
はてなキーワード:消滅とは
無力感は自然発生しない。制度・文化・心理の三層構造で精密に設計される。
以下の条件が揃ったとき、民衆は自ら行動を放棄し、支配に従う観察者となる。
投票・請願・抗議などの政治行動が、結果に直結しないことを繰り返し体験させる。
政策決定過程を複雑化・専門化し、「誰が責任者か分からない」状態を意図的に作る。
官僚・委員会・審議会を盾として前面に出し、政治家も国民も責任を回避する構造にする。
このとき、行動のコストが期待値を上回り、最適戦略は何もしないことになる。
「空気を読む」「和を乱さない」といった規範を教育とメディアで再生産する。
異論者を敵ではなく変人として扱う。社会的排除は暴力よりも効果的だ。
「成功は適応の結果」「不満は努力不足」という道徳を浸透させ、構造批判を個人の失敗に変換する。
→ この段階で民衆は自らを検閲し、互いを監視する。支配者は沈黙の群衆を得る。
メディアが問題を連日報じながら、解決の物語を決して提示しない。
SNSが怒りを即時発散させ、組織化を阻む。怒りは行動に変わらず、ただ消費される。
エンタメ化された政治は、抵抗を観賞に変える。人々は現実を変えるより、実況することを選ぶ。
→民衆は自分の生活を「誰かの物語」として眺める。これが観察者化の完成段階である。
その瞬間を測る基準は次の三つだ。
【基準1】
支配の言説が自己責任の形で内面化された瞬間、抵抗は消滅する。
【基準2】
監視と同調が自動化され、権力が介入せずとも秩序が保たれるとき。
【基準3】
自らの鎖を秩序と呼び、その枷を守るようになった時、支配は完了する。
無力感の制度化とは、力の外的行使ではなく、意志の内的従属化だ。
いろいろ挙げられてるけど基本的には「今まで培ってきたいろいろなメリットを失います」って話ばかりで、これって自社ハード+独自ソフトのエコシステムが機能していることが大前提だよな
Xboxに関してはこのエコシステムが既に実質崩壊してしまっていて、もはやブランド自体が消滅の危機に立たされているという前提で分析が必要だと思う
以下回答
ゲーム機メーカーが「自社ハードウェア事業を終息」し、「自社ソフトを他社プラットフォームに供給する」という方針転換を行う場合、経営・ブランド・技術・収益面などで多面的なリスクやデメリットが生じます。以下に体系的に列挙します。
🧩 1.経営・戦略面のリスク
■ (1)収益構造の変化による利益率低下
- 自社ハード販売による利益(ハード本体・周辺機器・ライセンス料など)が消滅。
- 他社プラットフォームでは、**販売手数料(例:30%前後)**を支払う必要があり、**利益率が大幅に低下**。
- 「プラットフォーム料」によって価格戦略の自由度も制限される。
■ (2) 成長ドライバー喪失
🎮 2.ブランド・マーケティング面のリスク
■ (1)ブランド価値・アイデンティティの喪失
- 「ハード+ソフト一体の体験」を提供していたブランドが崩壊。
- 消費者にとって「唯一無二のゲーム体験」を失う。
- 長年築いた「プラットフォームブランド」(例:PlayStation、Switchなど)が**事実上消滅**。
■ (2)既存ユーザーの離反・不信感
■ (3)販売チャネルの再構築コスト
⚙️ 3.技術・開発面のリスク
■ (1)技術力・開発ノウハウの空洞化
■ (2) 他社プラットフォームへの依存度上昇
💰 4.経済・契約面のリスク
■ (1)ロイヤリティ・手数料負担
- プラットフォーム運営会社(例:Sony,Microsoft,Nintendo,Valveなど)に販売手数料を支払う。
- サブスクリプションサービス(例:Game Pass)に参加する場合、**収益分配の条件交渉が不利**になる可能性。
■ (2)価格政策の制約
🧠 5.組織・人材面のリスク
■ (1)人員削減・士気低下
■ (2) 開発体制の再構築コスト
🧩 6.市場・競争面のリスク
■ (1)差別化困難
■ (2) 他社との関係悪化の可能性
🕰️ 7. 過渡期の移行リスク
✅ 総括
観点 主なリスク・デメリット 経営 利益率低下、成長鈍化 ブランド 独自性喪失、ユーザー離反 技術 ハード技術衰退、他社依存 組織 人員整理・士気低下 市場 差別化困難、競争激化
もし本当にMicrosoftがXBOX販売から撤退したら、こういうリスクを織り込んだうえでそれでも決断せざるを得なかった、という事なわけだ。
数日後、植木鉢から異変が起こった。土の表面がひび割れ、そこから淡い光が漏れ始めたのだ。夜の裏庭で、泉と二人、膝をついてそれを見つめていた。光は、まるで夜空に瞬く星々を集めたように強く、美しかった。
「ねえ、本当にエイリアンかもね」泉が囁いた。その声は震えていたが、恐怖よりも高揚感が滲んでいた。
次の瞬間、植木鉢は音もなく砕け散り、中から巨大な光の柱が天空へと伸びた。それは、まるで世界を繋ぐ、あるいは断つための、決定的な合図のようだった。光が収まると、そこには何も残されていなかった。ただ、植木鉢があった場所から、私たちと泉を包むように、薄い、透明な「膜」のようなものが広がっているのが見えた。
翌朝、ニュースで世界が変わったことを知った。地球を取り囲むように出現した、謎のエネルギーフィールド。それは、通信や交通を麻痺させ、世界を分断した。そして、そのフィールドの発生源とされた場所――それは、私たちの街の、この裏庭だった。
「私たちが、世界を変えちゃったんだね」泉が、不安と、ある種の満足感をもって言った。世界が危機に瀕し、その鍵を握るのが、私たち二人で埋めたあの「卵の素」だった。
世界は泉と私の秘密と愛を中心に回り始めた。私たちだけの世界、誰も立ち入れない、二人だけの「小さな箱庭」が、文字通り世界を覆ったのだ。もし、このフィールドを消滅させれば、世界は元に戻るかもしれない。でも、そうなれば、泉との特別な関係も、この秘密も、普通の日常に埋もれてしまうだろう。
了解。議論の流れを踏まえ、あなたの主張(「外国人労働者なしで“管理された縮小”は可能」)の中核仮説を、データで一点ずつ崩します。結論から言うと、あなたの主張は①“圧縮のコストと時間”を過小評価し、②“人手の下限”がある領域(介護・インフラ・防衛・エネルギー)を技術だけで短期に置換できると誤信し、③外部依存(食料・エネルギー・外貨)の現実を無視しています。政策論としては実装不能な楽観です。
あなたの主張は「都市統合・生活圏圧縮」で“均衡”を保てると主張しますが、固定費は連続的に下がらない。交通・上下水・医療・学校・消防などは一定需要を割ると一気に維持不能になりやすく、路線廃止や病院撤退が誘発する“サービス消失→転出→税基盤縮小”のスパイラルが起きます(国交省の白書も、人口減少下のネットワーク脆弱化を前提に課題を整理)。 ([国土交通省][1])
「平成の大合併」の学術検証でも、合併で必ずコストが下がるとは限らない、短期はむしろ支出増、長期も項目によって増減が割れる等の結果が反復して報告。統合=節約は近似であって恒真ではない。つまり「密度再編すれば固定費が下がる」は一般化の誤りです。 ([J-STAGE][2])
厚労省の最新推計:介護職員は2040年度に約272万人必要(22年度比+約57万人、年+3.2万人ペースでの純増が必要)。現実は離職超過や採用難が強まり、介護は1応募に4.25求人という“超売り手市場”のケースも報じられています。不足の山は2030年代半ばに顕在化します。 ([厚生労働省][3])
OECDやILOのレビューは、ケア領域は人間接触・判断・倫理の比重が高く、ロボティクスやAIの代替は限定的で実装にも時間がかかると整理。生成AIで事務軽減はできても対人ケアの主工程は当面人が必要です。 ([OECD][4])
産業側でもロボット密度は世界的に急伸中ですが(IFR)、増設は主に製造現場。あなたの主張が要の介護・医療・運輸サービスは自動化難度が高い領域です。“質的転換で穴埋め”は2030sのピーク需要に間に合わない。 ([IFRInternational Federation of Robotics][5])
日本の就業率はこの10年で女性・高齢者ともに大幅に上昇。今後も改善余地はあるが、弾は既に相当使っている。OECDやJILPTも、日本の人手不足は“長期・構造的”と評価。女性・高齢者の追加動員“だけ”で需給を均すのは難しい。 ([JIL労働政策研究・研修機構][6])
OECDは明確に、「女性・高齢者の就労促進に加えて、外国人労働者のより大きな活用が不可欠」と勧告。あなたの主張はこの国際的なベースラインを外している。 ([OECD][7])
日本は食料自給率(カロリー基準)38%。残りを輸入に頼る構造は不変で、価格ショックに脆い。輸入代金の原資となる外貨獲得は規模が要る。“縮小+内需シフト”は、食とエネの輸入価格変動に晒されやすくする。 ([農林水産省][8])
エネルギー自給もOECD下位の水準。再エネ・原子力の拡大方針は進むが、当面はLNGなど化石燃料が必要。地政学次第でコスト高リスクは常在。輸入代替が進むまでの移行期は外貨の厚みが防波堤になります。 ([Reuters][9])
無人機・AI化はトレンドだが、整備・補給・サイバー・指揮統制など人員需要は不可避。装備の国産化・共同開発にも裾野人材と企業群が要る。人口と人材の最小密度を割る縮小は、維持費の単価上昇と技術の途切れを招きがち。ここを外国人高度人材まで閉じるのは自縄自縛。〔※エネルギー安保と同様、移行期の脆弱性は高い〕(政策白書・エネルギー構成の記載参照)。 ([Reuters][9])
在留外国人は376万人(2024年末)。内訳は「永住」「技術・人文知識・国際業務」「特定技能」「留学」などに分散し、技能・専門に紐づく制度設計が中心。一律の“安価な労働大量投下”という描写は実態とズレる。 ([法務省][10])
有効求人倍率は直近でも1.2倍前後の張り付き。構造的な人手不足が続いており、賃上げと自動化を促す圧力は弱まっていない。むしろ企業は賃上げ・投資・定年延長を同時進行。受け入れ=改革を止めるという単純因果は成り立たない。 ([JIL労働政策研究・研修機構][11])
人口構造の確定性(IPSS):2050年代に1億割れ、2070年8700万人規模、65歳以上が約4割の高齢社会。現役世代急減は避けられない。圧縮・自動化は必要だが、需要のピーク(介護・医療・インフラ更新)が先に来る。 ([情報処理推進機構][12])
だからこそOECDは、「女性・高齢者活用に加えて移民(外国人労働)」と複線を勧告。“技術と圧縮だけ”に賭ける単線は、移行期リスク(サービス崩壊・地域消滅・外貨不足)を無担保で抱える。 ([OECD][7])
私の主張が示した筋に沿い、単線(自動化・圧縮のみ)ではなく複線でリスクを分散すべきです。
日本が取るべきは、圧縮×自動化を前進させつつ、管理された受け入れを“保険”として併走させる複線戦略である。単線はリスク集中、複線はリスク分散。これが現実的な均衡です。 ([厚生労働省][3])
『立正安国論』(日蓮著)と『共産党宣言』(マルクス、エンゲルス著)は、成立した時代、背景、そして思想的基盤は類似点を見出すことができます。
社会の主流派や既得権益の外側に身を置いた急進的な異端者という視点から見ると、「体制外からの批判と、絶対的な正義に基づく世界観の強要」という構造的な類似性が浮かび上がります。
この共通性は、両者が既存の秩序・権威を根底から否定し、「唯一の正義」による強制的な社会変革(革命)を求め、その結果、体制側から徹底的に弾圧された点に集約されます。
「引きこもりニート」という表現は極論であり、史実的には日蓮は精力的な遊行と布教を、レーニンは地下活動と亡命生活を送った活動家です。しかし、この言葉が持つ「主流社会の権威や経済システムから疎外された者」というニュアンスに注目すると、両者の著述態度には共通性があります。
日蓮(『立正安国論』): 当時の仏教界の主流であった念仏宗(法然の教え)や、これを庇護する鎌倉幕府の権威を徹底的に否定しました。彼は比叡山や清澄寺といった既成の権威ある場所から離れ、独自の解釈である「法華経」のみを「正法」として掲げ、それ以外の教えを「亡国の原因」と断じました。これは、「俺の言っていることだけが絶対の真実だ。それ以外は全て間違いだ」という、体制に属さない者が持つ孤高で排他的な絶対正義の表明です。
レーニン(『共産党宣言』):マルクス主義は、当時のブルジョアジーが支配する資本主義体制、その上に立つ国家、法律、倫理の全てを、「階級搾取の道具」として否定しました。レーニンもまた、ツァーリ体制下で弾圧され、ヨーロッパ各地を転々とする亡命生活(社会のメインストリームから切り離された生活)を送りました。彼の主張は、「現在の経済システムは全て不正であり、これを打倒してプロレタリア独裁による理想国家を作る以外に道はない」という、体制外からの急進的で排他的な社会変革の要求です。
両者の著書は、その内容の異質さにもかかわらず、「二元論に基づき、体制内の悪を徹底的に清算しなければ、理想的な安寧は実現しない」という構造を持っています。
両文献は、現状の社会が直面する危機(災厄)を明確にし、その原因を体制内の「悪」に断定します。
危機:天変地異、飢饉、疫病、他国からの侵略(自界叛逆と他国侵逼)。
原因: 「謗法」(念仏などの誤った教え)が国に満ちていること。
危機を回避し、理想郷(安国または共産社会)を実現するためには、「唯一の正義」による反対勢力の強制的な排除が不可欠であると説きます。
「立正」、すなわち法華経のみを国教として立てること。その結果、謗法者(念仏を唱える人々)は弾圧・追放されるべきであると強く示唆します。
「プロレタリア革命」による階級闘争とプロレタリア独裁。その結果、ブルジョアジーは私有財産と共に消滅(排除)されます。
このように、『立正安国論』は宗教的絶対主義、『共産党宣言』は経済的絶対主義に基づくものですが、両者とも「現状の悪は体制内にある」「それを根絶するためには、体制外からの急進的な一元論を強制適用しなければならない」という、強力な教義的排他性を持っている点で、構造的な共通性があると言えます。
だがしかしりつみん、お前は駄目だ。おまえらは自分がかわいいだけのクズ野郎の集まりだ。共通点があるのは日本保守党だけでしょうね。
結婚して夜は飲みにも行かず、週末も妻と外出やら買い出しやら掃除やらするようになってから、人付き合いが一気に疎遠になった。
週末は男友達と競馬に行ったり、昼夜を問わずオンラインゲームを繋いだり、何の用事もないのに飲みに行ったり、趣味の社会人サークルみたいなところにも顔出してたのに。
みんなから一気に遠ざかっちゃった。
寂しい気持ちも少しあるけど、別にいいやって思うところも大きい。
こんな状況下でも半年に2,3回会うような友達こそ本当の親友なんだろうなとか思ったり。
昔つるんでた社会人サークルのメンバーが8人くらいでプチ旅行みたいなのしてるのを見て、
ああもう俺は呼ばれないよな、なんて当たり前のことを思ったりして
みんなはいつまで関係続けるんだろうな、なんて少し斜に構えて遠くから見たりして。
https://qiita.com/h_horiguchi/items/b22b2482ab1506d27664
これが、ちょっとやばい。どれくらいやばいのか、エンジニアじゃない人にもわかるように説明してみる。
まず、富士通は「社内システム開発」や「自治体システム」を担ってきた。
大企業や自治体がシステム(在庫管理、職員データベースなど)を作るときは、富士通のような大手SIer(システムインテグレーター)に外注する。
マイナンバーカード関連のシステムも、富士通が関わっている。こうした案件は、数年で数億円規模の予算が動く大事業であり、富士通の主要ビジネスの一つだ。
富士通のクソ高いサーバーやネットワーク機器を購入し、開発から保守まで富士通のエンジニアが担当する。
完全に「富士通の中で完結」する仕組みだ。
アマゾンが提供するクソ高いクラウドサービスだ。富士通のサーバーやネットワーク機器を買う必要がない。
富士通がアマゾンのクラウドを“借りて”システムを運用する形になる。
ここでお金の流れを見てみる。オンプレとAWSでは、お金の流れが根本的に違う。
そして問題の記事では、富士通の社員が自社のオンプレからAWSへの移行方法を丁寧に解説している。
つまり、「富士通を通さなくてもいい時代」の到来を、自ら説明してしまっているわけだ。
まとめると、富士通はこれまでオンプレで利益を上げてきた。しかしAWSの普及で、アマゾンにお金が流れる構造に変わっている。
そして富士通のエンジニア自身が、その変化を促すような記事を書いている。
自社のビジネスモデルを自ら否定する記事を、堂々と公開している会社。
筆者(30代)の母(60代)は片付けが全くできない。そしてそれを強く非難できる人間がいない。そのことが家族の様々な問題を滞らせている。
現状を詳細に書く。
5年前に筆者の母方の祖母が亡くなった。祖母が最後に住んでいた家は賃貸で、毎月の家賃を母と母の弟達で折半して払っていた。その家に(既に亡くなった)祖父と祖母が2人で住み、母が時折介護のために訪れていた。普通に考えれば祖母が亡くなったことで必然的に空き家になるので、すぐに解約して退去するはずだった。しかしここである問題が浮上した。
祖母は生前クラシック音楽を嗜んでおり、家には最期までアップライトピアノ、オルガン、更にはグランドピアノまでもが置かれていた。当然それらは祖母が亡くなったので処分なり売却なり譲渡なりを検討する段階に入ったのだが、きょうだい間の話し合いで母が泣き崩れて大反対したそうだ。曰く、グランドピアノは祖母が生前大変苦労して貯金してようやく購入した大切な思い出の品だから手放せないと。弟達は皆優しいので(お人良しなので)そんな母に無理強いして楽器類を処分させることはできず、結局祖父母のいない空き家の空家賃を5年間払い続けている。
母もそういった停滞した状況に一応は後ろめたさを感じているようで、片付けのハウツー本を何冊も買ったり(買うだけ)「早く片付けなきゃ」と口では言うのだが、(仕事や家事で)「疲れた」「忙しい」などと言い訳を並べ5年間のあいだ事態は一向に改善しない。更に厄介なことに母は片付けイコール「捨てる」ではなく「整理、収納」だと考えているフシがあり、今あるものを捨てずにそれらをしまう棚やケースを買ってしまって更に部屋の面積が減り、物は減らないままという悪循環に陥ってしまっている。
また、母と懇意にしているある方が祖母のグランドピアノを某所の公共施設に寄贈して再利用させてもらえるように手配してくれたことがあったのだが、「お決まりになりましたらいつでもご連絡くださいね」という向こうからのLINEに対し母は今だに返信していない(できない)そうだ。筆者からすれば、誰もいない空き家でホコリをかぶって朽ちていくより何処かの施設で人々に奏でられ続ける方が祖母もピアノもよっぽど喜ぶと思うのだが、5年の歳月をもってしてもそういった境地に至れないらしい。
「筆者も手伝うから、とりあえず使ってない家具だけでも捨てよう」と提案したこともあるのだが、「重すぎて2人じゃ運べない」「捨てるにしても業者に頼まないといけないから今はお金がなくて無理」と言って意に介さない。
片付けに限らず、母は重要な意思決定をギリギリまで伸ばす保留癖がある。何かを決めるための大事な話し合いをしていても「今はまだその時じゃないから」とすぐにお茶を濁す。とにかく自分にとって不都合な現状と向き合わずに限界まで目を逸らす。「整理じゃなくて捨てないと」「これ以上弟達に迷惑をかけられない」「これは片付けじゃなくて終活なんだ」などの耳が痛い正論を並べ立てて詰めることもできるが、それをやると普段は温厚で優しい母の顔がたちまち強張り鬼の形相と化し、不機嫌モードとなって無言でその場から去ってしまう。建設的な話が全くできない。更に母は「責められる私が悪いんじゃなくて責める方が悪い」というスーパー他責思考なので始末に負えない。とにかく「責められる」ことに対して異常なまでの嫌悪感がある。
ここからは筆者の推測だが、恐らく母は「自分の実家が消滅する」という大きな喪失を受け入れることができないので、弟達の好意に甘えて片付けないまま自分が死ぬまで「逃げ切ろうと」してるのではないか。だとしたらあまりにも身勝手な魂胆だが、表向きは片付ける姿勢を見せながら実際は全く行動を起こさない点がその説の説得力を強めている。
今回の話とはあまり関係がないので詳しくは話さないが、実は祖父母の家だけではなく母の家、つまり筆者の実家の和室も使わない物(着ない衣服、行かないキャンプの薪、筆者の弟が高校時代に取ってきたぬいぐるみetc)で溢れ完全に物置状態と化している。
この停滞状態が続くと母が死んだ瞬間に祖父母の家の片付けと筆者の実家の片付けが同時に我々子供たちに全てのしかかることになる。かといって母には誰もダメ出しできず(というかしても逆ギレする)母が生きているうちに片付けることもできないので完全に八方塞がりである。似たような状況の人がもしいたらどう対処したか参考にしたくてこの記事を書いた。
立民支持者だけど、自民に変わる野党が欲しいから支持しているだけで、いわゆる基本政策に関しては民民のほうがいいなと思っていました。より正確に言うと社民党の亡霊はちゃんと社民党に残りラサール石井の引退とともに消滅してくれたらいいのにと思ってた。
でも今回の玉木のTamakiAlways ChickensOutには本当に失望した。肝心なところで自分の利害だけを考えて逃げるやつ、という印象は、首相になりたかったら絶対にダメではないか。
そもそもさ、「基本政策が一致しないと」ってところからきれいごとだよね。今後、選挙の結果で日本が極右、右、中道、左、ぐらいにわかれて「基本政策が一致する」党だけで過半数取るのが構造的に不可能になったらどうするのさ。首相なしで日本はいくわけ?首相って行政権のトップでもあるからさ、一部の基本政策が一致しなくてもできることだけでも日本をよくすることはできるのでは?
小泉さんちの進ちゃんはちゃんと自民党の農林部会長とかやって「一連の小泉の動きは全て日本農業の弱体化を狙う米国勢力に叶うものだという批判 (wikipedia,藤井聡)」とか受けながら地道に改革してるわけだよ。彼は農林部会長を受けるときに「農林部会のみなさんが私の基本方針を受け入れない限り部会長にはなりません。」とか言ってないよ。
高市をみなよ。政権を安定させるために、維新だけじゃなくて、N国に参政党とも組もうとしているよ。玉木には絶対無理だろう。そういうの。私は政策で言ったら玉木のほうが鹿さんデマに釣られる高市よりずっとまともに思えるけど、それでも、玉木と高市どちらに日本の首相になってもらいたいか、と言われたら、高市な気がするよ。
うちの近所のとある場所は知る人ぞ知る何かの聖地らしく訪れる人が多い
しかしそこは住宅地の片隅に位置しているので、特に休日は大きな話し声や自動車の通行の妨害になるなど、眉をひそめる人も多い
そんな中、ついには真夜中にアップテンポなダンス音楽を鳴らしながら踊る(おそらく生配信している)集団が現れ始めた
その音量は徒歩数分の、窓を締め切った俺の家の中ですら微かに聞こえる程なので、より近くに住む人はたまったものではないだろう
当然、何度も何度も警察に通報され、その度に解散するのだが、警官が立ち去ったタイミングを見計らってまた再集合、ダンスを始めてしまう
妻の親しい友人はそのせいで、生後数カ月の赤ん坊が寝付けず憔悴しきっていた
どうにかならないものかと妻も頭を悩ませていたので俺は一計を案じ、タブレットにある準備を施した
そして決行の夜、俺はそこへ赴き、某サイトて購入したアダルト動画(国内の合法なサイトのものだが、出演者が未成年に見えてもおかしくないようなもの)を再生中のタブレットをダンス集団が設置したカメラに割り込ませた
リーダーらしき男が俺のタブレットを払いのけるまで優に十数秒はあったと思う
男は何やら怒鳴りながら俺を突き飛ばし、俺がその場を離れたのを確認してダンスを再開した
タブレットで確認したところ、ダンス集団の配信アカウントは凍結されていた
https://x.com/MYmelodyn_n/status/1975496088015806674?t=elGN7EArIL47ezVUsSs25A&s=19
https://x.com/7korobi___8oki/status/1968506806122201312?t=PHFlj9xAnKMXwsiE5k-BmQ&s=19
漫画・同人は禁書扱いで燃やされ、コスプレイヤーは暴行されます。
兵、求む。
#拡散希望
https://x.com/frompoison/status/1976576835933855965?t=lLi1qgnuxdX82emnh2m-aQ&s=09
上野のモスク建て替え工事で何故かパニクった参政党大好きオタク達が上のようなデマを拡散し「秋葉原にモスクが出来るとメイドさん達がレイプされてしまう!」とデモをやっていた。
薬の明細書の裏をカンペにし、ウマ娘フィギュアを振りかざしてがなっているオタクのXアカウントもヤバかったが、pixivアカウントヤベェ…。
ほぼほぼおねショタエロなのだが、たまにゴルシが「あたしが参政党じゃーーー」と喚くような、参政党賛美小説も混ざる。
https://www.pixiv.net/users/10865246
デモでマイクカバー食いちぎったオタクとか、最近のオタクガチ医療が必要なやべえの多そうすぎでまじこわいし、そういうのがデモやってテレビに出てるのもこわ…。
主催者と出版社の交渉はどうやら決裂のようで、25日の開催は難しくなったのではないか。
かつての出版社に法的な権利がないとか騒いでいる虫塚虫蔵とやらの言い草は、まさに負け犬の遠吠え。
ならば中古屋が画像を使うのは違法か?などと言っているあたり、もはや権利を完全にはき違えている。
久保書店が不義理な会社だ「逆恨み」とか言ってるあたり、もはや救いようがない。
実際、参加予定の漫画家のなかには、公式イベントと誤解したポストをしている人もいます。
それなのに久保書店にはなんの連絡もなかったという。
商標が切れていようが、久保書店の著作物である権利は消滅しません。
止めるのは、まったくもって正当な権利です。
それにしても横顔の写真を無断でトレスして絵を描いただけで大騒ぎする現代に、
なぜ明確な創作物であるロゴの完全コピーが許されると思ったのやら。
(件の人物は、ロゴの盗用には一切触れていないのも極めて卑怯です)
いちおうは商業出版の経験もある、漫画研究家が主宰している点です。
漫画文化を研究するにあたって、80~90年台のエロ漫画は外せない要素です。
自分達の学術研究(つまりは快楽と自己満足)のためには、権利など無視して構わないという本音が透けてしまった。
恐らくはイベントは中止にして、名前を変えて仕切り直すのでしょう。
たしかに豪華で貴重な登壇者の面々を見ても、これで消えてしまうのは惜しい。
しかし権利元の意向を無視して開催することは、今後においても良い影響を残すとは思えません。
オタクカルチャーにおいて過去を振り返ることが、難しくなってしまう。
なんとも拙いことをしてくれたものです。
俺は事情通だから全て分かってると匂わせ、ただただ久保書店を攻撃している。
仮に彼の主張が正しかったとして、事態を悪化させるだけですよ。
あたかもオフィシャルかのようなロゴや画像を使って集客し、前売りは完売。
こんなやり方は倫理的にどうなのでしょう??
「強靭な精神性」は、単なる心理的資質ではなく、観測者としての自己と宇宙との関係性の理解に還元される。
古典的な精神論を超越し、我々の認知活動を物理的な情報処理として捉え直す。脳内の電気信号が量子ゆらぎによって基礎づけられるとするなら、主観的な「私」は宇宙の法則から独立した存在ではなく、その法則そのものを具現化した特異な演算主体と見なせる。
この観点に基づけば、「誰も見ていない発信」という概念は無効化される。思考という事象は、神経細胞の発火を通じて電子の運動を誘発し、これは局所的な時空の微細な歪みとして宇宙の構造に刻印される。これは、いかなる受動的レシーバーがなくとも、真空そのものを伝達媒体とする宇宙規模の通信である。
「フォロワーゼロ」は「非観測状態」を意味しない。私という観測者の存在そのものが、世界の波動関数を収縮させ、観測の射影を発生させている。私の思考は、この世界の状態を決定する基本操作である。
現代社会における「承認」「評価」「インプレッション」といった情報は、観測者を束縛するエントロピー的なノイズ、すなわち情報論的な檻を構成している。
しかし、この束縛からの解放は、ただ一つの命題に集約される:「私の思考は世界の基底演算である」。
この情報論的格子の隙間に存在する真空こそが、観測主体としての自己である。私の認知が停止すれば、世界の記述は静止し、私の発言は時空の振動を引き起こす。
したがって、「投稿行為」はSNS上の書き込みではなく、宇宙の再初期化プロセスに等しい。
「自由」とは、従来の「支配」の対義語としてではなく、「支配(観測による規定)と自由(観測からの独立性)の境界が消滅した状態」への到達を意味する。
フォロワーという社会的構成物は、私の観測がなければその概念すら存在し得ない。
故に、私は今日も観測者不在の文章を記述する。この行為は、宇宙そのものの状態空間を走査する自己参照的な演算であり、「檻の中の帝国」とは、この孤立しつつも全能な観測主体としての心の形態を示す。