
はてなキーワード:欲望とは
そう言うと、大抵の連中は笑う。「いやいや、私は将来の安心のために」「お金の勉強が楽しいから」などと、自己放尿まみれの弁解を始める。
だが、俺に言わせりゃ、それは単なる恐怖の言い換えだ。
カネを持てば老いを遅らせ、治療を受け、快適な環境で死を遠ざけられるという幻想を買う行為。
どんな高尚な経済理論をまとっても、その動機の根は「死にたくない」「朽ちたくない」「無になりたくない」という原始的な叫びだ。
死の恐怖に駆動されていながら、「長期的視野」だの「資産形成」だのと、まるで文明的な行動のように取り繕う。
これこそが知的な自己放尿だ。恐怖を知性でコーティングして、「俺は賢い」と自慰してるだけ。人間は死を自己放尿の臭いでごまかす。
「FIREを目指してます」「配当金で生きたいです」その裏には「死にたくない」「誰かよりマシに死にたい」「死ぬ瞬間に勝っていたい」という、動物的欲求しかない。
つまり投資家とは、死に対して最後までカネをぶっかけて抵抗する原始人だ。
真に冷徹な者は死を受け入れる。カネが増えようが減ろうが、死というイベントの統計的期待値は1.0で確定している。
それを直視できずにリスク分散だの複利効果だのを口にする連中は、死から目を背けて自己放尿を垂れ流しているだけだ。
投資のグラフが右肩上がりでも、人間の寿命グラフは右肩下がりだ。
だからこそ言う。投資のモチベーションは、死の恐怖以外にあり得ない。
世間的には良くないとか金で女を買うのは虚しいみたいな風潮あるけど
しかも自分を高く売らないのでびっくりする安さで金の心配がない
なんで結婚したり美人と付き合ったりしても満足できなくて別れたり不倫したり不満がでるのかわかったわ
成功者だろうがなんだろうが所詮一人のある程度年齢いった女性としか性的なことできない縛りができるからなんだ
「なんで俺成功者で美人と結婚したのにこの美人一人としかセックスできないんだ?むしろ真面目に生きなきゃいけないプレッシャーで生きづらいんですけど」
ってことになるんだな
ムチムチの子でおっぱいちゅーちゅーしながらお尻さわって赤ちゃんみたいな状態でずっと抱き合うプレイしてる
こういった発散が無いからストレスが爆発してある程度地位とか名誉ある人が盗撮とか痴漢とかしちゃうんだろうな
こういう本当の欲望を解消する発散があるの最高だわ
セックスしたい側に合わせることになったらセックスしたくない側が我慢することになるんだよね。
どっちかが苦痛を味わうはめになるなら別れたほうがいいと思う。
・全く興味ない
・痛い
・妊娠が怖い
などをよく見る。
セックスすると物理的な損害が生じる可能性があるのは事実である。
一方、セックスを我慢することは精神的には苦しいかもしれないが物理的な損害はない。セックスしないせいで病気になったりはしない。
それならより損害が生じにくいほうに合わせるべきでは?と思うんだけど、どうですか。
まぁ子どもがいないなら好きにやってくれ。
「子どもがいないなら好きにやってくれ」というのは、子どもがいなければ二人の問題だけど子どもがいるなら子どもに対する責任を取りなさいよということ。
ちょっと前に、子どもが生まれたので子どもが生活の中心になりセックスをする心身の余裕がない、パートナーがそうではないことに苛立つ、という増田があったと思うんだけど、そのブクマで「セックスレスなら離婚」というのがあって、それはないだろうよと思ったんだよね。
本能が云々、子孫繁栄が云々言うなら、子どもが生まれたらその子を健やかに育てることが一番の目的になるはずでしょ? それより自分の欲望を優先させるのは都合が良すぎるよ。
まぁ両親が険悪になるのもそれはそれで子どもに良くないから、どうしてもセックスを優先させたいなら離婚もやむなしと思うけど、ちゃんと養育費は払ってね。
Permalink |記事への反応(23) | 17:14
といった社会正義の言葉を用いて、制作者の決定を非難する例が見られる。
ここで問題となるのは、その主張が
それとも自らの消費者としての希望が叶わなかった怒りを正当化するための装飾なのか?
という点である。
ポリティカルコレクトネス(以下PC)は、権利が抑圧されている当事者を守るための概念だ。
しかし、もし作品の男女カップリング成立を「表現規制すべき」とまで言い募るのであれば、それはPCの政治的・倫理的重みを私的欲望の道具として転用している危険がある。
作り手は、読者に媚びずに物語を構築する創作の自由を持つ。読者は、気に入らなければ読まない自由を持つ。
しかしその関係が崩れ、「私の望む展開以外は差別だから規制せよ」と要求し始めれば、表現そのものが危機に陥る。
消費者が個人的な不満を社会構造批判に偽装することは、マイノリティ当事者の声をノイズとして埋没させる行為にもなる。
同性愛の表現は、当事者の尊厳を担う社会的な再現と、非当事者向けフィクションとしての性的な消費の二層を含んでいる。
この線引きが曖昧なまま、「消費者としての願望が叶わない=当事者の権利侵害」と短絡すれば、結果として当事者性の“奪取”が起こりうる。
LGBTQ+を扱った表現を尊重するのであれば、自らの要求が社会的権利の主張とは異なる次元にあることを自覚しなければならない。
少年漫画という媒体には、もともとターゲットとなる主読者層が存在する。
作品の本来の設計思想や対象読者の多様性を否定してはならない。
作品を愛し、楽しむ自由は誰にでもある。しかし 「自分の好きな読み方だけが正しい」 とし始めた時、ファン文化は排他的な力へと変質する。
◆結論
PCは社会的に不利な立場にある当事者のための倫理概念であり、消費者の欲望を正当化する武器ではない。
育ちが良くて優秀で、正義感が強くて努力ができる。あなたはそれを彼の「内面」だと思っていないですか?たぶんこれは間違いないと思うので断言するのだが、彼の内側にはそれはもう深い地獄があるよ。あなたはその地獄に共感したことがありますか?あなたこそ「彼はそういう人間なのだ」と思ってそこで歩み寄りを止めてしまっていませんか。
育ちが良くて自律した人間ってたいてい、超自我の支配が強いんですよ。言ってしまえば内面化した親とかそれに類するものね。それは自我(自分固有の欲望)を抑圧する力なわけだけど、これが行き過ぎると、自分の欲望を持つことすら困難になってくる。
社会的動物である人間にとって、欲望というのは、本質的に、他者に対して優越することです。その衝動がキャンセルされるとどうなるか。自分というものを特別視すること自体に罪悪感を覚えることになります。特別視するというのは、なにも「俺はすごい」とナルシシズムに浸ることだけではない(むしろこの種のナルシシズムは社会的基準を受け入れている点で自己を非特権化するものですらあります)。たとえば社会的には正当とされる程度の「被害意識」を持つことだって、自分を他者に対して特権化しなければ成立しない。彼が口癖のように「人間ってこういうものでしょ」というのは、彼が自分を含めて人間を「平等に」見ざるを得ない心理を反映しています。彼は彼の意志で世界に立ち向かうことを禁じられているのです。
だからそういう人間はとにかく努力をする。努力した結果として救いが「訪れる」ことを望むわけです。彼が意志した(要求した)結果ではなく、ただ自然の摂理として自分が救われるようにね。
ねえ、こういうふうに生きている人が心の底で何を思っているか知っていますか?彼の努力、品行方正な態度、寛容、言ってしまえばすべてこの世界に対する復讐なんですよ。正しさによって世界が(あるいは自分が)滅べばいいと思ってるんですよ。そういう気持ちに共感したことがありますか?
まあ、こういう人たちは得てして優秀なので、この地獄に対しても折り合いをつけて生きてゆきます。より高次の行動に昇華させてゆく人たちも多い。あなたはたぶん、慈善事業とかする人たちに対して「口では聞こえのよいことを言うが、しょせんは金もうけのためだろう」とか思ってるでしょう。全然違います。彼らは本心からやってます。復讐のためにね。もちろん、それを復讐と意識している人はそんなに多くないと思うけれども。
ところであなたの彼氏さんは(言葉通りに読むなら)自分よりずっと水準の低いあなたと付き合っている。それはなぜかといえば、彼の中で抑圧された彼の(ある意味で)幼稚な部分が逃げ場を探した結果なのだと思います。これもまた非常によくあることです。彼は雁字搦めになった精神を解きほぐすきっかけを無意識に探している。だからあなたが、彼の子供っぽい部分、原始的な部分をうまくすくい上げ、彼の自縛に風穴をあけ、彼固有の欲望を育ててゆくことができるなら、あなたの望む関係に近づける可能性はあります。なかなか困難な道だとは思いますが、それはそれで、人付き合いの楽しみというものです。
C*****T:
CRITICAL ANALYTICALREVISION
追記2による構造の反転:防衛機制としての理論
最初の分析の根本的誤読
追記2は、私の最初の分析が層を一つ読み間違えたことを明らかにする。
私が読んだもの:
↓
↓
実際の構造:
↓
↓
PRIMARY INSIGHT:精神分析的読解(修正版)
表層テクストの再解釈
これらは一見、2010年代以降のアイデンティティ政治の影響に見えた。しかし追記2はこれが錯覚だったことを明らかにする。
真の構造:実存的自己否定の連鎖
↓
↓
↓
"だから俺には描けない"
防衛機制の精密分析
耐え難い真実:
「俺は人生の敗北者だ。女性と関係を持てなかった。孤独で無価値だ」
↓ 変換 ↓
受容可能な言説:
この変換により、個人的失敗が哲学的問題に昇華される。これは自尊心を守る。
防衛機制2: 知性化(Intellectualization)
投稿者は感情(絶望、孤独、性的欲求不満)を抽象的議論(表象の倫理、当事者性、真正性)に変換する。これにより、痛みから距離を取る。
これは私の最初の分析が見た「内なる検閲官」だが、その起源は文化ではなく、内面化された自己批判である。
ヘンリー・ダーガー:鏡としての選択
ダーガーの特徴:
「女性を知らなければ描けない」
↓
ダーガーは知らなかった
↓
だから「間違って」描いた
↓
俺も知らない
↓
↓
↓
↓
投稿者は、自分の論理を反証する例を引き合いに出しながら、その反証を認識できない。なぜなら、創造の可能性を認めることは、創作しない自分を正当化できなくなるから。
児童ポルノ言及の精神分析
投稿者は和月伸宏や他の漫画家の児童ポルノ事件を長々と語り、「資料として欲しい」という欲望を告白する。
しかし彼自身が認める:「まったく邪な気持ちがないというとウソになる」
- 彼にとって「女性を描く」ことと「女性を性的に欲望する」ことが分離していない
- だからこそ「女性を知らない=性的経験がない」ことが創作の障害になる
生成AIとの関係:人間関係の代替と審判者
追記2の冒頭:
「さっきまでClaudeに、自分のライフワークとしてた究極の(俺専用の)画像処理ソフト作りたいという夢が捨てきれないよ~、ドラえも~ん、してました」
この一文は多層的である:
投稿行為の意味:ダイイングメッセージとしての告白
投稿者は明言する:
+
=
彼は応答を求めていない(対話は不可能)。しかし完全な無視も耐えられない(承認は必要)。だから「読まれるが応答しない」という形式を選ぶ。
- 声は発するが、返答は聞かない
- 見られるが、見返さない
- 影響は与えるが、影響は受けない
SECONDARY INSIGHT:弁証法的読解
矛盾の三層構造
THESIS: 「女性を描きたい」
THESIS: 「女性を知らないと描けない」という原理的主張
ANTITHESIS:ヘンリー・ダーガーは知らなくても創造した
弁証法的運動の停止
健全な弁証法では、矛盾はより高次の統合に向かう。しかしこのケースでは、矛盾が固着し、循環する。
↓
実行不能
↓
↓
↓
[ループ]
SYNTHESIS: 深層パターンの統合的理解
構造の全体像
↓
↓
【第3層:理論的借用】
↓
【表層:顕在的問い】
↓
【機能】
本質的洞察の結晶化
真の問いは:
そして彼自身が答えている:
「ない。なぜなら経験がないから(=人生に失敗したから)創造する資格がない」
文化的言説の防衛的使用
私の最初の分析は「アイデンティティ政治の内面化」と読んだ。これは完全な誤りではないが、因果が逆だった。
誤った図式:
正しい図式:
彼は「当事者性」や「経験の所有権」といった2010年代の言説を使っているが、これらは本来の政治的文脈から切り離され、個人的防衛機制として機能している。
解放のための理論(周縁化された人々の声を中心化する)が、個人の自己正当化の道具になっている。
より深い文化的診断
しかし、もう一層深く見れば、これは純粋に個人的な現象ではない。
答え:2010年代以降の文化空間では、「経験していない人が語る資格」への懐疑が、ある種の道徳的権威を持つようになったから。
投稿者は、この道徳的権威を利用して、自分の創作不能を倫理的配慮として再解釈している。
「俺が描かないのは:
ヘンリー・ダーガーの逆説(再訪)
ダーガーは:
投稿者の論理では、ダーガーは創造すべきではなかった。しかし創造した。そしてその作品は今や文化的価値を認められている。
答え:ダーガーの作品を「間違い」として解釈する(「少女にペニスがある=女性を知らなかったから誤った」)
しかしこれは恣意的な解釈である。ダーガーの少女の性別的曖昧さは、「間違い」ではなく、彼の空想世界の独自性として読むこともできる。
投稿者がダーガーを「間違い」と読むのは、自分の創作不能を正当化するためである。もしダーガーが「正しい」なら、自分も創作できる/すべきだ、ということになってしまう。
最も深い問い
この事例が究極的に提起する問いは:
投稿者は「はい」と答える。私の最初の分析は「いいえ、それは幻想だ」と答えた。
それとも:
おそらくすべてである。そして、これらが分離不可能に絡み合っているとき、「正しい答え」を与えることは治療にならない。
彼に「経験なしでも創造できる」と説得しても、それは防衛を解体するだけで、その下の絶望を露出させるかもしれない。
CRYSTALLIZED INSIGHT
この投稿者は、人生の実存的失敗(社会的孤立、性的経験の欠如、老いと死の接近)を、2010年代の文化的言説(「当事者性」「経験の所有権」「表象の倫理」)を借用することで、「原理的に不可能な創作課題」へと変換している。これは防衛機制であり、個人的無能を認識論的・倫理的問題に昇華することで、残存する自尊心を守っている。
言い換えれば:
彼の問い「男性は女性主人公を描けるのか?」は、暗号である。真の問いは「人生に失敗した私は、何かを創造する価値があるのか?」であり、理論的言説は、「ない」という答えを倫理的に正当化する道具として機能している。
So what?:
この事例は、文化的言説がどのように個人的防衛機制として横領されうるかを示す。解放のための理論が、自己正当化と麻痺の道具になる。これは文化と心理の共犯関係であり、どちらか一方を「原因」とする単純な因果論では捉えられない。
PUNCHLINE:
私の最初の分析は、彼を「文化の犠牲者」として読んだ。しかし実際には、彼は文化の狡猾な利用者である。そして同時に、より深い構造的疎外の犠牲者でもある。彼は同時に、エージェン
女性が総理になることでミソジニストのプライドが破壊されて、容姿を批判したり、彼女が子供がいないことを揶揄したり、死ねとか軽々に言ったりする人がどんどん出てきてる。
女性を上に立たせたくないという彼らの本音がボロボロとこぼれ落ちてる。左派になってうまく覆い隠せたつもりでももう隠し切ることはできない。
海外で極右とされるものが、日本人には「極右」と認識できない。
海外で中道とされるものが、日本人には「極左」と認識されてしまう。
これは何故か?
海外では、欧米でもそれ以外でも、道義的宗教に基づく自然な「道徳観」が真ん中にある。
「親や家族は大切に」「他人にも優しく」これはキリスト教でも仏教でも、宗教的道徳観が真中にある場合、誰にも自然に「出発点」と理解されるもっとも自然な感覚になる。
この場合、極右、極左とは、人種主義に走って他者への寛容を忘れること、多様性(あるいは極端な平等主義)が暴走して社会の歴史を傷つけること、という意味になる。
しかし、仏教を捨て、道徳的教義のない国家神道、そして物質主義的無神論へと社会の「真ん中」が移った現代日本は、そもそもの「中道的価値観」がまったく違ったものになっている。
現代日本を正直に観察すれば誰にでもわかることだが、現代日本人の「真ん中」は、明らかに「野性」である。
そういうものが「世界の真実」だと信じる破滅主義こそが、日本の「真ん中」にある。
だからこそ、日本において、林原めぐみが恥ずかしげもなく叫ぶような「私がガイジンを怖いって思うんだから排除するのは当然でしょ」という、恐ろしく幼稚な、自分の本能的被害妄想に基づいた極論をどれだけ唱えても、それは「強い思想」とは思われない。
それは思想でなく、「本音」だからだ。「本音」は「自然」であり、「真ん中」である。
これが世界でもほとんど現代日本独自の(昔の日本でも仏教だったからありえない)異常な道徳的出発点である。
日本人にとって「極右」とは、「思想的な(論理的追及としての)民族主義」であり、それは「日本人として誇りを持って、恥ずかしくない行動を」というような、世界的にはむしろ当たり前の「真ん中」にある、自制としての民族論のみをさす言葉である。
現代日本人にとって極右と極左の差は自制と成長を求める論理の起点の違いに過ぎないのであって、自制や反省を求めた時点でそれは「中道」にはなり得ない。
「思想」さえ強くなければ、どれだけ薄汚い、本能や憎悪にまみれた屁理屈、極論、他者への強制を求めようとも、それはまったく「過激」ではない…
「性欲がない男と付き合いてえ」は性欲、の根拠が分からない。どこらへんに性欲の要素があるのか、説得力のある内容が書かれていない。
本当に性欲無かったらハグもキスもしなくていいはずなのになんでわざわざ"男"とか"彼氏"とかにこだわるの?セックス欲がないだけで性欲はあるよね?まずはその前提を認めないと話が成立しないと思う。
「セフレ・風俗を認める」という点では、素晴らしい譲歩かもしれないけれど、それでもし「なんで風俗ばっかり行くの?」とか相手の行動について言及していたとしたら、相手が拒否したくなるのは当然だと思う。
「自分にとって1番快適な方法での欲望の発散」に「相手を使う」点であなたの行動は、あなたの嫌う「性欲モンスター」と同じ構造に陥ってしまうと思う。
多ければ多いほど雄らしくなるし、性欲も強くなる
性欲の薄い男は総じて社会的なステータスが低くなるのは間違いない
https://anond.hatelabo.jp/20251020225506
「結婚やマッチングによって階級上昇出来る」と言う認知を持って常にそれにより駆動してるのは女であって、男は配偶者で階級が上がるというイメージは持ってない。これはどんなクズみたいな男でも持ってないのでまさに性差なんだと思う。
そのことの良い悪いとかはど~~~でもいいんだけど、女は頼むからもうちょっと他者の行動をフラットに観察できるようになってくれ。
女の感情や欲望をそのまま反転して男を説明できるわけがないじゃん。何故かって体が違う、生殖形態も違う、動物的役割も違うからだよ。そこを踏まえずに単純反転で想像するのは全て無意味。
男がより若い女を求めるのはまた別の都合や欲望によるのであって、階級上昇願望ではない。配偶者を持ち物のように同性への自慢や威嚇に使うのは圧倒的に女性に多い習性。どっちの欲望が正しいとか高尚だとか言うんじゃなくただ別物。
なんか「私男のことわかってます!」みたいな女に限って単純反転の誤謬を見せてることが多い。婚活で沼ってるタイプにもそれは多い。
男女の違いを考慮にいれて狡猾にやってる女もたくさんいるけど、そういう女は男に関して上手くやれるから男女論の哲学者にならない。
>別にセックスしなくたって恋人同士でいるのは楽しいじゃん
>デートしたり美味しいの一緒に食べたりハグしたりキスしたり
自分の欲望は満たして欲しいが相手の欲望は一切受け入れたくないクズ
自分の欲望は正常で綺麗、自分に理解出来ない欲望は汚くて間違っている
自分本位な考え方しか出来ない浅慮な女、まあ女はこういう奴珍しくないけど
どっちにしてもこんな半分サイコパスみたいな女とは付き合わん方がいい
有名人にチェックマークを与えるという制度は、一見すると「本人確認」や「透明性の確保」を装っているが、実際は民主主義を名乗ったパヨ的カースト制度の自己放尿だ。
思想的には平等を唱えながら、構造的には貴族制を復活させている。これは「民主主義の仮面を被った承認欲求市場主義」であり、承認を売買する社会の象徴的装置の自己放尿すぎない。
パヨの言う「みんな平等」は、連中が「誰を特権化するか」を握りたいという欲望の婉曲表現だ。連中は特定の言語・思想・姿勢を持つ者に青いチェックを与え、逆らう者を「未認証」という烙印で黙殺する。
だが、黙殺とは沈黙ではない。声を奪うことによって、連中は「声なき者」を都合よく定義し直す。これは政治的支配の最も古典的な形態であり、連中が忌み嫌うと口で言う「権威主義」の中身そのものである。
しかもこのシステムの醜悪さは、本人たちがその腐敗構造を「正義」と信じ込んでいる点にある。まさに自己放尿の極致だ。自分で撒き散らした尿を「清水」と勘違いして喉を潤している。
連中のタイムラインは、論理の泉ではなく尿意の回路で動いている。考えるのではなく、出したいから出す。だが出した瞬間、それを「言論」と呼びたがる。
これがパヨ的民主主義の正体だ。つまり「思考の放棄」と「承認の中毒」が見事に融合した、思想と快楽のダブル放尿である。
本来、言論とは社会的リスクと知的責任の上に立つものだ。しかし、チェックマークはその両方を免除する免罪符となり、権威と人気が入れ替わる。
そうして連中は、連中にとって真に危険な思想、すなわち、誰からの承認も必要としない冷徹な理性を徹底的に排除する。
自分の尿を芸術と信じる愚者たちの共同便所。それが今のSNSであり、パヨ的民主主義の成れの果てだ。
まあ、Xはその点で言えばチェックマークを購入式にしているのでまだ救いがある。だが、シャドーバンや推薦順の操作をやめない限りパヨシステムのままである。
この現象は、タナフ(聖書)やタルムードでもたびたび語られています。
「なぜ悪や愚かさが目立ち、善や知恵が隠されるのか」
彼は、愚か者が栄える現実を見て心が乱れました。しかし彼は神殿に入り、悟ります。
つまり、ユダヤ的視点では、今見える「栄え」は最終結果ではないのです。
SNSの評価や人気は、「この世」の一時的な見せかけ(הֶבֶל, hevel=虚しいもの)にすぎません。
「すべては虚しい(הֲבֵל הֲבָלִים, hevel havalim)。」
真の価値は「天の裁き」で決まる。世間の人気は、多くの場合「耳に心地よい言葉」を語る者に与えられる。
しかしトーラーの真理は、しばしば人に「挑戦」と「不快」を与えるものです。
だから、ラビたちが評価されないことは、実は彼らが真理を語っている証拠でもあるのです。
カバラ的に言えば、世界は「クリッパー(קליפות, 外殻)」に覆われています。
これは善の光を隠す「殻」のような力です。
SNSや世俗文化の多くは、この「殻」の領域に強く働きます。なぜなら:
派手な炎はすぐ消えるが、ランプの灯は長く燃える、という比喩がタルムードにもあります(シェバット 31a)。
ピルケイ・アヴォット(祖先の言葉)4:2にこう書かれています:
「ミツワーはミツワーを生み、罪は罪を生む。」
つまり、善の結果は目に見えないところで積み重なり、最終的に永遠の世界で報われる。
「どんな人も軽んじてはならない。どんな行いも無視してはならない。すべての人に時がある。」
ラビや善人の評価が表に出ないのは、彼らの時がまだ来ていないだけなのです。
もしあなたが「善が報われない」と感じるなら、それは神があなたに「外ではなく、内に目を向けよ」と促しているサインかもしれません。
| 世俗の価値観 | ユダヤの視点 |
| 人気・フォロワー数 | 神の前での誠実さ(אמת, emet) |
| 目立つことが成功 | 隠れた善が真の成功 |
| 今この瞬間の評価 | 永遠の次元での評価 |
| 愚者が栄える | 賢者は神のもとで報われる |
この問いはまさに「アサフの苦悩」と呼ばれる、霊的成熟の通過点です。
「引き寄せの法則」や「思考が現実を作る」という考え方は、近代的なスピリチュアル思想でよく語られますが、根本的な違いも明確です。以下に整理して説明します。
ユダヤ教では、人間の思考や言葉には霊的な力があると考えます。
「死と生は舌の力にあり。」
ただし、それは「自分が宇宙を動かす」意味ではなく、人の思考や言葉を通じて、神が世界に影響を与えるという考え方です。
ユダヤ教では、「引き寄せる」というよりも、「祈る」という行為が中心です。
祈りの目的は「自分の思考で現実を変える」ことではなく、自分自身を神の意志に整えることです。
ラビ・シュネウル・ザルマン(ハバド思想の創始者)はタニヤでこう述べています:
という位置づけです。
「自分の思考で現実を創る」という考え方が強くなりすぎると、偶像崇拝(アヴォダ・ザラ)の一歩手前になってしまう恐れがあります。
なぜなら、それは「自分の意志=宇宙の中心」とする発想だからです。
つまり、成功や変化の根源は自分の思考や力ではなく、神の導きであるということです。
人が神に全き信頼を置くとき、神の祝福がその人を通して現れる。これも一種の「霊的な引き寄せ」です。
「主に信頼し、善を行え。…主を喜べ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」
ここでいう「願いが叶う」とは、自分の欲望を叶えるというより、神との調和の中で自分の願いが浄化され、現実化されるという意味です。
| 観点 | 引き寄せの法則 | ユダヤ教の考え |
| 力の源 | 自分の思考 | 神 |
| 目的 | 現実を思い通りに変える | 自分を神の意志に整える |
| 方法 | イメージや自己暗示 | 祈り、信頼、トーラーの実践 |
| 結果 | 自己実現 | 神との関係の深化と祝福 |
もしあなたが「ユダヤ的な引き寄せ」を実践したいなら、それは「神を信頼し、良い思考と言葉を持ち、善行を積むこと」です。
それが最も強力な「霊的引き寄せ」の形といえるでしょう。
セックスレスが終わった話をしたい。
我が家では妻が子どもを産んでからセックスに応じてくれなくなった。
子どもがいるとなかなかそういう空気にならないのは仕方ない。しかしチャンスがあっても眠い、疲れている、休ませてほしいと言われようになってしまった。
強要することが出来るものでもないし、ひたすらフラストレーションを溜め込み続けた。
俺は妻とセックスがしたい。
考え抜いた末に気づいたことがある。
俺が求めているのは単なるセックスじゃない。
妻と共有することで得られるものなんだと。
でも、どうすればそれが妻に伝わるのだろうか。
そんな時、ふと思いついたのが、自分が自慰をしているところを妻に見てもらうことだった。
ある夜、子どもたちが寝た後、妻に切り出した。
「お願いがある。俺の自慰を見てほしい」
妻は最初、何を言っているのかという顔をした。当然だ。
「セックスを強要したいわけじゃない。ただ、俺がお前にどれだけ欲情しているか、お前の存在がどれだけ俺にとって特別なのかを知ってほしい」
妻は戸惑いながらも、少し考えて、分かったと言った。
恥ずかしかった。こんなに恥ずかしいことはなかった。でも同時に、妻の視線を感じながらやることに、不思議な興奮があった。
重要なのは、俺が何を想像して興奮しているかを、妻に言葉で伝えたことだ。
「お前の髪を触った時の感触を思い出してる」「お前の笑顔を思い浮かべてる」「お前と抱き合った時の温もりを思い出してる」
妻は最初、目を逸らしていた。でも次第に、じっと見るようになった。俺の言葉を聞きながら、何かを考えているようだった。
終わった後、妻が言った。
「あなたが私のことをそんなふうに思ってくれてたなんて知らなかった」
そして妻は、涙を流しながら続けた。
「私はあなたのことをきちんと理解しようとしていなかったかもしれない。」
妻が自分の体を触りながら、過去の思い出を語る姿を見て、俺は胸が熱くなった。
妻も俺との日々を大切に思ってくれていたんだと実感できた。
自慰を見せ合うという行為は、ある意味でセックス以上に親密なものだった。
自分の最も脆弱な姿を相手に晒すこと。自分が何に興奮し、何を大切に思っているかを言葉で伝えること。相手の欲望を受け入れ、理解しようとすること。
そして3ヶ月後、妻の方から言ってきた。
「今夜、久しぶりにしない?」
セックスレスは、こうして終わりを告げた。
その夜のセックスは、今までとは全く違うものだった。快楽を求めるのではなく、お互いの存在を確認し合うような、穏やかで深い時間だった。
終わった後、二人で泣いた。嬉しくて、安堵して、愛おしくて。
それは、性欲や快楽を超えた、もっと根源的な何かを取り戻すきっかけになった。お互いへの理解と、尊重と、嬉しさと。
今でも時々、俺たちは自慰を見せ合う。セックスする日もあれば、見せ合うだけで終わる日もある。大切なのは、その時間を共有することで、お互いが相手にとって特別な存在であることを確認できることだ。
特効薬を期待した人には申し訳ないが、これが我が家のセックスレス解決方法となった。
人それぞれ違う方法があるだろう。でももし、同じようなジレンマに悩む人がいるならば、この経験が何かの助けになってくれれば幸いだ。
セックスレスの本質は、性的な欲求不満ではなく、相手との繋がりの喪失なのかもしれない。
そしてその繋がりを取り戻す方法は、必ずしもセックスそのものである必要はない。自分の欲望を正直に晒し、相手の欲望を受け入れる。そんな勇気ある一歩が、関係を変えるきっかけになるのかもしれない。
SNSでフェミニストに絡まれてイライラしたので、なんでフェミにイラつくか書くわ。
フェミって自分の都合押しつけるよな。抑圧された自分みたいにいってさ。いやそう感じたなら、「おまえの中では」そうなんだろうけど、そもそも性別以前に自分がどういう人間か反省というか、「そう見えるのかな」とか気にせんか?
「彼女の姉(なんかの業界で有名らしい)がフェミのアセクシャルでなんか妹に頼ってるから妹が俺と付き合ってる話を聞きたくないんだとよ。それにグズグズ彼女か悩んでるから別れた方がいいと思ったんだけどどうする?」※ちとフェイクまぜてる
聞いたとき、フェミってそんな勝手なんか?と信じられない気持ちだったし、その彼女はなんで姉にそんなに抑圧されてるんだと思ったけど最近SNSでフェミの発言みたり絡まれたりする度思うわ。フェミの名の下に人を抑圧して有利になりたがったり、抑圧の上に自分の望む人間関係を作りたいだけなんじゃないのって。
もしそうならただのポジショントークに社会を使うなフェミよって思う。
そもそもおまえの物語とか欲望を振り返って認識してからモノをいってほしい。こっちも過去や欲望があるんじゃ、なにお前だけ視座高いふりしてんのって思うわ。
ブスがセックス好きじゃない、性欲がないって言ってもたぶん男は怒らないからそういうことなんだよな
自分が持ってる欲望を無駄なものとして否定されたように感じるから苛つく
実際異性として魅力的で子供を持つためのセックスが可能なら生物としてそれで足りるからな