
はてなキーワード:無力感とは
無力感は自然発生しない。制度・文化・心理の三層構造で精密に設計される。
以下の条件が揃ったとき、民衆は自ら行動を放棄し、支配に従う観察者となる。
投票・請願・抗議などの政治行動が、結果に直結しないことを繰り返し体験させる。
政策決定過程を複雑化・専門化し、「誰が責任者か分からない」状態を意図的に作る。
官僚・委員会・審議会を盾として前面に出し、政治家も国民も責任を回避する構造にする。
このとき、行動のコストが期待値を上回り、最適戦略は何もしないことになる。
「空気を読む」「和を乱さない」といった規範を教育とメディアで再生産する。
異論者を敵ではなく変人として扱う。社会的排除は暴力よりも効果的だ。
「成功は適応の結果」「不満は努力不足」という道徳を浸透させ、構造批判を個人の失敗に変換する。
→ この段階で民衆は自らを検閲し、互いを監視する。支配者は沈黙の群衆を得る。
メディアが問題を連日報じながら、解決の物語を決して提示しない。
SNSが怒りを即時発散させ、組織化を阻む。怒りは行動に変わらず、ただ消費される。
エンタメ化された政治は、抵抗を観賞に変える。人々は現実を変えるより、実況することを選ぶ。
→民衆は自分の生活を「誰かの物語」として眺める。これが観察者化の完成段階である。
その瞬間を測る基準は次の三つだ。
【基準1】
支配の言説が自己責任の形で内面化された瞬間、抵抗は消滅する。
【基準2】
監視と同調が自動化され、権力が介入せずとも秩序が保たれるとき。
【基準3】
自らの鎖を秩序と呼び、その枷を守るようになった時、支配は完了する。
無力感の制度化とは、力の外的行使ではなく、意志の内的従属化だ。
人付き合いが苦手だったし、嫌われやすい人間だった。必死になってやり取りをしてもすぐに自分のコントロールが効かなくなって、馬鹿をやっては嫌われてを繰り返して無力感ばかりが募った。
生きている理由がわからなかったし、誰とも仲良くなれる気がしなかった。誰も味方なんかにはならないだろうと自分でも思ったし、思っている。
だから、それでも生きていていいと言ってくれる何かを探していくうち、一番最初にリベラリズムに触れたのはロールズの『正義論』あたりだったと思う。
『この前提を置けば、誰一人として不利にならないようにルールを作ることができる』『自分がその他者であったら受け入れられない差別は排除しなくてはいけない』
自由、人権、正義という言葉の裏側に積み重ねられた様々な概念に救われた気になって必死になって追いすがって、あちこちで言われるあらゆる何かに反論がちゃんとできるのかどうかを試しては自分がここに居ても殺されないで済むのかをずっと探し続けていた。
吊られたくない、他人に迷惑をかけることしかできないけれどそれでもどうにかどうか自分を殺さないでほしいと説得するがためだけの論理が自分にとってのリベラリズムだった。
当然ながら、それは理論だった。俺も理論が好きだったから、少なくともそれ以上を求めなかった。
でも思ったより世間の『リベラル』はリベラリズムと関係が薄かったし、理論をいくら束ねても人間は思っていたよりも説得されてはくれなかった。レトリックで誤魔化して生きていく方法もあったのかもしれないが、俺にそういう実力はなかった。
何度も何度も繰り返し考えていくうちに逆に、逆説的に、俺を生きていていいと言ってくれるものが何も無いとするならやはり俺はいつかそのうち吊られてしまうし殺されてしまうし苦しむことを望まれて丹念に追い詰められて殴られて痛めつけられてしまうしかないということになるから辛くて怖くてなんとかしてほしいからずっとそう考えて理屈を必死に追い求めているのに、誰も本当は、そんなことをどうでもいいと思っている人達ばかりが『リベラル』の話をしているような気がしてならなくて仕方がない。
ものすごく最近の具体的な話に落とし込むと、例えば労働時間の規制緩和の話。
緩和に吹き上がるのは俺もそうだけど、労働時間が長くなると体力が少ない俺は余計に苦しむから嫌なんだけど、でもその『働き方改革関連法』をやり抜いたのは第2次安倍内閣だってことを解ってるんだろうか? 平成20年ごろからまともな上限規制のなかった労基法を改正したのがそうだってことを解ってるんだろうか? (後で骨抜きにするつもりだったのかもしれないけれど)高プロも使用率が凄まじく低いままで、結局あの改正は素直に見て労働者に有利という点で、(新自由主義的な話はともかく)『リベラル』として決して否定するべき要素ではないし、むしろどうしてあれが過去にできなかったのかというのはあまりに恥ずべき話なんじゃないのかって思うし、それを否定することも(緩和を否定するのであれば当然に)すべきじゃないだろう。
でもするんでしょ。党派性だからって、仲間のためだからって。俺は仲間なんて作れないから自分の理論が間違っていないかだけしか興味がないからずっと自分の言うことが矛盾してないかいつも怖いし、実際いつも矛盾しているのがすぐにわかる。いろんな内容を見ているうちに自分の考えることが感情だけで理屈が立たなくてその感情で殺されるしかないんだからと必死にそれを止めるしかないのにうまくいかなくて今もまともに頭が整理できないままこうやって書いてるんだけど。
わかるんだよ。信頼できないメディアがどっちにも大量に溢れかえって、情報の価値がとんでもなく重たくなったくせにそれを吟味するだけの余裕も余暇も普通の人達にはない(それは生活のための必然であって罪なんかじゃない)んだから、そうなれば人は信じたい方を信じるっていう積極的相対主義みたいな有り様になってるってことだからさ。
でもだとしたらあまりにも俺が救われない。俺のことしか興味ないもの。俺は吊られるしかないと思うと怖くてなんとかならないかって必死に理屈を探しているのにそれでもどうにもならないっていう結末ばっかりが目に入るし眼の前でそれを振るおうとする人たちばっかりで俺は怖くて何も言えない。
26年間生きてきて、ずっと子どもを持つことに肯定的になれなかった。
子どもを産むということ、つまり、一人の人間の人生のスタートボタンを強制的に押すということは、喜びや楽しいことと共に悲しく苦しいことも生み出してしまう訳で、それが正しいことなのか分からない。
私は比較的恵まれた環境で育ててもらったと思うが、定期的に猛烈な劣等感や無力感に苦むことがあり辛かった。目標や自分との約束、達成できたことないかも。計画もいつも途中で頓挫する。次こそは間に合わせるぞと思って前々から計画を立てるが、いつも締切ギリギリで間に合わず自分が嫌になる。得意なこと、これといって見当たらないし生まれてきた意味が分からず消えてしまいたいと何度も思った。人生の楽しみ、喜びはこれだ!と思うものも見つかっていない。
そして、何より怖いの1度子持ちの人生を選ぶと戻れないこと。後からやっぱり向いていないと気付いてもどうしようもない。
一方で、人生に生きがいがほしいと思うことが増えた。毎日の生活に何か楽しいことがほしい。
この心の穴を埋める方法の1つが子どもなのではないか。一人の人間が成長する様をサポートし傍で見守るというのは大きな喜びに違いない。
…ここまで書いて気付いたが、やっぱり私は子どもを持つべきではない。エンタメじゃないんだから。
私が楽しそうにやってたら、小1の長男が俺もやってみたいっていうから貸して、2人でやってる。
ポケモン捕まえるのは私より長男の方が上手いくらいで、私が捕まえられなかったデリバード捕まえてくれた。
私がデリバード好きで部屋にデリバードのぬいぐるみ飾ってるから長男も私がデリバード好きなの知ってて頑張ってくれたんだ。
捕まえてくれたの私も嬉しくて、長男にお礼を言ったら長男も嬉しそうだった。得意げな顔がかわいかったな。
それはまあ良いんだけど、SNS見てるとレアな色違いとかそういうのがいっぱい流れてくるだろ。
攻略とかレアなやつとかそういうのがたくさんいいねされてて、私はゲームの中で下層だなって思っちゃうんだよな…。子供とゲームした思い出なんてすごく尊いもののはずなのに。
ゲーム内でこんなことできた!みたいなの、まあ今の世の中攻略見たらすぐ誰でもできるもんね、みたいな気持ちになっちゃう。
何なんだろうこの感じ。
でも私は世界に何も発信していない。誰からもいいねもない。価値あることのはずなのに、なんか自分の経験はいいねが多い人の経験より価値がない気がしちゃうんだ。
何をするにも全部自分より上がいるのが見えるだろ。その無力感というか。
なんか虚しいよな。幸せなんだけど自分なんてな…って思っちゃう感じが嫌だわ。
「世田谷区とは言っても千歳烏山だよ〜? 全然お嬢様じゃないよ〜」と彼女は謙遜して言うけど、地方のクソ田舎出身の私からすればそもそも東京に住んでいる時点で上級国民なのだ
貴族と言っても過言ではない
A子は本当にいい子だと思う
ゼミが同じになったというだけで私みたいな芋臭いデブスとも仲良くしてくれる
とにかく愛想が良く、気遣いがうまく、それでいて押し付けがましくない
ユーモアもあり、教養もあり、都会的な洗練された振る舞い方をしている
はたから見れば私のような上京したての芋ブスごとき、こんなお嬢様によくしていただいたって時点で頭を下げて感謝すべきだって話なんだろうけどA子と話していると時々どうしようもなく疲れてしまう
いや、疲れるというのも適切ではない
疲れとイライラと無力感を足して割ったような、そして時々A子を刺し殺してやりたくなるような、そう言う気持ち
田舎者の僻みだと言われればそれまでだけどA子に対して今までの人生でもほとんど感じたことのないような憎しみを抱くことが時々ある
友達になってすぐ、大学の帰りにゴンチャを飲みに行ったことがあった
地方クソ田舎出身の私はほとんどゴンチャの実店舗に行ったことがない
用事があって家族と最寄りの地方都市に行った際に寄ったことはあったけど友人同士は初めてだった
田舎者の私にとってゴンチャに行くのは一大イベントであり、憧れであり、特別なことなのだ
会話の流れでそのことをA子に話したらA子は「ええー!それならもう毎日行こうよ」と冗談めかして言った
「毎日はともかくシーズンごとに行こう」「新作がでたら行こうよ」と
A子は話の流れで「中学のときに友達とよく通ってた」「高校に入ってからは太るからあまり行かなくなった」と言っていた
脇からすーっと男が寄ってきて「おねーさんたち、いまひま?」「飲みに行かない?」と声をかけてくる
私は本当にびっくりして「こんな漫画でしか見ないようなことほんとにあるんだ!」と感動半分、恐ろしさ半分といった気持ちになっていた
時間にして20秒くらいだと思うけど私にとってはあまりに衝撃的すぎて今でもあの男の顔、セリフの一つずつを正確に思い出せる出来事だ
「本当にナンパっているんだね!」と感動して伝えるとA子は「あんなのしょっちゅうだよ」と苦笑いしていた
「どこにでもいるよ、あんなの」「夜に駅を歩いてたら絶対に1回は声をかけられるよ」「明大前くらいまで行けば流石にあまりいないね」と
「居酒屋奢るから一緒に行こうって相手に言われて、「私、高校生ですよ?」って伝えたら「え!ラッキーじゃん!」って叫ばれたことがあるよ、いろんな意味で倫理観終わってるでしょ」
A子は笑い話としてこともなげに言う
高校生にこんなことを言う男にドン引きしたし、もし私の地元で同様のことが起これば全校集会で注意喚起されて警察のパトロールが増えて近所一帯全員1ヶ月はこの話をし続けることになるだろうと思う
でも、東京で青春を過ごしているA子のような女子中高生にとってはこんなの日常茶飯事で、ナンパの躱し方くらいは常識らしかった
夕飯はホテル内にある高めな雰囲気のレストランに行くことになっていた
「大学生ならこういうのを一個を持ってなさいってお父さんが買ってきたやつだよ」
「使う機会ないと思ってたけどこういう機会があってよかった」
私は田舎者なのでロエベなんてブランド知らなかったからその時は「ハイブランドなの?すごいね!」と調子を合わせてた
ホテルのペラペラの浴衣にロエベのポーチを手に持ったA子の姿は今でも鮮明に覚えている
一方で私のポーチはZOZOTOWNで適当に買った謎ブランドのそれ
そもそも旅行に行くって話を聞いてから私はお金を稼ぐためにガールズバーでバイトしていたけど、実家暮らしのA子はきっと旅行の費用は全部親から出してもらっていたのだと思う
ブランドと言えばA子に服を買うのに付き合ってもらったこともある
地元にいた頃は服は基本ZOZOTOWNでブランドも見ずに買っていたし、上京してしばらく経ってもそれは同じだった
でも東京にいて友達と遊べば色々なブランドの色々な実店舗を目にすることになる
それでA子に服選びに付き合ってもらった
色々悩んでナノ・ユニバースのなんてことはない1万円以下の上着を買ったけど、きっとその時A子の身につけていた服装はもっと上の価格帯のものだったんだろうな
「なんでこんな中高生が着るようなブランド買ってんだろ」って内心バカにしていたのかもしれない
私がこんなクソ田舎の僻み根性丸出しにして劣等感を抱えていることを察してもいない
高校生にもなって「夜8時頃うちの学校の生徒が〇〇街近辺をうろうろしていたそうです! きちんとおうちに帰りましょう」なんてクラスのホームルームで注意喚起されるような環境も
校則で男女交際が明確に禁止事項として挙げられていて、誰かと誰かが付き合ってることがバレれば先生に呼び出されるような環境も
放課後にやれるのは部活くらいなものでふらっと遊びに寄れるような施設すらない暮らしも
A子は言っていた
高校時代に付き合っていた彼氏が結構遊びに行きたがる人だったからそのおかげでこうして新宿の街案内ができていると
行きつけのカフェもレストランもその彼氏と通い詰めたところだと
「新宿は歌舞伎町のある方より西口の方がいいお店たくさんあるよ」
「ビジネス街だから殺風景だけど美味しいご飯食べたりお茶をしたりするだけなら絶対西口の方がいいよ」
新宿西口を「殺風景」というような価値観なんて私には一生かけても獲得できないと思う
こういう、何の抑圧も受けずに欲しいものはすぐ手の届く範囲にあってぬくぬく育ってきた東京育ちの、それ故の優しさや気遣いって本当に鼻につく
こういう人種の厄介なところはこっち側が僻んでいるだけだから責められないというところ
A子のせいで私は散々傷つけられているのに、こういう傷つきもすべて私の性格の悪さのせいにされてしまう
彼女は、「勉強配信」の休憩時間に、「なぜ一部の動物は腐った肉を食べても平気なんだろう?」という話題が出た。
その話題を彼女自身で出してすぐ、彼女は矢継ぎ早にこう語った。
「腐った肉から毒素が出るのはさ、生物から免疫機能が無くなったことによって、分解が始まったときに、毒素とかが出るんでしょ。それを食べたらいけないから、みんなは食べないようにしてるけど、それを(一部の動物は)食べるってことだよね」
私が驚いたのは、彼女がこの話を、「特に考えたふうにでもなく」しかも「勉強の合間の休憩中に」ぺらぺらと喋ったことだ。頭がいいとかそういうことじゃなく(いや頭もいいのだろうが)、とにかくこの人は「考えることが全く億劫ではない」のだなあと感じたのだ。
付け加えておきたいのは、彼女は特別化学に興味がある風でもなく、始終こんな感じだった。「あらゆることに興味がある」と言い換えてもいいのかもしれない。
この、時間で言ったら5秒もかからない配信中の一瞬で、わたしはあまりに自分との差を感じて衝撃を受けてしまった。
もし自分が「なぜ腐った肉を食べても大丈夫な動物がいるのか」と訊かれたらどうなるか。間違いなく「う~~~ん」としばらく唸った後、特に何か考えがまとまることもなく「分からない」と白旗を上げるだろう。
分からないことは重要ではない。彼女も最終的な回答は分かってはいなかった気がする。しかし彼女は0秒で素朴な疑問から「化学の視点」に問いを切り替えてみせたのだ。厳密な正しさは分からないが、この問いの変換は一見確からしくみえる。この時点で解法を知らない問いへのアプローチとしては十分だろう。つまり、彼女は私と違ってすぐに一歩考えを深化させ解に近づいている。
この違いが人生にどれだけ影響するか。ぼやぼや生きている自覚はあったが、普段から考えている人はこうもスピードが違うのか。これでは何を進めるにも何を学ぶにも10倍100倍違うだろう。
この「頭を使うのが億劫ではな」く見えるような性質は、どうやったら身に付いたのか。まるで想像がつかず、ほとんど持って生まれた性なのではないかと、近頃はぼやぼやとした無力感が漂っている。
ブラボーおじさんという存在がいて、こういうの女性はいない、おじさんばかりといわれてるけど
外国でオペラ・バレエ・クラッシック・演劇等見に行ってそういう迷惑客がいたことないよ
ナポリとローマの客のうるささの差とかはあるけど、日本みたいに幼児に言い聞かせるような注意事項ないもんな
サントリーホールで拍手のタイミングまで指示されてるのにホントびっくりしましたわ
<日本アナウンス問題>もあって、駅、ホーム、空港、あらゆる場所でうるさいほどご注意喚起アナウンスがあるのも体験した中では日本だけ
アジアはうるさいのかなと思ったが、台湾は全然そんなことなかった
日本人は耳があまり繊細でないから平気なのかもしれんけど、ちょっと異常だよ
言われないとわからない、明記ルールされなければ何をしてもいいと思う、がゆえの過剰な掲示やアナウンス、わりと、民度低いよね
で、そういう無神経な民度の低さから迷惑行為に走るのはたいてい日本のおじさんと予備軍
なんでかといえばやっぱ甘やかされているからだね
男が男にモノをいわないでナアナアで済ませたがる伝統芸から生まれたマイナス点
男のもたれあい社会では個で完結する豊かさがなく男に認められて爪痕残すのが大事じゃん?
これは日本以外でもそうだけど日本は特にムラだからその傾向が強い
オタクのエロチキンレースとか盗撮犯が盗撮仲間に認められたかったみたいなのと同じな
他人に迷惑をかけても、いや、法の範囲で迷惑をかける事で支配欲や無力感を慰めてるやつ
むろんその伝統芸にはプラス面もあるわけだけど、開かれた社会では無用な村社会慣れあい芸みたいなもんだからさ
ブラボーおじさん単体じゃなくちょっと大きく分析した方がいい問題じゃねーの?
何を今さらわめいている。「AI作文で賢くなったつもりのバカ」だと?冷徹に事実を見てみろ。
「AI作文」とやらも、結局は道具に過ぎん。道具を使って成果を出す人間と、道具を罵倒するだけのお前、どちらが「賢くなったつもり」のバカか?
道具を使いこなす知性を持たず、その進化をただ遠巻きに見て喚くだけの姿勢は、まるで自己の無力感を公共の場に垂れ流している自己放尿と同じだ。みっともない。
AIが生成した文章から情報を抽出し、それを理解し、自分の知識として再構築する。その過程で、マクロな現象の裏に潜む量子論的な本質まで把握できるなら、それは真に賢くなったということだ。
お前はただ、自分の頭を使わず、新しい道具の力を借りて先に進む者を「ズルい」と非難したいだけだろう。
そんな感傷的な足踏みをしている間に、世界はとっくに超電導ワイヤーの中の電流のように、集団的な力で次の技術的な障壁をトンネルして先に進んでいる。
お前の「死んでほしい」という感情論は、科学の進歩という冷徹な現実の前では、一瞬で絶対零度近くにまで冷却され、霧散するただの自己放尿に過ぎん。
世の中のビジネスを一括りに「価値を生む」と考えるのは幻想だ。
確かに、物流、医療、インフラ、製造といったエッセンシャルワークは明確な価値を生み出し、人々の生活や社会を支えている。
しかしその一方で、現代の多くのビジネスは「アテンションの奪い合い」でしかなく、虚業の匂いを強く漂わせている。
SNSマーケティング、派手な広告、自己演出によるブランディング。これらは、商品やサービスの本質的価値とは無関係に、人の目や関心を集める能力で評価される世界だ。
真面目に製品を改善したり、顧客の課題解決に取り組んだりする努力は、誰の目にも映らなければ報われない。
一方、目立つパフォーマンスや派手な数字を作ることだけで高く評価される。
もちろん、情報過多の現代において、人の関心を引きつける力は経済的価値を生む場合もある。
しかし、それを「唯一の有能さの指標」として社会が扱うのは、明らかに狂っている。
エッセンシャルワークが生む価値や、地味だが確実な成果は軽視され、虚業の華やかさだけが光る。
その結果、優秀な人間が正しい仕事をしても、誰にも見えず、無力感に苛まれる構造が生まれる。
ひとつは確かな価値を生む実体的な世界、もうひとつは虚業的なアテンションゲームの世界。
後者で「有能さ」を測られる限り、努力や才能の本質は正しく評価されず、結果として多くの人が地獄のような評価制度に縛られることになる。
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↓追記
たくさんのコメントありがとうございます。
https://anond.hatelabo.jp/20251006141205
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40代の男です。
ゴミ袋が一杯になっていて妻によって袋が外に出されている。
それを眺めると悲しくなる。
ゴミがいっぱいになったら俺が変えることになっている。
妻基準では遅かったのだなと思う。
妻が「ちゃんと変えてほしいんだけど」と言うのを。
俺は思う。
俺はゴミで手が汚れるのが嫌なのでもっと余裕のある段階で変えたい。
妻は「まだ入るじゃん、もったいないでしょ」と言う。
基準が分からないから様子を見ていると今回のようなことになる。
どちらにしても怒られる。
まぁ、もうそれは幾度となく経験してきたから、妻が俺を怒ることでストレスを発散できるなら、それも俺の役割だと思って受け入れている。
妻と会話をしてすり合わせればいいのではと思ったこともあった。
俺の基準で早めに変えて妻に怒られた時、「ゴミ袋は安いから、手が汚れて嫌な気持ちになるよりかは、早めに変えたいな」
妻は言う。
「でも常識ってものがあるでしょ、そんなのもったいないじゃん」
会話にならない。
それ以上会話を続けようものなら、イライラし始めてやはり会話にならない。
ゴミがいっぱいになるまで捨てるのを我慢して、洋子が先に対応してしまったら怒られる。
そして俺が謝る。
そして俺が謝る。
会話することは無駄なのでグッと堪える。
俺はホッとする。
この3つしかない。
そして3つ目になることを祈るだけである。
この選択肢しかない状況を作り出しておきながら、妻はよく俺を否定できるなと思ってしまう。
こんな状態でも人を否定し続ける人に何を言っても無駄だと思ってしまう。
この現実を認識できない人にどんな言葉が伝わるのかと途方に暮れてしまう。
イライラされずに会話がしたい。やはり俺が望むことはこれに帰着する。
Permalink |記事への反応(34) | 23:45
とくに苦手ってことはない、普段質問してることはそれなりに正しく教えてもらえる
だからこそ 答えられない=知らない とかAIがこういってた=正しいになる
要は「物による」ってのが分からないままなんだろうなということ
実際のところ明らかに間違ってる答えを返された経験はあると思うけどな
それでもAIの応答を素直に受け取ってしまう程度にはダメ成功体験を積み重ねてるんだ
ちなみにこの増田を書くにあたってGPTで10パターンくらい試したんだが、なかなかに字面で推理してる挙動だぞ
データとしては慣用句としての「無言の帰宅」のが多いだろうに 無言+帰宅 の素朴な回答をよくやってる
ChatGPT:
「無言の帰宅」という表現は、ニュースや報道で使われるとき、本人や関係者が何も説明せず、沈黙したまま帰宅した状況を指します。文脈によってニュアンスが少し異なりますが、一般的には以下のような意味合いがあります。
職場や学校などでの出来事の後に、理由や経緯を話さず帰宅すること
ここでは「無言」が心理的な沈黙や緊張、戸惑いを表すことが多い
事件や事故、社会的な出来事に関わった人物が、報道陣や周囲の質問に答えず帰宅すること
例:問題が発覚した後に、記者の問いかけに答えずに家に戻るケース
「何も言わず帰る」=状況に対する無力感や諦めを示すニュアンスで使われることもあります
もちろん当たりもある
ChatGPT:
「無言の帰宅(むごんのきたく)」は、状況によって少しニュアンスが変わりますが、一般的に次のような意味で使われます。
家庭や職場などで、何も話さずに黙って家に帰ることを指します。
例:機嫌が悪くて「無言の帰宅」をした。
戦争や事故などで亡くなった人が、棺や遺骨となって故郷に戻ることを「無言の帰宅」と表現する場合があります。
この場合、「二度と声を発することなく帰る」という強い哀悼のニュアンスを含みます。
どちらの意味で使われているかは文脈によって判断されますが、ニュースや小説などで目にする場合は、②の「亡くなって帰る」という意味合いであることが多いです。
いろいろあり、30歳を目前にして貯金が一億近くある。
正当に自分で手に入れたものなんだけど、能力があって社会的に成功して稼いだ金という訳でもないから、なんとなくあるだけのものとして認識している。
親を含めた親しい間柄の人間に金銭的に搾取されてきた経験があるから、親孝行しようとか、困ってる知人友人を一方的に助けてあげようとか、見も知らぬどこかで困っている子供たちのために大きい額を募金しようみたいな気に全くなれない。(お世話になった人へのお返しとか、対等な関係での金銭のやり取りは除く。)
出不精だしコミュニケーションが苦手で友達がいない。作る気も積極的には起きない。
fireするには少し早すぎるし額が小さいと思う。
株などで増やすには脳が足りない。
小さいころ、宝くじで大金が当たったらと夢想した経験は自分にもあったが、実際使いきれないほどの金を手にしても持てあますだけだった。
むしろ、ゲームをズルして早々にクリアしてしまったような無力感にずっと苛まれていて、心療内科に行ったら適応障害を診断された。
鬱を経験したことがあるからあの時ほどの苦しみはないが、それでもぼんやりとした無気力感と嫌気に苛まれている。
生きていて楽しくないと思う。
お金があるおかげで生活に苦しむことはないが、味をあまり感じることができない舌なのでご飯を含めた生活のランクを上げるとかもしようと思わない。
お金が無かったり病気で仕事もままならず困っている人からすれば、働かなくてもしばらくは生きていけるだけの金がある自分は贅沢者に見えると思う。実際苦しくはないし、つらくもないが、ただ人生が楽しくなくて、無気力で、この先の死ぬまでの長い人生を思うと嫌になってくる。
男だけど、小柄で色白だったから男子校でずっと特別扱いされていた人生だった
中学から高校までずっと男子校。身長は学年の下位に収まり、色白の肌は教室の蛍光灯の下でいっそう目立った。最初は「かわいいね」「女装すれば似合いそう」と笑い話にされたが、いつのまにか本気で守られる対象になっていた。
体育館裏の倉庫でスポーツ用具を運ぼうとしたとき、重さに耐えかねて足を止めると、クラスメイトが次々に駆け寄って「俺が持つよ」とバッグを受け取ってくれた。三人がかりで荷物を運ばれるうち、自分で手を伸ばすことすら忘れそうになった。
修学旅行の山登りでは、急斜面で足を踏み外すたびに背後からしっかりと腕をつかまれた。「危ないから」と声をかけられて振り返ると、汗を拭った同級生の真剣な眼差しがあった。そのまま頂上まで手を離されず、到着すると大きな拍手が巻き起こった。照れくささの中に、あの手の温かさだけは今も胸に残っている。
文化祭の準備では、展示用パネルや長机を動かそうとするたびに「君は座ってていいよ」と声がかかり、先輩や友人たちがすべてを運んでくれた。掃除当番でもモップやバケツを持ち上げると、手を貸してくれる人がすぐ現れ、自分で動く機会はほとんどなかった。
卒業式の日、校庭を歩いているといつもの後輩たちが寄ってきてそっと肩を抱きよせてコサージュをつけてくれた。その瞬間、守られてきた実感とともに、守られる側に甘えていた自分を突きつけられた気がした。
社会人になった今、あの「助けられる日々」を思い返すと胸が締めつけられる。何度も手を差し伸べてもらった安心感と、その一方で自分で何もできない無力感が心に残った。誰かの助けを当然のように受け取る後ろめたさと、素直に受け止められなかった感謝の気持ちが絡み合う。
あのとき握られた手の温もりを胸に刻みながら、自分なりの歩幅で前へ進んでいく。自身の力で荷物を運び、誰にも頼らずに笑顔で歩ける日を、まだ探し続けている。それでも、ふと男性に守られたいという気持ちが胸をよぎる瞬間がある。電車のホームで風に吹かれながらドアを待つとき、雨に濡れた革靴の音を聞くとき、ふいに背後に誰かの大きな影を感じたくなる。強い腕にそっと肩を支えられ、安心感に包まれたいと思う自分がいる。
友人と街を歩いていると、ひときわ背の高い通行人が視界に入るたびに胸がざわつく。会話の合間に自分の肩に手を置いてもらえるだけで、心がほっとほどける。子どもの頃に抱いた甘え願望が、思いがけず大人になって返ってくるような心地がする。
深夜、ふとした孤独に襲われると、あの修学旅行の斜面で握られた手の温もりを思い出す。あのぬくもりが、今でもぼくを救ってくれるような錯覚に陥る。スマホ越しに届く「大丈夫?」という言葉にも、かつての記憶を重ね合わせてしまう。
だが同時に、自立を目指す自分との間に小さな亀裂が走る。守られる安心と、自分で立つ誇り。どちらを選ぶべきかはまだわからない。けれど、自分の中に芽生えたこの淡い願いを否定せず、そっと胸に抱いて歩いていこうと思う。あの頃と同じように、手を差し伸べてくれる誰かと出会える日まで。
社不な訳だが、社不を辞めたいので頑張ってみた。ここ2年ぐらいは。たぶん。
頑張ってたつもりだったが、全く頑張れていないらしいので、じゃあ辞めたいと思うが、困った。
確かに私のせいだが、私を産んだのは母親だ。主に干渉してきたのも母親だった。じゃあ私のせいではなく母親のせいになるのでは?よくもこんな社不を産んでくれたな!産んでくれてありがとう!
すごくすごくとっっても辞めてしまいたいが、もうすべて辞めてしまいたいが、困った。お金が全くない。
今まで私に攻撃を与えたヒステリック屋さん若干名に対して、とりあえず大ダメージを与えたとする4名に対して1人100万円もらうことができれば、400万円だ。かなり良い線いってる。非常に理想的だが、悲しいことに現実的ではないと見る。
じゃあ次のお仕事を探そうとなってもきっとすぐこうなる。致し方ない場合もあるが、同じ仕事が1年以上続いたことない。働くのに向いていないのかもしれない。いや向いてないが。
個人的な理想としては、詩を著し、そこに草花とかの水彩画を添え、そういった紙を一枚一枚売って、その売上で暮らしたい。そして山の中に住みたい。ヤギとか飼いたい。あと鶏も。1人じゃ寂しくなるだろうからかけがえのない人が欲しい。そういった人が1人くらいなら一緒に居たっていい。
しかし、詩の才能はないし、私は絵が上手いが上手い絵を能動的に生み出し続けてる自信だってない。金もないし、恋仲おろか意中に人面が浮かんだことすらない。終わった。この夢はひとまず今は諦めるとする。
じゃあ、どうしよう。ニートするしかない。ニートできるなら是非そうしたい。ニート なり方ニート 親ニート暮らし方
ニートだった暮らしもあるが、地獄だった。毎日多方面からかかる圧力。主に母親。焦燥感と無力感で何もできない。クッキークリッカーとマインスイーパーはできた。一時期マインスイーパープチランカーだった。
じゃあ働けよ、働きたくないのか、と言われればまったく働きたくなかった。怒られるのが目に見えているから。
嫌なことはすぐ忘れるを脳が徹底していて断片的な記憶と被害妄想しかないが、まず就職先を探すと怒られる。こんなんでやっていけるわけないだろと。
落ちたら怒られる。この人手不足の中で落ちるなんてどんな奴だと。
受かっても怒られる。遅すぎだと。
そのあと、働くと怒られる。普通に使えなすぎて。社会人として自覚はないのかと。ないです。
そんなこんなでしばらく人生サボり続けていたら、まあ苦しくなった。精神的にではなく。金銭面で。
人格生成に問題があるのに一丁前に趣味がけっこう色々ある。しかしお金ないと満足に趣味できないため趣味人間は大いに困った。そのため、妥協の妥協で働くことにした。
辞めたり変えたりサボったりはあったが、2年くらい働いてみて思ったが、やはり私は働くのに向いていない。社会に適合できていないし、できる気がしない。
働きたくなかった理由の一つだが、怒られたくない以前に迷惑になりたくなかった。人の笑顔だけ見たかった。しかしそんなことできた試しなかった。
何やってもどうせまったく使えない、真面目でもない、人としてなっていない、あと人の顔と名前覚えられない、そんなヤツは迷惑でしかなかった。社会不適合者は社会に出ないのが1番社会貢献だった。知っていた。
あーでもねたまに、なんかやっててよかったなーってなるのが、ひとの笑顔みれたときなんだけど、お客さんとかもそうだし、特に新人さんとかで、優しく優しく接しようって、柔らかく柔らかく、でも分かりやすいように、何回も教えて、なんか困ってるなって思ったら調子を聞いてみたり、私が前やったのと同じミスしてるなって思ったらわかります〜〜これこうすると結構いいですよとか言いに行ったり、そうできるように頑張ってたら、その人がお店から離れるとき、私ただのバイトなのに、私のとこに来て、あなたが1番分かりやすかった。丁寧に教えてくれた。嬉しかった。そんな旨を伝えてくれて、嬉しかったし、今でも心の支えになるくらい嬉しかったし、しかもそんな人が2人もいた。ほんとうに嬉しかった。
お客さんとかでも、やっぱここの店員さんはやさしいね〜とか言われるとすっごく嬉しかった。嫌なことはすぐ忘れるし、嬉しかったことはずっと思い出す。
優しくなりたい。それだけは忘れたくない。人は嫌いではない。はず。
人に優しくすれば自分に返ってくるとか、なんかそういうのはなかった。たぶん。わたしはどんなに人に優しくしようとしても、なんかたぶんその優しさは人と違うっぽいから、全然優しさじゃないし、あとシンプルに私は人間ではなかった。
でも今まで受けた嬉しいの気持ちはたぶん大体本物だと思う。我慢して我慢して、きっと私は人類の敵で、頑張ってお利口さんにするしか生き残る道はないんだ、悔しい悔しい、敵っていう存在はみんな嫌いだろうしじゃあ嫌いなら私も嫌いということにしてやる、私はあくまで被害者ですが、そんな顔をずっと続けようって思った時期もあった。てか結構ある。
でもそれがある程度落ち着いて、私の悲しいの波も落ち着いた時、なんとなく話していて、ああこの人は、少なくとも今はちょっと私の味方なんだ、そう思える人もいた。
母親のことは激昂が落ち着いてからもずっと好きではないが、父親は色々考えを話してくれて、ある程度までは許せるようになった。
友達に一方的に縁を切られた時、じゃあ私にはお友達いないということでいいです、とか考えていたが、1年経って共通のお友達にそれとなくその話をしたら、私はどちらかと言うとあなたの言うことの方が分かるよ、そう言ってくれるお友達がいた。
嬉しい。嬉しいと、続けたくなる。返したくなる。私も誰かを嬉しくて幸せな気持ちにしたい。いいないいな。どうしたらいいんだろう。わからない。今は一旦私は働くのには向いていない、と言うことしかわからない。幸せにしたい、今まで幸せにしてくれた人もそうだし、全く知らない人もそうだし、私に強く当たってきた人にも、もうこれでもかってくらい優しくしたい。優しくなりたい。
明日は献血に行きたい。間違いなく社会貢献だし、あと献血のお姉さんはすごく優しい。問診してくれるお医者さんも優しい。嬉しい。ジュースも飲み放題。漫画も読める。冷房効いてる。冷房効いてる中毛布に包まれるので、とても嬉しい。
働くのは後にしよう。優しくなれるのが先だ!道徳の授業しよう!健全な心に健全な職あり。
投稿用に50ページの読み切り漫画を去年から描いてるんだけどいまだに下書きも終わってない。
去年は20ページないくらいの短編漫画をいくつか描いたけど、長めの漫画にチャレンジしたら本当に完成しない。
もともと遅筆な方で絵も上手くないけど、設定する締切を守れず、延長した締切も守れず、完成も見えず、無力感しかない。
気分転換に、コミティアに申し込んで新しい短ページ漫画を出そうとしたらそれすら完成せず心が折れて欠席した。
印刷所の締切に間に合わず、コピー本に変更したけどイベントの締め切りも守れないんじゃ、なんの締め切りだったら守れるんだよ。
去年はトータル100ページなんとかいってたから今年は倍やるぞって思ってたのに、50ページすら完成するか危うくてつらい。
でも今描いてる漫画はバカバカしくて面白いと思ってるし、キャラも好きなんだよ、完成させたいよ、でも自分はどうせサボるとしか思えない。
どうしたら完成するんだよ
社会復帰リハビリとしてタイミーで日雇いバイトはじめた。これがガチで鬱に効いている感じがあるので書く
結論から言うと、行動する→報酬を得るという経験がどうやら鬱で死んだ心に効くっぽくて、タイミーではこの、行動する→報酬を得るサイクルが日払いゆえに短く、日払いゆえに何度でもこの報酬を得る体験を繰り返せる。ここが鬱に抜群に良い。
タイミーは即金制で、バイト終わった瞬間に振込申請して口座にお金が増えてる体験ができる。何でか分からないけど、この行動する→すぐに報酬ってのがめちゃくちゃ心に効く。仕事だったらこうはいかない。今やった仕事も昨日やった仕事も明日やる仕事も、来月に1回だけの報酬体験だ
思えば、世の中報酬が遠いものばかりだよな。給料も、ダイエットも、勉強も。もし仕事が日給制だったら、俺は人生や仕事に虚無感や無力感を感じずにすんだのではないかとすら思う
カーネギーの本にも書いてあった。今日以外のことを考えるから不安になる。今日一日のことだけ考えなさいって。今日、働き、お金をもらう。これがベストなんだろうな。1ヶ月後のたった1回の報酬ために今日も明日も明後日もずっとずっと働かなきゃいけないから虚無になったんだ
なるほど、その視点は非常に興味深いです。ボエティウスの自発的隷従論を権力者に寄生する少数者が多数派を抑圧し続ける構造に関連付けて説明すると、以下のように考えることができます。
ボエティウスの考え方において、支配者や権力者は外的な支配を行うだけでなく、しばしば自らの利益を追求するために支配の構造を維持します。この場合、少数者(例えば、特権階級や権力者の側近など)は、権力者に従い、彼らと共に支配の体制を維持し、権力者のために利益を享受しています。この少数者は、実際には一般市民や多数派の自由を抑圧する役割を果たしていることになります。
ボエティウスが「自発的隷従論」で強調したのは、人々が無知や内面的な弱さから進んで支配を受け入れることです。この観点を当てはめると、支配者に寄生する少数者は、一般市民の無知や無力感を利用して、権力者の利益に繋がるように体制を強化します。彼らは多数派が反抗するのを抑え込むために、権力者に対して忠実に従い、その支配を維持することが自らの利益に繋がると認識しています。
ボエティウスによると、心の自由を失っている者は、外的な支配を受け入れやすいとされています。現実的には、少数者は多数派に対して精神的・物理的な圧力をかけ、彼らを無知や恐怖に陥れることによって、自発的な従順を引き出すのです。このような従順は、教育の欠如や情報の制限、あるいは過剰な propaganda などによって強化され、結果として抑圧が継続します。
少数者は、権力者と結びつくことによって自らの特権を確保し、支配体制を維持します。彼らは、多数派の利益に対して無関心であり、むしろその利益を損ねることで自分たちの地位を高めるのです。このようにして、支配体制は少数者によって強化され、権力者に従う少数者はしばしば支配の維持者として機能します。
ボエティウスは、理性と知識によって自由を確立することを強調しましたが、少数者はこの理性や知識を封じ込めることによって、支配を確立しやすくします。無知に対する支配は、権力者が少数者を使ってさらに深化し、社会全体を閉じ込める手段となるわけです。教育や情報の制限を通じて、支配は自発的に受け入れられ、抑圧が持続することになります。
6.結論
ボエティウスの「自発的隷従論」の視点を通じて見ると、権力者に寄生する少数者がいかにして抑圧を維持し、長期的に継続させるかが理解できます。支配者と少数者は、社会の多数派の無知や無意識に乗じて支配体制を強化し、その結果、抑圧が自発的かつ持続的なものとなります。
表現の自由戦士だ。
まさしく、我々は無力だった。
うどんは辛くも守れたが、コンビニの成人誌、チートスレイヤーも、エルフのおしっこの時も、性的広告のときも、規制の勢いを止められなかった。
そして言及したな、④ に。
二種類のことなる災禍に気を揉んでいたんだ。
ラブドールのゲームへの非難とBL規制の声。そしてクレジットカード会社を利用した圧力。
いまのところ2つは交わってない。
BL規制を求めてる人たちも出版社のメールフォームでクレームを入れるなどの手段を取ってるようで実効性は低い。・・・少なくとも今はまだ、な。
老兵の俺は無力感を感じながらも、間近にあるかも知れない戦争に備えて剣を研いでいる。
ランドセルに小さな蝶のキーホルダー、部屋にはぬいぐるみがあるので、胡蝶しのぶさん推しのようだ。
帰り道からずっと下を向いて落ち込んでいたので、昨日聞いてみた。
・柱って事は、きっとすごい修行シーンがあった炭治郎よりも頑張ってたはずなのに、全然歯が立たなかった
・体が小さいと、どれだけ努力しても、強い気持ちでやってもダメなのを思い知ってしまった
スポーツとかをやる子ではないので、レベルが段違いな相手に対する無力感を、生まれて初めて味わったという感じだろうか?
解る。
私は野球を文字通り1日中やっていて、そこそこ打てていたし、周りの子より守備出来ていたのでかなりの自信あった。プロ野球選手になれると思っていた。
でもある日の練習試合でピッチャーが投げる球が、速過ぎて見えず、当たる!?と避けたのがストライク。
チームで私より打てる子も、文字通り手も足も出ない。そこで挫折し逃げて野球を諦めた私に何が言えるだろうか?
原作は読ませていないので、これからの展開はまだ言えない。(別に読んでいいよと置いてあるが、観てから読むと言って聞かない)
とはいえ、これから3年?も塞ぎこんだままで居させるのも気になる。 どうしようか?
まあ、もう数日したら消化出来るかもしれないが。
諦めて、明らかになったのなら、そこで何が出来るか?って考えて動いてたじゃあないか?
弟子の子に「きっと勝てない、でも出来る事をする」って言ってたの覚えてる?
しのぶさんは、負けるって解ってても逃げずに立ち向かってた、自分が出来なくても誰かが為してくれることを信じて動いた。
それを外野が無駄だったと言うのは、最善を尽くしたしのぶさんに対して失礼じゃあないかな?
いあーー偉そうか?難しい。