
はてなキーワード:海砂利水魚とは
関西人の会話って「ボケ」と「ツッコミ」みたいな型があるじゃない?
関東とかも、関東に限らんけど、「会話の型」ってのがあると思うんだよね。
1対1と3人以上でまず違ってくるよね~。
4人くらいが会話の限界かなって。
6人とかだともう無理。やりとりではなく、それぞれトークを拝聴する感じになる。
それはそれとして、思いつく型を書いていってみる
会話の基本ってこれかなと思ってる。
「お、いい靴履いてんじゃん」
「これ貰いもんなんすよ、〇〇さんから」
「マジで?なんで?」
「いやこの間誕生日で」
「え~ごめん知らなかった。いつ?」
「〇月△日です。そういえば先輩の誕生日もうすぐじゃないですか?」
「ん?」
連鎖が飛躍すると「ん?」となるのでいかに飛躍にならないかが重要。
ただし共通のコンテキストを持ってればごちうさの話題でも連鎖はつながる。
ただ共感するだけ。お互いを認識しあう、毛づくろいのような会話。
「暑すぎて笑えます」
「ほんと暑い。じめじめするし」」
「湿気最悪ですよね」
「暑いわー」
こういう"無"の会話でも、やるとなんか満足感がある。
"無"から始めると、どんなくだらないテーマにうつっても許されるハードルの低さも魅力。
内気な人が多かったり初対面だったりで会話が回らないとき、気遣いの人が司会役をかって出るとこうなる。
「休み何してる?」
「趣味は?」
「出身は?」
みたいな浅い質問をして、かえってきた答えをいかに興味を持って深堀できるかがカギ。
自分にヒットしなくても、場の別の人にヒットすればそこに話を振っていくことでコンボが期待できる。
深堀しすぎると長時間会話に参戦できない人が出てくるので、ある程度見切りをつけて会話を転換できるかがポイント。
劇場のクオリティ(面白さ)を高めるために、参加者は演者として協力しあう。
「あーあー、あれね、お菓子のやつ」
「指にはめるやつだ」
「……ッそれはとんがりコーンや!」
いわゆるエピソードトークなど。会話というよりは話芸に近いか。
劇場型のように客を意識すれば「面白い人」「すべらない話持ってる人」のように好い印象になるが、
ただ話したいことを延々と話すと「なんだこの時間」となる場合が多いので注意が必要。
「なんか面白い話して」
「それじゃ、寿限無寿限無五劫のすりきれ海砂利水魚の水行末雲来末風来末食う寝るところに住むところやぶらこうじのぶらこうじパイポパイポパイポのシューリンガンシューリンガンのグーリンダイグーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助の話でもする?でも寿限無寿限無五劫のすりきれ海砂利水魚の水行末雲来末風来末食う寝るところに住むところやぶらこうじのぶらこうじパイポパイポパイポのシューリンガンシューリンガンのグーリンダイグーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助の話は長いからちょっとこの場じゃ難しいかなー?だけど寿限無寿限無五劫のすりきれ海砂利水魚の水行末雲来末風来末食う寝るところに住むところやぶらこうじのぶらこうじパイポパイポパイポのシューリンガンシューリンガンのグーリンダイグーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助の話は面白いし有名だし、ちょっと演ってみましょうか」
話したいことを話すが、それは非常にコンパクトなつぶやきに収まるもの。
独り言に近いが、誰かに聞いてもらいたい。そういうときに発現する。
職場で隣の席の人に雑談を振るときなんかは大体このつぶやき型である。
「ちょっとスゴい話していい?」
「いいっすよ」
「さっき私がSlackに書き込んだ時間が11月11日11時11分だった」
「ほんとだ、すげえ」
「な」
トラバくれてたんだ!
元増田です。あの増田を投稿した瞬間に意識失ってたから気づかなかった・・・・・・
「助」が男性を指してるのはその通りなんだけど、男性器を「寿限無~『長助』 」と呼ぶと必然的に長大なイチモツを連想するでしょ?
特に、世界的に見ても平均的日本人は、陰茎が長いというわけではないから実態に即してないと思うのね。
それに女性のことも「スケ」と呼ぶでしょ?( 今調べたら「スケ」って「なお助」の略らしいよ !知らなかった!)
sexのことも俗に「オメコ」と呼ぶこともあるから、「スケ」から連想される性的なイメージも相俟って、私は女性器のことを「寿限無寿限無五劫のすりきれ海砂利水魚の水行末雲来末風来末食う寝るところに住むところやぶらこうじのぶらこうじパイポパイポパイポのシューリンガンシューリンガンのグーリンダイグーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助」と呼んでます。
この他大量にあったものの、増田の仕様にひっかかりそうなのでここまでとする
もう誰かWikiでも作っておけよ
役割を軸にして考えたとき、(コントと比較すると)漫才ではボケとツッコミの役割がはっきり分かれるパターンが多い。
これは、コントでは最初から最後まで「自分以外の役」に入り込んで「演技」をする形態が主であるのに対して、漫才ではあくまでも「自分」が喋っている体で「会話」をする形態が主だからである。
「だったらコント漫才(M-1優勝者ではアンタッチャブルやサンドウィッチマンなどのネタがそれに該当)はどうなの?」という疑問が当然あると思うが、これも基本的にはボケ・ツッコミ共に自分自身を投影した役であることが多く、純粋なコントに比べると言動にパーソナリティが大きく反映されるという点で違いがある。
つまり、漫才には純然たる役割が決められており、M-1が2001年から開催されひとつの「競技」となっても「ボケ担当の人はひたすらボケ続けるし、ツッコミ担当の人はひたすらツッコみ続ける」という形はしばらく変わることがなかった。
漫才における役割を軸にして考えたとき、まず最初に議題に上がるのが笑い飯というコンビである。
彼らは、最初どちらかがボケてそれに対してツッコむというやり取りが終わったあと、ツッコんだ側が「俺にもやらせろ」と言って役割が変わり、それ以降はツッコむごとに役割が交互に変わっていくというスタイルを持つコンビである。
しかし、ネタ全体の構成を見るとボケ・ツッコミの役割がハッキリと別れており、それが入れ替わるというギミックがなければ比較的オーソドックスなネタであるとも言える。
このボケ・ツッコミという役割を曖昧にした上で主要大会を優勝した最初のコンビは、M-1 2005におけるブラックマヨネーズである。
基本的に吉田がボケ・小杉がツッコミの役割を持ったコンビであるが、この年に披露したネタは後半になっていくにつれて小杉が突拍子もないことを言いだし、それに対して吉田が正論でツッコむというパターンが多く見られた。
これは「平場のトーク(ラジオなど)では面白いのにネタがいまいち」というブラマヨ評に対して彼らがたどり着いた一つの回答である。
つまり、漫才だからといって必ずしも役割をハッキリ分けず、普通の会話のようにボケとツッコミがシームレスに入れ替わるパターンがあっても良い、ということが世間にも認められた瞬間であった。
そして、その漫才における役割の曖昧性が頂点に達したのはTHE MANZAI 2012である。
この中で役割がハッキリと別れたネタをする千鳥はさておき(ここもベタとは言えないスタイルを持つコンビではあるのだが…)、注目したいのはハマカーンとアルコ&ピースである。
まず、優勝したハマカーンであるが、2012年以前は浜谷がボケ、神田がツッコミという役割が比較的はっきりと別れた漫才をするコンビであった。
しかし、この前年のTHE MANZAIで(本人曰く)惨敗したあと、スタイルを大きく変える決断をし、役割も主として神田がボケ、浜谷がツッコミという形に変更した。
そして、このスタイルのネタの中で一番特徴的なのは、神田が女子目線で物事を語ったあと、浜谷が著しく感情的に怒り、それに対してさらに神田が理論的に諭すというものである。
抽象的に言い直すと、本来は単なる導入部に過ぎないネタ振りがボケとなり、それに対してボケに限りなく近いツッコミをして、それに対してさらに言い返す、というパターンを構築しているのである。
彼らもやはりブラマヨがネタの構成を変えた理由に近いものがあり、優勝後に記者が彼らに「どっちがボケ・ツッコミって書けばいいですか?」と質問したというエピソードもあるくらい彼らの役割は曖昧であったと言える。
彼らは、漫才の代表作としてラテン語風の架空の言語を駆使して(しかし、よく聞くと日本語が散りばめられており内容がわかる)しゃべくり漫才など、(自分自身を投影した役割ではないという意味で)どちらかと言うと限りなくコントに近い漫才を得意としていた。
この年に披露したネタは、酒井がよくある漫才のネタ振りを平子が真剣に受け取り芸人として苦言を呈していくというものであった。
これは、見ようによっては役割上はツッコミであるはずの酒井がボケっぽく見え、ボケであるはずの平子がツッコミっぽく見えるネタであると言える。
決勝ではハマカーンに敗れてしまったものの、このネタにより一回戦を審査員満票で笑い飯を退け、決勝に勝ち上がったということの意味はとても大きい。
このようにして、漫才における「役割」を軸にして考えると、いろんなことが見えてくる。
つまり、伝統的な漫才とされているものが、役割だけで見ると必ずしもそうとは言えない(またはその逆)ケースが出てくるのだ。
昨年M-1を圧倒的な評価で優勝したミルクボーイであるが、ちゃんとやり取りがあるという点においては比較的ベタなしゃべくり漫才と言えるが、役割を軸にするとどうだろうか。
彼らのネタはボケである駒場が、母親がなかなか思い出せない物事があると語り、それに対してツッコミである内海がヒントを元に推測する、というスタイルになっている。
ここで、内海のツッコミに注目すると「〇〇やないか!」「〇〇ちゃうやないか!」という最初のフレーズを除き、推測対象(コーンフレーク及び最中)に対してやや偏見掛かった持論を語るという形になっており、取りようによっては最初のフレーズ以外はほぼボケとみなすことも出来るだろう。
ボケである駒場も、特に突拍子もないことを言うわけでもなく、ただ淡々と対象を推測しうるヒントとなるワードを言い、それがツッコミによりボケと気付かされるというスタイルになっている。
つまり、ミルクボーイは役割こそ別れているものの、その境界線はかなり曖昧で、実はツッコミがボケをリードする形になっており、しゃべくり漫才における主従関係が逆転したスタイルをもつコンビと言える。
この、ボケと言えるかギリギリのラインを攻めるボケと、それを埋めるように著しく強いツッコミをするというスタイルをもつコンビは、過去にもくりぃむしちゅー(海砂利水魚)などがいるため、前例がないわけではないが、漫才全体の歴史で考えると十分革新的なスタイルであると言えるだろう。
一方、漫才であるかどうかということが槍玉に挙げられたM-1 2020を優勝したマヂカルラブリーであるが、役割だけを見るとかなり保守的であると言えるだろう。
彼らのネタはボケである野田がひたすらボケ続け、ツッコミである村上が外側で解説に近いツッコミをし続ける、というスタイルである。
つまり、やり取りが序盤とオチ以外存在しないという点が従来の漫才から外れているというだけで、それ以外は至極まっとうなスタイルのコント漫才である。
この「やり取りが存在しない」という漫才の最右翼としてあげられるのがナイツだが、彼らが漫才師でないという意見はほぼ皆無であろう。
したがって、ナイツを漫才師であると評価している以上、マヂカルラブリーのネタを漫才でないと評価するのは無理のある議論と言えるのではないだろうか。
パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリーア・デ・ロス・寿限無、寿限無五劫の擦り切れ海砂利水魚の 水行末 雲来末 風来末 食う寝る処に住む処 やぶら小路の藪柑子パイポパイポパイポのシューリンガンシューリンガンのグーリンダイグーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの 長久命の長助・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・ラ・サンディシマ・トリニダード・ルイス・イクルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラアユッタヤー・マハーディロッカポップ・ノッパラッターナラーチャタニーブリーロム・ウドンラーチャニウェットマハーサターン・アモーンラピーンアワターンサティット・サッカタットティヤウィサヌカムプラシット・ピカソ
オンライン飲み会をしたけど終始会話が盛り上がらなくて、微妙な雰囲気で飲み会が終わり、現在絶賛脳内反省会中である。生きてて何が楽しいのか分からなくなるし、1人でいた方が楽だなとか思うけど、それでもまた懲りずに人と話したくなる時期が来るのだろう。人と話したくなる周期が全く同じ人間が周りにいたら最高じゃんと思ったけど、所詮人間だからまた違うことで悩むことになるって絶対。人間と人の使い分け謎すぎる~とか、名詞で終わる文法的なやつって何だっけな~(答:体現止め)とか、また違うこと考え始めてしまった。あれ、“始めて“と“初めて“どっちを使えば良いんだっけ?いや脳内再生するぶんにはどっちでも良いだろ!ってまたコンマ1秒後の自分がツッコミを入れている。コンマってどういう意味なのかはわからない。意味わからないまま使っている言葉が多すぎて恥ずかしくなってきた。反省会2周目ヨーイドン!よーいドン!よーいどん!うわ~きたよ、いざ文章にするとどこまでがカタカナなのか混乱するやつ。冷静にもう一度考えたらよーいドン!でしかない。メール送った直後に誤字に気づくのなんでだろ~なんでだろ~なんでだなんでだろ~寿限無寿限無五劫の擦り切れ海砂利水魚...今こち亀思い浮かんだだろ。こち亀って言ったら4年に1回しか登場しないキャラが忘れなれない名前は忘れたけど。あと、ボーナスの額書き換えちゃう回がめちゃくちゃ記憶に残ってる。やっと自分もボーナス貰える年齢になったけど、やっぱり学生時代に恋人作っておくべきだったな~何をするにも(これは大袈裟ではない)卑屈になっている気がする。胸を張って歩け~~!わんつーさんし!そういえば、