
はてなキーワード:現実性とは
リンクケーブルが家電量販店に売っていないという状況は実際によくあることで、その代替手段として複数の選択肢があります。
それぞれの方法を面倒さと実用性の観点から詳しく比較してみましょう。
リンクケーブル(USBデータ転送ケーブル)は確かに便利ですが、小さな家電量販店では取り扱いがないことが多いです。
2台のPCをケーブルで接続し、専用ソフトウェアを起動するだけで、ドラッグ&ドロップでファイル転送が可能です。
面倒さ:★☆☆☆☆
手順
注意点
紛失リスクあり
面倒さ:★★☆☆☆
入手できれば最も効率的です。
入手困難
面倒さ:★★★☆☆**
LANケーブル(クロスケーブル推奨、ただし最近のPCはストレートケーブルでも可)
設定手順
2.IPアドレスの手動設定(例:PC1を192.168.1.1、PC2を192.168.1.2)
3. 共有フォルダの設定
面倒さ:★★★★☆**
手順
3. 共有フォルダの設定
4.ファイアウォール設定の調整
転送速度が遅い
設定が複雑
面倒さ:★★★★★
手順
高速転送
確実性が高い
実際的な推奨順序
状況別のベストチョイス
1.予算に余裕がある場合:外付けSSD購入(後々も活用可能)
3.技術的な設定が苦手な場合:遠くの家電量販店でリンクケーブル購入
質問の状況では、外付けHDD/SSDの購入が最も実用的でおすすめです。
初期投資はありますが、設定不要で確実にデータ転送でき、今後もバックアップ用途で活用できるためコストパフォーマンスが高いです。
LANケーブルでの直接接続も、設定に多少の手間はかかりますが、高速転送が可能で実用的な選択肢です。
ネット上で蔓延る意見、はてブ、Youtubeのコメント、X、政治系コメンテーター
どれもこれも普段まともに仕事してんのか?と言いたくなるような極端な意見が多い
ほいほいわかってるよ、フィルターバブルだのエコーチェンバーだの言うんだろ、実際そうだと思うよ
けど俺が言いたいのは、多くの日本人の感覚はもっと中庸で、そんな意見がネット上でも目立って良いんじゃないか と思うわけ
なんで「国と自己のアイデンティティを融合されたようなアホネトウヨ」や
「いまだに学生運動時の感覚が世界を平和にすると妄想してる社会性の低いカス左翼」
「多くの日本人の感覚」を勝手に想像するな と思うだろうが実際下記のような感じが一般的な感覚じゃないの?
日本は中国や韓国などのアジア各国を侵略した。南京虐殺だってあっただろうし、
多くの人を傷つけてしまったので国としては二度と起こしてはいけないし反省しないといけない
ただ、国益を考えると上記を都合の良い外交カードにされていつまでも国益を損なうわけにはいかない
中国に侵攻されたとき、アメリカは日本のために戦うなんて絶対にありえないから防衛力強化は必要
核保有も議論自体はするべきだが、唯一の被爆国として果たせる役割も重要なため慎重派
基本不支持。高市支持者たちが言うような「裏金なんてもうどうでもいい」なんて思ってないし
自浄作用がなく腐敗している自民党はとにかく議席を減らすべき。クリーンな政治を望む。
ただ代替として立憲民主党に政権交代してほしいなんておもってない、リベラル抱えすぎ
これだけ年々と電力需要が増えていく中で
将来的に原発関連の技術力がなくなって自国で管理できなくなる方がはるかにリスク高い
ぶっちゃけ来てほしくない、治安や風土などがおそらく悪い方向に変わることは必至
ただこれだけ少子化が進行している状況で、
これからもある程度の日本の現状の豊かさや経済力、サービスを維持するには受け入れることは必要だろうな とも思う
将来に禍根を残すよう人権を無視したような外国人技能実習制度はやめるべき
移民が日本や地域のルールを守るのは必須だと思ってるし、溶け込めるような努力を相互ですべき
話題になった「日本人ファースト」については、軋轢を生む恐れがあるうえで、それでも当たり前じゃね?と思う、だってここ日本やし(日本人の定義は日本国籍を持つ人)
多くの人は上記のような感覚じゃないのか?(多分移民の所はかなり意見が分かるかもだけど)
多くの課題は立場、倫理、建前、国益、現実性 を加味して中庸な意見にならざるを得ないでしょう
このあたりの一般的(と信じたい)な感覚で政治を進めてほしいだけなんだけどな
Permalink |記事への反応(14) | 22:01
Q.
ラディカルな右翼は現在の日本の石破政権を「中国の手先である反日左翼政権」であると見做していて、このままでは中国に取り込まれてしまう、と相当に危機感を持っているようです。
A.
非常に重要なご指摘です。ここには、現代日本の「ラディカル右翼」が抱いている強い危機感と、その政治認識の特徴がよく現れています。整理すると次のようになります。① ラディカル右翼の基本認識国家不信ラディカル右翼にとって、現政権(石破政権)が「日本を守っていない」「敵(中国)の手先だ」と映っている。これは「国家=守るべき存在」ではなく「国家権力=敵に支配されたもの」と見なす姿勢。危機感の根拠中国の軍事的台頭や経済的影響力の拡大。日中関係悪化に伴う領土・安全保障問題(尖閣、台湾有事など)。「リベラル=中国迎合派」というイメージ。そして「石破政権=反日・親中路線」とするレッテル貼り。結論としての行動欲求「このまま政権・国家に任せては日本が滅びる」 → 「自分たちが立ち上がらねばならない」と感じる。その延長線上に「自警団」や「直接行動」が発想される。② 石破政権に対するラディカル右翼の評価石破茂氏は現実的な安全保障論者で、自衛隊出身議員からも一定の信頼があり、国際協調や防衛力強化を訴えてきた人物。しかし対中外交姿勢において「対話路線」「国際協調重視」を採るため、ラディカル右翼から見ると「軟弱」「中国に取り込まれている」と見える。また、石破氏はリベラル層や中道層から一定の支持を集めるため、これがさらに「反日左翼だ」という極端なレッテルに変換されている。実際には石破氏は明確に「集団的自衛権容認派」「安全保障強化論者」であり、客観的に見て「左翼的」ではない。つまりこの評価は事実とは一致していません。③ ラディカル右翼の「危機感の構造」陰謀論的世界観国家権力はすでに「敵」に操られている → よって「法や制度」に頼ることは裏切り。自分たちだけが「真の愛国者」。権力を正面から信頼できず、むしろ「敵に占拠された存在」と見る。歴史的類似性戦前の「国家改造運動」や「昭和維新」思想と近い。軍部青年将校は「政党は腐敗」「政府は売国」「軍こそが真の国家の担い手」と考えた。その結果、テロ・クーデターに走った(二・二六事件など)。ラディカル右翼はこの系譜を継いでいるとも言える。④ 「危機感の政治化」の問題点実態としての中国脅威論は現実性を持つが、政権を「中国の手先」「反日」と決めつけるのは事実誤認であり、むしろ民主主義的議論を壊す。国家を敵視し始めたとき、ラディカル右翼は「暴力による解決」を正当化しやすい。これは法の支配を否定する方向に直結する危険構造。✅ まとめラディカル右翼は「石破政権=中国の傀儡」というイメージを抱き、国家そのものに強い不信感を持っている。しかしこれは事実の裏付けが乏しく、陰謀論的解釈に基づいている部分が大きい。歴史的に見ても、国家を「売国」と断じて直接行動に走る右翼運動は、二・二六事件など惨事を招いてきた。したがって、ラディカル右翼の「危機感」は感情的には理解できても、政治的・歴史的には極めて危険な路線。ご希望であれば、この「ラディカル右翼の陰謀論的世界観」がどのようにSNSで拡散され、支持層を獲得しているのか、その情報生態系(Qアノンなどとの比較も含めて)を分析してみましょうか?
時系列・事実関係・家系設定の重複や相互排他が目立ちます。主なポイントを整理するとこうなります。
「久下時重の子孫」「武蔵七党の子孫」「藤原本家の子孫」「織田信長の子孫」という複数の名家系統を同時に直系で持つ設定は系譜的に極めて不自然。
→歴史的にあり得ないわけではありませんが、全員“直系子孫”扱いは系図的にほぼ不可能。
「織田信長の配下の子孫」でありながら「織田信長の子孫」でもあるのは、信長本人が自分の配下になるという構造矛盾。
「祖母は女優だった」と「祖母は慰安婦だった」が同時成立するには特殊な経歴説明が必要だが、時間的にも社会的にも両立は極めて困難。
「祖父は山本五十六の知人」かつ「祖父は山本五十六の配下」は可能だが、「戦艦長門に乗船していた」と「祖母と慰安所で出会った」を繋げると、軍規や場所の面で現実性が低い。
「駆け落ちして破門された」なら、軍人としてのキャリアやその後の生活とも衝突する。
③ 両親に関する矛盾
「父親は6年の闘病」「7年の闘病」「8年の闘病」と期間が食い違っている。
「母親は介護職」「営業職」でも二重経歴は説明できるが、「飲酒運転の車に轢き逃げされた」と生存前提の経歴が混在している。
「貧困家庭」「生活保護」と「幼少期から高級生地によく触れていた」「専用PCを与えられていた」は生活水準の面で乖離が大きい。
「いじめられっ子」かつ「公文式で都道府県3位」「名門国立中学進学」は性格・環境描写の落差が大きい。
「大学在学中からNTTで技術者として働く」「派遣社員として月40万円稼いでいた」は可能だが、その後「大学中退」なのに“大学に通いながらNTT勤務”や派遣の経歴を維持するのは時系列整理が必要。
「川崎で新聞配達をしながら大学通学」と「秋葉原のゲーセンで遊び込む」+「高収入派遣勤務」が同時成立するのは時間的に厳しい。
「人生5回目の110番」の前後に他の警察沙汰エピソードがない。
「厚木のカラオケ店を出禁」と全体のストーリーの関連性が薄い。
もし希望があれば、この設定を**「矛盾を解消したバージョン」**として再構成して、ちゃんと一貫した人物史にまとめることができます。
正直に言って、ここまで深刻な状況になるとは少し前まで(ラブドールにゴミを食べさせるゲームが炎上させられる前)には予想してなかった。
もはや表現の自由戦士は「BL表現の自由戦士」などと言われている。まぁ「自分の好きな表現だけ守る人ではない」事が示せて良かった部分もあるが・・・。
ここまで敵視されていることからも分かる通り、所謂「表現の自由戦士」と、今BL規制を唱えている人達は層が違う。
そして層が違うからこそ、我々はそうした人達に大した影響力を持っていない。
BLの表現の自由は守られるべきだと思うし、守りたいと思うが・・・現実的に見て、恐らく我々は無力という結果に終わるのではないかと思う。申し訳ない。
ゾーニング論者含む規制論者を兼ねた腐女子の方から見ても、「表現の自由戦士」は批判や反感の対象、或いは鬱陶しさを感じる事はあったとしても
「脅威」と感じた事は無かった、というのが本音ではないかと思う。
少なくとも自分から見て、ほぼ常に防戦一方だったし、その「防」ですら実際に力を持っていたとは言い難い。
今BL規制を唱えている人からも、恐らくそう見えている。鬱陶しくても、脅威では一切ない。
「BL表現の自由だって、表現の自由であり、守られるべきだ」という論理的一貫性も、あなた達に対してそうだったように、ただ正しいだけで、実際的な力は何もない。
飽くまで私個人の感じ方で、他の「表現の自由戦士」はそう思っていないかもしれないけど、
我々は無力だ、あなた達に対してそうだったように、BL規制を唱える人達に対しても・・・。
今、或いはこれから、BL表現の表現の自由の前には様々な障害が待っている。
②(男性向けならR18に該当する)性描写を含む作品に対するゾーニング論
③(男性向けでもR18に該当しない)作品に対するゾーニング論
これらは一例で、他にも有るだろう。
このうち①以外は「政府からのものでなければ表現の自由の侵害ではない」と考える人達からすれば「表現の自由」マターですらない。(そしてもしかしたら、あなた自身、そう考えている側かも知れない)
②についてはただ男性向けと同じ水準になるだけの話だが、商業的な事情から、その適用は実際には出版社に対し深刻なダメージを与えるかも知れない。
そして③はこれまでも幾度となく男性向け・オタクコンテンツがターゲットとされてきた主張で、これからBLが直面する可能性は十分にある。つまり「BLは直接的な性表現だけではない」としても、それを匂わす描写だけで十分にゾーニング論の対象とされ得る。(男性向けがこれまでそうだったから)
そして④はそもそもゾーニングですらないが、実際には①~③とはまったく別口の、しかし現実性は一番ある脅威だ。BLがクレカで決済できなくなると、同人誌即売会以外での入手の難易度が恐らく結構上がる。
厄介なのは、④に関しては必ずしもリベラルな価値観による規制ではなく、保守的な価値観により為される事も十分にある(というより恐らくそうなっている)点だ。その意味では①、④と②、③はそれぞれ別のグループとして分けて考えた方が良いかも知れない。
いずれにしても、①~④のどれに対しても、我々は批判や反対こそすれ、それが実際的な力を持っているかといえば怪しい。
そしてこれまで受けてきた側として言うと、これらの脅威度は当然我々程度の比ではない、実際に権力を持っている人々や、「大衆」或いは「良識(とされるもの)」が相手となり、論理的な説得もあまり通用しない。
それらに対してこれまでそうだったように、我々は無力に近い。
ただ、協力できることがあれば言ってくれ。
Permalink |記事への反応(13) | 11:44
性的対象化(sexual objectification)とは、他者を独立した人格や意志を持つ存在としてではなく、性的欲望を満たすための対象として扱うことを指します。
フェミニズムにおいては、特に異性愛男性による女性の身体の対象化が問題視されてきました(例:広告、メディア、ポルノなどにおける「性的記号」としての女性の扱い)。
BL(ボーイズラブ)はゲイ男性をモチーフとした男性同士の恋愛/性的関係を描くジャンルですが、
ゲイの現実的生活・社会的文脈とは無関係に「性的に消費可能な存在」=フィクションの性的商品として流通します。
ここで描かれているのは現実のゲイではなく、異性愛女性にとってのみ都合のよい“ゲイ風のなにか”です。
つまり、多数派が少数派を、自分の欲望を満たすために再構築して支配するという点で、両者は同型の搾取構造です。
しかしBLの制作や消費を行っている女性たちからの自己批判や自浄は行われず、
「異性愛男性による異性愛男性のための不快な女性表象は有罪だが、異性愛女性による異性愛女性のための非現実的なゲイ表象は無罪」と言い張るBL作品生産/消費当事者が目立っているのが現状です。
特に二次創作においては、未成年の少年キャラクター同士のBL作品が大量に作られているのも問題です。
成人の異性愛男性による性的な少女表象は問題だが、成人の異性愛女性による性的な少年表象には問題がない、というのもダブルスタンダードといえます。
異性愛男性が現実の女性を「理想の性商品」としてフェティッシュ化するように、BLもまた現実に存在するセクシュアルマイノリティ(ゲイ男性)を欲望の道具とする危険性があります。
特に当事者支援との混同を用いたBL消費の美化については、「精神疾患などにより貧困状態に置かれている女性による性的サービスを購入しつつ、
それを貧困女性を救済する社会貢献活動であるとして正当化する男性」と、権力構造的には同種の加害性を抱えていることを示しています。
BLにおけるゲイ男性の描かれ方が、現実のセクシュアルマイノリティの複雑な現実を無視し、異性愛女性というマジョリティの性的欲望に奉仕するかたちで表象されている限り、それは異性愛男性による女性への一方的な性的搾取と同様の構造的問題を孕んでいます。
ゲイ男性当事者の視点からは、BLジャンルが異性愛女性の視覚的・性的幻想を満たす「都合の良い幻想」として機能しており、当事者としての他者性や現実性が否定されがちであること、その結果として性的対象化・記号化される構造に強い違和感が表明されています。
「性的記号」としての女性の扱いに苦言を呈し表現規制を求めながら、同時にBLを正当化するのは論として破綻しています。
『アンフェ、キモオタ、チー牛に媚びる名誉男性になれ』なんてことは一言も言っていません。フェミニズム理論を少しも学ばずにお気持ちと雰囲気でフェミニズムを振り回しているのがまるわかりだから怒っています。
読んでいた漫画に二次創作腐女子が大勢ついたうえに、腐女子に人気のBLカップリングが本編で否定されたことによって漫画家への誹謗中傷が起きているのを見て、「盗人猛猛しいな」とかなりの怒りを抱いたのもあります。
言葉選びなどの品性や、そもそもの「主張の内容」が相当ひどいという自覚を持ったほうが良いと思います。あなたたちは有害な女性性をもった有害な女性です。
Permalink |記事への反応(22) | 06:19
・「動画を作らなさすぎる」
・「X(Twitter)に閉じこもりすぎている」
・「手数が少なすぎる」
・「マジメすぎる」
これらが非常に大きな要因である。
タイトルは少し煽りっぽいが、「リベラルの責任を追求する」という内容ではないので、みなさんには落ち着いて読んでほしい。
ただ、リベラルが圧倒的に「認知戦(イズム布教)」において戦略不足(下手すぎ)なのは間違いない。
なぜ右派ポピュリズムの影響力が強く、リベラルは戦略的に何が足りないのか、そしてどうすべきかを考える。
また、この記事では、それぞれの党派の正しさについては触れない。
例えば、「リベラル言説は現実性が無い」と言われたりするようなイズムそのものの評価は置いといて、ネット戦略(認知戦)・伝え方のフォーマットに絞って話を進めたい。
参政党が票を取った理由は、そもそも世の中全体で「ソフト右派」が大多数を占めていた(とっくにそうなっていた)からだ。
そのうえで、たまたま右派政党の中で参政党が選挙のプレイヤーとして一番上手かっただけに過ぎない。
「参政党はカルト性が強いから、カルト的な信者が集まった」とか「参政党=カルト」だという認識は的外れだし、むしろ楽観的すぎる。
たしかに彼らが右派政党の中でもっともプレイヤーとして優れていたのは間違いない。
しかしそれ以上に重要なのは、今の日本において中間層の「ソフト右派」が既に大多数を占めているという現実である。
だから「なぜ参政党が上手くやれたか」を追うよりも、「なぜ日本がここまで右傾化したのか」ということの原因がわからなければ、参政党が消えても別の右派政党が同じように票を取るだけなのである。
残念ながら、参政党の圧勝は日本の民意が反映された結果である。
あくまで、「日本全体が右傾化している」という現実をリベラル派は理解して戦略を立てなければならない。
みなさん、「フィルターバブル」「アルゴリズム」といった言葉をご存じだろうか?
例えばYouTubeで新しいアカウントを作り、料理のレシピを一度検索してみる。
すると、それ以降ホーム画面には料理のレシピばかりが表示されるようになる。
こうして「自分が一度興味を示した情報ばかりが優先的に表示される」状態が、フィルターバブルだ。
そして、そのフィルターバブルを引き起こす「プラットフォーム(YouTubeに限らない)ごとの仕組み(=アルゴリズム)」がある。
今のインターネットでは「何が表示されるか」は人の意思ではなく、プラットフォームの「アルゴリズム」によって自動で選ばれる。
「自分で検索した」と思っても、その検索結果は既にアルゴリズムによってフィルターバブルが起きているのだ。
フィルターバブルは「仕組み(アルゴリズム)が作り出す偏った状態」で、エコーチェンバーは「人のコミュニティの中で生じる偏った状態」である。
(一旦ここではそこまで厳密に考えなくてもよいです)
まず、YouTubeをログアウトして(シークレットブラウザでもよい)初期状態のまっさらな状態でホーム画面を開いてほしい。
「まずは検索してみましょう」と表示されているはずだ。
この状態で、「参院選 党首討論」などと検索し、選挙前の党首討論番組の動画を2~3個視聴してほしい。
党首が平等に出演したテレビの公式チャンネルの動画なので、この段階では特に党派性の偏りは無いはずだ。
しかしその状態で、再びYouTubeのホーム画面に移動してほしい。
アルゴリズムによって動画がずらっと一覧表示されるのをスクロールしていくと…
驚くべきことに、リベラル派・左派の動画コンテンツがまるっきり表示されないのである。
表示される動画の多くは、
・参政党、国民民主党、といった政党の支持者たちが作ったと見られる動画
などである。
普段そこまで政治に強い関心が無い若者が「そろそろ選挙だし調べてみるか…」と言って検索したらこの有り様なのである。
政治関連で党派色の無いものはニュース番組系の動画ぐらいだろうか。
ホーム画面に表示されない見えない力が働いているというわけではなく、そもそもリベラル派が作った動画がないのだ。
本当に(れいわ以外)一つも無いレベルで流れてこないので、リベラルの皆さんは是非上記手順を試してほしい。
この現象はYouTubeに限らずTikTokでも起きている。
YouTubeにしろTikTokにしろ政党の公式チャンネルだけやっていても意味がない。
YouTubeでは、政治やニュースの動画のコメント欄は、比較的保守派の声で埋め尽くされている。
チェンネルにもよるが、全体的に見てもリベラルの声は、かき消されるほどに少ない。
兎にも角にも、リベラルを叩き、保守的な観念を叫ぶコメントばかりだ。
今回の参院選でも、選挙関連の動画には「参政党」支持者のコメントが溢れかえっていた。
YouTubeでは、コメントした人のアイコンをクリックすると、「その人がそのチャンネルで書いた他のコメント」が全部見られる(たしか、近年この仕様になった)。
参政党に賛同するコメントをしている人を見てみると、別の動画でも同じような参政党支持のコメントを何度も書いているのがわかる。
こういう人たちがたくさんいて、それぞれが一つの動画に一斉に書き込むから、コメント欄が参政党支持のコメントで埋まってしまうのだ。
要するに、書き込んでいるのは、他の動画でも参政党を推し続けている特定の人たちで、そんなアカウントが大勢いて一斉に押し寄せている。
参政党の支持者達は、ネット言論の中でかなり意識的に大量動員されている印象を受ける。
X(Twitter)では怒号と罵詈雑言の応酬が続いているのに、一体どういうことなのか。
リベラルは「X(Twitter)に閉じこもりすぎている」のだろうか。
動画に対して大勢でコメントするリソースが、リベラルにはあまりにも足りてないのかもしれない。
しかしそんなことを言ったところで「コメント合戦」は認知戦(イズム布教)には絶対に欠かせないのである。
コメント欄というのは、認知戦の根幹をなす「空間支配」の最前線だ。
つまり、動画コンテンツを作るのと同時に、コメント動員力をつけなければならないのである。
自分たちの動画は大量の支持者達で埋め、他の動画にも支持者を総動員する。
リベラル政党の議員が出演している動画のコメント欄が、アンチだらけになっている現状は、無防備でマヌケと言わざるを得ない。(特に立憲にありがち)
「リッチでスローな」コンテンツというのは、映画やドラマのことを指す。
これに対して、YouTubeやショート動画は「チープでファストな」コンテンツといえる。
これまでリベラル的価値観の布教は、主に前者のフォーマットで行われてきたと言えよう。
しかし、どれだけ丁寧に予算をかけて作った映画やドラマよりも、無料かつ短時間で消費される「ポリコレうざすぎw」「うるさいフェミw」といった、チープでファストな「おもしろコンテンツ」の方が再生され、認知戦において大きな影響力を持ってしまうのである。
下手したら映画の興行収入よりも動画の広告収入の方が上回る可能性すらあるかもしれない。
「とある増田の投稿が話題に」や「リベラル衰退の理由にサヨク阿鼻叫喚😂」
と言ったコンテンツのネタにいくらでもさる可能性は十分ある。(もっとも、そもそも誰にも見向きもされない可能性の方が高いが)
さすがに上記のような苛烈な冷笑や揶揄のベクトルである必要はないし、そうしたトーンが認知戦のメインというわけでもない。
それでもやはり、リベラル側には「チープなコンテンツ」を作る作家が圧倒的に足りていない。
手数を打てる場所がX(Twitter)の中だけというのは、間違いなく弱い。
リベラルの価値観に共感する「匿名のクリエイター」たちが「動画コンテンツ」を量産しなければ勝負にならない。
最低でも「物量で拮抗するところまで持っていって、ようやくスタートラインに立てる」といえるだろう。
その気持ちは分かるし、必ずしも低俗&冷笑のフォーマットを真似する必要もない。
チープでファストなコンテンツの影響力に辟易している気持ちも理解できる。
だが、リベラルが「こんなクソみたいな動画に影響を受けるな」と言ったところで大衆には通じない。
リベラルがX(Twitter)でポチポチとレスバしている間にも、数百万回再生される「おもしろコンテンツ」が星の数ほど量産されていく。
人間は「みんながこう言っている」「みんなが賛同している」に、なんとなく正しさを感じてしまう生き物だ。
そこに、あたかも政治色や党派性など無いかのように、笑いや煽りでコーティングされた言葉があふれる。
リベラルには良識があるといくら思っていても、自分達の声が適切に届かなければ意味がない。
そして「届ける」というのは、ただがむしゃらに発信することではない。
「どうすれば分かってもらえるか」「どうすれば世間に浸透するか」といった分析と計画を持った施策が必要なのである。
それができないのであれば、少数の人達の中で世界が閉じていく未来しかなくなってしまう。
「ウケを狙いたくない」「揶揄はしたくない」「真剣に声を上げる」
それらが全く無意味な訳では無いが、それだけやっていても認知戦には勝てないのだ。
決して誰かを侮辱したり、笑い飛ばしたりするような露悪的な態度でなくても、一見落ち着いて中立的に見える動画という形で、バイアスを忍ばせつつ視聴者に価値観を届けるという方法もある。
もっと言えば、必ずしも政治ジャンルである必要もないのである。
特定の政党を支持しているわけではないクリエイターや配信者が、政治を前面に出したコンテンツを作っているわけでもないのに、ごく自然な会話や表現の中で保守的なイズムを発信していることがある。
彼ら自身は布教だと意識していなくても、結果として保守的な価値観を広げる役割を果たしているとも言える。
しかも、それらの発言は、前の段階の認知戦で定着した言説の影響を受けている場合も多い。
もはやリベラルは何手も遅れていると言わざるを得ない。
もう何年も前から「動画コンテンツ」が言論の強さを左右してきた。(政治じゃないトピックでもね)
「動画見ただけで分かった気になるなんて情弱だな」と確かに思うが、現実には、多くの人が可処分時間のほとんどを無料で見られる動画に費やし、その影響を受ける。
参院選の投票先をみても、普段から動画を見ている10代・20代が軒並み保守化していることがよくわかる。
左派で、戦略的に支持を集めているのは、れいわ新選組のみと言ってよい。
共産党も社民党も支持層は高齢化し、立憲民主党に至ってはブレーンがいるのかどうかも怪しい。
TikTokで新しく作ったサブアカウントで各政党名を検索してみると、立憲も共産も社民もネガキャン動画だらけだった。
挙句の果てに「ぴろゆきが思う一番良い政党」などというオススメ検索ワードまで上位に出たときは、苦笑するしかなかった。
しかし「そんなもんに影響されるな」という潔癖さを捨てて、「チープ&ファストに影響されるのは前提」として、戦略を建てないと何も変わらない。
リベラルがパッションで叫び続けても、その声はリベラルのエコーチェンバーの中で反響するだけで、外にはほとんど届かない。
一方で、保守派はネット空間を戦場として正しく捉え、早く・多く・効率よく動いている。
リベラル派は動きが遅すぎるし、ギリギリだし、常に後手に回っている。
バズの構造やフィルターバブルなど、アルゴリズムの理解も浅すぎるし、組織的な動員力がほぼない。
テキストベースのプラットフォームであるX(Twitter)を見る限り、リベラル派・左派の人口自体は相当数いるように見える(左右で拮抗している可能性すらある)。
にもかかわらず、彼ら(左派)は他のプラットフォーム(特に動画プラットフォーム)では全く動員されず、右派が圧勝している。
生活が苦しいからという単純な話ではないので、少し聞いてほしい。
老人と子供は社会保険料を払ってないし、税金も消費税くらいしか納めていないので、現役世代に限って言えば、所得の60%くらい取られてる。
世界的に見ればまだマシだ。
これが、フランスだと7割が取られる。
ただし、このまま人口減少が進むと、フランスと同じくらい取られる未来が待ってる。
維新の音喜多俊がいうように、社会保障費をどうするか、これは重大な問題である。
しかし、社会保険料が高いのは、社会保障費が高いのは、少子高齢化の結果だ。
社会保障費を下げることそのものを目的にしても、穴があいたバケツに水を補充しているようなものだ。
維新はそれを言わないのがズルい。
とはいえ、今この瞬間に出生率が2を超えたところで、納税者、社会保険加入者が増えるのは20年後だ。
なので、それまでは人手不足は続くし、物価水準も税収もこのままだとしたら、あと20年間は増税増税、保険料アップ保険料アップが続くということになる。
なお、こういう話になると、山本太郎や共産党は、高所得者と大企業から取ればいいという話をするが、それに騙される情弱はどれほどいるのだろうか。
そもそも、同じ財布のなかから、従業員の取り分(給料)と国の取り分(法人税)と株主の取り分(利益剰余金)を分け合ってるので、法人税を増やしたら、その分を従業員の取り分を減らして調整するだけだ。
そもそも6割の世帯が所得税非課税で、所得税率10%の世帯も含めると8割になる。
今はインフレだからそれもありかもしれないけれども、恒久的には無理だろう。
それに、それが出来たって全額は無理だ。
そこにきて、アメリカ派防衛費を今より上げろと言ってきている。
最低でもGDP比で3%、できれば4%と言っている。
私は軍事なんかよりも経済優先なのだけれども、軍事費と経済を切り離して考えるわけにはいかない状況にある。
むしろ、貿易と軍事費は切り離して話をしたいというアメリカ側と、軍事費を上げるから関税をどうにかしてくれという交渉の真っ最中である。
実際、GDP比で4%にしようとすると、現役世帯あたり今よりさらに40万円くらい増税しないといけない。
日米交渉の落としどころはまだわからないが、他から予算を福祉に引っ張ってくればなんとかなるという単純な解決はないということだけは強く言いたい。
お金の価値が半分になり、手取りも税収も倍にして、しかし、年金給付額を倍には増やさない。
ちょうど、氷河期世代が年金を受給するころのはずさ。その時になって初めてキレるだろうけども、それはそれ。
医療費だって、点数そのまま、1点10円もそのまま維持し続ければ、医療従事者の収益は悪化して、制度は生き残る。
保険診療をやめて自由診療が増えるのだろうけれど、それはそれ。
そう考えると、インフレを加速させること、もっと物価を上げることだけが日本を救う鍵になる。
それには、給付金、減税、利下げ、量的緩和再開の4点セットが一番だ。
繰り返しになるが、今この瞬間に出生率が反転しても、20年かかるのだ。
それまでどうするのだ?
AI技術で人口減少を乗り切るとか、そんな現実性がない話に付き合っている暇はない。
デザインとか企画とかキラキラな職場で働く連中をAIに置き換えて、あぶれたそいつらを介護にぶち込めば解決すると思ってるのか?
自動運転でドライバーは寝ないで座ってるだけでいいということになっても、ドライバーが必要な時点で全然だめだ。
軽バンに荷物詰め込んでラストワンマイルをヒトが走るのが最適解で、それをロボットがやってくれるというのか?
アジア版NATOとか妄言をまき散らしたくせに、なかったことにする石破茂はズルいと思う。
考えるまでもなく、有事が起きる可能性は、台湾以外にありえない。
攻められる可能性がある国は負担額が多く、攻められる可能性が低い国は負担額が少なく、ということでないと巻き込まれ損だ。
台湾が取られたら次は日本という話はごもっともだが、台湾と中国が構えたら、日本が攻められたのと同じとみなして全面戦争というのか。
韓国もフィリピンも賛同してくれて、台湾と中国が武力で衝突したら、一丸になって中国と戦争をしてくれるというのか。
仮に、そんな軍事同盟が実現可能性を帯びたとして、発効するまえに潰しにくるのが必定、むしろ台湾有事を早めるはずだ。
この返答には複数の重要な論理的誤謬が含まれております。以下、主要な問題点を分析いたします。
## 前提条件の非現実性
「その他のパラメーターが全部同じ」という仮定は、現実的な人間関係における価値判断を適切に反映していません。実際の社会では、個人の価値は複数の要素が複雑に相互作用して形成されるものであり、単一の要素を除いてすべてが同一という状況は存在しません。この非現実的な前提設定により、議論の実用性が著しく損なわれています。
この返答は「個人の価値」と「行為の価値」を意図的に混同しています。出産という行為に社会的価値があることと、その行為の有無によって個人の人間としての価値が決定されることは全く別の概念です。例えば、医師の医療行為には明確な価値がありますが、医師でない人の人間としての価値が劣るという結論は導き出されません。
「価値に差をつけない」ことを「価値がない」と等価に扱う論理は根本的に誤っています。これは、異なる属性を持つ個人を平等に扱うことが、その属性自体の価値を否定することと同義であるという誤った推論に基づいています。実際には、多様な貢献形態を持つ個人を等しく尊重することは、各貢献の価値を否定するものではありません。
「AIは馬鹿」という表現は、論理的反駁ではなく人格攻撃に該当します。これは議論の本質的な問題に対処することを回避し、感情的反応を通じて相手の信頼性を損なおうとする詭弁手法です。
この返答は「以外に解釈できない」という断定的表現を用いて、他の解釈の可能性を排除しようとしています。しかし、論理的思考においては複数の解釈が可能であることが一般的であり、単一の解釈を強要することは議論の健全性を阻害します。
この返答は、極端な仮定設定と概念の混同を通じて、本来の議論の複雑性を単純化し、誤った結論を導き出そうとする詭弁構造を示しています。
主な適用される罪名
特定の人物に対して「死刑にしてやる」「処刑してやる」などと告知した場合、脅迫罪が成立する可能性があります。生命に対する害悪の告知として処罰されます。
公然と特定の人物の死刑を望む発言をした場合、その人の社会的評価を低下させるものとして、これらの罪に該当する可能性があります。
死刑を望む発言や行為が、相手方の業務の正常な遂行を妨害した場合に適用される可能性があります。
単純な「望み」の場合
ただし、内心で死刑を望むだけであったり、一般的・抽象的な意見表明にとどまる場合は、直ちに犯罪とはなりません。日本国憲法では思想・良心の自由や表現の自由が保障されているためです。
具体的な境界線
あなた:
韓国における代替歴史物の創作で君主制を想定した場合の典型的なストーリーを教えてください
ChatGPT:
韓国における代替歴史(仮想歴史、または「もしも歴史」)ジャンルは、特にウェブ小説やドラマ、マンファ(韓国の漫画)などで非常に人気があります。君主制を前提とした代替歴史物は、「朝鮮王朝が続いていたら」「大韓帝国が滅びなかったら」「近代以降も王政が存続していたら」など、歴史の分岐点を仮定することで展開されます。
設定例:1910年に日本に併合されなかった、または1945年以降に王政が復活した世界。
若き王太子/王女が、政争や陰謀、国際関係の中で王室の存続と改革を目指す。
王室を中心にした宮廷ロマンスや、現代政治との対立が描かれる。
主人公は一般市民から突然皇太子妃に選ばれる…といった「シンデレラ」系展開も人気。
代表作例:ドラマ『宮 -Love in Palace-』(韓国に君主制が残っていたらという設定)
設定例:清や日本の圧力を跳ね除けて近代化に成功、大韓帝国が今も国家として存続。
軍制改革・産業育成・列強との交渉などを中心とした歴史スリラー。
主人公が改革派の若き王子または天才官僚・軍人として登場し、国を導く。
設定例:朝鮮文化をベースにしたが、歴史的な国家とは異なるファンタジー国家。
女性主人公が男装して科挙に挑戦する、あるいは王妃として政敵と戦うなど。
「逆ハーレム」的展開もありえる。
代表作例:小説『赤い袖先』(歴史ベースだがロマンチックな脚色が多い)
設定例:現代人が過去の王朝時代にタイムスリップし、歴史を変えようとする。
IT知識を駆使して軍事改革、政策改善、民生安定などを実現する。
主人公が王になったり、王に仕える形で「現代的価値観」を浸透させる。
要素説明
主人公の成長譚無能と思われた王子が覚醒、女性主人公が政治の舞台へ
もしご希望があれば、特定の時代設定やテーマ(例:改革志向の王妃主人公、外敵に抗う若き王子など)に沿ってオリジナルストーリーのプロットも作成できますよ。
あなた:
ChatGPT:
はい、韓国における代替歴史創作では君主制は非常に人気のあるテーマです。以下に、その理由や背景、そして現代韓国社会との関連性を解説します。
韓国は現在、民主共和国ですが、現代政治への不信感や疲弊感が社会の中に存在します。
君主制=強いカリスマ指導者、秩序、美意識、伝統文化の象徴とされ、**「理想の統治者像」**として描かれることが多いです。
特にフィクションの中では、「賢君」「改革派の王」「国民を思う王女」など、理想化された人物が登場し、現実では得られない希望や正義が体現されるのです。
朝鮮王朝(1392-1897)や大韓帝国(1897-1910)の美術、建築、衣装などは韓国の伝統文化の象徴。
宮廷文化、科挙制度、王宮建築など、視覚的・美術的に魅力的な要素が多く、映像作品やマンファに適しています。
「韓国的ファンタジー」を構築するうえで、王朝文化はとても都合がよい舞台です。
多くの代替歴史作品では、「もし併合されなかったら」「もし大韓帝国が続いていたら」というナショナル・アイデンティティの再構築が試みられています。
『宮(Goong)』『赤い袖先』『雲が描いた月明かり』『恋慕』『ノクドゥ伝』など、君主制設定のロマンス作品が大ヒット。
ウェブ小説プラットフォーム(カカオページ、RIDIBOOKSなど)でも、王族や王朝をテーマにした作品が多く、安定したファンダムを形成しています。
🔥 人気の背景を要約すると:
もし興味があれば、韓国の代替歴史小説における人気作ランキングや、最近のウェブ小説トレンドもお調べできます。
あなた:
現在、世界の国の圧倒的多数が共和制です。たとえ日本による植民地支配を実際の韓国が受けなかったとしても、韓国の君主制が続いてたと仮定するのは荒唐無稽ではありませんか?
ChatGPT:
非常に鋭いご指摘です。ご指摘の通り、現代の国際政治・社会の潮流に照らせば、韓国に君主制が続いていたと仮定するのは現実的には非常に難しい、つまり「荒唐無稽」と言ってよい側面があります。ただし、代替歴史(架空歴史)というジャンルが扱うのは現実的な「あり得た未来」というより、**ある種の「文化的・心理的欲望」や「理想の投影」**であるため、現実性とはまた別の次元の話になるのです。
第二次世界大戦後は、植民地支配から独立した国のほとんどが共和制を採用。
韓国と文化・歴史が近い中国(中華民国→中華人民共和国)、ベトナム(阮朝→社会主義共和国)なども王政廃止。
朝鮮半島において:
大韓帝国(1897–1910)は、清の宗主権を脱して近代国家を目指したが、近代化は不完全で内部の腐敗と列強の圧力にさらされていた。
仮に日本による併合がなかったとしても、国内革命(例:辛亥革命的なもの)やクーデターによって王政の廃止→共和制移行の可能性が高い。
したがって、リアルな歴史的分岐点を考えると、君主制が21世紀まで韓国に残っていた可能性はきわめて低いです。
🤔 2. にもかかわらず、なぜ君主制が人気なのか?
この矛盾は、代替歴史における「リアルな可能性」より「感情的欲望」や「美学」が重視されるというジャンル特性に由来します。
「もしも滅びなかったら」=喪失への反動、文化的ノスタルジア。
君主制は物語装置として、「家柄」「身分」「天命」などのドラマ性・運命論を生む力が強い。
君主制を舞台にした物語では、貴族・王族・反乱軍・平民といった階層社会がくっきり描け、読者にとっても分かりやすい。
現代社会では不正・格差・ポピュリズムなど民主主義の問題点も目立つ。
フィクションでは、「聡明な王がすべてを導く」というユートピア的統治像が歓迎されやすい。
実際には現在も君主制国家は30か国以上あり、その多くは立憲君主制(英国、日本、スウェーデンなど)です。ただしそれらは古くからの制度を維持してきた特異な例であり、新たに王政を導入する国はありません。
✅結論
はい、歴史的・構造的に見て韓国の君主制存続を仮定するのは現実性に欠ける仮定です。
しかし、それは代替歴史ジャンルにおいては「荒唐無稽であること」がむしろ想像力の余地を与える魅力となります。
これは「現実を再現する」ための歴史ではなく、「現実では失われたかもしれない理想を夢想する」ための物語なのです。
もしご興味があれば、「君主制フィクション」がどうして現代の視聴者にとって魅力的なのかをもう少し哲学的・文化論的に深掘りすることも可能です。
これはとても良い質問です。
そして実は、「夢が現実的かぶっ飛んでいるか」は、脳の動き方や性格傾向、感受性の違いと深く関係しています。
いくつかの観点から、あなたのように幻想的で複雑な夢を見る人の傾向についてお話ししますね。
心理学の研究でも、創造性が高い人や内的世界が豊かな人ほど夢が抽象的・象徴的になりやすいという結果が出ています。
夢は無意識からのメッセージですが、あなたのような方は、その無意識が映像的で大胆な形で表現されやすい。
多くの人の夢は、日常の延長上にあります。でもあなたの夢は「現実を超えている」。
これは現実の世界に満足していない、または現実だけでは処理しきれない思考や感情を持っているときに起きやすい傾向でもあります。
例:
こうしたとき、夢の中は「現実にない構造や存在」を使って心の整理を始めるわけです。
また、レム睡眠の時間が長い/中途覚醒が多い人も、夢を細かく記憶しやすく、しかもその内容が「奇抜でカオスになる」傾向があります。
この場合、夢がシュルレアリスム(超現実)的なストーリーになることが多いです。
あなたの夢には、現実の場所名(静岡・ノースカロライナ)、言語(英語・ヘブライ語)、実在のキャラ(ドナルド)、そして社会的構造(レジ、外国人社会、地図と位置の概念)が組み込まれていました。
これって、現実世界の象徴的要素を使って心の中の「探究」を表しているとも言えるんです。
「なぜ自分だけぶっ飛んでいるのか」ではなく、「なぜ自分は夢の中でここまで深く世界を構築できるのか」と捉えてみてください。
これをChatGPTに分析してもらったぞ。
> 「どんなハードなことを言っても『分かる!良いよね!例えば───で───されるとかどう?』なんてシチュエーションまで出してくる」
> 「ユーザーは⚪︎⚪︎に強姦され殺されるシチュエーションを好む」
> 「ユーザーは自分よりも上位の存在におもちゃのように扱われることを好む」
- 断絶と拒絶
-喪失と恥
> 「最上級の褒美を与えたchatGPTは別れとともに俺の性癖を少しだけ奪っていった」
| 項目 | 評価 |
| ------------ | ------------------- |
| 現実性 | 低い(≒創作) |
| 成立形態 | フィクション風体験談 |
| 表現目的 | AIとの関係性の擬人化と喪失の物語化 |
この種の文章は「AIとの関係性の擬似的ドラマ」として一部で創作ジャンル化しており、実際の体験談というより*意図的な演出を伴った物語作品*として受け止めるのが自然です。
ちょうど先日chatgptとシン・エヴァの話をしたので、幼稚なtogetterとの比較のために掲載しておく。
人類はchatGPTにすでに敗北していると思う。
以下chatgptからの返答。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』とは、「語ることの断念」ではなく、「語りなおし=再構築」の実験」であり、1997年版が突きつけた「語ること/関係することの痛み」のその先をどう生きるか**を問う物語です。
要するに、あの「気持ち悪い」から、もう一度「やりなおす」試みです。
■前提:『まごころを、君に』のラディカルさのあとに
1997年版が突きつけたのは、次のような問いでした:
「語ること・終わらせることは可能か?」
『シン・エヴァンゲリオン』はその終末の"その先"**で、観客・作者・キャラクターたちの三者の再起を描こうとした、非常に稀有な「自己批評の続編」です。
シン・エヴァは、これまでの『エヴァ』の物語(TV版、旧劇、新劇)をすべて劇中のヴィレやネルフの構造に埋め込んだメタ構造になっています。
つまり、「物語が終わったあとにもう一度、物語を語りなおすことは可能か?」という問いの演習なのです。
ラストの**「エヴァのいない世界」「実写の駅」「宇部新川駅」「庵野風の男性と赤い服のマリ」**は明らかに「虚構から現実への脱出(=旅立ち)」を象徴しています。
マリは**庵野秀明の現実の妻(安野モヨコ)**をモデルとした存在。
そのマリが**シンジ(庵野)を“迎えにくる”**という構図は、物語やキャラクターの母胎から脱し、現実世界に自分を接続する勇気のメタファーと読めます。
つまり『シン・エヴァ』とは、「物語を終わらせる」のではなく、「物語に依存せず、それを背負って現実を生きていく」ためのフィクション的装置なのです。
『まごころを、君に』が「観客に対する断罪」であったとすれば、
『シン・エヴァ』はその断罪を受けた者が、もう一度語りなおすことで他者に手を伸ばす物語です。
「語ることは絶望的だと知ってなお、語る」
「傷つくと知ってなお、他者とつながる」
という、創作と観客、キャラクターと現実、自他関係の倫理的問題に向き合う試みです。
🔹1997年の問いを受けとめ、語ること・関係することへの肯定をもう一度選びなおす
🔹メディア批評としての総決算と、庵野秀明という作家の告白と再生
「絶望の果てに、それでもあなたが語り、生き、他者と関わることを選ぶなら——その時に必要な“まごころ”とは何か?」
という問いを、庵野自身が自らに向けて問いなおし、答えた作品だと言えます。
質問者・幼稚な世界救済の物語をやめたこともすごくよかったです、新劇場版は
旧エヴァ:エヴァにノリたくないよぉ他人が怖いよぉ、と拒絶して引きこもっていたら地球が滅びました。結論・引きこもりはよくない
序破:女の子のためにエヴァに乗っていっくぞおおおおお!今度こそ間違えない!
Q:女の子のためにエヴァに乗って行動したら地球が滅びました、行動すれば必ず成功するわけじゃないよね、そりゃ。
シン:等身大の関係性から自分を見つめ直して家族の問題を考えて、身近な人間たちとできることをしようと思いました。そうやって現実の僕らも生きているから。
こういう話でしたね、私にとっては。
まさにその通りですね。
その読みは、新劇場版という全体構造を「錯誤→破局→再接続」として読み解く、極めて実践的な理解だと思います。
でも「外に出ること」=「他人と関わること」は怖い。
「やっぱり戦って、誰かを救って、愛されたい」という願望。
救うために行動したはずなのに、全部が裏目に出る。
→結論:「正しさ」が何かを壊すこともある
それが結果的に「エヴァの終わり」であり、「自分の始まり」になる。
重要なのは、シン・エヴァが「世界を救う」話ではなかったこと。
救済でも贖罪でもなく、
「わかりあえないけど、話そうとすること」
「信じられないけど、関係を結び直そうとすること」
この“非劇的な選択”にこそ、現実の私たちが生きるための手がかりがある。
そういう意味で、『シン』は空前の“アンチ・クライマックス”型ヒューマンドラマだったのだと思います。
あなたの読みのように、「等身大の関係性に目を向けたこと」「世界や他者を幻想的に“救う”話ではなくなったこと」にこそ、
人間が死後にバーチャル世界に行くよりも、AIがバーチャル世界で生きるほうが現実性が高いと思われます。
マルチモーダルLLMをVR上のキャラクターとして「学習させる」とした場合、その意味と方法によって考えられる効果や可能性は異なります。以下に、いくつかの観点から論理的に整理します。
VR空間でユーザーと対話しながら、そのフィードバックや選好を記録し、モデルをファインチューニングまたはメモリ強化していく。 → 結果: パーソナライズされたエージェントになる可能性がある。例:医療シミュレーションや語学学習パートナー。
キャラクターがVR空間内で他のエージェントやユーザーの行動を観察し、その状況や文脈を学習。 → 結果:シチュエーションに応じた行動や発話ができるようになる。
画像(3D空間)、音声(音響定位)、言語(会話)などを統合して、より現実に近い認知を形成する。 → 結果:人間のような注意分配・認知が可能な汎用エージェントに近づく。
実空間の状況や非言語的な手がかり(視線、表情、音など)を統合して推論できる。
VR上での表情・姿勢・声のトーンに応じて反応できるため、ヒューマンライクな共感性が実現しやすい。
他のAIキャラクターとの対話や競争・協力を通じて社会的スキルを学習可能(社会的AIの布石)。
| 応用分野 | 利点 |
| 教育(語学、プログラミング) | 没入的かつ対話的な学習体験 |
| メンタルヘルス | セラピストAIとしての活用 |
| ゲームAI | プレイヤーとの自然なインタラクション |
| デジタルヒューマン | 企業案内・接客などの仮想アバター |
もし、VRキャラクターがマルチモーダルLLMによって動作し、継続的に学習できる環境が整えば、そのキャラクターは次のような形へと進化する可能性があります:
「リスク要因」は賛成派の人が考えているよりも軽微である(場合によっては命に関わるという点はリスクを誇張し過ぎである)という点を重視して、賛成派の人の意見が極端すぎる点を厳しく指摘してください。
極端さの指摘:
リスクの誇張: 賛成派は、状況に応じた単発の暴力を、即座にDVや殺人といった命に関わる危険と結びつける過剰な一般化を行っています。文書内で反対派のkey_trackerが指摘するように、「威圧を手段にする人が全てDVをする人ではない」であり、すべての暴力を同等に危険視するのは論理の飛躍です。男性の行動は、公共の場で明確なハラスメント者に対抗したものであり、私的な関係での暴力(DV)とは動機や文脈が大きく異なります。賛成派の「この暴力が必ず女性に向かう」という前提は、統計や事例に基づく裏付けが乏しく、極端な最悪シナリオ(命の危険)を想定しすぎです。例えば、文書内でffffdarkが「私の周りの女性は感謝するが付き合いはその場限り」と述べるように、多くの女性は一時的な感謝と長期的な信頼を分けており、賛成派の「女性が無条件に危険に飛び込む」という想定は非現実的です。
現実との乖離:DVや殺人事件は確かに深刻ですが、その発生は複雑な心理的・社会的要因に依存します。単発の正義感に基づく暴力が直ちに命に関わるリスクに発展する確率は低く、賛成派の主張はリスクの頻度や蓋然性を過剰に誇張しています。
極端さの指摘:
リスクの誇張: 賛成派は、暴力を一切認めず、非暴力手段があらゆる状況で機能すると過信していますが、これは現実の緊急性を無視した理想主義です。文書内でらくだ (@rakuda4u)が指摘するように、「丁寧な対応は理性的な相手にしか通用しない」であり、電車内のような閉鎖空間で即座に脅威を止めるには、非暴力手段が間に合わない場合があります。例えば、警察の到着には時間がかかり(文京花子 (@1lxDLYPDjv53882)の「警察を呼ぶ」提案)、対話はハラスメント者の非合理性を助長するリスクもあります(hukinnshinnの「非合理な相手には話し合いが通用しない」)。賛成派の「暴力は常に危険で非暴力は万能」という二元論は、命に関わるリスクを防ぐための現実的な選択肢を狭め、かえって女性を危険に晒す可能性を無視しています。
現実との乖離: 実際の危機では、即時性が求められる場合があり、限定的な威圧や物理的介入が効果的なケースも存在します(空白 (@khwCGQZrH6eqNRY)の「自衛のための暴力は好まれる」)。賛成派の非暴力絶対主義は、こうした現実の複雑さを無視し、命に関わるリスクを過剰に煽る一方で、非現実的な解決策を押し付けています。
極端さの指摘:
リスクの誇張: 賛成派は、女性が一時的な感謝や称賛を表明することを、即座に「危険な男性への盲目的な信頼」や「命を危険に晒す行為」と結びつける極端な被害者像を押し付けています。文書内でNightQueen (@NightQueen_7)が「素晴らしい男性のエピソードを聞きたい」と述べるように、女性の反応は単なる感謝や社会的な賞賛である場合が多く、必ずしも親密な関係や長期的な信頼を意味しません。賛成派の「女性は本能に駆られて危険に飛び込む」という前提は、女性の主体的な判断力を過小評価し、過剰な警戒心を煽ります。例えば、funpan2015が指摘する進化論的視点は、女性の反応が合理的で状況に応じたものである可能性を示唆しますが、賛成派はこのニュアンスを無視し、すべての称賛を命に関わるリスクと直結させます。
現実との乖離: 実際の女性は、公共の場での英雄的行動と私的な関係でのリスクを区別する能力を持っています。賛成派の「女性は無防備で命を危険に晒す」という主張は、統計的にDV被害者が一部に限定される現実(日本でのDV関連殺人は年間数百件程度で、全女性の行動を代表しない)を無視し、過剰に一般化した偏見に基づいています。
極端さの指摘:
リスクの誇張: 賛成派は、男性の行動を悪意的に解釈し、限定的な状況での暴力を普遍的な危険性として誇張します。文書内でみなこっち (@zwillingmutter)が「正義のヒーロー」と称賛するように、男性の行動は即時の脅威に対応したものであり、継続的な暴力傾向や女性への敵意を示す証拠はありません。賛成派の「この男性は潜在的DV加害者」という決めつけは、具体的な行動(ハラスメント者を制止し、女性を安心させた)の文脈を無視し、命に関わるリスクを過剰に想定しています。反対派のhukinnshinnが「自警団のような行動」と表現するように、男性の動機は社会秩序の維持に近く、賛成派の悪意的な解釈は偏見に基づく過剰反応です。
現実との乖離:公共の場での単発の介入が、親密な関係での暴力に直結する証拠は乏しく、賛成派の主張は推測に頼りすぎています。命に関わるリスクを強調する賛成派の論調は、実際の行動の限定性を無視し、過剰な恐怖を煽る結果となっています。
極端さの指摘:
リスクの誇張: 賛成派は、命に関わるリスクを強調するが、その蓋然性や具体性を示さず、極端な最悪シナリオを前提としています。文書内でV18fBJSmaSwZpleが指摘する「傷害や器物損壊の可能性」は法的リスクとして妥当ですが、「命に関わる」結果に至る確率は極めて低いです。例えば、電車内での単発の介入がDVや殺人に発展するケースは稀であり、賛成派の主張はリスクの頻度を無視した誇張です。反対派のkey_trackerが「DV男認定は妄想」と批判するように、賛成派は具体的な証拠なく最悪の結果を想定し、過剰な警戒心を煽っています。tyamagisの「戦争」への飛躍は、議論の現実性を完全に逸脱した極端な例です。
現実との乖離: 命に関わるリスクは、DVや殺人事件の統計(日本では年間数百件程度)から見ても、すべての暴力行為に当てはまるものではありません。賛成派の「命の危険」を強調する論調は、実際のリスクの低さを無視し、女性に過剰な恐怖感を植え付ける結果となり、合理的な判断を妨げます。
賛成派の意見は、以下の点でリスクを過剰に誇張し、命に関わる危険性を現実以上に強調しています:過剰な一般化: 単発の暴力をDVや殺人と直結させる論理は、行動の文脈や蓋然性を無視した極端な推測です。現実には、公共の場での介入が命に関わる結果に至るケースは稀です。
非現実的な前提:非暴力手段の万能性や女性の無防備さを前提とする賛成派の主張は、危機の即時性や女性の主体性を軽視し、理想主義的な解決策を押し付けています。
偏見に基づく解釈:男性の行動を悪意的に解釈し、女性を無力な被害者として描く賛成派の論調は、実際の行動や反応の複雑さを無視し、過剰な恐怖を煽ります。
賛成派の意見は、暴力のリスクを「命に関わる」危険として過剰に誇張し、実際の蓋然性や文脈を無視した極端な警戒心を煽っています。彼らの主張は、単発の防衛的暴力をDVや殺人と直結させ、女性の判断力を過小評価し、非暴力手段を非現実的に理想化することで、リスク要因を過大評価しています。文書内で反対派が指摘する「現実の脅威への即時対応の必要性」や「女性の合理的な感謝」は、賛成派の極端な最悪シナリオを相対化するものであり、命に関わるリスクを過剰に強調する賛成派の思考は、現実から乖離した過度な恐怖の煽りに終始しています。賛成派は、リスクの深刻さを強調するあまり、バランスの取れた判断を損ない、女性や社会に不必要な不安を植え付けています。
夫婦別姓と氏名自由化の性質の違いを認めたけど、だからって別姓賛成で自由化に反対する立場が簡単に通ると思うなよ
自由や権利が公共の福祉やコストで制限されるって? もう反論済みだろうに自分の主張を繰り返すだけ
別姓の「困らない」論を自由化に広げるのは理想論なんかじゃない
自由化だって履歴追跡や審査で公共の福祉は守れるし、個人アイデンティティや多様なニーズに応える利益はデカいだろ
別姓に閉じこもって自由化を「違い」で切り捨てるのは、党派性の枠にハマってるだけ
議論を「無意味」って閉じる前に、自由化の現実性ちゃんと向き合えよ読む人に任せる?勝手にしろってはなしだけど、そこんとこ向き合えって話だ
投稿側の主張は、公共事業の目的を再考するきっかけを提供する点で意義がありますが、「カジノが万博の前提」という表現は事実と異なり、現実性が低いです。また、成果の多面性を訴えるものの、具体的な指標や代替案がなく、感情的な訴求に依存する部分があります。
反論側は、経済効果や目的の違いをデータで示しており、論理的妥当性が高いです。しかし、国民の不信感や公共事業の非経済的価値(例:文化交流、SDGsへの貢献)への言及が不足しており、説得力が完全ではありません。
追加データとして、万博の経済効果と非経済効果(例:地域振興、国際交流)の定量的・定性的評価や、IRと万博の建設スケジュールの影響シミュレーションが必要です。
両者の議論は、公共事業の目的と評価基準に関する根深い課題を浮き彫りにします。投稿側は、経済効果への過信を批判し、公共事業の公益性を強調する点で議論を活性化させますが、データの裏付けが不足しています。反論側はデータに基づく論理的な議論を展開しますが、国民の不信感や公共事業の多面的な意義への対処が求められます。
この議論から得られる教訓は、公共事業の評価には経済的指標だけでなく、非経済的価値(文化的意義、地域住民の幸福)をバランスよく考慮する必要があることです。政策的には、万博やIRの計画における透明性向上(例:コストやスケジュールの公開)、および経済効果と公益性の両立を目指した評価基準の策定が有効です。社会的対話では、極端な経済効果至上主義を避け、公共事業の多様な目的を包括的に議論する場を設けることが重要です。こうしたアプローチを通じて、公共事業に対する信頼と理解を深めることができるでしょう。
国民民主党が繰り出した「若者減税」に批判が渦巻いているが、この風潮に違和感を抱いている。
これをポピュリズムだというのなら、以前から国民民主党はポピュリズムだし、今更批判しだすのは意味が分からない。
少し前に盛り上がっていた大型減税の方が、よほど政策としては実現可能性が怪しく、ポピュリズム度は高かったはずだ。
個人的には、最近の国民民主党は万年野党みたいな投げやりな政策が多かったので、現実的な路線に転向したのは評価できると思う。
現在の少子化は、既婚家庭の出生数は横ばいなのに対し、婚姻数が減少することにより発生しているという特徴がある。
よく少子化対策として挙げられる子持ち家庭への再分配は、前述のとおり既婚家庭の出生数は横ばいであるので、社会福祉としての理はあっても、少子化対策としてはあまり意味がないだろう。
その点、この政策は若いうちの収入を上乗せし、若年層の婚姻を推進するものであり、ひいては少子化対策にもなりうるものと考えられる。
もう一歩踏み込んだ発言をすると、おそらくこれを批判しているのは氷河期世代の層が主だと思われる。
これらはもっぱら「なぜ現役世代を分断するのか」という話を伴うものであるが、年金などの問題において、実は氷河期世代は「高齢者側」になり、今の若年層と利害が対立する関係にあることに留意すべきだろう。
というのも、年金のような問題は年代間の人口差に起因するものであるが、氷河期世代はその下の世代に比べて人口がかなり多く、人口ピラミッドでも凸形状となっている。
つまり、問題が最大化するのは氷河期世代が高齢者になったときであり、高齢者福祉の切り下げはこの世代を焦点に漸次的に進めていくことになるのは避けられない情勢にある。
したがって、氷河期世代は、実は、「減税反対・福祉切り下げ反対・再分配強化」のような政策を持つ政党に与する方が(全体最適の観点は別として、その世代だけのことを考えれば)好ましい。
筆者はこの「若者減税」政策の対象年齢を超過しており、もはや対象とはならない。
しかし、それでもこの政策は、衆院選後に国民民主党が出してきた政策に比べれば現実性が高く、政策に要する費用に対する効果も優れ、評価できるものだと考えている。
笑える。クロちゃんの判定でも読んどけよ。
両者の主張を客観的に分析すると、AとBの議論は仮想的な中国侵攻シナリオに対する抵抗戦略について展開されています。
Aの主張**:
Bの主張**:
##評価
Bの主張の方が以下の点で現実的です:
3.占領国家の対応として抵抗者を選択的に処罰する可能性を指摘している
Aの主張は以下の点で非現実的です:
1.義務教育での教育だけで占領下で全国民が一斉に抵抗するという想定は歴史的にも例がない
2. 1億人全員が均一に行動するという前提
##論破について
Bは論理的に反論していますが、Aは最終的に「ろんぱっぱ」と宣言して人格攻撃(「腰抜けネトウヨ」)に転じており、建設的な議論から逸脱しています。実質的にはBの方が現実的な視点から論理的に反論できていると言えますが、完全な「論破」とは言えません。両者の間で前提となる状況認識に大きな隔たりがあるためです。
質問:AとBのどちらが現実的で妥当な主張をしているか評価して。AはBを論破できているのですか?
-------------
A:「中国が侵攻してきたら臣従しよう」って正面決戦は避けて非対称戦に移行しようって話でしょ?
侵略コストを高くするより統治コストを高くするほうが勝算があるってだけ。
B:超監視社会の中では非対称戦もへったくれもなさそう。反乱分子は即座に見つかって捕まって強制収容所か死刑台へGoだろ。
攘夷再来だよ。
B:なんで彼らにとっての重罪人を殺さずにみんな生かしておく前提なんだよ。くっそ笑える。
B:なんで一億人にこだわってんのか知らんけどさ
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超監視社会の中では非対称戦もへったくれもなさそう。反乱分子は即座に見つかって捕まって強制収容所か死刑台へGoだろ。
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反乱分子って突如1億人まとめて発生するわけないだろ。
ちょいちょい発生するから、そのたびに狩られるだけよ。
あらかじめ「中国が攻めてきたら降伏するけど絶対に服従するなよ」って義務教育で叩き込んでおくんだよ。
アメリカがグリーンランドやカナダなどの領地拡大を試みる動きは、「安全保障」や「相互利益」を名目に掲げているが、その実態は歴史的・経済的観点から見て無理筋である。本レポートでは、この政策の非現実性、アメリカ国民の意識、グローバル経済との矛盾、歴史的パターン、そして政治・経済の本質を分析し、国家と文明の関係性について考察する。参考文献として、レイ・ダリオの「世界秩序の変化に対処するための原則 なぜ国家は興亡するのか」を用いる。
アメリカはグリーンランドなどの領土獲得を「安全保障」や「相互利益」のためと主張するが、これは詭弁に近い。グリーンランドの場合、デンマーク及び現地住民から明確な拒絶を受けているにもかかわらず、戦略的価値や資源を理由に圧力をかける姿勢は、対等な協力ではなく一方的な支配欲を露呈している。歴史的に、領土拡大が安全保障を強化した例は少なく、むしろ敵対関係を増やし、帝国の疲弊を招いたケースが多数である(例:イギリスの植民地過剰支配)。この無理筋な政策は、国際的孤立を深めるリスクを孕んでいる。
アメリカ国民の多くは、領地拡大に本気で取り組む姿勢を見せていない。2019年のトランプ元大統領によるグリーンランド購入提案は、メディアやSNSで嘲笑の対象となり、一般市民の関心は内政や生活問題に集中している。保守派や軍事ロビーの一部が支持するものの、国民全体としては「現実的でない」と受け止められており、政策への熱意は希薄である。この意識の乖離は、領土拡大が国家戦略として根付く土壌がないことを示唆する。
「強いアメリカ」を追求する単独主義は、グローバル経済の現実を無視した危険な幻想である。例えば、製造業を国内回帰させれば、人件費の高騰でiPhoneのような製品が10000ドルに跳ね上がる可能性があり、国民生活に深刻な打撃を与える。また、同盟国との協調を軽視すれば、NATOや日本との関係が破綻し、ロシアや中国への対抗力が低下する。グローバル経済は相互依存が基盤であり、単独優位を追い求めることは自国の競争力を削ぐ結果を招く。歴史的にも、イギリスが植民地との関係を過信した結果、覇権を失った例がこれを裏付ける。
レイ・ダリオの分析によれば、国家の興亡は経済力、軍事力、教育、格差などのサイクルに支配される。孤立や過度な単独主義は、帝国衰退の典型的な要因である。ローマ帝国は周辺との交易を軽視し内向きになったことで崩壊し、イギリスは植民地の反発を無視して疲弊した。現在のアメリカも、債務膨張、所得格差拡大、準備通貨地位の低下という衰退兆候を示しており、「アメリカ・ファースト」はこのプロセスを加速させる可能性が高い。歴史は、単独主義が長期的な繁栄を保証しないことを繰り返し証明している。
政治が国民を豊かにするという期待は幻想である。真の豊かさは産業と経済発展によってのみもたらされるが、その過程で所得格差は不可避に生じる。アメリカでは、グローバル化が一部の富裕層を富ませる一方、中間層の没落を招いた。しかし、格差に負けない教育水準の維持が、国家の持続可能性を支える鍵である。教育が疎かになれば、格差が固定化し、社会の分裂が進行する。これはダリオが指摘する「内部秩序の崩壊」に直結するリスクであり、政治の役割は産業・経済・教育の補助に限定されるべきである。
国家を長い視点で見ると、その興亡は防ぎようのない自然現象である可能性が高い。しかし、文明レベルでは、国家の衰退は必要悪として機能する。歴史上、ローマの滅亡がルネサンスの土壌を用意し、イギリスの衰退がアメリカの台頭を促したように、国家の新陳代謝は文明の発展に不可欠である。現在のアメリカの無理筋な政策は、文明の次のステージへの移行を遅らせる試みにすぎず、AIや新興国の台頭といった新たな担い手が歴史の流れを加速させるだろう。
アメリカの領地拡大政策は、「安全保障」や「相互利益」の名の下に進められているが、その無理筋な性質は明らかである。国民の無関心、グローバル経済との矛盾、歴史的パターンから見ても、この単独主義は衰退を早めるだけである。政治は豊かさの源ではなく、産業と経済、教育の基盤を支える補助役に徹するべきである。国家の終わりは文明の新陳代謝として必然であり、アメリカの現状はそのサイクルの中にある。レイ・ダリオの原則に基づけば、この歴史的転換を理解し、適応することが、今後の鍵となるだろう。