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はてなキーワード:淀君とは

2025-06-12

anond:20250612121251

秀吉はかねてより、戦国一の美女と謳われたお市の方に憧れており、その面影を最も強く受け継いでいた茶々側室に迎えることになります

これは物語的ですね。当時の史料にこういったことが書かれているわけではありません。

秀吉は鶴松が生まれた際に、淀城を茶々に与え、それから淀殿」と呼ばれるようになりました。

鶴松が生まれたのが淀城であり、懐妊中に淀城に住まいを移していました。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、淀君石田三成らを後押ししたとも言われています

しろ後押ししなかったと言われています

この時、淀君は籠城の方針を強く推し進め、豊臣家の軍事行動指導しました

これは俗説で、淀殿が籠城を主張したという記録はありません。

Permalink |記事への反応(0) | 12:30

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最終的に淀君家康に敗れた理由は?

淀君茶々)が徳川家康に敗れた主な理由は、複合的な要因が絡み合っています

1. **豊臣家の弱体化と求心力の低下:**

*豊臣秀吉の死後、幼い秀頼を抱える豊臣家は、内部の結束が弱まっていました。特に秀吉恩顧の大名たちが家康に味方する者が多く、豊臣家には浪人しかまらなかったため、組織的な統制が取りにくかったと言われています

*秀吉正室である北政所(ねね)との役割分担が明確でなかったことも、豊臣家の結束力を弱める一因となったという見方もあります

2. **淀君と秀頼の「母子密着」と家康要求拒否:**

*淀君は、息子である秀頼を深く溺愛していました。家康が秀頼に対し臣従を求め、江戸下向や淀君人質としての江戸在住などを要求した際、淀君はこれを屈辱的と感じ、すべて拒否しました。この母子の強い絆と、家康要求を一切受け入れない姿勢が、両者の対立を決定的なものにし、大坂の陣への道を開いたとされています

3. **政治手腕の限界情報戦での不利:**

*淀君は、向こう気が強く、豊臣家を守るために矢面に立っていましたが、政治家としての資質は不足していたという評価もあります。有能な家臣が不足していたため、自身政治の表舞台に出るしかなく、その重圧は大きかったとされています

* また、家康は豊臣家を滅ぼすための周到な準備を進めており、方広寺鐘銘事件のような言いがかりをつけて豊臣家を挑発するなど、情報戦心理戦でも優位に立っていました。

4. **圧倒的な武力大名の支持:**

*徳川家康は、関ヶ原の戦いを経て天下の実権を掌握しており、多くの有力大名たちが家康に味方していました。対する豊臣方は、寄せ集めの浪人衆が主体であり、軍としての組織力や統制力に劣っていました。大坂の陣では、徳川方が圧倒的な武力で豊臣方を包囲し、最終的に大坂城落城しました。

これらの要因が複合的に作用し、淀君と秀頼は徳川家康に敗れ、豊臣家は滅亡することになりました。淀君が「悪女」として描かれることもありますが、彼女は愛する息子と豊臣家を守るために必死に戦った悲劇のヒロインと見る向きもあります

Permalink |記事への反応(0) | 12:23

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淀君関ヶ原の戦いへの道程石田三成を支持したのはなぜ?

関ヶ原の戦いに至る道筋で、淀君淀殿)が石田三成を明確に支持したという直接的な史料は少ないですが、状況証拠から、**結果的石田三成が率いる西軍に豊臣家が擁立される形になり、淀君もそれを容認せざるを得なかった**という見方が強いです。

詳細としては以下の点が挙げられます

**豊臣家の存続を第一に考えていた**:淀君豊臣秀吉側室であり、秀頼の生母として、豊臣家の安泰を最優先していました。徳川家康が力を増していく中で、豊臣家の立場が危うくなることを懸念していたのは確かです。

**家康との対立**:豊臣秀吉の死後、五大老筆頭である徳川家康権力を強めていく動きは、豊臣家の権威を脅かすものでした。淀君家康の行動に不満を抱いていたとされます

**西軍の「豊臣家擁護」の大義**:石田三成挙兵する際、その大義名分は「豊臣家を守り、家康の専横を止める」というものでした。このため、豊臣家の重臣である毛利輝元などが西軍総大将に担ぎ上げられ、形式上は豊臣家が西軍を支持する形になりました。

**大坂城から支援**:関ヶ原の戦いの際、淀君と秀頼がいる大坂城から西軍に軍資金が与えられたという記録もあります。これは、完全に三成を支持したというよりも、豊臣家の名のもとに西軍が動いていたことを示すものと考えられます

**戦後対応**:関ヶ原の戦い西軍が敗れると、淀君自身と秀頼が西軍に深く関与していなかったことを家康に認めさせ、責任追及を免れました。これは、淀君政治的に非常に慎重で、豊臣家を存続させることを第一に考えていたことを示唆しています

結論として、淀君積極的石田三成の「個人」を支持したというよりも、豊臣家の存続と権威を守るという目的のために、結果として石田三成が率いる西軍の動きを容認支援する形になった、と考えるのが妥当でしょう。

Permalink |記事への反応(0) | 12:21

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豊臣秀吉側室である淀君は、秀吉の死後、御曹司の秀頼を利用して、フィクサーとしてどのように権力をふるったの?

淀君淀殿茶々)は、戦国時代の波乱に満ちた生涯を送った女性であり、豊臣秀吉側室として秀頼を産み、秀吉の死後は豊臣家の実質的後見人として権力を掌握しました。その生涯と権力への関わりについて、詳細に解説します。

###淀君秀吉の馴れ初め

淀君は、織田信長の妹であるお市の方と、北近江戦国大名浅井長政の長女として生まれました。幼名は茶々彼女人生は幼い頃から悲劇に満ちていました。

1. **浅井家の滅亡**: 幼少期に、父・浅井長政織田信長敵対し、小谷城の戦いで滅亡します。父は自害し、兄も処刑され、茶々は母お市と妹たち(初、江)と共に信長保護されます

2. **柴田勝家との再婚、そして死別**: その後、母お市信長の家臣であった柴田勝家再婚しますが、本能寺の変後、秀吉と勝家が対立し、賤ヶ岳の戦いで勝家は敗死。母お市も勝家と共に自害します。

3. **秀吉による保護側室入り**:茶々三姉妹は、母と養父の仇である秀吉保護されることになります秀吉はかねてより、戦国一の美女と謳われたお市の方に憧れており、その面影を最も強く受け継いでいた茶々側室に迎えることになります。具体的な時期は天正16年(1588年)頃とされています

このように、淀君秀吉側室になったのは、自身意思だけでなく、戦乱の中で後ろ盾を失った浅井三姉妹秀吉保護したという経緯があります。親の仇とも言える秀吉側室になるという、非常に複雑な運命を背負うことになります

###淀君秀吉側室だったか

はい淀君豊臣秀吉側室でした。秀吉には正室である北政所(ねね、おね)の他に多くの側室がいましたが、その中でも淀君特別存在でした。その理由は、彼女秀吉の世継ぎとなる鶴松(夭折)と秀頼を産んだ唯一の女性だったからです。

当時の秀吉は、正室北政所との間に子が無く、他の側室も子を授かることがありませんでした。そうした中で、淀君が立て続けに男児を産んだことは、豊臣家にとって非常に大きな出来事であり、淀君地位確立させることになりました。秀吉は鶴松が生まれた際に、淀城を茶々に与え、それから淀殿」と呼ばれるようになりました。

秀吉は、淀君が産んだ子を非常に可愛がり、特に秀頼が生まれた際には溺愛したと言われています。秀頼が秀吉の実子であるか否かについては当時から様々な憶測がありましたが、現在では確たる証拠はなく、秀吉自身後継者として秀頼を深く愛し、育てたことは事実です。

###秀吉の死後、淀君は秀頼を使ってどのように権力黒幕になったか

秀吉が慶長3年(1598年)に亡くなると、淀君は幼い秀頼の生母として、豊臣家における絶大な権力を握ることになります

1. **正室北政所引退淀君地位確立**:秀吉の死後、正室北政所剃髪して高台院と名乗り、大坂城を出て京都に移り住みました。これにより、大坂城には淀君と秀頼が残り、実質的淀君が豊臣家の最高権力者としての地位確立します。

2. **幼い秀頼の後見**: 秀頼はまだ幼く、政治的判断を下すことはできませんでした。そのため、生母である淀君が秀頼の後見役として、豊臣家の政治差配するようになります。諸大名への指示や外交交渉など、豊臣家の重要な決定は淀君意向が強く反映されるようになりました。

3. **対徳川家康方針**:秀吉の死後、五大老筆頭であった徳川家康が台頭し、豊臣政権内の主導権を握ろうとします。淀君は、秀頼の存在を盾に、家康による豊臣家の支配に対抗しようとしました。淀君は、家康の動きに対し、豊臣恩顧の大名たち(石田三成ら文治派)を擁護し、また大坂城の財力を背景に豊臣家の権威を維持しようと努めました。

4. **関ヶ原の戦いとその後**: 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、淀君石田三成らを後押ししたとも言われています。この戦いは家康率いる東軍勝利し、家康事実上の天下人となりますしかし、秀頼の存在は依然として家康にとって脅威であり続けました。淀君は、秀頼を擁して大坂城に籠もり、徳川家康との対決姿勢を強めていきました。

5. **大坂の陣での指導力**:家康は、豊臣家を完全に滅ぼすため、大坂冬の陣、夏の陣を起こします。この時、淀君は籠城の方針を強く推し進め、豊臣家の軍事行動指導しました。しかし、結果的大坂城落城し、淀君は秀頼と共に自害し、豊臣家は滅亡しました。

淀君は、幼い秀頼を守り、亡き秀吉が築いた豊臣家の存続を図るため、政治の表舞台に立ちました。彼女の行動は、豊臣家を守るための母としての愛情と、名門の血を引く女性としてのプライドが入り混じったものであったと言えますしかし、時代徳川家康による天下統一へと大きく傾いており、その流れに逆らうことはできませんでした。結果的に、淀君は「豊臣家を滅ぼした悪女」という負のイメージを背負わされることになりますが、彼女の行動は、豊臣家の命運を背負った女性としての必死努力であったとも評価できます

Permalink |記事への反応(2) | 12:12

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2024-08-08

anond:20240808161043

駿府城のタヌキはアクビをしながら 今日も一日を過ごしてゆく

何も変わらない 穏やかなペルソナ

みんな夏が来たって浮かれ気分なのに 淀君は一人さえない顔してるネ

そうだ君に見せたい筒があるんだ

大きな日輪の夕やけ 子供の頃と同じように

外様譜代も 親藩でさえも 質求めてゆくから

この長い長い下り坂を君を徳川神輿に乗せて

ブレーキいっぱい握りしめて ゆっくりゆっくり下ってく

Permalink |記事への反応(1) | 18:27

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2024-04-15

anond:20240414124452

ヤリマン女性仕舞いには女帝になるから恐ろしい話になると思うよ

ヤリマンは表向きは語られないだけで、淀君とか西太后とか、権力掴んで君臨した女って、つまりそういうことじゃないのかな?

一般的忖度されれて叩かれないじゃん

枕営業権力を掴んでしまえば女帝扱い

Permalink |記事への反応(0) | 01:50

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2022-11-28

anond:20221127215300

淀君

Permalink |記事への反応(0) | 23:41

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2022-06-16

秀吉は内政手腕もあったんだな

刀狩

太閤検地

あたりは有名だけど、

小田原攻め

の時に、勝つことが確定してるから

むやみに死者を出さないために調略で勝ったり、

長丁場になるから淀君を連れてきたり部下にも妻帯を許したなど、

柔軟な思考だったことがわかる

歴史もっとも偉大なノンケである

Permalink |記事への反応(0) | 20:07

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2022-05-24

anond:20220524104529

俗説やろ。そもそも淀君長身家系やし。

Permalink |記事への反応(0) | 10:46

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anond:20220524104337

巨体だったか大野治長説がつよい

淀君の世話を長年してたからな

Permalink |記事への反応(1) | 10:45

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2022-03-30

anond:20220330134906

朝鮮出兵北京まで取っておけば良かったな


秀吉死亡で兵を引かせたのは淀君あたりだろうから

殺しておけば・・・

Permalink |記事への反応(0) | 14:44

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2021-12-14

羽柴秀吉中国マングリ返しをしなかったらどうなったのか?

朝鮮出兵の留守中に全国各大名の妻子を呼びつけて

手を付けまくったとあるが、

秀頼より年上で優秀な後継ぎ&淀君以上の側室がいたら

大阪城の戦いで勝ってた可能性高いよね!?

Permalink |記事への反応(0) | 09:35

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2019-06-29

淀君がとても勝手だったので

ノートルダムのせむし男

焼け落ちかけた大阪城天守閣から

淀君をを突き落とした

Permalink |記事への反応(0) | 09:03

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