
はてなキーワード:独自解釈とは
飲食マニア30年、食にハマりすぎて脱サラして飲食業界10年の者です。
今は苦しみながらみたいな感じかもしれないけど、本当に面白い趣味になので、先輩食オタが沼にハマってもらえるように導いてみたい。
しょっつるにマウンティング取ってくる幼馴染は放っておいて、一緒に楽しめるようになろうぜ。
⚫︎味覚の鍛え方
まず、舌が馬鹿って思ってるみたいだけど、実は人の味覚の個人差はかなり少ないらしい。
(生物として味覚がブレるというのは健康維持に致命的な支障をきたすので)
じゃあ、味覚が鋭いと言われる人と何が違うかというと「味を表現する言葉の数」が違うのよね。
増田は美味しいものを食べた時に「美味しい」以上の感想が無いんだと思う。
例えば、美味しい唐揚げを食べた時に
「熱々」「肉がしっとりしてて柔らかい」「衣がサクサクしてるけど、固すぎない」「噛み締めるとジュワッと肉汁が出てくる」「肉汁は獣臭さが全くない」「醤油の香ばしい香り」「生姜の爽やかさ」「ほんのりと酢の酸味が効いてる」「ビールで流し込むと美味しい塩分」「あと味にはニンニクが残る」
などなど、美味しいを全体で捉えるのをやめて個々の要素に分解して考える。
慣れないうちは、頭がパンクしそうになると思うから1回やったら、そのあとは美味いだけを思って普通に食べれば良いのだけど、
とりあえず毎回美味しいなと思うことがあったら試してほしい。
この分析した知識が蓄積してくると「こないだ食べた衣の方がサクサクが軽くて好きだったな」とか「醤油の味はもう少し薄い前に食べたやつの方が肉の味がわかっていいよな」とか比較して考えることができるようになる。
無理ーと思うかもしれないけど、本当にこれは筋トレとかと同じで蓄積なので、毎回やってみてほしい。
1〜2年もしたら、仲間内で誰よりも味のわかる人という評価もらえるようになるよ。
増田はまだ大学生と若いのに食べたことのない食材を一度は食べてみたり、使ってみたりしている時点で本当に素晴らしい!
その好奇心があれば絶対に食は詳しくなれると思うので、諦めないで続けてほしい。
1)漫画で興味を持つ→実際に食べてみる
基本的に「美味しそうだなー、食べてみたいなー」という興味関心が食には必要になるのよね。
とりあえずマウンティング取られたから勉強みたいな感じだと増田も書いてるように受験勉強みたいで辛いと思う。
なので、おすすめは料理漫画を読んで、実際に食べてみるのが良い。
今は膨大な量の料理漫画があるのでコンビニ飯やチェーン店みたいな手頃な外食の漫画もあるし、
お取り寄せみたいな料理しなくてもOKな漫画も沢山あるのでお気に入りを探して読んでもらいたい。
んで、気になったやつを実際に食べてみる。漫画の主人公の感想と自分の乾燥すりあわせて知識を入れてく。
2)美味しい店に行ってみる
自分で買ってきて食べてみるというのは素晴らしいのだけど、調理が必要だったりすると美味しく作れなくてテンション下がってしまうと思う。
一番簡単な方法は、その食材を使ってる美味しい料理を出してる店を探して食べてみるというのが良い。
もちろん大学生だと出費的にハードル高いこともあると思うけど、ラーメンとか街中華とか居酒屋であれば、選びやすいんじゃないかな?
例えば、しょっつるってどんな味なんだろう?って思ってスーパーで買ってくると使いきれなくて嫌いになっちゃうので
「しょっつる ラーメン」とかで検索して食べログでもGoogleマップでも評価の良さそうな近場のお店に行ってみたらどうだろう?
レシピ通りに作って美味しく作れてる時点で才能があるよ。美味しい時点でレシピの選び方そんなにミスってないので、今のやり方でもOK。
ちょっとだけアドバイスするとレシピ探す時に「料理名 ○○」みたいな感じで次のワードも一緒に入れて検索してみて
<丁寧に作る>
・白ごはん
<適当に作る>
・味の素
<マニアックに掘り下げて作る>
・foodie
これで出てきたレシピから試してもらうと失敗少なくて良いと思う。youtubeのリュウジ氏とかも全然良いのだけど、独自解釈されちゃってるから知識を入れるという目的だったら上のサイトのレシピの方がおすすめかな。
まぁ、色々と書いたけど本当に食の沼は楽しすぎるので、ぜひハマってほしいなぁ。
「100分で名著」で取り上げられていた。
そうか、もう30年前の本なのか。
番組での解説はまあ順当というか、あんま独自解釈も無ければ批判的な要素もなかった。
村上春樹が「世界文学」になったエポック、重層的メタファーの織りなす深みのある作品なのだと。一般に言われる通りの紹介。
でも個人的にはねじまき鳥で村上春樹のファンをやめたのだった。そこまでは村上の書いたものは全部読みたいほどだったのだが。
どうやらこいつは壮大なマクガフィンの塊であり思わせぶりオバケだなと、それまでの尊敬の念がくじけてしまった。
河合隼雄、大江健三郎、吉本隆明、ハッタリ野郎の仕事は本人が亡くなって後は全く顧みられることがない。
ダンジョン飯が「お約束的世界観に対して上から目線でメスを入れ」るコンセプトだと聞いて意外だった。というのもあの作者がやってる事は当たり前の世界観構築の一つだと思っていたから。
>ダンジョン飯みたいな「古典RPGのお約束的世界観に対して上から目線でメスを入れようとする作品」が前から嫌いだった
https://anond.hatelabo.jp/20250427090957
多分なんだが、元増田はJRPG一貫でRPG黎明期とかに興味がないのではないか。
そういう約束事というのは最初からあったのではない。グラフィックがプアな黎明期に製作者達が共同幻想を構築していったので出来たものなのだ。
ダンジョンはそもそも城の地下に築かれる地下牢を指していた。中世~近世のヨーロッパには教育刑の概念はない。だから地下牢では拷問が行われたり単に囚人を放置して餓死させたりしていたし、灯火も無く発狂必須だったりした。大きさはそんなに広くはない。
そこから怨念が染みついた恐ろしい場所というイメージが付いた。
更に城が放棄されて崩壊しても地下構造は残る。そこで「崩壊した古城の地下には財宝が残っているかも」という妄想が付きまとうようになった。
1970年代のテーブルトークRPG(TRPG)の代表、D&D(ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ)ではこの妄想を膨らませ、「ダンジョンには巨大構造があって深くなうほど怪物が強くなって最奥にはドラゴンが財宝を守っている」という設定を作った。
ゲーム盤はただのマス目とサイコロだけであり、付属のカードのイラストで世界観を想像してね、という仕様だ。
因みにドラゴンは旧約聖書にも載っている「悪の手先」で、モンサンミッシェル寺院の屋根の上でミカエルに踏んづけられていたりする。昔からだれもが知っている悪の手先とダンジョンの妄想世界観を組み合わせたんだな。
黎明期にはこの手の「世界観設定」の途中で意味が付与された事物が沢山ある。例えば
羽が生えた悪魔みたいな生物、ガーゴイルだが、これは元々はキリスト教会の雨樋のことだ。
教会建築では建物が痛まないように屋根の雨を壁から離れたところに落とす為の雨樋を付ける。日本の雨落しみたいな方法だ。
この雨樋の水出口には動物や怪物の顔から吐出するデザインが用いられていた。ごれがガーゴイルで、「うがいでガラガラ」みたいなオノマトペなのだ。ガラガラ言うからガーゴ。
ローマ水道で吐出口がライオンの頭みたいなもんで、欧州の伝統的な魔除けデザインだった。
これを黎明期RPGでは悪魔型怪物として「生命」を持たせたのだな。
エルフの伝説は各地によって異なり、悪戯好きの悪鬼の地域もある。これが今の耳が尖って痩身で聡明という風に固定されていった。
特にRPGの約束事の形成に影響を与えたのがウルティマUltima、バーズテイル The Bard's Tale、ウィザードリーWizardryの三つだ。
このうちバーズテイルは日本だとややマイナーかもしれない。これは発売時期が他の二つより遅くてJRPGの発売時期と被ってしまった為だ。
でもこの作者はUltima、wizを繋ぐ鎹みたいな人物だ。バーズテイルの舞台はスコットランドに現存する遺跡から名を取ったスカエブレイという町なのだが、このスカラブレイという町はウルティマにも登場する。そこにはホークウィンドという重要人物が居るんだが、これがバーズテイル作者のロー・アダムスの成り替わりキャラ。
一方、wizには人間離れした強さの忍者、ホークウインドが登場する。これもロー・アダムス。
で、この三つの作者はD&Dが作ったファンタジーRPGの世界を拡大して今の「約束事」が出来ていくわけだ。この時独立独歩じゃなくて三大タイトル作者三人が協働したのが大きい。一人のアイデアを他が模倣する事で世界観が確立していくわけだから。
だからこの当時のプレイガイドなどを見ると、所謂攻略本などとはかなり違う。「この怪物はどういう生き物か」「この地形はどういうものなのか」という設定資料的な記述がとても厚い。
グラが貧弱な分、そういう所で世界観を膨らませる&作者たちの世界観を共有する事がプレイの楽しみという感じなのだ。それはだから単なるゲームではなくかなり文化の香りを纏っていた。
これを翻訳した日本でもその世界観の紹介は重要コンテンツとなった。何しろRPGという約束事が無い所にコンテンツを持ってくるのだから。
でもそのせいで恥ずかしい失敗もしている。代表例が、wizに出てくるかなり強い剣「blade cusinart」を「名匠カシナートの打った名刀」と紹介してしまったことだ。これの正しい訳は「クイジナートのフードプロセッサ」なんである。
cusinartはアメリカのキッチン用品メーカーであって、作者は悪ふざけで入れたアイテムだったのだが、翻訳チームはその辺のニュアンスを感じ取れなかった。今のフランス料理を「ヌーベルキュイジーヌ」って呼ぶこと、綴りを知ってたら間違えなかったのにな。
こんな風に三大タイトルは世界観構築に勤しんでRPGというジャンルを形成していったのだが、そのうちのウルティマがRPGの約束事を超えて風変りな変化を始める。
まず、モンスターを殺しまくってラスボスを倒し、財宝を手に入れ救世主として祭り上げられる、というRPGの目標を無視して、時に二律背反する命題を乗り越えて善行を積み、人格者として成就するというのがゲームの目標になる。
次に世界を救ったはずが他者の文明を破壊しており、他の種族の侵攻の原因を作ったのが主人公だった。その種族との調停和平を目指すというのがゲームの目標になる。
次にNPCが生活するようになり、店員は夜になると家に歩いて帰り、食事をして寝る。だから夜に店に行ってもサービスを受けられない。
次に凡そすべてのアイテムが動かせるようになり、好きな所に置いておくことができる。移動した物はそのままそこに残り、位置もセーブされる。ついでにそれらに生命を吹き込むと勝手に移動する。
これらはもうゲームの進行に何も関係が無い。だけど現実世界では物は動かせて外出から戻ってもそのままある。会社員は定時で退社して家に移動してご飯食べて寝る。だったら再現するのが当たり前だ、という考えである。
そしてこういう現実で出来る事は出来るようにするという仮想世界構築の妄執がウルティマオンラインという世界初のMMOを産んだのだった。
当初のウルティマオンラインの熱量というのは語り草で、ドワンゴの川上量生が時々熱っぽい文章を書いているのを見た事があるかも知れない。
これは単に初めてのネトゲと言うだけじゃなくて、RPGとしては異常なものであったからだ。
というのも、当初のUOにはクエストも無ければクリア目標もない。一切無い。ただ仮想世界があるだけ。
モンスターが徘徊する世界を強くなれば安全に冒険できるが、装備品は鍛冶屋に作ってもらう必要がある。でも一人で沢山のスキルを持つ事はできないようになっている。だから協働必須なのだ。
更に鍛冶屋は原料を仕入れる必要がある。原料→中間製品→製品とする事で、疑似的な経済循環が成立する。オフラインゲームしかやった事無い人がこんな世界に放り込まれたら最初は困惑するがやがてハマって「もう一つの世界」から出て来れなくなる。
しかもなんの役に立たないアイテムが超大量に存在する。ゲームじゃなくて仮想の「世界」であるならそれは当然だな。
「RPG世界を構築する」の妄執を続けていったら到達した怪作と言っていいだろう。
ただ、プレイヤーの行動は作者の思惑とは違うところも多かったようだ。
最初は店のアイテムもそのまま移動できた。だがリアルでそれを持って行くのが悪徳なら仮想世界内でもそれを控えるだろう、と作者は考えたが、そうはならず結局は制限を付けるしかなかった。
一方、ゲーム産業が隆盛した日本ではRPGはそれらとは違う進化を遂げることになった。やる事が細分化されて示され、それをクリアするのが目標となった。
また、「この〇〇というのは古代ケルトの風習で」とか「ケルトの風習なら△△では□□をするのがしきたりか」みたいな世界解釈をするという文化的文脈が余り無い。すると余計な詮索は世界に半畳を入れるような無粋な真似、という事になる。
するとお約束世界観に対する解釈を行う行為がポストモダンの「脱構築」の如くと言うのは得心が行く。
でもポモが虚仮にされるのは、世界に対する自分のルサンチマンが見えるからだ。批判の対象になるものをまるで理解も出来ないのに、「独自解釈」で切ればその対象の支配者になった気分になる。彼らはその為にやっている。概ねその対象は職業社会や国際関係などの身体的に揉まれないと会得出来ないもの、基礎常識が大量に必要になる物が多い。
そのノリでサブカルチャーなどの作品やジャンルを斬れば斬られた方は棄損するしユーザー層は冷や水掛けられてシラケる。
だけどダン飯の場合は棄損して終わりではなくて、先に述べた黎明期の世界観構築と相同の行為であるからポモなんてゴミとはかなり違うだろう。
そもそも年喰ったポモなんてネトウヨになってるのが相場だ。心性が右翼だからじゃなくて社会にコミット出来ない自分の自我保護の為にやってるのだな。はてなにも居るな。彼らって言ったがはてなのは彼女らかな。
ファンタジーで日本刀が強すぎ、とか侍が特別扱いされ過ぎ、というのがよく話題にのぼるが、これもRPGが関係してるのよ。
1960~70年代に日本ブームがあった。このブームの主体はアメリカの反体制ベビーブーマーで、要するにヒッピーの類縁なのだ。
当時のアメリカの若者の一部は己らの西洋文明がイヤになっていた。物質主義で、商業主義で、民族自立に対して戦争で弾圧していた。理想主義だったマルクス主義はとんでもない抑圧的体制にしかなっていない。
そこで注目されたのが東洋哲学、特に禅だった。特に「日本の禅」に強く吸引されたのだ。当時の日本は敗戦で世界の表舞台から消え、工業が再興して居たが文化的には謎の国となっていた。ビートニクと呼ばれる小説家集団の影響もある。
端的にいうと、ヒッピー的には日本とは精神的で特別な存在だった。
これが同時代のサブカルチャーに影響を与えるようになる。例えばスターウォーズのジェダイとは時代劇の「ジダイ」の事で、侍に類した強い精神性を武器としている。
だからwizには他の地域の戦士はいないのに最初から侍と忍者は登場する。ウルティマにも刀が登場する。
また、日本刀の制作は限られた刀匠以外には禁止された事もあり、その制作過程は過剰に伝統工芸的で精神的だ。これもヒッピー的文脈にある人を魅了した。
故に1980年前半に勃興したコンピュータRPGに登場したのだ。だからムラマサはワードナでも真っ二つなのだ。彼ら制作陣はベビーブーマー後期からその下の世代である。
因みにウルティマの作者の思想はガチヒッピーである。ウルティマ6のオープニングに表れているので暇があったら見てみて。https://youtu.be/7nBWuV_E6Eg?si=WIOEs3PObTpBFADO&t=462
魔法の残量をマジックポイントMPと書くゲームとマナと書くゲームがあるだろう。
この「マナ」というのは文化人類学用語なのだ。民族部族で魔法や神力があると信じられている場合、その力をマナと言うのである。だからMPよりもより正しい用語に直したのだな。
だからあのマンガがやってる事は物語にメスを入れて切り裂く行為ではなくて、黎明期に構築していった行為と相同であり、黎明期の精神を共有していると見える。
というか、wizやウルティマのプレイガイドそっくりなのだ。作者がwizを後からプレイしたと知って驚いたくらいなのだ。
因みに増田は普段はマンガを読まないのだが、ダン飯にはハマってしまい、その世界が終わるのがイヤで最終巻をまだ読んでいないのだ。我ながら病的である。
ところでなんでもサービスイン当初のUOをやりたいと考える人は多く、その為のクラシックサーバが出来たようなのだ。増田もちょっとやってみようかな。
子供の頃から穏やかな性格で、感情に波風が立たない人間だった。
もちろん悲しみや怒りを覚えたりすることはあるが、感情が理性を優越するほど昂ったことはほとんどない。
どちらかというと理屈っぽい人間でもあるので、そういった感情の波立ちを覚えても、まずは自分が何を嫌だと思っているか、自分の感情は正当なものか、といったことを、いちいち自分なりに納得できる論理に当て込み、吟味する癖が昔からついている。
どうしてそうなったか、という理由はない。誰かに強制されたり、躾けられたりしたのではなく、ただ単に記憶がある頃にはすでにそうだった。
こう書くと実に理性的な人間のようだが(実際私も長いこと、私自身をそのように評価してきた)、実際のところ私は「感情が遅い」だけなのではないかと思う。
なぜか。上記のように、自分の感情に吟味を重ねた結果、一ヶ月後、半年後、ヘタすると数年後に「私って怒っているんだ」とか「悲しんでるんだ」という、きわめて素朴な結論が出ることがしばしばあるからだ。(つまり、感情が希薄なわけでもないのだ。)
その段になってはじめて、私は自分の感情に正当な自信を持ち、場合によってはそれを根拠に他者に訴えかけることができるようになる。
しかし当然、相手にとっては「今更!?」ということになる。私が一年かけて咀嚼し続け、ようやくいま消化することができた感情は、他人にとってはキレイさっぱり終わった「過去」だからだ。「いつまで昔のことに執着してるの」とか「昔のことを蒸し返すなよ」といった反応が起こるのもわかる。でも私にとっては、いまこの瞬間ようやく理解に達し、心に染みわたった事実なのだ。
ところで言い訳みたいに聞こえるかもしれないが、私のこの「遅さ」は「ウジウジ考えてる」というのとも少し違う。
独自解釈だが、ウジウジってのは「あの時ああしてればよかったかな、チェ」「どうせダメだし」みたいな、どうにもならない、出口のない想像を延々とこねくり回す心の動きのことだと思う。
それはいろいろな角度やパターンから自分の言動や起こった出来事を分析してみて、「自分は何を感じていたか」を自分に対してより説得的に論証する過程なのだ。(自分で書いててもなんかキモいと思う。)
要するに、ウジウジ考えることが目的化しているということは全然なく、パッと納得できる考えがすぐに出ればそれに越したことはない、という方針ではあるということです。
いっときの感情に流されない性格は、社会生活一般においては良い方向に働くことのほうが多い。急激な精神的ショックを喰らわない、という点もメリットだと思う。
一方で、誰も私の感情をマジメに受け止めてくれない、ということは最近じわじわと苦痛になってきた。リアルタイムで感情を抱けないってそういうことだ。
悲しむべきタイミングで、喜ぶべきタイミングで、怒るべきタイミングで心から感情を表せない。
私の感情にはコミュニケーションする力、現実を変える力がない。これってある種の欠陥なんじゃないか。
……というような話を最近、友人に打ち明けたところ、精神が安定しているということは現代社会において一つの「特権」だという言葉をもらった。
特権か。私にとっては感情に任せて押し切ったり、人を裏切ったりできる方が、そういった行為を「感情的に」咄嗟に行なってしまえる人のほうがよほど特権的だと思ってしまうんだけどね。
ヒスってる人に対する冷笑ではないですよ。ただそういった行動には良かれ悪しかれ、共感が集まるものだという点に限っては羨ましいと思う。私の場合は共感すら集まらないことが多いから。
アンガーマネジメントが大事。ということも言われるけど、感情を吐き出せる力、というのも私にとっては一つの才能に見えるんだよな。
人間による二次創作は愛情から生まれるという擁護意見がある。しかし、愛情があるからといって原作者の意図や世界観への敬意を常に示しているとは限らない。
①のついて増田の考えは分かりました。
その上で「テロを認めることは、イコール民間人巻き込むことを前提にしてて
民間人を巻き込むことを前提にしたら、当事者間では民間人を巻き込むことに対する批判に正当性持たせること出来なくなる」からテロを前提としてるパレスチナの方がしんどいと思っちゃうって話
何言ってるのかよく分かりませんが「パレスチナの方がしんどいと思っちゃう」のは増田の感性なのでそういうものなのでしょう。
ただ、②について俺が聞いているのは「増田の主張する"戦争(増田の独自解釈)する"メリットはパレスチナにあるのか?」と聞いてます。
メリットないことやるはずないですよね?
釣りにマジレスするが状況や人によって対応方法が異なる。増田みたいなYesマンも新人のなんでくんも両方できるようにならないとあかんと思ってる。
以下はパターン
(1)土管くん
The営業というタイプ、お客さんからもらった質問をそのまま右から左に流してくる。こういう人になんで必要だと言っても無駄で「確認します!」しか言わない。元から自分で考える脳みそがついてないので諦めて回答に徹したほうがいい
(2)忖度さん
偉い人には背景や目的は確認しちゃだめだと思ってる。ただし実際にそれを言われたわけではない。無視して確認するところを見られると猛烈に怒るので諦めてYesマンになろう。あ、こっそり確認するのはやめたほうが良いです
炎上中の案件にはまず手を動かすべき。テンパっている人に「これはなんでやるのですか?」と聞くこと以上に油を注ぐ行為は無い。まず言われたことをやって、落ち着いたら背景とかを確認していくので遅くはない
(4)気分はもう芸術!
目的とか費用対効果を確認されるのがイヤっ!て人がいる。え、昔はもっと自由にやれてたって?会社の状況変わってるので対応してくれ~~~。ハレーション起こしまくり部署を転々として最後は会社をさっそうと去って行く。なにか聞かれても表面だけ回答しておいて関わらないのがベスト。病む。
このタイプが上司になると厄介で忖度さんと同じく指摘すると爆発するので矛盾を抱えたまま行動するしか無い。こころがふたつあるー。
部下だとめっちゃ指摘するのに自分に指摘が来るとぶつくさ言ってチームの士気を下げる。え、仕事楽しくないって?お出口はあちらです
(6)海外勢
これはちゃんと念押しレベルで聞いて確認しろ。文化や言葉の壁は思ってる以上に厚い。コミュニケーションの30%はコンテキストの世界なんよ。ここを放置すると最終結果で大きくズレることになる。やらないのは怠慢。
(7)0 = 0、1 × 0 = 2 × 0、両辺を0で割り、1=2、証明終了(( ・´ー・`))
いや屁理屈だから。独自解釈マンというべき邪悪。あらゆるルールを独自解釈によって書き換えてしまう。上司がこのタイプでダブルシンカーだとYesマンになるしかないが証拠は全部取っておくべき。バレたときに全部押し付けれられる可能性高し。
他にもあったら知りたい