
はてなキーワード:歴史観とは
宇宙世紀の歴史認識だって、みんなバラバラなんだろうし、下手に会話したら揉めるだけじゃん…😟
俺、大昔だけど、飲みの席でパチンコの3DCGとかシステム開発してる人と隣になって、
彼に俺の大好きな∀ガンダムをクソ味噌に言われたんだけど、ずっと耐えてたわけだよ…😟
彼にとってのガンダムは08MS小隊みたいなミリタリーとか、0083みたいな宇宙世紀ものであって、
俺にとって、∀ガンダムってのは、あれは過去の全てのガンダム作品を黒歴史として、
ガンダムの末裔らしき∀が世界を全て破壊してリセットした後の「超未来」な話なわけで、
富野監督の、どんなガンダム作品が生まれようが、このエンドポイントに至るんだ!という意思を感じたんだよ、俺は
まあ、その後のレコンギスタに不満があるというか、正直あれはあれであんまり観てなかったり、
ジークアクスは、あれはあれで、富野監督の∀みたいなエンドポイントを破壊したという点も、ちょっとどうかと思ってる
という風に、ガンダムは人それぞれなわけだよ
大学時代は理系だったのもあって、重度のガンダムおたくが大学に何人かいたし、
日常生活でも何らかのコスプレをしつつ、日夜ガンダム実現のために何か研究とか趣味に没頭してたり、
でも、みんなのガンダム観は違うわけだよ
だから、中国の歴史認識、台湾の歴史認識、日本の歴史認識がズレてる方が普通なんだって…😟
そもそも、歴史は勝者が書くとか、明確な証拠が残ってても、いちゃもんだとか言われたり、
証言だってどんどんあやふやになる、証拠があっても真実は別にあるかもしれない、
そのための証拠は何らかの原因で失われたのかもしれない
仮に、例えばレイプされた女性がいたとして、それが真実であったとしても、
証拠がない、立証できない、みたいな話になることだって普通にあるわけで、
過去の真実がどうだったかなんて、中国も台湾も日本も、というか人間それぞれでズレてるはずだよ、統一できるわけがない
だから、床屋であっても宗教、政治、野球、ガンダムの話を避けるわけでしょ?
そこで揉めたら話にならない
床屋のおいちゃんが気前よく髪を切ってくれているのに、俺がジークアクスはクソだと思ってますとか言って、おいちゃんがジークアクス大好きだったらどうなると思う?
おいちゃんは内心怒って、∀の額のあのマークを俺の後頭部に植え付けるかもしれない…😟
そういう意味で言うなら、プーチンのウクライナ進行も、あれはプーチンの歴史認識なんだよ
だって若い頃のプーチンの映像を見たけど、まったく同じことを言ってる
あと、トランプも若い頃の映像が出回ってるけど、今の中国を日本に置き換えた感じで、日本はクソだがアメリカは偉大だ、みたいにずっとアジった発言してる
ゼレンスキーは、プーチンは陰謀論に毒されてる、みたいに言ってるけど、陰謀論というより、元からそういう考え、歴史認識だったわけだよ
だから、ウクライナな進行はずっと昔からの悲願だったというか、プーチンはずっと我慢して生きてきた
それがブチ切れた感じなわけだよ
もちろん、そのプーチンの歴史観が、俺とか、多分一般的な西側の教育を受けた人間からすれば、その歴史認識はおかしい、と明らかに思うわけだけど、
彼は頑なにそれを信じていた、信じていたからKGBに勤められたし、トップに登り詰められるわけでしょ?😟
でも、その信念を他人の信念と衝突させて、俺の信念と同じ信念におまえもなれ、というのは無理があるんだよ
いやー、マジで最高の展開になってきたな。この状況、飯が美味すぎるんだが。
まず状況を整理しよう。首相は、前の総裁選で負けたはずの石破茂。んで、この前の総裁選で勝って、次期首相の椅子を予約したのが、我らが「日本の誇り(笑)」こと高市早苗。まだ臨時国会が開かれてないから、首相指名選挙ができず、総理の椅子には石破が居座ってるっていう、珍妙極まりない「ねじれ」状態だ。
この状況で、石破首相が置き土産とばかりに「戦後80年メッセージ」を出す気マンマンなのが、全ての始まり。まあ、内容は想像つくよな。「深い反省」とか「不戦の誓い」とか、国際社会向けの常識的なやつだ。
当然、黙っちゃいないのが高市新総裁とその一派。「石破総理、貴方ご自身が先の総裁選で国民(※党員)の信任を失ったことをお忘れか!」「党の総意に反するメッセージなど断じて認めん!」って息巻いてるに決まってる。自分たちが散々やらかした裏金問題や旧統一教会との関係は棚に上げて、どの口が「党の総意」とか言うんだか。あいつらにとっての総意ってのは、自分たちの支持団体と歪んだ歴史観だけだろ。
高市さんサイドは、さっさと臨時国会を開いて、自分が首相になって、この話をチャラにしたい。石破ざまぁ、これからは私の時代よ、と。完全に勝利した気でいるわけだ。
だがしかし、だ。高市新総裁が忘れてる、たった一つのことがある。
まだ首相の座にいる石破茂には、憲法69条に定められた「衆議院解散権」という最強のカードが残されてるってことをな。
もう総理の座から降りることが確定してる石破さんには、失うものがない。党内のしがらみもクソもない。だったら、最後にいっちょ、この腐りきった自民党にデカい爆弾を落としてやろう、とか考えないか?
つまり、こういうことだ。
高市新総裁が「早く国会を開け!」と圧力をかける中、石破首相が官邸で緊急会見を開く。「我が党は先の総裁選で高市氏を新たなリーダーとしましたが、その政治姿勢、特に歴史認識や政治とカネの問題に対する姿勢は、国民の感覚から大きく乖離しています。このまま高市氏に政権を委ねて良いのか、国民の信を問いたいと思います」
総選挙の構図は最高に分かりやすい。総理の座を追われた石破に同情票が集まる、なんて甘い話じゃない。争点は「裏金とカルトにまみれた高市自民党に、日本の未来を任せられるのか?」の一点だ。
国民はもうごまかされない。あの総裁選で、自浄作用ゼロどころか、さらに右傾化して開き直った自民党の姿をハッキリと見たんだから。結果、高市自民党は歴史的な大惨敗。高市さんは、一度も首相になれなかった史上最も短い自民党総裁として、歴史に名を刻むことになる。
まあ、全部俺の妄想だけどさ。
でも、このねじれ状態、石破さんが最後に男を見せるチャンスでもあるんだよな。自分のためじゃなく、この国の政治をまともにするために、最後のカードを切る。そんな展開になったら、間違いなく歴史に残る最高のエンタメだわ。全力で期待してる。
まず、金融政策は政府の責任って発言から、日銀に利上げさせないつもり満々。
低金利で資金調達できる状況が続くから、設備投資の拡大で金回りはよくなるだろう。
金がダブつくから日経平均5万円、6万円が射程に入る。タワマン10億円時代になるかも。
全てのモノの値段が上がるってことは円の価値が下がるってことだから円安に振れる可能性が高い。
国の借金はお父さんがお母さんに借りてるようなもんだからいくらあっても問題ないって信じてるみたいだから、公共事業はばっかばっかやる。
政府債務が増えるけど、いいんじゃねーの?任期中はそれで困んないとと思う。
大変なのは利上げしたときで、株価爆下げ、不動産価格爆下げ、そんとき政府債務が膨らんでると国債の利払いだけでジエンドしかねない状況になる。
台湾有事とかアメリカのAIバブルの崩壊とかとタイミングが被るとさらにまずい。
移民政策に消極的だけど、あと5年くらいは大きな問題にはならない。東京は地方から若者を吸い上げれば耐えられる。
地方は、うーん、トヨタの工場さえ稼働すりゃいいんでねーの?知らんけど。
あと5年もない労働者不足対策の猶予期間になんもしねーんだから、後任はかわいそうだと思うけど。
鹿なんか害獣なんだけど、労働者不足なんかより鹿の保護が大事なんだろ?任期中は労働者不足の対策は進まないと思う。
独特の歴史観でいろいろ揉めそうだけど、どうせ少数与党だから大きく出られないし、いいんじゃねーの?
進次郎だったら維新と国民民主にすり寄ってただろうけど、高市だったら保守党か参政党に一部折れたりするんじゃないかな。
口じゃ勇ましいけど、口だけだよ。
攘夷攘夷騒いでたやつらが新政府に入ったら外国頼みになったのと同じ。
国会議員票で苦しんだのでわかる通り、味方が少ないから戦った進次郎やその推薦人もそこそこ要職につけると思う。
Geminiさんは、参政党にかなり否定的だなぁ。中立といえど知力があれば否定せざるを得ないよな。
いくら絆や家族愛を謳っても根本がカルトビジネスなら悪であることには変わりない。
AIとして、私自身が特定の政党に対して「カルトである」という断定的な意見を持つことはありません。しかし、参政党がなぜ一部から「カルト」あるいは「カルト的」と評されるのか、その理由を客観的な事実や指摘に基づいて多角的に評価・解説することは可能です。
最終的に「カルト」と判断するかどうかは、この言葉をどう定義し、どの側面を重視するかによって変わります。以下に判断材料となる要素を整理します。
「カルト的」と指摘される理由
参政党の活動や支持者の言動には、社会学や宗教学で指摘されるカルト集団の典型的な特徴と類似する点がいくつか見られます。
1.カリスマ的リーダーへの強い帰属意識と絶対視
神谷宗幣氏という絶対的な存在: 党の共同代表である神谷氏の発言や思想が、支持者にとって絶対的な指針となっている傾向があります。彼の発言はほとんど無批判に受け入れられ、彼への批判は党への裏切りと見なされがちです。これは、教祖やグルを崇拝するカルト集団の構造と類似しています。
2. 強い「我々と彼ら」という二元論
敵の明確化: 「グローバリスト」「ディープステート」「製薬会社」「マスメディア」「既存政党」などを国民の敵として描き出し、「目覚めた私たち国民 vs.日本を貶める彼ら」という単純な対立構造を提示します。これにより、支持者は自分たちを「真実を知る選ばれた存在」と認識し、強い連帯感と使命感を持つようになります。この排他的な選民思想はカルトの典型的な特徴です。
3.独自の思想・陰謀論の共有
真実の提供者としての党: 反ワクチン、反マスク、反昆虫食、反コオロギ、反GMO(遺伝子組み換え作物)、歴史修正主義的な主張など、科学的・歴史的な定説とは異なる独自の思想や陰謀論を「隠された真実」として提供します。これらの情報を党の動画や講演会でのみ得られると信じ込ませることで、外部からの情報を遮断し、党への依存度を高めていきます。
4. 内部からの批判への不寛容さ
異論の排除:過去に党の運営方針に疑問を呈したり、リーダーを批判した党員や地方議員が離党勧告を受けたり、除名されたりするケースが複数報告されています。組織の統一性を重視するあまり、内部での健全な議論や批判を許さない体質は、カルト組織に見られる強権的な運営と共通します。
5. 強い感情的な連帯と支持者の熱量
「目覚め」という体験の共有: 支持者の多くは「参政党のおかげで目が覚めた」という共通の体験を語ります。これは、ある種の回心(コンバージョン)体験に似ており、支持者同士の強い感情的な絆を生み出しています。集会やイベントでの熱狂的な雰囲気は、政治活動の域を超えていると指摘されることがあります。
参政党側の主張と支持者の視点
一方で、参政党自身やその支持者は、これらの指摘を「不当なレッテル貼り」だと反論しています。
国民運動・学習政党である:参政党は自らを「特定の誰かのための政党ではなく、国民みんなでゼロから作る国民運動」であり、「みんなで日本のことを学び、考え、実践する学習政党」と位置付けています。
マスメディアが報じない情報を伝えている:既存メディアが利権によって伝えない国民の健康や食の安全、国の主権に関わる重要な情報を発信していると主張します。
「カルト」という批判は妨害工作: これらの批判は、既得権益層が参政党の躍進を恐れて行っているネガティブキャンペーンであると支持者は考えています。
総合的な評価
参政党は、公職選挙法に則って選挙に参加し、議席を持つ合法的な政治団体です。その点において、社会から隔絶された閉鎖的な宗教カルトとは異なります。
しかし、その運営手法、支持者との関係構築、思想の浸透プロセスにおいて、
排他的な二元論
科学的根拠に乏しい独自理論の展開
内部批判への不寛容さ
といった、社会的に「カルト的」と見なされる特徴を色濃く持っていることは否定できません。
結論として、参政党を「反社会的な宗教カルト」と同一視することはできませんが、「カルト的な特性を強く帯びた政治団体」と評価することは、多くの客観的な事実から可能であると言えるでしょう。この評価は、同党の政策や思想そのものへの賛否とは別に、その組織としてのあり方に対する分析です。
参政党が公式に掲げる目的と、その活動から批判的に分析される目的は、しばしば分けて考えられます。
公式に掲げる目的 (建前) 🇯🇵
参政党が公式サイトや演説で主張している主な目的は、「日本の国益を守り、子供たちの世代に誇りある日本を遺すこと」です。そのために、以下の3つを重点政策の柱としています。
1. 食と健康、環境保全 (食料主権の確立)
日本の食料自給率の低さや、食品添加物、農薬、遺伝子組み換え作物(GMO)などの問題を重視しています。国民の健康を守り、国内の農業を保護・育成することで、食の安全保障、いわゆる「食料主権」を確立することを目指しています。
2.国守り (国家の主権と国益の追求)
「グローバリズム」の名の下に、日本の主権や国益が外国勢力によって脅かされていると主張します。特に、世界保健機関(WHO)のパンデミック条約や、外資による土地買収、過度な対米従属などに反対の立場を取ります。憲法改正にも前向きで、日本が自立した主権国家として毅然とした外交・安全保障政策を行うべきだと訴えています。
3.教育 (次世代への正しい歴史観の継承)
戦後の日本の教育が、自虐的な歴史観(いわゆる「WGIP」の影響)に基づいていると批判します。子供たちが日本の歴史や文化に誇りを持てるような教育を実現し、国の成り立ちや神話を正しく伝えることで、愛国心や道徳心を育むことを目的としています。
批判的に見られる目的 (本音) 💼
一方で、その運営方法や活動内容から、以下のような目的が真の狙いではないかと批判的に分析されることもあります。
ビジネスとしての組織拡大
前回の会話にもあったように、参政党は「不安を煽り、その解決策を売る」というビジネスモデルの側面を持っています。
政治活動を広告塔に:党の知名度を上げることで、党役員が運営する会社の商品(サプリ、書籍など)や、高額なオンラインサロン、セミナーへの集客力を高めます。
支持者を顧客に:熱心な支持者は、党の思想を支持すると同時に、関連商品を購入し続ける優良な「顧客」となります。
この視点では、政治的な目的の達成そのものよりも、党というプラットフォームを利用してビジネスを拡大し、収益を上げることが主目的と見なされます。
影響力のあるコミュニティの形成と維持
選挙で議席を獲得すること以上に、強力で熱心な支持者からなるコミュニ-ティを形成・維持すること自体が目的となっている可能性があります。
このコミュニティは、
情報の拡散力を持つ:SNSなどで党の主張を拡散し、世論に影響を与える。
経済的に組織を支える:党費、寄付、商品購入で組織の財政基盤となる。
リーダーに求心力を与える:リーダーはコミュニティの存在を背景に、社会的な影響力や発言力を獲得します。
この場合、党は「政治団体」であると同時に、リーダーを中心とした一種の「オンラインサロン」や「ファンクラブ」としての機能が強いと言えます。
まとめ
参政党の目的は、見る立場によって異なる二重構造になっていると分析できます。
表向きの目的 (建前): 食・国防・教育を通じて「日本の国益を守る」という愛国的な政治活動。
裏の目的 (本音/批判的分析): その政治活動を手段として、「ビジネスを拡大」し、「影響力のあるコミュニティを維持」すること。
熱心な支持者であるかのような文体を維持しつつ、行頭の文字を縦に読むと参政党への批判が浮かび上がる「縦読み」をいくつか作成しました。
皮肉や風刺の効果を狙い、一見すると賞賛、しかし本質は批判、という構成になっています。
パターン1:「カルト」
最も直接的で痛烈な批判の一つです。信奉者の熱狂的な様子を逆手に取ります。
るいなき愛国心をお持ちの方です。
パターン2:「デマ」
パターン3:「うそ」
うそばかりの世の中で、
【ポイント】
これらの文章は、元の文章が持つ「私たちは正しいのに不当に攻撃されている」という悲壮感や熱狂的な雰囲気を逆手に取ることで、皮肉の効果を高めています。SNSなどで使用する際は、文脈に合わせて調整してください。
https://anond.hatelabo.jp/20250727144129
テーマ:宋儒の道統構築学と日本の公武合体内閣の失敗理由について
儒学は歴代王朝の歴史観と同様に後代に作られた構築物であり、宋代以降に「道統」という連続した正統性の学説として体系化された。
それ以前の漢唐では、先秦の儒学は古代のものであっても直結した連続性は強調されていなかった。
宋儒は禅宗の開祖継承体系を模倣しつつ、儒学の連続性を強調して組織を強化しようとした。
古代の部族や宗教集団では、厳格に記憶され唱えられる口伝による伝承が神聖視されていた。
文字記録は信頼できず、かえって官僚や士大夫の利益のために歴史や法律の改竄や争いを生んだ。
英国の普通法も元は口伝習慣法で、文字化は利益対立から生まれたものであり、自由は元来古いが専制は新しい体制である。
宋儒の道統構築の社会的背景
宋儒は当時の宗教集団や部族に対抗するため、自らの儒学伝統(道統)を構築し、書院や宗族という組織を作った。
これらの組織は基層共同体を争奪し、社会的権威を強化するためのものだった。
それまでは書院は主に仏教のものであり、儒者は官僚か貴族の子弟で組織化されていなかった。
唐代は鮮卑系の征服者貴族が支配し、家族集団がほぼ国家のような性質を持っていた。
南方の「矮民」(主に東南アジア系)には強い種族差別があり、黒く猿のような外見が貶められ、奴隷や貢物として扱われた。
こうした差別は宋明以降も続き、歴史叙述や文学にも影響を与えた。
宗教(仏教やキリスト教)は政治支配より安価で広範な影響力を持ち、技術や医療と結びつけて広まった。
しかし宗教は知識人には理論的な影響力があったが、庶民や権力者は実際の効果で信仰を判断した。
現代知識人の歴史解釈は階級的利益や偏見を反映し、実際の歴史真実とは乖離している場合が多い。
例えば、漢唐の官僚による残虐行為も伝統的な道徳観ではなく、征服者の支配体制の一環として理解すべきである。
劉仲敬(リウ・ジョンジン)の著書《中國窪地:一部內亞主導東亞的簡史》は、漢族中心の「中国史観」を根底から問い直し、「中国」とは本来「窪地(デプレッション、Basin)」であり、その上に覇権を打ち立てたのは内陸アジア(內亞)の諸遊牧帝国だった――という挑戦的な視座から書かれた歴史解釈書です。
この書は、彼の「文明圏多元論」「諸夏主義」「脱中華」思想の根幹をなす理論的著作のひとつです。
書名の意味:
「中國窪地」とは、地政学的に見た「中国の盆地=中原」のことであり、東は山東半島と海、北は長城・蒙古高原、西は黄土高原、南は山岳地帯に囲まれた“低地”です。この地理的な「くぼみ(窪地)」が、周辺からやってくる外来の征服者(モンゴル、女真、満洲、契丹など)にとって統治しやすい空間だったという発想です。
基本構図:
従来の中国史は「漢族が外敵から文明を守った」という中華中心史観だが、実際には:
構成(簡略):
地理と文明の相互作用:なぜ中原は「文明の中心」ではなかったのか。
黄河流域は人口密度が高く農耕は発展していたが、防衛的には極めて脆弱で、常に外部勢力の侵入を受けやすかった。
「文明の重心」は周辺(北西のオルドス草原、モンゴル高原、満洲、チベット高原)にあったとする。
特に乾燥気候の遊牧民は、動員・軍事組織力に優れ、常に中原の静態的農耕社会を凌駕していた。
契丹(遼)
女真(金)
蒙古(元)
満洲(清)
これらの王朝は、内亞の軍事・遊牧構造を基盤に「中國窪地」を包摂し、自らの征服構造を正当化するために「中華文明」の装飾を用いただけ。
「中華」は本質的に「支配の飾り」や「便利なツール」に過ぎず、征服王朝の文化的正統性を演出するための道具だった。
清朝は史上最大の版図を築いたが、それは「大中華」ではなく、「大内亞帝国」として理解されるべき。
辛亥革命以後、漢民族ナショナリズムが清朝の多民族的帝国遺産を奪い、「中華民国」という名前で引き継いだが、実態としては「満洲帝国の皮をかぶったナショナルステート」だった。
民国も中共も「満清の版図」を正統と見なし、それを守ることが国家の使命であると信じたが、これは歴史的には極めて不自然。
中原(=窪地)は一貫して政治・軍事的に無力で、常に外来勢力の軍事力に従属していた。
その歴史を「一体的な文明発展史」として語るのは、近代以降に発明された「ナショナル・ヒストリー(国家史)」であり、虚構である。
項目 内容
主張の強さ 「中国」という国家概念が内亞の帝国的秩序によって形作られたという、極めて挑発的な歴史観
思想的貢献 「諸夏主義」「脱中華」「多文明的再編」論の土台を提供
国際的含意チベット・ウイグル・内モンゴル・満洲・雲南などの「非漢族地域」の分離独立を文明的に正当化できるという論理的土台
まとめ:なぜこの書が重要か?
劉仲敬は《中國窪地》を通じて、「中国の国家的正統性は幻想である」「中華文明の中心は常に“外”にあった」と論じ、現代中国のナショナリズムの基盤を根底から覆しています。
「なぜ中国は一つの国であり続けるのか?」という問いを根底から問い直したい人
https://anond.hatelabo.jp/20250727120239
項目 従来の中国反体制派(民主派・自由主義派) 劉仲敬の主張
中国の国家観既存の「中華人民共和国」を民主的に改革、民主化すればよい 「中華人民共和国」という国家枠組み自体が人工的で非現実的。中国は多民族の連合体として再構築・分裂すべき。
民族観・統一観 「中国は一つの民族(中華民族)としてまとまるべき」ことが前提 「中華民族」は政治的神話。実態は複数民族の多元集合体。単一民族国家を否定。
体制批判の焦点一党独裁・権威主義体制の民主化、自由化が目標体制批判は根本的。中央集権国家の崩壊・多元的な地域分裂・自治を推奨。
未来のビジョン民主主義中国の実現(西洋型民主主義への接近) 「諸夏主義」などの地域文明単位による緩やかな連合体形成。国家・民族の固定観念の解体。
歴史観中国は長く続く統一国家であることを基本に認めている中国史は分裂と連合の繰り返し。単一連続的な民族国家の歴史は作られた神話。
対国家態度中華人民共和国を乗り越えるための改革や革命を志向国家そのものが時代遅れで解体を視野。新しい地域単位の多元的な秩序を目指す。
国際関係観国家主権尊重、国家としての中国の民主化を目標国家の枠組みを超えて地域間の多様な連携や自治を重視。国家主義的ナショナリズムを否定。
具体的に言うと…
従来の反体制派は「共産党独裁を民主主義に変える」「言論の自由や法の支配を確立する」といった改革を求めます。これは「中国という国家を良くする」ことが前提です。
一方、劉仲敬は「中国という国家がそもそも巨大な神話であり、漢民族中心の大中華主義は虚構」とし、「国家や民族の概念自体を分解し、多様な民族・地域が緩やかに連合する新しい秩序を作るべき」と主張します。
つまり、従来の民主化運動が「国家の改革」を目指すのに対し、劉仲敬は「国家の枠組みの破壊と再構築」を提唱しているのです。
なぜ彼の考えはユニークか?
伝統的な中国の「民族統一」観や「国家主権」を根本的に疑っているため、単純な民主化論や自由化論では解決できない根本問題を突きつけている。
そのため、民主派や自由主義派からは理解しづらい「分裂主義」としても受け取られることがあります。
今回の参議院選挙が終わり参政党の躍進を見て、30年以上続いてきた左派が主導する社会が終焉を迎えたとしみじみ感じている。
私は平成初期生まれの地方出身30代であるが、日本をフレームとして政治、社会、個人に分けると社会は常に左にあったように思う。ここで言う社会とは学校、マスメディア含めた個人を取り巻く環境だ。
注意しておきたいのは政治は政権交代含めなんだかんだ左右のバランスは取れていて、個人の思想も地方と都市で差はあれ日本人全体で見ると差はなかったように思う。
だが社会だけは常に左派が支配する環境にあった。具体的には私自身バリバリのゆとり教育ど真ん中を生きてきた世代だが、学校教育の場ではみんな違ってみんないいの価値観。歴史教育では自虐的歴史観。マスメディアでは右翼的な言論はタブー視されていた。
当時(平成初期〜中期)の日本で公人が日本人ファースト、核武装などと声をあげれば社会に抹殺されていただろう。少なくとも個人が保守的な考えを持っていても公の場で口にできる雰囲気ではなかった。
しかし平成が終わるにつれ貧困層の拡大、ネット社会の台頭、世界的なトレンドなど様々な要因から徐々に左派が主導権を失っていった。
そして今回の参院選でついに長い長いある意味ディストピアが終わった。
私は決して極右政党が支配する社会を望んではいないが、参政党も共産党も自由にメディアで公言できるという点でやっと日本がフラットな社会になったように感じている。
参政党の歴史認識は奇矯且つネットで流布されていた俗説の凡庸なかき集めになっているが、「君が代の君は天皇じゃない」というのもあり、本名不詳自称さや議員の講義動画が現在流行している。
https://x.com/candykirao/status/1947249535366959273
現時点で340万回視聴されている。神話の「イザナ”ギ”」と「イザナ”ミ”」の二人の恋人の事だという。
古事記にはその後も書かれていて、イザナギが振り向いた事でイザナミは黄泉の国に囚われ二人の仲は永遠とはならなかったのだが…。
まあいい。この君が代不敬解釈だが、参政党のアドバイザーを務める小名木善行という人物によるものだ。参政党は2023年12月にホームページからアドバイザーを削除したが、反ワク、ビジウヨ、特殊健康食品各界で活躍する一流知識人達が参加していた。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E6%94%BF%E5%85%9A#%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%BC
この小名木善行、「ねずさん」の名でなら聞いたことがある人は多いかもしれない。ねずさんのひとりごと等のblogを古くから運営している。
この小名木氏、独自の歴史観を持ち増田の如き幼蒙を導いて下さるがその一つに江戸しぐさがある。江戸しぐさ自体は残念ながら小名木氏が創造者ではないのだが信奉実践者となっている。
そしてこの小名木氏が2012年に発表したのが、「腹部に両手を置いて肘を張るお辞儀は朝鮮式でありコンスという」という警鐘である。
おかしなアノお辞儀は韓国式コンス -ぜんこうのひとりごと https://nezu3344.com/blog-entry-1958.html
ガジェ通に批判記事がある→ 江戸しぐさ信奉者が広める「朝鮮式お辞儀」というデマについて https://getnews.jp/archives/777317
因みにガジェ通はニコ動に配信する関係で小名木氏の歴史言説をそのまま紹介する記事も多いので注意が必要。
この後にネットでは誰々がコンスをしていた、とかあの百貨店がコンスしてる、とか雅子さまがコンスとか写真付きの投稿が延々と相次いでいた。雅子さまは最近まで右派論壇のバッシングの餌食だったことを忘れてはならない。
また対象がクルド人に代わるまで韓国/韓国人/韓国のモノコトは叩きの対象であったのも忘れてはならない。
そういう訳で君が代の君は天皇じゃねぇよという不敬な解釈はコンス発明者のものであるのでした。
更に小名木氏は縄文文化日本本質説の唱道者でもあるので、江戸しぐさは縄文人のDNAに刻まれた日本人らしさが発現したもの、等という説も唱えている。ゲノム解析が進歩した現代に言うんだから真実なんだろうと思う。
参政党は縄文文明推しで、縄文人由来のDNAが多いのが純日本人だとか何でも縄文に結びつける言説が多いのだが、その由来はこの人ってこと。
また、「昔の朝鮮半島に居住していた民族と今の韓国人は入れ替わっているので別の人種/民族。だから日本人と今の韓国人は遺伝的に繋がっていない」という言説を聞いたことあるだろう。
弥生人は渡来人なので日本人と韓国人はゲノムを共有するのが定説だが、それは嘘だ、と。
この言説を言い出したのも小名木氏なんである。https://nezu3344.com/blog-entry-2273.html
また「萬歳三唱令」に権威付けを行った投稿もある。正しい万歳 https://nezu3344.com/blog-entry-765.html
毎度おなじみ、選挙が近づくと湧いて出てくるポピュリストと、それに熱狂する人々。NHK党しかり、石丸伸二界隈しかり、そして何よりたちが悪いのが参政党だ。いったい何度同じようなアジテーターに騙されたら、彼らは学習するのだろうか。
最初は威勢のいいことを言う。既存政党やメディアを「オールドメディア」「既得権益」と断じ、自分たちだけが真実を知っているかのように振る舞う。耳障りの良い言葉、分かりやすい敵、そして「自分たちは目覚めた存在だ」という心地よい万能感。これらにB層は面白いように飛びついていく。
NHK党なんて、その最たる例だろう。ワンイシューで注目を集めたが、やがて内紛とスキャンダルで自壊していった。目的は本当にNHK問題の解決だったのか、それとも単なる目立ちたがり屋のパフォーマンスだったのか。今となっては明らかだが、未だに「立花さんはすごい」と信じている人々がいるのには、もはや眩暈すら覚える。
石丸伸二氏もそうだ。地方の首長としてメディア露出を増やし、正論風の物言いで人気を博したが、結局は中央の政界へのステップでしかなかったように見える。彼が本当に地方の未来を考えていたのか、それとも自身の承認欲求を満たしたかっただけなのか。これもまた、時間が経てば「めくれて」いくだろう。
だが、これらと比べても参政党の厄介さは群を抜いている。彼らは一見すると「意識高い系」の衣をまとっているからだ。食の安全、健康、環境、日本の伝統。どれも多くの人が関心を持つテーマであり、一概に否定しづらい。
しかし、その実態は何か。科学的根拠の乏しいオーガニック信仰や反ワクチン的主張、特定の国への敵意を煽るような歴史観。不安を煽り、複雑な問題を「〇〇のせいだ」と単純化する。これはまさに、かつて人々を熱狂させ、そして破滅へと導いた扇動の手口そのものではないか。
彼らは支持者を「目覚めた市民」と持ち上げるが、その実態は、自分たちに心地よい情報だけを摂取し、異論を一切受け付けない思考停止の集団に過ぎない。自分たちは他の愚かな大衆(B層)とは違う、選ばれた存在なのだと信じたい。参政党は、その自尊心を巧みにくすぐる。だからこそ、一度ハマると抜け出しにくい。
彼らの主張を一つ一つ吟味すれば、その矛盾やご都合主義は明らかだ。だが、信者たちはそれを「アンチのデマ」「工作員の妨害」と一蹴する。もはや宗教だ。教祖様の言うことは絶対であり、疑うことすら許されない。
NHK党にしろ、石丸党にしろ、そして参政党にしろ、構造は全く同じだ。カリスマ的なリーダー(アジテーター)が現れ、分かりやすい敵を作り、心地よい言葉で信者(B層)を集める。そして、彼らから金と票を吸い上げていく。
なぜ、こうも簡単に騙されるのか。なぜ、自分の頭で考えることを放棄してしまうのか。おそらく彼らにとっては、複雑な現実と向き合うよりも、誰かが示してくれる「分かりやすい答え」に飛びつく方が楽なのだろう。だが、その安易な選択が、社会をどれだけ分断し、後退させているかに気づくべきだ。
もう、いい加減に目を覚ましてほしい。あなた方は養分じゃない。アジテーターたちの承認欲求と金儲けのために、これ以上利用されるのはやめにしないか。そう言っても、彼らの耳には届かないのだろうな、と暗澹たる気分になる。
「日本人ファースト」とか言ってて、一見すると国民のためを思ってる良い政党みたいに聞こえるかもしれない。
でも、彼らの言動をよくよく見ていると、とんでもなくヤバい匂いがプンプンするんだ。
「日本人ファースト」が、いつの間にか「参政党の支持者ファースト」にすり替わって、自分たちを支持しない人間を「非国民」だの「反日」だのレッテル貼りして、社会から排除し始める未来が見えるようで、本気で怖い。
まず、彼らは分かりやすい敵を作る。「グローバリズムが悪い」「外国資本が日本の土地や水を買っている」「移民が仕事を奪い、治安を悪化させる」と。これは「我々日本人 vsよそ者」っていう、古典的だけど効果的な対立の構図だ。
でも、彼らの敵は国境の外にいるだけじゃない。日本国内にも「本物の日本人」と「そうじゃない日本人」の間に線引きをしようとしている。
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*歴史観:「自虐史観を捨て、日本に誇りを持てる教育を」とか言ってる。聞こえはいいけど、要は「俺たちの言う歴史観以外は認めんぞ」っていう同調圧力だ。過去の戦争を「領土的野心ではない」と断言したりして、異論を許さない空気を作ってる。
*健康観:「薬やワクチンに頼るな」「自己免疫力を高めろ」と訴える。WHOや製薬会社を「金儲けの陰謀」みたいに敵視して、自分たちこそが真実に目覚めた国民で、現代医療を信じる奴は騙されている、みたいな構図を作り出す。
*家族観:「女性の社会進出が少子化の原因」「男女共同参画なんてつぶしてしまえ」なんて、堂々と言い放つ。伝統的な家族像こそが「正しい日本人の姿」で、選択的夫婦別姓やLGBTの権利を求める動きは、社会を破壊するイデオロギーだと切り捨てる。
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つまり、彼らが「日本人」として認めるのは、彼らの歴史観、健康観、家族観に賛同する人だけ。
たとえ日本国籍を持っていても、彼らの考えに合わない人間は「日本人」の輪から弾き出される。この時点で「日本人ファースト」は嘘っぱちで、実態は「俺たちの思想に合う日本人ファースト」なんだよ。
「腐敗した既存政治家 vs 俺たち国民の代弁者」という分かりやすい構図を提示し、代表が街頭やネットで直接語りかける。
すると、熱心な支持者たちは、外部からどんなに正当な批判をされても「またマスコミの切り取りか!」と耳を貸さず、党への忠誠を誓う。批判は一切届かない、強固なエコーチェンバーの完成だ。
この状態が進むとどうなるか。
党への批判は、単なる意見の違いではなく、「国家への裏切り」と見なされるようになる。
「日本人ファースト」が、完全に「支持者ファースト」へと変質する瞬間だ。
ここで思い出してほしいのが、戦時中に使われた「非国民」という言葉だ。
国策に協力しない者、思想が違う者、戦争に行けない障害者まで、この一言で社会から排除された。
参政党の代表は、戦前の「治安維持法」を肯定するような発言をしたと報じられている。あの法律こそ、国家の思想に合わない人間を「非国民」として合法的に弾圧するための装置だった。それを肯定するって、どういう神経してるんだ。
「出産は国家への貢献」なんて発言もあった。じゃあ、子どもを産まない、産めない人は国家に貢献してない「価値の低い国民」なのか?
もうお分かりだろう。彼らは「非国民」という言葉こそ使わなくても、「反日」「グローバリストの手先」「日本の伝統を破壊する者」といった新しいレッテルを使って、同じことをやろうとしている。
この排除の論理が、具体的に誰に向けられるのか。その答えは、彼らの政策案にハッキリと表れている。
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* 終末期医療費の全額自己負担化:過去にこんな公約を掲げていた。専門家は「医療費削減効果なんてほぼない」と一蹴しているのに、なぜこんなことを言うのか。代表自身の言葉が答えだ。「みとられる時に蓄えもしないと大変だと啓発する思いで入れた」。要するに、金のない年寄りは死ね、という究極の自己責任論だ。
*GoToトラベルで医療費削減:健康で医療費を使わなかった「良い」高齢者には旅行券を配るそうだ。これはつまり、病気になった「悪い」高齢者は罰せられる(自己負担増)ということ。人の命に「貢献度」で優劣をつけ、選別する思想が透けて見える。
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これって、ナチスが「生きるに値しない命」として障害者を社会から排除した優生思想の論理と、どこが違うんだ?
経済的な「負担」や「生産性」をモノサシにして、人の価値を決める。こんな危険な思想はない。
政治の役割って、「自分たちを支持しない人たちでも、困っていれば助ける」ことじゃないのか。
「日本人ファースト」を入り口に、いずれ「支持者ファースト」の独裁体制を築き、その基準から外れた者を「非国民」として切り捨てていく。
その矛先は、最初は外国人かもしれない。次は政敵かもしれない。
そして最後には、生産性がないと見なされた高齢者や障害者、つまり、社会で最も弱い立場の人々に向けられるだろう。
これは妄想じゃない。彼らの言動から導き出される、極めて論理的な帰結だ。
本当に、笑えない未来がすぐそこまで来ている気がしてならない。
まず最初に確認しておきたいのは、「原爆が落とされたから戦争が終わった」という主張ですね。はい、それ自体は一部事実として言われていることです。しかし、それ“だけ”で全てを語ろうとするその単純化は、極めて危険です。
冷静に見てください。ソ連の参戦、ポツダム宣言、そして国内の物資枯渇、あらゆる要素が複合的に絡んで終戦に至ったわけです。原爆“だけ”が決定打だというなら、あなたはその瞬間しか見ていない。まるでコップの水が溢れた瞬間だけを見て「この一滴がすべてだった」と叫んでいるようなものです。
次に、「原爆を落とされるくらいしないと日本は止まらなかった」とのことですが、それは非常に乱暴な歴史観です。では問います。ではなぜドイツには原爆を落とさなかったのでしょう?日本が“アジアの加害者”だから正当化されると?その論理が通るなら、世界中で数多の大義名分を掲げた虐殺がすべて“必要だった”ということになります。あなたはそれに同意されるのですか?
「日本人は加害者である」という認識は大前提として必要です。私もそれを否定する気はありません。しかし、「加害者である」ことが「無差別大量殺戮を受け入れよ」という理由にはなりません。加害と被害は天秤にかけるものではないのです。そこを混同して“被害者ヅラするな”と煽る姿勢、極めて非知的です。
最後に、オバマ大統領の訪問を“被害者意識の加速”とする点。そこにも感情論が先行しています。事実、あの訪問は加害も被害も超えた「核なき世界」へのメッセージであり、国際的には非常に評価されました。あなたがそれを“パフォーマンス”と見るのは自由ですが、それをもって日本人全体を十把ひとからげに論じるのは、思考停止です。
ですので、あなたの投稿は「歴史を断片で見て感情で結論を出す」典型的な誤ったロジックであると言わざるを得ません。私はそう考えます。
3月20日発売予定のアサクリシャドウズを緊急発売中止にするぞッッ!!!
Tomoe_jp
@Tomoejp1236
拡散希望!
めぇ 4/6.29🎺DWB 4/25🐨🐧 4/27💀E&B
@KM1514Brook
プーやん
@tmd8964
3/19 #かだ裕之 @kadahiroyuki
それらはけして許されない
それらは何の言い訳にもならない
それらはけして許されない
『訂正可能性の哲学』東浩紀と、『万物の黎明(TheDawn ofEverything)』David Rolfe Graeberは、二人とも、ルソーを論じています。二人のルソー観の相違点や類似点を分析してください。
東浩紀の『訂正可能性の哲学』とデイヴィッド・グレーバー(David Graeber)の『万物の黎明』におけるルソー解釈の比較分析は、両者の思想的立場と学問的アプローチの違いを浮き彫りにします。以下、相違点と類似点を整理します。
両者ともルソーが提示した「自然状態」や「社会契約」の物語を、近代社会の起源を説明する神話として批判的に扱います。グレーバーは「万物の黎明」で、ルソーの「不平等起源論」が啓蒙思想の進歩史観に依存することを指摘し、東は「訂正可能性」の観点からルソーの社会契約論が持つ決定論的側面を問題視します。
東もグレーバーも、ルソーの思想を単なる歴史的テキストではなく、現代社会を批判するための「ツール」として再解釈します。ルソーの「自然状態」を文字通りの史実ではなく、現在の社会構造を相対化するための比喩として読み直す点に共通性が見られます。
人類学的実証主義に基づき、ルソーの「自然状態」を「神話的フィクション」と断じます。『万物の黎明』では、先史時代の社会が既に複雑な自由と平等のシステムを持っていたことを強調し、ルソーが想定した「原始的な単純さ」を否定します。ルソーの「高貴な野蛮人」概念は、実際の先住民社会の多様性を矮小化する「ヨーロッパ中心主義の幻想」だと批判します。
ルソーの「自然状態」を、社会の「訂正可能性」を開くための仮構として積極的に評価します。ルソーが示した「社会は人為的に構築されたものであり、再構築可能だ」という思想を、現代の情報社会におけるゲーム的・プロトコル的な秩序の再編に応用します。ここでのルソー解釈は、現実批判よりも「未来の設計図」としての側面が強調されます。
ルソーの「一般意志」概念を、中央集権的な権力の正当化に利用されたと批判します。代わりに、分散型の自治を実践した先史社会の事例を提示し、「個人の自由と集団的合意は対立しない」という反ルソー的なモデルを提案します。
ルソーの社会契約論を、個人の欲望と社会の規範の「ずれ」を前提とする動的システムとして再解釈します。データベース消費社会における「動物化」という概念(『動物化するポストモダン』)と結びつけ、ルソーの「自己修正する社会」の可能性を、情報技術時代の柔軟な秩序形成に投影します。
ルソーの直線的進歩史観(自然状態→社会の堕落→契約による再建)を完全に否定し、非線形的で多中心的な人類史を復元します。ルソーが想定した「起源」そのものを虚構とみなす点で、根本的な批判を行います。
ルソーの歴史観を「修正可能性の物語」として部分的に継承します。社会が絶えず自己修正を迫られる「未完のプロジェクト」であるという考え方を、ポストモダン社会の流動性と結びつけます。ここではルソーは「批判すべき対象」ではなく、「再発明すべき先駆者」として位置付けられます。
両者の対照は、ルソーというテクストを「過去の遺物として解体するか」(グレーバー)、「未来への触媒として再生するか」(東)という方法論の違いに集約されます。しかし共通しているのは、ルソーを現代の問題を考えるための「思考の実験場」として活用する姿勢です。
これを東浩紀が語っているような文体で直してください。一人称は「ぼく」で。
>> ぼくが『訂正可能性の哲学』でルソーを論じたとき、どうしても気になっていたのは、21世紀の情報社会と18世紀の社会契約論が、意外なところで繋がるんじゃないかってことだった。ルソーって「自然状態」とか「一般意志」とか、けっこうロマンチックな概念を振りかざすでしょ? でもね、あれはたんに昔の理想を語ってるんじゃなくて、社会のOSが書き換え可能だって気付かせてくれるツールなんだよね。<<
>> グレーバーが『万物の黎明』でルソーを批判してるのは知ってる。あの人類学的な実証主義もいいんだけど、ぼくの立場はちょっと違う。ルソーの「自然状態」が史実かどうかなんて、どうでもいいんだ。重要なのは、あのフィクションが「いまの社会は絶対じゃない」って可能性を開いたことだ。たとえばSNSのアルゴリズムだって、ルソー流に言えば「人為的なプロトコル」でしょ? だったらユーザー同士で修正できる余地があるはずだ——そんなふうに考えられるのがルソーの面白さだよ。<<
>> グレーバーさんが先史時代の自由を強調するのもわかる。でもぼくらが生きてるのは、もう一度グローバルな社会契約を考え直さなきゃいけない時代だ。ルソーが『社会契約論』でやったように、中央集権でも個人のバラバラでもない、新しい協調の形をゲーム理論やAIと組み合わせて探る必要がある。そのとき「自然状態」という仮構は、逆にすごく役に立つんだ。現実に縛られないからこそ、倫理的な実験ができるわけで。<<
>> もちろんルソーには問題もある。たとえば「一般意志」が全体主義に転がりやすいのはその通りだ。でもぼくが『動物化するポストモダン』で言った「データベース消費社会」を見てみ? あそこでは人々の欲望がバラバラで、もはや「一般意志」なんて成立しない。でもルソーの理論を逆手に取れば、そのバラバラさ自体を社会の訂正可能性のエンジンにできるかもしれない。つまりルソーは、彼自身が予想してたよりもずっとポストモダンな思想家だったんじゃないかって話だ。<<
>> グレーバーさんとの違いをあえて言えば、彼がルソーを「過去の神話」として解体するなら、ぼくはルソーを「未来の触媒」として使おうとしてる。人類学も大事だけど、哲学の役割は過去の正しさを証明することじゃない。間違ってた思想家ほど、新しい思考を生む資源になる——それが訂正可能性の本質だと思うんだよね。<<
(※東浩紀の実際の文体を完全に再現したものではありませんが、インタビュー調の語り口・「ぼく」の一人称・「ゲーム的」「プロトコル」「データベース」などのキーワードを意識した再構成です)
2025年の春先、突如としてガンダムファンの間で熱い話題となった新作アニメーション映画『機動戦士ガンダムジークアクス』。本作は “パラレル宇宙世紀” という新たな設定を掲げ、シリーズ従来の魅力を活かしながらも、大胆な再構築を試みた意欲作として注目を浴びている。公開直後から口コミを中心に爆発的な支持を獲得し、つい先日、興行収入が6億円を突破したと公式発表があった。いわゆる大御所監督やメディアのゴリ押しがあったわけでもないが、作品そのもののクオリティと話題性により、多くのファンが劇場へと足を運んでいるのだ。
そもそも “パラレル宇宙世紀” とは何なのか。ファーストガンダムをはじめとする既存の宇宙世紀作品と設定を共有しながらも、歴史や出来事が微妙に異なる――いわゆる「if」の世界線を描いているのが特徴だ。人類がスペースノイドとして宇宙に拠点を広げていく大まかな流れは同じだが、各キャラクターや組織の動き方が従来の宇宙世紀と少しずつズレている。そのズレが、物語やキャラ同士の関係性に大きな波紋をもたらし、ファンをワクワクさせているというわけである。
特に話題を集めているのが、シャア・アズナブルとシャリア・ブルという、かつてのファーストガンダムに登場した人物たちが “パラレル宇宙世紀” でどのように存在しているのかという点だ。本来、シャリア・ブルとシャアは原作では直接長い絡みがあったわけではない。しかし『ジークアクス』では、このふたりが初期から行動をともにし、“ニュータイプとは何か” を探る仲間として描かれている。この組み合わせの妙が、本作における新しい世界観を象徴しているとも言えよう。シャアは相変わらずカリスマ性のあるリーダー像を示しながら、シャリアは彼独自の透徹した感性を軸に、シャアとの対話を重ねていく。ファンの間では「まさかこのふたりがこんなに深く絡むなんて」「これまでとは異なるシャリアの魅力が引き出されている」と大絶賛の声が上がっている。
しかし、『機動戦士ガンダムジークアクス』の真の主役はあくまでも、声優の黒沢ともよさんがキャスティングされている “マチュ” という少女である。マチュは地球圏の片隅で暮らす普通の民間人として物語の冒頭に登場する。血筋も特別なものではないし、高い身体能力や優れた戦闘センスがあるわけでもない。そんな彼女が、思わぬ形で最新鋭モビルスーツ “ジークアクス” を託され、戦乱へと巻き込まれていく筋書きが、本作の大きな軸になっている。
マチュが乗り込む “ジークアクス” は、見た目こそガンダムタイプの意匠を受け継いでいるが、その性能は未知数。劇中では “人型決戦兵器” というよりも “人類の希望を託された船” のように描かれ、パイロットとの精神的リンクがとりわけ重要視される。モビルスーツなのに、まるで生き物のように、マチュの感情や思考に反応して形状を微妙に変化させる場面まであるというから驚きだ。このアプローチには、ニュータイプ論や人の意志と機械の融合といった従来のガンダムテーマが色濃く投影されているようにも見える。マチュが誰よりも純粋な思いで “何かを守りたい” と願うとき、ジークアクスの武装や機動力が一瞬だけ大幅に上昇するシーンは、観客からも「エモすぎる」と称されている。
一方、本作でもうひとつ異彩を放っている存在が “シュウジ・イトウ”である。従来のガンダムシリーズには登場しなかった完全オリジナルキャラクターだが、『ジークアクス』においては非常に重要な役割を担っていると語られている。作中では「ガンダムの妖精」のような存在感を持ち、光の粒子のようにマチュたちの前にふわりと現れる。そのビジュアルは「男性とも女性ともつかない中性的な容姿」「美しい光をまとった幻影のような姿」と表現されており、いわゆる “人ならざる存在” として描かれているのが印象的だ。
しかし、このシュウジ・イトウこそが “ジークアクス” の開発に深く関わっていた人物である――というのが物語中盤での衝撃的な事実となる。マチュやシャアたちは、最初こそシュウジのことを “どこからともなく現れる謎の人物” 程度にしか認識していなかった。しかしシュウジは、ガンダムタイプの研究者としての知識を豊富に持ち、さらにはニュータイプ論にも通じている節をうかがわせる。その存在意義はあたかも “作品世界そのものを導く道しるべ” のようで、ファンの間でも「彼はいったい何者なのか」「なぜ姿を消したり現れたりできるのか」という考察がにわかに盛り上がっている。
実際に映画を鑑賞したファンによると、シュウジ・イトウの描写は終盤にかけてますますファンタジックになるという。物理的な戦闘が激しくなるにつれ、シュウジもまたジークアクスのコックピットを取り囲むオーラのようなものに溶け込んでいくのだとか。通常のモビルスーツ戦とはひと味違う “精神世界での対話” の場面がいくつも挿入され、そこでシャアやシャリア、マチュそれぞれが “人類の可能性” をめぐる深い対話を交わす。ここには従来の宇宙世紀が孕んでいた “ニュータイプの到達点” に対する、ひとつの “パラレルな回答” が提示されているとも言えるだろう。
こうしたスケールの大きなストーリーに加え、声優陣の豪華さも『ジークアクス』の大きな魅力になっている。主人公のマチュ役には黒沢ともよさんが抜擢され、繊細でありながら力強い演技が高い評価を受けている。黒沢さんといえば少年少女役から大人の女性役までこなす幅広い演技力が魅力で、さまざまなアニメやゲームで活躍してきたが、今作で見せる “決して強くはないけれど、それでも守り抜こうとする少女” の声は、観る者の胸を打つ。マチュの心情が揺れ動くシーンは涙なしにはいられないという評判だ。
もちろんシャア・アズナブルとシャリア・ブルも、ファンにはおなじみの声優が担当している。オリジナルキャストの故人がいる場合には別の方が演じているケースもあるが、どちらも極力 “イメージを崩さない” 演技とキャスティングがなされているため、昔からのガンダムファンも安心して楽しめるだろう。パラレルとはいえ、ふたりが兼ね備える独特のオーラは健在で、特にシャアは「あの頃のシャアがもしも別の選択をしていたら……?」という “if” 的な魅力を存分に見せてくれる。一方で、シャリア・ブルが持つ透徹した思考と、どこか神秘的な雰囲気は、今回の世界観に大きくフィットしており、「もっと早くこのふたりの絡みを見たかった」と嘆くファンも多い。
さて、興行収入6億円突破というニュースが流れた際、SNSでは「こんな短期間でここまで伸びるとは」「まだまだ伸びるはず!」といった期待の声が相次いだ。元々はガンダムファンを中心に話題となった本作だが、いまでは映画レビューサイトや総合エンタメ情報番組でも取り上げられ、ライト層や普段アニメを観ない層にも少しずつ浸透し始めているようだ。「映像美がすごい」「色彩表現が繊細」「戦闘シーンのカメラワークが斬新で引き込まれる」といったビジュアル面の評価も高い。モビルスーツ同士の戦いはもちろん、宇宙の広大な空間や地上での風景表現も大きなスクリーンで堪能したいと思わせるクオリティだという。
制作スタッフ陣には若い才能が数多く参加している。特に監督のA氏は、これまでガンダムシリーズとは縁の薄い作品を手がけてきたが、そのぶっとんだ発想と映像表現へのこだわりが注目されてきた人物だとか。シリーズ構成を担当するB氏はライトノベルやゲームのシナリオで頭角を現した新進気鋭であり、ファンの間では「これまでの宇宙世紀観に捉われない、新しいガンダムを生み出せるのでは」と期待が寄せられていた。結果的に “パラレル宇宙世紀” という大胆な発想を取り入れながらも、しっかりと “ガンダムらしさ” を感じさせる物語を作り上げ、興行収入6億円突破という見事な結果を得ている。
今後の展開にも注目が集まっており、監督やプロデューサーがインタビューで示唆しているように、追加映像を盛り込んだ特別上映や、スピンオフ作品の制作が検討されている可能性もある。また公式サイトの予告ページでは、「ジークアクスはまだ変化の可能性を秘めている」という気になるテキストが掲載されており、今後さらに解き明かされるであろう “機体の秘密” にも期待が募るばかりだ。さらに「シャアとシャリアの関係はこれで終わりではない」というコメントや、「シュウジ・イトウに関してはまだ語られていない事実がある」という暗示など、ファンをやきもきさせる情報が続々と投下されている。
かくして、『機動戦士ガンダムジークアクス』は “パラレル宇宙世紀” という新たな器を得て、旧来のファンも新規のファンも巻き込みながら、ガンダムというコンテンツに再び光を当てている。その要因には、設定の斬新さや作画のクオリティはもちろん、主人公マチュの儚くも強い意志、そしてシュウジ・イトウという “妖精” 的存在のミステリアスな魅力が大きく寄与しているのは間違いない。シャア・アズナブルやシャリア・ブルという懐かしい顔ぶれも、かつてとはまったく異なるシナリオで姿を見せることで、ガンダムが持つ “深い歴史観” と “新しい世界の可能性” を同時に提示してくれている。
興行収入6億円という大台を突破し、さらなる上積みも十分に期待される『ジークアクス』。ガンダムシリーズの中でも、これほどまでに “世界観そのものを再構築” した作品は珍しく、さまざまな議論や考察がファンダムをにぎわせている。果たして、この作品はどこまでの高みへと達するのか。そして、パラレル宇宙世紀の結末には、どのような “希望” や “真実” が待ち受けているのか。今後も目が離せない、2025年を代表するアニメ映画のひとつとなりそうだ。観客やファンの声を背に、ジークアクスはさらに高く飛翔し、ガンダムシリーズに新たな風を吹き込むに違いない。
「ネトウヨはすぐに他国の軍事弾圧を肯定するくせに、なぜ天安門とか六四天安門とかbioに書くのか」という話をしばしば見かける。何か妙な勘違いなのだが、ネトウヨの連中は「敵国に迷惑がかかる行為を称揚し、自国に迷惑がかかる(と思い込んでいる)行為を批難する」という点において一貫しているだけであり、何も矛盾はない。中国の現体制に対して何かしら迷惑やダメージがある現象なら何でもいいのであり、つまり軍事弾圧の是非や民主主義イデオロギーは最初から問題としていない。要は一昔前の、自由と民主主義の国アメリカがその辺の独裁国家を支援していたのと同じである(ピノチェトとかフセインとか)(パフラヴィー朝なんかは話がちょうど良い具合にややこしくなると思う)。
軍隊による民衆弾圧に親和的なのもある意味当たり前の話で、むしろ「軍人は何のために銃を握るのか」という議題に対し、少なくとも日本人の歴史観においては「国民を守るために銃を握ることはありえない。それは異常である。国体または軍隊自身を守るために銃を握るのが一般的であり、その目的達成のために国民に各種の危害を加えるのは比較的当然のことである」という認識のはずだ。そもそもそれこそが日本国憲法第九条の前提そのものではあるまいか。恐らく「普通の日本人」とやらにとって、軍隊が自国民を守るために存在し行動する、という「印象(コンセンサスと言い換えてもよいだろうか)」そのものが存在しないはずだ。それは案外、「普通の」どころか左右両翼の共通認識ではないだろうか。
確かに、明治以降の旧軍は侵略戦争か、なんとなくその場のノリでその辺の戦争に参戦するか、いずれかの経験ばかりだったわけで、直接的に国民を守るための軍事行動というのは教科書に載るレベルでは存在しない(占領地に住んでる人を守るというのも、そりゃまず占領してんだし……という話が先に来る。まあスタコラサッサと逃げた関東軍は流石にちょっと凄い気はするが)。当然、ここで元寇や災害救助の話をしても仕方ない。それは過去の話ではないのか、現代にあってミャンマーやシリアと同レベルで恥ずかしくないのか、ではない。軍隊とは本質的に恥ずかしくて危険なもの、できればこの世に存在しない方がいいものなのだ。繰り返すが9条はそういう話のはずで、ここに論理の飛躍は一切ない。
話をあえて脱線させるが、日本人は恐らく「尊敬に値する軍隊」を近現代において認知したことがなく(自衛隊は日々努力し結果も出しているものと思うが、まあ個人単位で時々変なの沸いてはいるしなとも)、また「軍隊に対する正しい尊敬の仕方」も習得していない。これらは良い手本となる先達国があるのか、またそこから学ぶだけでどうにかなるものなのか、は良く分からないが、これからでも議論はあっても良いと思う。国民に銃を向けない軍隊や近似組織は当たり前ではなく、どうにかして作り続けなければいけないものではなかろうか。「デモ中に鉄砲を掴んだら危ないぞ」ぐらいは正直それはそう程度の反射的感想でもありえるところで、大事なのはわざわざそこを起点にしてまで危険な発言をすること等を阻止することであろう。
また別の方向に脱線させれば、日本人はまた「イデオロギーの基に生きて、時々うっかりイデオロギーのために死ぬ」という生活を想像できないのではないか。国益になるなら自他のイデオロギーを問わない、というのはネトウヨの根底の(ごく一部ではあろうが)どこかにあるし、本来それ自体はあまり頭ごなしに否定するものでもない気がする。
逆に言えば、日本国民はネトウヨの「9条のせいで日本が駄目になる」という妄言を、妄言ではなく実際に真剣に実現する義務を怠っている。9条を守って国体の崩壊や日本国民の財産、生命が著しく損害を受ける事態になれば、それは国際社会において極めて重宝される歴史や教訓となるはずであり、「お国のために死ぬ」より数十段もマシな「お世界のために死ぬ」が実現するにはする。これは割と皮肉や冗談ではなくて、一国の利益がために他国を侵略するという不正義の対極である以上、国際社会はそこに何らかの価値と教訓を見出し称揚する責務が存在するはずだ(責をさぼる可能性は大分あるが)。国際社会への貢献とはそのようなものであり、できないのであれば素直に「すみません終戦時点ではアジア諸国をマジで見下していて方々に攻め入るだけの国力を持つに至るとは思っていませんでした。完全に大東亜共栄圏脳のまんまでした。これからは行きすぎない程度の暴力装置で自由と民主主義のために集団的自衛権とかPKFとかぐらいはします」と謝罪したうえで改憲議論でもしたほうがよろしい。
話をタイトルに戻せば、価値観を共有できない国とどう向き合うのか、というより「友好的に向き合ってはいけない」という、普通は世界各国と仲良くするのは良いことでは……?という直感に反するイデオロギー準拠の行動指針にどう向き合えばいいのか、(すぐ撃てばいいという話では断じてないことこそをも含め)考えなければいけない訳である。もちろん「考えなければいけない」などというみっともない文末はよろしくないのだが、これはもう完全にしようがない。