
はてなキーワード:生産性とは
この本を読んだ。
#社会は、静かにあなたを「呪う」 思考と感情を侵食する“見えない力”の正体
https://www.shogakukan-cr.co.jp/book/b10140145.html
「日本は終わっている」という諦めや「幸せにならなければ生きる意味がない」といった押し付け―果たしてそれらは真実なのか?
社会の「呪い」を膨大なエビデンスで解き明かし、思い込みから自由になるための一冊。
だ。
「それってホントに?」というものも、自分で調べて結論づけるのは時間がかかるし難しい。だから「〇〇だから日本は終わり」という言説も「まあ……そうなのかも」と思ってしまう。それを毎日のように聞かされていたら本当に「日本は終わり」と信じてしまっても仕方がない。
取り扱っている呪いの一部
「この国は終わっている」
「生産性が低い」
脚注に「日本は終わり」発言の出典が書かれているのだけど、ひろゆきやホリエモンなど知っている人が出てきて笑ってしまった(本文中ではぼかされている)。ニュースメディアや警察発表などからも取り上げられていて、呪いは色々な場所からかけられているのだなと。
半端な説明は誤解を招くので書かないが、親から子への遺伝と生活への影響は思ったより少ないし、遺伝子は後から行動で書き換えられるという。
今の生活が悲惨に感じても、それは遺伝で決まっていることではない。
「じゃあ日本という環境が終わっているからじゃないんですか?」
と言われそうだが、それも前の章にある「日本人は劣化している」「少子高齢化する日本は衰退するしかない」などの呪いへの解説の章で、「そこまで悲観しなくていいんじゃない?」と思わせてくれる。
最後に、
コンビニ前でたむろしている人たちを少し馬鹿にする気持ちを覚えることがある。
ヤンキーの溜まり場だなと。集まって何も生産せずただ時間を浪費しているだけだと。
ただ、この本を読んで「日本は終わり」論を考えてみると、
新聞やニュースやはてな匿名ダイアリーなど、終わり終わりと言うだけでなんのモチベーションにもならない。
色々なことを悲観するせいで何が大きな重要な問題かわからなくなっている。
溜まり場を無くすべきとは思わないが、溜まり場に居すぎて偏った思考になるのはまずいなと。
日本はまだ終わっていない。
はい、その通りです。先進国の中で米国の平均寿命は意外なほど短いです。
米国:76-77歳程度
医療アクセスの不平等 -国民皆保険がなく、医療費が高額。予防医療を受けられない層が多い
肥満・生活習慣病 -肥満率が約40%と極めて高く、心疾患・糖尿病が多発
薬物過剰摂取 -オピオイド危機など薬物関連死が深刻(年間10万人超)
所得格差と健康格差 -富裕層と貧困層で平均寿命が10年以上違う地域も
これが経済にも影響:
日本の高齢化問題と米国の「早死に」問題、どちらが経済的に有利かは一概には言えませんが、確かに労働力構成には大きな差がありますね
普通に考えて何の問題もなくガンガン成長してるんなら政府が規制かけるわけなくね?
政府が規制かけたのはバカみたいな働き方をして、させ続けた結果、
心身の疾患、果にはDEATH OFKARO(病死、自死含む)が社会問題になったから
政府として国民の生活を守るためにやむなく敷いたのが労働規制だろ。
何なら政府なんか経団連とズブズブのズブなんだから労働規制には消極的だっただろ。
あと世界的に日本の働き方は異常だってずっと言われ続けていたわけで。
日本の成長が止まったのは政府が労働規制をかけたからじゃなくて
終わってる生産性を長時間労働で誤魔化し続けていたのを改善できなかったからじゃねぇの。
文章は「早期退職が短期的に財務合理性をもつ」と冷静に記述しているが、ここには経営陣自身の戦略的無能さが覆い隠されている。
本来、経営とは単年度の損益勘定ではなく、「人材を通じて知の蓄積を再生産するシステム」を構築することである。にもかかわらず、多くの日本企業の経営層は次のような欠陥を露呈している。
ベテラン社員の賃金を「生産性との乖離」とみなし、即時的コストカットに走る発想は、経営が“教育投資”や“内部知の継承”という本質を理解していない証拠である。
欧米の成功企業では、熟練人材は若手育成・組織文化の維持装置として位置づけられ、その貢献は「見えない生産性」として定量・定性の両面から評価される。日本企業の経営陣はこの非定量的価値を可視化する能力を欠いている。
経営層は、バランスシートの改善を株主・監査対応の「儀式」として遂行する一方で、長期的な技術競争力・市場再定義に向けた構想力を欠く。
結果として、合理性の名のもとに人材を切り捨て、10年後に再び同じ構造的問題に陥る「リストラ再帰現象」を繰り返す。これは経営判断ではなく、思考停止の制度運用に過ぎない。
近年の大企業では、財務・法務・経営企画といった「調整型エリート」が経営陣に集中し、現場知を持つ実務者が排除されている。そのため、人的資本の質や現場の専門性を評価する基準が存在せず、「人を数字で削る」以外の手段を持たない。
要するに、経営の知的怠慢が、制度的惰性を装って正当化されているのである。
文章はフランスやアメリカの「複線型・フラット型」モデルを理想的に描くが、見落としているのはエリート教育そのものの構造的欠陥である。
すなわち、現代日本では「グローバル基準」を参照しても、その前提となる評価制度・教育体系が劣化した模倣物に過ぎない。
フランスのグランゼコールや米国のMBAは、単なる専門訓練ではなく「社会設計者」としての責任倫理を育てる。
一方、日本のエリート教育は、東大・慶應・一橋などの学歴的篩い分けを通じて、「既存秩序の維持装置」を生産するにとどまっている。結果として、システムを批判的に再設計する知的能力を持つ人材が枯渇している。
エリート層が自らと同じ価値観・履歴(学歴・官僚的行動様式)をもつ人材のみを昇進させる構造が、企業内の思考多様性を奪っている。
その結果、制度疲労を是正するイノベーションが内部からは生まれず、「成果主義」や「フラット化」も形式的スローガンに終わる。
実際、外資模倣型の成果評価制度を導入しても、評価する側の知的基盤が旧来の年功文化に依存しているため、制度だけが輸入され、文化が輸入されない。
日本のエリート教育は“効率と管理”を学ばせるが、“責任と再設計”を教えない。
したがって、経営陣が「合理的なリストラ」を実施するとき、それが組織文化の破壊・技能伝承の断絶・心理的安全性の喪失を招くという倫理的コストを認識できない。
このレポートは制度構造(年功序列・賃金カーブ)を問題の中心に据えているが、より根源的な問題は制度を運用する人間の知的劣化である。
経営陣が「制度に依存し、制度を批判的に再構築できない」状態に陥っている限り、どんな制度改革も形骸化する。
持続可能な雇用制度の前提は、「持続可能な思考」を行う人材層の育成である。
それは、教育・採用・評価のすべての局面で、短期的成果よりも構想力・倫理・公共性を評価する文化を取り戻すことでしか達成されない。
労働時間規制(例:労働基準法の週40時間制限や残業時間上限など)がなぜ国家によって設けられているのかは、単に「労働者を守る」という話以上に、経済構造・政治哲学・社会政策が複雑に絡み合っています。以下で整理します👇
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•長時間労働は労災・過労死・生産性低下に直結するため、国家が介入して制限してきました。
•日本では「過労死」という言葉が国際的に知られているように、健康被害との因果関係は強く、WHO/ILOの合同報告でも週55時間以上の労働は脳卒中・心疾患リスクを著しく高めるとされています【WHO/ILO, 2021】。
•労働市場は、各企業がコスト削減を競う中で労働時間を伸ばすことで賃金を抑える方向に向かいやすい構造があります。
•労働者1人1人が個別に「働きすぎない」という交渉力を持つことは難しく、囚人のジレンマが起きる。
• 「自分だけ早く帰る」と収入や評価が落ちる →結果的に全員が長時間労働せざるを得ない。
• こうした市場メカニズムの失敗を是正するのが、労働時間規制の重要な役割です。
•労働時間を短縮することで、一人当たりの雇用を分け合う効果もあります。
• これは特に戦後ヨーロッパで強調され、「労働時間短縮=雇用創出」として政策的に用いられました(例:ドイツの週35時間制)。
•国家は経済成長だけでなく、出生率維持・地域コミュニティの再生などの社会目的も持っています。
•労働時間が過剰だと、子育て・介護・市民活動に時間を回せず、社会基盤が弱体化するため、あえて経済合理性以外の時間の使い方を保障する方向に政策が向きます。
• 例:北欧諸国では「ワーク・ライフ・バランス」を福祉国家の柱と位置付けています。
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一見、「市場原理に任せれば、労働者は過剰労働を嫌がって自らバランスを取る」ように思えるかもしれません。しかし、現実には次の構造的問題があります👇
企業は交渉力が強く、労働者は雇用依存度が高い自由な選択が機能しない
「他人が働いてるなら自分も残る」全体最適ではなく過労の均衡点に
多くの企業で成果より「労働時間」が評価される文化的要因自発的に短く働きにくい
日本などでは世帯単位での生活費を賄うため「残業前提」結果的に長時間労働の均衡が固定化
→つまり、市場は労働時間の「ちょうどいい」均衡を自動的には作れない構造的な特徴があります。
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• 🇪🇺EU:EU労働時間指令により、週48時間を上限とする(オプトアウトあり)。休暇・余暇も制度として保障。
• 🇯🇵日本:労働基準法で週40時間+残業上限規制。実態としては「36協定」により緩和されてきたが、2019年から罰則付き上限規制が導入。
• 🇺🇸米国:時間規制は比較的緩いが、残業は割増賃金(オーバータイムペイ)で企業コストが上がる仕組み。
👉つまり、「労働時間をどう制御するか」は各国の経済政策×社会政策の価値観に深く依存しています。
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🧭 4. まとめと含意
•健康被害の防止
が重なっています。
•市場任せでは構造的に「過剰労働」が起きやすいため、国家が介入して「適正水準」を社会的に決める必要があります。
言うこと聞かないアホクライアントは切り捨てて行け。
・ペットは人間より短命だから責任もって見送れるけど子供は親より長生きするからなり損なったとき責任とれない
・ペットはできることに限界あるけど人間は最悪の場合に宮崎勤や青葉真司みたいに大量殺人するうえに人権もある
・生産性では機械に人間が勝ってるとされるけど今後ロボットに自律型AIが搭載されて進歩していくと生産性でも負ける可能性ある
最近、ブログやSNSで記事を書いていると、ふと気づくことがある。自分が「これ、めっちゃ良いこと書けた!」って思って書いた記事が、意外と反応薄だったりする一方で、なんか軽い気持ちで書いた愚痴っぽい記事や、誰かをちょっとディスった記事がバズったりする。というかそう言う記事しかバズらない
例えば「職場のあの人がムカつく」とか「世の中のこういう風潮、クソくらえ」みたいな、ちょっと毒っ気のある記事。こういうの、なんでか知らんけど、めっちゃリツイートされたり、ブックマークされたりする。
コメント欄も「わかるー!」「ほんとそれ!」みたいな共感の嵐。自分としては、「いや、こんなんでバズってもな…」ってちょっと複雑な気持ちになるんだけど、でも、なんでこういう記事がバズるんだろう? そこには何か理由があるんじゃないかって、最近よく考えるんだよね。
まず、なんでこういう「愚痴系」や「ディスり系」の記事がバズるのか、考えてみた。ネットを見てると、こういう記事にはいくつか共通点がある気がする。
愚痴とか批判って、読んでる人の「わかる!私もそう思ってた!」って感情を刺激するんだよね。職場で理不尽な目にあった人、SNSで変な絡まれ方した人、みんな何かしら「ムカつくこと」抱えてるじゃん? そういう人たちが、自分の気持ちを代弁してくれる記事を見ると、「これこれ!」ってなる。共感って、ネットで拡散する最強の燃料だよね。
冷静で理性的な分析記事より、怒りとか悲しみとか、強い感情がこもった記事の方が人の心に刺さる。だって、感情って伝染するもん。読んでる側も「うお、わかる、ムカつく!」って一緒に盛り上がっちゃう。逆に、データだらけの真面目な記事って、読むのに頭使うから、ついスルーされがち。
愚痴記事って、だいたい短くてストレート。難しい言葉使わず、誰でもパッと読める。だから、忙しい人でも「2分で読めるし、ちょっと見とくか」ってなる。SNSのタイムラインで流れてきたとき、スクロール止めるハードルが低いんだよね。
これ、ちょっと怖いんだけど、特定の誰か(上司とか、インフルエンサーとか、世の中の「マナー警察」とか)を悪者にして、そこにみんなのフラストレーションをぶつける構図、めっちゃ効くよね。「あいつらが悪い!」「ほんとそれ!」みたいな感じで、読者が一体感を感じる。敵を作ると、仲間意識が生まれるんだよね。
でもさ、こうやってバズる記事の「法則」を考えてみると、なんかモヤモヤしない?だって、こういう記事って、結局「負のエネルギー」で動いてる気がするんだよ。誰かを叩いたり、世の中をdisったりすることで、みんなの溜まったストレスを発散させてるだけ。確かにバズるし、瞬間的な注目は集まるけど、これって本当に「良い記事」なのかな? なんか、もっと違う形で、読んだ人を元気にしたり、やる気にさせたりする記事って書けないもんかなって思うんだよね。
バズる記事が持つ「負のエネルギー」には、実はけっこう問題があるんじゃないかって、最近気づいた
1.一過性で終わる
愚痴や批判の記事って、瞬間風速はすごいけど、すぐに忘れられる。だって、読んだ人は「わかるー!」って盛り上がるけど、結局その場でストレス発散して終わり。次の日には別のバズり記事に流れてく。なんか、ファストフード食べて一瞬満足するけど、すぐお腹空くみたいな感じ。
愚痴系記事って、読者を「共感して終わり」の受け身な状態にしがち。読んだ人は「うんうん、わかる」ってなるけど、そこから何か行動しようとか、考え方を変えようとか、そういう次のステップに繋がりにくい。
これが一番モヤモヤするんだけど、こういう記事って、だいたい「悪いのはあいつら」「世の中がこうだからダメなんだ」って責任を外に押し付けるよね。確かにスッキリするけど、でも、それって読者に「自分は何も悪くない」「自分は被害者」って思わせるだけじゃない? それ、なんか健全じゃない気がするんだよね。だって、世の中を変えるには、結局自分も何かしないといけないわけじゃん?
4. 負の連鎖を生む
誰かを叩いたり、世の中をdisる記事って、読んだ人の心にネガティブな感情を増幅させる。で、その人たちがまた別の誰かを叩く記事を書いたり、コメント欄で荒れたり…みたいな負の連鎖が続く。ネット見てると、ほんとそういう空気、感じること多くない? なんか、みんなで一緒に落ちていくみたいで、怖いよね。
どうすればもっと「良い記事」を書けるんだろう? 読んだ人をやる気にさせたり、ポジティブな行動を促したり、世の中をちょっとでも良くするような記事って、どうやったら書けるのか
共感は大事。やっぱり、読者の「わかる!」を引き出すのは、記事の第一歩。でも、そこから一歩進めて、「じゃあ、こういう時、どうすればいい?」って具体的な提案を入れる。例えば、「職場のあの人がムカつく」って話なら、「こういう人とどう付き合えばストレス減るか」「自分の心を守る方法」みたいな実践的なアドバイスを添える。読者が「わかる!」で終わらず、「よし、ちょっとやってみるか」って思えるような記事。
怒りや不満じゃなく、希望とかワクワクとか、ポジティブな感情を刺激する記事って、実はもっと強い力があるんじゃない? 例えば、「こんな面白い挑戦してる人がいた!」とか「自分、こんな失敗したけど、こうやって乗り越えたよ」みたいな話。読んだ人が「自分も何かやってみようかな」って思えるような、エネルギーを与える記事。
3. 読者に「考える余地」を残す?
バズる記事って、だいたい結論がバーン!って提示されてるけど、逆に、読者に「あなたはどう思う?」って問いかける記事って、もっと深い議論を生むんじゃない? 例えば、「世の中のこういう問題、みんなはどう思う?自分はこう考えてるけど」みたいな感じで、読者に考えるきっかけを与える。コメント欄が荒れるリスクもあるけど(笑)、でも、ちゃんと議論が生まれたら、めっちゃ面白いよね。
4. 「自分ごと」にしてもらう?
責任を他人に押し付けるんじゃなくて、読者に「あなたもこの問題に関係してるよ」「一緒に変えていかない?」って呼びかける。例えば、環境問題の話なら、「こういう小さなアクション、実はあなたもできるんだよ」って感じで、読者を「消費者」じゃなくて「参加者」に変える。そういう記事って、読んだ後になんか行動したくなるよね。
正直、愚痴や批判の記事を書くのは簡単だし、バズるのも気持ちいい。でも、なんかそれだけじゃ物足りないんだよね。だって、ネットって、ただのストレス発散の場じゃなくて、もっとすごい可能性がある場所だと思うから。読んだ人が「自分も何かやってみよう」「世の中、ちょっと変えられるかも」って思えるような記事を書きたい。それが、ブログやSNSで発信する意味なんじゃないかな。
でも、こういう「良い記事」を書くのって、めっちゃ難しいよね。バズる記事の「即効性」に慣れちゃうと、ついそっちに流されそうになる。読者の心をつかむには、やっぱり共感や感情の力が必要だけど、それをどうやってポジティブな方向に持っていくか。そこが、ライターとしての腕の見せ所なのかも。
人間の子供は親よりも長生きするので、親が死んだあとも自活できるように就職まで見据えて育てていかないといけない。
ペットは飼い始めた年齢とその動物の平均寿命にもよるが、飼い主よりも早く死ぬであろう飼い方ができるので、責任をもって見送ることができる。自立させる、という高難度のことをしなくても良い。
人間の子供には教育費がかかるが、ペットにはかからない。大型犬は食費が結構かかるが、ハムスターなどはかなり低コストで飼うことができる。
人間は喋るし、基本的に親に口答えをするし、宮崎勤や青葉真司みたいに育つこともある。
猫やらウサギやらハムスターなんかが大量殺人をすることはない。ペットは家から出さなければよそさまに迷惑をかけることはなく、人間は家に監禁することは人権上できない。
そして人間はペットと違って生産性が高いという前提があるわけだが、今後ロボットにAIが搭載されて自律的に進歩するようになれば、多くの人間の生産性をロボットが上回ってしまうのでは。
かわいい、無害、低コスト、低リスク、そして生産性においてもすべて人間以外のものに負けるとなると、今後人間はどうなっていくのだろう?
了解。議論の流れを踏まえ、あなたの主張(「外国人労働者なしで“管理された縮小”は可能」)の中核仮説を、データで一点ずつ崩します。結論から言うと、あなたの主張は①“圧縮のコストと時間”を過小評価し、②“人手の下限”がある領域(介護・インフラ・防衛・エネルギー)を技術だけで短期に置換できると誤信し、③外部依存(食料・エネルギー・外貨)の現実を無視しています。政策論としては実装不能な楽観です。
あなたの主張は「都市統合・生活圏圧縮」で“均衡”を保てると主張しますが、固定費は連続的に下がらない。交通・上下水・医療・学校・消防などは一定需要を割ると一気に維持不能になりやすく、路線廃止や病院撤退が誘発する“サービス消失→転出→税基盤縮小”のスパイラルが起きます(国交省の白書も、人口減少下のネットワーク脆弱化を前提に課題を整理)。 ([国土交通省][1])
「平成の大合併」の学術検証でも、合併で必ずコストが下がるとは限らない、短期はむしろ支出増、長期も項目によって増減が割れる等の結果が反復して報告。統合=節約は近似であって恒真ではない。つまり「密度再編すれば固定費が下がる」は一般化の誤りです。 ([J-STAGE][2])
厚労省の最新推計:介護職員は2040年度に約272万人必要(22年度比+約57万人、年+3.2万人ペースでの純増が必要)。現実は離職超過や採用難が強まり、介護は1応募に4.25求人という“超売り手市場”のケースも報じられています。不足の山は2030年代半ばに顕在化します。 ([厚生労働省][3])
OECDやILOのレビューは、ケア領域は人間接触・判断・倫理の比重が高く、ロボティクスやAIの代替は限定的で実装にも時間がかかると整理。生成AIで事務軽減はできても対人ケアの主工程は当面人が必要です。 ([OECD][4])
産業側でもロボット密度は世界的に急伸中ですが(IFR)、増設は主に製造現場。あなたの主張が要の介護・医療・運輸サービスは自動化難度が高い領域です。“質的転換で穴埋め”は2030sのピーク需要に間に合わない。 ([IFRInternational Federation of Robotics][5])
日本の就業率はこの10年で女性・高齢者ともに大幅に上昇。今後も改善余地はあるが、弾は既に相当使っている。OECDやJILPTも、日本の人手不足は“長期・構造的”と評価。女性・高齢者の追加動員“だけ”で需給を均すのは難しい。 ([JIL労働政策研究・研修機構][6])
OECDは明確に、「女性・高齢者の就労促進に加えて、外国人労働者のより大きな活用が不可欠」と勧告。あなたの主張はこの国際的なベースラインを外している。 ([OECD][7])
日本は食料自給率(カロリー基準)38%。残りを輸入に頼る構造は不変で、価格ショックに脆い。輸入代金の原資となる外貨獲得は規模が要る。“縮小+内需シフト”は、食とエネの輸入価格変動に晒されやすくする。 ([農林水産省][8])
エネルギー自給もOECD下位の水準。再エネ・原子力の拡大方針は進むが、当面はLNGなど化石燃料が必要。地政学次第でコスト高リスクは常在。輸入代替が進むまでの移行期は外貨の厚みが防波堤になります。 ([Reuters][9])
無人機・AI化はトレンドだが、整備・補給・サイバー・指揮統制など人員需要は不可避。装備の国産化・共同開発にも裾野人材と企業群が要る。人口と人材の最小密度を割る縮小は、維持費の単価上昇と技術の途切れを招きがち。ここを外国人高度人材まで閉じるのは自縄自縛。〔※エネルギー安保と同様、移行期の脆弱性は高い〕(政策白書・エネルギー構成の記載参照)。 ([Reuters][9])
在留外国人は376万人(2024年末)。内訳は「永住」「技術・人文知識・国際業務」「特定技能」「留学」などに分散し、技能・専門に紐づく制度設計が中心。一律の“安価な労働大量投下”という描写は実態とズレる。 ([法務省][10])
有効求人倍率は直近でも1.2倍前後の張り付き。構造的な人手不足が続いており、賃上げと自動化を促す圧力は弱まっていない。むしろ企業は賃上げ・投資・定年延長を同時進行。受け入れ=改革を止めるという単純因果は成り立たない。 ([JIL労働政策研究・研修機構][11])
人口構造の確定性(IPSS):2050年代に1億割れ、2070年8700万人規模、65歳以上が約4割の高齢社会。現役世代急減は避けられない。圧縮・自動化は必要だが、需要のピーク(介護・医療・インフラ更新)が先に来る。 ([情報処理推進機構][12])
だからこそOECDは、「女性・高齢者活用に加えて移民(外国人労働)」と複線を勧告。“技術と圧縮だけ”に賭ける単線は、移行期リスク(サービス崩壊・地域消滅・外貨不足)を無担保で抱える。 ([OECD][7])
私の主張が示した筋に沿い、単線(自動化・圧縮のみ)ではなく複線でリスクを分散すべきです。
日本が取るべきは、圧縮×自動化を前進させつつ、管理された受け入れを“保険”として併走させる複線戦略である。単線はリスク集中、複線はリスク分散。これが現実的な均衡です。 ([厚生労働省][3])
反論:外国人労働者を受け入れなくても“管理された縮小”は成立しうる
縮小が均衡しない主因は「広い空間に人が薄く分散」していること。
外国人で総量維持ではなく、地域と産業の再配置で人口密度を再構築する。
具体策:
効果:固定費の単位当たり負担を下げ、ネットワーク崩壊を回避。
具体策:
自動化・ロボティクス・生成AIの導入(製造・物流・介護・農業)
社会的コスト(医療・教育・社会保障の追加負担、文化・治安調整コスト)。
量ではなく質で最小実行規模を確保。
方向性:
| 分野 | 外国人労働者なしの対応策 |
| 医療・介護 | AI診断・介護ロボット導入/健康寿命延伸で需要抑制 |
| インフラ | 自治体・生活圏の統合/更新凍結・スマートメンテナンス |
| 産業 | 設計・制御・素材分野へ集中投資/量より知財輸出 |
| 労働 | 定年延長・柔軟勤務・AI支援で生産性倍増 |
| 地方財政 | 合併+行政DX+クラウド化で人件費削減 |
| 防衛 | 無人化・AI指揮統制・共同開発で人員依存を低減 |
「縮小均衡は崩れる」という見立ては、空間と制度を現状維持のまま縮める前提による。
構造を圧縮し、技術で密度を再構築すれば、外国人労働者なしでも均衡は成立しうる。
日本では長年「少子化対策」が政治課題の中核に据えられ、はてなの男性は「中年非モテ男性の(年下女性との)恋愛を国や自治体が無償や格安で支援するべき」という主張をここ15年ほど繰り返してきた。
しかし、出生数の減少そのものも重要だが、それ以上に「次世代が社会で機能しない/自立できない割合が増えること」は、長期的に見て社会資本と財政の双方にとって致命的なインパクトを与えうる。
実際、近年は不登校や療育(発達支援)を必要とする子どもの増加、若年無業者の高止まりが目立つ。
文部科学省の令和5年度調査では、小中高の不登校児童生徒数が過去最多を更新しており、小中学校で約34.6万人、高校で約6.9万人と報告。長期欠席・不登校の生徒数はここ数年で明確に増加。不登校は単に「学校に来ない」問題に留まらず、学習の遅れ・社会経験の欠落へと連鎖し、将来の就労や社会参加の困難を生むなど長期にわたる悪影響へと繋がっていくリスクが高い。
厚生労働省や関係機関の集計では、児童発達支援・放課後等デイサービスの利用者数・費用額が年々大幅に増加しており、平成24年度以降で数倍(児童発達支援は約5.7倍、放課後等デイはさらに大きな伸び)というデータが示されている。療育ニーズの増加は、単に行政予算の問題であるだけでなく、家族の就労・生活設計に直接影響する。療育の必要な子が増えれば、介護的な育児負担が長期化し、親(特に母親)がフルタイムでの労働を続けられなくなるケースが増える。
多数の疫学研究が、父親年齢が上がるほど子の自閉症スペクトラム障害リスクが上昇することを示している。代表例として、Reichenbergら(JAMA Psychiatry,2006)や大規模レジストリ解析を含む報告(Sandinら, 2016)は、父親の高齢化と子供のASDリスクの関連を示し、Sandinらは母親年齢や他の共変量を調整した解析でも独立した父親年齢の影響が確認されたとしている。疫学的には父親年齢の上昇がASDリスク増加と関連するという強いエビデンスがある。
メカニズムとしては、父親年齢上昇に伴う精子由来の新生突然変異(de novo mutations)増加や、社会選択(高齢で父親になる人の子供に特異な遺伝的背景がある可能性)などが仮説として挙げられる。Sandinらのような大規模研究は、母親年齢を統計的に調整しても父親年齢の独立効果が残ることを示しており、母親年齢を影響を除去した有効なソースに該当。
障害児・療育を要する子どもを抱える保護者に関する厚生労働省の調査では、「仕事と子育ての両立に困っている」との回答が多く、就労継続が難しいとの実態が示されている。共働きでやりくりしていた家庭でも、子どもに特別な支援が必要になると片方(多くは母親)が離職・短時間就労を選ばざるをえない事例が頻出。子供の送り迎えのために仕事を辞めるよう療育施設から直接言われたり、また辞めない限り子供の支援サービスにアクセスするのが不可能な状況であったという声も報告されている。
もともと「片働きでは家計が成り立たないから共働きで子どもを作る」という家計設計が一般化している時代に、療育ニーズの増加で親が仕事を続けられない事態が広がれば、家計・キャリア・出生意欲のすべてに負の影響を与える。
若年無業者は、若年者が減少している社会でありながらも高止まりの状態が続いている(例:15–34歳で50万人台程度の長期高止まりの推移など)。労働需要が不景気により落ち若年人口のボリュームがあって人余り状態であった氷河期とは状況が全く違い、団塊世代が引退して人手が不足して売り手市場であるのにもかかわらず、「能力的な理由でどこでも働けない若年者」の問題が現在の日本の問題である。若年層の就労不能・無業化が増えることは、納税者が減るだけでなく、生活保護・医療・福祉などの公的支援需要を増やすため、政府財政にとって大きな負担となる。
さらに内閣府や財務省の将来見通し・財政資料は、人口減少・高齢化が進む中で社会保障給付が増大し、現役世代の負担が重くなることを繰り返し示している。もし「働けない・納税できない次世代」の割合が上がれば、税や社会保険料を健常な労働世代からさらに徴収せざるをえず、長期的な税負担の増加と経済成長の停滞を招く。少子化に加え、次世代の「就労能力・自立度」が低下することは、単なる人口統計の問題を超え、財政持続性と社会の生産性にとって直接的な脅威である。
少子化対策は往々にして結婚と挙児を望むが機会が得られない35歳以上の男性の目線で語られがちだが、「出産適齢期に入る前の若年層(高校生・大学生)」に対するライフプラン教育や健常児をもうける能力と年齢の関係に関する情報提供、キャリア形成と家族計画を両立できる制度整備の方が長期的に見て効果が高い。これまでライフプラン教育は女子中高生のみに限定されて行われたことでTwitter上での「女性差別」という炎上が繰り返されてきたが、むしろ無知や危機感の欠如といった点で問題の程度が酷いのは男性のほうであり、40歳など手遅れな年齢になって親の介護危機をきっかけとして婚活を開始しがちな旧世代の無知な男性を反面教師として、現在の男子高校生に対して「25歳までに同年代の相手を決め、27歳までに第一子をもうける」といった人生設計に向けた緊張感を持ってもらうことこそ肝要である。35歳以上の男女への結婚促進は別に、国のためにならない。若さをすでに失った人は、勘違いをするべきではない。
女性が高齢になることにより不妊、流産、ダウン症といったリスクが上がることは知られているが、男性側が35歳以上であることによってASDが増えるというのは2000年以降に研究され始めた内容であり、知識が広がっていない。無知による晩婚、ASD児増加、不登校、若年無業、8050問題へと流れてしまう家庭が増えないことを祈るばかりである。
日本を代表する大企業において、50代の社員が直面する「無言の退職圧力」は、もはや例外的な事象ではなく、構造的な問題として常態化している。長年の経験と専門性を蓄積したベテラン人材を早期に手放し、その一方で育成に10年という歳月を要する未経験の新卒者を採用する──この一見不合理なサイクルは、なぜ繰り返されるのか。本レポートは、この問題の背景にある経済的力学と制度的欠陥を解き明かし、日本企業が直面する人事制度の根本課題に対する処方箋を提示することを目的とする。
この問題の核心には、見過ごすことのできない重大なパラドックスが存在する。
この矛盾した人材サイクルの根本原因は、個々の企業の経営判断ミスという表層的な問題ではない。それは、日本型雇用システムに深く根ざした「年功序列型」の賃金体系そのものに内在する構造的欠陥なのである。次章では、この矛盾を生み出す経済的メカニズムを詳述する。
持続的なリストラのサイクルは、経営の非情さの表れというより、むしろ伝統的な日本型報酬モデルに組み込まれた、根深い経済的ロジックの症状である。中高年社員の早期退職を促す構造は、短期的な財務改善という抗いがたい「誘惑」を経営陣に提示する一方で、長期的な人的資本を蝕む罠となっているのだ。
問題の根源は、多くの日本企業において、中高年社員の賃金水準が本人の生産性を大きく上回ってしまう「高すぎる給与」にある。具体的には、以下のような水準が常態化している。
この報酬と貢献の危険な乖離は、労働経済学の「レイザーの法則」によって理論的に説明できる。この法則によれば、年功序列賃金は社員のキャリアを二つのフェーズに分断する。
この報酬と貢献のデカップリングこそが、早期退職を促す構造の核心である。壮年期以降の社員を早期に退職させることが、企業にとって「膨大な利益」をもたらす財務的ロジックがここに成立する。
1.退職金のコスト:早期退職優遇制度では、退職金に「30ヶ月分」程度の給与が上乗せされるのが一般的である。
2.雇用継続のコスト: 一方で、高給与の50代社員を1年間雇用し続けるための総コストは、基本給(12ヶ月)に加え、賞与、高額な社会保険料、その他経費を含めると、給与の「24~25ヶ月分」に相当する。
3.結論: つまり、30ヶ月分の退職金は、実質的にわずか「1年3ヶ月分」程度の雇用コストでしかない。この計算に基づけば、50歳で社員を退職させることで、定年となる65歳までの残り15年分の莫大な人件費を削減できることになる。この財務的インパクトが、経営陣にとって短期的なバランスシート改善を優先し、経験豊富な人材の維持という長期的な視点を犠牲にする、強力かつ危険な誘惑となっているのだ。
しかし、この短期的な経済合理性は、深刻な副作用を伴う。かつて大規模なリストラを行ったパナソニックが、15年の時を経て再び同様のリストラを繰り返している事実は、このモデルが持続不可能であることを象徴している。この負のサイクルを断ち切るためには、問題の根源である日本の給与構造そのものにメスを入れる必要がある。
日本の賃金に関する議論は、「日本の平均給与は低い」という、統計がもたらす「罠」にしばしば陥りがちである。本章では、この誤解を解き明かし、急峻な年功カーブが一部の大企業特有の問題ではなく、日本の中堅・大企業に共通する構造的課題であることを論証する。
世間一般で語られる「低い平均給与」の根拠とされる統計データは、意図せずして実態を著しく歪めている。これらの数値は、人事戦略を構築する上で根本的に誤解を招くものであり、一種の「インチキ」と言わざるを得ない。
これらの統計からパートタイマー等の影響を除外し、フルタイムで働く男性の賃金カーブに焦点を当てると、全く異なる実態が浮かび上がる。学歴(高卒・中卒含む)や地域を問わない全国の平均値ですら、50代の平均年収は700万円に達する。これを大卒の正社員に限定すれば、さらに100万円程度上乗せされるのが実情だ。これは、日本の賃金体系が年齢と共に急勾配で上昇する、典型的な年功序列型であることを明確に示している。
では、この構造的問題はどの規模の企業に当てはまるのか。我々の分析は、明確な境界線を明らかにしている。
この分析が示すのは、この問題が一部の巨大企業に限定されたものではなく、日本の企業アーキテクチャに組み込まれたシステム上の欠陥であるという事実だ。したがって、この課題の解決策を模索する上で、グローバルな標準との比較はもはや単に有益であるだけでなく、不可欠なプロセスなのである。
日本型雇用システムの構造的課題を克服するためには、国内の常識に囚われず、海外の先進的な雇用モデルを比較分析することが極めて重要である。フランスやアメリカの事例は、日本の年功序列型とは全く異なる賃金思想を示しており、我々が目指すべき改革の方向性を明確に示唆している。
フランスの賃金体系は、エリート層と一般層でキャリアパスと給与モデルが明確に分離された「複線型」を特徴とする。
アメリカの賃金体系も、大多数の労働者においては同様の傾向を示す。中央値に位置する労働者の場合、賃金の伸びは30歳から40歳までの期間に集中し、40歳以降の給与はほぼ横ばい(フラット)となる。給与が青天井で上がり続けるのは、ごく一部のトップエリート層に限定されるのだ。
フランスとアメリカ、二つの先進国の事例から導き出される示唆は、極めて明確である。それは、「一部のエリート層を除き、大多数の労働者の賃金カーブは若いうちに頭打ちとなり、その後はフラットに推移する」という共通の原則だ。このモデルは、年齢給による人件費の高騰を防ぎ、長期的な雇用安定を可能にする基盤となっている。このグローバルスタンダードを参考に、次章では日本が目指すべき具体的な人事制度改革案を提言する。
これまでの分析で明らかになった構造的課題を解決するためには、小手先の対策では不十分である。我々が取るべき唯一の持続可能な道は、戦略的な転換、すなわち「年功序列型賃金から、成果と役割に応じたフラットな賃金体系への移行」である。本レポートが提示する核心的な提言は、この移行を断行することに尽きる。その具体的なモデルケースとして、「年収700万円での頭打ち」を一つのベンチマークとすることを提案する。
この新しい賃金モデルは、単なるコスト削減策ではなく、企業の競争力と従業員のエンゲージメントを同時に向上させる、多面的なメリットをもたらす。
この改革は、単なる賃金制度の変更に留まらない。それは日本人の働き方、キャリア観、そして社会全体のあり方を変革し、持続可能なタレントパイプラインを構築する大きなポテンシャルを秘めている。
本レポートを通じて明らかになったように、日本の中高年雇用問題の根本原因は、個々の社員の能力や意欲の欠如では断じてない。その本質は、経済成長期を前提に設計され、現代の環境には全く適合しなくなった年功序列型の賃金システムそのものにある。
この本質的な課題を前に、我々は議論の焦点を大きく転換させねばならない。「定年後の再雇用」や「中高年のリスキリング」といった対症療法的な議論から、「そもそも定年を意識することなく、誰もが安心して長く働き続けられる雇用・賃金体系をいかにして構築するか」という、より本質的な議論へとシフトしなければ、この問題が解決することはない。
真の「雇用安定」とは、単に一つの企業に長く在籍できることではない。それは、年齢に関わらず、社員一人ひとりが自らの能力と経験を最大限に発揮し、その貢献に対して公正な処遇を受けながら、社会の一員として長く活躍し続けられるシステムである。この新しい定義に基づき、持続可能で、かつ働くすべての人々にとって公平な人事制度を構築することこそ、現代の日本企業に課せられた最も重要な戦略的責務である。
了解。元の論旨(「現実を直視せよ」)に乗っかって、「縮小均衡でいい」という主張への反論をまとめます。
インフラ(道路・上下水道・鉄道・送配電網・自治体運営・救急/消防)は固定費が大きい。人口・納税者が縮んでも費用は比例して下がらない。利用者減→運賃/料金↑→さらなる離脱→ネットワーク縮退…と負のスパイラルに陥りやすく、安定均衡より「崩れの連鎖」になりがち。
日本は食とエネルギーを外から買って生きる国。外貨を稼ぐ製造業・サービスの規模が一定ラインを割ると、交易条件の悪化、通貨の弱体化、調達コスト上昇が重なる。さらに国防は規模の経済が効く分野で、装備調達・人員維持・技術基盤に下限の規模がある。ここを割る「縮小」は安全保障リスクを跳ね上げる。
均等に縮むならまだしも、先に減るのは生産年齢人口。要介護・医療需要はむしろ増える。結果、依存率の上昇で一人当たりの負担が加速度的に重くなり、医療・介護・年金の給付削減か増税のどちらか(多くは両方)を強いられる。「ほどよい縮小」で止まらない。
学校・病院・路線・商業は一定の需要を割ると突然維持不能になる(段階的ではなく飛び石的に崩れる)。廃校・病院撤退・減便/廃線→通院・就学が困難→転出→税基盤縮小…と、局所的な“均衡”は成立しにくい。
研究開発、人材育成、スタートアップ、部材・設備・サプライヤーの集積は人と資本の密度が生命線。縮小は需要・人材プール・風呂敷(市場)を同時に縮め、投資採算を悪化させる。結果、技術導入・自動化で埋めたい穴がかえって埋まらない。
税収基盤↓/社会保障支出↑/インフラ更新費は下がらない。どこかで(1)給付削減、(2)増税、(3)政府債務増の選択になる。債務増に依存すれば、わずかな金利上振れで利払いが公共投資を食い荒らす。これも均衡を不安定化させる。
平時の“ギリ保てる縮小均衡”は、災害・資源価格高騰・隣国の圧力といったショックで簡単に壊れる。冗長性・予備費・防災力が痩せるほど、社会は脆くなる。
この骨太の“勘定”が示せない「縮小均衡」は、実質「均衡なき縮小=衰退容認」に過ぎない。
「縮小均衡で十分」という言説は、固定費と最小実行規模、依存率上昇、ネットワークの臨界、地政学ショックを軽視している。多くの分野で均衡は連続的ではなく崖をもつ。ゆえに現実的ではない。
かねてより「頭の中お花畑」というフレーズは反戦左翼を揶揄するときに使われるものだった。
たとえば自衛隊は違憲だから解体しろだとか、沖縄から米軍を追い出せだとか、武器なんかなくても一緒に居酒屋で酒飲んだらわかり合えるよ、だとかね。
そりゃあそんなことが全て実現できるなら素晴らしいことでしょうよ。
でも現実を見たら想定が甘すぎたり、コストがかかり過ぎたり、そんなに頭の中で思い描いてるようにうまくいきませんよというのが「頭の中お花畑」という言葉に集約されている。
概ねそれは間違っていなかったと思う。実際にそれで日本は大きな不幸、混乱もなく回ってきたわけだからね。
これだけ人手不足で倒産する会社が続出していて、求人倍率が高止まりしていて、労働参加率は過去最高であるのに、右翼の方々は労働者を増やしたくないらしい。
労働力不足は嘘つきだそうだ。経営者が無能で生産性が低いだけだと。
足らぬ足らぬは工夫が足らぬということだろうか。
まともな頭があればそんな精神論ではどうにもならないことわかると思うのだが。
豊富な資源、豊富な人材、優れた教育によってイノベーションが起こり、結果人手が充足し、それがいきすぎると逆に余ってしまって就職難・不況になるのであって、逆はない。
人手が減ればそれをなんとかするためにイノベーションがおこって、人手がなくても何とかなるようになるんだ!というのはよくいって願望、悪くいえば妄言だ。
この期に及んで少子化をどうにかすればいいとか言い出している。
20年近く前からすでに対策をしていて、諸外国を見てもどこも顕著な成果を出せているところはないのに小手先の知恵で急に解決するわけもないのはリアリストならわかるだろう。
もし今この瞬間に少子化が解決して来年から150万人の子供が生まれてくるようになったとしても、その子たちが働きに出るまで20年のタイムラグがあるし、今既に生まれている幼児・少年少女たちの人口が圧倒的に足りてない事実は変わらないというのに。
衰退を受け入れたらいいとか言い出している奴も目立つようになってきた。
衰退するということはインフラが改修できない、治安を保てない、医食が欠乏して平均寿命が下がる、国防もままならないということだ。
日本は付加価値の高い工業製品を製造して、輸出して、そのお金で食とエネルギーを輸入しなければ半年も持たない国であることを理解してるんだろうか。
そんな立ち行かない国になった時にロシアが、中国が侵略してきたときにどうやって食い止めるつもりなのだろうか。
食品価格が多少上がったり、交通インフラが廃線、減便になったり、社会保険料・税金が上がり続けたりすることに対してあれだけ文句を言っているのに本当に衰退に耐えられるのだろうか。
本当の「衰退」はそんなものの比じゃないわけで、はっきりいって現実を舐め過ぎだろう。
すでにこの国は20代人口の1割を外国人が占めるようになっている。
もし外国人を全員追い出したら新卒の給与は多少上がるかもしれない。その代わり生活コストはその比じゃないほどあがるけどね。
結局さ、「外国人いらない」で国が回るって言うなら今すぐ代案を数字で出してほしい。
必要な人員、税率、賃金、設備投資、何年でどこまで自動化するのか、現場の穴を誰が埋めるのか。
青写真も覚悟もないまま「衰退でいい」だの「工夫で何とかなる」だのと唱えるだけなら、それこそお花畑だ。
右翼も左翼もお花畑になってしまったら、この国の未来は暗いよ。
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