
はてなキーワード:江戸幕府とは
部落差別問題が一時期ネットで話題になってて気になっていたのだが、自分の中で消化しきれてなかったので完全に乗り遅れた。思ったことを忘れないために書き起こした。
いわく、関西以外の地域では部落問題を軽く扱いすぎているのでは、という話だ。
元のポストでは、言語差別・地域差別・職業差別が混在していたので議論がかみ合ってなかったように思う。
私はどちらかというと、うちの地域に部落差別なんてありません!と無邪気に投げつける数々のリプライにかなりギョッとさせられた。
そして体感8割くらいのリプが「部落」という単語に差別的な意識はありませんが?という的外れな内容ばかりでさらに愕然とした。
いやそうじゃねえだろ、と。
元々差別的な意味合いのない単語が差別的に使われる例なんていくらでもある。身体的特徴(つんぼ、かたわ)、地域名・国名(福島、朝鮮)、など言い始めれば枚挙にいとまがない。
構造でとらえるならば、部落差別のことの起こりは、職業で人を差別し、隔離することだ。
そうするとモヤモヤの正体が見えてきたような気がした。
歴史的経緯の話。
「穢多・非人」と呼ばれた人々は関西だけに存在したわけではなく、日本全国に見られた。江戸幕府の作り上げた身分制度から外れ差別された人々である。
関西の問題として認識されることが多いのは、その規模の問題である。近世以前、江戸より先に栄えていた関西地域は人口も多く、また文化の中心地であった。
自然と集落規模が大きくなったことで、明治以降の解放運動の中心地となっていく。
他地域においては規模が小さいゆえに「なかったこと」になった問題が、関西ではそうではなかった、というのが正しいだろう。
うちの地域にはありません、という人間は、はっきりいって不勉強もいいところである。
今回調べて初めて知ったが、特に一部地域においては、差別をなかったことにして解消しようとする動きがあるというのは90年代には指摘があるようだ。
「関西人は差別をする蛮族、自分の地域にはそんな差別ない」という趣旨の、自分で言ってておかしいと思わないのか?と思うようなリプが多く見受けられた。
どうにも関西人は殴ってもいいサンドバッグのように思っているらしい人間が少なからずいるっぽい。地域によって人をラベリングして貶めようとするのは差別以外の何物でもない。
現代の日本、とくに都心部においても、職業差別が無いなんてのも嘘だ。東京に居ればしばしば見かける、「勉強しないとあんな仕事しかできなくなるよ」と子供に声をかける母親、なんていうのはもはや典型的差別主義者だ。
私も作業服で公共の電車に乗ったとき、周りのサラリーマンたちが私を避けるように分散したのがとても印象的だった。綺麗にクリーニングされ、他の作業者に申し訳ないくらい綺麗で、そして良い匂いになってた作業でもこれだ。
普段よれよれの汗臭いスーツで電車に乗ってもこうはならない。大なり小なり他人を見下して生きているのだろう。
いけしゃあしゃあと差別なんてありませんなどよく言えたものだと思うが
かくいう私も恐らく危険を避けるという名目のもとで誰かを見た目で判断して意図的に避けたりしているのだから同じ穴の狢である。
他地域の人間が関西に行った時に、部落という言葉を使うことの是非というのも話題に出てきたが、答えとしては、気にしろという他ないだろう。
気に食わないという人は、アトランタに来てニガー!と叫んでみればいい。その代わり生きて帰れると思わないことだ。
言葉というのは生き物であり、本来の意味がどうであれ、現在の用法やその集団における意味に注意して使わなければ大きな誤解を招く。
日本はともすれば単一民族・単一言語の国家と思われがちだが、少数民族も多く、方言というにはあまりにも異なる複数の言葉が混在する、非常に複雑な社会だ。
共通語での意味がどうであれ、その地域における文脈で異なる意味を持ち、誤解を招く表現であればそれは避けるのが理性的だろう。決して、自分の所属集団では問題ないから!などと押し通すものではない。
間違えてはいけないのは、方言を禁止しようという話ではなく、自分の話す言葉の暴力性を指摘されたら次から気を付けようね、という程度の話なのだと思う。決して難しいことではない。
自分は我慢して標準語を話しているのに、あいつら関西人は自由に方言を話していて気に食わないと主張している人間もいて、さすがにもはや元ポスト関係ねえけどこれも何かの本質だろうと思った。
5匹の猿の実験でググって欲しい。いまだに方言札を首から下げて、意味も分からず方言を叩くルールに従っている人間もいるのだろう。
どれだけ書いても文章の読めない人間はいるが念のために書いておくと、関西が先進的とかいう話をしているのではない。日本全国どこでも発生している問題の一部を取り上げて、いち地域の差別性をことさらに取り上げるのは間違ってるのではないかと言いたい。
そもそも恐らく人間は本質的に差別的な生き物なのだから、そこを否定しても仕方ないと私は思っている。
私は東京周辺の関東地域にしか住んだことがないので関東の人間には申し訳ないがやり玉に挙げさせていただく。又聞きではその他地域においてもいろんな例を聞いている。これは自分自身に対する戒めでもある。
「部落差別は関西特有の問題」というのではなく、人間社会全体に根を下ろす差別意識の一形態にすぎないのだと思う。
身近な例を出すと、派遣社員を区別して休憩室を使わせないようにする正社員、というのも、差別のスタート地点だろう。
自身の差別性と嗜虐性に少し自覚的になり向き合うことで、昨日よりはマシな人間性を得られるのではないかと私は期待している。
愉快な作業ではないが、差別意識をなかったことにして綺麗に見せかける人生よりはよほど有益だろう。
歳を取るにつれ日々考えるのが億劫になる一方なのだが、隣同士ちょっと気を遣う丁寧な生き方を心掛けたいと思ってここに記す。
・・・もしかするとこれもXで見かけたポストの投稿者を見下し言葉で責めその愚かさを指摘してあざ笑いたいというサディズムの発露なのかもしれないが。
今日と言う日にこの投稿をした意図ですが、自分の周りでも靖国神社が何かを全く知らない人、大東亜戦争と言う呼称を知らない人、日本が戦争に突入するに至った経緯の知らない人が余りにも多く、少しでも日本の戦争史について興味を持ってくれる人がいたらいいなという思いのためです。
ゲーマの間でも戦犯と言ったワードが広く使われてしまい、本来的な意味を失ってしまいました。
戦犯と言うワードは日本の歴史において、極東国際軍事裁判によって裁かれたA、B、C級の戦争犯罪人と言う意味があります。一方で極東国際軍事裁判はもろもろの手続きが正当に行われておらず、戦勝国であるアメリカに対して優位な形で行われたとされています。
また、極東国際軍事裁判で戦争犯罪とされた「平和に対する罪」、「人道に対する罪」ですが、戦勝国側で作成された事後法です。事後法を用いて裁くことは国際法違反となりますので、極東国際軍事裁判は無効判決と言われることもあります。
そしてこの戦争犯罪人ですが、靖国神社とも大きくかかわりがあります。
靖国神社はその始まりを明治維新にまでさかのぼり、明治天皇の思し召しによって、江戸幕府の討幕運動をはじめ明治維新によって失われた英雄たちを祭る神社として、建てられた招魂社です。
そこには日本のために亡くなられた方々が祭られているため、もちろん日本が終戦するまでに戦争のために亡くなった方々(軍務工場、空襲、本土決戦など)も同様に祭られています。
これが、安倍晋三元内閣総理大臣の靖国参拝が注目を集めた理由です。
戦没者を追悼することの意味については、様々な立場や考え方があります。それぞれの立場から議論があることは理解できますが、この問題の複雑さを十分に伝えきれていない報道も多いように感じます。
そして、ここまで書いた内容すべてが、戦犯と言う言葉には込められているのです。
これまでゲームや仕事でやらかした人に対し戦犯だと言ってしまったことのある人は、その言葉の重みを受け止め、省みていただきたい。
日本側が使用した呼称は大東亜戦争であるし、太平洋戦争だと日本が何のために戦争にまで及んだのか、その意図が消し去られてしまう。
そもそも日本が戦争に及んだ話をしだすと、ペリー来航まで話が戻る。
ペリーによって江戸幕府が不平等条約を結ばされ、その後日本が開国し、詔勅もなしに条約を結んだ江戸幕府に対して倒幕運動が始まり大政奉還に至った。
その後は列強諸国に野蛮な国家だと思われ侵略の恐れがあるため、日本の近代化が一気に進んだ(憲法の制定とか)。
最終的に日本が米英と戦争するに至ったのは、世界恐慌があったことも大きい。
世界恐慌の結果日本経済は悪化したけれど、列強諸国は自国の植民地との間で取引を活発化させるブロック経済によって立て直したけれど、日本はそうはいかなかった。
アジアは隷属として列強諸国に扱われ、日本は世界恐慌で経済が悪化。その結果至ったのが、日本の満州国進出。
日本も列強諸国と同じように植民地を持つことで自国の経済を強化しようとしたが、これに米英が猛反発をした。
満州国は日本が中華民国に建国した傀儡国家。中華民国の利権が絡むことで米英に反発をされ、日本は国際連盟から脱退するにまで至った。
米英の反発、国際連盟からの脱退後も日本は満州国の領土を広げるための戦争を行っていたが、最終的に不平等条約の終了を契機に、アメリカが日本への石油の輸出を止めてしまった。
その後、日本は米との和平交渉を行ったが、米の要求が、「満州国からの即時撤退」であり、日本が飲める要求ではなかった。
そして起こったのが、1941年12月8日の真珠湾攻撃。ぎりぎりまで和平交渉を行ったが叶わず、米英との開戦。
アジアの開放および日本がアジアの盟主として機能する大東亜共栄圏を設立を目的とした大東亜戦争。
厳密に言うと大東亜戦争は日本が掲げたアジア解放を目的とした戦争すべてをさす用語で合って、日本の戦争の正当化と合わせて使われる。
一方で第二次世界大戦と太平洋戦争はニュアンスが違って、第二次世界大戦はヨーロッパの各国とアメリカ、日本、アジアすべてを合わせた戦争をさして、太平洋戦争はアメリカが使用したPacificWarが起源になる。
大東亜共栄圏は一時うまく機能していたが、徐々に米英に侵略され領土がなくなり、絶対国防圏の陥落によって本土空襲が可能になり、日本は終戦へと向かう。
1945年4月7日の鈴木貫太郎内閣発足時点で、日本は終戦へ向かうことが確定していた。
日本の終戦までは、一撃講和論が主流で、米英に一矢報いて和平交渉を有利に進めようという考えがあった。これには国体の護持、天皇制の存続など日本側の要件があったわけだが。
1945年8月ごろになると、米英中三国によってポツダム宣言が作成され、日本に対して宣言文がラジオ放送され、降伏のビラが撒かれた(ソ連は8月8に参加したので、共同宣言の受諾は四国に対してとなる)。
これには日本の国体護持や日本"軍"の無条件降伏などが書かれており、日本としてはポツダム宣言受諾して降伏することを考えていた。
一方で一部青年将校らはビラに書かれたSubject toの解釈を隷属であるとし、クーデターにまで発展している。
さらにアメリカは日本に降伏の意志があったにも関わらず、広島・長崎で原爆を投下した。
広島・長崎の大都市が一瞬で壊滅したことで、日本の降伏も早まり、8月14日時点で連合国に降伏を伝え、8月15日の正午、玉音放送をもって終戦した。
さらに話を続けるのなら、日本の政治的な話になるが、なぜ昭和天皇に戦争責任がないのか、極東国際軍事裁判(東京裁判)とは何だったのか、なぜ靖国参拝は批判されるのか...について書きたいが、日記にしては長すぎる。
ここ数回の『ブラタモリ』は江戸時代に盛んだった“大山参り”の道のりをたどるという企画で、都内から大山街道を巡り、昨日はいよいよ最終目的地、大山阿夫利神社を目指すという回だった。
江戸時代の浮世絵もみながら、いかに“大山参り”が盛り上がっていたか、なんて話もしながら、大山ケーブルに乗車。
途中、日本のケーブルカーでは唯一という“離合ポイント”(ケーブルの両端で繋がってる2台の車両が丁度すれ違うところ)に駅があるという“大山寺駅”で一旦降車。
車両のすれ違う様子をみたり、急斜面にある駅のベンチにすわってみたりして、そのまますぐまたケーブルカーで移動して、大山阿夫利神社の下社に参拝。
さらに登った山頂にある本社にはさすがにタモリを歩かせるわけにもいかず、スタッフと中継でつないでいた。
さて、なにがスルーされたのか。
タモリ一行が神社に参拝するシーンで、唐突に隅の方にテロップがでた。
日本の歴史ある寺社の多くがそうなのだが、大山というのも江戸時代までは神仏習合の山岳信仰の対象で、大山参りというのも、今でいう“神社にお参りする”という感覚とは少し違った。
現在、大山阿夫利神社の下社がある位置には、「石尊大権現・大山寺」があり、不動明王も祀られていたのである。
大山参りとは、仏教とも結びついた“権現さまとお不動さまへのお参り”だったのである。
だが、そんなことは全く触れないので、なんだか今も昔も神社へのお参りをしてたような印象になっていた。
明治の廃仏毀釈で、大山阿夫利神社と大山寺は完全に分離された。
“幕末の大火と廃仏毀釈により廃寺の危機に陥ります。神道による祭政一致の王政復古を目指す明治新政府にとっては、江戸幕府が保護した仏教寺院は旧体制の象徴にほかなりません”
”廃仏毀釈により数多くの寺宝が失われ、堂塔が破壊される中、ご本尊の鐵不動明王だけは地元住民の篤い信仰に守られ、山外退去を免れて現在地に本堂が再建の後、遷座しました”
と記されている。
タモリが途中下車した“大山寺駅”は、この寺の最寄り駅だったのだが、寺には寄らず。
江戸時代に賑わった大山も、神道を中心にした“祭政一致”を目指した明治政府のせいで、なかなかに激動の一時期があったはずなのだが、そのことはテロップ一行でスルーされたのである。
断片的な記憶だが、以前、高尾山にいったときには、神仏習合の名残が色濃く残る様子をみながら、“ここは廃仏毀釈を免れたんだねえ”なんて話をしてたように思う。
だからタモリも廃仏毀釈とか、そのへんの知識がないわけ無いし、番組としてそのへんの話を絶対にさけるとかいうことではないのだと思うが、ま、今回は案内役が大山阿夫利神社の権禰宜の方だったので、“実は、昔はここは神道の神社じゃなくて不動明王さまが祀ってあったんですよ”なんて話はするわけないか。
明治維新は、日本の伝統をいろいろ破壊したけっこう過激な運動だったはずなのだが、どうもそのへんはあんまり知られてないように思う。
せっかく大山いったんなら、そのへんももう少し突っ込んだ番組にしてほしかったけど、ま、紀行バラエティにそこまで求めるのは無理か。
やはり阿夫利神社の権禰宜の方に出ていただく手前、大山寺の不動明王と、阿夫利神社と、両方お参りするとかは無理?
ところで、さっきwikipediaを見たら、大山阿夫利神社、戦後、神社本庁の傘下(宗教法人法でいうところの被包括宗教団体)にはならず、単立でやってきたのが、今は神社本庁の下にあるという記述があった。
どういう経緯があったのだろう?
そこそこ参拝客いそうだし、単立でもやっていけそうだけど。
Permalink |記事への反応(19) | 15:33
彼らは不老不死を得た代わりに、永遠の孤独と時代を超えた争いに巻き込まれる運命を背負いました。
念力、身体強化、予知、タイムトラベルといった力が、祝福ではなく呪いとなる場面も多く描かれます。
その中心に立つのは、部族の中でも突出した力を持つカナコとヴァルキュリアの二人。
カナコは部族の予知能力者として未来の災厄を予言し、部族を守ります。
しかし、死なない身体と超常の力を持つ彼女は「呪われた存在」と恐れられ、最終的に追放されます。
一方、同じ実を食べたヴァルキュリアは、身体強化と念力を手に入れ、他の部族との争いでその力を発揮。
戦闘のたびに仲間を救いますが、無双する彼女への恐怖が孤独を生みます。
カナコが未来の隕石落下を予知し、村を救うが、自身の力が「死をもたらす」と誤解され孤立。
ヴァルキュリアが部族間の戦争に介入し、念力で敵軍を壊滅させるも、「怪物」として仲間に恐れられる。
エジプトでは、カナコは神官としてファラオに仕えますが、不老不死の秘密が露見し、「神の怒り」を受けたとして生贄にされそうになります。
メソポタミアでは、ヴァルキュリアが伝説的な女戦士として君臨します。
しかし、不老不死ゆえに仲間がすべて死んでいく姿を見届け続ける苦しみを味わいます。
カナコがナイル川の氾濫を予言するが、それを「災厄を呼ぶ者」と解釈したファラオに追われる。
ヴァルキュリアがウルクの都市で「神の化身」として崇められるが、最終的に人々が彼女を捕縛しようとする。
中世ヨーロッパでは、弱者男性族の能力が「悪魔の力」とされ、多くの者が迫害を受けます。
カナコは魔女狩りの犠牲になりかけますが、予知能力で逃げ延びます。
一方、ヴァルキュリアは十字軍の戦士として活躍しますが、十字軍の敗北により「神を冒涜した不死者」とされ追放されます。
魔女裁判で捕らえられたカナコが、自分を告発した村人たちを救うため自ら犠牲を申し出るが、村は疑念に飲まれ破滅する。
ヴァルキュリアがヨーロッパ各地で孤立し、ある修道院で力を封じる儀式を受けるも失敗。
カナコは織田信長に協力を求められるも、戦の非情さに嫌気が差し山中に隠れます。
ヴァルキュリアは戦国武将の補佐役となりますが、彼女の不死を知った者たちから暗殺未遂を受けます。
信長がカナコを「鬼の力」として利用しようとするが、彼女は拒否し城を去る。
平和な時代になり、弱者男性族は隠れ里で静かに暮らすことを選びます。
しかし、江戸幕府の探索により里の存在が明らかになり、隠れ里は壊滅状態となります。
カナコは仲間を守るため最後の力を使い、幕府の追手を阻みますが、自身は深い眠りにつくことを選びます。
ヴァルキュリアは江戸時代の科学者たちに捕らえられ、不死の研究対象として生体実験を受ける日々を送ります。
産業革命期、弱者男性族の力が「科学の発展の鍵」として狙われます。
カナコは目覚め、人間の欲望と再び向き合うことになりますが、彼女の不老不死は新たな兵器として利用されようとします。
ヴァルキュリアは産業革命の中で一度復活しますが、科学者に追い詰められ、念力で施設を破壊するも、その場で消滅します。
産業革命期、カナコは人類の未来を守るため、自らの力を封じるために宇宙へ飛び立つ装置を動かします。
そのまま地球を離れ、冷たい星の中で孤独に凍結状態となります。
ヴァルキュリアは力を使いすぎた反動で、存在そのものが歴史から消え去ります。
古代中国の書物である『易経』に「観国之光,利用賓于王(国の光を観る、用て王に賓たるに利し)[注釈 5]」との一節があり、「観光」はこれを略した成句であるというのが定説である[1][5][8][13][34][35]。したがって、明治期に西洋から輸入された多くの概念が和製漢語に当てはめられ理解されていったのに対し、観光という言葉そのものの起源は東洋にあるということになる。
「観光」という用語の使用が確認できる最も古いものは、1855年にオランダから江戸幕府に献上された洋式軍艦「観光丸」である。誰がどのようにしてこの艦名をつけたのか明らかになっていないが、珍しさや誇らしさを表したり「国の威光を海外に示す」という意味が込められていたと考えられる[1][34]。また、明治時代初めの米欧使節団を率いた岩倉具視は、報告書である『米欧回覧実記』冒頭に「観」「光」と揮毫している[注釈 6][37]。岩倉は後に、東京奠都により衰退した京都の経済再生の一環として、洋風迎賓館を建てて外国の賓客をもてなすことを政府に献策している[36][38]。なお、「観」という漢字には「示す」という意味もあり、「外国の要人に対して国の光を誇らかに示す」という意味も込められているとする説もある[1]。
このほかに佐野藩の藩校「観光館」や国産品奨励を目的として設立された「観光社」など固有名詞の中での使用例があるが、用語として広く普及したとは言い難い[注釈 7][34]。
1872年の日本の鉄道開業以降、各地で鉄道のネットワークが広がってゆき、これにより国内旅行が盛んになるが[33][39]、このころは「遊覧」や「漫遊」の語が使われるのが一般的であった[注釈 8][5][34][40]。1886年に東京府師範学校が「長途遠足」を開始し、内国勧業博覧会の開催などとも合わせて修学旅行が促進された[39]。1905年には鉄道を利用して高野山と伊勢へ参詣するパッケージツアーが南新助(日本旅行の創業者)によって始められている[39]。
1893年、渋沢栄一と益田孝の旗振りにより、日本で始めて外客誘致に取り組んだ民間団体である喜賓会(英: WelcomeSociety)が設立され、設立目的に「旅行の快楽、観光の便利に」が掲げられた[34][40]。喜賓会は1912年にジャパン・ツーリスト・ビューローとなり、日本交通公社の前身となっている[5][40]。
1923年・1924年ごろにはアメリカ移住団の祖国訪問について「母国観光団」と大々的に新聞報道されており、観光の語が現代的な意味として一般に認知されるようになったのはこの頃からともいわれる[1]。
濱口内閣は、元帝国ホテル副支配人で熱海ホテル経営者の岸衛[注釈 9]の働きかけを受け、外貨獲得のための外客誘致事業を目的とした機関の設置を決定した。これが1930年4月24日付け勅令83号によって創設された鉄道省の外局「国際観光局」である[5][1][35][40][41]。名称の候補には「観光局」「国際局」「外客誘致局」などがあったが、当時の鉄道大臣江木翼により決定された[40][42]。なお、英文名はBoard of Tourist Industryとなっており、ツーリズムの語を用いず、国際にあたる表示もなされていない[注釈10][34]。
「観光」の語は原典を紐解くとアウトバウンドを指すものとも解釈できるが[35]、このように戦前の「観光」を冠する事業はインバウンドを中心としたものであった[注釈11][5][40]。
国内旅行も包含した今日の意味合いでの「観光」が定着したのは、マスツーリズムが到来した1960年代以降であるとする指摘もある[34]。宮崎バス(現・宮崎交通)が、「名勝」「遊覧」といった表現が享楽性を連想させるとして、戦中戦後に「参宮」「観光」へ名称変更した事例が報告されている[5]。
庶民に普及した当初は観光に行くことそれ自体が贅沢でありステータスであったが、観光が身近な存在になるに連れて「どこに行くのか」「何をするのか」が次第に重視されるようになっていく[23]。
時は令和、空前の猫ブームも落ち着き、そろそろ新しい癒しが欲しいってみんながSNSで呟いてた20XX年。そんな中、渋谷のセンター街に、マジで場違いな雰囲気のイケオジが現れたんだって!なんかこう、時代劇に出てきそうな、ちょっと古風な着物っぽい羽織着てて、周りのパリピたちとは完全に浮いてる感じ。「一体、何キャラ?」ってみんなが遠巻きにしてたらしい。
え?マジで?あの犬公方様!?って歴史好きのギャルたちがざわつき始めた瞬間、そのイケオジ、もとい綱吉様は、あたりをキョロキョロ。「ここは…江戸ではないのか?」って、マジで混乱してる様子。時代劇の撮影かと思ったよね、フツーに。
そんな綱吉様に、恐る恐る話しかけたのは、超絶犬好きのギャル、あみちゃん。「あの…大丈夫ですか?何かお困りですか?」あみちゃんのクリクリお目目に、綱吉様もちょっと安心したのか、「…ここは、犬はたくさんおるか?」って、マジで犬のことしか頭にない感じ。あみちゃん、「え?犬なら、近くに犬カフェありますよ!」って教えてあげたんだって。
次の瞬間、綱吉様の目がマジでキラキラ輝き出したらしい。「犬カフェとな!?それは一体…犬と戯れることができる場所なのか!?」って、食いつき方がハンパない!あみちゃん、ちょっと引きつつも、「まあ、そんな感じですけど…行ってみます?」って誘ってみたんだって。
で、綱吉様、生まれて初めての犬カフェ体験!扉を開けた瞬間、たくさんの可愛いワンコたちがワラワラ寄ってきて、綱吉様、マジで大興奮!「おお!可愛いのう!よしよし!」って、犬たちを撫でまくり!チワワ抱っこしたり、柴犬のモフモフに顔埋めたり、もう完全にデレデレ状態!周りのギャルたちも、「え、あのイケオジ、犬好きすぎ!ギャップ萌え~!」って、ザワザワしてたらしい。
それからというもの、綱吉様は毎日犬カフェに通い詰めるようになったんだって。色んな種類のワンコと触れ合って、マジで癒されてたみたい。「犬は…なんと素晴らしい生き物なのだ!」って、毎日感動してたらしいよ。
でね、ある日、綱吉様、マジで突拍子もないことを言い出したの。「余は、この犬カフェをもって、再び天下を取らん!」って!
え?犬カフェで天下統一?マジで意味不明なんですけど!ってあみちゃんも思ったらしいんだけど、綱吉様の目はマジだったんだって。江戸時代に「生類憐みの令」を出したほどの犬好きの魂が、令和の犬カフェでメラメラ燃え上がったのかもね!
そっから、綱吉様の犬カフェ天下取り計画がスタート!まずは、通ってる犬カフェのSNSアカウントを乗っ取り(!?)、毎日可愛いワンコの動画や画像をアップし始めたんだって。綱吉様の独特な犬への愛情コメントが、マジで面白いってバズりまくり!
SNSは綱吉様のワンコ愛で溢れかえり!「あの犬カフェの店員さん(実際はお客さん)、マジで犬のこと好きすぎ!」「綱吉様、今日も推しワンコに貢いでる~!」って、フォロワーが爆増!
で、ついに!綱吉様は、自分の理想の犬カフェ「綱吉のわんわんパラダイス」をオープンさせちゃったの!お店の内装は、ワンコが走り回れる広いスペースがあって、人間もリラックスできる畳のスペースとかもある、マジで犬と人に優しい空間!店員さんも、犬の耳カチューシャとか付けてて、マジ可愛い!
オープン初日から、犬好きのパリピたちが大集合!可愛いワンコたちと触れ合って、みんな笑顔が止まらない!綱吉様も、お客さん一人ひとりに「ようこそ、わんわんパラダイスへ!」って、優しい笑顔で声かけてて、マジでカリスマ性ハンパない!
しかもね、綱吉様、ただの犬好きおじさんじゃないんだよ!犬の健康管理とか、しつけとか、マジで詳しい!お客さんの愛犬の相談に乗ったり、犬に関するイベント企画したり、マジで犬界のカリスマになりつつあるんだって!
テレビや雑誌の取材も殺到!「令和の犬公方」「ワンコ界の救世主」とか呼ばれて、マジで時の人!綱吉様のワンコ愛と、犬カフェの癒し効果が、見事にマッチしたんだね!
でさ、最終的にどうなったかって?もちろん!綱吉様の「綱吉のわんわんパラダイス」は、日本全国にチェーン展開!どの店舗も、可愛いワンコと癒しを求める人々で大賑わい!犬カフェは、猫カフェに並ぶほどの人気スポットになって、日本中の人々がワンコに癒される平和な世の中が実現したんだって!まさに、犬の力で天下泰平!マジですごすぎ!
あの時、センター街で迷ってた江戸幕府の将軍様が、令和の時代に犬カフェで天下を取るなんて、マジで誰も想像してなかったよね!まさに、歴史が犬によって塗り替えられた瞬間!
あみちゃんも、「まさか綱吉様が本当に犬カフェで天下取っちゃうなんて!アタシの推しワンコも、なんだか誇らしげに見える!」って、感動してたらしいよ。
綱吉様は今も、新しい犬との触れ合い方を研究したり、保護犬の支援活動したり、マジでワンコ愛に溢れた日々を送ってるらしい。「わが犬道に、終わりはない!」って、マジかっこいい!
こうして、徳川綱吉は、令和の日本で、愛する犬たちと共に、人々の心を癒し、見事、犬カフェ業界の天下をグラッチェグラッチェ!めでたしめでたし…ってことで、マジで感動的な物語、完全燃焼したわ!ワンコ最高!
日本人の月見という習慣はそういう美意識がどっかで湧いたってわけじゃなくて「典故」と「信仰」の二つのルートがあるのですのだ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2531074
典故ってのは何かにつけて漢籍(漢文の本)を引用したりなぞらえること。特に風物表現で多いのが漢詩。
例えば「四季」ってのは漢詩で季節を表現するのに擬えて和歌を詠んで散文にも応用されて行ったもんだし、日本文化独自性が高い俳句でも多い。
また例えば芭蕉は「象潟や雨に西施がねぶの花」って俳句を詠んでるけど、西施ってのは中国四大美女の一人で、悲劇の死を遂げた女性。んでさ、この人が溺死させられたって伝説があるので西湖と名付けられた湖があるんだけど、ここって今は内陸の湖なんだが昔は潟湖(ラグーン)だったのよ。で、芭蕉が訪れた時代の象潟もラグーンで、松島のような多島海でとても美しかった。でもそこで「きれい」って言っちゃうとあたまのわるいひとイラストみたいになっちゃうってんで、悲劇の美女西施→潟湖の西湖の風景という諧謔というか教養連想ゲームをやってるわけです。
やべぇ例示だけなのに長くなってしまったな。因みにこの象潟は芭蕉の後に地震があって、輪島の海岸みたいに隆起して芭蕉が感嘆した景色は無くなってしまった。今は田んぼの中に丘が点在する風景になってる。
こんな風に昔の日本は漢籍を引用するのが教養だったんで、そういう知識は最早常識だったんやな。
んで、月見の方も平安時代に貴族がやり始めたんだけど、やっぱり漢籍の記述で中国で古代からやってるという中秋節を真似たんや。旧暦8/15(太陽暦では9or10月)に月餅やら何やらを並べて宴をする。貴族の間でもっと多かったのが船を出して、水面にゆらゆらと写る月を眺めて宴をしてうたを詠んだりしてた。こういうのを観月という。
んで、これが段々と庶民にも伝播して行ったらしいんだけど、正直江戸時代までの間の庶民の動向って言うのはよー判らんのや。何故なら庶民文化が栄えたのって江戸時代で、それまでは庶民間の事柄を紙に記すって事が殆どなかったから。
で、もう一つのルートが月待講ってやつ。江戸時代には庶民が比較的裕福というか生活に余裕ができ、色んな民間信仰が現れた。そしてそれらが紙に残った。
例えば山講。山ってのは霊的なもので、それに登るって事が霊的体験とされていた。山は女人禁制で「○○山講」という幟をもって山伏みたいな格好で延々と歩いて行って登山を敢行する。信仰の場だったのだな。
富士山が世界遺産に登録されたのは、別に日本人に愛されてるからとかじゃなくて、こういう信仰があって今の登山がそれと連続的って事ですのよ。
例えば庚申講。道教とか神道、民間医療なんかがごちゃ混ぜになった信仰で人間の体には三尸(さんし)の虫っていうのが住んでて60日ごとの庚申の日に寝てる間に閻魔大王に悪事をチクるから徹夜で宴会してチクるのを止めさせようぜという、今となってはなんだそれな信仰だ。
都電に「新庚申塚」って電停がある様に、日本中あちこちに庚申塔が建てられてその近くの家で飲み食いされていた。今はこんな風に放置されてる。
https://maps.app.goo.gl/FM8d8fD19SAK3Ubc7
こういう「講」(信仰の寄合)の一つに月待講というのがあった。お月様信仰やな。
月には月齢があって、新月、三日月、満月、半月と形が代わるけど、その各々に別個の信仰があった。んで、この信仰は別にお月様だけに影響を受けてるんじゃなくて、土着の信仰が仏教と結びついていた。
仏教では色んな観音様や菩薩が居るけど、月齢ごとに別の本尊を崇めていた。この辺はカトリックの職業別聖人信仰に似ているね。
月齢ごとに信仰があると言っても、今みたいに電車と車で好きな場所に行ける訳じゃないから、この村は○○夜、あの街は○○夜と分かれていた。
で、その中で非常に多かったのが二十三夜、十九夜、十五夜だったってワケよ。
二十三夜は特に多くて、日本中に地名として残ってる。こんな風に
https://maps.app.goo.gl/KDXw6ZBhwiyA4bYZ7
また、「三夜」と省略されて地名になっている所も多い、三夜様とかね。
もう一つ特別なのが十九夜で、これは如意輪観音が本尊。右膝立てて右ひじ突いてる観音様だ。
これは「安産講」として特別で、女の人以外は参加禁止の集まりだった。
これも十九塔があちこちに残っているが、地名としては「子安」というのが残ってる場合が多い。
「子安寺」が子安の由来の場合も多いが、そもそも昔の寺には色んな神様も祀られていた神仏習合だったんで、当然十九夜待が行われて居た寺もあって、それで子安寺になったケースもあるのだな。
十五夜はいうまでもなく満月待やね。本尊は大日如来、阿弥陀、薬師、観音様、地蔵、虚空蔵と、オールキャストだ。
で、庚申講もそうなんだが、段々信仰がどうこうっていうのはいい加減になって行って、単なる寄り合い、宴会、食事会の言い訳になって行っちゃうわけよ。十九夜とかも「観音様、どうか子宝と安産を」と願うっていうよりただの女子会になってまう。「観音様が持ってる宝珠ってチンタマーニって言うんだって」「うちの亭主も二つ持ってるワイよギャハハ」とかなっちゃうってワケ。
それで段々都市化が進むと寄合なんてジジババくせえとか軽視されて廃れて行っちゃった。でも場所によっては昭和40年代まではやってたらしい。
月見でお団子お供えして食べるっていうのは完全にこっちの月待講が由来なんね。
一方、ススキ飾るのは、旧暦8/15(太陽暦9or10月)の中秋節由来やね。
だから二つがごっちゃに混ざってるってこと。
新月の次の日:既朔
十四夜:小望月、待宵
十六夜:既望
十七夜:立待
十八夜:居待
十九夜:寝待
廿夜:更待
これも漢籍典故による特別視から月待などの各月齢ごとの神聖視へと変化していくにあたって生まれた表現と考えられるのだ。
日本産ゲームのリプレイ動画とか見てると、このへんのことが海外では認識されていないので「これってなに?」みたいな英語コメントが付いているのを目にするのだ。まぁそれは当たり前だ。
大抵、西洋のルナティック=満月が人を狂わす、と日本の月を愛でる習慣、月のうさぎが合わさっているので割とハイコンテクスト。
でもそれに日本語で答えているコメントが月を愛でる習慣が信仰から来ているってことが判ってないので説明できていないっていうのを目にする。
近所の今まで気が付かなかった「○○夜」「子安」の地名を発見して訪れてみるっていうのも自文化の勉強なんですよ、草むらの中に○○夜塔が残っているのを発見するって事もあるんですのよ。
ついでに花見なんだが、これも昔からある風習だったけど、江戸幕府が奨励して盛んになったんすよ。
江戸幕府は水防工事を沢山やったんだけど、堤防って突き固めが緩いと崩れてきてしまう。でも昔は機械が無い。
そこで堤防に桜を植えて「花見やれ」と奨励したのだ。すると毎年人がどやどややってきて歩くから土が締まるって寸法だ。だから川べりには桜が多いのだね。特に古い堤防は桜の名所になっているってわけ。つまりは官製文化の面があるの。
天皇なんて平安時代からずっとお飾りの存在でしかなかったってのに
幕末になると急に天皇万歳とか言い出すのが本当に謎だったんだよな。
尊王だ勤王だと叫んでる武士たちにいったい天皇が何をしてくれたって言うんだろう。
おいおい、おまえは親藩ちゃうんかい、御三家やろがいって思うが、
まあ水戸藩的には「天皇から権力を預かったってことで幕府の支配を正当化しよう」という意図だったんだろう。
しかしそれがいきすぎて「幕府より天皇のほうが偉い!幕府は天皇に権力を返すべき!」になってしまった。
幼い頃から尊王教育を受けてきた慶喜が、鳥羽伏見の戦いで逆賊になったことにビビって逃げ出したという。
北条義時が聞いたら鼻で笑うだろう。
というか戦力的には勝ってただろう。
水戸藩の勤王思想の源流を辿っていくと出てくるのが水戸黄門すなわち水戸光圀で、
徳川の統治が盤石になるようにって設置した御三家が、二百年もかけて反逆者を育てたんだから、家康も草葉の陰で泣いてただろう。
その間抜けさを考えるとなんだかやるせないんだよな。
本論では、鎌倉幕府を中心とする中世武家政権が天皇の権威を不可欠な基盤として成立した事実を、制度的・経済的・象徴的次元から多角的に検証する。
日本史上の権力構造が「権威(天皇)」と「権力(武家)」の二元性によって特徴付けられることを示し、摂関政治から江戸幕府に至るまで一貫してこの原理が機能したことを論証する。
鎌倉幕府の創始者・源頼朝が1192年に「征夷大将軍」に任命された事実は、武家政権の法的根拠が朝廷の官位授与に依存していたことを端的に示す。
この官職は律令制下で蝦夷征討を目的とした令外官であったが、頼朝はその任命を以て東国支配権の公認を得た。
特に1185年の「寿永二年十月宣旨」において、頼朝が東国における荘園・国衙領の警察権を公式に認められたことが、朝廷との制度的紐帯を強化した。
承久の乱(1221年)後に全国に拡大した守護地頭制は、幕府が朝廷の荘園管理システムに介入する手段となった。
地頭による年貢徴収権の獲得(1221年「新補地頭法」)は、一方で幕府の経済基盤を強化しつつ、他方で朝廷へ一定の税収を保証する相互依存関係を形成した。
この共生関係は、幕府が朝廷の経済的存続を担保することで自らの支配正当性を補完する機能を有していた。
鎌倉時代後期の両統迭立期(持明院統と大覚寺統)において、幕府が皇位継承に介入した背景には、三種の神器の所在が正統性の根拠とされた神権政治の論理が存在した。
例えば後嵯峨天皇の治世(1242-1246年)において、幕府は神器の継承過程を監視しつつ、自らが「治天の君」選定の仲裁者となることで権威の源泉を掌握しようとした。
朝廷が主宰する新嘗祭や大嘗祭などの祭祀は、中世を通じて天皇の神聖性を可視化する装置として機能した。
幕府はこれらの儀式への供御人派遣や財政支援を通じて、伝統的権威への恭順姿勢を示すとともに、自らの支配を「神国」の秩序に組み込む戦略を採った。
特に伊勢神宮や賀茂社への寄進は、武家が宗教的権威を利用して支配を正当化する典型的手法であった。
鎌倉幕府の経済基盤となった関東御領(約500箇所)の多くは、元来が朝廷や貴族の荘園であった。
幕府は地頭を通じた年貢徴収の合理化を図りつつ、従来の荘園領主へ「得分」を保証することで旧勢力との妥協を成立させた。
この「本所一円地」への不介入原則が崩れた蒙古襲来後も、朝廷が幕府の軍事課税を追認した事実は、両者の経済的共生関係の強固さを示す。
平清盛の日宋貿易以来、朝廷が保持していた対外交易権は、鎌倉期においても「大宰府」を通じた外交・貿易管理として継承された。
幕府が実質的な外交権を掌握した後も、形式的には朝廷を窓口とする建前が維持され、明との勘合貿易(室町期)に至るまでこの構図が持続した。
藤原道長の「御堂関白記」にみられるように、摂関家が天皇の外戚として権力を掌握する構造は、後に武家が「征夷大将軍」の官位を媒介に権力を正当化する手法と同根である。
平清盛が「太政大臣」に就任した事実(1167年)は、武家が伝統的官制に依拠せざるを得なかった制度的制約を示す。
白河院政(1086-1129年)が開いた「治天の君」の政治形態は、北条泰時の執権政治(1224-1242年)において「得宗専制」として再構築された。
いずれも名目上の君主(天皇/将軍)を背景に実権を掌握する点で、権威と権力の分離という中世的政治構造の典型を示している。
北畠親房の『神皇正統記』(1339年)が主張した「神器継承の正統性」論は、建武の新政崩壊後も南朝方が政治的正当性を主張する根拠となった。
これに対し足利尊氏が光厳上皇を擁立した事実は、北朝方も同様の神権論理に依存せざるを得なかったことを示す。
鎌倉後期に伝来した朱子学の大義名分論は、水戸学における南朝正統論(『大日本史』編纂)を経て、明治期の南北朝正閏論争(1911年)にまで影響を及ぼした。
この思想的系譜は、天皇の権威が武家政権の正統性を超時代的に規定してきた事実を逆照射する。
以上の分析から、鎌倉幕府を頂点とする武家政権が天皇の権威を不可欠の基盤として成立・存続したことは明白である。この構造は単なる形式的従属ではなく、
③神権思想に基づく支配の正当化——という三重のメカニズムによって支えられていた。
明治維新に至るまで継続したこの権力構造の本質は、権威(祭祀権)と権力(軍事力)の分離・補完にこそ存し、日本政治史の基底を成す特質と言えよう。
天海大僧正の好物については、残念ながら具体的な記録が残されているわけではありません。
天海大僧正は、江戸幕府の成立に深く関わり、徳川家康にも信頼された人物です。その活躍は多岐にわたり、政治、宗教、学問など、幅広い分野でその才能を発揮しました。しかし、個人の嗜好に関する詳細な記録は、当時の文献にはあまり見当たらないのです。
天海大僧正は僧侶として厳しい修行を行い、質素な生活を送っていたと考えられます。僧侶としての戒律から、特定の食物に執着することはなかった可能性があります。
当時の記録は、政治的な出来事や重要な出来事に重点が置かれており、個人の嗜好に関する情報は詳細に記録されていなかったと考えられます。
具体的な記録こそないものの、天海大僧正の生活や時代背景から、どのようなものを好んで食べていたのか、少し想像してみましょう。
僧侶であったことから、精進料理を好んで食べていた可能性が高いでしょう。豆腐や野菜、きのこなど、植物性の食材を中心とした料理が一般的だったと思われます。
天海大僧正は、医学にも精通していたと言われています。そのため、薬効のある食材を使った薬膳料理を好んで食べていたかもしれません。
厳しい修行の中で培われた質素な生活から、特別に贅沢な食事を好むことはなかったと考えられます。
現代では、天海大僧正は謎に包まれた人物として、様々な物語や小説に登場します。これらの作品の中には、天海大僧正の好物が設定されている場合もありますが、あくまでフィクションであり、史実とは異なる点にご注意ください。
「不便そう」
「周りは全部田んぼ」
「スタバがない」
「娯楽がない」
Xでこういう発言をよく見かけるけど、多分この人たちは南関東から出たことがない。当然、広島とか福岡とか岡山とかには行ったこともないし見たこともない。本気で「岡山駅から5分歩けば田んぼが広がってる」とか信じちゃってるのだ。
海外に行ったことないのに「海外では〜」と主張する人と一緒。田舎に行ったことないのに「田舎は不便だから住みたくない」とか言ってる。
でも実際は都会の方が不便。ちょっと駅から離れてたら徒歩で10分以上歩くor不便なバスで移動するしかない。
田舎なら車で行けば済むだけの話なのに、都会の人は免許を取りたくないのか、なぜか高い家賃を払って駅近に住みたがる。面倒くさがらず免許取ればいいのにね。
でも都会民は「周りが全部田んぼ」を本気で信じてるから、広島にも福岡にも岡山にも来ない。広島福岡なんてむしろ田んぼを見つけるのが大変なぐらいなのにね。
なぜこういう誤った認識が生まれるのかと言うと、関東から出たことがない人は「取手」とか「越谷」とか「栃木」みたいなのが一般的な田舎だと思い込んでるからだ。しかし、これらは一般的な田舎ではなく、クソ田舎である。なぜなら地域の文化とか特産とか名所とかが全く無い。関東は江戸幕府ができるまで荒野だったからだ。歴史や魅力が何も無いし、従って東京の駅近の下位互換でしかないのだ。
なのよ。
https://anond.hatelabo.jp/20241018154926
今の横浜駅の場所も関内駅の場所も水の底。M字ハゲだった頃の舛添要一みたいな地形で、野毛山や戸部の辺りが半島で突き出していて、その隣に二つの湾が剃り込みが入ったみたいにあったのだ。
みなとみらいや高島の辺りは近年の埋め立てで高くなっているが無視して欲しい。
というか、東京湾内の神奈川県は多摩川河口の三角州以外ほぼ全域が、崖がストンと海に落ちる地形だった。これはリアス海岸のような沈降海岸の特徴でもある。
さて、そんな中に山下公園に接した、地下鉄の元町中華街駅~日本大通り駅がある一帯が棒状に少し高くなっていて水に沈んで居ない事に気が付くだろう。更にその根元は外人墓地がある山手の丘の方から生えるようになっている。
これは砂州なんである。南の方から沿岸流が漂砂を持ってきて、湾状になっているので山手の崖海岸を延長するように砂州が伸びて来ていた。天橋立とかサロマ湖と同じだ。
この横浜砂州があるのでその内側はラグーンになっていて貝とかが獲れる。また周囲は崖海岸ばかりで船を係留するのに便利なのは横浜砂州しかない。
さてこの湾はラグーンで全域水深が浅いし、横浜が入口を塞いでいる。この横浜って締切堤防に最適じゃね?
って事で江戸幕府は江戸の商人の吉田さんにここの干拓事業の承認を出す。横浜を延長してガッツリ閉鎖、土砂で埋め立てた。この辺はタウンニュースが書いてるので興味のある人はタウンニュースへ。
https://www.townnews.co.jp/0113/2017/01/01/363616.html
リンク先大まかな地図もあって、「横浜」も見える。横浜の先端付近が馬車道駅の辺りだ。
ペリーの黒船がやってきて幕府に門戸開放を迫ったわけだ。幕府はイヤだったが大砲とデカい動力軍艦で脅かされては何も言えない。
そこで江戸に近すぎると困るので距離が随分と離れて交通も不便だが不便すぎないという場所を探していた。そこで白羽の矢が立ったのが横浜ってわけ。
今の大桟橋の途中にある「象の鼻」はこの幕府が作った横浜港の防波堤だったものだ。
横浜の名の由縁はこれで終わりだが、横浜駅と横浜村が大きくずれてる説明が必要だ。だからもうちょい書く。
幕府は倒れ明治政府は汐留と横浜の間に鉄道を敷くことになった。
さてここで問題になるのが、野毛山を挟んでもう一方の剃り込みだ。
話は前後するが、高島町駅から浅間神社を結ぶ、県道13号より南側は幕末にすでに干拓されていた。
https://maps.app.goo.gl/nuiDnwfHNRUhaT2cA
平沼さんが3代に亘って工事をやった平沼新田、岡野さんが2代でやった岡野新田などがあり地名として残っている。
すると陸地を通ると神奈川宿(京急神奈川駅付近)→浅間神社→高島町という迂回ルートになってしまう。
そこで、神奈川宿から高島町に掛けて海の中に土手を通してそこに線路を敷くという思い切ったコースにした。
こうして嘗ての寒村だった横浜村には鉄道が来て倉庫街や歓楽街、官庁街、商社街や異人街が出来て異人さんが闊歩するハイカラな街となったのでありました。
さて官製鉄道は神戸まで延長される事になったのだが、ここで厄介なのは横浜駅(現桜木町)の存在だ。横浜駅から延長すると遠回りになるし港南区の丘陵地帯を突っ切る必要が出てトンネル必須になってしまう。
だから本線は神奈川駅から保土谷に直行して、横浜駅は盲腸線扱いにした。でも大事な駅なので通過はできず、一度横浜に行ってから機関車を付け替えて神奈川に戻り、再度機関車付け替えで神戸へ、という運転をしていた。
クソめんどくせえ。
客もめんどくさいが貨物は更に、で運転系統がややこしいので横浜駅に貨物が溜まりまくってしまい、神戸から送った荷物や郵便の汐留着が1ヶ月以上先、とかがザラになってしまった。
これに陸軍はぶちギレ。鉄道省に文句を言ったが改善しない。しかも当時の役人は元武家ばかりなのでメンツに拘り軍といえども罵倒なんてしたらエライことになる。
なので陸軍の持ち出しで保土谷→高島→横浜という線路を敷いて軍の貨物は優先で動かせるようにした。
鉄道省も横浜駅の扱いの厄介さと滞貨には頭が痛かったので、盲腸線方式を辞める事にした。最初の線路の東側に線路を新設し、陸軍が敷いた線路に繋げる。で、その繋げた辺りに横浜駅を移転、元の横浜駅は桜木町と改称した。
しかし見れば判るが港にも繁華街、ビジネス街からも遠くて不便で、かなりの不評だった。
そこで三度目の正直で、どうせ不便なら分岐点の方がいいだろという事で、今の場所に横浜駅を移転したのだった。2代目の駅は基礎だけが残っていて、マンションの公開空地として公開されている。
https://maps.app.goo.gl/ZCBUxiAJ9RwfSxvw5
3代目駅はもう最近まで海の上だったところで、全く何もないとんでもない場所で今で言う秘境駅だったが、今までと違うのは、帝都の震災復興と開発計画が付随していた事だ。
市電が来て新しく開通する東横線、京浜急行と東海道線が立体交差する様に建設されていた。ただ、駅の西側に残っていた水面の埋立地は戦後米軍に摂取されてしまった。
しかし高度経済成長期に摂取解除されると商業ビルが一気に立ち並び、それで横浜=現横浜駅付近と認識されるようになったのであった。
因みに駅西側に残った水面は平沼と呼ばれていた。平沼という地名が近くにあるので誤認されたものだ。元は平沼さん埋め立てしたところが平沼なので間違いなのだが、国が発行する地図にも平沼と書かれていた。
と、こういう経緯。
横向きの砂州の横浜→埋立てで砂州は消滅→横浜開港→鉄道→横浜駅の場所が邪魔→素寒貧な海辺に移転→駅前が米軍接収解除で繁栄→今はそこが横浜という流れ。