
はてなキーワード:海抜とは
カヌーはお椀を前後に引っ張ったかたちをした、幅広底深のオープンデッキのフネで、積載能力が高い。カヤックは底の浅い流線型をした、コックピット部分に穴が開いたクローズドデッキのフネである。
カヤックには、グラスファイバー製で一体成形のリジッドカヤックの他、広げた折り畳み傘のように、グラスファイバーやアルミの骨を組んで、岩にこすれても簡単には破れない丈夫な防水スキンを張った、フォールディングカヤックがある。専門店で注文する。
機能的には、水遊び用の全長1m強の小回りの効く水すましタイプ、荒れ狂うホワイトウォーターに飛び込んで戯れるロデオ、全長5mほどでキャンプ道具など積載できるツーリングカヤック、舵のついたシーカヤックなどに分けられる。
カヌーではオール(パドル)の片端のみに水かきがついていて、片膝を立ててJストロークを左右繰り返して直進する。
カヤックでは、両腕を伸ばしたままパドルをもち、横倒しにした8の字を立体的に描くように左右に動かして漕ぐ。上手い人は、進路変更以外では、パドルの先をほとんど水面下に浸けない。私はというと、半分以上先を浸して強引に漕ぐ、水上の筋トレ派だ。
性能の良いライフジャケットは必須である。性能は浮力のkg表示で判断する。必要スペックの詳細はアウトドアショップで尋ねてほしい。単に静水で浮くだけでなく、流れの落ち込みで圧されたとき浮力を保証するようでないといけない。浴槽の栓を抜くと水と共にゴミが渦を巻くが、川で流木等が積み重なっている場所は水の吸い込み口で、近づくとフネごと引き込まれてとても危険だ。
パドルは、ホームセンターで売っているのは予備として、できれば専門店で良いものがほしい。
服装は、頭は帽子かバンダナ、胴はウエットスーツか冷水ではドライスーツ、足元は長靴かサンダルがいいというが、要は日差しと低体温を防げる機能的な格好ならなんでもいい。
貴重品や着替え、食料などは、防水のドライバッグに入れて膨らませ、転覆しても荷物が浮くようにしておく。
地図は、国土地理院の一番細かいものをコピーするか、場合によっては川地図が買える。堰堤の場所(上陸して回避する)、最寄りの道路、民家などの場所、キャンプ場のある上陸可能な岸などがわかればいい。
自分のフネをもつ人は好きなとき好きな水に浮かべればいい。カヌーの場合、川でははじめ、へ先を上流に向けて漕ぎ出す。
フネをもたない人は、アウトドアショップやカヌーショップ、それにレンタルカヌー屋が開催する体験ワークショップやツーリング(川下り)に申し込むことになる。どちらも漕ぎ方はもちろん教えてくれるが、ツーリングでは流れの読み方も教えてくれるはずだ。関東だと長瀞、関西だと吉野川、北海道だと釧路川など。
フネが転覆して中の人が水没することを沈するという。ワークショップでは教えることになっているはずだが、沈したときパニックで溺れないよう、また対処のしかたを知るために、一度は経験しておくのがいい。
風波が強くてフネがあおられるときは、水面をパドルで押さえるように叩いてバランスをとる。波に対してフネが横向きになったり、岸近くの波に巻かれると転覆しやすい。川で水が白くなって見えるところを「瀬」というが、瀬に入る前にコース見をしてから突っ込む。瀬に岩が噛んで泡立っている場合はヘルメットなどが必要だろう。日本の川は急流で短い。
私はツーリングでは一度も沈したことがなく、漕ぎ方もずいぶん上達したものと思っていた。なにしろ2000km近くフネに乗ったのだ。ある夏、友人夫妻と湖で小さなカヤックを漕いだところ、私より非力なはずの友人の奥さんは静水で2倍のスピードで進んだ。体重差で言い訳はできない。つまり、これまで私は流れに逆らわず、流れに乗って川下りをしていただけであるのが判った。あまり従順すぎるのも考えものだ。
2025年現在、川魚を食べて健康に問題ない日本の川があるのかわからない。昔、極北に注ぐ川の水の澄んだ上流部で、ルアーを投げると簡単に20-30cmの鱒が釣れた。釣りの腕は素人だ。それまで虫さえ殺したことのなかった私は、釣りあげた魚を前に途方に暮れた。話によると、石で魚の頭を殴りつけて気絶させるといいらしいので、そうしたところ、魚はじたばた暴れたままだ。動物愛護と調理計画の板挟みになった。(略)
ホイルに包んで焚き火でバター香草焼きにした。このときの魚には申し訳なく思っている。冥福を祈りたい。
人類が火を使うようになって文明への道を歩み始めたといわれるが、子孫の私は火をつけるのが上手くない。燃え広がらないのだ。つい着火剤に頼るので、上達しない。あるとき、直径30cmほどの流木を見つけた。ノコギリで挽くのが面倒でたまらず、油をかけて丸ごと燃やそうかと思ったほどだ。
カヤックのツーリングは楽しい。夕暮れ空が色のグラデーションを濃厚にしていくころ、音のない澄み切った空気のなか、ウイスキーを啜りつつ(ビール等かさばるものはあまりもち込まないでいた)焚き火を突っつき火の粉を眺めるのは、この上なく愉快だ。
Twitter(現X)では年齢性別職業問わず様々な人が日々様々なイラストを投稿している。
※以下自分語り
私も例に漏れずTwitterにイラストを投稿している。なぜ、投稿しているかと言うと承認欲求を満たしたい、絵で食っていきたいからというのが根底にある理由だと思う。最近だと自分の創作したものを見て人が笑顔になってくれればそれで良いと思っている。
(フォロワー8人なうえ6人が絵にすら無反応なので人が見てくれるもクソもないが少なくとも高校時代の友人と顔も知らないめっちゃ良い絵を描くFFには超謝謝)
導入が長くなったが私がTwitterに絵を投稿し続けて苦しんでる様を綴っていこうと思う。
突然だが私は絵が上手い。
自意識過剰とかプライドが高いとか思われるかもしれないが実際上手い。
なぜなら美大や芸大に進学する生徒が6割の高校に通っていたからだ。現在美大・芸大にいる人は「ああ、あの高校ね」となるだろう。(私は美大を目指していたが受験期に自殺未遂したりメンタルが終わっていたため諦めた)
もちろん受験時の倍率も高かったので受かった時にはもうプライドエベレストの傲慢勘違い人間の完成だ。
0いいね。
そりゃそうだ。顔のパーツもぐちゃぐちゃ、バストアップの絵なのに一瞬で破綻してるとわかる体、構図もキモければ背景もない。「小5です!」と言ってイラストをあげてる小学生の方が上手かった。
この時点でエベレスト級だったプライドが富士山くらいには削れた。
その後Twitterアカウントは3ヶ月も経たずに消した。
また私はその高校では下から数えた方が早いくらい絵が下手くそだった。
私はデッサンが凄まじく嫌いでサボりまくってた癖に同級生のデッサンを見ては落ち込みまくっていた。もうこの時にはプライドは海抜0m地点くらいにはなっていた。
プライドが削られまくり「謙虚かも」くらいになった頃、今度はTwitterでイラスト友達作りて〜!(あわよくばバズってセイキンの画像張り合いて〜!!金欲しい〜!!)と思い新たにTwitterアカウントを作った。以前から嫌悪していた、〜と繋がりたい系タグも使いお迎えに行ったりRTしまくったりした。滅茶苦茶に媚びを売りまくった。繋がったあとも「素敵です。」「ここめっちゃ上手」とか心にも思っていないリプをしたりRTをしていた。
結果どうなったかと言うと
凄まじく疲れた。
どんだけプライドが削られようと琴線に1度も触れない良いとも思えないものに好意的な反応を送るのはひたすらにしんどい。そのうえ相手からいいねすら貰えないことなんてざらにある。FFなのにだ。義務なんてないのだから当たり前なのだが当時の私は未熟すぎて結構傷ついていた。
自分が良いと思って繋がりたいタグの投稿にいいねして、フォローして相互になりたいと思った人とは相互になれず、ワンチャンあるかもと思い感想を引RTやリプで書いてもそんなワンチャンあるわけない。(このワンチャン精神は正直良くないと思う)
またTwitterのお絵描き界隈にいる人はわかると共感するかもだが、あの界隈凄い競争を感じる。多分これはハンドメイドや3DCGなどの物作り界隈全部にあるのだろうがアニメ的なイラストを描いてる界隈は桁違いな気がする。めっちゃ怖い。そんだけイラスト描く人がいるってことなんだろうけど。(イラスト代行bot見てみ?玉石混交なのに4万フォロワーおるで!?ぎょえ〜!!!!!!)
こうして2個目の公開絵垢も1年経たずに闇に葬り去った。
その後も絵垢を作っては消しを繰り返した。両手じゃ数え切れないほどに。
ここまで読んだ人は忍耐力雑魚と思うだろう。その通りで私は忍耐力が雑魚だしメンタルも弱い。絵垢作っては勝手に人間関係に疲れ絵を描く義務感に勝手に押しつぶされてを繰り返していた。
このままだとただでさえおかしい頭がもっとおかしくなると思いTwitterと距離を置いた。(とは言いつつ高校の友達と繋がってる鍵垢にこもっていたが)
この間に友人と展示会などをして気づいたことがある。
面と向かって言われる感想って火力が高い
ということだ。
これは好意的な感想でも否定的な感想でもどちらも嬉しい。まず作品に興味を持って作った人に直接感想を伝えてくれることは慣れていないとかなりの勇気が必要だ。自分の作った作品の前で「良いね」と呟いてくれるだけでも嬉しいのに「これの作者ですか?」って話しかけてくるなんて、もうたまんないね。
私は車が出てくるアニメーションを展示したことがある。その時の来館者の1人が「この車に具体的なモデルはあるんですか?」とか「車、めっちゃ気合い入ってますね」とか言われたことがある。
もう頭の中がお祭り騒ぎ。ヒュージャックマンがシルクハットをかぶり歌い始めた。
この時からTwitterでもらういいねなどに対する執着が少し薄くなったような気がした 。
また、友人が行っていたグループ展に行った時に気に入った作品が1つあった。その作品の作者と私は完全な初対面だ。作品の作者は在廊していたため私は感想を伝えに行った。
するとその作者は笑いながら「ありがとうございます。」と行ってきた。私はそれを見た時とてつもなく嬉しくなった。
表情が見えるのが良いのか、声色が分かるのが良いのか。どうして嬉しくなったのかは分からないがこれはTwitterのどの数字にも変えられない。(正直Twitterで空リプとかでも感想貰えると滅茶苦茶嬉しい)
私はこの経験から苦しむのは絵を描いてる瞬間だけで良いのだと気づいた。遅すぎる2年もかかった。
話は少し逸れるが私はTwitterを大気圏を突き抜ける超高層展示場だと思っている。しかもこの展示場エスカレーターしかない
1Fはフォロワー数も多くこの人が描いたというだけで価値がつく人(望○けい先生、さい○うな○き先生、la○k先生など)
入口入ってすぐのところにいるので多くの人に見られて評判もすぐ広がる。
そっから上に上がるとフォロワー数も知名度も下がっていく。フォロワー数が少ないとRTされることも少なく下の階に行くのはなかなか厳しい。タグという名の重しをつければ限度はあるが下の階の人にも自分の絵を見せることはできる。
けれどエスカレーターがいくらあっても200、300と登っていく人は少ないだろう。そうするとそもそも見られること少ないかないことになる。これじゃあRTどころかいいねもされない。
私はこう考えることによって諦めがつくようになった。
心が軽くなった。
終わり
正直、創作活動って滅茶苦茶に苦しい。精神科通いなのはこれのせいかなと思いながら、今も私は新しい絵垢を作りTwitterに絵を投稿し続けている。最近はせっかく作った作品がタブレットやパソコンの中でただの数字の集合体として腐っているのは勿体ないなと思うので投稿している。(あわよくば沢山の人に見て欲しい)
以前とは違いかなりマイペースに続けられていると思う。遅筆なため投稿頻度も低い。けどかなり楽しい。絵と向き合う時間が増えたため前よりもっと絵が上手くなった。
でもまだインプレ数が少ないと届いてないか〜という気持ちにはなる。
依頼とかもしてみたい気持ちがあるため11月のコミティアが終わったらSkebとかすきまで募集してみようと思う。それまでは自分の好きなものを作りたい。
余談
これは二次創作の話になるがもう何年も前にサービス終了したグリムノーツというゲームのキャラクターを描きAfterEffectでアニメーションをつけて投稿したらファンの方が沢山反応してくれて嬉しかった。まだ好きな人がちゃんと残っていて感動した。
極めて雑な日記を書いたおかげでみんなの
怒りのコメント叡智が集まったぜ!「ブコメとトラバ含めて読んどいて」で友人へのアドバイスという目的は十分に達成できる。はてなーのみんなに感謝なんだぜ
横浜移住を考えている友人に向けた、中の人(都心勤務の西区住民。ただしみなとみらいではない。居住歴20年)からの所見。
多数の間違いや偏見があると思う。ブコメやトラバでつっこまれることで、錬成されることを期待してみる。
・西区、中区(みなとみらいを擁する)→みんなが想像するヨコハマ。海に面した大都市のイメージ。ただし本牧を除く。
・鶴見区、都筑区、港北区(川崎属国エリア)→人口が爆発的に伸びた都内通勤族の街。子育て世代にうれしい商業施設が多い一方で、インフラが追いついていない。保育園の倍率が高く、どこにいっても人と車が多い。
・青葉区、緑区(だいたい町田)→小田急と東急が高度経済成長期からバブル期にかけて必死に開発した結果、小田急と田園都市線の混雑に悩まされることに。横浜中心部とのアクセスが弱いため、横浜市民という自覚が薄い。
・旭区、瀬谷区、緑区、泉区(山と森)→神奈川県全体で東高西低の格差が問題になっているが、横浜市内でも同様。このエリアは少子高齢化の傾向があり、横浜市の行政が正直手薄になっている感がある。もうちょい西に進んで大和市や海老名に住んだ方が幸せになれる。だからこそ上瀬谷花博でドカンと一発大きな花火をあげようとしているが、嫌な予感しかない。相鉄が代わって必死に都市開発をすすめており(そうしないと相鉄自身が死ぬ)、このエリアの住民はそうにゃんを尊師として崇めることになる。逆に言えば、都心へのアクセスを確保しつつ自然と暮らせる地区とも言える。
・それ以外(それ以外でまとめると怒る人が出てきそうだ)→元々は高度経済成長期に横浜都心部の郊外として発展したのち、インフラの老朽化や世代交代問題に直面しているエリア。目立った特徴はないが、特異なパラメータがないぶん平均的に住みやすいかも。
・東京都の区は行政権があるが、横浜市の区は市の出先機関。横浜市のあらゆる施策は横浜市全体に適用される。たまに混同している人を見かける。
・港区や江東区などのリッチな区の補助金ニュースが横浜市と比較されて「横浜市に住む奴は情弱」と言われたりするが、横浜市は市民375万人を平等に扱わないといけない。
・夜間人口が企業立地に対して多すぎるので、どうしても行政サービスは薄く広くなる。
・給食がその象徴。これから市内500の小中学校全てに給食を整えるのは永遠に不可能。仕方なくハマ弁で誤魔化している。誤魔化しではあるが、ハマ弁の内容は割とよくできており、給食化した方がたぶんQOLは下がる。
・東京の財政力が桁違いに強いので、教育費の無償化や住宅の補助金などで差があるのは事実。
・公園の遊具にも財政力の差が現れている。公園自体は多いもののどこも遊具がしょぼい。都内の友人近くの公園にいくと概ね横浜市より遊具が綺麗で充実している。
・まあその分都内は住宅が高いんですけど。都立大学(都民は学費無償)に進学しない限りペイできないのでは?
・川崎市との行政サービスの格差についてはゲフンゲフン。あっちは製鉄所と発電所もってるもんな〜うらやましいな〜(鶴見にあるのは知ってるけど規模が違うもんな〜)
・とはいえ、さいたま市や千葉市と同等レベルの給付や福祉はキープしている。賄うべき人口から考えれば相当がんばっている。
・なので「特別市」という政令指定都市を超えた枠組みを作り、神奈川県からの独立を目論んでいる。
・東京〜横浜間のアクセスは超極太。これがさいたまや千葉に対する優位性。
・鉄道ならJR3路線、東急、京急線と多数に分散しており、どこかの路線がグモっても家に帰れる。
・JR東海道線は朝の通勤ラッシュが殺人的だが、それ以外は(都心通勤ソルジャーからみれば)常識的なレベル。
・田園都市線はもうダメです。こんなこと言ってごめんね。でも本当です。
・地下鉄については当たり前だが東京が圧倒的。横浜は代わりにバスで市内移動を賄うことになる。
・自動車。平均的に都心と比べると道路が広くて運転しやすい。ただし横浜町田ICとR1の保土ヶ谷橋交差点はものっそ渋滞するので、このエリアを通過するような生活圏の選択は避けた方が良い。
・首都高とNEXCOと高規格道路が交差しているので高速道路網の把握が難しい。ジャンクションを間違えるのは横浜市民あるある。
・横浜市は元々神戸市みたいに丘陵と海が近いエリアだったのを埋め立ててきた歴史があるので、埋立地とそうでない箇所の高低差がすごい。「横浜は坂が多い」と言われる所以。
・この坂のエリアは崖崩れが起きやすい。横浜市の最大の地理的弱点だと思う。
・そして単純に坂のある地域は住みにくい。子供がキックボードやストライダで死にかける。
・ハザードマップを見ると崖くずれ注意のエリアが点在しており、この付近の住民は大雨のたびに避難指示発令に悩まされる羽目になる。
・埋立地のエリアも大きく2つに分かれており、昭和以前に技術の未熟な西区や中区の中心地(横浜駅〜関内エリア)を埋め立てたところは海抜が低く、地盤が弱く、大雨の時の内水や液状化の恐れがある。ここに住む増田は大雨のたびに毎回ヒヤヒヤしている。ただ横浜市にとってこのエリアは経済と行政の中心地なので、必死に土木工事をして改善中。
・みなとみらいエリア(新しい埋立地)は十分な高さの盛り土、地盤改良、排水設備が揃っており、内水や液状化の心配は少ない。ただみなとみらいエリアはコンビニが少なくOKストアーが殺人的に混雑する(ハザードマップ関係ない話題)。
・山手や浅間台、野毛山エリアのような高台エリアはハザードマップ的には最強。ただし地価も最強。
・まとめると 坂の上 > 新しい埋立地 > 古い埋立地>>> 坂
・住宅が都心よりも安い(除く高台エリア)割に、横浜駅エリアや関内エリアの文化施設や商業施設を利用でき、カーシェアリングやLUUP、UBERなどサービスも充実しているので、自宅に必要な機能を都市のなかにアウトソーシングできる。
・その割に夜間人口が少ないので、保活は楽勝。川崎属国エリアのような教育戦争に巻き込まれることもない。もちろん積極的に中学受験をやることもできる。
・とにかくあらゆることに対する選択肢が多い。でかいショッピングモールで便利に過ごすもよし、ローカルな店を探して商店街をうろうろするもよし。電車でもバスでも自家用車でもカーシェアでもLUUPでも移動できる。急な雨が降ってもアイカサがある。
(今夜追記する)
・西区、中区は引き続きオススメだが、地価が上がっちゃったからな…
・二俣川駅の南側。新横浜線ができてアクセスが改善し、相鉄がジョイナスを作ったので買い物もしやすくなった。こども自然公園というバカでかい公園がある。まだ世の中は「免許を更新しにいくところ」で認識が止まっているので狙い目。
・鶴見川の氾濫で形成された平野のあたり。具体的には港北、新羽、北新横浜、大倉山、綱島。広大な平野なので「坂の横浜」とは無縁。昔はそれこそ内水の心配があったが、いまは日産スタジアム(という名の貯水池)が俺たちを守ってくれる。だが既に地価は高い。
・センター北とセンター南。もはやセンターの意味を知る住民は少なめ。地下鉄が2路線あり、第三京浜と東名の両方が使える。ここも地価は高め。
・星川。保土ヶ谷というとマイナスイメージしかないが星川だと急にイケてるイメージになる。
・蒔田駅と南太田駅に挟まれた領域。蒔田公園が素晴らしい。歴史的経緯から外国の人も多い。
・なんか細かく地区ごとに書いてくとキリがないな。
すまんかった。横浜の良いところは「手薄な行政を補ってあまりある民間の活力、選択肢の多さ」だと思う。
・文化やスポーツイベントも多数ある。金がなくても参加できるものも多い。
・賑やかな商店街が多数あり、ローカルなお店探しは永遠に楽しめる。
・そのわりに東京より過密度が緩い(過去に高円寺に住んでいたので、ここで東京は狭いという偏見が強化された)
・半官半民、NPO的な施設も充実している。息子が発達が遅めなのだが、近所に発達支援施設がすぐに見つかったのは助かった。
・うまく文字に出来ないが「東京とか川崎より横浜!」という郷土愛みたいなものも地域全体から感じる。
・海の存在。海と都市が近い。東京川崎千葉は湾岸が工業地帯で埋まってしまった。
つらつら書いたけどコンビニとまいばすけっとが徒歩圏内にあることが普段の生活を左右する最大のパラメーターだったりする。
Permalink |記事への反応(36) | 03:27
このようなことを主張する「クリエイター」の考える0地点は、
知見がなにも存在しない場所であり、海抜0mであり、なにも存在しない空間だと思っているのだろうが、
実際はそこは見聞きした数千数万の情報の上であり、海抜300m地点とかであり、空気が充満した場所なんだよな。
自分が今まで生きていく中で、何を学び何を考え何を感じてきたのかに驚くほど無頓着であるがゆえに、今まで何をしてきて何を自分の中に積み重ねてきたのか無自覚な人たち。
そんな傲慢で愚かな自称クリエイター達だ。そんな感受性と自省意識の乏しさでよく創作ができるな。
文明社会に生きながら創作をしてる時点で、それはもう10000の情報を元に10001を生み出してるんですよ。
それは人間もAIも変わらない。人間の優位性は「何を描きたいのか?」を考えたり聞き出したりするところと作品の連続性だと思いますよ。
「ブータン、ネパールに雨を降らせた大気」は北に流れてフェーンが雨蔭砂漠タクラマカン砂漠を作っているはずでしょう?
パキスタン、アフガニスタン、イラン、サウジアラビアに吹き込む
ここらが砂漠なのはアラビア海で海水が蒸発し低気圧雨雲が出来ても
ヒマラヤから吹き込む乾燥した高気圧と混ざり雨雲が発達出来ずに消失する
雨が降らずに砂漠化する
この緯度は中緯度高圧帯なので何もなければ乾燥してるはずで
乾燥気候でないなら大陸東岸や赤道側の岸で季節風(モンスーン)で雨が降るなどの理由があるよね
ヒンズークシより東にはモンスーンがあって西にはない
アラビア海の夏の低気圧はモンスーンでインドに向かって雨を降らしてる
イラン高原は海抜と緯度とアラビア半島とシベリアでどうあがいても乾燥気候の匂いしかしない
冬は逆の風が吹くからヒマラヤがつくったシベリア高気圧から乾燥した北風がブンブンふいてる
参考にヒマラヤがないときのシミュレーション ※これがどれくらい妥当かは知らない
https://www.museum.kyushu-u.ac.jp/publications/special_exhibitions/PLANET/04/04-6.html
6月のシミュレーションを見るとヒマラヤがあろうがなかろうがイランもアラビアも雨期は来ない
ヒマラヤがなくなるとモンスーンで降る雨が減ってインドは乾燥気候側に移動するかも?
1月の風と気圧の図ヒマラヤがない場合あからさまに偏西風の影響が強まるのが面白い
よくわからない
こんな分析本当にあるの
島根県には、浜山砂丘、都野津砂丘、出雲砂丘などがあります。
大田・江津方面からは、国道9号「道の駅キララ多伎」の交差点を左折し、くにびき海岸道路を約6km行くと西浜大橋です。松江方面からは、国道9号の差海郵便局の交差点を右折し、約600m進むと右手に神社があります。
鹿野和彦・竹内圭史・大嶋和雄・豊 遙秋、1989、大社地域の地質。
なし
幅1㎞,長さ3km。 平面的には,くの字型をしており,横断面型は東側が急で西側が緩やかな非対称となっている。砂丘の表面は防風林として植林されたクロマツに覆われている。海抜5mより下位は砂州(砂堆)でその上を砂丘が覆ったものである。砂丘の最高点は標高41mに達する。 風化土壌が挟在する地点もみられるが,形成時期は後氷期と考えられている。 高さ・面積ともに山陰第一級の砂丘といえる。砂丘砂の一部は鋳物用珪砂やコンクリート用材料として採取されている。
江の川を挟んで,江津市東部の黒松から浅利,江津を経て波子に至る20kmの間
江津市の都野津から敬川にかけて約4km続く都野津砂丘は最も規模が大きい。海岸に沿って走る浜堤を標高10m弱,幅200m前後の砂丘が覆う。砂丘の表面には防風林としてクロマツが植えられている。
浜山砂丘は出雲平野の西部にあり、海岸から内陸2km地点に位置しています。幅1km、長さ3kmで、くの字型をしています。横断面は東側が急で西側が緩やかな非対称で、最高点は標高41mに達します。砂丘の表面はクロマツの防風林に覆われており、砂州(砂堆)の上に砂丘が乗っています。形成時期は後氷期と考えられており、砂丘砂の一部は鋳物用珪砂やコンクリート用材料として採取されています。
都野津砂丘は江津市の都野津から敬川にかけて約4km続く砂丘で、江の川を挟んで黒松から浅利、江津を経て波子に至る20kmの間にある砂丘地帯の一部です。海岸に沿って走る浜堤を標高10m弱、幅200m前後の砂丘が覆っており、防風林としてクロマツが植えられています。
差海川河口の古砂丘で、大社の稲佐の浜から出雲市小田までの約14kmにわたって砂浜の海岸が続いており、その奥には緩やかな斜面をもった砂丘があります。島根県で一番長い砂丘地帯です。
私の故郷は、海抜六〇〇メートルの丘陵地に佇む半農半漁の村で、後方は形のよい峯が三つ並び、前方には大きな入江があって多島海に伸び、子供の頃は、その入江で魚つりに興じました。
竹の棒に糸を張った粗末な釣具で、餌もミミズでしたが、満潮の時などは入れたら釣れ、入れたら釣れで、一時間もすれば小鯛などバケツいっぱいになりました。
腹が立つのはフグで、五回に一度はかかり、フグに毒があることは子供にも分かることでしたから、腹立ちまぎれにフグの白い腹を石にこすりつけるとみるみる大きくなり、このガキッとばかりに思い切り石に叩きつけと、パーンという音がして腹が裂け、溜飲を下げました。
私は五人兄弟の次男として畑仕事や魚釣りに勤しんでいましたが、田舎の貧しい暮らしから豊かな生活を夢見て、一足先に日本へ行った八歳年上の兄祥雨を追いかけて◇◇へ来ました。
その時十七歳で、一九三九年でした。兄は布施(東◇◇市)でセルロイド工場を経営し、腕輪やクシを作っていました。
その兄の元へ身を寄せ、普通学校四年を卒業したものの、価値ある社会活動をしていくためにはさらに学が必要だと感じ、向学心に燃えて◇◇・東成区の夜間学校(◇◇商工実務学校)へ通うことにしました。
工場住込の私の仕事はまず、朝五時に起きて無煙炭をおこし、六時半に出勤する職人さんの仕事に間に合うように湯を湧かしておくことでした。
そして、仕事が終わるのは夕方の六時。急いで自転車を走らせ学校へ行き、帰りは一〇時で、それから夕食をとり、深夜の一時過ぎ、二時過ぎまで勉強して、寝るのが連日三、四時間でした。
その死にものぐるいの努力が効を奏して、成績はトップとなり、幸か不幸か、級長をやらされました。
戦時中でしたから、訓練ばかりで、「前へ進め」「全体とまれ」と号令をかけるのが級長の役目でした。
ところが、私は強度の「どもり」でしたから、その号令の文句がなかなか言えず、落ち込んでしまって、《死んでしまおう》と何度線路に寝込んだかわかりません。
星の光が目に入るたびに、《ちょっと待て、死ぬんだったら、もういっぺん努力してみよう》という気持になり、「どもり」の矯正学校を五つも修了して、死ぬほどの努力を重ね、矯正しました。
こうして、《ヤレバデキル、ダメナコトハナイ・・・》の信念を貫いて苦節の日々を克服したことが、大きな自信となりました。
終戦後の一九四八年のことですが、体を悪くして、マイシンの注射を打ったところ、耳に障害が発生し、聞こえなくなってしまいました。
これまた、苦節の日々で、断食をしたり、いろんなことをやってみましたが、完治するまでには至らず、補聴器の世話になる毎日となりました。
ところで、戦争は激しくなり、私も協和会の勤労報国隊に徴用されて、九州の炭坑で二ヶ月ほど働かされました。
石炭を掘って出てきたら顔は真っ黒で、目が辛うじて見え、つらい日々でした。
そうこうするうちに戦争が終わり、兄はそのまま日本に残りましたが、私は里心がついて故郷へ帰りました。
日本兵が釜山の港からどんどん引き揚げて行くさなか、私も小さな船で玄界灘の荒波を掻き分け、決死の覚悟で日本へ戻ってきました。
一九四八年に兄と、資本金二〇万円の◇◇グリップ化工株式会社を設立し、自転車のハンドルグリップをセルロイドで製造し、販売しました。
以来、資材をセルロイドからプラスチックに変え、◆◆◆グリップの普及に努力しました。
その途上、兄を交通事故で失い、私が会社を引き継ぐことになりましたが、中小企業信用保証協会や育成協会からの資金融資は韓国人業者としては第一号だと思います。
一九九〇年に◇◇グリップ化工から◆◆◆技研に社名を変え、現在では日本全国の占有率九〇パーセントを獲得し、一億人以上の人に◆◆◆グリップを握ってもらっています。
私は、金属、木材等で作られている従来の物をプラスチックに代えて作るという物づくりを企業の基本理念の一つにしてきましたから、事業の発展に伴い、グリップの他にも車輪、カゴ、チェインケース、泥除け等、タイヤ以外のものは全てプラスチック化し、その間の特許も数百にのぼって、◆◆◆製品は世界のブランドとなりました。《継続は力なり》の精神で、より精度の高い関連商品の開発に努めています。
一九六〇年頃、日本と韓国との間にはまだ国交はなく公式には往来できない時で、金融機関の祖国産業視察団の一員として、初めて祖国を訪問しました。
懐かしい山河の景色、幼なじみの顔、感激の涙に浸るばかりでした。
その感激もさめやらぬ時、町から一キロも離れていず、一六〇戸もあるわが懐かしい村には電気も水道設備もないことに気づき、昔と変わらぬ貧しい古い部落がそこにありました。
《故郷のために何かしてやりたい》という衝動にかられ、その後、回を重ねて訪問する毎に藁葺きの集会所を二階建の近代的な建物にして
事務所や老人らの憩いの場に使用できるようにし、また、電気架設の資金協力や子供たちの遊び場等も寄贈し、植木やスピーカー等も添えて故郷の人の心を癒やすことに努めました。
人間は誰しも食うがため、生活するがために働き、事業するものだと思いますが、私もご多分に漏れず世間並みの生活を夢見て渡日し、口では言えない苦労と努力を重ね、一応の目的は達したと、自分を顧みています。
これまで、通産大臣や府知事、税務署長などの表彰を受け、韓国政府からも国民勲章冬柏章を受章しましたが、私の企業活動に対� =キる評価だと喜んでいます。
現在、◆◆◆ー技研のグループ企業として◆◆◆販売と韓国◆◆◆があり、◆◆◆技研は私の長男に任せています。
◆◆◆販売は兄の息子が取りしきり、ヘルメットを中心としたオートバイ・スポーツ用品を製造販売し、韓国◆◆◆は弟の息子が社長を務め、スキー・水泳用品を主力としたスポーツ製品を製造・販売し、輸出による外貨を稼いで祖国の経済発展に寄与しています。最近は中国青島にも進出し、六〇〇人ほど雇用しています。
兄の処世訓は《まず、自分自身が立派になり、次に家族の支えなり、その次に身近な社会に貢献する》ということでした。
私は、兄の遺志も引き継いで、家族会を設け、年一回会合を開いて、十親等以内の全学徒に、成績に応じて奨学金を支給しています。
その家族会の会長は私ですが、弟の息子がすべて代行してやってくれています。
いわば、祖国故郷で私の夢を実現してくれる代理人のような存在です。後は、全家門の子孫たちが末永く仲良くしてくれればいいと願うばかりです。
振りかえってみれば、私の人生は苦しいことのみの連続で、喜びや楽しみというものがあっただろうかと思う時がありますが、◆◆◆販売の新社屋落成式(一九八四年)に、私が挨拶をし、息子夫婦、兄の子供夫婦、韓国の甥夫婦を紹介し、その三人を後継者として披露しました。
三人はそれぞれに立派に成長してくれ、私の夢を実現してくれる後継者になってくれたことが人生最大の喜びです。それに子孫たちが、私の喜寿(七十七歳)をニューオオタニホテルで祝ってくれたことも忘れられない喜びです。
外孫まで入れると四十五、六人になりますが、アメリカに行っている七、八人の子孫たちもその日(一九九八年九月一八日)にはみな帰っ� =トきて祝ってくれました。
私たち韓国人は、税金も人一倍納め、社会に貢献しているにもかかわらず、後ろ指をさされる傾向が強いのですが、人間というものは生存競争のなかにあってライバル意識を持ち、自分より事業を大きくやっていたり変わったことを大きくやっていたりすると、ねたみの心が出てきて、あらぬ中傷に走るのではないでしょうか。
私たち韓国人の側にも虐げられたひがみ根性というものが抜けきれないのではないかと思いますが、真面目に生き、社会に貢献していくことが肝心で、価値ある社会人になるためには自分自身が努力し、そのためには人の話を聞くことです。
何か疑問を感じたら、聞くのが一番の近道で、その疑問を解いてくれる人が見つかるまで聞きつづけたらいいのではないでしょうか。聞くことにお金はかかりませんし、それが私の処世訓の一つです。
「絵師は絵師同士としかつるまない」と言われてるけど、これは完全に嘘。
小説書いてる人や技術書書いてる人とだったら普通につるんでる。
産みの苦しみを一切知らず、それ故に他人に対して「原価で食いたきゃ自分で作れ」「俺はお前のママじゃねえ」「文句があるならお前がやれ」という言葉を日々飲み込ませてくるようなアホの相手を皆したくないだけ。
そういう嫌われ者の無産階級でないことを証明する手段が「何かしら自分で作っている」ぐらいしか界隈にないから、無産であるという時点でシャットアウトされがちってこと。
絵師が特権を持ってるんじゃなくて、何も生み出してない人間が持ってない権利が沢山あるってだけだよ。
絵師が海抜3000mの高い山の上に住んでるんじゃなくて、無産が海底数万里で蠢く深海魚だって話。
さっさと陸に上がってこいよ。
1.水中トンネル(海底を這うようなトンネル)<-圧力高すぎて設置するのが無理。
2.海底トンネル(海底を掘削するトンネル)<-圧力高すぎて掘るのが無理。
(深さ10kmの海底の圧力は海抜0mのおよそ1000倍の圧力がかかっていることから)
海底トンネルでハワイなんて、誰でも考えてるような事だけど、結局は一般的な理由で断念するんだろうな。
でもそこを真剣に何とか通せないものかと考えるごく一部の人の考えや熱意で、可能になる日が来るのかもしれない。
静岡ー山梨の破砕帯のトンネルを貫通させることができたら、次はハワイだ... ってならんか。
ならねーなー。
誰か考えてよ。
例えばドライブしてて丘越えとかすると軽く海抜200-300mを越えていくわけだが、天気痛がある知人を乗せてるときに高度が上がったからって頭が痛い死にそうだ今すぐ降ろしてくれ、なんて言われたこととないんだよね。
今いっぱいいてるけどさ
こういうの天気痛と言って、6-10hpa下がると発生するらしい。
参考:https://miyagi.doctor-search.tv/voicedetail/MIYAGI-DVOICE-4000003
6-10hpaってーと50m~100mぐらい高いところに登ったらそんなもんだ。
マンションなら15-30階、オフィスビルだと10-20階程度。
50mつったら本当に低い、渋谷の坂の上なら海抜40mぐらいあるから、そこでビルの3Fでもう50mだ。
全員が全員とは言わないけど、これ、天気痛という人のうちある程度は「電磁波過敏症」みたいな人も多いんじゃないの?
気圧過敏症とでも言うか。
例えばドライブしてて丘越えとかすると軽く海抜200-300mを越えていくわけだが、天気痛がある知人を乗せてるときに高度が上がったからって頭が痛い死にそうだ今すぐ降ろしてくれ、なんて言われたこととないんだよね。
というかパワースポットだ何だと海抜700mとかのとこで写真撮ってるやつが台風で頭が痛い云々言ってるの、ギャグじゃないのかと思う。
700mだと約935hpa、伊勢湾台風かな?
痛み自体が嘘とまでは言わないけど、精神的なもの、ある種の情報酔いじゃないの?
台風が来る・雨が降りそうってニュースだけで頭痛くなってる人なんてほんとそうじゃないかと思う。
まあガチで情報酔い的な人にこういう情報を吹き込むと逆に働くと高いところには行けない人間が生まれそうで、ちょっと言いふらしてみたくもあるw
白銀台は海抜30mあるから江東区にしか住めません、みたいなw
万座は、群馬県吾妻郡嬬恋村干俣のいち集落で、万座温泉で知られる温泉地である。万座温泉は海抜1,800mの温泉地。入口・バス停部分の標高は1740mで、日本ホテル協会加盟のホテルで通年営業としては、日本最高所、しかも温泉、露天風呂のあるリゾートホテルでも最高所となっている。平成30年度の、当集落が属する嬬恋村の統計によると、159名(130世帯)が住んでいる(https://www.vill.tsumagoi.gunma.jp/www/contents/1000000000267/simple/H30_toukei_201909.pdf)。