
はてなキーワード:田中慎弥とは
この中では「雨月物語」しか読めていない。確か角川ソフィア文庫で読んでいる。
村上春樹「海辺のカフカ」で言及されていたので興味を持った。物語集として面白いのだが、序文に紫式部を持ってくる自意識の強さが良い。あと、僕はそもそも怪奇物語が好きだ。好きなのは凄惨なスプラッタやお化け屋敷的なジャンプスケアではない。何か人知を超えた存在がいるという驚きや恐れなのだ。
これは僕の感傷マゾとつながっているのだろうが、言い出せない妄念を抱えた死者というモチーフが好きだし、神話物語に通じる奇譚が好きで、だから仏教説話も説教臭い割に好きだ。
ところで、東京創元社の編纂したSF短篇集「時を歩く」にピンとくる言葉があった。空木春宵によれば、幽霊とは虐げられた人々の象徴で、だから怖いというよりも親しみを感じるそうだ。その言葉にはたと膝を打った。だから僕もお化けや妖怪が好きなのだ。異様な姿をしていて、理解できるのかできないのかわからない、その「他者」っぽさが面白いんだ。モンスターが深い知性を持っているという設定、大好き。
ちなみに、小林泰三「酔歩する男」の元ネタ菟原処女伝説が、「浅茅が宿」でも触れられている。これを書いていたら小林泰三をまた読みたくなってきた。
「菊花の約」は小泉八雲が「怪談」で翻案している。小泉八雲も上と同じ理由で好きだ。一度彼が翻案する前の原典を読んでみたい。僕は箱庭的世界というモチーフが好きなので「安芸之助の夢」が特に大好きだ。
ところで小泉八雲の朝ドラをやるそうだ。大好きな作家だが、きっと観ないんだろうな。僕がテレビを見る習慣をなくしたのは、一つはイケメンの歯の浮くようなセリフを聞きたくないからなのだが、もう一つは小説家を目指すために、帰宅してから寝るまでの時間をずっと執筆にあてていたからなのだ。あと、ドラマを見ていると本編を放っておいて、史実ではどうなっていたかを調べる悪癖もある。
というわけで、残りの物語もそのうち読む予定。
これも「おくのほそ道」しか読んでいない。たしかビギナーズ・クラシックスだ。人々と交流しながら俳句を作っているのが楽しそうだけれど、地元に句会の記録が実は山ほど残っていたりしないんだろうか。
そういえば句会に通う友人にそそのかされて試みに俳句を作ってみたけれど、短歌と比べて情報量が圧倒的に凝縮されている。言葉選びが極めて厳密で、密度が高い。短歌は十四文字だけの余裕があるがあるから、聞いていてもゆとりがある気がする。僕は散文の文学の良さは情報の圧縮困難性、言い換えるならばどういう話かあらすじを短くまとめると魅力が失われる度合いが高いものを高く買っている。逆に、詩文はどこまで世界を圧縮できるかだ。しかしながら、短歌は枕詞で五文字も使う。なぜこんな効率の悪いことをしているのかは不思議だ。
短歌は与謝野晶子、俵万智、穂村弘あたりを読み、俳句は他に高浜虚子あたりを読んだ。
俳句じゃなくて短歌だが、与謝野晶子は熱量がすごくて読むのにえらく時間がかかった。また、穂村弘は生々しい男の生理が表現されていて何となく好ましく思う。しかしそれを荒っぽくぶつけているようできっちりと計算して表現している。形式があらかじめ用意されているからこそか。「台風の来るを喜ぶ不精髭小便のみが色濃く熱し」「男の子はまるで違うねおしっこの湯気の匂いも叫ぶ寝言も」「泳ぎながら小便たれるこの俺についてくるなよ星もおまえも」。僕は意外と暴力的なものが好きらしい。
俳句は数が多く、未読が多く、次々に新しいのが生まれており、追いつけない。ここに載せられた作品もいつかは読みたいが、記憶に残らないこともあるだろう。しかし、すべてを記憶しておかないと不安だというのも強迫観念に過ぎない。読んだその場で一期一会の幸せを覚えれば、それでいいのかも。ちなみに、俳句が作者の目の前で論評されるバラエティは、かつて通った小説創作講座を思い出して胸が苦しくなるから、見ていない。あれ残酷だよね。
こうしてみればわかると思うが、平安時代の文学と比べると、まだまだ読めていないのが江戸時代の作品だ。開き直って現代語訳でどしどし読みたい。
古典は急がない。いつまでも待ってくれている。世間で流行っている作品とか必読書とかそんなのとは無縁だ。千年前の作品を読むのが一年や二年遅れたところで、どうということはない。
ところで脱線するけれど、いま生きている人を推せる人って偉いと思う。だって、いつスキャンダルで裏切られるかわからないからだ。それこそ明治の文豪がクズだったとかいう話はよく聞くけれど、今となっては本人を含めて関係者がみんな死んでるので、多少は冷静でいられる。新たに醜聞が掘り起こされても「昔の人だからね」とどこか冷静になれる。今の人だとこうは行かない(以下、きちんと謝罪をしなかったためその態度に非常に腹が立ってファンをやめた人や、音痴なイケメン歌手の実例を事細かに挙げるつもりだったが、見苦しいので削除した)。他にも存命人物だと、事件を起こす前のオウム真理教を面白がってた著名人や、古本屋で見つけたロリコン写真集に「これぞ芸術」と推薦文を寄せていた文化人に「逃げるなァァァ」と言いたくなることがある。
やっぱり推しは死んでいる人に限る。どんな差別発言をしていても過去の人間だから納得できてしまう。そんなことを頭の片隅に置いてネットサーフィンをしていたら、芥川龍之介が「侏儒の言葉」で似たようなことを言っているのを見つけた(正確には、悲観主義について調べており、そこから哲学者フィリップ・マインレンダーを見つけ、そこから偶然にも「侏儒の言葉」の言葉にたどり着いた)。
古典の作者の幸福なる所以は兎に角彼等の死んでいることである。
又
「侏儒の言葉」は好きなんだけど、読んでいると段々と彼の鬱に巻き込まれていく。いつか芥川全集をぶっ通しで読みたいが、晩年の作品を読むと真実を言い当てすぎていて心底気分が悪くなってくる。二十代の頃のようにシニシズムを楽しむだけの体力がもはやない。ネヴァーモア! 昔はアンブローズ・ビアス「悪魔の辞典」とか大好きだったんだけどな。
とはいえ、数百年前の古典を無批判に読んでいると、人間に身分の上下があることやとりあえず天皇家が偉いことが自明に思えてくるし、人命がアホみたいに軽いことに感覚がマヒしてくるので、これもまたよろしくない。
こういうことを考えている時は大抵は体調不良のときなので、筋トレなりストレッチをしたりするのがいいのである。僕らは結局肉体を備えた存在で、そこからの入力がどんな言葉よりも助けになることが多い。というか、言葉が自家中毒を起こすことはよくあるのだ。ペッペデス。頭が良すぎて不幸になった人間の物語は好きだが、芥川には生きて戦後を見てほしかった。
さて、池澤夏樹の全集では、これ以降の巻では明治の作品が扱われる。しかし、ここまで書いてきてかなり長くなってしまった。ひとまず、江戸時代までで一区切りとし、近代の作品はまた別の機会としたい。おそらく本気になって書いたら、作家ごとに思い入れのある作品は多く、言いたいことはたくさんあるので、もっと長いエントリになることだろう。近現代作家集に至ってはIからIIIまであり、合わせて何十人もの作家が紹介されている。倍近くになるだろう。
ただし、その機会がいつ訪れるかはわからない。先にドストエフスキーや中島敦、ポーやラブクラフトについて書くかもしれない。あるいは、文学にかこつけた自分語りが一段落したので、これで終わりにすることも大いにありうる。
なお、次のエントリでは、有名どころだが話の流れから言及できなかった作品について述べる。
さっきは何が苦手かについて書いてしまったので、逆に何が好きかについても少しは語ろう。芥川賞をはじめとした現代文学を読んでいて、どういう作品が自分に刺さるかを整理すると、知識が豊富な語り手の小説が一番好きで、その次が自分の巨大な感情を論理的に言語化するのがうまい人が語り手であるものだ。それから、無軌道な性欲や暴力衝動、ひがみなどの負の感情を抑えきれない人間が出てくるのが続く。自分が中高生の頃、そうしたダークな受賞作が連続していたと記憶している。田中慎弥「共喰い」とか、時代は下るが西村賢太「苦役列車」とか、砂川文次「ブラックボックス」とか、自分の暴力衝動に屈する人間を描いたのが好きだ。青来有一「聖水」とかもそうだ。世間からはみ出してしまった、汚らしい人間が好きだった時期がある。おそらく「悪とは?」が内なるテーマだったんだろう。
芥川賞は一つの賞でしかなく、世間的には評判が良くてもピンこと来ない作品はどうしてもある。若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」は最初から自分の中の無意識の声たちについて説明しすぎていて、「それだったら最初っから意識の流れとか無意識って言えよ」って思ってしまって、それ以来ずっと批判的にしか読めなかった。あれは高齢者向けの一人で生きることを学ぶ教養小説なんだよな。あと、又吉直樹の作品に結構な頻度で、的外れな批判をしてくる劇団員の女性が出てくるけれど、「お前、本当は社会的な作品批評が嫌いだろ?」っておちょくってやりたくなる。村田沙耶香「コンビニ人間」については前回のエントリで名前を伏せてチクリとやってしまった(最後まで読んでいないくせに!)。
理想を言えば性別だとか人種だとか国籍だとか年齢だとか思想だとか、そういうのを抜きにして作品を評価したいんだけれど、ある程度年齢を重ねてくると、十代の頃のように素直にストーリーを受け止められず、若いころのように思考の柔軟性がなくなり、労働で疲れていては異質なものを楽しむゆとりが減る。どうしても自分の属性や性格が近い人の文章が面白く感じるので、公平に評価するためにマイノリティ枠を設けるってのは、いくつかの問題点があるとはいえ、一つの知恵だと思う。なお、文学的に優れていることと、そのときの自分に刺さって面白いのと、今の社会が必要としているのとは、まったく違うので、話題の小説がいつも面白いわけにはいかないのはしょうがないのだろう。
脱線すると、芥川賞を取ってもその後書き続けられた作家のほうが面白い。というか、受賞作がつまらなくてもその後面白くなる作家も多い。しかし、逆に芥川賞を取る前の青臭い作品にしかない魅力もある。長編を連載するだけの構成力も体力もないデビューしたての漫画家の初期短編集からしか得られない栄養素があるのと同じだ。
なお、僕は大体漫画を買うときは短編が多い。「Fellows!」「ハルタ」「エロティクス・エフ」「楽園」「アフタヌーン」出身の漫画あたりから、絵が好みなのを選んでいるようだ。
というか、みんなあれだけ長編の少年漫画を読むだけの体力があってすごい。ただし、僕がなかなか長編漫画が読めないのは、活字のようにぶっ通しで一気に読もうとしているからという可能性がある。連載を追うペースで、ゆっくりと読めばいいはずだ。
なんでこんなことを言うのかというと、僕は同世代的経験に相対的に乏しいためだ。例えばゲームが下手すぎて、ドラクエやファイナルファンタジーなどの多くの作品をプレイできていない。ポケモンでさえ途中で飽きる人間なのだ。自分が好きなペースで刺さった作品を読んでいるだけなのだが、時折どうしても疎外感を覚える。若いころにもっと流行りのJ-POP聞いてりゃよかったよ。そりゃあ人は人、自分は自分だけれど、寂しい。
とはいえ、少年漫画の多くは恋愛が扱われるので、そこまで読みたい気分でもないのである。
こういうことを書くと「課題の分離」とかいう話になりそうだけど、個人的にはアドラー心理学はそこまで信用していない。さっき書いた「課題の分離」をはじめとした有益な概念は多いし、原因を探るよりもまず対処法を考えるのは、実生活で非常に役に立つ。というか、実際に役に立った。だが、「嫌われる勇気」をはじめとした本ではいいことを言っている一方で、「私に反論するとしたら、それは私の理論を理解していないからだ」という、反証可能性を潰すような自己完結した思考をしているのがいただけない。これは初期のフロイト派の「私に反論するとしたら、それは私に父親を見出しているからだ」とか、古い時代のフェミニストの「私に反論するとしたら、あなたが女性差別を乗り越えられていないからだ」とか、それらと同様の理屈だ。なにか自己完結した、人の話を聞かない嫌らしさを感じる。
自己完結と言えば、たとえば何人かの反出生主義者が(もちろん別の哲学的立場でもいい、実例は見たことがある)、予期される反論に対してすべて想定問答を作ってガチガチに自己防衛をしているのを見ると、圧倒的な壁のような「他者」を感じる。この人と議論しても、自分も相手も何も変わらないだろうなという、諦念を感じることがある。互いに変化をもたらす「対話」にならないのだ。
意識の高い人たちが叩かれるのはこれも理由かもしれない。会話をしても意見を変えてくれないだろうと感じるのだ。一方的な議論をしたいのなら活字でいい。僕は対話がしたいのだ。
この増田の使い方をいまいち知らないゆえ、違う場所に先日言及しちゃいました。田中慎弥うんぬんを書いた者です。田中氏は源氏物語を何度も通読し、川端康成、三島由紀夫らの小説を何度も完読したと言います。自分は源氏物語など読む気さえ起こりませんが、田中氏のように、古典を何度も通読。さらに川端や三島の小説を何度も完読することにより、自然と体内に「文学脳」みたいな才能が堆積されたと推測します。たとえばブログ。小説や、他人の文章を読めば読むほど(インプット)、ブログに書くネタやアイデアが次々に生まれる。(アウトプット)。逆にアウトプットが続くと、書くネタが先細る。インプットとアウトプットの関係というか、法則は重要だと思います。でなければ、工業高校出身の田中氏が芥川作家になったには、それなりのインプットがあったからこそ。と自分は確信するのです。ちなみに自分も文学賞たるもの、いつの日か獲りたいと夢見た過去がありますが、自分の中にいわゆる「文学脳」とは無縁と自覚し、あきらめています。賞へのチャレンジの勇気すらありません。一次で落ちるに違いないと。。自己満足ブログ小説で終っています。まとまりのない駄文すみません。
生まれる前に、「この夫婦は貧乏だし仲も良くないからパス」とか、「お、芸能人の子か、でも倍率高いな」とか選択の自由がないのはおかしいよね。
選択の自由なく強制的に生まれさせられて、そのくせ「親に迷惑かけるな」とか「手間のかかる子だ」とかしまいには虐待されて殺されたり。
「お前の子に生まれたくなかったよ」とか言ったら「育ててもらってるくせに生意気言うな!」って怒られるだろうけど、経済的に支配されて選択権がないって奴隷と同じ境遇だよね。それなのに一方的に「親の愛情」とか気持ち悪い価値観を押し付けてきて、洗脳しようとする。
奴隷に向けた愛情なんてただの独占欲、支配欲だよね。金持ちが貧乏人の娘を妻の一人として囲ってるのと一緒じゃん(子供もいくらでも産んでいいから一夫多妻制みたいなもの)
つまり人間は約20年間親の奴隷なんだよね。20年我慢してやっと晴れて自由の身になったら、今度は雇い主が寄生してくる(親の介護)。こんなの中世の奴隷制度でもビックリだよホントに。
そういえば、うろ覚えだけど芥川賞作家の田中慎弥がインタビューで「自分は社会の奴隷にならなかったということに意地がある(作家デビューするまでニートだった)」みたいなことを言ってたけど、お前それ社会の奴隷のさらに奴隷のつまり孫奴隷じゃん、って思った。
また、虐待された子は将来自分の子を虐待しやすいって事実も、親子関係が対等ではないことを証明してるよね。
親が子に期待して教育するのも、奴隷にステータスを求めているようなもの。奴隷に芸を強制させて、その出来不出来を自由人(親)達の見栄の張り合いの道具にする。家ではヒステリックに叱って無理矢理勉強させて、外では「うちの奴隷は優秀でオホホホホ」と自分のことのように自慢する。やはり子を自分の持ち物と考えていることがわかるよね。
この腐った奴隷制度が現代社会においてもなくならないのは、奴隷上がりはまた奴隷を欲しがるから。それだけに尽きると思う。体育会系の部活の先輩が後輩をパシリに使うのと同じ。自分がされたことをまた下の世代にしてるだけ。下の世代も将来同じことができるから従ってるだけ。
ちなみに俺は童貞だし奴隷を雇う気のない人道主義者だよ。実家暮らしのニートだけど。
なんか馬鹿が「生まれる前から競争ならお前負けるじゃん」みたいなこと言ってるけど、選択の自由ってのは「生まれてこない」って選択肢もアリだからね。さようなら。
amazonのレビューで、多崎つくるのレビューを、ほとんど疑いもなく星5つで記載し、圧倒的な「参考にならない」の評価をくらっているしがないレビュアーです。
ちなみに、今日2013/5/8現在、335人中101人が星5つの評価を加え、星4つの高い評価をつけた人を加えると、335人中182人の半数以上の人が星4つ以上をつけているにも関わらず、現在「最も参考になったカスタマレビュー」は、ドリーなる人物の書いた「孤独なサラリーマンのイカ臭い妄想小説」という星1つのレビューで、9825人中、9502人が「参考になった」というボタンを押しています。
ちなみに星1つの評価のレビューは、323人中、51人しかないにもかかわらず、この評価は圧倒的です。
感覚的にいえば、全体における星の数の比率に、各評価の中で「最も参考になった」というというレビューが、最終的に漸近していきそうなものですが、このドリーなる人物のレビューは、ある種ゴシップ的な面白さが加わり、NAVERとかはてブあたりから迂回してやってきた方々の支援もあったのだろうと邪推しつつ、圧倒的な支持を得、10000近くの人たちに「参考になった」とフォローされているわけですが、その内容は、読めば読むほど気持ちの悪いレビューで、村上春樹をとりまくマーケティングの悲惨さを痛感するとともに、あらためて日本人の文盲具合と、教養のなさと、その教養のなさをひけらかす露悪主義をみせつけられるようでした。
とはいえ。
これも、ドリーなる人物の文章が悪いのかというとそういうのではありません。こういう気持ちの悪い文章は、本来放っておかれれば、そのまま情報の闇に葬りさられるだけであり、問題なのは、こういう情報を引っ張ってきて、「うーん、これはすごい」「面白い」と言っている人々の側に、前述した無教養さの礼賛であるとか、露悪主義のようなものがあるように思うのです。
それで、私は、この駄文が、そもそも情報の闇に葬りされること請け合いなのにもかかわらず、下記の数点の視点に絞って、村上評価およびその周辺のマーケティングの問題について論じたいと考えています。
1.村上春樹の今回の新作の、アマゾンレビューにおける、公平な評価の基準軸(いったい星いくつが適切なのか?)
2.「村上春樹が嫌い」というヤツは、実は「村上春樹」よりも「村上春樹ファンのことが嫌い」という事実
3.村上春樹を100万部売ろうとするマーケティングの問題(そもそもこれエンターテイメント小説じゃないんですけど)
この3点についてです。
■1.村上春樹の今回の新作の、アマゾンレビューにおける、公平な評価の基準軸(いったい星いくつが適切なのか?)
まず、結論から断じて言いますが「多崎つくる」のamazonのレビューを、現在の日本文学における主要作品(村上龍、山田詠美、阿部和重、平野啓一郎、川上・・・などなど)と比較して星をつけるとするならば、星は5つ以外は考えられません。これらの作家の代表作と比較しても、時代的な価値、作品の主題、文体などにおいて「劣っている」という評価をしようがないからです。
もちろん、小説や物語には個人的な共感を読み手の原動力にするという性質上、どうしても「共感できない」という人がいるのは確かなことです。しかしながら、そういう個人的な側面を度外視し、「文学」というジャンルにおいて、日本という国の文化を歴史的に補足、説明する資料として、たとえば、文学作品をピックアップするのだとすれば、本作は1Q84までとはいかないにしても、近年の日本代表クラスとしかいいようがないからです。
2013年、日本という国で出版された歴史的に淘汰を免れる文学作品をあげなさいといわれて、今年、これ以上に素晴らしい「文学作品」が登場するかどうか、私は甚だ疑問です。平野啓一郎の新刊がでればその可能性があるでしょうが、少なくとも、それ以外の作家には期待できません。
abさんご?無理です。
そういう意味において、本作は星5つ以外の評価はありえないと私は思うのです。
しいて別の視点で評価するならば、村上春樹作品全体を相対的に評価するということもできるかもしれません。これについて言えば、私の評価は、星5つに限りなくちかいものの、もしかしたら星4つをつけるかも、くらいのところです。人によっては3つという人もいるかもしれません。それはあくまでも村上春樹作品における相対評価です。
本作は、次につながる長編小説のための助走のような小説です。伏線の回収(村上春樹本人ならば、伏線の回収ではなく、全体を微細に描き切っていないと言いそうですが)、それが十分でないことがその理由です。
しかしながら、これが作品の評価を不当に低くするかというと別問題です。短編小説というのは、その行間に物語の前後や背景を滲ませ、読者に共感の余地を残すものです。これは本作が、短編小説的な位置づけにあるということを示唆しているのであって、村上春樹が手を抜いているわけではないのです。星を1つ減らす理由があるとすれば、「もう少しだけ短くてもよかった」という点でしょうか。短編小説というには、少し長すぎました。
本作は、あくまでも「短編」であり(この人の場合は、もはや「短編小説」がこの長さになってしまうだけ)、あえていくつかのプロットを読者に委ねたのです。これは、文学を読む側のリテラシーの問題です。趣味(つまり好み)の問題ではなく、読む側の技術(読解力)の問題です。
というわけで、個人的な村上春樹の読者として星をつけるならば4つもあり得るかもしれませんが、文学に全方位的に公正な評価をつけるのならば、星5つ以外にはないということをご理解いただけるでしょうか。
もし、理解できないのならば、村上春樹を読む前に、夏目漱石と森鴎外と谷崎と太宰と三島と大江健三郎と諸々読み直すべきでしょう。
それが嫌なら、伊坂幸太郎でも読んでればいいと思います。稚拙な、読解力を十分に満足させるだけの文章にはなっています。
■2.「村上春樹が嫌い」というヤツは、実は「村上春樹」よりも「村上春樹ファンのことが嫌い」という事実
私は、長年村上春樹の作品を読み続けてきて、周囲にもそのことを公言しているわけですが、最近困ったことに「ハルキストの○○さんは、新作もちろん読まれたんですよね?」とか「ハルキストとして今作はどうでしたか?」などと聴かれることが多くなりました。
この「ハルキスト」なる呼称、最近よく聴くんですが、これって、わりと最近たぶんノーベル文学賞に毎年エントリーされるくらいになってテレビのリポーターとかがテキトーつけたんじゃないかという気がしています。一体いつくらいなんでしょうか?
私思うんですが、村上春樹の読者を「ハルキスト」と呼称してしまう人は、はっきりと断言しますが、村上春樹を読んでいないか、全く読解できていないかのどちらかです。
村上春樹の小説はどの作品でも読めばすぐにわかりますが、組織や共同体に所属することにとにかくうんざりしています。辟易しているし、場合によっては嫌悪感に近いものを感じていることもある。とにかくそういう人たちとうまくやっていくことができないし、やっていく自信もない。主人公の「僕」やら「ハジメくん」やら、「ワタナベくん」は、もう、所在なし、所属なし。
村上春樹の作品が世界的に受け入れられているひとつの理由は、その「孤独」性です。その周囲にうんざりしたり、なじめなかったりするその主人公のおかれた状況に、読者が少なくない共感を感じてしまうことが、世界的に受け入れられたひとつの理由なのです。
つまり、「ハルキスト」などという「ひとくくり」の呼称を付与されることに、気持ち悪さしか感じない・・・というような人たちが、どちらかといえば村上春樹の本質的な読者なのです。私も同様「ハルキスト」と呼ばれるたびに、冷笑を覚えたりするので、みんなそんなもんだろうなと思っていると、ときどき本当に「ハルキスト」を自称する読者にあったりします。こういう場合は、辟易するというかなんというか、ときどき困惑と嫌悪感が入り混じった感情を抱いたりするこもあります。
なんなんだこの違和感。
と。この感覚は、村上春樹に星1つをつけて、「いやぁ、村上春樹とか読んでるやつ信じられねーな」とかいう人の感覚に案外似たところがあるかもしれません。(まぁ、とはいえどうでもいいことなので、あえてバッシングしたいとも思わないのですが。)この際、そのほんとに読んで言ってんのかよ!という方々を「ハルキスト」と呼称しましょうか、そのハルキストなる方々と、村上春樹の作品とはまた別の問題だと考えるべきです。
こう言うと、村上春樹の小説はそういう勘違いした読者、その「ハルキスト」なる存在を生み出しており、村上春樹にはその責任があると捉えることもできます。
アンチ村上春樹の人間は、この影響力に村上春樹への脆弱性をみつけて、論考をぶつのですが、はてさて、この点はもういちど考え直してみたいところです。読み手の読解力の欠如がもたらした読者の勘違いを、書き手である村上春樹にその責任を求めることができるのか?ということです。
小説作品は、たとえば自動車のエアバッグとか、緊急時備え付けの消化器とか、避難用のはしごだとか、なんでもいいけど、使い方を誤まったら命に別状があるというようなものではありません。
芸術作品です。
作り手の意思とは別に、受け手が勘違いしてしまうことに、作り手はどれだけの責任が持つ必要があるというのでしょうか。
■3.村上春樹を100万部売ろうとするマーケティングの問題(そもそもこれエンターテイメント小説じゃないんですけど!)
村上春樹を批判する多くのレビューを読む限りにおいて、圧倒的な支持をえる論調は、
「こんなヤツはいない」
「恵比寿でナッツを食べるたべにバーに入ったりしない」
「孤独をそんなに深刻ぶったりしてこいつは、何様なんだ」
確かに、多数派ではないかもしれませんが、いないわけではありません。ホテルのバーでお酒を飲んだりすることは、普通にあることです。言葉でどう表現するかの問題はありますが、物事を深く考えすぎて、些細な問題で心を痛めてしまうということも、現代人ならよくあるはずです。セックスなんて論じる必要もなく、敷居が下がっています。
主人公の行動や言動を自分と比較して、「こんなヤツいないよ」とかいうのは、主人公を類型化して自分との共通点を見つけ出す作業なのでしょうが、確かに、村上春樹の作品の主人公を無理やり類型化して、多数派か少数派かで割り振ったとしたら、間違いなく少数派でしょう。(安易にこういう構図に分類するのは正しい方法ではないのですが)
鉄道会社勤務。年収は、700万程度。都内にマンションを所有し、ローンもない。30代後半で独身。女性関係は特に困ったことはない。
なんというか、条件面だけ描きだせば、裕福で恵まれていて、どこかしらいけすかないととることもできそうです。そして、実際、この点を、アンチレビュワーの方々は、突いているのですが。
前述したとおり、村上春樹の小説が世界的に受け入れられたひとつの要素はその「孤独性」だと言いました。
みんなの中でわきあいあいとできない。上司にうまく媚を売ったりはできないし、意味のない日常会話を成立させたりもできない。会社終わりにみんなで飲みにいったりするくらいなら、ひとりで孤独に音楽を聴きながら読書をしていたい。
などという人間を描いて、そこに世界中の多くの人間が共感しているのです。きわめて個人的に。
そして小説というのは、個人的な共感によってはじめて読み進めることができる形式の芸術です。
たとえば、ソフィア・コッポラの映画は、同じように「孤独」を描いています。マリーアントワネットなどはその最たる例で、多崎つくるくんなどとは比較しようもないくらい恵まれている。にも関わらず、彼女は圧倒的な孤独に苛まれている。そして映画を観る者は、そのマリーの孤独に共感して、胸を痛める。いや、映画が小説と違うのは、マリーの孤独に共感しようとしまいと、映画自体は2時間後に終わるということ。
しかしながら、小説というのは「なんだよこいつ、むかつく奴だな」というのがあったら、読み進められない。別の言い方をすれば読み進めなくてもいい。村上春樹は、この社会において孤独を感じながら生きざるを得ない、もしかしたら比率的には少ない側の面々の生き方肯定しながら、その顛末を見守るというようなプロットなのだから、読んで「むかつく」人が多いのが、当たり前といえば当たり前なのです。
もともと多くの多数の人間に共感されることを、書いてる本人も視野にいれてはいない。(それを望んでいないわけではないにしても)
にもかかわらず、売る側は必死です。
それはそうです。売る側は、本の内容は関係ないからです。出版不況の時代です。本が売れません。黙っていても売れる時代なら、売る商品を選ぶこともできます。「こんな根暗な作家が書いた本は、ひっそりと奥に並べておこう」とか。でも今は、売れる商品が限られています。小さな本屋から、大きな本屋まで、こんなにまとまって本を売ることができる機会は、年にそう何度もあるわけではないのです。
だもんで、売る側は、まったなし。「村上春樹の新刊!?長編?平積みだよ、平積み!」
と、なって当然です。で、買い手は買い手で、村上春樹なんて共感できない人が数多いて、そのことを半ば自覚しているにも関わらず、「またぞろ、村上さん新刊ですか?」などとうがった態度で、1700円も払って買って帰ったりする。
本来、孤独に静かな時間を過ごしたい人(それから社会と自分との繋がりを確認したい人)のために書かれた本であるにも関わらず。
帯にこんな風に書いておけばいいかもしれません。
「この作品は、日常に違和感を感じることもなく、日々を謳歌している人間には読む必要のない小説です。それと孤独を描いてはいますが、自分自身の孤独が解消されれば、他人のことも社会のことも、どうでもいいという人にも不向きです。自身の孤独が社会との関係において改善されることを仄かに信じている人のための作品です」
もちろん、そんなことは絶対書かれることはないのでしょうけれど。
本来静かに出版されて、求める人がそこに救済を得るという仕組みであるべき作家と読者の関係が、資本主義の論理によって蹂躙されている。それだけのことにも関わらず、本来、村上春樹に対して苛立つ必要もなかった人たちまでが、駆り出されて、勝手に苛立っているのです。
嫌なら読まないということが可能なのにも関わらず。
この「作り手」と「市場」との悲劇的な関係というのが、アンチ村上春樹を作り出し続ける最大の要因という気がしてなりません。
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随分長くなってしまいましたが、最後に結論というかなんというか。
こういうことも言えるかもしれません。
昔、三島由紀夫は、太宰治が大嫌いで、直接会いにいって「私はあなたの作品が嫌いです」と言ったそうです。
すると太宰治は返す刀でこう答えました。
「でもこうやってわざわざ来たんだから本当は好きなんでしょう?」
三島由紀夫は、なにも言い返せなかったそうです。
つまり、みんな本当は、村上春樹が好き(もちろん、断固として認めたくない)なんだけど、作品の主人公同様、素直になれず、好きさゆえに星1つつけちゃって、あんなヤツ嫌だよ、いないよ。むかつくよ。とか言ってるだけっていう可能性もあります。
ん?あっ、それって、実は一番村上春樹の主人公的?な気がしなくもないですね。
この長文を書いている間に、少なくとも「私は、ハルキストです」とか言ってる人より、星1つつけて、村上春樹なんか嫌いだよとか言いながら、毎回出版されるたびに買っちゃってる人たちの方が、なんだかよっぽど共感できる気がしてきました。
本日は、徳島新聞社の名物コーナーである "鳴潮"を解説することで、
徳島新聞の素晴らしさを日本の投票者6000万人(有権者≠投票者)へ向けてアピールしたいとおもいます。
引用は、徳島新聞 2012.10.26 第24649号 です。
http://www.topics.or.jp/meityo.html
では、さっそくまいりましょう!
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「ばかみたいな作品ばかり」。
東京都の石原慎太郎知事が今年の1月、芥川賞の選考委員を辞任したときの言葉だ。それに対し、芥川賞に決まった田中慎弥氏が「都知事閣下のためにもらっといてやる」と発言して話題を呼んだのは記憶に新しい
「ばかみたいな作品ばかり」という、機嫌の悪い日の石原氏の粗野な言動を引用することで、初っ端から石原氏を野蛮な奴だと印象づけています。
ここから、芥川賞と絡めてどのように話が展開するのかワクワクさせてくれる。
「いつか若い連中が出てきて足をすくわれる戦慄(せんりつ)を期待したが、緊張感を覚える作品がない」と吐き捨ててもいる。
それと同じ思いなのだろうか。
政治も若い連中には任せておけないとでも言うように都知事を辞め、
新党を結成して国政に復帰すると表明した
"発言した"という言葉ではちょっとパンチが弱いので、あえて "吐き捨てた" という言葉を使ってみた。
こうすることで石原氏が乱暴な性格であるかのごとく、さらに読み手に印象付けることに成功すると同時に文章の深み、コクがましてまろやかになる。
あれれ?そういえば、第一段落で出てきた芥川賞の話はどうなったんだろう・・・。
ひょっとして 「バカみたいな作品ばかり」 という発言を無理やり組み込みたかっただけなのかしら、ちょっと残念ですね。
よそさまの健康状態なんか他人の話なのでほうってあげればいい、そんな常識はなんのその。
「徳島新聞社は優しい人たち」だと優しさアピールしている。
と根拠のない疑念を植え付けることに成功した。
自分を持ち上げて、相手を貶す。ボクシングで例えると回避と攻撃を同時に行うカエル・アッパーのようなきつい一撃だ、お見事!
記者会見でも息巻いた。
「憲法の権利と義務のバランスが害悪だ」と憲法改正をぶち上げたかと思うと、2030年代に原発をゼロにするという野田政権の原子力政策についても「提案にもならない」と批判した
"憲法改正を唱えた"と表現すべきところを、あえて、"ぶちあげた"と表現することで
石原氏を粗暴な性格の悪童であるかのように印象づけることに成功した。
憲法改正はに対する徳島新聞社の憎しみ、職業的倫理観を感じました。
憲法は連合国総帥様が即興で1時間くらいで書き下ろしてくれた聖なる文書なので、神聖不可侵ですからね。
これを改正するなんてとんでも無いことです。
いや、まったく同感です、50年経とうと100年経とうと300年経とうとそのせいで日本が滅びてしまうとしても、不可食ですので、そのままの状態を維持し続けるべきですよね。
こんなの小学生でも分かることです。
それにしても、東の石原氏、西の橋下氏と威勢のいい新党代表がそろったものだ。「うそぶくってことは強がりなんだよ。強がるってことは本当は弱いってことなんだよ」。
政治家としてはどうなのか。
第三極勢力になり得るのか否か。
国民がじっくりと判断するだろう。
「石原さん、あなた、政治家として威勢のいいことを発言しているけど、あなたは、強がってるだけで本当は中身が弱い、取るに足らない存在なんでしょう、
あなた自身の昔のコメントでもそう言ってるじゃない。ついでに橋下市長もな。」
しかも、石原氏本人だけではなく、維新の会の橋本市長のことも道連れで一緒くたにしてバカにするという予想外の範囲攻撃だ。
全体を通して、どの段落にも
接続詞のBecauseがまったく見当たらない点がとても秀逸。
主張と根拠をつなげられないように、あえて注意をはらって英語のBecauseに当たる単語を1つもいれていない。
おそらく、Becauseという単語を入れると編集長に書きなおしさせられるのでしょう。
さらにつっこむと、主張と根拠をつなげていないどころか、
"徳島新聞社が主張したい事"をすべて曖昧にぼかして表現している。
この理由は、石原氏の支持者からの反論を受け付けないようにするための逃げ道を残すためであろう。
「いえ、それはあなたの考えすぎです。私達はこの記事で石原氏を中傷するつもりはありません。」と言い逃れができる。
まったくすばらしい! 鉄壁のディベィト術! 禁断の魔筆の使い手! すばらしすぎる新聞社、それが徳島新聞社です。
私はこの鳴潮の文章を作文した方の名前がぜひとも知りたいです。