
はてなキーワード:漢文とは
校閲の仕事を始めて驚いた表記に「ちりばめる」があります。
紙面ではほぼ平仮名になっているのですが、なぜか知ってますか?
多くは「散りばめる」と表記したくなるのですが、本来は「鏤める」なんです!
この漢字が常用外だから平仮名だったんですねぇ。この驚き、皆さんにも知ってほしい…(✪д✪)—日刊ゲンダイ校閲部 (@nkgendai_kotoba)August 22, 2025
まずは「塵ばむ」である。
「ばむ」は「黄ばむ」とか「気色ばむ」とかの接尾語「ばむ」である。
つまり「塵ばむ」は「埃っぽい」「塵を被っている」という意味である。
そして「金銀を刻んで彫る」という意味の古語「ちりばむ」である。
細かな金銀で象嵌するようなことを指しているのだろう。
意味的に現代語「ちりばめる」の元になっているのはこちらである。
この「ちりばむ」の漢字の表記は「散り嵌む」「塵嵌む」「縮り嵌む」など諸説ある。
埃の「ちりばむ」が金の「ちりばむ」に変化したのか、それとも別々に生まれたのかはわからないようである。
多くの辞書では埃の「ちりばむ」と金の「ちりばむ」は別項となっているが、埃の「ちりばむ」が転じた、とする辞書もある。
ではツイートで言われている「鏤める」は何なのかというと、
これは漢文を訓読するときに「鏤」という字に「ちりばむ」の読みを当てたということである。
「鏤」という漢字のもともとの意味は「金属に彫刻する」というようなものである。
つまり象嵌というよりは彫金全般を指しているようであるが、それを「ちりばむ」と訳したのである。
鏤 金乃知利婆女(こがねのちりばめ)
とあるらしいので、かなり昔からその意味で使われていたようである。
「マジ」を「本気」と書くことも「真剣」と書くこともできる。
「マジ」の語源は「マジメ」の略だとか諸説あるのだが、それなら「真面」と書いて「マジ」と読むのも良さそうなものである。
まあ「マジメ」を「真面目」と書くのも当て字だけれども。
それで「マジは本気と書くべきで真剣とか真面とか書いてはいけない」などということはないだろう。
同様に、「ちりばめる」を「散りばめる」と書いても「塵嵌める」と書いても「鏤める」と書いてもよい。
俺が知ってる例では、西暦20年ぐらいに、ローマ帝国時代のクインティリアヌスって人が書いた「弁論家の教育」に
最近の若者は長文が読めない、若者は教養が無い、と書いてある。探せばもっと古い例もあるんじゃないかな。知らんけど。
日本だと、例えば明治時代ぐらいに、最近の若者は旧仮名遣いが読めないとか、漢文が読めないとか、
インテリ層がいろいろ愚痴をこぼしている。最近だと3行以上読めないとか、ラノベがどうこうとか。
いつの時代も、高齢者とかインテリ層はみんな同じこと言ってんだわ。
人類はこんなくだらない事を2000年とかそれ以上繰り返している。
にもかかわらず、今も「最近の若者は⋯」とか言い出すおっさんが一番教養が足りてない。
1. 全体構成
本書は大きく5部構成(+序論・結論)で、古代から20世紀までの「滿洲(満洲)」地域をめぐる勢力と、その中で生まれた「満洲国」――20世紀の民族・国家発明――を一貫したストーリーとして描き出します。
第五部:滿洲國の成立とナショナル・アイデンティティの発明
2. 主要テーマ
満洲は、東アジア大陸と朝鮮半島/遼東半島の接点に位置する「低地」=外来勢力の侵入・征服が常態化した空間。そこを舞台にさまざまな遊牧・騎馬民族が王朝を興し、漢民族中心史観のタブーを破壊してきた。
高句麗→契丹(遼)→女真(金)→満洲(清)という、本書の最重要ラインをたどりながら、「遊牧文明」の政治構造と漢文化の摂取・活用の戦略を分析。
1932年に日本が擁立した傀儡政権「滿洲國」は、清帝国の「满洲支配」を近代的国家として再パッケージしたもの。人口構成に乏しい満洲人を「国家の主役」とすることで、ナショナル・アイデンティティを人工的に発明したプロジェクトとして読み解く。
教育・宣伝・儀式(皇帝崇拝、民族衣装)・歴史教科書の改編などを通じ、他地域・他民族を排除し「満洲人」を想像上の共同体として形成するプロセスを詳細に追跡。
3. 各章の論点
序論満洲を地理的に定義し、「窪地」としての脆弱性と、逆に「征服の空間」としての魅力を提示。
第一部(高句麗→契丹)高句麗の辺境国家性を論じ、契丹(遼)による五代十国期の北方統一王朝成立過程を、モンゴル草原勢力との関係から分析。
第二部(女真→金)女真人が「女真語・契丹文」を駆使し、漢文化と遊牧文明をハイブリッド化して金朝を建設する政治戦略を解剖。
第三部(清帝国)満洲人(女真系)の支配エリートが、科挙や儒教を吸収しつつ「満洲旗制度」で特権階級を維持。清の多民族統合メカニズム。
第四部(近代の再定義)日露戦争後、清帝国が「満洲」を失い始める中で、列強による分割的支配と漢民族的ナショナリズムの台頭を並列で検証。
第五部(滿洲國)満洲国の建国イデオロギー(皇帝溥儀の再起用、五族協和)、憲法制定、教育制度、国家祭儀など「民族発明」の実践面を詳細に描写。
結論 「満洲」という地域・イデオロギー・民族カテゴリーが東アジア秩序に果たした役割を総括し、「諸夏主義」の視座へ橋渡し。
「中国=漢民族国家」という前提を覆し、満洲を起点に東アジア史を再構築することで、脱中華・多文明圏論の理論的骨格を補強。
ナショナル・アイデンティティ研究への貢献
「満洲人」という少数民族的主体がいかにして国民国家の主体と見なされたか、「民族発明」のプロセスを具体的に示し、人類学的・歴史学的に示唆を与える。
内モンゴル・チベット・ウイグルなど「非漢族地域」のナショナル・ムーブメントに対する理論的バックボーンを提供するほか、地域分権・多元連合の可能性を歴史的事例を通じて描く。
《中國窪地》が「満洲国」建国プロジェクトを単なる「日本の傀儡政権」として批判するだけでなく、そこに内在する「民族発明」の構造を解明し、東アジアのナショナル・ヒストリーを俯瞰する視座を与える重要著作です。
古典文学が「マウントを取るためのもの」だったという視点、確かに歴史の中でそれが一部の階層にとっては**機能**していたのは事実です。
とくに古代~中世~近世の支配層や知識階級において、文字を読めること、ましてや漢文・ラテン語・和歌・詩文などを理解することは、**選ばれた者だけが持つ資格**として扱われました。
「秘伝」という形でわざと難しく、閉じられた知識体系にしておくのも、その地位を維持・強化するための戦略だったわけです。
たとえば、源氏物語の解釈ですら江戸時代には「特定の家」だけが継承できるようなものとされていたこともあります。
ただ、それだけではないとも思います。
文学は、ある種の「美しさ」や「真理」を言語で捉えようとした記録でもあります。
だから、そうした意図――たとえば**人間とは何か、愛とは何か、死とは何か**――を真剣に追求した書も確かに存在する。
マウント道具として利用された一方で、それを超えて人の心を揺さぶる力を持ち得るのも、古典文学のもう一つの側面です。
でも、それが今に残っている理由が、「単にエラい人が残したから」だという冷めた見方も、やはり拭いきれません。
残す側の「都合」が大きく影響していたのは、どうしても否定できない。
結局、どちらの側面もあるんです。
権威の道具でありながら、同時に**魂の叫び**も含んでいる。
漢文なら非や的といった字を使った部分は新語とすべきか文章の一部とすべきか捉えよう次第なところがあるけどね?
我非残酷的って書いたら非残酷的の部分ははたして単語か、それとも文法に基づき漢字が組み合わされたほかと変わらない単なる文章の一部か
マジレスなのに程度が低すぎて笑う
漢字や単語を助詞を挟まずにくっつけただけで造語だとするのは言語学的な感性があまりにも稚拙
ちなみに同様の文法は漢字単位でも存在するぞ(これは古代漢文法を吸収したものだろうが)
日本史大辞典で私僧という言葉が使われていた。そんな言葉辞書で調べても出なかった。
だとしたらこの言葉の正当性は文法によって担保されるしかない。私+僧で私僧って文字列を紡いだんだろう。
なにもこれは造語じゃない。造語というまでもなく単に文法に則って作られた文字列の一部でしかないんだ。
なぜか多くの人は単語や漢字同士をくっつけると即造語と勘違いするが、本質は助詞と単語をくっつける文法的な行為と何も変わらない。
非科学的ってのは辞書に載ってるだろうが文法に基づき非自然科学的って表現するのもありだ。
だいたいそういう判断基準だとドイツ語のように英語などと違って一文の内でスペースを入れない言語はみんな造語に見えるんだろうな
漢字や単語を助詞を挟まずにくっつけただけで造語だとするのは言語学的な感性があまりにも稚拙
ちなみに同様の文法は漢字単位でも存在するぞ(これは古代漢文法を吸収したものだろうが)
日本史大辞典で私僧という言葉が使われていた。そんな言葉辞書で調べても出なかった。
だとしたらこの言葉の正当性は文法によって担保されるしかない。私+僧で私僧って文字列を紡いだんだろう。
なにもこれは造語じゃない。造語というまでもなく単に文法に則って作られた文字列の一部でしかないんだ。
なぜか多くの人は単語や漢字同士をくっつけると即造語と勘違いするが、本質は助詞と単語をくっつける文法的な行為と何も変わらない。
非科学的ってのは辞書に載ってるだろうが文法に基づき非自然科学的って表現するのもありだ。
だいたいそういう判断基準だとドイツ語のように英語などと違って一文の内でスペースを入れない言語はみんな造語に見えるんだろうな
漢字や単語を助詞を挟まずにくっつけただけで造語だとするのは言語学的な感性があまりにも稚拙
ちなみに同様の文法は漢字単位でも存在するぞ(これは古代漢文法を吸収したものだろうが)
日本史大辞典で私僧という言葉が使われていた。そんな言葉辞書で調べても出なかった。
だとしたらこの言葉の正当性は文法によって担保されるしかない。私+僧で私僧って文字列を紡いだんだろう。
なにもこれは造語じゃない。造語というまでもなく単に文法に則って作られた文字列の一部でしかないんだ。
なぜか多くの人は単語や漢字同士をくっつけると即造語と勘違いするが、本質は助詞と単語をくっつける文法的な行為と何も変わらない。
非科学的ってのは辞書に載ってるだろうが文法に基づき非自然科学的って表現するのもありだ。
だいたいそういう判断基準だとドイツ語のように英語などと違って一文の内でスペースを入れない言語はみんな造語に見えるんだろうな
どう成り立ってないの?
ちなみに同様の文法は漢字単位でも存在するぞ(これは古代漢文法を吸収したものだろうが)
日本史大辞典で私僧という言葉が使われていた。そんな言葉辞書で調べても出なかった。
だとしたらこの言葉の正当性は文法によって担保されるしかない。私+僧で私僧って文字列を紡いだんだろう。
なにもこれは造語じゃない。造語というまでもなく単に文法に則って作られた文字列の一部でしかないんだ。
なぜか多くの人は単語や漢字同士をくっつけると即造語と勘違いするが、本質は助詞と単語をくっつける文法的な行為と何も変わらない。