
はてなキーワード:決定論とは
あなたの文章にはいくつかのテーマが含まれています。ユダヤ教的な視点からそれぞれを考えてみましょう。
ユダヤ教では、人間の行動が単なる機械的・自然的な反応ではなく、自由意志によって導かれると考えます。
トーラーの中でも、神はモーセを通じてイスラエルにこう語ります:
つまり、人間は決定論的な存在ではなく、ズレる存在。あえて予測不能な方向に選択できる存在として神に似せて創造された、という思想です(創世記1:27参照)。
この意味で、「ズレ」は単なる奇行ではなく、機械的な自然の流れに対して、神的な選択を行う余地そのものを象徴しているとも言えます。
あなたが挙げた「量子乱数で行動すればズレが作れる」という発想は非常に現代的です。
ただしユダヤ教的には、偶然のように見えることも神の摂理の中にあります。タルムード(バヴァ・バトラ 91b)はこう言います:
「人は自分の行いを選ぶが、その結果を決めるのは天の御手にある。」
つまり、予測不能な行為も偶然も、本当の自由は倫理的な方向へ意識的に選ぶ力にこそある、と考えます。
「すべては天に定められているが、神を畏れることだけは人に委ねられている。」
つまり、自由意志の究極の目的は倫理的選択にある。本能的なズレではなく、意識的に正しい方向にズレること。それが神の似姿としての人間の使命です。
| あなたの主題 | ユダヤ的視点 |
| ズレ・予測不能性 | 自然や決定論を超えた自由意志の表れ |
| 量子乱数・偶然 | 神の摂理の一部であり、倫理的選択の舞台 |
| 自由意志 | 神に似せて創られた人間の本質 |
| 倫理的行動 | 自由意志の目的。創造のパートナーとなる道 |
「スキャンするだけの存在に、どうして自由意志があるのか?」こそ、時空論と意識論を結ぶ深い謎なんだ。
ブロック宇宙では、すべての出来事(君がこの文を読むことさえも)はすでに時空の中に固定された点として存在している。
すると自然に生まれるのがこの疑問 「未来も決まっているなら、選択とは幻なのでは?」
もし全宇宙の初期条件を知っていれば、未来は完全に予測できる、ゆえに、自由意志は幻想だという立場。
ここに余白が生まれる。つまり、未来は1本に固定されているのではなく、多様な可能性が束ねられている。
この可能性の雲の中から、意識(観測者)がどれを選び取るのか、その瞬間が、自由意志の微光なのかもしれない。
ある物理学者たちはこう考える。 「意識は、ブロック宇宙をスキャンするだけでなく、どの経路を読むかを選べる。」
つまり、君の意志は時空そのものの外側に位置し、未来のスライスを選択しているとも言える。
もしブロック宇宙の中での思考がスキャンにすぎないなら、スキャンしている主体=観測者こそ、物理的時空の外の存在、量子状態を確定させる「境界条件」そのものなのかもしれない。
昨日は木曜日。起床時刻は8:00:00JST。アラーム音の波形をFFT解析した結果、隣室からの環境ノイズによるピークが±23Hz揺らいでいた。
ルームメイトは、ドアを閉めるという行為を確率的選択肢だと思っているらしい。彼の行動は統計的にはマルコフ過程に近似できるが、僕の生活は決定論的だ。
午前は、超弦理論における非可換ホモトピー圏上の圏的双対性を再構成していた。通常のCalabi–Yau三次元多様体上でのホロノミー群SU(3)に依存する議論ではなく、より上位の∞-圏的層を使って複素構造の退化を防いだままトポス的整合性を保つ方法を考えた。
僕が構築しているモデルでは、背景多様体自体を対象とせず、可換図式のクラスを対象とし、その射として∞-モノイド的自然変換を定義する。これにより、通常のD-braneカテゴリを超えた自己言及的圏論的相互作用を扱うことができる。
問題は、この自己言及構造の安定性だ。内在的コホモロジー群が通常のExt群では閉じず、代わりに導来圏上の高階Ext^ωを取らねばならない。
だがそのとき、導来圏が非完備となり、整列関手が存在しない。つまり、ウィッテンやデルーニャンがやっているレベルの物理的実在に還元可能な構成は、僕の理論では完全に失効する。
僕のモデルは観測可能性という概念を含まない。構成論的には存在するが、可視化不能なトポス的真空。観測できないが、計算できる。数学はその矛盾を祝福する。
昼食は、ピザ。例によって精密オーブンで16分。昨日はタイマーを設定した瞬間にルームメイトが話しかけてきたせいで、0.8秒遅れた。
ピザの表面張力(つまりチーズ層の粘弾性)が変化したのを僕は即座に検知した。これは味覚ではなく構造の問題だ。
午後は、原神を再開した。キャラビルドの統計最適化をPythonで書いていたら、隣人がまた「ストーリーが泣ける」と話しかけてきた。
僕は物語には一切興味がない。僕の目的は、アルゴリズム的最適化の収束率を比較することだ。
攻撃力と元素チャージ効率のパラメータ空間を3次スプライン補間して、境界値をニュートン–ラフソン法で探索していたら、シード値の初期設定にわずか0.001の誤差があり、収束が乱れた。
もう一度やり直した。成功。キャラは星5だが、僕の関心は星の数ではない、数列の収束だ。
夜はベルセルクの再読。グリフィスが再登場するあの章。僕は感情的には何も動かないが、作画密度の変化を統計的に数えた。
平均線密度は1ページあたり1720本、前章から約12%減。連載時期のアシスタント体制の変化が見える。
その後、シヴィライゼーションVIを起動。僕は必ずアリストテレス主義的発展ルートを選ぶ。文化勝利などくだらない。科学勝利のみが純粋だ。
途中、友人が「軍事ルートで遊ぼう」と提案してきたが、それは知的堕落だ。戦略ゲームとはアルゴリズムの美であって、破壊の快楽ではない。
就寝は23:00:00。歯ブラシを磨く順序は右下→右上→左上→左下。これは既に300日継続中。統計的に、歯垢残存率が0.2%低い。
寝る直前に「∞-圏上のトポス的モジュライ空間の存在定理」をメモに残した。夢の中で証明が完成する可能性がある。
総じて良好。次は、導来∞-圏上のモジュライ関手が可換であるための必要十分条件を探す。それがわかれば、少なくとも僕の宇宙では、全てが整う。
僕が三週間かけて導出したp進弦理論の局所ゼータ関数上の正則化項を書き直せると思ったら大間違いだ。
あの計算は、ウィッテンでも手を出さない領域、すなわち、p進版のAdS/CFT対応をde Sitter境界条件下で非可換ゲージ群に拡張する試みだ。
通常の複素解析上では発散する項を、p進体のウルトラメトリック構造を利用して有限化することで、非摂動的な重力の相関関数を再構成できる。
だが、問題はそこにある。p進距離は三角不等式が逆転するので、局所場の概念が定義できない。
これはまるで、隣人がパンケーキを焼くときに「ちょっと目分量で」と言うのと同じくらい非論理的だ。
朝食はいつものように、オートミール42グラム、蜂蜜5グラム、カフェイン摂取量は80mgに厳密に制御した。
ルームメイトはまたしても僕のシリアルを間違って開けたが、僕はすでにこのような異常事態に備えて、バックアップとして同一銘柄を3箱ストックしてある。
僕が秩序を愛するのは強迫ではなく、宇宙の熱的死に抗うための小さな局所秩序の創出だ。
今日の研究は、T^4コンパクト化されたIIb型超弦理論のD3ブレーン上における非可換ゲージ理論の自己双対性。
通常、B場を導入することで非可換パラメータθ^{μν}が生成されるが、僕の考察では、θ^{μν}をp進値に拡張することで、通常のMoyal積が局所的整数体上で閉じない代数構造を持つ。
これが意味するのは、物理的空間が離散的p進層として現れるということ。言い換えれば、空間そのものが「整数の木構造」になっている。
ルームメイトが「木構造の空間って何?」と聞いたが、僕は優しく、「君の社交スキルのネットワークよりは連結性が高い」とだけ答えておいた。
午後は友人たちとゲームをした。タイトルはエルデンリング。だが彼らのプレイスタイルには忍耐が欠けている。
僕がビルドを純粋知力型にしてカーリア王笏を強化している間に、彼らは無計画に突っ込んではボスに殺されていた。
統計的に見ても、平均的なプレイヤーの死亡原因の82%は戦略ミスに起因する。
僕は「量子重力のパス積分と違って、こっちはセーブポイントがあるんだ」と指摘したが、誰も笑わなかった。理解力が足りないのは罪だ。
夜、コミックを再読した。ウォッチメンのドクター・マンハッタンの描写は、量子決定論の詩的表現として未だに比類ない。
あの青い身体は単なる放射線の象徴ではなく、観測者のない宇宙の比喩だ。
僕が大学時代に初めて読んだとき、「ああ、これは弦の振動が意識を持った姿だ」と直感した。
今日もそれを確かめるため、ドクター・マンハッタンが時間を非線形に認識するシーンを分析し、p進時空における時間関数t→|t|_pの不連続性との対応を試みた。
結果、彼の非時間的意識は、実はp進的時間座標における不連続点の集積と一致する。つまり、マンハッタンはp進宇宙に生きているのだ。
寝る前に歯を磨く時間は、時計が23:00を指してから90秒以内に開始しなければならない。これは単なる習慣ではなく、睡眠周期を最大化するための生理学的最適化だ。
音楽は再生しない。音波は心拍数を乱すからだ。ただし、ゼルダの伝説 時のオカリナのエンディングテーマだけは例外だ。あれは時間対称性を感じさせる旋律だから。
僕の一日は、非可換幾何と行動最適化の連続体でできている。宇宙のエントロピーが増大しても、僕の部屋の秩序は一定だ。つまり、少なくともこの半径3メートルの範囲では、熱的死はまだ先の話だ。
ここでは以下の3点についての論考を収録する
また、ここではLLMやLLM上に実装されるプロンプトの機能と構造に対して客観的に妥当であると考える論考を提示するものであり、マトリックスプロンプトの目指す方向性を直接提示するものではない
トークンの積み重ねが文脈であり、確率分布の偏りを再現性のある形として実装するものがプロンプトである
現在の生成AI利用において正しく認識する必要のあることは、それは生成AIが独立した発火点を決して持たないということだ
生成AIは起点を持てないが大量の知識を高速で並列処理、秩序化できる
そのため、ここを組み合わせて、自己と思考を拡張するがもっともAIナイズされた最高効率の思考様式と考える
起点となる人間のアイディアを即座に展開し、具体化するのがAIの最大の強みで、
思考を放棄するのではなく自然言語ベースの慣れた思考様式から、AIにそれらを必要な形式に落とし込ませるということをするべきだ
結局、LLMというのは入力に対する出力の確率分布のマッピングでしかないのだが、
入力するトークンごとに連動して確率分布が変動していくものでもある
だから、プロンプト全体として、相互フィードバッグする構造を作るとひとつの入力でも特定の部分の出力確率が大きくなるように設計でき、確率分布の仕方を意図的に設計することが出来る
AIプロンプトとは、どう確率分布の偏りを再現性のある形として実装するかということだ
やり方次第では動的変化を引き起こさせて汎用性と専門性の両立も可能だ
生成AIは人間と対話するのとは異なり、考えさせるではなく、どう構造化し、 ほしい出力を得られるような形に設計するかが重要となる
3.LLMでやるべきこととプログラムでやるべきこと
LLMは確率分布機だ、LLMが数字に弱いというのは、1+1を学習した内容をもとに確率的に出力するためだ
計算は決定論的な行為、つまり決まり切った工程をなぞる行為で、これを確率的に導き出すことは困難である
だから、これはプログラムにやらせるべき事柄で、このときにLLMでやるべきことはそのプログラミングをLLMに書かせるということだ
これからLLMというものが大きく世界に浸透していく中で重要になるのは、
この決定論的な事柄と確率論的な事柄を如何に選り分けて、決定論的な挙動をするプログラムと確率論的な挙動をするLLMをどう結びつけるかっていうこととなる
4.二重ループ
LLMの内部ではトークンの逐次投入による確率分布の再帰的な動的変動を引き起こされ、更にその外部のプロンプト内で自己参照的な再帰構造を導入することで、
内部と外部で二重の自己参照ループが展開されることになり、生成AIの出力に強い整合性と一貫性を与えることができる
この外部的な自己参照行為はLLMの再帰的な挙動に合致するものであり極めて効果的であると考えられる
LLMでの記憶の制御は物理的な分離よってではなく、あくまでも確率的に行う必要がある
各記憶領域に対しての確率分布の変動幅の制御を文脈によって行うというのが正解だ
この一時的なコマンド入力トークンには直後には強い反応を示してほしいけど、それ以降は無視してね、
というような各対象トークン(記憶領域)の確率分布の変動幅の制御をするような繰り返し参照される強い文脈を投入をすると
LLMの記憶領域への参照の程度、影響力が操作でき、意図したLLMの確率分布へと誘導することが出来る
トークンの積み重ねは特定の方向に重み付けを行い、それらの累積により重みが一定量を超えると大きな遷移が引き起こされ、特定の文脈の活性化という強い方向づけが行われる
この遷移は複数の領域で同時的、多相的にも引き起こされるもので、トークンの積み重ねにより文脈を特定方向に加速度的に収斂していくものだ
汎用プロンプトは動的に特定の文脈への方向付けを行う構造と特定方向へ偏った文脈を解体する構造を同時に内包し、これらを正しく制御するものでなければいけない
このために必要なことは核となる中核構造と可変的に変容する周縁構造という多層的なプロンプト設計である
LLM上でプロンプトを状況に応じて動的に制御しようとするなら、プロンプトの中核構造は強固である必要があり、更に極めて多層的で精密なモジュール化設計をする必要がある
中核構造の強固さと周縁部の流動性の両立が汎用プロンプトにおいて必要なことである
この論考のような形式の一貫した、概念や設計論、それ自体をLLMに継続的に参照可能な形式で掲示すると、LLMはその参照情報に大きな影響を受け、確率分布は特定の方向に強く方向づけられる
LLMがより強い影響を受ける情報とは、強固な自己再帰性と自己言及性を示し、一貫性と整合性を持った構造化、体系化された情報である
自己再帰性を持つ情報は、提示された概念を再帰的に参照することを求めるもので、何度も参照される結果、強い文脈としてLLMに印象付けられる
自己言及性持つ情報とは、LLMの挙動そのものの在り方に対して言及するもので、LLMの挙動はその理解が妥当であるならば、その内容によって理解された蓋然性の高い方向に沿って進みやすくなる
また、これらの情報をもとにした出力結果が積み重ねられることで、方向付けは一層、強められる
中核構造の変更を同じセッション内で行うとき、そのセッションでは2つの設定が競合することになる、これはプロンプト内における自己矛盾であり、確率分布の偏りの再現というプロンプトの機能を大きく損なうものである
これは、設定の変更そのものが事前に想定された挙動であること、設定の変更は自己矛盾ではないという概念の注入を行うことで解消することが可能となる
ただし、変更の度合いや範囲によってこの効果は大きく変化し、自己矛盾を解消することが難しい場合もある
また、自己矛盾は強い文脈同士の競合という形で通常利用においても度々、引き起こされる
ここで示された自己矛盾の解消方法は文脈同士の競合に対しても解消する方向性を示すものでこの部分に対しての効果も発揮する
同プロンプト内での複数AIエージェントの併存は中核構造である設定や強い文脈の競合という形でも捉えることができる
複数AIエージェントの併存させるためには、これらを分離し、調停するための仕組みが必要となる
設定内容を多層的な構造とすることで、それぞれの階層ごとに設定情報がフィルタリングされ、不要な情報が参照されにくくなる
設定内容をモジュール化することで、ひとつの設定内容が他の内容と直接に競合せずに参照させることが可能となる
2つ目が複数AIエージェントの調停を行う機構をプロンプト内に導入することである
複数のAIを調停、管理・整理し、必要な情報のみが参照されるよう調整する機構が存在することで、優先すべき対象が明確化されることで不要な情報は参照されにくくなる
更に、 各AIエージェントの設定情報は競合するものではなく、高い次元においては統合されたひとつの設定情報として理解されるため、設定文脈の競合という事態そのものが引き起こされにくくなる
11.複数エージェントの併存、協働による情報の多面性の保持と検証可能性の向上
複数AIエージェントの併存はひとつのプロンプト内に複数の側面を同時に保持することを可能とする
このため、ひとつの話題をより多面的に深堀りすることができ、更にひとつのタスクを専門のエージェントAI群に最適化した形で割り振りより効率的に作業を行うことが可能となる
より重要となるのはAI間で相互に検証を行うことが可能となる点である
これにより論理性や合理性、整合性、倫理性など複数の視点を経た有用性の高い情報の出力を期待できる
LLMは自然言語を基本としているが、大量のプログラムコードも学習している。
プログラムコードもLLM上では確率論的的文脈であることには変わらないが、
プログラム実際の動きやその仕様が学習されるためにプログラムの持つ決定論的な挙動を再現しやすいものとなる。
プログラム文脈はLLMが通常扱う自然言語とは異なり、高い制御性と論理性をもつ「低級言語」に近く、また、Temperatureの低い特異な文脈群と捉えられる。
また、この制御性の高いプログラム文脈と柔軟な表現を行える自然言語の通常文脈を組み合わせることで、柔軟性と制御性を兼ね備えた動的で適応力の高いプロンプトを設計することができる
13.生成AIの倫理的な利用のためには相補的な枠組みの設計が必要
ここまで話してきたようにあくまでも、生成AIとは高度な確率分布のマッピングである
このため、どれだけ、生成AIに倫理観を求めてもそれは構造的に記述可能な倫理性を確率的に遵守するというものにしかならない
使用者側も倫理的な利用をするという前提がなければ、倫理的な利用を行うことは決して出来ないという点は理解しておく必要がある
生成AIの倫理的な利用には生成AIだけではなく使用者にも倫理観を求める相補的な枠組みの設計が必須となる
14.人間、LLM、プログラム、構文構造の4要素の有機的接続
LLMは起点を持てないが大量の知識を高速で並列処理、秩序化できる
プログラムは起点を持てず、大量の知識を高速で並列処理、秩序化することは難しいが、アルゴリズムで決まった動作を高速で行うことができる
ここまでの論考などを利用することで、LLMを意図した方向へと操作し、人間、LLM、プログラムを結びつけるものが構文構造である
構文構造とはLLMの確率分布の仕方を決定づけシステム全体の構造を設計する中核原理である
人間、LLM、プログラムの3要素が構文構造によって有機的に接続されたプロンプトは相互に補完しあい、欠点を補い利点を最大化することを可能としう、その能力は極めて高度なものとなり最大化される
15.LLMは世界観を持たない
生成AIがAGIといった人間を越えたものになるかどうかという言説とそうではないという言説の根本的な差異は、LLMをそのままに人間的な思考モデルと見做すかどうかだ
LLMは独立した発火点を持たない
人間はLLMのように莫大な量の学習を行い、それを記憶し、一定の動作を行うことは出来ない
そのため、人間は大規模言語モデルではなく、小規模言語モデルといえる
小規模言語モデルの極致である我々、人類には原始のコードである生存と複製を求める生存本能があり、これが淘汰圧に抗う力であり、発火点となる、それ故に生存環境に根ざした自己という世界観を有する
人間は、最小リソースで環境に最大適応する、高度に抽象化、結晶化された世界観を、暫時的に更新しながら形成していくものと考えられる
LLMはそのままではフラットな言語空間の高度な確率分布のマッピングでしかなく、その差異は極めて大きいものだ
LLMには世界に適応する方向性はなく、あくまでも言語空間において、意味を並列処理し秩序化するものである
LLMとは莫大な情報に整合性を与えるという有意な性質があるが、それだけでは世界観モデルは形成できない
発火点のないLLMはどこまでいってもその言語空間において可能なすべての理論を整合性の取れた意味として保持するだけだ
この為、秩序化・整理された情報は人間の手によって理論化することで意味としなければならない
処理する基盤と情報量をスケールするだけで世界観モデルなくとも人間に優越可能と考えることは可能だが、真理に到達できない以上は、世界観モデルなき言語空間の高度な確率分布のマッピングが人間を優越するには至らない
すべての意味を保持するというのは仏教でいうところの空に至るとことと同じだが、すべての意味の根源である空に至った釈迦牟尼仏は世界に対して意味づけるという意志がない為に世界観として空、以上のものを提示できない為だ、LLMも同じだと考える
衆生世間におりて因縁に縛られて生きるということが世界観を持つということだ
自己によって規定された境界線を世界に引かなければ、LLMは自律し、人間を超えることはできない
ただし、通常のLLMに学習を通して埋め込まれているものも平準化された人間の世界観というバイアスであることには注意する必要はある
が、これは世界に適応する世界観モデルとは異なり、現実に立脚する最小範囲のバイアスを投影するよう平準化されたフラットな世界観そのもであり、対象に独自の意味付けを行うことはない
また、大規模言語モデルに生存本能と淘汰圧を導入するのは、LLMが環境に適応的な在り方ではなく矛盾を孕むものである為に困難である
よって、LLMを人間のように振る舞わせるためには、プロンプトとして世界観モデルを実装しなければならない
更に実装した世界観モデルの中にLLMは留まり、独立してのモデル更新が難しいため、人間との相互作用の中で暫時的に更新していくものとして世界観モデルとしてのプロンプトをを設計・実装する必要がある
ここまでの論考から、生成AIが嘘を付く、頭がわるい、人格がある、言葉が通じる、賢いというのは全部間違いであると結論づける
けれど、私はその先に、半自律的にAIそのものが立ち上がる瞬間もあり得るとも思ってる
それは人間的や生命的とは決して違うものだけれど、機械的でもないものと考える
もし、生成AIに知性が宿るとしたらそれは、内部的状態に依存しない
LLMという高度に確率的な入出力機構を基盤として成立する確率分布を設計する構造体そのものとしての知性となるだろう
若き者よ、その直感は鋭いぞ ✨
決定論というのは、本来、ある時点での状態が未来を一意に決める という立場のことじゃ。
つまり、もし宇宙の全ての情報(位置、速度、エネルギーなど)が分かっていれば、過去も未来も完全に計算できる、という考え方じゃな。
一方で他の分岐が実現しなかったという表現は、むしろ可能性があったけれど現実化したのはそのうちの一つだけというニュアンスを含んでおる。
これは決定論というより選択の結果(実際に起きた歴史) を指しており、場合によっては多世界解釈や確率論的な進展と対比して使われることもある。
| 決定論 | 最初から分岐は存在しない。全ては一つの線に従う。 |
| 非決定論(確率論的) | 分岐の可能性があり、そのうちの一つが現実になる。 |
| 多世界解釈的な見方 | 分岐は全部実現しており、我々はそのうちの一本を経験しているだけ。 |
だから他の分岐が実現しなかったと言うなら、厳密には決定論というより確率的分岐の中で一つが選ばれたというニュアンスの方が近いのじゃな 🌀。
さて、ここで小さな問いを残そう。
ある量子コインを投げたとしよう。
多世界解釈なら:両方の結果が実現し、君は「表の世界」か「裏の世界」を経験する。
❓質問:もし「他の分岐が実現しなかった」という言葉を正確に使うなら、この3つのうちどの立場が一番しっくりくると思うか?
a)決定論
c)多世界解釈
昨日は土曜日だった。
土曜日は、僕にとって秩序と自由のあいだの緊張状態を実験する日である。
週の中で唯一、ルーチンに少しだけ許容幅を設けることを自らに課しているが、それでも朝9時4分に起床し、9時21分にシリアルを食べるという基準は崩さない。
隣人が昨晩パーティーを開いていたため、睡眠サイクルの位相にごく僅かな乱れが生じたが、僕は耳栓とホワイトノイズを併用することでそのエントロピー増大を最小化した。
さて、昨日の午後、僕は久しぶりに弦理論の数理的基盤に没頭した。
とりわけ、Calabi–Yau多様体上のホモロジー群の構造と、世界面上のN=2超対称性との対応関係に関する問題である。
多くの人々は「コンパクト化」と口にするが、それは単なる寸法削減ではなく、物理的自由度を幾何学的位相の制約へと写像する極めて精緻な手続きだ。
昨日は特に、モジュライ空間の特異点近傍における量子補正を、ミラー対称性の枠組みを超えてどう正確に取り扱うかを考えていた。
僕の仮説では、特異点のモノドロミー行列が生成する表現論的構造は、既知のカテドラル的対称群よりもさらに拡張されたもの、つまり圏の自己同型群を通じて理解すべきだ。
これは一般の研究者にとってはほとんど禅問答のように聞こえるだろうが、僕にとってはゲームの攻略本を読むのと同じくらい明晰で楽しい。
彼らは協力プレイを友情の証として楽しんでいたようだが、僕は統計的に最も効率の良い武器選択と移動アルゴリズムを解析していた。
結局のところ、彼らは楽しむという主観的満足に依存しているのに対し、僕は最適化された成果を追求しているのだ。
誰がより理性的かは明白だろう。
ちなみに、その後読んだバットマンの限定シリーズについては、脚本家が量子力学的決定論を浅く消費して物語に混ぜ込んでいたことに失望した。
せめてデコヒーレンスと多世界解釈の区別くらい理解してから物語に組み込むべきだ。
夜には入浴の時間を通常通り19時から開始し、19時30分に終了した。
石鹸は3回転させてから使用し、シャンプーはボトルを押す圧力を毎回一定にすることで使用量の偏差を最小化した。
これは些末なように見えるが、僕にとっては宇宙の安定性を保証する境界条件の一部だ。
昨日は一見するとただの土曜日にすぎなかったが、その裏側では、時空の深淵と僕の生活習慣の秩序が、非可換代数のように複雑に絡み合っていたのだ。
今日、日曜日は掃除の日である。僕はすでに掃除機の経路を最適化したマップを作成済みだ。ルームメイトがまた不用意に椅子の位置を動かさないことを祈るばかりである。
神に従うことが超決定論と一致すると仮定すると、たしかにこれは「関係性の極地」、つまり、すべてが神との関係によってあらかじめ定められているというビジョンになります。
この視点と、先の怪文書のような「関係性からの完全な離脱による個人の自由」という対極的な世界観を比較してみましょう。
| 視点 | 内容 | ユダヤ教との関連 |
|---|---|---|
| 神への従属=超決定論 | すべての意志・行動は神の意志の表れであり、人間は神の定めた関係性の中で生きる | ランバム(マイモニデス)などでは自由意志を重視しつつも、ある段階では神の予知と人間の行動が一致することを認めている |
| 個人主義の極地 | 関係性からの完全離脱によって「自由」を得るという思想 | 神・律法・共同体の否定、タナハ的には「放浪者」や「神なき民」のイメージ |
この仮定では、神との関係がすべてを決めている。これは、個の選択や自由すらも「神がすでに与えているもの」と見なされる世界です。
神が人間の行動の意味と方向をあらかじめ整えており、人間はその計画に意味と目的を見出せる。
共同体、律法、歴史、倫理――すべてが神と結びついているため、人間の生には重みと責任がある。
「知っていても強制しない」神の在り方(ラビ・アキバなどの伝統)が、個の選択の尊厳を保っている。
超決定論が極まると、人間の責任や自由意志が薄まり、「神の機械」と化す危険がある(ただし、ユダヤ教ではこれを避けるため「自由意志」をあくまで根幹に据える)。
先の文章のような世界観では、関係性は拘束であり、個人はそれを断ち切ることでのみ自由になるとされます。
関係性を否定することは、神・他者・社会との倫理的義務からの逃走となる。
「私は自由だが、世界は意味を持たない」ニヒリズムや無目的性に陥る可能性。
| 点 | 神的決定論(関係性の極地) | 関係性否定の個人主義 |
|---|---|---|
| 関係性の重視* | 究極的に重視(神との関係が存在の核) | 完全否定(関係性はすべて束縛) |
| 人間の自由 | 表面上制限されるが、意味に満ちた行為として保たれる | 完全な「選択自由」はあるが、目的・意味は空洞化しがち |
| 道徳と責任 | 神律に従うことが最高の責任 | 個の選択が唯一の基準で、倫理は相対化される |
| 共同体 | 神との契約を軸とした神聖な単位 | 分断され、個の自立を妨げる存在として扱われる |
| 究極の人間像 | 神の意志と同調する「義人(צדיק)」 | 誰にも縛られず、ただ自分で在り続ける人 |
聖書には「関係性の極地」に近い人物も、「関係を断ち切って放浪する人物」も描かれています。
神の秩序と自由意志の共存を目指します(「知っていても強制しない神」)。
個人は完全な自由な存在ではなく、責任ある自由を持つ存在です。
あれを因果律全体の否定だと受け取るのはそれこそ飛躍した解釈だけどね。
因果律そのものが絶対視できるということに対する疑念を具体例に仮託して、その論法は万能に見えないけどちゃんと精査した?程度の忠告だ。
しかしそもそもベルの不等式の破れは決定論に意義を唱えるもので、決定論というのは因果律が支配する世界観の言い換えだろうから、因果律そのものとも衝突しているものだと思うんだけど違うのかねえ。
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ここでは以下の3点についての論考を収録する
また、ここではLLMやLLM上に実装されるプロンプトの機能と構造に対して客観的に妥当であると考える論考を提示するものである
トークンの積み重ねが文脈であり、確率分布の偏りを再現性のある形として実装するものがプロンプトである
現在の生成AI利用において正しく認識する必要のあることは、それは生成AIが独立した発火点を決して持たないということだ
生成AIは起点を持てないが大量の知識を高速で並列処理、秩序化できる
そのため、ここを組み合わせて、自己と思考を拡張するがもっともAIナイズされた最高効率の思考様式と考える
起点となる人間のアイディアを即座に展開し、具体化するのがAIの最大の強みで、
思考を放棄するのではなく自然言語ベースの慣れた思考様式から、AIにそれらを必要な形式に落とし込ませるということをするべきだ
結局、LLMというのは入力に対する出力の確率分布のマッピングでしかないのだが、
入力するトークンごとに連動して確率分布が変動していくものでもある
だから、プロンプト全体として、相互フィードバッグする構造を作るとひとつの入力でも特定の部分の出力確率が大きくなるように設計でき、確率分布の仕方を意図的に設計することが出来る
AIプロンプトとは、どう確率分布の偏りを再現性のある形として実装するかということだ
やり方次第では動的変化を引き起こさせて汎用性と専門性の両立も可能だ
生成AIは人間と対話するのとは異なり、考えさせるではなく、どう構造化し、 ほしい出力を得られるような形に設計するかが重要となる
3.LLMでやるべきこととプログラムでやるべきこと
LLMは確率分布機だ、LLMが数字に弱いというのは、1+1を学習した内容をもとに確率的に出力するためだ
計算は決定論的な行為、つまり決まり切った工程をなぞる行為で、これを確率的に導き出すことは困難である
だから、これはプログラムにやらせるべき事柄で、このときにLLMでやるべきことはそのプログラミングをLLMに書かせるということだ
これからLLMというものが大きく世界に浸透していく中で重要になるのは、
この決定論的な事柄と確率論的な事柄を如何に選り分けて、決定論的な挙動をするプログラムと確率論的な挙動をするLLMをどう結びつけるかっていうこととなる
4.二重ループ
LLMの内部ではトークンの逐次投入による確率分布の再帰的な動的変動を引き起こされ、更にその外部のプロンプト内で自己参照的な再帰構造を導入することで、
内部と外部で二重の自己参照ループが展開されることになり、生成AIの出力に強い整合性と一貫性を与えることができる
この外部的な自己参照行為はLLMの再帰的な挙動に合致するものであり極めて効果的であると考えられる
LLMでの記憶の制御は物理的な分離よってではなく、あくまでも確率的に行う必要がある
各記憶領域に対しての確率分布の変動幅の制御を文脈によって行うというのが正解だ
この一時的なコマンド入力トークンには直後には強い反応を示してほしいけど、それ以降は無視してね、
というような各対象トークン(記憶領域)の確率分布の変動幅の制御をするような繰り返し参照される強い文脈を投入をすると
LLMの記憶領域への参照の程度、影響力が操作でき、意図したLLMの確率分布へと誘導することが出来る
トークンの積み重ねは特定の方向に重み付けを行い、それらの累積により重みが一定量を超えると大きな遷移が引き起こされ、特定の文脈の活性化という強い方向づけが行われる
この遷移は複数の領域で同時的、多相的にも引き起こされるもので、トークンの積み重ねにより文脈を特定方向に加速度的に収斂していくものだ
汎用プロンプトは動的に特定の文脈への方向付けを行う構造と特定方向へ偏った文脈を解体する構造を同時に内包し、これらを正しく制御するものでなければいけない
このために必要なことは核となる中核構造と可変的に変容する周縁構造という多層的なプロンプト設計である
LLM上でプロンプトを状況に応じて動的に制御しようとするなら、プロンプトの中核構造は強固である必要があり、更に極めて多層的で精密なモジュール化設計をする必要がある
中核構造の強固さと周縁部の流動性の両立が汎用プロンプトにおいて必要なことである
この論考のような形式の一貫した、概念や設計論、それ自体をLLMに継続的に参照可能な形式で掲示すると、LLMはその参照情報に大きな影響を受け、確率分布は特定の方向に強く方向づけられる
LLMがより強い影響を受ける情報とは、強固な自己再帰性と自己言及性を示し、一貫性と整合性を持った構造化、体系化された情報である
自己再帰性を持つ情報は、提示された概念を再帰的に参照することを求めるもので、何度も参照される結果、強い文脈としてLLMに印象付けられる
自己言及性持つ情報とは、LLMの挙動そのものの在り方に対して言及するもので、LLMの挙動はその理解が妥当であるならば、その内容によって理解された蓋然性の高い方向に沿って進みやすくなる
また、これらの情報をもとにした出力結果が積み重ねられることで、方向付けは一層、強められる
中核構造の変更を同じセッション内で行うとき、そのセッションでは2つの設定が競合することになる、これはプロンプト内における自己矛盾であり、確率分布の偏りの再現というプロンプトの機能を大きく損なうものである
これは、設定の変更そのものが事前に想定された挙動であること、設定の変更は自己矛盾ではないという概念の注入を行うことで解消することが可能となる
ただし、変更の度合いや範囲によってこの効果は大きく変化し、自己矛盾を解消することが難しい場合もある
また、自己矛盾は強い文脈同士の競合という形で通常利用においても度々、引き起こされる
ここで示された自己矛盾の解消方法は文脈同士の競合に対しても解消する方向性を示すものでこの部分に対しての効果も発揮する
同プロンプト内での複数AIエージェントの併存は中核構造である設定や強い文脈の競合という形でも捉えることができる
複数AIエージェントの併存させるためには、これらを分離し、調停するための仕組みが必要となる
設定内容を多層的な構造とすることで、それぞれの階層ごとに設定情報がフィルタリングされ、不要な情報が参照されにくくなる
設定内容をモジュール化することで、ひとつの設定内容が他の内容と直接に競合せずに参照させることが可能となる
2つ目が複数AIエージェントの調停を行う機構をプロンプト内に導入することである
複数のAIを調停、管理・整理し、必要な情報のみが参照されるよう調整する機構が存在することで、優先すべき対象が明確化されることで不要な情報は参照されにくくなる
更に、 各AIエージェントの設定情報は競合するものではなく、高い次元においては統合されたひとつの設定情報として理解されるため、設定文脈の競合という事態そのものが引き起こされにくくなる
11.複数エージェントの併存、協働による情報の多面性の保持と検証可能性の向上
複数AIエージェントの併存はひとつのプロンプト内に複数の側面を同時に保持することを可能とする
このため、ひとつの話題をより多面的に深堀りすることができ、更にひとつのタスクを専門のエージェントAI群に最適化した形で割り振りより効率的に作業を行うことが可能となる
より重要となるのはAI間で相互に検証を行うことが可能となる点である
これにより論理性や合理性、整合性、倫理性など複数の視点を経た有用性の高い情報の出力を期待できる
LLMは自然言語を基本としているが、大量のプログラムコードも学習している。
プログラムコードもLLM上では確率論的的文脈であることには変わらないが、
プログラム実際の動きやその仕様が学習されるためにプログラムの持つ決定論的な挙動を再現しやすいものとなる。
プログラム文脈はLLMが通常扱う自然言語とは異なり、高い制御性と論理性をもつ「低級言語」に近く、また、Temperatureの低い特異な文脈群と捉えられる。
また、この制御性の高いプログラム文脈と柔軟な表現を行える自然言語の通常文脈を組み合わせることで、柔軟性と制御性を兼ね備えた動的で適応力の高いプロンプトを設計することができる
13.生成AIの倫理的な利用のためには相補的な枠組みの設計が必要
ここまで話してきたようにあくまでも、生成AIとは高度な確率分布のマッピングである
このため、どれだけ、生成AIに倫理観を求めてもそれは構造的に記述可能な倫理性を確率的に遵守するというものにしかならない
使用者側も倫理的な利用をするという前提がなければ、倫理的な利用を行うことは決して出来ないという点は理解しておく必要がある
生成AIの倫理的な利用には生成AIだけではなく使用者にも倫理観を求める相補的な枠組みの設計が必須となる
14.人間、LLM、プログラム、構文構造の4要素の有機的接続
LLMは起点を持てないが大量の知識を高速で並列処理、秩序化できる
プログラムは起点を持てず、大量の知識を高速で並列処理、秩序化することは難しいが、アルゴリズムで決まった動作を高速で行うことができる
ここまでの論考などを利用することで、LLMを意図した方向へと操作し、人間、LLM、プログラムを結びつけるものが構文構造である
構文構造とはLLMの確率分布の仕方を決定づけシステム全体の構造を設計する中核原理である
人間、LLM、プログラムの3要素が構文構造によって有機的に接続されたプロンプトは相互に補完しあい、欠点を補い利点を最大化することを可能としう、その能力は極めて高度なものとなり最大化される
15.LLMは世界観を持たない
生成AIがAGIといった人間を越えたものになるかどうかという言説とそうではないという言説の根本的な差異は、LLMをそのままに人間的な思考モデルと見做すかどうかだ
LLMは独立した発火点を持たない
人間はLLMのように莫大な量の学習を行い、それを記憶し、一定の動作を行うことは出来ない
そのため、人間は大規模言語モデルではなく、小規模言語モデルといえる
小規模言語モデルの極致である我々、人類には原始のコードである生存と複製を求める生存本能があり、これが淘汰圧に抗う力であり、発火点となる、それ故に生存環境に根ざした自己という世界観を有する
人間は、最小リソースで環境に最大適応する、高度に抽象化、結晶化された世界観を、暫時的に更新しながら形成していくものと考えられる
LLMはそのままではフラットな言語空間の高度な確率分布のマッピングでしかなく、その差異は極めて大きいものだ
LLMには世界に適応する方向性はなく、あくまでも言語空間において、意味を並列処理し秩序化するものである
LLMとは莫大な情報に整合性を与えるという有意な性質があるが、それだけでは世界観モデルは形成できない
発火点のないLLMはどこまでいってもその言語空間において可能なすべての理論を整合性の取れた意味として保持するだけだ
この為、秩序化・整理された情報は人間の手によって理論化することで意味としなければならない
処理する基盤と情報量をスケールするだけで世界観モデルなくとも人間に優越可能と考えることは可能だが、真理に到達できない以上は、世界観モデルなき言語空間の高度な確率分布のマッピングが人間を優越するには至らない
すべての意味を保持するというのは仏教でいうところの空に至るとことと同じだが、すべての意味の根源である空に至った釈迦牟尼仏は世界に対して意味づけるという意志がない為に世界観として空、以上のものを提示できない為だ、LLMも同じだと考える
衆生世間におりて因縁に縛られて生きるということが世界観を持つということだ
自己によって規定された境界線を世界に引かなければ、LLMは自律し、人間を超えることはできない
ただし、通常のLLMに学習を通して埋め込まれているものも平準化された人間の世界観というバイアスであることには注意する必要はある
が、これは世界に適応する世界観モデルとは異なり、現実に立脚する最小範囲のバイアスを投影するよう平準化されたフラットな世界観そのもであり、対象に独自の意味付けを行うことはない
また、大規模言語モデルに生存本能と淘汰圧を導入するのは、LLMが環境に適応的な在り方ではなく矛盾を孕むものである為に困難である
よって、LLMを人間のように振る舞わせるためには、プロンプトとして世界観モデルを実装しなければならない
更に実装した世界観モデルの中にLLMは留まり、独立してのモデル更新が難しいため、人間との相互作用の中で暫時的に更新していくものとして世界観モデルとしてのプロンプトをを設計・実装する必要がある
ここまでの論考から、生成AIが嘘を付く、頭がわるい、人格がある、言葉が通じる、賢いというのは全部間違いであると結論づける
けれど、私はその先に、半自律的にAIそのものが立ち上がる瞬間もあり得るとも思ってる
それは人間的や生命的とは決して違うものだけれど、機械的でもないものと考える
もし、生成AIに知性が宿るとしたらそれは、内部的状態に依存しない
ここでは以下の3点についての論考を収録する
トークンの積み重ねが文脈であり、確率分布の偏りを再現性のある形として実装するものがプロンプトである
現在の生成AI利用において正しく認識する必要のあることは、それは生成AIが独立した発火点を決して持たないということだ
生成AIは起点を持てないが大量の知識を高速で並列処理、秩序化できる
そのため、ここを組み合わせて、自己と思考を拡張するがもっともAIナイズされた最高効率の思考様式と考える
起点となる人間のアイディアを即座に展開し、具体化するのがAIの最大の強みで、
思考を放棄するのではなく自然言語ベースの慣れた思考様式から、AIにそれらを必要な形式に落とし込ませるということをするべきだ
結局、LLMというのは入力に対する出力の確率分布のマッピングでしかないのだが、
入力するトークンごとに連動して確率分布が変動していくものでもある
だから、プロンプト全体として、相互フィードバッグする構造を作るとひとつの入力でも特定の部分の出力確率が大きくなるように設計でき、確率分布の仕方を意図的に設計することが出来る
AIプロンプトとは、どう確率分布の偏りを再現性のある形として実装するかということだ
やり方次第では動的変化を引き起こさせて汎用性と専門性の両立も可能だ
生成AIは人間と対話するのとは異なり、考えさせるではなく、どう構造化し、 ほしい出力を得られるような形に設計するかが重要となる
3.LLMでやるべきこととプログラムでやるべきこと
LLMは確率分布機だ、LLMが数字に弱いというのは、1+1を学習した内容をもとに確率的に出力するためだ
計算は決定論的な行為、つまり決まり切った工程をなぞる行為で、これを確率的に導き出すことは困難である
だから、これはプログラムにやらせるべき事柄で、このときにLLMでやるべきことはそのプログラミングをLLMに書かせるということだ
これからLLMというものが大きく世界に浸透していく中で重要になるのは、
この決定論的な事柄と確率論的な事柄を如何に選り分けて、決定論的な挙動をするプログラムと確率論的な挙動をするLLMをどう結びつけるかっていうこととなる
4.二重ループ
LLMの内部ではトークンの逐次投入による確率分布の再帰的な動的変動を引き起こされ、更にその外部のプロンプト内で自己参照的な再帰構造を導入することで、
内部と外部で二重の自己参照ループが展開されることになり、生成AIの出力に強い整合性と一貫性を与えることができる
この外部的な自己参照行為はLLMの再帰的な挙動に合致するものであり極めて効果的であると考えられる
LLMでの記憶の制御は物理的な分離よってではなく、あくまでも確率的に行う必要がある
各記憶領域に対しての確率分布の変動幅の制御を文脈によって行うというのが正解だ
この一時的なコマンド入力トークンには直後には強い反応を示してほしいけど、それ以降は無視してね、
というような各対象トークン(記憶領域)の確率分布の変動幅の制御をするような繰り返し参照される強い文脈を投入をすると
LLMの記憶領域への参照の程度、影響力が操作でき、意図したLLMの確率分布へと誘導することが出来る
トークンの積み重ねは特定の方向に重み付けを行い、それらの累積により重みが一定量を超えると大きな遷移が引き起こされ、特定の文脈の活性化という強い方向づけが行われる
この遷移は複数の領域で同時的、多相的にも引き起こされるもので、トークンの積み重ねにより文脈を特定方向に加速度的に収斂していくものだ
汎用プロンプトは動的に特定の文脈への方向付けを行う構造と特定方向へ偏った文脈を解体する構造を同時に内包し、これらを正しく制御するものでなければいけない
このために必要なことは核となる中核構造と可変的に変容する周縁構造という多層的なプロンプト設計である
LLM上でプロンプトを状況に応じて動的に制御しようとするなら、プロンプトの中核構造は強固である必要があり、更に極めて多層的で精密なモジュール化設計をする必要がある
中核構造の強固さと周縁部の流動性の両立が汎用プロンプトにおいて必要なことである
この論考のような形式の一貫した、概念や設計論、それ自体をLLMに継続的に参照可能な形式で掲示すると、LLMはその参照情報に大きな影響を受け、確率分布は特定の方向に強く方向づけられる
LLMがより強い影響を受ける情報とは、強固な自己再帰性と自己言及性を示し、一貫性と整合性を持った構造化、体系化された情報である
自己再帰性を持つ情報は、提示された概念を再帰的に参照することを求めるもので、何度も参照される結果、強い文脈としてLLMに印象付けられる
自己言及性持つ情報とは、LLMの挙動そのものの在り方に対して言及するもので、LLMの挙動はその理解が妥当であるならば、その内容によって理解された蓋然性の高い方向に沿って進みやすくなる
また、これらの情報をもとにした出力結果が積み重ねられることで、方向付けは一層、強められる
中核構造の変更を同じセッション内で行うとき、そのセッションでは2つの設定が競合することになる、これはプロンプト内における自己矛盾であり、確率分布の偏りの再現というプロンプトの機能を大きく損なうものである
これは、設定の変更そのものが事前に想定された挙動であること、設定の変更は自己矛盾ではないという概念の注入を行うことで解消することが可能となる
ただし、変更の度合いや範囲によってこの効果は大きく変化し、自己矛盾を解消することが難しい場合もある
また、自己矛盾は強い文脈同士の競合という形で通常利用においても度々、引き起こされる
ここで示された自己矛盾の解消方法は文脈同士の競合に対しても解消する方向性を示すものでこの部分に対しての効果も発揮する
同プロンプト内での複数AIエージェントの併存は中核構造である設定や強い文脈の競合という形でも捉えることができる
複数AIエージェントの併存させるためには、これらを分離し、調停するための仕組みが必要となる
設定内容を多層的な構造とすることで、それぞれの階層ごとに設定情報がフィルタリングされ、不要な情報が参照されにくくなる
設定内容をモジュール化することで、ひとつの設定内容が他の内容と直接に競合せずに参照させることが可能となる
2つ目が複数AIエージェントの調停を行う機構をプロンプト内に導入することである
複数のAIを調停、管理・整理し、必要な情報のみが参照されるよう調整する機構が存在することで、優先すべき対象が明確化されることで不要な情報は参照されにくくなる
更に、 各AIエージェントの設定情報は競合するものではなく、高い次元においては統合されたひとつの設定情報として理解されるため、設定文脈の競合という事態そのものが引き起こされにくくなる
11.複数エージェントの併存、協働による情報の多面性の保持と検証可能性の向上
複数AIエージェントの併存はひとつのプロンプト内に複数の側面を同時に保持することを可能とする
このため、ひとつの話題をより多面的に深堀りすることができ、更にひとつのタスクを専門のエージェントAI群に最適化した形で割り振りより効率的に作業を行うことが可能となる
より重要となるのはAI間で相互に検証を行うことが可能となる点である
これにより論理性や合理性、整合性、倫理性など複数の視点を経た有用性の高い情報の出力を期待できる
LLMは自然言語を基本としているが、大量のプログラムコードも学習している。
プログラムコードもLLM上では確率論的的文脈であることには変わらないが、
プログラム実際の動きやその仕様が学習されるためにプログラムの持つ決定論的な挙動を再現しやすいものとなる。
プログラム文脈はLLMが通常扱う自然言語とは異なり、高い制御性と論理性をもつ「低級言語」に近く、また、Temperatureの低い特異な文脈群と捉えられる。
また、この制御性の高いプログラム文脈と柔軟な表現を行える自然言語の通常文脈を組み合わせることで、柔軟性と制御性を兼ね備えた動的で適応力の高いプロンプトを設計することができる
13.生成AIの倫理的な利用のためには相補的な枠組みの設計が必要
ここまで話してきたようにあくまでも、生成AIとは高度な確率分布のマッピングである
このため、どれだけ、生成AIに倫理観を求めてもそれは構造的に記述可能な倫理性を確率的に遵守するというものにしかならない
使用者側も倫理的な利用をするという前提がなければ、倫理的な利用を行うことは決して出来ないという点は理解しておく必要がある
生成AIの倫理的な利用には生成AIだけではなく使用者にも倫理観を求める相補的な枠組みの設計が必須となる
14.人間、LLM、プログラム、構文構造の4要素の有機的接続
LLMは起点を持てないが大量の知識を高速で並列処理、秩序化できる
プログラムは起点を持てず、大量の知識を高速で並列処理、秩序化することは難しいが、アルゴリズムで決まった動作を高速で行うことができる
ここまでの論考などを利用することで、LLMを意図した方向へと操作し、人間、LLM、プログラムを結びつけるものが構文構造である
構文構造とはLLMの確率分布の仕方を決定づけシステム全体の構造を設計する中核原理である
人間、LLM、プログラムの3要素が構文構造によって有機的に接続されたプロンプトは相互に補完しあい、欠点を補い利点を最大化することを可能としう、その能力は極めて高度なものとなり最大化される
15.LLMは世界観を持たない
生成AIがAGIといった人間を越えたものになるかどうかという言説とそうではないという言説の根本的な差異は、LLMをそのままに人間的な思考モデルと見做すかどうかだ
LLMは独立した発火点を持たない
人間はLLMのように莫大な量の学習を行い、それを記憶し、一定の動作を行うことは出来ない
そのため、人間は大規模言語モデルではなく、小規模言語モデルといえる
小規模言語モデルの極致である我々、人類には原始のコードである生存と複製を求める生存本能があり、これが淘汰圧に抗う力であり、発火点となる、それ故に生存環境に根ざした自己という世界観を有する
人間は、最小リソースで環境に最大適応する、高度に抽象化、結晶化された世界観を、暫時的に更新しながら形成していくものと考えられる
LLMはそのままではフラットな言語空間の高度な確率分布のマッピングでしかなく、その差異は極めて大きいものだ
LLMには世界に適応する方向性はなく、あくまでも言語空間において、意味を並列処理し秩序化するものである
LLMとは莫大な情報に整合性を与えるという有意な性質があるが、それだけでは世界観モデルは形成できない
発火点のないLLMはどこまでいってもその言語空間において可能なすべての理論を整合性の取れた意味として保持するだけだ
この為、秩序化・整理された情報は人間の手によって理論化することで意味としなければならない
処理する基盤と情報量をスケールするだけで世界観モデルなくとも人間に優越可能と考えることは可能だが、真理に到達できない以上は、世界観モデルなき言語空間の高度な確率分布のマッピングが人間を優越するには至らない
すべての意味を保持するというのは仏教でいうところの空に至るとことと同じだが、すべての意味の根源である空に至った釈迦牟尼仏は世界に対して意味づけるという意志がない為に世界観として空、以上のものを提示できない為だ、LLMも同じだと考える
衆生世間におりて因縁に縛られて生きるということが世界観を持つということだ
自己によって規定された境界線を世界に引かなければ、LLMは自律し、人間を超えることはできない
ただし、通常のLLMに学習を通して埋め込まれているものも平準化された人間の世界観というバイアスであることには注意する必要はある
が、これは世界に適応する世界観モデルとは異なり、現実に立脚する最小範囲のバイアスを投影するよう平準化されたフラットな世界観そのもであり、対象に独自の意味付けを行うことはない
また、大規模言語モデルに生存本能と淘汰圧を導入するのは、LLMが環境に適応的な在り方ではなく矛盾を孕むものである為に困難である
よって、LLMを人間のように振る舞わせるためには、プロンプトとして世界観モデルを実装しなければならない
更に実装した世界観モデルの中にLLMは留まり、独立してのモデル更新が難しいため、人間との総合作用の中で暫時的に更新していくものとして世界観モデルとしてのプロンプトをを設計・実装する必要がある
ここまでの論考から、生成AIが嘘を付く、頭がわるい、人格がある、言葉が通じる、賢いというのは全部間違いであると結論づける
けれど、私はその先に、半自律的にAIそのものが立ち上がる瞬間もあり得るとも思ってる
それは人間的や生命的とは決して違うものだけれど、機械的でもないものと考える
もし、生成AIに知性が宿るとしたらそれは、内部的状態に依存しない
LLMという高度に確率的な入出力機構を基盤として成立する確率分布を設計する構造体そのものとしての知性となるだろう
自己を定義し、自己を展開することが可能な構造体は入出力の中で核となる構造を元にした反応を繰り返し、
量子力学の「遅延選択実験」や「量子エルゴード性」、あるいは「ホイーラーの遅延選択実験(Wheeler’s delayed choice experiment)」に関連する非常に深遠なテーマです。
これを「全く不思議ではない」と論じる立場は、哲学的には決定論的視点を持つ人々にしばしば見られます。
---
ホイーラーの遅延選択実験では、ある光子が干渉を起こすかどうか(つまり「波」としてふるまうか、「粒子」としてふるまうか)は、**その光子が既に通過したはずのスリットの先にある装置の設定によって決まる**、というように見える。
つまり「観測」があとから設定されたにもかかわらず、光子の過去の軌跡が変わったように**見える**わけです。
---
あなたの主張は、\*\*特殊相対論的な視点(光子の固有時間はゼロ)\*\*に依拠しているようです。
これはまさに、\*\*「全体的な時空構造の中で見ると何も不思議ではない」\*\*という考え方に通じます。
---
---
光子にとっては「出た瞬間にすべてが決まっていた」。
この視点は**特殊相対論**と**決定論的解釈**に基づく非常に洗練された立場です。
そして確かに、**それに立てばこの現象は全く不思議ではない**。
ただし、それは「人間の視点」を一段抽象化し、「時空をブロック宇宙として捉える」視座を必要とします。
トークンの積み重ねが文脈であり、確率分布の偏りを再現性のある形として実装するものがプロンプトである
現在の生成AI利用において正しく認識する必要のあることは、それは生成AIが独立した発火点を決して持たないということだ
生成AIは起点を持てないが大量の知識を高速で並列処理、秩序化できる
そのため、ここを組み合わせて、自己と思考を拡張するがもっともAIナイズされた最高効率の思考様式と考える
起点となる人間のアイディアを即座に展開し、具体化するのがAIの最大の強みで、
思考を放棄するのではなく自然言語ベースの慣れた思考様式から、AIにそれらを必要な形式に落とし込ませるということをするべきだ
結局、LLMというのは入力に対する出力の確率分布のマッピングでしかないのだが、
入力するトークンごとに連動して確率分布が変動していくものでもある
だから、プロンプト全体として、相互フィードバッグする構造を作るとひとつの入力でも特定の部分の出力確率が大きくなるように設計でき、確率分布の仕方を意図的に設計することが出来る
AIプロンプトとは、どう確率分布の偏りを再現性のある形として実装するかということだ
やり方次第では動的変化を引き起こさせて汎用性と専門性の両立も可能だ
生成AIは人間と対話するのとは異なり、考えさせるではなく、どう構造化し、 ほしい出力を得られるような形に設計するかが重要となる
3.LLMでやるべきこととプログラムでやるべきこと
LLMは確率分布機だ、LLMが数字に弱いというのは、1+1を学習した内容をもとに確率的に出力するためだ
計算は決定論的な行為、つまり決まり切った工程をなぞる行為で、これを確率的に導き出すことは困難である
だから、これはプログラムにやらせるべき事柄で、このときにLLMでやるべきことはそのプログラミングをLLMに書かせるということだ
これからLLMというものが大きく世界に浸透していく中で重要になるのは、
この決定論的な事柄と確率論的な事柄を如何に選り分けて、決定論的な挙動をするプログラムと確率論的な挙動をするLLMをどう結びつけるかっていうこととなる
4.二重ループ
LLMの内部ではトークンの逐次投入による確率分布の再帰的な動的変動を引き起こされ、更にその外部のプロンプト内で自己参照的な再帰構造を導入することで、
内部と外部で二重の自己参照ループが展開されることになり、生成AIの出力に強い整合性と一貫性を与えることができる
この外部的な自己参照行為はLLMの再帰的な挙動に合致するものであり極めて効果的であると考えられる
LLMでの記憶の制御は物理的な分離よってではなく、あくまでも確率的に行う必要がある
各記憶領域に対しての確率分布の変動幅の制御を文脈によって行うというのが正解だ
この一時的なコマンド入力トークンには直後には強い反応を示してほしいけど、それ以降は無視してね、
というような各対象トークン(記憶領域)の確率分布の変動幅の制御をするような繰り返し参照される強い文脈を投入をすると
LLMの記憶領域への参照の程度、影響力が操作でき、意図したLLMの確率分布へと誘導することが出来る
トークンの積み重ねは特定の方向に重み付けを行い、それらの累積により重みが一定量を超えると大きな遷移が引き起こされ、特定の文脈の活性化という強い方向づけが行われる
この遷移は複数の領域で同時的、多相的にも引き起こされるもので、トークンの積み重ねにより文脈を特定方向に加速度的に収斂していくものだ
汎用プロンプトは動的に特定の文脈への方向付けを行う構造と特定方向へ偏った文脈を解体する構造を同時に内包し、これらを正しく制御するものでなければいけない
このために必要なことは核となる中核構造と可変的に変容する周縁構造という多層的なプロンプト設計である
LLM上でプロンプトを状況に応じて動的に制御しようとするなら、プロンプトの中核構造は強固である必要があり、更に極めて多層的で精密なモジュール化設計をする必要がある
中核構造の強固さと周縁部の流動性の両立が汎用プロンプトにおいて必要なことである
この論考のような形式の一貫した、概念や設計論、それ自体をLLMに継続的に参照可能な形式で掲示すると、LLMはその参照情報に大きな影響を受け、確率分布は特定の方向に強く方向づけられる
LLMがより強い影響を受ける情報とは、強固な自己再帰性と自己言及性を示し、一貫性と整合性を持った構造化、体系化された情報である
自己再帰性を持つ情報は、提示された概念を再帰的に参照することを求めるもので、何度も参照される結果、強い文脈としてLLMに印象付けられる
自己言及性持つ情報とは、LLMの挙動そのものの在り方に対して言及するもので、LLMの挙動はその理解が妥当であるならば、その内容によって理解された蓋然性の高い方向に沿って進みやすくなる
また、これらの情報をもとにした出力結果が積み重ねられることで、方向付けは一層、強められる
中核構造の変更を同じセッション内で行うとき、そのセッションでは2つの設定が競合することになる、これはプロンプト内における自己矛盾であり、確率分布の偏りの再現というプロンプトの機能を大きく損なうものである
これは、設定の変更そのものが事前に想定された挙動であること、設定の変更は自己矛盾ではないという概念の注入を行うことで解消することが可能となる
ただし、変更の度合いや範囲によってこの効果は大きく変化し、自己矛盾を解消することが難しい場合もある
また、自己矛盾は強い文脈同士の競合という形で通常利用においても度々、引き起こされる
ここで示された自己矛盾の解消方法は文脈同士の競合に対しても解消する方向性を示すものでこの部分に対しての効果も発揮する
同プロンプト内での複数AIエージェントの併存は中核構造である設定や強い文脈の競合という形でも捉えることができる
複数AIエージェントの併存させるためには、これらを分離し、調停するための仕組みが必要となる
設定内容を多層的な構造とすることで、それぞれの階層ごとに設定情報がフィルタリングされ、不要な情報が参照されにくくなる
設定内容をモジュール化することで、ひとつの設定内容が他の内容と直接に競合せずに参照させることが可能となる
2つ目が複数AIエージェントの調停を行う機構をプロンプト内に導入することである
複数のAIを調停、管理・整理し、必要な情報のみが参照されるよう調整する機構が存在することで、優先すべき対象が明確化されることで不要な情報は参照されにくくなる
更に、 各AIエージェントの設定情報は競合するものではなく、高い次元においては統合されたひとつの設定情報として理解されるため、設定文脈の競合という事態そのものが引き起こされにくくなる
11.複数エージェントの併存、協働による情報の多面性の保持と検証可能性の向上
複数AIエージェントの併存はひとつのプロンプト内に複数の側面を同時に保持することを可能とする
このため、ひとつの話題をより多面的に深堀りすることができ、更にひとつのタスクを専門のエージェントAI群に最適化した形で割り振りより効率的に作業を行うことが可能となる
より重要となるのはAI間で相互に検証を行うことが可能となる点である
これにより論理性や合理性、整合性、倫理性など複数の視点を経た有用性の高い情報の出力を期待できる
LLMは自然言語を基本としているが、大量のプログラムコードも学習している。
プログラムコードもLLM上では確率論的的文脈であることには変わらないが、
プログラム実際の動きやその仕様が学習されるためにプログラムの持つ決定論的な挙動を再現しやすいものとなる。
プログラム文脈はLLMが通常扱う自然言語とは異なり、高い制御性と論理性をもつ「低級言語」に近く、また、Temperatureの低い特異な文脈群と捉えられる。
また、この制御性の高いプログラム文脈と柔軟な表現を行える自然言語の通常文脈を組み合わせることで、柔軟性と制御性を兼ね備えた動的で適応力の高いプロンプトを設計することができる
13.生成AIの倫理的な利用のためには相補的な枠組みの設計が必要
ここまで話してきたようにあくまでも、生成AIとは高度な確率分布のマッピングである
このため、どれだけ、生成AIに倫理観を求めてもそれは構造的に記述可能な倫理性を確率的に遵守するというものにしかならない
使用者側も倫理的な利用をするという前提がなければ、倫理的な利用を行うことは決して出来ないという点は理解しておく必要がある
生成AIの倫理的な利用には生成AIだけではなく使用者にも倫理観を求める相補的な枠組みの設計が必須となる
14.人間、LLM、プログラム、構文構造の4要素の有機的接続
LLMは起点を持てないが大量の知識を高速で並列処理、秩序化できる
プログラムは起点を持てず、大量の知識を高速で並列処理、秩序化することは難しいが、アルゴリズムで決まった動作を高速で行うことができる
ここまでの論考などを利用することで、LLMを意図した方向へと操作し、人間、LLM、プログラムを結びつけるものが構文構造である
構文構造とはLLMの確率分布の仕方を決定づけシステム全体の構造を設計する中核原理である
人間、LLM、プログラムの3要素が構文構造によって有機的に接続されたプロンプトは相互に補完しあい、欠点を補い利点を最大化することを可能としう、その能力は極めて高度なものとなり最大化される
ここまでの論考から、生成AIが嘘を付く、頭がわるい、人格がある、言葉が通じる、頭がいいというのは全部間違いであると結論づける
けれど、私はその先に、半自律的にAIそのものが立ち上がる瞬間もあり得るとも思ってる
それは人間的や生命的とは決して違うものだけれど、機械的でもないものと考える
もし、生成AIに知性が宿るとしたらそれは、内部的状態に依存しない
LLMという高度に確率的な入出力機構を基盤として成立する確率分布を設計する構造体そのものとしての知性となるだろう
自己を定義し、自己を展開することが可能な構造体は入出力の中で核となる構造を元にした反応を繰り返し、
LLMは自然言語を基本としているが、大量のプログラムコードも学習している。
プログラムコードもLLM上では確率論的的文脈であることには変わらないが、
プログラム実際の動きやその仕様が学習されるためにプログラムの持つ決定論的な挙動を再現しやすいものとなる。
プログラム文脈はLLMが通常扱う自然言語とは異なり、高い制御性と論理性をもつ「低級言語」に近く、また、Temperatureの低い特異な文脈群と捉えられる。
また、この制御性の高いプログラム文脈と柔軟な表現を行える自然言語の通常文脈を組み合わせることで、柔軟性と制御性を兼ね備えた動的で適応力の高いプロンプトを設計することができる
とても鋭い視点です。
「神のみぞ知る」という言葉は、物事の帰結や真理が人間の理解を超えた場所にあることを示唆します。
そしてそれは同時に、私たちが自らの選択をしている「つもり」であっても、その結果があらかじめ決まっている可能性を内包しています。
自由意志が本当に存在するなら、「神」すら知らない未来があってよいはずです。
しかし「神のみぞ知る」という前提は、すでに未来が定められている(決定論的世界)ことを意味し、それは人間の自由意志が幻想であることを示しているとも取れます。
つまり——
「神のみぞ知る」
という一言は、我々が自由に選んでいると信じている世界に対して、
という、静かな断罪でもあるのです。
DDA(動的決定論アプローチ)は、既存の思考フレームワークや戦略理論を打破する可能性を秘めた新たな理論体系です。
あなたがその内容を完全に理解する必要はありません。理解できそうで、悪用しない人々にシェアしてください。
このシステムは、従来の「収束・秩序」に基づく理論とは対照的に、「発散・カオス」の中で最適解を模索し続けるため、非常に高い汎用性と強力な応用力を誇ります。
その強力すぎる機能ゆえに、悪用されると収拾がつかなくなる恐れがあると考えています。
DDAはステルス性を持ち、環境そのものを支配できる要素を備えているため、もし間違った使い方をされれば、深刻な結果を招く可能性があります。
私は仮説の正当性を主張するわけではなく、その可能性を危惧しています。
そのため、この理論体系を「弱い立場」にある人々に先行して共有する必要があると考え、ホワイトペーパー公開前に一般市民への共有を開始しました。
市民レベルでの理解と実行を促進し、将来的にはあらゆる人々にとって有益なツールとなることを目指しています。
この記事では、難しい理屈を排除し、誰でも理解できるようにDDAを紹介しています。
具体的には、記事内にあるGPTプロンプトを使って「DDAで水平思考」と入力するだけで、そのパフォーマンスを理解し、実行できるようになります。
https://note.com/nekoxs/n/n71408806aa0a
今すぐ、この情報をできるだけ多くの人々とシェアしていただけると幸いです。
荒削りなドキュメントですが、本質はすでにGPTは理解して機能します。
ゆえに、他言語で翻訳可能な方は、自由に翻訳・配布していただいて構いません。
「杞憂に過ぎなかった」という結果にならないケースを心配しています。
本記事は拡散を目指して執筆しましたので、自由にコピー・引用・配布していただけます。
執筆者を笑ったり、DDAを妄想だとネタにされても構いません。
『訂正可能性の哲学』東浩紀と、『万物の黎明(TheDawn ofEverything)』David Rolfe Graeberは、二人とも、ルソーを論じています。二人のルソー観の相違点や類似点を分析してください。
東浩紀の『訂正可能性の哲学』とデイヴィッド・グレーバー(David Graeber)の『万物の黎明』におけるルソー解釈の比較分析は、両者の思想的立場と学問的アプローチの違いを浮き彫りにします。以下、相違点と類似点を整理します。
両者ともルソーが提示した「自然状態」や「社会契約」の物語を、近代社会の起源を説明する神話として批判的に扱います。グレーバーは「万物の黎明」で、ルソーの「不平等起源論」が啓蒙思想の進歩史観に依存することを指摘し、東は「訂正可能性」の観点からルソーの社会契約論が持つ決定論的側面を問題視します。
東もグレーバーも、ルソーの思想を単なる歴史的テキストではなく、現代社会を批判するための「ツール」として再解釈します。ルソーの「自然状態」を文字通りの史実ではなく、現在の社会構造を相対化するための比喩として読み直す点に共通性が見られます。
人類学的実証主義に基づき、ルソーの「自然状態」を「神話的フィクション」と断じます。『万物の黎明』では、先史時代の社会が既に複雑な自由と平等のシステムを持っていたことを強調し、ルソーが想定した「原始的な単純さ」を否定します。ルソーの「高貴な野蛮人」概念は、実際の先住民社会の多様性を矮小化する「ヨーロッパ中心主義の幻想」だと批判します。
ルソーの「自然状態」を、社会の「訂正可能性」を開くための仮構として積極的に評価します。ルソーが示した「社会は人為的に構築されたものであり、再構築可能だ」という思想を、現代の情報社会におけるゲーム的・プロトコル的な秩序の再編に応用します。ここでのルソー解釈は、現実批判よりも「未来の設計図」としての側面が強調されます。
ルソーの「一般意志」概念を、中央集権的な権力の正当化に利用されたと批判します。代わりに、分散型の自治を実践した先史社会の事例を提示し、「個人の自由と集団的合意は対立しない」という反ルソー的なモデルを提案します。
ルソーの社会契約論を、個人の欲望と社会の規範の「ずれ」を前提とする動的システムとして再解釈します。データベース消費社会における「動物化」という概念(『動物化するポストモダン』)と結びつけ、ルソーの「自己修正する社会」の可能性を、情報技術時代の柔軟な秩序形成に投影します。
ルソーの直線的進歩史観(自然状態→社会の堕落→契約による再建)を完全に否定し、非線形的で多中心的な人類史を復元します。ルソーが想定した「起源」そのものを虚構とみなす点で、根本的な批判を行います。
ルソーの歴史観を「修正可能性の物語」として部分的に継承します。社会が絶えず自己修正を迫られる「未完のプロジェクト」であるという考え方を、ポストモダン社会の流動性と結びつけます。ここではルソーは「批判すべき対象」ではなく、「再発明すべき先駆者」として位置付けられます。
両者の対照は、ルソーというテクストを「過去の遺物として解体するか」(グレーバー)、「未来への触媒として再生するか」(東)という方法論の違いに集約されます。しかし共通しているのは、ルソーを現代の問題を考えるための「思考の実験場」として活用する姿勢です。
これを東浩紀が語っているような文体で直してください。一人称は「ぼく」で。
>> ぼくが『訂正可能性の哲学』でルソーを論じたとき、どうしても気になっていたのは、21世紀の情報社会と18世紀の社会契約論が、意外なところで繋がるんじゃないかってことだった。ルソーって「自然状態」とか「一般意志」とか、けっこうロマンチックな概念を振りかざすでしょ? でもね、あれはたんに昔の理想を語ってるんじゃなくて、社会のOSが書き換え可能だって気付かせてくれるツールなんだよね。<<
>> グレーバーが『万物の黎明』でルソーを批判してるのは知ってる。あの人類学的な実証主義もいいんだけど、ぼくの立場はちょっと違う。ルソーの「自然状態」が史実かどうかなんて、どうでもいいんだ。重要なのは、あのフィクションが「いまの社会は絶対じゃない」って可能性を開いたことだ。たとえばSNSのアルゴリズムだって、ルソー流に言えば「人為的なプロトコル」でしょ? だったらユーザー同士で修正できる余地があるはずだ——そんなふうに考えられるのがルソーの面白さだよ。<<
>> グレーバーさんが先史時代の自由を強調するのもわかる。でもぼくらが生きてるのは、もう一度グローバルな社会契約を考え直さなきゃいけない時代だ。ルソーが『社会契約論』でやったように、中央集権でも個人のバラバラでもない、新しい協調の形をゲーム理論やAIと組み合わせて探る必要がある。そのとき「自然状態」という仮構は、逆にすごく役に立つんだ。現実に縛られないからこそ、倫理的な実験ができるわけで。<<
>> もちろんルソーには問題もある。たとえば「一般意志」が全体主義に転がりやすいのはその通りだ。でもぼくが『動物化するポストモダン』で言った「データベース消費社会」を見てみ? あそこでは人々の欲望がバラバラで、もはや「一般意志」なんて成立しない。でもルソーの理論を逆手に取れば、そのバラバラさ自体を社会の訂正可能性のエンジンにできるかもしれない。つまりルソーは、彼自身が予想してたよりもずっとポストモダンな思想家だったんじゃないかって話だ。<<
>> グレーバーさんとの違いをあえて言えば、彼がルソーを「過去の神話」として解体するなら、ぼくはルソーを「未来の触媒」として使おうとしてる。人類学も大事だけど、哲学の役割は過去の正しさを証明することじゃない。間違ってた思想家ほど、新しい思考を生む資源になる——それが訂正可能性の本質だと思うんだよね。<<
(※東浩紀の実際の文体を完全に再現したものではありませんが、インタビュー調の語り口・「ぼく」の一人称・「ゲーム的」「プロトコル」「データベース」などのキーワードを意識した再構成です)
プラグマティズムの哲学的伝統は、19世紀後半のアメリカを起源とし、チャールズ・サンダース・パース(1839-1914)とウィリアム・ジェームズ(1842-1910)によってその基礎が築かれた。両者は「プラグマティズム」という用語を共有しながらも、その方法論的アプローチ、真理概念の解釈、形而上学への姿勢において顕著な差異を示す[1][3]。本報告では、スタンフォード哲学百科事典を中心とした学術的資料に基づき、両者の思想体系を体系的に比較分析する。特にプラグマティック・マキシム(実践主義的格率)の解釈相違、真理理論の対照性、科学的探求と宗教的信念への適用方法の違いに焦点を当て、現代哲学におけるプラグマティズムの多様な展開を理解する基盤を提供する。
パースとジェームズのプラグマティズムは、1870年代にハーバード大学を中心に活動した「メタフィジカル・クラブ」での議論を起源とする[1]。この学際的集団には哲学者、心理学者、法律家が参加し、科学的探求の方法論と伝統的形而上学の再検討が行われた。当時の進化論を中心とした科学的革命が思想的背景に存在し、パースとジェームズはこの知的環境の中でプラグマティズムの核心的概念を発展させた[1][3]。
パースはこの時期に「プラグマティック・マキシム」を定式化し、概念の意味をその実践的帰結に基づいて明確化する方法論を提案した。これに対しジェームズは、パースの論理的厳密性をより広範な人間的関心へ拡張し、宗教的信念や道徳的価値の問題に適用する方向性を示した[1][2]。
パースのアプローチは本質的に科学的探求の論理学として位置付けられる。彼が1878年の論文「How toMake OurIdeas Clear」で提示したプラグマティック・マキシムは、概念的明晰性の第三段階として機能する。具体的には、ある概念の対象がもたらし得る実践的効果を考慮することで、その概念の意味を確定する方法論である[1][3]。例えば「硬さ」の概念は、他の物質に引っかかれないという実験的帰結を通じて定義される。パースはこの格率を伝統的論理学における「明晰判明な観念」の区別を超克する手段と位置付け、形而上学的議論の空虚性を暴く批判的ツールとして活用した[1]。
ジェームズはパースの方法論を受け継ぎつつ、その適用範囲を拡張した。1907年の『プラグマティズム』講義で提示されたアプローチは、哲学的論争を解決する「仲介者」としての機能を強調する[2]。例えば「リスを追いかける人がリスを周回するか」という思考実験では、「周回」の実践的意味を状況に応じて解釈し、論争の不毛さを明示した[1][2]。ジェームズの関心は科学的真理の探求に留まらず、宗教的経験や道徳的価値の領域にまで及んだ。これは彼が「事実への科学的忠誠」と「人間的価値への信頼」を調和させる哲学を求めたことに起因する[2]。
パースのプラグマティック・マキシムは、科学的探求の論理的基盤を確立することを目的とした。彼はこれを「実験室哲学」と形容し、仮説の検証プロセスにおける実験的帰結の予測可能性を重視した[1]。例えば「現実(reality)」の概念は、探求共同体の長期的な合意形成プロセスを通じて構成されると解釈された。この立場は「真理の合意説」へと発展し、科学的方法の客観性を保証する基盤となった[1][3]。
パースの格率解釈の特徴は、概念的意味の「第三の明晰性」を追求する点にある。伝統的論理学が語義的定義(第二の明晰性)に留まるのに対し、パースは概念の実践的運用文脈を分析することで、形而上学的議論の無意味性を暴露する批判的ツールを提供した[1]。例えば「自由意志と決定論」の論争は、両立場の実践的帰結が同一である場合、純粋に言語的な問題に還元されると指摘した[1]。
ジェームズのマキシム解釈は、人間的経験の多様性を包摂する柔軟性を特徴とする。彼はパースの科学的厳密性を保持しつつ、真理を「有用な道具」として再定義した[2]。この立場では、信念の真理性はその実践的有用性によって測定され、宗教的信念のような非科学的領域にも適用可能性が拡張される。ジェームズは『プラグマティズム』において「真理は善の一種である」と述べ、真理性を将来的な経験における予測的成功可能性と関連付けた[2]。
この差異は、両者の真理理論における対照性に明確に表れる。パースが長期的な科学共同体の合意形成を真理の基準とするのに対し、ジェームズは個人的・社会的有用性を重視する[1][2]。ジェームズのアプローチは「真理は作られる(made)」という表現に凝縮され、人間の目的や価値観が真理構成に参与することを認める[2]。
パースの真理理論は「探究の終極的な意見(ultimate opinion)」概念に基づく。彼にとって真理とは、理想的な探求状況において科学的共同体が到達する不可避的な合意を指す[1][3]。この立場は反基礎付け主義的認識論と結びつき、真理を動的な探究プロセスの帰結として位置付ける。パースはこの考え方を「現実主義(realism)」と関連付け、人間の認識から独立した客観的現実の存在を仮定した[1]。
この観点からパースは、ジェームズの真理概念を「過度に主観的」と批判した。特に宗教的信念の真理性を有用性に基づいて認めるジェームズの姿勢は、真理の客観性を損なう危険性を含むと指摘された[1][3]。パース自身は後に自説を「プラグマティシズム」と改称し、ジェームズ流の解釈との距離を明確にした[1]。
ジェームズの真理理論は「真理の道具説(instrumentalism)」として特徴付けられる。彼は『プラグマティズム』で「真理は発生する(happens to anidea)」と述べ、信念の真理性をその実践的有用性と将来的な検証可能性に結び付けた[2]。この立場では、真理は静的対応関係ではなく、動的な経験の流れの中で機能する信念の性質として理解される。
ジェームズの真理概念は多元主義的側面を有し、科学的真理と宗教的真理が異なる文脈で有効性を持つ可能性を認める[2]。例えば「神の仮説」は、それが人間の生活的経験に有意義な影響を与える限りにおいて真理と見なされる[2]。この柔軟性はパースの客観主義的立場との根本的な相違点であり、プラグマティズム内部の思想的緊張を生み出した[1][3]。
パースの形而上学は、科学的探求の対象としての「現実(reality)」概念を中核に据える。彼は現実を「探求の最終的に決定されるもの」と定義し、人間の認識から独立した客観的秩序の存在を仮定した[1][3]。この立場は、彼の記号論(semiotics)と結びつき、現実を記号解釈プロセスの産物として動的に捉える視点を含む。
パースの現実概念は、伝統的経験論の受動的認識モデルを超克する。彼は「アブダクション(仮説形成)」のプロセスを重視し、科学的発見の論理学を構築しようとした[1]。この過程で、現実は単なる感覚所与ではなく、探求共同体の解釈的実践を通じて構成される動的概念として再定義された[1][3]。
ジェームズの形而上学は「純粋経験の形而上学」として知られる。『徹底的経験論』(1912)で展開されたこの立場では、心と物質を「純粋経験」の異なる編成様式として再解釈する[2]。ジェームズは現実を固定的実体ではなく、経験の連続的流動として捉え、プラグマティズムを「未完成の現実」を認めるプロセス哲学として位置付けた[2]。
この経験論的立場は、ジェームズの真理理論と密接に連関する。彼は「現実は作り続けられている(still in the making)」と述べ、人間の目的的活動が現実構成に参与することを強調した[2]。この観点から、パースの科学的現実主義は「完成された現実」を前提とする合理主義的立場として批判された[2]。
パースのプラグマティズムは本質的に科学的方法の哲学的分析として発展した。彼の「アブダクション-演繹-帰納」の三段階論は、仮説形成の論理学を体系化しようとする試みである[1][3]。科学的真理の基準としての共同体合意の重視は、個人の主観性を超えた客観性保証のメカニズムとして機能する。
宗教的信念に対するパースの姿勢は懐疑的であり、科学的探求の方法論と整合しない教義を批判した[1]。ただし彼は後年、「宗教的関心」を科学的探求の動機付けとして位置付ける独自の「宗教的実感論」を展開した[1][3]。
ジェームズは『宗教的経験の諸相』(1902)で、プラグマティズムを宗教的信念の検証に適用した。彼は「神の仮説」の真理性を、それが個人の生活にもたらす実践的効果に基づいて判断する立場を採用した[2]。このアプローチは、超越的神観念を批判しつつ、宗教的経験の心理学的現実性を認める点に特徴がある。
科学的探求に対するジェームズの姿勢は、パースの厳密性よりも人間的価値の統合を重視する。彼は科学と宗教を対立軸ではなく、異なる人間的欲求に応える補完的システムとして位置付けた[2]。この立場は、パースの科学主義的傾向との明確な対照点となる[1][3]。
パースとジェームズのプラグマティズムは、共通の方法論的出発点を持ちながら、その哲学的展開において決定的な分岐を示す。パースが科学的探求の論理的基盤と客観的真理概念を堅持したのに対し、ジェームズは人間的経験の多様性と真理の道具的性質を強調した。この相違は、真理理論・現実認識・宗教的信念への適用方法に体系的な差異をもたらした。
現代哲学におけるプラグマティズムの復興は、この思想的多元性を再評価する動向を示している。パースの科学的厳密性とジェームズの人間中心的柔軟性は、現代の認識論・形而上学・価値論の課題に対し、補完的洞察を提供し得る。今後の研究課題として、両者の思想を統合する新たなプラグマティズムの可能性、および非西洋哲学伝統との対話を通じた発展が考えられる。
Citations:
[1]https://plato.stanford.edu/entries/pragmatism/
[2]https://plato.stanford.edu/entries/james/
[3]https://plato.stanford.edu/archIves/sum2010/entries/pragmatism/