズムとLGBTQ+理論の交差。
→人種・階級・性的指向・障害など複合的差別の分析(キンバリー・クレンショウ)。
→西洋中心的フェミニズムを批判し、植民地主義的文脈を分析(チャンドラ・モハンティなど)。
→科学技術と身体・性の境界を問い直す(ダナ・ハラウェイ『サイボーグ宣言』)。
→SNS・オンライン空間における性差別問題と運動(#MeToo、#TimesUpなど)。
→フェミニズムの成果を前提にした「個人の選択」重視の潮流(批判も多い)。
→日本型の「母性保護論」「差異の政治」「ケアの倫理」なども特色。
Permalink |記事への反応(20) | 21:01
3回目のデートのあと、かなりいい感じで付き合うまでの最終確認みたいな。
そのときに、その話をされた。過去付き合った人全員と言ってたから一人だけじゃないんだろう。
びっくりしたが、まあそういうこともあるよなあと思った。
その話を聞いた時は、自分のことを興味持ってくれてるし、好きになってくれたら関係ないかとおもった。
でもまあ他にもいろいろ話し、来週また会って、それまでに今まで話したこととか考えて、その時に付き合うかどうかを決めようと話した。もう20代後半で変な恋愛なんかしたくないし。
話したあと、相手をバス停まで見送って、一人で帰る時ちょっとずつ頭が冷静になってきた。
私はごく一部の友人にしか話していないのだが、百合作品が好きなのだ。さっき確認したら、kindleで漫画を300冊以上持っていた(きらら系などのソフト百合を除く)。
ちょうど昨日ヴァンピアーズを読んでいた。女の子と不死のヴァンパイヤが最後結ばれて、死ぬまで一緒にいようと誓い合い、幸せなキスをして終わる。何度も読んでいるが、うぅぅぅぅぅと思いながらねた。
終電で逃さないたった一つの方法や定時にあがれたら等の社会人の百合作品では、女性同士の恋愛は社会人になると難しくなっていくということがテーマとしてあった。でもそういうのを乗り越えて、最終回の後にも、彼女らの人生は続いていくもんだと思っていた。彼女たちは20代中盤か後半ぐらいだった。
創作物と現実にいきる彼女を結びつけるのは気持ち悪いと思う。でもそうしてしまうんだよなあ。いい子だから付き合って、いろんなところにいったりしていくと楽しいんだろうなあと思う。横顔がすごい綺麗で、今日は一緒に展示物をみて、興味津々にみている彼女を見るのが好きだった。
自分は普通の異性愛者でセックスがだいすき。だから恋人とはsexしたいし、向こうがどうおもってるのかしらないけど、彼女ともいつかはセックスしたい。
小泉純一郎が離婚して再婚しないまま、要はファーストレディ不在のまま総理大臣になって外交していたのがまずインパクトあった。
離婚したら再婚しなきゃいけないし、異性愛が無理だったらゲイパートナーがいないとだめみたいな圧力がある。
小泉純一郎が離婚して再婚しないままだったの、「いいんだ」って思ったんだよね。
あと安倍晋三に子供がいないこと。政治家の奥さんって実質発言権なくて究極におとなしくしてないとだめなイメージが日本社会に対してあったんだけど、
安倍さんの奥さんはむちゃくちゃ派手に好き放題やってて、あれも「いいんだ」って思った。
保守思想には生殖主義が合体していることも多いから、保守層のなかで子供がいない安倍晋三の支持率が高いのも不思議に思えてた。
夫に連れ子がいる。そして夫が妻の姓に改姓している。
保守的には、女なのに出産してないこと、妻でなく夫が改姓してること、女が料理とか苦手でバイク好きのメタラーからのバリキャリで夫が料理得意とか、だめかと思っていた。
これも「いいんだ」って思ったんだよね。保守なのに。
まだ総理大臣になるか確定はしていないわけだけど。(とはいえ玉木総理は実現しないと思う。玉木は旧民主の失敗を繰り返さないために新党立ち上げてるのに、立憲と合体したら立党のコンセプトが根本的に崩壊する。確実に立憲にスポイルされる。あと石破自民には書面で行った約束を反故にされたから協力していけないが、高市自民となら協力ができるとは選挙前から言ってたんだよね。玉木は最初から高市寄りで、石破野田が無理という人。調べてね)(つーか玉木下ろし活動、「手取りを増やす夏」と言ったのに年末調整でしか減税されないのは詐欺とか言い出してる人いるけど、選挙期間中にも「年末調整で還付したいのでウチに投票してね」としか言ってませんでした。最速で手取り増やす方法が年末調整であって、給付金は時間がかかり来年になるって前から言ってました。れいわ支持者が熱心に玉木下ろししているけど本当に何?不支持は勝手にすればいいけど、嘘を言うなよ。給与所得があれば年末調整で大きな還付があり手取りが増えるけど、生活保護や年金が収入だと恩恵が無いというのは事実でしかなく全く嘘がないから、事実をもとにして不支持なのはいいと思う。でもデマをまくな)
まあ参政党の党首なんかは標準家庭の保守保守の保守って感じなんだけど。
自民、清和系?統一教会が支持基盤とされている?とこから出てる政治家って、統一教会が保守的な標準家庭を病的に称揚している割に、政治家が標準家庭ではないという印象がある。
逆にリベラルから実践的な政治家が思い浮かばない。政治家じゃないけどサイボウズの人とかはしっかりとリベラルだなと思う。
みらい安野は政治家かつリベラルらしいか。安野が断固として変な髪型を貫いてるし、編集者の奥さんは一人でも活動できて割と自由にしてるし。
(個人的に安野ってガチエリートの上澄みのイスラム教徒だけと会話したことがあってイスラム親和的なんじゃないかって気がして怖い。こちらがイスラム教徒に信教の自由を提供しても、向こうがこちらに対して無神論者でいる自由や仏教徒でいる自由をまったく認める気がないケースがむしろ多数派なんだけど、「超上流のすごく性格がよくて賢いイスラム教徒の友達がいる」という目線で「差別はよくない」って突っぱねられそうな感じが怖い。「狭量に対して寛容になり続けるとまずいことになるぞ」って言ってもあんま受け入れてもらえなさそうで怖い。いや嫌いじゃないんだけど安野)
他は別にいないし、左派政党から「男が産めるのうんこだけ♪」みたいなだいぶ愚かな生殖主義が出てきたりして、え~なんか破綻してない?って思う。
左派って現実味がないのがウィークポイントで知能が高いのが強みだったんだから、左派なのに愚かな生殖主義の歌い手が出てくるともうおしまいなんじゃないの。
追記:保守扱いをされているが田島陽子とグレタ・トゥーンベリのことは大好きだぞ。安野も小説読んでるし(イスラム云々書いたのは小説の印象)どちらかというと好きだぞ。「うんこだけ♪」の政治家に全員落選してほしいのと、れいわと参政党と日本保守党が本気で嫌いなだけ。
death_yasude右派共通の振る舞いとして相手にルールを強制はしたいけど自分は例外にしたいというのがあるとかむしろ特権的な例外身分を味合うために抑圧社会を作りたいまである
共産党のこと言ってる?
Permalink |記事への反応(10) | 13:50
知り合いにはとても言えないほど今の思いがキモすぎるので、ここで想いをぶちまける。
タイトルに既婚者と書いてある通り、普通に男と付き合って男と結婚している。旦那のことはめちゃくちゃ大好きだ。
だが、女に恋をしてしまった。
恋と呼べるものなのか自分でもあまりわからないのだが、とにかく1人の女性に対して「友愛としての好きを超える好き」を感じてしまっている。
彼女のことを仮にA子と呼ぼう。
創作企画専用のdiscordなどで音声通話を重ねるにつれ、私はA子に好感を抱いていった。
A子はとにかく言語化が上手い。私がめちゃくちゃ言葉を使うのが下手くそなので、私がなかなかうまく言葉にできなかったことをちゃんと言語化してくれるA子はいつもすごいなぁと思っていた。
また、A子は知識の吸収力もすごく、A子が今まで知らなかったジャンルの知識をみるみる吸収していって、元々そのジャンルにいた私よりも語れるようになっていたのは素直にすごいと思った。
そして何より、A子はすごく声が綺麗だった。
彼女の落ち着いた話し声を聞いてるだけで、とても幸せな気持ちになったものだ。
そんなわけでA子のことがかなり好きになっていたのだが、その「好き」がなんだか変だぞと感じたきっかけは、通話で彼女を泣かせてしまったことからだった。
創作企画のことで思い悩んでいたA子をなんとか諌めようと、相手の気持ちを一切考えてない正論を投げつけてしまった時。
A子は「わかってますよ!……わかっているんですよそんなことは……!」と泣き出してしまった。
なんとかクソバイスモードから相手に寄り添うモードに自分のスイッチを切り替えて宥めることでその場は収まったのだが……。
その後からだった。彼女のことを考えると胸が高鳴るようになったのは。
これは初めての感情……ではなく、実は以前も経験があるものだった。
随分昔に、ネット人狼で知り合った男性と対面人狼のオフに参加した時、私が狼側で彼が村側だった時に彼が最終日に推理を外して負けて泣いてしまったことがあったのだが、その後も彼のことを考えると恋のように胸が高鳴るようになっていた。
泣くほど熱い気持ちで真剣になっている姿に心打たれたのか、それとも単に吊り橋効果かキュートアグレッションか。
いずれにせよ、私はA子に単なる友情以上の感情を抱くようになってしまった。
ただ、それでも私が一番大好きなのが旦那なのは変わりないし、そもそも私はA子と付き合いたいわけではないしA子と性的なことがしたいわけでもない。
ない、はずだったのだが……
最近、A子に「増田さんは仕方のない人ですねぇ……」と呆れられた感じに言われたい気持ちが強くなっている。
あの落ち着いた素敵な声で罵ってほしい。
だが、この妄想で自慰行為を行ったが最後、人間としてかなり終わってしまいそうな気がするので、なんとかギリギリ踏ん張っている。
色々と限界になって男性向けの女攻めシチュボを漁っているが、やっぱり彼女の声じゃないと全然しっくりとこない。
罵られたいけど、嫌われたいわけではないからなぁ……。
とりあえず、次彼女と通話する時までになんとか表に出さないよう、こうして吐き出すことにする。
***
なんかもっと「ヴォエ!!キッモ!!!」って言われると思ってたのに創作みたいだとかブコメで好意的なコメントがついて困惑している。
創作だと思って誉めてくれてるならそのまま創作だと思っててくれ。
実際はそんなに絵面的に美しくないから……。
それはそうと、discord録音からのAIで罵られ再現は本気で検討したいが相手に無許可でやってもいいものなのか?
そこまで行ってしまうと妄想と現実が入り混じっていよいよ脳がダメになりそうなので、しばらくは脳内再生で我慢したい。
別の記事でちょっと語ったんだが、A子は同じ界隈の人間にふとしたことから怒りを抱いて追い詰めてしまって自殺未遂までさせてしまっている。
昔の私なら、人を自殺未遂まで追い詰めるほど怒る奴は悪い奴だ!と思っていただろう。
だが、何故か私はそんなことをしてしまったA子のことを「ヤバい女だな」と思いつつも嫌いになれなかった。
最近米津玄師がIRISOUTという曲を出したが、それを聴いた時「これ自分とA子のことか?」とマジで思ったぐらいだ。
私の中ではA子が大正解になってしまってるしA子に自分の中の善悪の基準を乱されている。
私にとってA子は悪魔かもしれない。
でもそれでも嫌いになれないしやっぱり仲良くなりたい。正気か?
A子がした所業から、A子を表立って褒める言動はあまりできなくなってしまった。
というか、A子を褒めたら界隈の他の人からDMで「今はみんなピリピリしてるんでやめといた方がいいですよ」と警告が来た。
確かに一理あるとは思うが、表立ってA子を褒めることができないのは悲しい。
辛いな。
***
思った以上に反応があってびっくりしている。
直球で厳しいことを言ってくれた人、本当にありがとう。
知ってる人に相談してたら多分こういうことを内心で思われていたんだろうなと思うと、誰かに相談する前に匿名でぶちまけて、こうやって厳しい意見で目を覚ますことができて良かったと思う。
まあ、一番良いのは誰も読まない日記に書いて仕舞い込んでおくことだったとは思うが。
この気持ちに「推し」という言葉を与えてくれたのは感謝している。ただ、素人を「推し」にするのはそれはそれでちょっと問題がある気もするので、徐々に「友人としての好き」に持っていけるようにしたい。
一番好きなのはA子よりも旦那だし、この気持ちはなんとかやり過ごして旦那を大事にしていきたい。
もし今後道を踏み外しそうになったら、ここのコメ欄の厳しい意見を見て正気に戻るようにするよ。
Permalink |記事への反応(14) | 22:34
幼少期、いわゆるオタクとして育った私には、男たちの集団が常に攻撃的に映っていた。加害を厭わない彼らは、アニメや漫画に登場するような美しさとは無縁で、醜いばかりだった。
思春期になり、彼らからの好意などそもそも欲しくないというルサンチマンが私の内に芽生えるのは、今思えば当然の中二病だった。異性愛を欲しないという姿勢は、どうしようもなく男に夢見てしまう私にとって、困難であるが故に格好良く感じられた。どうにかして男からの好意を拒絶してやりたかった。(実際に好意を向けられることはほとんどなかったが。)
そんな私にとって、性的少数者というアイデンティティは、格好の盾ないし矛のように感じられた。しかも無料だ。オタ活で金のない女学生が飛びつかない理由がなかった。
しかし、無性愛者(アセクシャル)であることは私には難しすぎた。性愛的に寄る方を必要としないという気高さには、弱い私(性欲は強い)がどれだけ嘘を踏み固めたところで、手が届くとは思えなかった。
だから私は「レズビアン」になることを選んだ。そして、必要以上にその自認を痛いほどに主張した。言葉でもツイートでも。それはまるで自分自身に鞭打つようだった。「お前はレズビアンだ」と強迫しなければ、私は同性愛者ではいられなかった。
「私、レズビアンなので。」
と宣言した時に見せる男たちの曇った表情で、傷ついた私の精神が潤っていくさまを、心の裏側で確かに感じた。それは小さな復讐の成功体験だった。その時の私は、ひどく勝ち誇った顔をしていたのだろう。
20代、レズビアンとして恋愛を頑張ってみた。大して持ち合わせのない時間も金もつぎ込んだ。しかし結局、誰のことも心から好きになれなかった。パートナーができることは何度もあったが、その彼女が金銭や心理的な安心に寄与しない分かると、人でなしの心がスッと冷めていくのがわかった。
彼女との破局を正当化するために、いくつもの嘘を重ねた。その行為は、嫌いだった現実の男たちの醜い言い訳と重なった。
あれだけ認めたくなかった「レズビアンのカップルは破局率が高い」という統計に、私もいくらか貢献してしまっていた。
現在、30歳に差し掛かる私には何もない。残ったのは、「男嫌いの男体好き」という、抱えていくのには苦しすぎる醜い実態だけ。
今度はやっぱり、アセクシャルとして生きることを真剣に頑張ってみようと思う。
例えば同性愛者がそれを公にすると、異性愛を否定されて感じるってことかな?
仮に私が「子なしこそ最上級の幸せです!」とか言うなら、おかしいのは分かる。(幸せの順位づけは人それぞれだからね
https://letterboxd.com/sapthamighowda/list/sdgdsgsdg4325/
https://glot.io/snippets/hbhwv3fst6
「反動」という言葉にはマイナスイメージばかり付くけど、揺り戻しとか修正とか微温的な対応ではなく確固たる意志を持った、批判的意思と抵抗を突き進める立場として私は評価している。
西欧のある地域から発祥したとしかいえない、曖昧で定義できず、そしてマイノリティの手そのものからすら離れた、ついでにキリスト教色(プロテスタンティズム)が強いくせにそれを否定しようとする、奇妙な概念がすでに十数年も猛威を振るい続けている。
SNS上で過大に増幅され、誰もそれを正確に数値化できず(正確にできないのだから「適量」も当然わからない)、ひたすらポリコレは配慮という贅肉にまみれながら膨れ上がり続けている。
定義も数値化もできないものに対して、我々は卑近な例を挙げるしかない。
我々の生まれ持った素質や外部から定義される優劣を笑いに転換して何が悪いのか?
本当にその芸能人の過去や起した事件は舞台を奪われるに相応しいのか?
なぜ「子ども」が関わると様々な表現が規制されなければならないのか?
アングロサクソン・プロテスタントの一部の道徳基準とその差別の歴史からしか発していない基準をなぜアジアの日本人が採用する必要があるのか?
地上波で裸体が流れてなぜ悪いのか?
芸能人が顔を黒く塗ったとしてそれはWASPのミンストレルショーとは違うものであると何度も説明しているのだが?
そのポリコレを続けたところで、では果していつ、大衆労働者や、地方の人々や、同情されない部類の障害者が尊重される日が来るのか?
その大半の人々の癒しや笑いを不明確に奪い続けてきたのがポリコレではないのか?
上述の通りここでかくポリコレとはとても曖昧なものだ。ブームであり、ムーブメントであり、あるいは野蛮人に対する蒸気機関や機関銃のような物である。
原理はどこかにあるのかもしれないが、それが我々には明かされない。便利なのかもしれないが、ここでは我々を殺す道具にしかなっていない。
そしてそれに対する反発が起きるのは当然である。そして、起きるからには、それこそは明確に「曖昧なものを拒否する。我々は我々の、そしてあなた方より広大な基準がある」というものを示す必要がある。
個別の「昔はよかった論」「弱者男性・女性論」あるいは「不適切にも程がある論」などを乗り越えて、明確な反動を打ち出す必要がある。
そしてそのためには、ポリコレに対する配慮を全く必要としない、確固たる地盤も持つ必要がある。
数ある「炎上」騒動の中でも、自活できる基盤のある会社・個人は、そもそもの圧力を無視するという最高の解決方法を見出せた。これを業界全体、国全体に拡大していく。
日本より国際的&経済的立場の弱い、アフリカやラテンアメリカの各国でも、例えば西欧一辺倒メディアの支配に対する大衆の反動は行われ、メディアが奇妙な論理に捉われていないかの「逆・監視」が行われている。日本でもそれは出来るはずだ。
そしてポリコレへの反動は大衆やマジョリティのためのものだけではない。具体的に、マイノリティのためにもなる。例えば障害者も障害者で、「ポリコレ」によって牙を抜かれてきた背景がある。
我々を取り巻いている曖昧な空気を取り払うことによって、始めて、例えば映画館や交通機関における障害者の権利問題も、川崎バス闘争の様に明確に語ることができるようになる。発達障害者も、定型発達者の欺瞞をつくことが可能になる。
障害の不便さを笑う芸と、障害者の権利。異性愛であれ同性愛であれそれぞれの機微をポルノに出来る社会と、性的マイノリティ。男女の裸が平然と流れるメディアと、フェミニズム・男女論。それらは同時に生存しているべきだ。それが我々の社会の強さになる。
「他人の恋愛を覗き見てキャッキャと妄想するのはあまりいい行為に見えないというか。少なくとも、私だったらされたくないな、と思ったんです。」
「異性愛者かもしれない人にBL的な妄想を膨らませてニヤニヤ見つめるのは、男性が巨乳の女性を見てエロいと言ったりニヤニヤするのと変わらないんじゃないかなという引っかかりがありました。私はそういうことを自分がされたら嫌だったので、このお話に出てくるキャラクターにもそれはさせたくなかった。」
といって、腐女子要素のないキャラクターにする人なので、ダブスタだとは思わない。
以下で展開される議論は、アメリカのある哲学者が学術誌の査読(ピア・レビュー、同業者による査読)の適切さを確かめるためにでっち上げたデマ論文の内容であり、しかもその論文はある雑誌に受理された。
このことから投稿者は、文化人類学者ではないが、いくつかの考察を試みる。
-
1. 以下の内容は、「サル山のボス猿とそのなかま」が信奉するペニス信仰と、それに対する「フェミニスト」の反論の両方を痛烈に揶揄している。これらの議論は、ここ「はてな」での果てしない同種のやり取りの上位互換となっている。つまり、そのことに気づかないでいる、いわば自己相貌失認を患う矮小な関係者の姿をアナロジカルに揶揄している。
-
2. 仲間による「レビュー」を経て認められた「議論」が、いかに穴だらけなものであるか、つまり、特定のコミュニティの支配イデオロギーとはしばしば、ブードゥー教の偶像崇拝にすぎないことを示唆している。
-
3.投稿者はこのデマ論文の紹介により、いわば原始人に優れた棍棒の作り方の一例を教唆することになるかもしれない。いずれにせよ、上位互換の議論がデマであると著者により暴露されたことは、はてなでの「議論」の有効性の上界を抑えられたことを意味する。平たくいうと、0くxく1のように、xの取りうる範囲が有限なある一定の値以上にならないことである。原始人たちが、今後どのような道を選ぶのか知らないが、進化の選択肢があることを付け加えたい。
-
4.敷衍すると、この論文の内容に限らず、はてなでの任意の「議論」には、それの上位互換となるある学術的な議論を作ることができる、という可能性が示唆される。平たくいうと、はてなの投稿を分析すれば論文が書けるかもしれない。
-
-
この論文「概念的なペニスは社会構成物である」は、ジェイミー・リンゼイとピーター・ボイルによって2017年にCogent Social Sciencesに掲載された研究論文であり、ペニスという概念が単なる解剖学的な器官ではなく、社会的に構築されたものであり、それが有害な「毒性のある男性性」(toxic masculinity)と密接に関連しているという革新的な主張を展開しています[1]。著者らは、この「概念的なペニス」が、ジェンダー・アイデンティティ、生殖に関するアイデンティティ、社会および家族の力学に深刻な問題を引き起こし、女性やその他のジェンダー周縁化されたグループにとって虐待の根源となり、レイプの普遍的な原因であり、さらに気候変動の概念的な原動力であると結論付けています[2-4]。
伝統的に、ペニスは男性の生殖器または性器として圧倒的かつ議論の余地のないものとして科学的に認識されてきました[5]。しかし、著者らは、この見方が「過度に還元主義的」であり、ペニスを持つ人間の経験の多様性を完全に表現できていないため、「首尾一貫しない構成物」であると指摘します[6]。
この主張の根拠として、まず解剖学的なペニスが必ずしも男性の生殖器官としての役割を果たすわけではないという事実が挙げられます[5]。例えば、怪我を負った者、配偶者を強制できない者、子孫を産むことに興味がない者、医学的に不妊の者、またはアセクシュアルを自認する者など、ペニスを持つ多くの人々が生殖を行いません。これらの例は依然として「男性」を構成するかもしれませんが、彼らのペニスを生殖器官として特定することは明確に誤謬であるとされています[5]。
さらに重要な点として、ペニスを持つ女性が数多く存在することが強調されます[5]。これには、性別適合手術前のトランスジェンダー女性や、女性と自認し、性別移行を望んでいない染色体上の「男性」が含まれます[5, 7]。文化的な有害な常識に反して、これらの人々にとって、彼らの性器(ペニス)は、生殖に利用される場合があったとしても、男性の性器として最もよく理解されるべきではありません[7]。このような人間の表現の多様性という重要な事実に照らして、ペニスを具体的に男性の解剖学的な器官と概念化することは、非常に問題があり、言説的な再検討が喫緊に必要であるとされます[6]。
著者らは、ペニスが「男性性に対する首尾一貫しない構成物」であるとし、ペニスは解剖学的な器官としてではなく、**ジェンダー遂行的な、非常に流動的な社会構成物**である「概念的なペニス」として理解されるべきだと主張します[6]。この「概念的なペニス」は、ジェンダーに関連する様々な遂行的な行為や発言を通じて社会で確立されるペニスの操作的な表現です[6]。
この概念的なペニスが、**「毒性のあるハイパーマスキュリニティ(hypermasculinity)」と等型写像的(isomorphic)な関係にある**とされています[1, 8-10]。この等型写像関係とは、二つの異なる構造が、その構成要素間の関係性において本質的に同じ形を持っていることを意味します。ここでは、概念的なペニスという社会構成物が、毒性のあるハイパーマスキュリニティの行動や心理と鏡像のように一致しているということです。
特に、この等型写像関係は、**「マチスモ・ブラガドシオ」(machismo braggadocio)**という概念によって媒介されます[10,11]。マチスモは本質的に攻撃的な男性のプライドを指し、ブラガドシオは傲慢な自慢の性質を意味します[12]。これらが一体となって、社会的に男性的な心や異性愛規範的な女性の心がペニスを「客観視」し、それを介して男性性と支配的な男性の権力ダイナミクスを遂行的に表現する具体的な描写であるとされます[12]。
この等型写像関係において、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリンな男性が権力のない主体的な立場から強力な立場へと自身を再配置するために、**「主体」「客体」「動詞」の三つの役割**を果たします[11-14]。
この主体としての役割は、男性が性的な「征服」や「パフォーマンス」について自慢する際に明らかになります[16]。また、「俺は彼女にやった」「彼女はもっと欲しがった」といった表現に見られるように、名詞の「それ」("it")が客体的な概念的なペニスを女性の経験の知覚された主体に変え、概念的なペニスを男性のジェンダーパフォーマンスに関してさらに客体化します[16]。これにより、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリンな心において、ペニスを主体として(男性の)セクシュアリティを強力な現実とする脱所有化(deappropriative)のツールとなります[16]。
この傾向は、性的なアイデンティティが根本的にヒエラルキーの維持に利用されるという考え方によって説明されます[17]。概念的なペニスを行動を表す動詞として使用することで、ハイパーマスキュリンな男性は、他者を抑圧し、脱制度化する社会的なヒエラルキーを強制し、自己を認識的に高めます[17]。この現象は、ラップ音楽におけるミソジニーの分析や、「マン・スプレッディング」(manspreading)と呼ばれる、公共交通機関などで男性が足を開いて座り、不必要に広いスペースを占有する行動にも見られます[17]。マン・スプレッディングの言い訳は、解剖学的なペニスと睾丸が「快適さ」のためにスペースを必要とするという男性的な社会言説に直接基づいていますが、これは概念的なペニスを遂行的な社会構成物として見た場合、周囲の空きスペースを「レイプする」ような支配的な物理的空間の占有であり、毒性のあるハイパーマスキュリニティへのマチスモ・ブラガドシオ等型写像を通じて最もよく理解されるとされます[17]。
マチスモはハイパーマスキュリンな本質であり、ブラガドシオはその表現です[10]。現代の思考における概念的な要素としてのペニスは、マチスモ・ブラガドシオの概念によって、ハイパーマスキュリニティにおける最も毒性があり問題のあるテーマと自然に等型写像関係にあります[10]。これらのテーマは、解剖学的なペニス自体には適用されず、生殖しない個人やアセクシュアルな個人にも関連性を持たないため、ペニスは既存の男性的な社会的な比喩を演じるために利用される、構築された社会的な客体、つまり言説的な「概念的なペニス」として理解されるべきだとされます[10]。
概念的なペニスが毒性のあるハイパーマスキュリニティに等型写像的に同定されることの最も問題のある結果の一つが、**気候変動**であると指摘されています[4, 18]。気候変動は、まさにハイパーマスキュリニティの特定の有害なテーマによって引き起こされており、これらは概念的なペニスと識別される気候生態学への支配的な略奪的アプローチを通じて最もよく理解できます[18]。
著者らは、地球が急速に2℃の気候変動閾値に近づいている原因が、現在の資本主義構造を維持する家父長的な権力ダイナミクス、特に化石燃料産業にあると主張します[18]。科学、政治、経済の言説におけるハイパーマスキュリンな支配と、生態系への修復不能なダメージとの関連性は明確であるとされます[18]。破壊的で持続不可能であり、ヘゲモニー的に男性的な環境政策と行動へのアプローチは、男性優位の精神性による自然の「レイプ」の予測可能な結果です[19]。この精神性は、男性心理に対する概念的なペニスの役割を認識することによって最もよく捉えられます[19]。
特に、資源を安価に略奪し、家父長的な経済的利益のためにその内在的な価値を奪われた後、荒廃し減退したまま放置されるような「未開の環境」にこの精神性が適用されるとき、概念的なペニスに内在するレイプ文化の延長が明らかになるとされます[19]。気候変動は、最もよく言えば、ハイパー家父長制社会が地球の生態系にメタファー的に「マン・スプレッディング」している例であると述べられています[19]。
この問題のある傾向の根底にある理由は、現代の資本主義理論、すなわち新資本主義理論が、科学と社会におけるハイパーマスキュリンな焦点から直接その合理性の主張を引き出していることにあります。そしてこの焦点は、概念的なペニスとの同一視によって最もよく説明されるとされます[20]。毒性のあるハイパーマスキュリニティは、概念的なペニスから直接その意義を引き出し、新資本主義的唯物論の支持に自身を適用します[20]。この新資本主義的唯物論は、特に炭素排出の化石燃料技術の無制限な使用や、未開の自然環境の無謀な支配において、気候変動の根本的な原動力であるとされます[20]。
この分析から導かれる実践的な推奨事項は、気候変動研究において、可能な限りハイパーマスキュリンなペニス中心の視点を避けるように、政治や科学の言説への関与方法を変えるべきであるというものです[3]。
結論として、著者らは、ペニスは男性の性器や生殖器として理解されるべきではなく、むしろPermalink |記事への反応(0) | 19:03
アンケート用紙にあったwebアンケートはこちらのQRコードを読み込み忘れたから代わりに感想をここに書こうと思う。
演劇は一応、年に2、3回くらい気になるのがあれば観るけど...みたいな感じで、とにかく期待してがっかりするのも嫌だし、傷つけられるのも嫌だから、警戒して警戒して観終わるまで警戒し続けるのが癖になっている。
ちなみにいいへんじの公演は初めて見た、そして恥ずかしながら出演者はじめ誰のことも存じ上げずただタイトルだけで気になってビビりながら予約してしまった。
自分はクィアでセクシュアリティもジェンダーアイデンティティも明かさないけれど、少なくとも黙ってたら無いことにされがちな存在だ。自分自身でも自分が何者なのか油断したら自分の輪郭も分からなくなりそうなくらい。
「われわれなりのロマンティック」を観て、驚いたことがある。自分が想像したことのない、想像するという発想すら思い浮かばない「未来」みたいなのが「存在する」かもしれないということに気づいた。
自分のこの性的指向、性自認の人間の未来に、こういうことが起きる可能性もある、その場合にはこんなことが起きる可能性もある、と、知らない未来みたいなのがなんか沢山出てきて本当に驚いた。
自分が「将来」を想像できていなかったことに初めて気がついた。
なんていうか、自分にも「将来」があるってことに、初めて気がついて本当にどうしよう、という気持ちが正直なところだ。そういえば「将来」になる前に死ぬか、もしくは永遠に将来が来ない生活を送るような感覚でいたな。
「小中学生の性的少数者が当事者として物語(ロールモデルとか?)に触れられるように....」みたいな話を聞いたことはあったけど、自分は成人してから自分のことに気がついた人間だから、それは大事なことだけど自分とは関係ない話、自分は対象ではないことだと思っていた。
だけど、めっちゃ自分の話でもあったんだということに今回のことで気づき本当に驚いている。
もしかして「一般的」とされる、シスヘテロ異性愛規範に当てはまれる人たちは、普段から将来像みたいなものを小さい頃から数えきれないほど、いろんなメディアで、テレビcmや教材のレベルで触れてきたのか??と思うと、まじかよ!いいな!!!!!おれも沢山ほしい!!!!!!知りたい!!!!!!!!
ほんでずっと自分が遠い話として見てきたいろんな物語はなんだったんだろう。友達とどっちのキャラがいい?みたいなのも、もしかして互いに違う感覚のまま話してたんかな、とか色々思い出した。
引っかからない点がないわけではなかった、グラウンドルールの1番に「何でも話していい」があるのに、「相手のジェンダーやセクシュアリティを決めつけない」とかがないのは気になったし、あと開演前と終演後のBGMが割とガチャガチャしていてプレイリストを順番に流している感じも気になった。上演の中にある音楽と同じくらい大切に扱ってくれたらいいのにとちょっと思った。
そんなんもちょこちょこ思ったりもしたけど、でもとにかく、本当に、自分にとっては本当にびっくりする出来事で、とんでもないことを教えてくれたからありがとうという気持ちでいっぱいである。
自分が登場人物全員をキャラクターと俳優の姿をしっかり認識して観終われたのは、書いた人が、つくった人たちが丁寧に向き合ったからだと思う。2人とか、3人だけじゃなくて、9人で書いてくれたから、9人の俳優がいてくれたから最後まで座って観ていられたし、助けられた。
最終公演まで、みんな元気に駆け抜けてほしい。
そして座席の数がゆるす限りできるだけ多くの人がこの公演を見て、分からなくても考え続けて生きていってくれたら、自分は多分どこかでほんの少し救われる。
もし自分みたいな人がいたら、演劇を観たことがない人でも、試しに、恐る恐るでいいから観に行ってみてほしい。東京の三鷹ってとこでやってるよ。