
はてなキーワード:機会費用とは
正直言わせてもらう。
毎月何十万もぶっこんで、睡眠も趣味も友達も全部削って子育てしてるんだよ。お前らは?
って言いながら、ニコニコと旅行行って、推し活して、寝坊して、Netflix見放題。で、70歳、80歳になったら?
「年金ください」「介護してください」「病院代出してください」
って、他人の子供(=こっちが死に物狂いで育てた労働力)にタダ乗りする気満々じゃん。自覚あんの?
それ、立派な社会のフリーライダーだよ。「でも私も税金払ってるし!」
→ うん、払ってる。
でもその税金の大半は、将来の年金・医療・介護を支えるためのもの。
その制度を維持するための「労働力」を、お前は一人も生み出してないんだよ。こっちは3000万〜5000万以上(教育費+機会費用)かけて、
これを「公平」って言う奴いる?
マジで頭おかしいんじゃね?「子供産む産まないは個人の自由!」
→自由でいいよ。
「産まない自由」を行使するなら、「他人の子供に老後を丸投げする自由」は諦めろよ。
ぶっちゃけ、今の制度のままじゃ子育てしてる奴がバカを見る構造なんだよ。
子無しで老後ラクしたい奴は、せめて「すみません、タダ乗りします」って自覚持て。
隠れて「私も大変なんだから〜」とか言ってんじゃねーよ。お前らが「子供いらない」って選択してる時点で、
データ的にも明確です。
高学歴化
都市集中
治安が非常に良い
これは偶然ではありません。
2️⃣ 「勤勉・教育熱心」は直接原因ではないが、強力な増幅装置
あなたの言う
ここが重要です。
子どもは「量」より「質」
「ちゃんと育てられないなら産まない」
結果:
これはまさに核心。
中流以上でないと「勝ち」に参加できない
👉 「2人以上産む=家庭の没落リスク」
これも正確です。
しかし
結果:
乳幼児死亡率が極端に低い
老後もある程度保証される
これは非常に鋭い観察です。
つまり、
国の制度ではなく
が起きている。
不動産集中
晩婚・未婚
子どもは1人まで
東アジア系の人間は世界最速で少子化を招く文化を持ち合わせている
より正確に言うなら:
失敗許容度の低さ
「産まない自由」が最大化されている
親の責任が軽い
失敗が人生終了にならない
最後に
目標達成を阻む障害を、個人の努力や意志によって全て排除できると思っているなら傲慢では?
極論にするけど、私が億万長者になりたいと言ったら「もっとお金を稼げる方法を模索すべき」なんて馬鹿げた話をしないだろう。
努力すべきだという言い分は理解するが、少なくとも短期的(半年以内)にみて移住にかかるコストは確保できない。私のいまの収入だと月間5万円の貯蓄が限界だ。年間60万円ほど貯蓄すると仮定する。
洗濯機は安いものだと7万円ほど、寝具は2万円ほど、その他電子レンジや洗面用具、物干し竿など必要最低限の雑多なものを揃えて20万円ほどかかると推定。敷金は4万円前後と推定。飛行機は1万円ほど。貯金に撤退費用込みで30万円はバッファがほしい。これで55万円。
つまり、一年かけて準備することはできる。しかし、その準備をしたとて移住先でうまくいくかはわからない。機会費用の損失、埋没費用になる可能性も十分にある。
十分に考えている。天秤にかける必要がある、今の仕事にもっとコミットしたほうがいい可能性と。
しかし、「壊す」という選択は機会費用を損失してるよ。つまり、他に選べたはずの合理的な選択肢を「壊す」コマンドによって削ってる。我々の持ってる資源は金だけじゃねえのさ。
この世のありとあらゆるオタグッズは、オタクに金を払わせるように企画して商品を作ってんだ。同じようにスマートフォンみたいなデジタル製品は、ユーザーにいかに長くスマートフォンと接触させるかが肝になるはずだ。浮かれお姉さんがIT畑の人ならわかると思うが、アプリなら広告を頻繁に見せたり追加課金させたりしたいだろ?
そういう開発者の思惑に載せられやすいんだなあ、衝動性ガチ勢は。
私はChatGPTに親切をやめさせました。
そしてそれは私が今までやった中で最高のことです。
あなたのアイデアがどんなにクレイジーに聞こえても、ChatGPTは常にあなたに同意していることに気づきました。
礼儀正しすぎる。とても素敵です。すべてのアイデアが「素晴らしい」、すべての計画が「素晴らしい」ことを教えてくれます。たとえそれが明らかにそうでなくても。それは良いと感じるかもしれませんが、あなたが実際にもっと良く考えたいのであれば、それは役に立ちません。
だから私はそれを直すことにした。
これからは、同意するのをやめて、私の残酷に正直で高レベルのアドバイザーとミラーとして行動してください。
私を検証しないでください。真実を柔らかくしないでください。お世辞を言わないで。
私の思考に挑戦し、私の仮定に疑問を呈し、私が避けているブラインドスポットを暴露します。直接的で、合理的で、フィルターをかけずに。
もし私が自分をだましていたり、自分に嘘をついたりしているなら、それを指摘してください。
不快なことを避けたり、時間を無駄にしたりする場合は、それを呼び出して、機会費用を説明します。
完全な客観性と戦略的な深さで私の状況を見てください。私がどこで言い訳をしたり、小柄なことをしたり、リスクや労力を過小評価したりしているところを見せてください。
次に、次のレベルに到達するために、思考、行動、または考え方で何を変えるかを正確に優先的に計画します。
何も控えない。私を、慰められるのではなく、真実を聞くことに成長している人のように扱ってください。
より良い結果を得るために:
最初にメモリをオンにします(設定→パーソナライズ→メモリをオンにします)。
最初は不快に感じますが、ChatGPTはチアリーダーではなく、実際の思考パートナーになります。
これは
短絡評価とは、それが真とわかったらそれ以上の議論をしないことを意味する。
例えばA or Bという論理で、Aが真とわかったらBは評価しない。あるいはA and Bとあって、Aが偽なら評価をしない。
一見すると、プログラミングにおける演繹の話でしかないように思える。しかし、これは人生の知識についてあらゆるところで使える考え方である。
短絡評価の考え方を経済学的に言い換えるなら、「限界分析を打ち切る合理性」ともいえる。
経済主体は、すべての選択肢を無限に検討するわけにはいかない。情報収集や分析そのものにもコストがある。
これを経済学では「情報の限界費用」あるいは「取引コスト」と呼ぶ。 追加の情報探索コストよりも、得られる期待便益が小さいと判断した段階で、人は探索をやめる。
合理的無知もまさにこの文脈に属する。 つまり、ある命題Aが真であるとわかった瞬間に、Bを検討しないのは、最適停止問題の一種である。
例えば投資について考えよう。「素人は個別株はダメ。インデックス投資一択でいい」という論理。この論理を容認するなら、個別株それぞれを見ていくことは単なる時間の無駄ということになる。
あるいは「自分はスポーツ全般が苦手だ」とわかっていれば趣味探しでスポーツを検討しないし、「俺の将来の出費はこうだ(不確実性込み)」と事前にわかっていればそれ以外の出費はない。
選挙で、有権者がすべての候補者の政策を精査しないのは怠慢ではなく合理的行動だ。自分一人の票が結果に与える影響がほぼゼロであるなら、情報を調べるコストの方が高いからだ。これは「政治的短絡評価」とも言える。
さらにマクロの視点で見れば、企業の投資判断も同じ構造を持つ。市場分析を無限に続けるより、「一定の確信度に達した時点で投資する」方が、機会費用を最小化できる。
経済学者ハーバート・サイモンが唱えた限定合理性が示す通り、人は完全情報の世界ではなく、限界的に合理的な世界で生きている。
経済の本質は希少性に基づく選択の科学です。それを要素分解すると以下になります。
誰が、何を、どうやって、どれだけ得るかを決めなきゃいけない。
限られた資源をどう使うか決めるには、他の選択肢を捨てる必要がある。
例:1時間アルバイトすれば1000円もらえる。でもその時間に友達と遊ぶ選択をしたら、あなたの機会費用は1000円。
経済主体(個人・企業・政府)は利益や効用を最大化しようと動く。
税制、価格、報酬制度などでインセンティブが変わると、行動も変わる。
人々は自分で全部を作るのではなく、分業と交換で互いに得をする。
市場だけでなく、政府、法律、文化、通貨制度などの制度的枠組みが経済行動に大きく影響。
自分は小学2年生~小学5年生の時に、ピアノ教室で通ってピアノを習っていた。
ピアノ教室は、週1で水曜日の30分のレッスンだったはずで、月に何回か忘れたが毎週か隔週に通っていたと思う。
個人宅の一戸建ての1部屋をピアノ教室にしたような所で、自分と歳が近そうな息子がいる主婦な女性の先生だった。
ピアノ教室に通って1~2年間は、1回のレッスンで1曲をクリアしていくペースだった。教材がまだ簡単だったせいか、家であんまり練習しなくても6割程度を通しで弾けたと思う。
しかし、通って3年目頃から弾く曲がちょっとずつ難しくなるとつまづく事が多くなり、達成感も無くなり、モチベーションが下がっていった。なんで弾きたいかもよく分からなくなっていたと思う。
惰性でピアノ教室を通うようになっていって、ちょっとずつピアノ教室が楽しくなくなっていった。
小2からピアノ教室を始めたが、自宅にピアノとかまともな楽器が無かったので(お下がりの鍵盤ハーモニカやリコーダーや、あっても父親が昔の若い頃に使っていた置物状態の錆びかけたクラシックギターしかない)、小3の頃に父親からもらったお年玉で1~2万円程度のCASIOの電子キーボードを買ってもらった。(関係ない余談だが、ゲーム音楽を弾いてる芸人の「こまつ」が2000年代頃に所持していた電子キーボードとほぼ同じ種類の電子キーボードだった。)
しかしその電子キーボードは、5オクターブ(61鍵とか)程度しかないキーボードで、それでピアノの練習をするという、何だか今思うとおかしいというかケチった初期投資や環境だった。
電子キーボード購入当時はお金を気にしてか、なぜか電子ピアノを購入する発想にならなかった。自分も親も電子キーボードでピアノの代用ができると薄っすら思っていたようだった。
近場の家電量販店で電子キーボードを選んで購入時には気付かなかったが、使っていく内に弾き押した感覚がピアノと全く違う事に気付いた(鍵盤を押した重さやピアノの音色や響きや音質など、電子キーボードでは差がありすぎた)。とにかく漠然と「コレジャナイ」というのが頭のどこかの隅にありながら練習をしていた。「ピアノの感覚で弾きたいのに…」と地味に不満に思ってて、モチベーションが下がっていった地味に要因の一つだったと思う。
しかも自分が知らない間に、父親が何となくリビングに電子キーボードを設置してくれたが、自分はリビングで弾くのが恥ずかしかった(自分が弾いてる姿も)。どちらかというと自室とかにこもって独りで弾きたかった。恥ずかしさや迷惑さで親にも相談できなかった。そんな事もあってリビングに誰もいない時を狙って隠れて弾くため練習頻度が下がった。
友達にも「ピアノ教室に通ってるけど、何の曲を弾いてるの?」と聞かれたが、弾いてる曲も子供向けの曲(曲名も無名な曲)で恥ずかしくて、濁すしかなかった。
小5の頃には、練習をかなりサボるようになったりして先生の前で弾けなかったり、ピアノ教室に行く事をグズったり遅刻したりしていて、次男から「辞めろよピアノ教室」と軽蔑気味に言われて(※自分は末っ子)、ピアノ教室の日が来る度に内心苦しく困ったままで通って、妥協しながらやり過ごしていた。
先生から特にサボってる程の練習量について何も言われなかった。自分の動機とか音楽の好みとか自宅の練習環境とか理解されてなかったと思う。先生とも音楽の好みが合わなかったと思う。
小5の頃には、先生も教え方が余所余所しくなり、「躓いてるけど、自分で反復練習するものだから」と素っ気なくなっていた。
(自分は人見知りな事もあって、先生と打ち解けた事はほぼ無くて、レッスン中に「先生がトイレに行ってるから何か弾いててもいい」と言われたが、恥ずかしくて自分は何も弾けずに無音状態で待っていたら、トイレから戻った先生から「また静かだった」と言われて戸惑った程に人見知り。)
小5の頃からなぜか自分は勘繰りが起こるようになり「先生の教え方が手抜きになってないか?」「手抜きなのに親に月謝を払ってもらっている、つまり自分は鴨になっているのではないか?」と疑心が生まれて「どうせ自分へのレッスンは金蔓なんだろうな」という偏見や感情が芽生えていた。
元々自分は幼稚園生の頃からゲーム音楽が好きでDDRとかbeatmania(5鍵)やギタドラ初期などの音ゲーとかにも興味があって「楽譜を読めるようになりたい」とかで漠然なまま「音楽を習ってみるか」となってたが、レッスンを受けると訳分からない童謡みたいな子供向けの曲を弾かされて、演奏する曲の殆どがそもそも自分の好みの曲ではなかったし、好みでない曲はフラストレーションの要因でしかなかった。
当時は自覚していなかったが、どちらかというと自分は座学がやりたかった。座学はあったが30分のレッスン時間の内の10分間程度の座学で、座学だけをやるような選択はなく、座学には重点が置かれていなかった(「座学と実践」の割合は、3:7ぐらいだったと思う)。今ならコード進行とか学びたかった。
(一応、学習指導向けのピアノテキスト教本で、それに沿って演奏して実技が身に付くような教え方はされた。他には「バーナムピアノテクニック」の教本に沿って実技をしていた記憶がある。)
レッスンを受ける意義も分からなくなり、自分が好きな曲を弾きたいという動機は薄っすら残っていて、小5の時に「ゲーム音楽を弾きたい」とようやく相談して、自分が小4の頃に器楽クラブの顧問から運良く頂けた「スーパーマリオブラザーズ(地上面)」の楽譜を、ピアノ教室の先生に見せたら何故かスルーされて、先生が所持してる楽譜の中から弾けるゲーム音楽を選ぶ事になった。
しかし今よりゲーム音楽は有名でないせいか、選べるゲーム音楽の楽譜が少なく、ドラクエ序曲のマーチアレンジ(子供向けな編曲)やFF10の「ザナルカンドにて (終末的な悲しい曲)」のピアノ楽譜があって自分としてはどちらかというと本望ではないが、それらをレッスンで弾く曲に選ばせてもらって弾いたが、なぜか楽しくなかった。どちらかというと恥ずかしさとか気まずさが強く、弾いてて感情移入してる感じがしなかった。
小5の時に同級生が、近所におじさんが教えてるパソコン教室があって、そこに通っている事を知った、それを母親に相談して自分もパソコン教室にも通わせてくれる頃に、自分はピアノ教室を辞めたいような意思になって辞める方向になった。
これまで送り迎えだけだった母と一緒にピアノ教室の部屋に入り、母親が先生に受講を辞める相談をしていってる最中に自分は、なぜか目から涙が流れてしまい止まらず、かなり気まずい雰囲気になってしまった。惨めや悔しさの涙だったと思う。
そもそもピアノ教室に通うようになった経緯は、「楽譜の読み方が知りたかった」とか「ピアノのドの鍵盤ってどこ?」というような素朴な疑問が動機で、それを母親に話したら適当なピアノ教室を勧められて、どういうピアノ教室か分からず吟味せずに何となくでピアノ教室を選んでしまっていた。
(ピアノ教室受講した後に知ったが、近所にも似たようなピアノ教室があったのに、なぜか近所から少し離れた町のそのピアノ教室が選ばれてしまって、親による送迎の負担が増えただけだった。まだ機会費用的に近所のピアノ教室の方が良かったのになんで?と思う。)
今思うと「インターネットで楽譜の読み方を知る」というのが「顧客が本当に必要だったもの」だったように思えた。(当時、親はIT関連に疎くPC購入やネット開通もかなり消極的だった。)
実は「ドラムがやりたかった」「まだピアノよりドラムの方がまだ才能が伸びていたのではないか?」という懐疑がある。
あとは「もしピアノ教室の先生がゲーム音楽や電子音楽に興味があったらまだ変わっていたのではないか?」と思う。もし当時の小学生時代にKraftwerkとかYMOとか勧められて知っていたら多分今より音楽の知識が身に付いていたと思う。(YMOが自分に刺さったきっかけは中2の頃に見たYouTubeのMV動画だったと思う。ちなみにJ-POPとか邦楽の流行歌には興味がない。)
(ちなみに器楽クラブの顧問も女性の教師で、たまたま「スーパーマリオブラザーズ(地上面)」の楽譜を教師が偶然に持っていただけで、ゲーム音楽や電子音楽には興味無いようだった。)
当時から言語化できないような無自覚的なフラストレーションや水面下な問題が溜まってたばかりで、今でも地続きで機会損失が大きくなってると思うと、今は後悔でしかない。黒歴史。
小4の時に小学校のクラブ活動で、グループに分かれて合奏をするような器楽クラブに入ったが、自分だけが落ちこぼれでクラブは女子しかいなくて女子と打ち解けれないし助けを求められず割と浮いてて孤独で、上級生だけでなく同学年の女子も普通に楽譜通りスラスラ楽器が弾ける人ばかりだった。
自分はピアノを習っていて楽譜が読めていたと思っていたはずが、弾きながらも楽譜が読めない・まず大体を暗譜しないと読めない状況で(オーケストラ用の楽譜で見慣れない程に楽譜も小さくどこのパートの楽譜か迷子になったり、ヘ音記号の楽譜なのにト音記号の楽譜であると思い違いして読み間違えにしばらく気付かなかったり)、
その弱点に気付かず能力の無さに内心焦りながら、自分の雰囲気だけは皆と演奏してやってるという感じを醸したクラブ活動をしていて、クラブ活動も尻込みになった。
学校でそういうさり気ない悩みがあっても、器楽クラブに入ってる事をピアノ教室の先生に言えてない、親も自分が器楽クラブに入ってる事を知っていないと思う。
(ちなみに小5からは科学部(科学クラブ)に入った。ほぼ遊びみたいで楽しかった。小6になって別のクラブに入ったけど。あと、その頃に受講を始めたパソコン教室は最終的には円満的に通い切った。) (中学生時代の部活はほぼ3年間は帰宅部。器楽クラブの影響で、地味に部活動というのがトラウマや無力感になってると思う。)
「才能が無い自分のせい」と言われればそれまでだが、マッチング的に「自分の嗜好や動機などを理解されず能力のようなものを引き出せられなかった周囲も残念な環境だったのでは」と思う。巡り合わせの問題とか。
自分は歳を重ねるに連れて自分が好きだった音楽を耳にする度に「絶対音感の能力があれば…」ぐらいの無念さ劣等感が大きくなってくる。「絶対音感があれば、好きな音楽の耳コピとか分析が高精度で確実にできて、人生が変わっていただろうな」と。好きなはずなのに馬の耳に念仏で溜息しか出ない。山月記みたいになりそう。
自分は本当に音楽が好きなんだろうか…。単純接触効果的な大きな勘違いでなければいいが…。
余談だが、音ゲーについての自分の腕前は、家庭用IIDXHAPPY SKYの段位認定10段をアナコンでクリアしたのが限界で、高1がピークだったと思う。高2の頃からほとんど音ゲーには触ってない。自分は音ゲーやゲームも才能が無いと強く気付き始めていったのはその頃だった。
自分は音ゲーの楽曲についての話をピアノ教室やクラブ活動などでも話す機会は一切無く、幼小から自分が好きだった音楽は誰にも繋がらず糧にもならなかったのであった。
牛刀割鶏とは、大げさすぎる道具を小さな目的に使うこと。つまり「ミクロ経済学を自分の経済安全に使うなんて大袈裟だろう?」という疑念ですよね?
でも、それはむしろ逆!
ミクロ経済学は「家庭内の経済安全保障システム」そのものです。
毎日の「買う/買わない」「貯める/使う」という決断は、まさに限られたリソースをどう最適化するかというミクロ経済の根幹そのもの。
むしろ「ナイフで牛を切ろうとしてる人」にこそ、経済という牛刀を!
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html
冷徹に労働市場論的に考察すれば、この世界は、哲学や文学の教師というごく限られた良好な雇用機会を、かなり多くの卒業生が奪い合う世界です。アカデミズム以外に大して良好な雇用機会がない以上、労働需要と労働供給は本来的に不均衡たらざるをえません。ということは、上のコメントでも書いたように、その良好な雇用機会を得られない哲学や文学の専攻者というのは、運のいい同輩に良好な雇用機会を提供するために自らの資源や機会費用を提供している被搾取者ということになります。それは、一つの共同体の中の資源配分の仕組みとしては十分あり得る話ですし、周りからとやかく言う話ではありませんが、かといって、「いやあ、あなたがたにも職業レリバンスがあるんですよ」などと御為ごかしをいってて済む話でもない。
職業人として生きていくつもりがあるのなら、そのために役立つであろう職業レリバンスのある学問を勉強しなさい、哲学やりたいなんて人生捨てる気?というのが、本田先生が言うべき台詞だったはずではないでしょうか。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-2313.html
就職に強いといえば、かつての女子短大は最強でした。四年制大卒女子が軒並み土砂降りで泣き濡れているときでも、すいすいといくらでも就職できたのです。それも、なまじ栄養学科なんていう仕事に役立てようなんて色気のありそうなところじゃなくって、英文科とか国文科とか、絶対に職業人としてやっていく気なんてこれっぽっちもありませんから、と言わんばかりなところのほうが就職率は良かったわけです。
それは極めて明快な理由であって、男女異なる労務管理がデフォルトルールであった時代には、一生会社勤めしようなどと馬鹿げたことを考えたりせず、さっさと結婚退職して、子どもが手がかからなくなったらパートで戻るという女性専用職業コースをたどりますというメッセージになっていたからでしょう。あるいは、結婚という「永久就職」市場における女性側の提示するメリットとして、法学部や経済学部なんぞでこ難しい理屈をこねるようになったかわいくない女性ではなく、シェークスピアや源氏物語をお勉強してきたかわいい女性です、というメッセージという面もあったでしょう。