
はてなキーワード:棍棒とは
とても残酷な物語である。美人しかコスプレを楽しめないし、好きなものを好きと言ってはいけない。
「不細工でもいいんだよ」なんてまりんちゃんは一回も言ってねえ
ルッキズム反対とかそんなことを言ってない
お前みたいなガイジにポリコレ棍棒与えることのガイってこれなんだよ
ポリコレ的じゃないテーマの作品を全て「おかしいぞ」って言いだすんだ
おかしくねえよ
アニメで丁寧な描写にブラッシュアップしてもらって大分得してる
でもいいんだよ乱暴で、それが描いてる当人の欲のありかたなんだから
美形だらけってそんなもん昔からそうだし
お前さ、マジでリアルだったら襟掴んで部屋の角に押し込んで小突きながら問い詰めたいけどさ
おまえはその「ブサイクが輝く作品が登場」を心の底から待望するからそれを言ってるのか?
それが読みたくて読みたくて仕方ないから出してくれって思ってるのか?
待望しての発言なら許そう。
でも違うよな?
「こういう作品が正しいはずなのに出ていない」ってくだらないことを思いついただけだろ?
お前すら読みたくねえ、商業的成功も見込めねえ、描く方も読む方も楽しくねえ、
そんなもんが出版される意義って何なんだよ?
カスがよ
お前の文章は一見論破指南に見えるが、実際は自己放尿に等しい。
つまり「他者をバカと呼ぶ快感」に溺れているだけで、論理構造は穴だらけだ。
まず「バカに欠けているのは論点維持と部分と全体の理解だ」と言うが、それは単なるレッテル貼りであり、証明にはなっていない。
お前は「バカ」を定義していない。定義がない対象に「欠けているもの」を与えるのは、空のコップに「水が足りない」と叫ぶようなものだ。
さらに「論点維持」と言いながら、自分自身が論点を逸らしている。冒頭では「知恵が欠けている」と言ったのに、途中から「論点維持の概念」と「部分と全体の概念」という二つのスキルに話をすり替えている。
まさにお前が「バカの典型」と定義した行為そのものを実演している。自己矛盾の自己放尿ショーだ。
そして「部分と全体」を理解していないのはお前自身だ。この文章全体のテーマは「バカを論理的に分析すること」だったはずなのに、部分部分でただの罵倒や優越感の発散にすり替わっている。全体性を守れていないのはお前の側だ。
結局お前の言葉は「サルが棍棒を持った」どころか「自分の尿を振り回して悦に入るサル」だ。論破の形をとっているが、実際には自分の快感のために「論」を捨てている。
だが救いはある。お前が本当に「論点維持」と「部分と全体の関係」を理解したいなら、まず自分自身の文章をその基準で読み返せ。
それはもちろん「知恵」なのだが、そう言って終わったのでは意味がない。
後から外挿できる個別スキルで、お前らみたいなバカのみなさんに一様に欠けているものが二つある。
バカは手に触れた石を盲滅法投げまくる。手持ちのAという主張パッケージの正しさを認めさせるべきはずが、AがダメならB!それが通じなければC!D!と、「思いつきの使い捨て」で弾幕を張る。つまり「自分の主張内容に興味がない」のである。
バカは相手が呆れてどっかいくまで粘るとか相手を愚弄しまくってやる気失せさせるなどにより「勝利」したことはあっても、自分の論で相手の論をねじ伏せたことはないだろう。
議論とは「論と論を戦わせるゲーム」だが、バカは「相手をより不快にすれば勝ちのゲーム」だと思っている。
当たり前の話だが、文章においてある一部分の要素とそれ以外の全体には、意味的な結びつきがあるのだ。
例えばこの文章の最初の方に「後から外挿できる個別スキル」というフレーズが出てきたが、これがあらゆるバカについて可能なのかそうでもないのかというニュアンスは、他の部分を読んだ上で「部分と全体」として一望してみない限り確定しないのである。
以下で展開される議論は、アメリカのある哲学者が学術誌の査読(ピア・レビュー、同業者による査読)の適切さを確かめるためにでっち上げたデマ論文の内容であり、しかもその論文はある雑誌に受理された。
このことから投稿者は、文化人類学者ではないが、いくつかの考察を試みる。
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1. 以下の内容は、「サル山のボス猿とそのなかま」が信奉するペニス信仰と、それに対する「フェミニスト」の反論の両方を痛烈に揶揄している。これらの議論は、ここ「はてな」での果てしない同種のやり取りの上位互換となっている。つまり、そのことに気づかないでいる、いわば自己相貌失認を患う矮小な関係者の姿をアナロジカルに揶揄している。
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2. 仲間による「レビュー」を経て認められた「議論」が、いかに穴だらけなものであるか、つまり、特定のコミュニティの支配イデオロギーとはしばしば、ブードゥー教の偶像崇拝にすぎないことを示唆している。
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3.投稿者はこのデマ論文の紹介により、いわば原始人に優れた棍棒の作り方の一例を教唆することになるかもしれない。いずれにせよ、上位互換の議論がデマであると著者により暴露されたことは、はてなでの「議論」の有効性の上界を抑えられたことを意味する。平たくいうと、0くxく1のように、xの取りうる範囲が有限なある一定の値以上にならないことである。原始人たちが、今後どのような道を選ぶのか知らないが、進化の選択肢があることを付け加えたい。
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4.敷衍すると、この論文の内容に限らず、はてなでの任意の「議論」には、それの上位互換となるある学術的な議論を作ることができる、という可能性が示唆される。平たくいうと、はてなの投稿を分析すれば論文が書けるかもしれない。
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この論文「概念的なペニスは社会構成物である」は、ジェイミー・リンゼイとピーター・ボイルによって2017年にCogent Social Sciencesに掲載された研究論文であり、ペニスという概念が単なる解剖学的な器官ではなく、社会的に構築されたものであり、それが有害な「毒性のある男性性」(toxic masculinity)と密接に関連しているという革新的な主張を展開しています[1]。著者らは、この「概念的なペニス」が、ジェンダー・アイデンティティ、生殖に関するアイデンティティ、社会および家族の力学に深刻な問題を引き起こし、女性やその他のジェンダー周縁化されたグループにとって虐待の根源となり、レイプの普遍的な原因であり、さらに気候変動の概念的な原動力であると結論付けています[2-4]。
伝統的に、ペニスは男性の生殖器または性器として圧倒的かつ議論の余地のないものとして科学的に認識されてきました[5]。しかし、著者らは、この見方が「過度に還元主義的」であり、ペニスを持つ人間の経験の多様性を完全に表現できていないため、「首尾一貫しない構成物」であると指摘します[6]。
この主張の根拠として、まず解剖学的なペニスが必ずしも男性の生殖器官としての役割を果たすわけではないという事実が挙げられます[5]。例えば、怪我を負った者、配偶者を強制できない者、子孫を産むことに興味がない者、医学的に不妊の者、またはアセクシュアルを自認する者など、ペニスを持つ多くの人々が生殖を行いません。これらの例は依然として「男性」を構成するかもしれませんが、彼らのペニスを生殖器官として特定することは明確に誤謬であるとされています[5]。
さらに重要な点として、ペニスを持つ女性が数多く存在することが強調されます[5]。これには、性別適合手術前のトランスジェンダー女性や、女性と自認し、性別移行を望んでいない染色体上の「男性」が含まれます[5, 7]。文化的な有害な常識に反して、これらの人々にとって、彼らの性器(ペニス)は、生殖に利用される場合があったとしても、男性の性器として最もよく理解されるべきではありません[7]。このような人間の表現の多様性という重要な事実に照らして、ペニスを具体的に男性の解剖学的な器官と概念化することは、非常に問題があり、言説的な再検討が喫緊に必要であるとされます[6]。
著者らは、ペニスが「男性性に対する首尾一貫しない構成物」であるとし、ペニスは解剖学的な器官としてではなく、**ジェンダー遂行的な、非常に流動的な社会構成物**である「概念的なペニス」として理解されるべきだと主張します[6]。この「概念的なペニス」は、ジェンダーに関連する様々な遂行的な行為や発言を通じて社会で確立されるペニスの操作的な表現です[6]。
この概念的なペニスが、**「毒性のあるハイパーマスキュリニティ(hypermasculinity)」と等型写像的(isomorphic)な関係にある**とされています[1, 8-10]。この等型写像関係とは、二つの異なる構造が、その構成要素間の関係性において本質的に同じ形を持っていることを意味します。ここでは、概念的なペニスという社会構成物が、毒性のあるハイパーマスキュリニティの行動や心理と鏡像のように一致しているということです。
特に、この等型写像関係は、**「マチスモ・ブラガドシオ」(machismo braggadocio)**という概念によって媒介されます[10,11]。マチスモは本質的に攻撃的な男性のプライドを指し、ブラガドシオは傲慢な自慢の性質を意味します[12]。これらが一体となって、社会的に男性的な心や異性愛規範的な女性の心がペニスを「客観視」し、それを介して男性性と支配的な男性の権力ダイナミクスを遂行的に表現する具体的な描写であるとされます[12]。
この等型写像関係において、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリンな男性が権力のない主体的な立場から強力な立場へと自身を再配置するために、**「主体」「客体」「動詞」の三つの役割**を果たします[11-14]。
この主体としての役割は、男性が性的な「征服」や「パフォーマンス」について自慢する際に明らかになります[16]。また、「俺は彼女にやった」「彼女はもっと欲しがった」といった表現に見られるように、名詞の「それ」("it")が客体的な概念的なペニスを女性の経験の知覚された主体に変え、概念的なペニスを男性のジェンダーパフォーマンスに関してさらに客体化します[16]。これにより、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリンな心において、ペニスを主体として(男性の)セクシュアリティを強力な現実とする脱所有化(deappropriative)のツールとなります[16]。
この傾向は、性的なアイデンティティが根本的にヒエラルキーの維持に利用されるという考え方によって説明されます[17]。概念的なペニスを行動を表す動詞として使用することで、ハイパーマスキュリンな男性は、他者を抑圧し、脱制度化する社会的なヒエラルキーを強制し、自己を認識的に高めます[17]。この現象は、ラップ音楽におけるミソジニーの分析や、「マン・スプレッディング」(manspreading)と呼ばれる、公共交通機関などで男性が足を開いて座り、不必要に広いスペースを占有する行動にも見られます[17]。マン・スプレッディングの言い訳は、解剖学的なペニスと睾丸が「快適さ」のためにスペースを必要とするという男性的な社会言説に直接基づいていますが、これは概念的なペニスを遂行的な社会構成物として見た場合、周囲の空きスペースを「レイプする」ような支配的な物理的空間の占有であり、毒性のあるハイパーマスキュリニティへのマチスモ・ブラガドシオ等型写像を通じて最もよく理解されるとされます[17]。
マチスモはハイパーマスキュリンな本質であり、ブラガドシオはその表現です[10]。現代の思考における概念的な要素としてのペニスは、マチスモ・ブラガドシオの概念によって、ハイパーマスキュリニティにおける最も毒性があり問題のあるテーマと自然に等型写像関係にあります[10]。これらのテーマは、解剖学的なペニス自体には適用されず、生殖しない個人やアセクシュアルな個人にも関連性を持たないため、ペニスは既存の男性的な社会的な比喩を演じるために利用される、構築された社会的な客体、つまり言説的な「概念的なペニス」として理解されるべきだとされます[10]。
概念的なペニスが毒性のあるハイパーマスキュリニティに等型写像的に同定されることの最も問題のある結果の一つが、**気候変動**であると指摘されています[4, 18]。気候変動は、まさにハイパーマスキュリニティの特定の有害なテーマによって引き起こされており、これらは概念的なペニスと識別される気候生態学への支配的な略奪的アプローチを通じて最もよく理解できます[18]。
著者らは、地球が急速に2℃の気候変動閾値に近づいている原因が、現在の資本主義構造を維持する家父長的な権力ダイナミクス、特に化石燃料産業にあると主張します[18]。科学、政治、経済の言説におけるハイパーマスキュリンな支配と、生態系への修復不能なダメージとの関連性は明確であるとされます[18]。破壊的で持続不可能であり、ヘゲモニー的に男性的な環境政策と行動へのアプローチは、男性優位の精神性による自然の「レイプ」の予測可能な結果です[19]。この精神性は、男性心理に対する概念的なペニスの役割を認識することによって最もよく捉えられます[19]。
特に、資源を安価に略奪し、家父長的な経済的利益のためにその内在的な価値を奪われた後、荒廃し減退したまま放置されるような「未開の環境」にこの精神性が適用されるとき、概念的なペニスに内在するレイプ文化の延長が明らかになるとされます[19]。気候変動は、最もよく言えば、ハイパー家父長制社会が地球の生態系にメタファー的に「マン・スプレッディング」している例であると述べられています[19]。
この問題のある傾向の根底にある理由は、現代の資本主義理論、すなわち新資本主義理論が、科学と社会におけるハイパーマスキュリンな焦点から直接その合理性の主張を引き出していることにあります。そしてこの焦点は、概念的なペニスとの同一視によって最もよく説明されるとされます[20]。毒性のあるハイパーマスキュリニティは、概念的なペニスから直接その意義を引き出し、新資本主義的唯物論の支持に自身を適用します[20]。この新資本主義的唯物論は、特に炭素排出の化石燃料技術の無制限な使用や、未開の自然環境の無謀な支配において、気候変動の根本的な原動力であるとされます[20]。
この分析から導かれる実践的な推奨事項は、気候変動研究において、可能な限りハイパーマスキュリンなペニス中心の視点を避けるように、政治や科学の言説への関与方法を変えるべきであるというものです[3]。
結論として、著者らは、ペニスは男性の性器や生殖器として理解されるべきではなく、むしろPermalink |記事への反応(0) | 19:03
日本の都市がアフリカ各国の「ホームタウン」になってアフリカ人に乗っ取られるという話が出回っている。
BBCアフリカとNHK等の報道を見て常識的に考えた結果、日本側は、特別に新しいビザを作るというわけではなくて恐らく外国人高度人材制度での受け入れ支援なんかを目論んでいるんだろうなと思った。
そしてその後の各行政の発表などからも、この予想はだいたい合っていると考える。
今の高度外国人材制度は安倍晋三政権が2017年に作ったものだ。
いわゆる経済界の要望により優秀な外国人をじゃんじゃん受け入れるぞーって高度人材制度で外国人が日本の永住権を得られる要件を大幅に緩和した。
他にも安倍政権で就労ビザの要件緩和したりして、外国人が永住権を得られるルートを簡単にした。
当時から安倍晋三が推し進める移民政策に心配の声は高かったがメディアも支持者も無視していた。
その結果が今の中国人の日本留学・日本移住ブームにつながり参政党の躍進にもなった。
そして自民から離れた「保守」が「アフリカホームタウン制度」を棍棒にして石破を叩いている。
石破はどっちみち数週間後には辞職することになる。
高市が総理になったとして安倍晋三のレガシーは否定できまい。せいぜい「石破の説明がおかしかったのが問題」など手順の問題にして微修正くらいはするかもしれないがアフリカホームタウン制度が潰れることはないだろう。
でも今ホームタウン制度を問題にして止めろと言ってる層は高市総理の元で反対意見の拡散を続けることはない。総理が変われば自治体への抗議電話はぱったり止まるだろう。
なんとも言えない気持ちになる。
かつて某アイドルグループが握手券商法でオリコンランキングを席巻して音楽ランキングとしての意味がなくなったりとか、
推し活の一般化によってあらゆるランキングや賞で推しを上げるためにファンたちが頑張って、その数字がファンの熱量を示すものにしかならなかったりとか、
時代や商売の変化によっていろんなジャンルのランキングだったり口コミ評価の価値が変わっていくんだなぁと改めて思う。
ランキングじゃないけどインフルエンサーマーケティングも微妙な反応になってきたり・・・。やっぱ名無しの口コミが一番心に残るし。
以前は映画が好きなこともあって興行収入ランキングとか見るのも好きだったけど、
ここ数年は特典商法が浸透してて必要以上にリピーターを呼び込むのも普通だし、
昔はあまりなかった特殊上映でのプラス料金制度が出てきたりもあって、もう単純なランキングとしてはまったく意味がないと逆に割り切ってる。
何十年分ものランキングの中でどう、って言われてもねぇ・・・?みたいな。
動員数ランキングがまだギリ比較基準になるかもだけど、前述の通り推し活やら〇〇の男にやらなんやらファンダムの質も変わってるからちょっと・・・だし。
ただサブスクが当たり前の日常で映画館が盛況なのはすごく良いことだと思うから、客を呼び込める作品は色んな商法をやってみてもいいとは思ってる。
音楽も同じで、ファンが喜ぶ範囲でなら色んな形態出して売上に繋げて欲しいと思う(ランダム商法除く)。
でもランキング「〇位」とか興行収入だのの「数字」に関してはあまり気にしなくなった。出てくる言葉は関係各社おめでとうでしかない。
映画にしてみればそもそも昔と今じゃスクリーンの数も価格も制度も違うし、作品の質は数字で判断するものでもないよなと思うようにしている。
同じように音楽も好みでしかないからランキング上位だろうと聴いたことなくてもおかしなことじゃない。
指標としてランキングという形はこれからも色んなジャンルで残り続けるんだろうけど、
その中身としては、たぶんもう今もとっくに役目を終えて形骸化しているんだろうなと個人的に思う。
だから一消費者としては競争とか記録とか流行とか気にせず、気楽にエンタメを楽しんでいけたらいいな。
ランキング・売上・記録を棍棒にしたファン同士の争いもやめてほしいですね。
とはいえ最近では珍しく、ステマ禁止&特典なし&小説原作単発の状況で盛況な某ロングラン作品は本当すごいなと思います。
(知らんところでステマしてるかもだけど、一応対外的には禁止なので・・・)
オマエラと面と向かって話なんか出来るかよ。俺の話を聞け。話を聞くだけでいい。
[B!選挙] 「参政党に投票する人は馬鹿である」とは、偏見である。「外国人は法を守らない」と同レベルの。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/blog.tinect.jp/?p=89940#bbutton
ということなので。ID無しでツッコむ。反応が見られないのが残念だ。嫌な顔を、不愉快な顔を是非して欲しい。
ブコメ:この手のものは放っておくと増長し、場合によっては人が死ぬことを学習したので、バカ扱いしないといけないとしか思えない。で、どこがどう「同レベル」なのかは、全くわからんな。
→ 相手に反意して欲しいんじゃねぇの?説得じゃなくてバカ扱いする理由って何?周囲の人間がキャンセルすることで、損したから反意しますってこと?リベサヨのバカのオマエラが出来もしねぇのに、反意なんかするわけねぇじゃん。タコツボ(エコチェン)にこもるし、その中でビジネスも出来るわけで。単に分断深めてるだけじゃん。バカは確実にこういうヤツだよね。コイツは知らないやつだけど。
ブコメ:馬鹿でなきゃ邪悪。不寛容や差別表現の自由は肥大し、他を圧倒、圧殺することは歴史の教訓。人間は利他的でも強靭でもないとの学習の結果が戦う(対峙する)民主主義であり、不寛容の不寛容。他に妙手が発見されたの?
→ 上に同じだけど、邪悪だったらどうするの。殺すの?まぁ一番手っ取り早いよね。俺も推奨するよ。俺もブックマBANされるまではずっと「差別主義者は差別していいよ」って言ってたけど、さすがに邪悪とは思わないね。思慮が足りないのはバカじゃないので、思慮が足りないだけ。想像力の不足はバカじゃないのでね。
ブコメ:確実なのは『「参政党に投票する人は馬鹿である」とは、偏見である』なんて言う奴はひねった形で自分をカシコに見せかけたい屑。参政党支持者はバカではないかもしれないが屑とその手のカシコでできている
ブコメ:四足歩行獣がなんか言ってら。馬鹿じゃなければクズである。
ブコメ:馬鹿ではないかもしれないが、ろくでなしなのは間違いない。
ブコメ:偏見じゃないですー、根拠なく上から目線なだけですー!
→ だから。投票ぐらいしか手段がないのに、オマエラはどうしたいんだい?反意して投票して欲しいんじゃないの?オマエラの好きな立憲とか共産によ?
ブコメ:でも共産党やリベラルやフェミニストに対しては何言ってもいいと思ってる人がはてなには沢山いるよねえ。
→ オマエは知らんけど(オマエのも大概悪口だったと思うけど?まさかとは思うけど、正義は自分にしかねぇと思ってんの?)、さんざん敵対勢力支持者に暴言吐いてたでしょ?やり返されてるだけじゃん。何を主眼にするかってだけでしょ。民主主義の基本なんか身に付いてなくても投票出来るんだぜ?知らなかったのか?納税が無理解のクズバカアホでも強制されるのと同じくな。
ブコメ:じゃあ何扱いすればいいのか?「バカ扱いしてません。差別扇動ポピュリズムを批判しているだけです」「バカにされたと思うのは参政党支持者だけです」どう思う?
→ 「差別扇動のポピュリズムをやめろ」というので良いと思いますけど?まぁ、向こうは「犯罪を犯した外国人を日本人同様に取り締まれ」「不良外国人を叩き出せ」ってなるだけなんだけど?オマエだって表自共の「おっぱい絵無罪!」なんてのを許したことあった?結局全部程度問題、温度感。ちなみに俺は「おっぱい絵無罪(アキバのポルノゲーのタワー広告も局部、乳首が出てないなら問題ない)」だぞ。「不良外国人を叩き出せ」のレベルは「「歩道でLUUUPを全力で疾走していた白人毛唐を国外追放しろ」「それでインバウンドが死ぬなら死ね」っていう程度問題。金がねぇからって不良からもらう金でニヤニヤする奴が増えるのはおぞましいね。
ブコメ:他に期待があったとしても、差別主義者を支持するってことは差別を助長してる当事者なのよ
ブコメ:「差別は絶対に許さない」としないとマジで社会が壊れるよ シロクマ先生含め我々古参はてなユーザーもいい年なんだから、馬鹿にするのではなく「差別を煽るような政党に投票してはいけない」とちゃんと言うべきだよ
→ そこがオマエラの限界点じゃん。埼玉とかの連中が指示した理由は「ここ数ヶ月でアイツラをどうにかしろ、追い出せ、黙らせろ」ってこと。留学生の金に関しても同じ学生だったら「アイツラもオレラと同じく苦学させろ、借金させろ、でなきゃ出ていけ」ってこと。「時間がかかります」で逃がしたくない連中は今の世の中いっぱいいるだろ。なんでソイツラには寄り添えない?タイパコスパの時代に、どうやってアイツラ(参政党支持者)を理性ある存在に変える?成果は必要だぞ。オマエの言い分は「差別がある以上、我慢するのは地元ジャップとジャップ学生だ」「オマエラは氷河期同様ノーチャンスなだけ」っていうつもりか?
ブコメ:申し訳ないけどファクトを見ずにお気持ち優先のバカじゃんと思う。ただ私は自分で言うのもアレだが寛容なので好きなところに投票すりゃいいじゃんとも思うよ。
→ じゃあ黙ってろ。オマエ人間として最低レベルのクズだな。何その悪口は言うけど投げっぱなし。仕事出来なさそう。オマエが高収入だったとしてもそれは「人間的詐欺」による泡銭だね。最悪。
とりあえず「アイツラの1票もらうより、バカにして溜飲を下げて、オレらのエコチェンを心地良いものにするんだぜ!」のクズのはてなー共のコメントにツッコミを入れておく。
こうやって並べるとリベサヨのはてなーの品の無さ、邪悪さが浮き彫りになるね。
オマエラは本当はリベサヨの価値観を大事に思ってねぇよ。オマエラがやりたいのは「反論できないリベサヨ棍棒でオレらの嫌いな価値観(伝統主義、保守主義、親米主義、資本主義、ポルノを含有する表現の自由などなど)を志向する連中を死ぬまでぶん殴りたい」だけだよ。