
はてなキーワード:画一的とは
ウェブ版『美術手帖』の編集長が「イオンモールしかない地方都市には美術の美もない」というようなことを言って、案の定、少し燃えたのは記憶に新しい。
僕も地方出身だから、その言葉にカチンとくる人の気持ちは痛いほどわかる。「どうせ俺たちの日常なんて、文化の欠片もない退屈なものなんだろ」と、見下されたような気分になる。週末に行くイオンが、家族にとっての一大イベントだったりする、そういう暮らしの機微を全否定されたような気さえする。だってほかにないじゃん。
ただ同時に、編集長が言わんとしていることも、なんとなく想像はつく。地方都市の、あの画一的な風景。どこまで行っても同じようなチェーン店と住宅街が広がり、かつて街の中心だった商店街はシャッターを下ろしている。そういう風景を前にして、アートに関わる人間として一種の絶望というか、嘆きのようなものを感じてしまう瞬間があるのはよくわかる。それは、地方に対する愛憎半ばする感情なのだろうとも思う。
そんな小さなモヤモヤをずっと抱えていたら、実に興味深いニュースが飛び込んできた。
他ならぬそのウェブ版『美術手帖』が報じた、「東京藝術大学取手キャンパスに10億円の寄付」という記事(件の編集長もこの記事へのリンクをリポストしている)。
これは、なかなかに美しい皮肉じゃないか、と苦笑してしまった。
http://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/31541
東京藝術大学といっても、取手市であって上野ではない。東京ではない。茨城県にある。都心から見れば、それは紛れもなく「地方」だろう。
どころか市内に日本最大級のイオンモールが計画されているという報道もまた、記憶に新しいではないか。
しかしその「地方都市」日本代表メンバーに選ばれるであろう取手のキャンパスに、安田容昌氏という方が10億円もの大金を寄付した。
「取手キャンパスには、素晴らしい施設に加え、土の匂いと、川の風と、地域に暮らす人々の息遣いがあります。」
「これまで日本の発展は、とかく都市を中心に語られてきました。しかし、真に新しい価値は、しばしば周縁から生まれます。」
「芸術に触れる機会が都市部に集中している現状において、この取手キャンパスから、日本の新たな文化のうねりを起こすことができると信じてやみません。」
「地方で事業を成し、その恩恵を受けてきた者として、次世代のために文化的な社会資本を築くことこそが、私にできる最後の恩返しです。」
(ちなみに最初の2行は、『美術手帖』の記事ではなぜか省略され、大学の公式リリースにだけ載っている)
https://www.geidai.ac.jp/news/20251008152520.html
つまり、これは「田舎には美術がない」という嘆きに対する、あまりにも力強いアンチテーゼなのだ。それも、10億円というリアルな数字を伴って。
アートは都市だけの専有物じゃない。地方にこそ、これから育まれるべき豊かな土壌がある。そう高らかに宣言しているように聞こえる。
編集長の炎上した発言は、確かに言葉足らずで、多くの人を傷つけたかもしれない。
でも、彼が投げかけた「地方とアート」という問いは、奇しくもこの10億円の寄付によって、新たなステージに進んだ気がする。
「イオンモールしかない田舎」と切り捨てられた場所で、アートは育つのか。
いや、育つに決まっている。
誰かが「ここには何もない」と嘆いた場所にこそ、新しい価値が生まれる種が蒔かれるのだ。
今回の寄付は、まさにその種だ。この種が、取手の地で、どんな芽を出し、どんな花を咲かせるのか。
それは、都会のギャラリーに飾られる洗練されたアートとは、全く違う形かもしれない。泥臭くて、生活の匂いがして、不格好だけど、力強い何か。
心のどこかで、あの編集長の嘆きにまだ共感している自分もいる。「東京藝大」という権威と「10億円」という資本。
結局、そうした巨大な「外部の力」がなければ、地方のアートは話題にすらならないという現実。それは、彼の「田舎には美術がない」という言葉を、残酷な形で裏付けてはいないだろうか。
編集長の発言も、10億円の寄付も、「お前のいる場所の『美』とは何か?」と問いかけている。
イオンモールのフードコートで談笑する高校生に、夕暮れの田んぼ道に、シャッター街の錆びた看板に、目を凝らせば「美」のかけらは見つかるんだろうか。
「カネがないから結婚しないし子もできない」みたいな単純な話じゃないんですよ、少子化って。
価値観が多様化したから結果として生まれてくる子どもが減ったんです。
かつては価値観が画一的でした。お見合いでもなんでもして多少気に入らない相手とでも結婚して子どもは2人以上作る、という価値観が社会を支配していて、独身のままでいることや子を持たずにいることへの風当たりは現代とは比較にならないほど強かった。つまり同調圧力で出生率を維持できていました。
そのシステムが機能してたのは経済成長期かつ人口ボーナス期だったからだ、と言われるかもしれないけど、戦中戦後の経済がどん底にあった時期だって日本は「産めよ殖やせよ」のスローガンのもと驚くほど多産だった。まともに食べ物もないのにポロンポロンと4人も5人も子ども産んでたんですよ。
これには社会福祉基盤も関係します。社会福祉基盤が脆弱だった時代には、親は子を産み育て、子は親が老いたら面倒を見るというサイクルが必要でしたし、子はまた重要な労働力でもあったでしょう。ぶっちゃけそれらのために子どもを産んでいたようなものです。
つまりかつての日本は貧しくても子どもを産んでたんです。子を産み育てることのプライオリティがとても高かった、と言い換えることもできます。
ひるがえって現代。社会構造の変容につれて家族観も変容していきました。
まず社会福祉基盤が整備されたこと。老人は子どもの世話にならずとも年金やさまざまな福祉で生活できるようになりました。将来世話してもらうための子を作る必要性が薄くなったのです。
また、女性の社会進出が進んだこと。さまざまな法整備や価値観のアップデートがあって男女間の社会的地位の格差が縮まり、「寿退社」は働く女性の唯一の選択肢ではなくなりました。自立やキャリアに重きを置く女性が増え、そうした女性たちの中にはひとまず結婚や出産を先延ばしにする人もいるでしょう。プライオリティが下がったのです。
生き方・暮らし方の価値観も多様化しました。個人主義が広まり、結婚しない・産まないという選択を自発的にする人も許容される世の中になりました。LGBTQという、子孫を残さない前提の生き方さえ肯定されています。
また、今の生活レベルを下げたくないとか都心に住みたい、自由な時間がほしいといった理由で出産を控える夫婦もあるでしょう。子育てにはお金も時間もかかります。そうしたリソースをどう振り分けるか、これもプライオリティの問題でしかありません。
このように、少子化は社会構造が変容する過程で人々の選択肢の中で相対的に出産のプライオリティが下がっていったことが原因のひとつなのです。社会が前近代的・伝統的価値観を捨てて、個人の権利を尊重する近代的な価値観を手に入れたことの副作用だった、と言ってもよいでしょう。先進国が軒並み少子化しているのも同じような近代化の過程を歩んだからで、構造的に不可避だったわけです。
ちなみに、先進国の中で一国だけ、例外的に突出して出生率の高い国があります。それはイスラエルです。特殊出生率は「3」に迫る高さです。ユダヤ教社会は伝統的・宗教的価値観を非常に重んじる社会で、ユダヤ教は多産を奨励しているのです。
Permalink |記事への反応(42) | 22:18
「"過激な危険思想" "表現規制・表現の検閲"はアニメにいらない」これを合言葉に、アニメを過激思想のプロパガンダメディアにさせないため一緒に頑張りましょう!
バカがよー!
「ぼっち・ざ・ろっく!」の脚本家である吉田恵里香さんに対する一部の批判の中で、「"思想持ち"はアニメにいらない」という言葉を見かけることがあります。
この言葉は、作品に脚本家の個人的な思想やメッセージが込められていることを否定し、純粋なエンターテインメントとしての消費を求めるものです。
しかし、この主張はアニメ制作の本質を全く理解していない、非常に浅い議論です。
これはまるで、「10階の展望台だけあればいい。2階から9階は要らない」と主張するようなもの。
一見すると効率的で魅力的な考え方のように思えますが、現実にはその構造を成り立たせるための土台やプロセスを完全に無視しています。
まず、物語に「思想」が宿ることはごく自然なことです。私たちが日々触れるあらゆる物語、小説、映画、ドラマ、そしてアニメには、必ず作者の意図や価値観、世界観が反映されています。それは、物語のテーマであったり、登場人物の行動原理であったり、物語全体を貫くメッセージであったりします。
例えば、「ぼっち・ざ・ろっく!」という作品を考えてみましょう。この物語は、極度の人見知りである後藤ひとりが、バンド活動を通じて少しずつ成長していく姿を描いています。ここには、「自分を変えたい」「人とつながりたい」という普遍的な願いや、その過程で直面する葛藤、そしてそれを乗り越えることの尊さが描かれています。これらはまさに、脚本家が作品に込めた「思想」そのものです。
もし、この作品から「思想」を取り除いたらどうなるでしょうか?後藤ひとりがただひたすらギターを弾き、バンドメンバーと当たり障りのない会話を交わすだけの、中身のない物語になってしまうでしょう。彼女の成長や葛藤に私たちは共感できなくなり、物語を追う意味を見いだせなくなってしまいます。
吉田恵里香さんは、ご自身の脚本に込めた「思想」について、インタビューなどで語られることがあります。それに対して、「余計なことを話すな」「作品に私情を挟むな」という批判が見られます。
しかし、良い脚本家は、自分自身の内面から湧き出る感情や考えを、物語という形に昇華させることで、見る人の心を揺さぶる作品を生み出します。それは、まるでシェフが自身の料理哲学をスパイスとして料理に加えるようなものです。スパイスがない料理は、味が単調で深みがありません。それと同じように、脚本家の「思想」というスパイスがなければ、物語はただの薄い液体になってしまいます。
吉田さんの脚本が多くの人々の心を掴んだのは、彼女が自身の経験や内面と向き合い、それを「ぼっち・ざ・ろっく!」という物語に結実させたからです。主人公・後藤ひとりの繊細な心理描写、バンドメンバーとの温かい交流、そしてライブシーンの圧倒的な迫力。これらは、彼女の「思想」が物語全体に深く浸透しているからこそ、実現できたことなのです。
さらに言えば、「思想」を排除しようとする考え方は、アニメを単一的な価値観に閉じ込めてしまう危険性もはらんでいます。アニメに限らず、あらゆる文化は、異なる「思想」を持つ人々がそれぞれの表現をぶつけ合うことで発展してきました。
ある脚本家は社会的な問題を提起する物語を書き、別の脚本家はファンタジー世界で人間の心の奥底を描き、また別の脚本家は日常のささやかな幸せを大切にする物語を紡ぎます。それぞれの「思想」が、アニメという表現の幅を広げ、多様な作品群を生み出してきました。
もし、「"思想持ち"はアニメにいらない」という主張がまかり通ってしまったら、アニメは画一的なエンターテインメントに成り下がってしまうでしょう。それは、私たちの心を豊かにし、新しい視点を与えてくれるような、深みのある作品が失われることを意味します。
10階の展望台:私たちが最終的に目にする、感動的なアニメ作品そのもの。
2階から9階:脚本家の「思想」、監督の演出、アニメーターの作画、声優の演技、そしてそれらを支えるスタッフ全員の情熱と努力。
「10階の展望台だけあればいい」という主張は、私たちが目にする完成品だけを評価し、その裏にある膨大なプロセスと、そこに関わる人々の想いを無視しています。それはあまりにも傲慢で、非現実的な考え方です。
アニメは、一人の天才が魔法のように作り上げるものではありません。脚本家が紡ぎ出した物語を、監督が映像として具現化し、アニメーターが命を吹き込み、声優が魂を込めて演じます。この全てのプロセスに、それぞれのクリエイターの「思想」や「想い」が込められています。そして、その集合体が、私たちの心を揺さぶる「アニメ」という作品になるのです。
「ぼっち・ざ・ろっく!」という作品が、多くの人に愛され、感動を与えたのは、脚本家である吉田恵里香さんをはじめとするクリエイターたちが、自身の「思想」や「想い」を作品に惜しみなく注ぎ込んだからです。
私たちは、作品をただ消費するだけでなく、その背景にあるクリエイターたちの努力や、込められたメッセージに思いを馳せることで、より深く、より豊かに作品を楽しむことができます。
「"思想持ち"はアニメにいらない」という言葉は、クリエイターへの敬意を欠き、アニメという文化を矮小化させる危険な考え方です。
私たちは、クリエイターたちが作品に込めた「思想」を正面から受け止め、時に共感し、時に議論しながら、アニメという素晴らしい文化を育てていくべきではないでしょうか。
今シーズン初の鍋のベーナーを決めるにはまだちょっと暑すぎたかもしれないけれど、
私は湯豆腐に挑戦!
まあ挑戦と言っても湯豆腐だし、
水からコトコトと火を入れていくーって
そんで、
しゃぶしゃぶにーって思いつつ、
そしてなんかさみしいので白菜だけ買ってきてーって感じの、
今シーズン初の鍋のベーナーはやっぱり暑くて
豆腐なんかやっぱり熱くて、
はふはふしながら食べたわ。
うーん、
やっぱりこういう時の豆腐は絹に限るわね。
でもそれは先日までの夏の気持ちだったので、
まあ仕方ないわね!ってそんな勢いでいただいた湯豆腐は大成功よ!
例えて言うところの
シーズン初打席スリーボールツーストライク遠い込まれたところを初球ホームラン!って感じでやったー!ってところよ。
そんでね、
また私挑戦したいことが鍋のシーズンのベーナーの計画があんの!
近所のちょっと高級マーケットにブランド鶏の骨付きぶつ切りが売ってることを発見したのよ!
それで水炊きしたくない?
いやするっしょ!
したいっしょ!
ということで、
これを500グラムってどのぐらいの量になるのかしら?
いやそんな量だといい出汁でないので、
そう挑戦を私はしたいなぁって思っているの。
あと豆腐も、
まあその時の気分と気持ちと季節のシーズンに併せて考えたいわ。
ふと思ったんだけど、
顆粒の昆布だしって便利なんだけど、
いつも一緒の味になっちゃうのよね。
なんか味の揺らぎというか、
今回はいい感じ!今回はちょっと物足りないかも!ってのがあると思うの。
味に深みとはこういうとこなのね!って
味の決め手は昆布だしや!って美味しんぼの一節にでも出てきそうなセリフじゃない?
あと、
なんかちと魚臭くなっちゃったのが玉に瑕だけど、
まあそれはいいとして、
白菜も
芯が好きなのでほどよくさっと火が通った
まだシャキシャキのときも
オールラウンダーというか。
よく意味が分かってないけれどオールラウンダーって言いたいだけなのよそういう季節ってことで。
でもさ、
今シーズンは昆布出汁にこだわってみようかしら?って今思ったわ。
お鍋の味が規格の味になっちゃって
ここはやっぱりそんな全然高級品の昆布とかじゃなくて普通に売っている雑に使えるたくさん買える昆布ってあるじゃない。
つまりそう言うことね!
どういうこと?
よくさ、
味の表現で「コク」「キレ」とかあるじゃない。
それは置いといて、
「奥行き」って言うじゃない。
味の奥行き!って概念を私は昆布だしで研究してみようと思うわ。
確かに味わう上で味の「奥行き」ってあるような気がするわ。
ダイレクトに素材が舌に乗ったときの伝わるダイレクトな美味さとは別の何かだと思うの!
だから
適当に奥行き!って言ったらもっともらしいことが言えるような気がして抽象的だけれど万能な言葉よね!って思ったわ。
この秋は奥行きを探す旅に出るわ!
うふふ。
朝の元気の源だわ!
1ケース飲み切っちゃったので、
残り1ケースの残量!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
転職活動をしていると、時折、胸の躍るようなスカウトメールが届くことがある。
先日、まさにそんな一通が自分の元に届いた。差出人は、誰もが知る日本を代表する巨大自動車メーカー、T社。
文面には、私の経歴に合わせた具体的なポジション名《XXXXソフト更新システムのアーキテクチャ構築》が記され、「ぜひ一度弊社のご紹介の機会を」「100年に一度と言われる大きな転換期」といった熱意ある言葉が並んでいた。
これは期待できるかもしれない。そう思い、指定された日程で「カジュアル面談」に臨んだ。
面談は、採用事務局と名乗る人事担当者によって行われた。そこで担当者は以下の言葉を口にした。
「選考はまず、書類選考から始めさせていただきますので、履歴書と職務経歴書、および弊社指定の自己紹介シートのご提出をお願いいたします」
一瞬、耳を疑った。レジュメを見た上で、わざわざ「ぜひお話を」とスカウトしてきたのはそちらではなかったか?カジュアル面談とは、そうした選考プロセスを合理化し、互いの理解を深める場ではないのか?
スカウトの文面から感じた「あなたに会いたい」という熱意はどこへやら。結局は他の一般応募者と全く同じスタートラインに立たされ、おまけに企業独自フォーマットの書類作成という手間まで課される。そのあまりに画一的で一方的なプロセスに、企業の「傲慢さ」を強く感じた。
スカウト文面には「少数精鋭でスピード感を持って」との記載があった。ならば、その実態を知りたい。エンジニアとして当然気になるであろう点を幾つか尋ねてみた。
技術の話も、キャリアの話も、働き方の話も、何一つ答えることができない。このカジュアル面談は、一体何のために設定されたのだろうか。
採用担当者は、ただの「門番」であり、候補者と現場のミスマッチを防ごうという気概は皆無らしかった。現場が本気で人材を欲しがっていても、入り口である人事の意識がこれでは、優秀な人材ほど愛想を尽かすだろう。
現場と採用部門の激しい温度差と、部門間の連携の悪さが垣間見えた。
同時期にスカウトを貰った某大手外資系コンサルティングファームの対応はT社と正反対と言って良いほど対照的だった。
「あなたのレジュメの〇〇とXXというご経験に大変魅力を感じ、スカウトさせて頂きました。今回ご応募いただけるのであれば、書類選考は免除とし、一次選考からご案内します。面接は計2回を予定しています」と。
候補者の経歴を読み込み、敬意を払い、時間を奪わないようプロセスを合理化する。どちらが本気で人材を「獲得」しに来ているか、言うまでもない。
今回のT社の対応は、単に「ハズレの担当者」だったという話ではない。これは、多くの日系大企業が抱える、根深い構造的な病の顕れだと感じた。
「どうしてもT社に入りたい者や、大企業にしがみつきたい安定志向の者」以外は、この選考プロセスで離脱してしまうだろう。
そして、そうした人材ばかりが集まった結果、変革のスピードは鈍化していく。まさに「日系企業の衰退の一端」を、採用の最前線で垣間見た気分だ。
今回は、選考の超初期段階でその企業のリアルな文化を体感できた、ある意味で有意義な「企業分析」だった。
礼儀を教えるのが大事なのはそうだろうけど、1人称にまで行くとやりすぎでは。
そして、どこまでが良いという基準はどこの誰が決めるのか?
それに、逸脱者を認めない、というのは、それはそれで個性を殺すことになるから、子供の個性という観点からは負の側面になる。
例えば、我自閉症に生まれて、のテンプル・グランディンは、その教育方針なら明らかに落第だけど、彼女は真っ当な大人に育っている。
挨拶をしないけど根はいい子、というのだって現実にはいるわけだからね。
そういう外れ値を含めて画一的な方針で対処するのは不可能だから、想定外をどう想定するのかも含めて取り組まないと、むしろ子供からのいらん反発も招きかねない。
表題のとおりである。やってしまった。一時は、自分が責任を取る覚悟すらしていた。
あれからもう何年も経ってるし、私自身も別部署に異動している。定年も近いし、思い出の供養を兼ねて書いてみたい。
一般的な部署名だと、地方の市役所の情報課にいた。係長という役職名ではないが、それが一番近い。
ある年度の3月まで、私がいた部署には実に頼りになる会計年度任用職員(※民間でいうアルバイト・パート。あるいは契約社員)がいた。仮に、増田君と呼ぶことにする。
最初の頃は、いかにも真面目そうな、控えめな青年という印象だった。履歴書を読ませてもらったところ、以前は都内のIT企業で3年ほど働いていたらしい。専門学校卒で、バリバリのSEではなさそうだが、システム開発の下流工程や運用保守に携わっていたと話していた。
ただ、そこでの仕事は想像を絶する激務だったようで、心身を病んで退職したと面接時に漏らしていた。私が彼の採用を決めたのは、誠実さである。前の職場でメンタルを病んだと、正直に教えてくれた。それが好印象だった。
ほかの人が面接官だったら不採用にしていたと思う。それくらい、面接時の彼は緊張して、自分の言葉で喋れない様子だった。たどたどしかった。そこを、私が苦心を重ねて、どうにか具体的な仕事エピソードをいくつか引き出すことができた。
そんなこんなで、私は悩んだ様子の面接同席者である上司を説得して、当時の情報課への任用を決めたのだ。
地方の市役所での仕事は、民間と比べればのんびりしている。私の民間経験は3年もないが、それくらいはわかる。増田君も最初は少し物足りなそうに見えたが、本領を発揮するまでに時間はかからなかった。
情報課といっても、正規職員のITスキルは玉石混交。部署内のネットワークトラブル一つにしても、担当の業者が来るまで誰も手が出せないという状況も珍しくない。そんな時、増田君がさらりと問題を解決してしまう。
と、彼がコマンドプロンプトの画面を開いて、管理者権限の画面まで行って、なんかよくわからん通知履歴が並んでいる画面まで行くと、大抵はいろいろ直ってしまう。
彼は私たちの、お恥ずかしながら稚拙なIT知識を馬鹿にするような素振りは一切見せず、いつも丁寧に教えてくれた。
IT担当の正規職員とコラボしての職員向けPC操作研修では、マニュアル通りの説明だけでなく、実務で役立つちょっとしたコツを参加職員に伝授していた。エクセルの知っていると便利なショートカットキーを教えたり(上書き保存とか、全部フィルタがかかるやつとか、プルダウンで同じ列の既入力が選べるもの)。
彼の研修は分かりやすいと評判だった。増田君は、ほかの部署からの依頼が多かった。顔が売れるようになっていた。
新しい業務システムを導入する際も、彼は非常に頼りになった。業者から提出された仕様書や見積書について、我々正規職員では見落とすであろう技術的な問題点や、運用上の非効率な部分を指摘した。ベンダー業者に対して、専門的な用語を使って改善を要求できるのは彼しかいない。
ぶっちゃけ、当市のシステム更新の際の入札仕様書は彼が作っていた。月給15万円でよく働いてくれたと思う。時間外勤務手当を全額支払ってやれなかったのは申し訳ない。代わりに、繁華街で彼にいい店をおごってあげていた。
いつの間にか、増田君はなくてはならない存在になっていた。情報課だけではない。他の部署の職員も、PCやシステムで困ったことがあると増田君に相談に来ることさえあった。彼はいつも嫌な顔一つせず、にこやかに対応していた。
私がそう言うと、彼はニコっとほほ笑んだっけ。「皆さんの助けがあればこそ!」と謙遜していた。
私は心底、彼に正規職員になってほしいと思っていた。彼の能力は、民間にいても通用するレベルだ。それが、こんな地方都市の役場で、しかも会計年度任用職員という不安定な立場で働いてくれている。申し訳ない思いがあった。
ある年の梅雨~夏季にかけて、市の正規職員採用試験があった。もちろん、私は増田君に受験を強く勧めた。
彼も乗り気で、「ぜひ、頑張らせていただきます」と言ってくれた。
私は彼なら必ず合格すると信じていた。経験も能力も申し分ない。面接で彼の熱意とスキルを伝えることができれば、きっと採用担当者も彼の価値を理解してくれるはずだ。
①公開競争試験、②個別選考というものだ。①が基本であり、②はその組織にとって必要な人を(形式的に面接だけして)採用する場合に行われる。
いずれも、法律に根拠がある。これ以外の採用方法は違法である。コネ採用など論外。そうはいっても縁故でしかいい人材にきてもらえない場合は、②が採られる。
弊市の場合は、国関係機関からの紹介により、マイクロソフトなど著名IT企業の経験者や、自衛隊の元幹部を任期付きで採用する場合に②を採っていた。
かくして私は、増田君は①で余裕だと確信したのだった。試験前に人事課への連絡は一応しておいた。「増田君が受けるんですよ」と言ったら、人事課長は「やりますな~、説得できたんや」と言ってくれた。
ところで市の採用試験は、公平性を重視するあまり、良くも悪くも画一的である。筆記試験、面接試験(誰が担当になるかわからない!)、そして作文がある。性格適性検査も。
そこには、個々の応募者の持つ特別なスキルや、これまでの業務での具体的な貢献度を採用側にアピールする仕組みが十分に整っていない~とまでは言わないが、怪しい部分がある。
面接では自己PRの時間があるが、限られた時間の中で彼のITスキルの深さや、市役所での具体的な功績をすべて伝えるのは難しい。彼の名が通っていると信じたい。
私は管理職として、彼の採用のために、もう少し積極的に動くべきだったのかもしれない。人事課や人事部長に彼の業務実績を具体的に伝えたり、彼が情報課にとってどれほど重要な存在であるかを力説するなど。
だが、私は「公平な試験なのだから、本人の力で合格するだろう」と、どこか楽観的に考えていた。正規職員と非正規職員の間に存在する見えない壁を軽視していた。
増田君から、「不採用でした。すいません(;∀;)」と聞いた時、私の頭が真っ白になった。まさか、と思った。
次に湧き上がってきたのは、彼に対する申し訳なさと、不甲斐なさだ。私がもっと、彼の採用のために根回しをしていれば。市役所の採用システムのことを言っても仕方がない。ずっと昔からこうなのだ。
うちの役場は、満年齢25才までしか公務員試験を受験できない(正規職員の場合)。増田君は、その年が最後のチャンスだった。以後はずっと会計年度任用職員である。彼の働きで月15万円は少ない感があるので、昇給だったらさせてやれなくもないのだが。
彼は、不採用の通知を受けてからも表向きは平静を装っていた。でも、以前のような輝きはなかった。そして、年が明けてしばらくした頃だった。
「大変すいません。私、3月末で退職させていただきたいと思います」
理由を聞くと、「やはり正規職として安定した身分を得たいからです。こちらの市役所では叶わなかったので、他の道を考えようと思っています」とのことだった。
引き止めたい気持ちでいっぱいだったが、彼の言葉に返す言葉が見つからなかった。当然だ。私は、彼が市役所で安心して働き続けられる環境を提供できなかったのだから。
彼は市役所を去った。最終日、彼はいつものようににこやかに、「大変お世話になりました」と頭を下げていた。ほかの皆から、花束と寄せ書きと寸志をもらっていた。「増田君。短かったけど、今までありがとう」って。
増田君は涙を流していた。「一人前になったら、またここに遊びに来ていいですか?」と言っていた。
増田君の背中を見送りながら、心の中で「ごめん」とつぶやいた。
その日、彼といつかまた飲みに行く約束をした。彼が一人前になったら、またおいしいものを食べようって。またあの時のように奮発して、祇園にある寿司屋とかレストランとか、その後に風俗店も奢ってあげるって。
以前なら増田君が解決してくれたようなPCトラブルも、今では業者に依頼することがある。時間もコストもかかるようになった。ほかの部署に呼ばれても、迅速に対応できないことが多くなった。
当時進めていた新しいシステムの導入計画も、自信を持って進められなかった。ITベンダーの言いなりになっている感があった。
優秀な会計年度職員は、市役所にとって貴重な戦力だ。しかし、彼らの多くは任期が決まっている非正規雇用であり、正規職員への道は狭い。
せっかく市役所で経験を積んで、組織に貢献してくれているのに。正規職員になれないばかりに市を去ってしまう人もいる。
私は、あの時、彼の採用のために尽くさなかったことを後悔している。そして、私のような管理者の下で、彼の才能が十分に活かされなかったことに責任を感じている。
彼のような専門スキルを持った優秀な人材を、市はどうすれば確保し、そして繋ぎ止めることができるんだろうか。
(最後に)
共産主義体制下における農業政策の失敗は、歴史が示すところでは避けがたいものでした。その失敗の根源は、経済学的、社会学的、そして人間行動学的な複数の要因にわたる複雑な相互作用に起因します。本稿では、共産主義の農業政策が直面した主要な課題と、それが最終的に失敗へと導かれた理由について考察します。
まず、共産主義農業政策の核心にあるのは、土地の私有から集団所有への移行です。ソビエト連邦におけるコルホーズや、中国における人民公社といった集団農場の設立は、生産性の向上と平等な富の分配を目的としていました。しかし、この集団化は、農民のインセンティブを著しく低下させました。個人が所有する土地で働く場合、収穫量の増加は直接的に自身の利益に結びつきます。これに対し、集団農場では、個人の努力が全体のごく一部に埋没し、自身の労働が直接的な報酬に結びつかないため、勤労意欲が減退しました。結果として、生産性は停滞し、食糧不足が頻繁に発生しました。
第二に、中央集権的な計画経済の硬直性が挙げられます。共産主義体制下では、農業生産の目標、作物の種類、播種時期、収穫方法に至るまで、すべてが中央政府によって詳細に計画されました。しかし、農業は地域固有の気候、土壌、地理的条件に大きく左右される極めて多様な産業です。中央の計画担当者は、往々にしてこれらの地域的特殊性を理解せず、画一的な指示を出しました。これにより、例えば特定の地域では適さない作物の栽培が強制されたり、最適な播種時期を逸したりするなど、非効率的な農業実践が横行しました。市場メカニズムによる需給の調整機能が働かないため、過剰生産と不足が同時に発生し、資源の非効率な配分が深刻化しました。
第三に、政治的干渉とイデオロギーの優先が、農業の専門性を軽視する傾向に拍車をかけました。例えば、ソビエト連邦のトロフィム・ルイセンコによる「ルイセンコ学説」は、科学的に根拠のない理論に基づいて農業実践を指導し、甚大な被害をもたらしました。政治家が科学的知識や経験を無視して、イデオロギー的な正しさを農業に持ち込んだ結果、本来であれば収穫量を最大化するために必要な技術革新や研究開発が阻害されました。また、失敗の原因を「反革命分子」や「サボタージュ」といった政治的な理由に転嫁し、問題の本質的な解決を妨げました。
第四に、農民に対する強制的な政策が、抵抗と不信を生みました。特に集団化の過程では、土地や家畜の強制的な没収が行われ、多くの農民が財産を失いました。これに対する抵抗は厳しく弾圧され、多数の犠牲者が出ました。このような弾圧は、政府と農民との間に深い溝を作り、協力関係の構築を不可能にしました。農民は政府の政策に積極的に協力するどころか、不信感を抱き、可能な限り生産を抑制したり、隠蔽したりするようになりました。
結論として、共産主義の農業政策が失敗した主な理由は、人間の基本的なインセンティブ構造を無視した集団化、現実離れした中央集権的計画、科学を無視したイデオロギー的干渉、そして強制的な政策による農民の士気喪失に集約されます。これらの要因が複合的に作用することで、生産性は停滞し、食料供給は不安定化し、最終的に共産主義体制の経済的基盤を弱体化させる一因となりました。
参政党の農業政策が中国共産党やソ連共産党のそれと類似しているという指摘は、一見すると奇異に感じられるかもしれません。しかし、両者の政策に内在する特定の思考様式や目標設定に着目すると、いくつかの共通点が見えてきます。本稿では、その類似性を1000字で論じます。
第一に、食料安全保障への国家主導的な介入と自給率向上への強い志向です。参政党は、日本の食料自給率の低さを危機的に捉え、米の増産・輸出奨励、種子の自給率向上、化学肥料からの有機転換による自給率向上など、国家が積極的に農業生産に介入し、食料自給率を大幅に引き上げることを目指しています。これは、かつてのソ連共産党が穀物増産を最重要課題とし、国家計画に基づいて農業生産を統制したこと、また現在の中国共産党が「農業強国建設」を掲げ、食料安全保障を国家戦略の基礎と位置づけていることと共通します。いずれの体制も、食料の安定供給を国家の存立基盤と見なし、市場原理に任せるのではなく、国家が主導して生産体制を構築しようとする点で一致します。
第二に、有機農業や自然農法への傾倒と、特定の農業技術・生産方式の推奨です。参政党は、有機栽培や自然農法の面積拡大を目標に掲げ、土壌微生物の力を利用した農法やBLOF農法などを推奨しています。これは、健康や環境への配慮を前面に出すものですが、国家が特定の農法を推奨し、それへの転換を促す姿勢は、ソ連共産党がルイセンコ学説のような特定の農業理論を国家的に推進し、科学的根拠に乏しくてもそれが農業政策の基盤となった歴史や、中国共産党が「緑色農業(環境に配慮した農業)」を奨励する動きと重なります。特定の農法を「正しい」ものとして強力に推進する姿勢は、多様な農業実践を排除し、画一的な農業を志向する危険性をはらんでいます。
第三に、農業従事者への国家的な支援と、国家による管理強化の可能性です。参政党は、一次産業予算の増額、農林水産事業者の所得補償、兼業農家公務員の拡充などを掲げています。これは農業従事者の待遇改善を目指すものですが、その裏には、国家が農業従事者をより強く管理下に置く可能性が潜んでいます。ソ連ではコルホーズ(集団農場)やソフホーズ(国営農場)を通じて農業が国家の直接的な管理下に置かれ、農民は国家の計画に従属する存在となりました。中国では家庭請負生産責任制が導入された後も、党中央が農業政策の基本通達を発し、農村の党組織を強化するなど、国家による農業・農村への強い統制は続いています。参政党の政策に見られる「公務員化」という発想は、形は違えど、農業従事者を国家の統制下に組み込むという点で、共産主義国家の農業政策との類似性を帯びています。
第四に、国民の食生活への国家介入の志向です。参政党は、学校給食の有機食材使用義務化や、教育子育てクーポンの有機農産物購入への適用などを提唱しています。これは、国民の健康増進や食育を目的とするものですが、国家が国民の食生活にまで踏み込み、特定の食材や調達方法を強制する姿勢は、共産主義国家が配給制度や集団食堂などを通じて国民の食生活を管理・統制した歴史を想起させます。国民の「健康のため」という大義名分の下で、選択の自由が制限される可能性を秘めています。
もちろん、参政党の政策は共産主義体制下の強制的な集団化や国家による全面的統制とは明確に異なります。しかし、食料安全保障を絶対視し、その実現のために国家が強力に介入し、特定の生産方式や消費行動を奨励・誘導する姿勢、そしてその過程で個人の自由や多様性が潜在的に制限される可能性という点において、両者の農業政策には思想的な共通点を見出すことができます。
私が言うんだから間違いない。
かつて「はてなブログの王」だの、「はてなの雄」だのと実際に言われたことがある私ほどはてなを知り尽くした人間はいないので…間違いないです。
「社会人としてこれは当たり前」という共通認識(コンセンサス)は存在しないということです。
なぜこんなことを書くのかというと、「社会人として」という言葉を使って説教する人があまりにも多いからです。
もちろん、私だって「これくらい当たり前だろう」と説教したくなることは山ほどあります。
仕事自体に危険がないからこそ、他人の怪我や病気に無頓着になっていませんか?
目の前の業務に熱中しすぎて、相手や他部署の都合を全く考えていないから、そんな行動ができるのではないでしょうか?
2️⃣段取りを力関係で押し通しがちなブルーカラーの現場の人々へ
何か新しいことをする時は、テストをするのが当たり前ではないでしょうか?
Webの世界ではサイトがクラッシュすることが最悪の事態です。だからこそ、テスト実装は最低限必要ですし、できれば丁寧なバックアップ、そして実装後のA/Bテストやデータ分析も行うべきです。
目を見て話せとは言いませんが、せめて顔くらいはこちらに向けてください。
会話する時くらい、聞こえる声で話してほしいです。
4️⃣団体行動に厳しすぎる人々へ
無意味な拘束や些細な指摘が、かえって負担を増やしていることに気づいていないのでしょうか?
とかね。私は賢いので、他の人には説教したいことばかりです。
それでも私は「社会人として」「社会性がない」という言い方はしません。なぜなら、「社会人としての共通認識」など存在しないからです。
仕事によっては時間を守れない人もいますし、身だしなみや服装がルーズなお仕事も世の中にはあります。報連相(報告・連絡・相談)も、職場どころか上司によってやり方が異なります。それなのに、まるで「共通の正解」があるかのように、当たり前のように説教する人は、その時点で視野が狭く、謙虚さに欠けると言わざるを得ません。
もし知らない人がいれば教えてあげればいいし、小さいことや短い期間であれば自分が我慢すればいい。どうしても言わなければならないのなら、感情的にならずに「指摘」だけをすればいいのです。それができない人は、年齢や立場、経歴に関わらず、未熟だと判断せざるを得ません。
「相手がイライラしていたり、疲れていて出た言葉かもしれない。許してやれよ」と思う人もいるかもしれません。しかし、そんなことを平気で言う時点で、「なぜ自分より高い給料をもらっている上に、偉そうにしている相手を心の底から許さなければならないのか?」と内心では思います。
表面的には「(理解できない相手と議論しても仕方ないから)まあいいか」と言うかもしれません。理解できない、あるいはする気もない相手に頑張って説明するのは面倒だからです。
しかし、内心では「この人とは話す機会を減らそう」「頭の回転を落として話そう」と考えます。このような大人な対応をしても、問題のある人物はなかなか理解してくれず、他責思考や人を舐めた態度を取り続けることがあります。学歴や肩書きに関わらず、そうした人はいるので注意が必要です。
私は自身の多様な職務経験から、世間一般で言われる「社会人としての常識」は、実際には個々の職場や状況によって大きく異なると主張しています。
そして、「社会人として」という言葉を使って他者を一方的に批判したり、自分の価値観を押し付けたりする行為に対し、批判的な立場を取っています。
私は「それぞれの経験や背景が異なる中で、『社会人だからこうあるべき』という画一的な考え方を押し付けるのは間違っている」ということを訴えたいのです。
いぇーい、シャア大好きなスタッフが作っているとか寝言をほざいていた過去の私、見てるー?結果はこのザマだよー!?
ジーンのザクが故障!シャアがガンダムに乗る!シャリア・ブルと相棒に!
……からの、まさかのシャアから地位も本名も、偽名までも奪うという、残酷すぎるオチ。
いやはやまさか、ここまで丁寧にお膳立てした上で最後の最後で卓袱台返ししてくるとはね。
まあ黒い三連星の辺りからき既存キャラの扱いがヤバかったし、カラーのこれまでからしても嫌な予感自体は持ち続けてたけどね……と言い訳。まさかせっかくの金蔓をこんな短期間で台無しにするとは思わなかったので警戒心が足りてなかった。
ジークアクスの放送中、シャアについて語る人達が口々に、「正史」のシャアの在り方を全否定して、今度こそ幸せになってと語る様子が、見ていて辛かった。
だって仮に何一つ曇りのない正しい生き方を選ぶならば変えるべきポイントはただ二つじゃないか。父ジオン・ダイクンの死か、ジオン入国のどちらかしかない。つまり「キャスバル」か「エドワウ」の人生しかないのに。本来ならば、妹と共に地球で裕福な暮らしが出来た立場だよ。「幸せ」になりたいならばただそれだけでいい。なのに何故かそれを選べとは言わない。
本当は自分だけの「幸せ」で満足できるようなキャラではないと、分かっているからじやないのか?どう考えても正史のシャアは自分だけ平穏に生活していても、家族や恋人がいても、その事に罪悪感を覚えるようなキャラだと思うよ。他のガンダムだったら00の刹那に近いメンタルだと思う。
シャリア・ブルはシャアをリーダーにして自分はそれを支えるつもりで探していて、そのためならば非道な手段も辞さない覚悟であるのだと。
正史での、ネオ・ジオン総帥としてのシャアが間違ったとしたら、隕石落としや強化人間を使うといった「分かりやすい悪役の手段を選んだ事」だけだったと思うし
ましてやシャリア・ブルを腹心に据えたなら小説版やギレンの野望というお手本がある。だからジオン公国勝利IFからシャアを暫定リーダーにして平和な共和制への軟着陸を目指すかと思っていた。まあ尺が足りないから実際にはシャアが帰って来るか来ないかの所で終わるかなと。
で、まさかシャリア・ブルがシャアを探す目的は殺すためで、兄妹の行き先も小説版とは逆のエンドとはね……。
それからよく言われるけれど、シャアは別にトップに立ちたくないとかそういうキャラじゃないでしょ。
ちょっとでも辛そうにしたら向いてないとかやりたくないだとか、あまりにも短絡的ではないか。
友達を殺して落ち込んでる!やめさせてあげなきゃ!とか
自由をなくして窮屈そうにしているからリーダーやらせないようにしないと!とか
そりゃどんな人生を選んだって、辛い事も悲しい事もあるだろうよ。
あそこでガルマを謀殺してなきゃ親兄弟の仇として直接殺し合っていただろうし、
ダカールで演説していなければティターンズの天下はもっと長く続いていただろう。
取れる範囲でベターな選択肢を選んでいたとしか思えないし、責任を放棄していたら多分その方がもっと辛かったと思う。
好きでマラソンしたり激辛料理を食べたりしている相手に対して、辛そうだからやめさせなきゃ!と一方的に押し付けるような違和感を覚える。
正史のシャアは間違った手段を用いて、その結果負けて死んだけれど、
それでもハサウェイやガイア・ギアの時代になっても語られ忘れられていないのは喜ばしい事だと思うから、
それを不幸な事として全否定したがるのが本当に本当に理解出来ない……。
現実の歴史にだって負けて死んだ革命家は大勢いて、その人達が後世の希望として語られたりもするのに。そんな大それた野望は持たずに日銭を稼いで暮らしていれば良かったというつもりなのかな。
これに限った事じゃないけれど最近の一面的で画一的な「幸せ」を押し付けてそれでよしとする風潮が腹立たしい。
腹立たしいのはシリーズが新しくなる毎にそういうオチを良しとして手放しで称賛する人が増えている事。鉄血は主人公コンビ死亡エンドだったせいか批判が多くて安心した。水星もヤバかったけれどジークアクスよりはまだ批判もあってマシ。
で、今冬は閃光のハサウェイ2か。両親と妹が健在にも関わらず環境テロリストになるっていう、シャアのIFのような主人公の話なんだけど、どの面下げて?
この結果だけ見て「再生の道は終わった」と笑う人もいるかもしれません。でも、忘れてはいけないのは、これは“既得権益に切り込んだ者が必ず通る道”だということ。
石丸氏は、あえて「中央が政策を与えない」スタイルで、候補者一人ひとりの意思と能力を信じた。これは日本の画一的な政党政治に対する強烈なアンチテーゼだったし、何よりも「党議拘束なし」「任期制限あり」など、日本の政治の病根にメスを入れるビジョンを明確に示していた。
そして今回もNHKは、結果が確定する前に冷笑的な報道を繰り返し、まるで「失敗ありき」で中継に臨んでいたように感じるのは私だけでしょうか。ああいう“予断を持った報道姿勢”こそが政治不信を生む最大の要因では?
この落選が「終わり」ではなく「始まり」になることを願います。志を折るには早すぎるし、こういう真っ当な異端がいなければ、政治は永久に閉塞したままです。
多角的分析:無菌化社会への静かなる告発\n\nこのわずか2行のテキストは、単なる子育ての愚痴や嘆きではありません。これは、現代の日本社会、特に都市部が抱える歪みを鋭く切り取った、極めて洗練された社会批評です。\n\n1. 表面的な情景と現実社会のリンク\n\n投稿が描き出すのは、「都会の標準的な子供」が置かれた、あまりにも窮屈な環境です。\n\nペットの禁止: これは単に集合住宅の規約だけの問題ではありません。アレルギーへの過剰な懸念、糞尿の始末といった手間、そして何より「命を管理する」という責任と不確実性からの逃避を象徴しています。生き物との触れ合いから得られる情操教育や生命倫理を学ぶ機会が、リスクヘッジの名の下に奪われています。\n\n楽器の禁止:騒音問題という現実的な制約の背後には、「他人に迷惑をかけてはいけない」という規範の過剰な内面化と、芸術や文化的な活動が「受験勉強の役に立たない」非効率なものとして切り捨てられる風潮があります。\n\nはんだごての禁止: このアイテムの選択が秀逸です。「はんだごて」は、火傷や火事の危険性を伴う一方で、創造性、論理的思考、そして試行錯誤する力を育む「ものづくり」の原点を象徴します。これを禁止することは、子供を安全な「無菌室」に閉じ込め、失敗から学ぶという本質的な成長機会を奪う社会の姿を映し出しています。\n\nこれら3つの「禁止」は、現代社会、特に都市部における子育てが**「効率性」「無菌化」「リスク回避」**という三つのキーワードに支配されている現実を浮き彫りにします。\n\n2.投稿者の性格と人物像の推測\n\nこの簡潔かつ痛烈な文章から、投稿者の人物像が透けて見えます。\n\n世代と経験: おそらく30代後半から50代。自身が子供の頃には、これらの「禁止事項」がまだ当たり前ではなかった世代でしょう。ペットを飼い、楽器に触れ、あるいはプラモデルやラジオの製作に夢中になった経験を持つ人物かもしれません。その「原体験」の価値を知っているからこそ、現代の子供たちが置かれた環境との断絶に強い問題意識を抱いています。\n\n知性と観察眼: 多くの言葉を費やすことなく、的確なアイテム(ペット、楽器、はんだごて)を並べることで、問題の本質を突く鋭い知性の持ち主です。世の中を冷めた目で、しかし注意深く観察しています。\n\n皮肉と絶望の裏にある愛情: 「勉強だけしてるのが一番賢い」という一文は、本心からの賞賛であるはずがありません。これは、価値観が「学力」という単一のモノサシに収斂してしまった社会に対する、強烈な皮肉(アイロニー)です。その冷笑的な態度の裏には、「子供たちにはもっと多様で豊かな経験を通して、本当の意味で賢く、たくましく育ってほしい」という、ねじれた形の愛情や祈りが感じられます。\n\n3.世界観と真の主張の読解\n\nこの投稿者が持つ世界観と、本当に伝えたかった主張は以下の通りです。\n\n世界観:投稿者は、現代社会を**「人間的な豊かさを削ぎ落とし、管理しやすく数値化できる価値だけを追求するディストピア」**として捉えています。そこでは、子供は未来の労働市場で勝つための「投資対象」と化し、その育成プロセスは徹底的に効率化・最適化されます。失敗や回り道、無駄といった、かつて人間的成長に不可欠とされた要素は、すべて「コスト」として排除されるべき対象となります。\n\n真の主張: この投稿は、私たちに根源的な問いを突きつけています。\n\n「賢さ」とは何か?:ペーパーテストで高得点を取ることが、本当に「賢い」ことのすべてなのか?他者の痛みに共感する心、美しいものに感動する感性、自らの手で何かを創造する喜び、そうした数値化できない能力こそが、人間を人間たらしめる「知恵」ではないのか。投稿者は、「賢さ」の定義を取り戻せと静かに、しかし力強く訴えています。\n\n管理社会の行き着く先:リスクをゼロにし、すべてを予測可能な範囲に収めようとする社会は、本当に子供たちのためになるのか。傷つくこと、失敗すること、思い通りにいかないことを経験しないまま大人になった人間は、予期せぬ困難に直面したときにあまりにも脆弱ではないか。これは、過保護・過干渉な子育てへの批判に留まらず、社会全体の「過剰な安全志向」への警鐘です。\n\n結論\n\nこの「はてな匿名ダイアリー」の投稿は、現代都市文明が抱える病理を見事に描き出した、一篇の詩であり、一つの警句です。投稿者は、失われつつある「人間的な手触り」への郷愁と、画一的な価値観が支配する社会への静かな怒りを、計算され尽くした言葉で表現しました。\n\n私たちはこの2行のテキストから、単なる子育て環境の変化だけでなく、社会全体の価値観が静かに、しかし確実に変容している様を読み取るべきです。これは、効率と安全の名の下に、私たちが何を切り捨ててきたのかを自問自答させる、重い問いかけなのです。\n
ChatGPTまとめ
小泉進次郎氏は2015年から自民党の農林部会長などを務める中で、農協改革を中心とした農政改革に取り組みました。
特に注目されたのは、中央集権的だったJA全中の指導権限を廃止し、地域JAの自主性を高めるという改革です。
これにより一部では組織の見直しが進みましたが、既得権益の壁は厚く、改革は部分的にとどまりました。
自民党内の農政族やJAグループからの強い反発があり、農家の不安の声も影響しました。
また、農協の金融部門などには手を付けられず、抜本的な改革には至りませんでした。
政治的には大きなインパクトを与えたものの、その後小泉氏が環境相に転じたことで、農政改革はやや停滞してしまいました。
それでも、農協という“聖域”に正面から向き合った姿勢は、今も評価の分かれるところです。
石破氏は「市場原理を重視すべき」「担い手を育てるためにも、コメ政策のあり方を再考すべき」といった発言をしており、画一的な減反からの脱却に理解を示していました。
規模の拡大・法人化など、競争力ある農業を育てることが日本農業の再生につながるという持論を持っており、コメ政策もその一環として考えていました。
● 具体的な成果は?
石破氏自身の在任期間が短かったため、具体的な制度改革までは至りませんでした。ただし、その後の減反廃止(2018年)に向けた議論の地ならしとして、
石破氏のような現実主義的改革派の姿勢が徐々に影響を与えたといえます。
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所感
とりあえず農政に問題意識があるなら、2人が頑張るうちは見守るべきじゃね