
はてなキーワード:清帝国とは
1. 全体構成
本書は大きく5部構成(+序論・結論)で、古代から20世紀までの「滿洲(満洲)」地域をめぐる勢力と、その中で生まれた「満洲国」――20世紀の民族・国家発明――を一貫したストーリーとして描き出します。
第五部:滿洲國の成立とナショナル・アイデンティティの発明
2. 主要テーマ
満洲は、東アジア大陸と朝鮮半島/遼東半島の接点に位置する「低地」=外来勢力の侵入・征服が常態化した空間。そこを舞台にさまざまな遊牧・騎馬民族が王朝を興し、漢民族中心史観のタブーを破壊してきた。
高句麗→契丹(遼)→女真(金)→満洲(清)という、本書の最重要ラインをたどりながら、「遊牧文明」の政治構造と漢文化の摂取・活用の戦略を分析。
1932年に日本が擁立した傀儡政権「滿洲國」は、清帝国の「满洲支配」を近代的国家として再パッケージしたもの。人口構成に乏しい満洲人を「国家の主役」とすることで、ナショナル・アイデンティティを人工的に発明したプロジェクトとして読み解く。
教育・宣伝・儀式(皇帝崇拝、民族衣装)・歴史教科書の改編などを通じ、他地域・他民族を排除し「満洲人」を想像上の共同体として形成するプロセスを詳細に追跡。
3. 各章の論点
序論満洲を地理的に定義し、「窪地」としての脆弱性と、逆に「征服の空間」としての魅力を提示。
第一部(高句麗→契丹)高句麗の辺境国家性を論じ、契丹(遼)による五代十国期の北方統一王朝成立過程を、モンゴル草原勢力との関係から分析。
第二部(女真→金)女真人が「女真語・契丹文」を駆使し、漢文化と遊牧文明をハイブリッド化して金朝を建設する政治戦略を解剖。
第三部(清帝国)満洲人(女真系)の支配エリートが、科挙や儒教を吸収しつつ「満洲旗制度」で特権階級を維持。清の多民族統合メカニズム。
第四部(近代の再定義)日露戦争後、清帝国が「満洲」を失い始める中で、列強による分割的支配と漢民族的ナショナリズムの台頭を並列で検証。
第五部(滿洲國)満洲国の建国イデオロギー(皇帝溥儀の再起用、五族協和)、憲法制定、教育制度、国家祭儀など「民族発明」の実践面を詳細に描写。
結論 「満洲」という地域・イデオロギー・民族カテゴリーが東アジア秩序に果たした役割を総括し、「諸夏主義」の視座へ橋渡し。
「中国=漢民族国家」という前提を覆し、満洲を起点に東アジア史を再構築することで、脱中華・多文明圏論の理論的骨格を補強。
ナショナル・アイデンティティ研究への貢献
「満洲人」という少数民族的主体がいかにして国民国家の主体と見なされたか、「民族発明」のプロセスを具体的に示し、人類学的・歴史学的に示唆を与える。
内モンゴル・チベット・ウイグルなど「非漢族地域」のナショナル・ムーブメントに対する理論的バックボーンを提供するほか、地域分権・多元連合の可能性を歴史的事例を通じて描く。
《中國窪地》が「満洲国」建国プロジェクトを単なる「日本の傀儡政権」として批判するだけでなく、そこに内在する「民族発明」の構造を解明し、東アジアのナショナル・ヒストリーを俯瞰する視座を与える重要著作です。
劉仲敬(リウ・ジョンジン)の著書《中國窪地:一部內亞主導東亞的簡史》は、漢族中心の「中国史観」を根底から問い直し、「中国」とは本来「窪地(デプレッション、Basin)」であり、その上に覇権を打ち立てたのは内陸アジア(內亞)の諸遊牧帝国だった――という挑戦的な視座から書かれた歴史解釈書です。
この書は、彼の「文明圏多元論」「諸夏主義」「脱中華」思想の根幹をなす理論的著作のひとつです。
書名の意味:
「中國窪地」とは、地政学的に見た「中国の盆地=中原」のことであり、東は山東半島と海、北は長城・蒙古高原、西は黄土高原、南は山岳地帯に囲まれた“低地”です。この地理的な「くぼみ(窪地)」が、周辺からやってくる外来の征服者(モンゴル、女真、満洲、契丹など)にとって統治しやすい空間だったという発想です。
基本構図:
従来の中国史は「漢族が外敵から文明を守った」という中華中心史観だが、実際には:
構成(簡略):
地理と文明の相互作用:なぜ中原は「文明の中心」ではなかったのか。
黄河流域は人口密度が高く農耕は発展していたが、防衛的には極めて脆弱で、常に外部勢力の侵入を受けやすかった。
「文明の重心」は周辺(北西のオルドス草原、モンゴル高原、満洲、チベット高原)にあったとする。
特に乾燥気候の遊牧民は、動員・軍事組織力に優れ、常に中原の静態的農耕社会を凌駕していた。
契丹(遼)
女真(金)
蒙古(元)
満洲(清)
これらの王朝は、内亞の軍事・遊牧構造を基盤に「中國窪地」を包摂し、自らの征服構造を正当化するために「中華文明」の装飾を用いただけ。
「中華」は本質的に「支配の飾り」や「便利なツール」に過ぎず、征服王朝の文化的正統性を演出するための道具だった。
清朝は史上最大の版図を築いたが、それは「大中華」ではなく、「大内亞帝国」として理解されるべき。
辛亥革命以後、漢民族ナショナリズムが清朝の多民族的帝国遺産を奪い、「中華民国」という名前で引き継いだが、実態としては「満洲帝国の皮をかぶったナショナルステート」だった。
民国も中共も「満清の版図」を正統と見なし、それを守ることが国家の使命であると信じたが、これは歴史的には極めて不自然。
中原(=窪地)は一貫して政治・軍事的に無力で、常に外来勢力の軍事力に従属していた。
その歴史を「一体的な文明発展史」として語るのは、近代以降に発明された「ナショナル・ヒストリー(国家史)」であり、虚構である。
項目 内容
主張の強さ 「中国」という国家概念が内亞の帝国的秩序によって形作られたという、極めて挑発的な歴史観
思想的貢献 「諸夏主義」「脱中華」「多文明的再編」論の土台を提供
国際的含意チベット・ウイグル・内モンゴル・満洲・雲南などの「非漢族地域」の分離独立を文明的に正当化できるという論理的土台
まとめ:なぜこの書が重要か?
劉仲敬は《中國窪地》を通じて、「中国の国家的正統性は幻想である」「中華文明の中心は常に“外”にあった」と論じ、現代中国のナショナリズムの基盤を根底から覆しています。
「なぜ中国は一つの国であり続けるのか?」という問いを根底から問い直したい人
https://anond.hatelabo.jp/20250727120239
《民國紀事本末》(2013年)
いわゆる「共和国時代」の出来事を時系列に整理しつつ、従来の教科書的な叙述を批判的に再解釈した作品。史実の列挙にとどまらず、当時の政治的・思想的背景を浮かび上がらせ、国共内戦期から国民政府期に至る人脈や権力構造の連続性と断絶を明らかにする。
「華夏」という文明単位から「中國」という近代ナショナル・ステートへの移行過程を史的にトレース。劉仲敬独自の「文明圏分析」の下、周秦以降の冊封体制、清朝の版図拡大、近代ナショナル・アイデンティティの醸成をリンクさせ、「中国」という概念がいかに後付けの政治装置として形成されたかを論じる。
アイン・ランド(Ayn Rand)の伝記的考察。従来の思想史や伝記とは一線を画し、ランドの個人主義思想を中国や東アジアの文脈で再評価。彼女の小説『肩をすくめるアトラス』の世界観と、劉仲敬が批判する中央集権的体制との対比を鮮やかに描き出す。
儒教経典(「經」)と史書(「史」)が中国文明の自己叙述をいかに形作ってきたかを分析。『春秋』『史記』から始まり、後世の史観・儒学解釈が政治体制の正当化になった過程を追う。文字通り「経典」と「歴史」の相互作用に着目し、文明の自己神話化メカニズムを解剖する。
劉仲敬自身の思想的羅針盤を示す論考集。先行する思想・制度(「守先」)を理解した上で、新たな時代構造(「待後」)を構想するという二段階モデルを提示し、中国内部の制度変遷や外部文明の衝撃に対処する方法論を提起している。
東アジア近現代の主要人物を題材に、それぞれの生涯を通して「文明の堕落」を読み解く評論シリーズ。
《晚清北洋卷》:清末の北洋官僚をめぐる権力と腐敗の構造分析。
《國共卷》:国民党と共産党指導者層の思想的相違と利害駆け引き。
《民國文人卷》:黎明期共和国の文化人・知識人が抱えた矛盾と理想の断絶。
いずれも「近代国家の没落」をテーマに、政治家・知識人の個別事例から大局的な文明批判を行う。
ヨーロッパの国際秩序(ウェストファリア体制、産業革命後の列強均衡)が東アジアにもたらした制度や価値観を検証。清末以降の不平等条約から中華民国、共産党政権への制度移植過程を、構造主義的に解剖し、「外来」と「内向」の相剋を描き出す。
《中國窪地:一部內亞主導東亞的簡史》(2017年)
「窪地(低地)」概念を用い、ユーラシア内陸アジア勢力(モンゴル、満州、中央アジア部族)が東アジア世界に与えた影響を再考。従来の漢民族中心史観を覆し、「内亞(シベリア・モンゴル・満州)からの視点で見た中国史」を示す、劉仲敬の代表作のひとつ。
《滿洲國:從高句麗、遼金、清帝國到20世紀,一部歷史和民族發明》(2019年)
満洲国を単なる傀儡政権とみなすのではなく、高句麗→遼・金→清帝国へと続く「北方遊牧文明」の連続性を強調。20世紀の満洲国成立を「民族発明」の一例として論じ、ナショナル・アイデンティティ形成のダイナミズムを浮き彫りにする。
いわゆる「阿姨學(劉仲敬思想)」の内幕を語る、自著解説書兼思想史。各文明の興亡パターンを「源代碼(ソースコード)」として抽象化し、文明間の普遍的法則を提示。連載講義をまとめたスタイルで、初心者から上級者まで劉仲敬の全体像を掴むのに最適の一冊。
どうでもいいことにキレ散らかすのが持ち芸のタレントの梅沢某という人が
劇団員への手土産かなんかでハンバーガーを50個だったか100個だったかを注文したときに
店員さんにテイクアウトするか店で食べるか聞かれてキレたって話をしていた。
ひとりで来てるのにそんなたくさんハンバーガーを食べるわけがないだろう!?
なんでもかんでもマニュアル対応するな、ってキレ散らかしていた。
これは正しいのかどうか?
先日、緊急の要件で得意先に出向いて帰社する時、
昼飯を食べて帰ろうと思った。
と思ってるところマクドナルドが目に入った。
バーガー単品と野菜ジュース、あとコーヒーをモバイルオーダーしてから店内に入った。
店内に入った瞬間、ちょっと嫌な予感がした。
いや、もちろん性別とか年齢とかの話をしているのではない。
わかってもらえるだろうか?
ただ共通していることはマクドナルドの店員さんらしい立ち居振る舞いをされているということだ。
それがない。
ああ、いらっしゃい、注文は?ああネットのやつ?ちょっと待ってね。
厨房全体もそんな雰囲気に包まれていて、ネットのやつってどれ?
え?知らんで、これとちゃう?みたいな関西人みたいなやりとりをしている。
ああ、これは失敗したかなあ?と思った。
というのはね。
マクドナルドのようなマニュアルに従って作業をすることが決められている職場で
マニュアルに従わない従業員が作業をすると間違いが発生するからだ。
案の定。
車を走らせながら楽しみにしていたコーヒーを飲んだら、なにか薄い。
うん?
と思ったがコーヒーというのはその日の体調によったりだとか
ひとくちめとか、最初の方は味が少しわからなくなってしまうものだから
と思って気にせずに車を走らせながらちょくちょくと飲んでいた。
でもやっぱり薄い。
コーヒー未満、コーヒーテイストのお湯以上のあいだといった感じの飲み物でいつまでたってもコーヒーにならない。
あきらかにつくりかたが間違っていて、それはマニュアルに従っていないからだ。
あまり上手いたとえ話ではないのかもしれないけれど、
私はマニュアル対応というのは清帝国の辮髪に似ていると思っている。
髪を切るか?頭を切るか?というスローガンのもと
漢族が蛮族の卑しむべき異習として嫌悪する辮髪を強制することで服従していることの証としたのだ。
別の言い方をすると規律ともいうのだが。
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新潟空港からウラジオストック航空に搭乗することになった。東京駅から新幹線車内で待ち合わせたのはコラムニストの高山正之氏ら合計四人。このミニ探検隊が急遽「結成」されたのはひょんな経緯からだ。
昨年、フライング・タイガーの基地跡を湖南省の西南部にある辺境、渋江までこの四人組にあと三人ほどでグループをつくり見に行った。ここは岡村寧次と何応鈞の終戦協定を結んだ場所でもあり、反日宣伝が濃厚な記念館がある。
例によって改竄史観の反日展示だが、日本軍と戦ったのは「偽軍」とあるので、この「偽」は何処かとガイドに問うと、国民党軍を意味することだったのには笑った。そうだ、フライングタイガーは蒋介石に協力したのだ。
さてウラジオストックを戦前の日本人は浦塩斯徳と表記したが、ロシア語の原義は「東方を征服せよ」という物騒な意味がある。
ロシアは不凍港を求めて清帝国の版図を結果的に強奪し、地政学的にみれば中国の海の出口を塞いだ。中国にとっては恨み骨髄の場所である。
それゆえ中国人はウラジオストックとは言わず歴史的な地名=ハイサンウェイ(中国語では「海参威」)と言う。ついでに言えばロシア人は中国人を「キタイ」を呼び、いまも陰湿に排斥するし、中国人は「オロシア」と言うから、ま、お互い様か。
というわけで筆者の一番の興味は三カ国の国境の現状である。
ロシアと中国と北朝鮮の国境地帯はいまどうなっているのか? 不思議に日本のマスコミはこのことを追求しない。
筆者は中国側からは何回かロシア国境を見ている。スイフェンガ、黒河、満州里、そして延吉から図門へ行くと北朝鮮、軍春からはロシア国境が、また吉林省の集安、丹東からは北朝鮮国境も見た。つまり旧満州の七箇所から国境を見た。反対にロシア側から中国国境をみたのはハバロフスクからアムール川との国境くらいだった。
とりわけウラジオストックより西側のハザン地区は北朝鮮と国境を接し、ちょっと北側へ回れば中国の軍春である。
二ヶ月準備期間があった。第一にロシアのヴィザをとらなければ行けないが、これに一ヶ月を要する。つぎに肝心のハザン地区へ行けるかどうか。ポシェット港、ザルビノ港を見学できるか、どうか。
直前にこの地区に入ったNHKが追い出されたと聞いていた。旅行社を経由してロシアに打診したが、「審査」に最低一ヶ月、そして土壇場で蹴られると旅行そのものが成立しなくなる。というわけでハサン地区はあきらめ替わりにナホトカを加えることにした。
事態の変化はつぎのようである。
東西冷戦が終了し、ロシア極東軍は削減され、しかも北朝鮮から露西亜軍事顧問団は引き揚げた。北は最大の保護者を失い、唐突に北京へ秋波を送る。
一方、中国の経済力が著しく飛躍し、北朝鮮も経済の飛躍が政治安定を招くのではと経済改革を模索しはじめた。日本の財界が主導した「日本海経済圏」の思惑とも合致してロシア、中国、北朝鮮の国境付近の大開発が決まり、かなりのインフラ建設が進んでいた。十年前までの話である。
中国側は「図門江開発」、北は「豆満江開発」。そしてロシア側は「ハサン地区開発」(ザルビノ、ポシェット両港を含む)とそれぞれ名称こそ違え、経済交流による相互発展目的は温度差があったが、基本的に共通目標だったのである。
数年前にも中国からポシェットへ鉄道が通じたというので軍春へ見学に行くと、工業団地が造成されており、中国企業、韓国企業にまざって日本企業が三社ほど進出していた。
延吉から高速道路工事が進み、あたり一面が普請中だった。開発ブームは各地にクレーンを林立さえ、ブルドーザが動き回り、輝かしい未来を予感させていた。
ところがその後、北朝鮮の苦境と核開発が状況を激変させた。
第一に日本企業が拉致問題の露呈と核開発に嫌気して進出意欲がそがれ、積極性を失う。
第二に中国は北朝鮮へ直通ルートをつくり、ロシア側の港湾へ鉄道をつなげたものの昨今は北朝鮮の羅津、先鋒開発に重点を移した。つまり中国は北朝鮮を経済植民地となし、ロシアを袖にする野心を露わにしたのである。
第三にロシアは中国、北朝鮮への鉄道接続ルート強化に乗り出し、ちぐはぐに対応をみせた。
第四に韓国が間隙を縫って各方面に浸透していた。
そこである日、モスクワからプーチン大統領(当時)がウラジオストックへやってきて、「シベリア極東大開発」の号令を出し、状況が一変する。2014年ソチで冬季五輪。ならば極東の目玉を2012年、ウラジオストックでのAPEC。そのために大開発が必要というわけだ。
怪しい旅行団の結成にはそうした経緯があった。
(続く)