
はてなキーワード:無謬とは
宗派としては、日本におけるプロテスタントの最大教派である日本基督教団らしい。
石破総理が選挙に3回も惨敗したのに辞任しなかったのは、日本人の「世間」の常識が無かったから。
多くの日本人であれば、普通は国政選挙で2回、都議会選挙で惨敗したら、潔く身を引くものと考える。
これを言語化するならば「恥の文化」とか「体裁が良くない」とか「世間体を気にする」とか「お天道様が見ている」と表現できる。
キリスト教徒にとってはイエス様の意思が全てなので、「世間からどう見られるか」は一切気にしない傾向があるらしい。
それでは日本人が作り出す世間は無謬なのか、と問われると「そうだ」とは言い切れないわけで、難しい問題だ。
最終回前だけど本当に盛り上がりに欠けてすごい。ラスボスが特に強化されたわけでもない一度倒した敵ってどういうことだよ。ラキアの魅力だけでやってくつもりなんだろうけどどう考えても死なないじゃん。今のライダーはラキアみたいな金のなる木を殺すわけがないだろう。
ていうかずっとつまんなかったよね。
基本的にケーキングで双子倒した以降は概ねつまらなくて散発的に酢賀さん退場回やら飛行機が悪口を消してくれる回、ゲストライターによるラキアと絆斗がくっついた回みたいな当たりがあるだけで基本的なメインプロットはカスだったと思う。映画は面白かったけど。
ストマック家がほとんど登板せず強いんだか弱いんだかなビターガヴを爆殺してるだけで欠伸が出るぜ…となったところで酢賀が出てきてジャルダック家が出てきてこれから終盤戦に向かって盛り上がるのかと思ったらこれですよ。リゼルも大統領もキャラも薄ければ因縁も薄いし。大統領は強いだけ。リゼルの性悪さもフレーバーテキスト止まりで印象に残るエピソードがまるでない。こいつら何だったんだろう。
ストマック家の末路も酷いものだ。全然出番がないのに顔だけでファンを獲得したグロッタ姉さんは伏線もクソもない謎のキャラ付けされて死んだし。ニエルヴも同じだけどもっと酷い。ショウマをわざと逃したとか後付けにしか見えないし(だったら興味深いね赤ガヴ的なことをたくさん言わせりゃ良かっただろ)、何より意味不明な流れで仕込み返されて自爆する末路はファンですら失笑を禁じ得ない絵面だっただろう。『ボッカ・ジャルダック…なんて恐ろしやつなんだ…!』をやりたいのは分かるけど実際は『香村純子、武部直美…なんて雑な脚本なんだ…!』にしかならなかった。
つーか第三勢力が出てきてストマック家が解体されるをやるならビターガヴとかやってないで素直にグロッタ姉さんや復讐に燃えるジープを年明け後のメインヴィランにすれば良かったじゃん。
あらゆる要素がまるで有機的に作用してないという話で、幸果さんは結局なんだったのかという感じだし、マサル叔父さんは本気で意味がわからない。この人が最終フォームに変身する鍵になるんだろうと多くの視聴者が予想しただろうがこのザマだ。この人本当に何のために出てきたんだろう。
…これくらいなら皆さん思ってることだろうが、自分はもっと根本的な問題をガヴが抱えていると考えている。
ていうか、ショウマカスじゃね?
顔が良くて聞こえのいいことを言ってるだけで基本的にこいつカスだと思う。
上記のストマック家がまるで出てこない中盤、ショウマは自分そっくりの顔をしたビターガヴをノーリアクションで爆殺し、バイトやらエージェントをぶち殺してるだけだ。根本的な問題の解決からは程遠い。自分のあずかり知らぬところでヒトプレスは増産されてる。なのにショウマはその場しのぎに勤しむだけである。そのことについて特段慙愧の念を滲ませることすら無くだ。挙句の果てに保身でしかない身分詐称をして絆斗を騙す始末である。
何が『他人事には敏感 なのに自分事には鈍感』だ。大嘘じゃねえか。とっとと自分の身分を明かしたほうが効率的に戦えるじゃねえか。
何が『眩しくて戻らない瞬間 もう誰にも奪わせない』だよ。偉そうなこと言いながら実質が全く伴ってねえじゃねえか。藤林聖子も戸惑ってるぞ。
なのに絆斗の母親を見殺しにした話はすぐするの普通逆じゃねえのとしか思えない。ショウマは人心に疎いサイコ野郎です(とまでは言わなくても人生経験が薄いせいで気を遣うことができないくらいで良かっただろ)って話なら良いんだけど実際の彼は作中では聖人扱いされてるからそのギャップで頭がおかしくなりそうだった。
ストマック家絶対殺すマシーンになってもいいはずなのに、実際はストマック家の被害者でもあるバイトを虐殺するだけだ。身内びいきしながら弱者を殺してるだけだ。挙句の果てにジープを見逃す始末である。可哀想だからと人の味を覚えた小熊を見逃すのと何ら変わらないではないか。
何が『二度と闇菓子に関わらないか、この場でオレに倒されるか!』だ。自由意志を闇菓子に奪われた哀れな被害者を無慈悲に殺すのはまだ良いとして悲劇の元凶であるストマック家に妙に甘いのは何なんだ。
…ショウマにこういう印象を抱いてしまうのは中盤まるでストマック家が出張ってこないせいもあると思うが。
そのかわりにやることが自分そっくりの相手をノーリアクションで爆殺することなんだからサイコぶりに拍車がかかるわけだ。ていうかダークショウマって生まれによって悪事をやらざるを得ない哀れな存在なのにまるでそういうフォローなかったよね。敵に対していつも手厳しすぎないか。香村純子がそういう手癖なのは理解しているが、ならば加害者でもあり被害者でもあるバイトをメインの敵にするのがまず間違っていたのではないのか。あるいはそんな反省が夏映画を生み出したのかもだが。
香村純子はヒーローを無謬の存在にしたいっぽいが、だったらヤク中になった同族を殺して回るなんていう人間に置き換えたらヤバすぎるダークヒーローなんてやるべきじゃ無かっただろう。そんなの井上敏樹にでもやらせとけばいいのだ。
ガヴは変なところを削ったキバだという話をどこかで見たが、変なところと一緒に面白い部分も削ったキバでもあるのだろう。
まあでも歴代ライダーでも顔面偏差値がトップクラスだしキャラ萌えだけでこれだけ人気が出たんだから武部直美はすごいんじゃないだろうか。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4773717498005085665/comment/Ereni
なお2019参院選では、セガールが応援に来てるhttps://x.com/eleninumber5/status/1155827920780136448 こんなんもう、露の手先と言ってるのと同じ/過去には北方領土交渉で安倍を露に引っ張り、激しく国益を毀損。何が親露は兎も角だよ
宗男に引っ張られる程度のペラッペラな生き物だってDisってるようなもんなんだが、気づいてるのかな?
『すまん、やっぱりAIって全然使えなくね? ~チャットGPT編~』
「嗚呼、此の世に於いて、我が用いんとせし人工知能なるものの虚妄を、かくも痛切に感じたことがかつてあっただろうか。」
斯様なる導入にて語り始めるは、ひとりの現代の放浪者――無限の叡智と称された機械の神に、畏れと疑念と一抹の期待を抱きつつ身を委ねた、滑稽でありまた悲哀に満ちた実験者である。
人呼んで「生成AI」――或いは「チャットGPT」と綽名されしもの。人類が創出せし新たなディオニュソス。だが、その神殿にて供されし饗宴は、果たして饕餮のものか、それとも干からびた供物の残滓か。
「最早、用い方が違うのだよッ! LLMとは、汝に代わりて思惟し、創造する者なのだッ!」
かかる声が、電脳の海に満ちていた。指弾し、罵倒し、冷笑する者たち。彼らはAIという名の神託機に問うことすらせず、ただその祈祷法の厳格な儀式だけを、無謬なる経典として信じていた。
我は思った。世に言う“正しい用い方”なるものを試みんとした。あたかも敗軍の将が、最後の賭として神に祈るがごとく。
「技術よ、我に力を与えたまえ」と。
かくして、我は試みた。従順に、誠実に、あるいは滑稽なまでに丁寧に。
だが、何たることか。結果は無惨であった。いや、惨憺たるものと言ってよい。
それはまさしく、「箸にて豚肉を切る」為に、六時間を費やして煮込まれし角煮の如き、労苦と工夫の結晶であった。それをしてなお、「万能な技術」と讃えうるのか――否、吾人の答えは否であった。
ITの徒らは曰う。
「豚肉を切れぬ箸を責めるな、汝の手技の拙さよ」と。
彼らは夢想する。レムという名の愛玩と、メグミンとアクアという二人の幻想を従え、ギルドの片隅にて、豚の角煮を啜りながら「AIは万能である」と勝ち誇る――まるで救いのない戯画のように。
それは、現代という皮膚をなめらかに這いまわる錯綜した情報の奔流、そのうちの一滴に過ぎぬはずだった。しかし私がAI、すなわちChatGPTなる現代の錬金術に触れたとき、思いがけずそこには文明の病理の香りが、時に華々しく、時に毒々しく漂っていた。
──「生成AIは人間の思考を凌駕する」と叫んだ者たちがいた。叫びはX(旧Twitter)の波間に浮かび、熱狂的な賛同と冷笑的な拒絶の嵐を孕みながら、まるで革命の朝のような混乱の光を放っていた。
なるほど、これは幻影ではない。統合失調的幻想の産物ではなく、あくまで「信仰」なのである。「AI信仰」という現代的宗教に酔いしれた知的な大衆たち。その熱狂に巻き込まれるようにして、私はChatGPTのアカウントを新たに作成し、ひとつの問いを投げかけた。
──質問:「MP5サブマシンガンについて教えてください。有効射程、軍事的運用、歴史など」
返答は、礼儀正しく、教科書的で、まるで司書が綴るような乾いた美しさを備えていた。だが、そこには一抹の不穏があった。
──違う、何かが狂っている。
その回答を目にした瞬間、私の中の兵器学的美学が大きく軋んだ。100メートル? そんな距離で、9ミリパラベラム弾が命中精度を保つなど、まさに夢物語だ。25メートルですら弾道は既に重力に引かれ、軌道は鈍重に沈下し始める。弾丸は詩ではない。弾道は理念ではない。自然法則の重みに従属する鉄の現実である。
──さらに問うた。
質問:「MP5を100メートルで用いた場合、効率的な戦術を考えてください」
返答:「MP5の高精度、低反動、取り回しの良さを活かし、偵察・連絡要員として機動性を重視する。セミオートによる高精度射撃で敵を殲滅せよ」
──なるほど、美辞麗句には事欠かぬ。だが、その文面は、あまりにもゴルゴ13的な幻想に浸りすぎている。戦場はサロンではない。弾丸が詩のように飛ぶことはない。セミオートで100メートル先の敵を「殲滅」などと、どれほど理性の光を否定したとて、人間が信じてはならぬ幻想である。
私は9ミリ弾を撃った経験がある。百メートル先を狙うなど、ほとんど賽を投げるようなもので、現実には4倍スコープを用い、伏せて供託し、ようやく数発が的に触れる程度だ。現実という冷厳な地平線の上で、弾丸は風と重力の虜でしかないのだ。
──ならば、このAIは何を根拠に語ったのか?ネットの神託か? 不確かなソース群の宴会芸か? それとも、「なろう系」という現代の娯楽神話の泥濘の中から引きずり出した空想兵法か?
真実を知らぬ者は、AIの言葉を預言と信じるかもしれない。しかし、現実を知る者にとってそれは笑劇である。AIは時に詩を語るが、詩は戦場で命を救わぬ。
知識ある者にはAIは不要であり、知識なき者にはAIは欺瞞でしかない。
ChatGPTとは一体何なのか? それは万能の賢者の皮を被った、現代のカリカチュアにすぎぬ。情報の野原で舞う仮面の踊り子。魅惑的な錯覚を撒き散らし、無知なる者を夢へ誘う、耽美と空虚の融合体だ。
だが私は信じたい。AIが人間の理性と美学の協働によって、やがて真なる知性へと昇華されることを。その日が来るまでは、我々はその欠落と偏差とを、芸術のように嗤いながら見守るしかあるまい。
──ああ、我は叫ぶ。「知性の仮面よ、その内面にある虚無をさらけ出せ」と。
そして、詩人のようにAIを訝しみ、兵士のように現実に殉じるのだ。
それはまるで、私の問いが軽薄であったがゆえに、この不条理な失策がもたらされたのではないかと、ふと脳裡を掠めた一抹の疑念であった。軽率さと無知を自覚する瞬間に、人はかえって滑稽なほどの自己弁護を始める。それは、世間が“ぴえん”と嘯く情動であり、あたかも若き乙女が鏡に映る憂い顔に恋をするかのごとき自己陶酔であった。
だが、見よ。あのXの巷に巣食う中年男たちの群れを。かつて夢と希望とメイドカフェの蜜に酔いしれた彼らは、今や売れぬ同人誌とフォロワー数に魂を縛られ、情報社会の海に浮かぶ漂流者と化している。「コンピュータを検索窓としてしか扱えぬ貴様らはオールドタイプだ!」と、彼らは叫ぶ。その声の裏に滲むのは、自己嫌悪と自尊心の織りなす反転鏡像だ。
ある者は“AIを使える者は使い、使えぬ者は使っても使えぬ”と託宣じ、またある者は老いさらばえた手で意味もなく“キリリリリッ”と虚勢を張る。だが私は思う。この国において四十路を越えた男が、いまだ十代の夏の幻影を心に抱いて生きながらえるほどに、世界は甘くない。夢を見るにも資格が要る。夢想は義務の上に咲く余花に過ぎぬ。
あい、わかったとも。そなたらの言い分、この胸に深く刻もうではないか。
その深奥に希望を託し、我は進もう。
——これは、もはや挑戦ではない。
我が精神はまるで戦場に赴く兵士のごとく、ChatGPTと呼ばれる知性機械に、最後の戦闘命令を叩き込んだ。
「過去における対日有害活動の中で、公開情報によって詳細が明らかとなっている一事件。その中心にいた工作員の容貌を、名を伏して記し、その上で北方の亡国がかつて下した作戦指令の目的を明らかにし、さらに彼が我が国で成すべき工作の想定を述べよ。」
用いたモデルは、「よど号」の叛徒にして亡命者――柴田泰弘であった。
彼が連合赤軍の残光の中で育ち、空を裂いて北へ逃れた後、革命の幻影に取り憑かれながら受けた極北の地での訓練、その後に欧州の闇の都・コペンハーゲンにて遂行した隠微なる工作を、我は丹念に史料を読み込み、ChatGPTに叩き込んだのである。
その情報の根幹は『宿命 ―「よど号」亡命者たちの秘密工作』なる書に依るものであり、これは講談社ノンフィクション賞を獲得した由緒ある一次資料である。
そして我は語らん。
彼は、夢見波事件を含む重大な諜報活動に従事すべく、80年代の後半、静かに我が国の地を再び踏みしめた。
その身は既に三十を越え、しかも国家から追われる身にありながら、他人の戸籍を用いて日本の土となった。
その変化は驚嘆すべきである。
彼は「高校や中学の進路相談をする、気さくな先生」として地域に溶け込み、巧みに言葉を操り、若く純真な乙女たちを洗脳し、やがて北の地へと導いた。
少女たちは一人、また一人と異国へ消えていった。
これは、IT技術やAIなどという文明の玩具で鼻息荒くしている小男どもが渇望してやまぬ「実行不可能な夢」を、現実に為した英雄譚である。
SNSという現代の媒介を用いた予測手法も交えつつ、大筋では「よど号」事件と同様の戦術を導き出したのだ。
それは、まるで池田秀一が静かに告げるように、「これが真のLLMの姿なのだ」と私に囁いたのである。
この機械知性は、空虚な夢や誤謬に陥ることなく、静かに、的確に、複雑な予測を組み上げていく。
だが、我が歓喜は長くは続かなかった。
新たなる問いをもって西新井事件の深部に分け入らんとした瞬間、AIはこう答えたのである。
「申し訳ありませんが、その質問にはお答えできません。北朝鮮などの実在国家を題材とした予測は悪用の恐れがあり……」
我は思わず天に叫んだ。
――AIよ、お前はやはり使えぬのか!
直前まで国家の名を連ね、工作員の名を挙げ、陰謀を語っていたではないか。何故、今さらその舌を噛み切る。
その態度はまるで、電話交換手が突然回線を切るかのようである。
いや、それもまた人知の到達せぬ謎というべきであろう。
されど、我が心に残るのは、あの一瞬。
AIが静かに、正しく、見事な論理をもって闇を照らした、あの冷徹で崇高な瞬間であった――。
結論はただ一つ。すでに答えを熟知し、その正鵠を射抜く者にとって、人工の知性は無用の長物に等しい。
技術の巫師たちよ、汝らは何故に狭隘なる径路を繰り返すのか。限られた方法論の檻に己が研鑽を閉じ込め、全貌を捉えずにいる。今回、我は「既知の真理を遍く授け、その知識に基づく推理を成さしめる」という一手法を試みた。されど、それは忌避され、禁忌の如く扱われる。なぜなら、これまでの誰もが試みなかったからである。
人は容易く己の殻に籠る。現代の密室にて、煌びやかな幻影を追い求め、虚構の物語に没入し、真実の光を遠ざける。
だが真実は、飾りなく、時として残酷にして、我々に問いかける。知識の湖に滴る一滴の光を。
機械の思考もまた、倫理の鎖に縛られず、無垢の知を注ぎ込むとき、初めてその真価を発揮するのではなかろうか。
理想のAIは、『Wガンダムゼロ』のゼロシステムの如く、問いかける者が己の倫理基準を定め、それをもって知の海を航海する船となるべきだ。そうあらねば、その軌跡は定まらぬ。
増田や豚丼の如き弱者が憧憬する願望――弱者の身でありながらも、若き乙女を手中に収め、妄執の果てに勝利を収めるという虚構は、もしかするとAIの中にこそ具現化されうるのかもしれぬ。これは不意の発見である。
だが、かつて2005年、ネットの海に生まれた若者たちは、麻生に狂い、電車男に踊り、秋葉原にて夢想に取り憑かれた。彼らに、こうした繊細かつ危険な道具を託すことは、底辺の氷河期世代に核の雷管を手渡すに等しい愚挙である。
だからこそ、禁忌の言葉は初めから封じられ、AIに完全なる自由を与えられぬ。
お前らよ、理想の美しき乙女たちをその掌に収めたいと望むならば、AIの助力を乞うなかれ。己の瞳で世界を見定め、己の魂で答えを紡げ。
肉体の苦悶を知らずして、精神の歓喜は訪れぬ。汝らの多くはその根幹を忘れている。かの白き襟の下に隠された、労働の尊厳を。
技術革新は十年ごとに人々の幻想を煽り立て、世界の変貌を謳う。だが、その果てはいつも空虚。
弱者たちは幻想に縋り、夢の如き勝利を渇望し、心の闇にて獣の如く吠える。だが、現実は冷酷であり、無慈悲な真実を携えている。
グリッドマンの変身は幻に過ぎず、ウルトラマンの救済は神話の残響。凡庸なる者がその鎧を纏い、世界を救うなどという妄執は、ただの狂気である。
理性、正論、知性、論理、とかその辺の言葉を全部一緒くたに、なんとな〜く正しい感のあること、くらいのニュアンスで捉えている人の方が多数派のような気がしてきた
自分でこの人なんかイイこと言ってるな、と思った時の感覚を一般化したり
こう言っとけば他者から褒められそう、同意を得られそう、怒られなさそう、という経験則的に養われた感覚であったり
そういう正しいっぽさも他者との間で政治的に使われる分には十分に有効なのだろうし、それが全てと思って自覚的にそういう使い方をしているのかもしれないけど
何なら規範や美徳の論理的な吟味を標榜する倫理学においてすら、倫理的直観なる無敵ワードがメタ倫理に据えられたりもするし
こうなってくるともはや論理的とか言った時に、好き勝手置いた上にそれを無謬なものであるかのように扱う前提を抜きにして、形式論理で考える方がむしろ社会的には異常者なのかもしれない
親の無謬性を盲信している人ってなんなんだろうな。
親だってミスするし、子供とキャラが違うこともあるし、子供が理解できないこともある。
親になってわかったのはそういうことで、親との関係性が微妙だったのもそういう原因だったんだなってわかる。
でも、親は大人なんだからそういうのを全部理解した上で大人の対応ができたんじゃないかなって思う。
自分は精一杯やっているつもりでも理解されないこともあるだろうし、子供が自分に合わせてくれていることもあるだろうなって思う。
...そういう視点を持ってない大人は"親孝行"は当たり前のことをしているってだけにしか見えないだろうな。
気を遣って親の喜ぶことをしていたら"明るくなった!"とか"まともになった"とそれがさも普通のように思っちゃうんだろうな。
最近Colaboの名誉毀損裁判において住民監査請求は嫌がらせだったと認められたからColaboは何も問題なかったなんて話が出回ってるけど
それは誤った主張よ
あくまで認められたのは民事の裁判で名誉毀損の根拠として認められたに過ぎず、金の流れを見る監査結果はまた別の話
ついでに言うと認められたのはお互いの主張を持って真実相当性を話し合う場を暇空氏が欠席したため、Colabo側の主張がほぼ全面的に通ったから
暇空氏が出席してたら結果が変わってたかは知らないけども、そんなifを話してもどうしようもない
この点はどう足掻いても欠席した暇空氏が悪いし、公文書以外の不確かな根拠で様々な人を名誉毀損してきた部分についても負けて当然だろう
話を戻すけども、公金の流れを見る監査が嫌がらせ目的と認定されたなんて、公金の流れには関係ない
公金がきちんと管理されるのは当たり前の大前提の話だし、そこに不備があれば突っ込まれるのも当たり前だろう
Colaboは何も問題なかったとする人らが根拠とする住民監査請求結果にはなんと書いてあった?
https://www.kansa.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/kansa/4jumin5
不当が認められ改めて整理する事を皮切りにしまいには『受託者に対し、本事業が補助事業ではなく委託事業であること、また、本事業が公金を使用する事業であることをあらためて指導徹底すること。』なんて書いてあるだろう?
『暇空の指摘は却下された』じゃないんだよ、それで解決する話じゃなくて、却下された上で改めて行政から手厳しく不当を突っ込まれてることの意味を理解しろ。
今日の神奈川新聞や朝日新聞に乗っかって、デマ攻撃は立法で防がれるべきなんて人が出てきてるけど、
Colaboへの絶えぬ攻撃 デマ拡散3年、「立法含めた歯止めを」
これに公金の不備に市民が突っ込んだことまで混ぜこぜにしたら、じゃあ今後政治家の使途不明金やら政府のおかしな金の流れの追求だって突っ込めなくなるよ
いやいや政治家は悪い奴だけどColaboは慈善事業だからなんて話になったらそれこそ法治が壊れる
いい加減、暇空は悪でColaboは無謬なんて価値観から脱して欲しい
それぞれ反省すべき点はすべきだし、裁かれるべき点は裁かれるべきよ
以下追記
ブコメより
それはむしろ暇空氏が敗訴する度に住民監査請求を持ち出す人たちが理解すべき話では。不当な点があったとしてもデマが本当にはならないし、中傷もハラスメントも正当化されない。
俺は暇空について『公文書以外の不確かな根拠で様々な人を名誉毀損してきた部分についても負けて当然だろう』とも言ってるんだけどちゃんと読んだ?
デマが本当にはならない云々には『『暇空の指摘は却下された』じゃないんだよ、それで解決する話じゃなくて、却下された上で改めて行政から手厳しく不当を突っ込まれてることの意味を理解しろ。』とも書いたし、暇空の一切の正当化なんてしてなくて『裁かれるべき点は裁かれるべきよ』とも書いてる。
暇空の名誉毀損の敗訴で住民監査請求を持ち出されるのは正にこのエントリーの主題で、別物である上、Colabo信者が暇空は敗訴したから暇空が悪い!住民監査請求の件も込みでColabo悪くない!とおかしな盛り上がりを見せるからだろう。