
はてなキーワード:根底とは
時は西暦2025年、秋🍁。渋谷のスクランブル交差点で、一人のギャルが「あー、まじ今日しんどい、ぴえん(´;ω;`) 映えるスイーツとか、どっかにないん?」ってブツブツ言ってた。
そのとき、突如、ドゥルルルルルル…って、なんかめっちゃドラマチックなBGMが鳴り響いて(※幻聴)、ギャルの目の前に、トレンチコート姿でバチっと決めた、アタマがちょっとフサフサしたイケオジがヌルッと出現!
ギャル、ビビる。「ひゃ、ひゃだ!なんなの、この人!?めっちゃ古風な喋り方なんですけど!もしかして、YouTuberのドッキリ?」
イケオジは、お決まりのポーズ(右手をアゴに当てるやつ)をして、ニヤリ。「ドッキリ?ふむ、それは現代の言葉でいうところの…トリックのようなものでしょうか。しかし、私は古畑任三郎。刑事でございます。どうやら、随分と遠い未来へ迷い込んでしまったようですね…」
「ふるはた…にん…ざぶろう?…え、ちょ、マジで古畑任三郎!?ドラマのやつ!?てか、刑事さんなのに、そのファッション、まじ卍アツいんですけど!」
ギャルは一瞬でテンション爆上げ!まさか、伝説のあの刑事が目の前に現れるなんて、運命としか思えない!これはもう、神からのお告げでしょ!
古畑ちゃま(以下、任三郎っち)は、現代のテクノロジー(スマホとか)や、文化(タピオカとか)に興味津々。特に、コンビニのスイーツコーナーの前で、熱心にアリバイ…じゃなくて、原材料をチェックしてたのが、まじウケる(笑)。
そんな任三郎っちに、ギャルは「任三郎っち、まじセンス良すぎ!そのミステリアスな雰囲気と、知的な喋り方、令和で絶対バズるって!」って力説。
そしてある日、ギャルは任三郎っちと一緒に、スーパーの特売コーナーをパトロール(お買い物)してたとき、運命のアイテムに出会ってしまった。それは…魚肉ソーセージ!
任三郎っち、その魚肉ソーセージを手に取り、くるくる回しながら、いつもの口調で言い出した。
「おや、これは面白い。このピンク色。このプリっとした食感。そして、このどこか懐かしい風味。ふむ…これは、もしかすると、完璧な甘味のミスリードを誘う、鍵になるかもしれませんね…」
ギャル、ビビビ!ときた。「え、まじそれ!魚肉ソーセージって、実は塩気と旨味がヤバいから、スイーツにしたら甘じょっぱブームで超絶バズるんじゃね!?」
任三郎っち、目をキラリ。「なるほど!まさに、犯人が目立たない場所に証拠を隠すように、この魚肉ソーセージという異端な存在こそが、スイーツ界の常識を覆す切り札となりうる!」
こうして、異色の二人がタッグを組み、超絶クレイジーなスイーツビジネスが始動!その名も…
「NINZABURO'S SAUSAGE PARFAIT andCAFE」
(略して、NINPARA!)
コンセプトは「スイーツ界の難事件を解決! 誰もが予測不可能な、甘じょっぱい衝撃!」
まずは試作品作り。ギャルの映えテクニックと、任三郎っちの緻密な観察眼が火を吹いた!
「ギャルさん、このソーセージの厚みがパフェの層と食感を調和させる重要なポイントですよ」 「任三郎っち、まじ天才!じゃあ、このソーセージを花びらみたいにカットして、チーズクリームとメープルシロップを隠し味に使っちゃお!」
「The FirstCase:プレーン・ソーセージ・パフェ」 (バニラアイスとホイップ、そして大胆にカットされた魚肉ソーセージの塩味が、甘さの快感を増幅させる傑作!)
「The Perfect Alibi:チーズ&ハニー・ソーセージ・パフェ」 (濃厚なクリームチーズムースと、トロけるハチミツ。ソーセージの旨味が、極上のハーモニーを奏でる完全犯罪級のウマさ!)
「The Great Detective:和風・ネギ味噌・ソーセージ・パフェ」 (衝撃作!抹茶アイスと白玉に、甘めのネギ味噌を和えたソーセージをトッピング。斬新さが事件を起こす!)
NINPARAのオープン当日、渋谷の一等地は、まるで事件現場のような大混乱!超絶ウマいとSNSで瞬く間に拡散され、お店の前は長蛇の列!
「え、マジで魚肉ソーセージとパフェってこんなに合うの!? もう一生モノの衝撃なんですけど!」 「任三郎っち、まじイケオジ!しかも、注文のとき、事件のヒントみたいな名言言ってくれるの、神!」
そう、任三郎っちは、店長兼エンターテイナーとして大活躍!お客さんにパフェを手渡すとき、必ずドラマのようなキメ台詞を言うのが、大バズりの秘訣!
「おや、あなた。そのパフェの美しさに隠された、ソーセージの秘密に、どうかお気づきになってくださいね…フフフ」
このミステリアスな接客と、ギャップ萌えする魚肉ソーセージパフェの斬新さで、NINPARAは飛ぶ鳥を落とす勢いで大成功!全国にフランチャイズ展開し、魚肉ソーセージの概念を根底から覆したのだ!
任三郎っち、たまにトレンチコートのポケットから古い煙草を出そうとして、ギャルに「任三郎っち!店内禁煙!受動喫煙はまじアウトだって!」って怒られるけど、それも微笑ましい日常。
彼は、現代のスイーツ界という新たな事件を、見事な推理力とユーモアで解決し、令和のカリスマ経営者として大成功を収めたのでした。魚肉ソーセージは、彼の第二の人生の最高の相棒になったみたい!
「ふむ…このパフェの成功も、ひとえに緻密な計画と、大胆な発想の賜物。しかし、真の動機は…美味しいものを皆さんにお届けしたいという、単純な願望にすぎません。ええ、全くもって、単純なことです…」
YouTuberであるスーツさんは、2025年10月15日に「悟りを開いた」とする一連の投稿で、その心情が大きな注目を集めています。
この「悟りを開いた」という発言は、従来の彼の論理的で知的な発信スタイルとは一線を画すもので、「世の中の全てに全く『意味』などないことを完全に自覚した」というものです。これにより、「あらゆる意欲、執着、規範、迷い、悩み、喜びなどを手放した」と述べており、これらは全て「幻想や集団催眠などの類いで、最初から存在しなかった」と理解したとしています。
この心情の変化は、虚無主義や存在論を想起させる哲学的な側面に傾倒していることを示唆しており、社会的な価値や自身の活動に対する従来の認識を大きく変えるものでした。
発言の価値についても、「自分の発言が理解されることに価値を感じなくなった」「発言することにも価値を感じませんし、発言しないことにも価値を感じません」と述べ、将来的には発信を静かにする可能性についても言及しています。これは、彼のキャリアを支えてきた発信意欲や視聴者との関わりに対する価値観が根底から揺らいでいる状態を示していると言えます。
自身の生命に関しても言及しており、「私の体は自分の生命を守るように設計されているでしょう。ですから、私が死亡したり何かを破壊したりすることは考えにくいです」と、自らの体が持つ生存本能に基づく設計を信じている様子を伝えています。これは、精神的な面での大きな変化がありながらも、肉体的な生存への希求は保たれているという、精神と肉体の分離のような複雑な心境を覗かせます。
一方で、これらの発言の直前には、スイス・バーゼルで体調を崩し、帰国後にインフルエンザと診断されたという健康上の問題があったことも投稿で明かされています。精神的な変化の背景に、これらの体調不良や疲労が影響している可能性を指摘する声もあります。
総合的に見ると、スーツさんの最近の心情は、従来の価値観からの解放と強い虚無感に支配されており、自身の活動や存在そのものに対する根本的な意味付けを失っている状態にあると言えます。この哲学的な探求が一時的なものか、あるいは今後の活動の軸となるのかは現時点では不透明です。
自分の根底にある「男が奢るべき」という思想と向き合って、その相手に私はデート代は基本的に男が出すべきだと思う、割り勘はありえないって伝えたらいいよ。その結果どうなるかは知らんけど
中学で経験するであろう自意識の高さとの折り合いを、大学生で、しかも女の子に罵倒されることで経験したのは同情する。
とはいえ相手の欲求を断り、自身の中では「マックで良くない?ガストで良くない?」と思うのは、結局は自分の都合を押し付けてる事には変わらず「プライドが高い」と喝破した女の子の目は見事。
そもそもスタバに行けない&それを女の子に素直に言えないにも関わらず「脈あり」と思えたのが謎。
「チー牛の俺の誘いに乗った女ならチョロいだろう」という考えが根底にあったんだろうと思えてならない。
今後も自意識過剰との折り合いには苦労するだろうけど、10年くらいすれば角も取れるだろう。
未来は明るいと信じて、好きなモノを食べて元気出せってこと。
中学で経験するであろう自意識の高さとの折り合いを、大学生で、しかも女の子に罵倒されることで経験したのは同情する。
とはいえ相手の欲求を断り、自身の中では「マックで良くない?ガストで良くない?」と思うのは、結局は自分の都合を押し付けてる事には変わらず「プライドが高い」と喝破した女の子の目は見事。
そもそもスタバに行けない&それを女の子に素直に言えないにも関わらず「脈あり」と思えたのが謎。
「チー牛の俺の誘いに乗った女ならチョロいだろう」という考えが根底にあったんだろうと思えてならない。
今後も自意識過剰との折り合いには苦労するだろうけど、10年くらいすれば角も取れるだろう。
未来は明るいと信じて、好きなモノを食べて元気出せ。
だからdorawiiの△3画妨害はその根底にある理念自体は間違ってなかった
ブクマカをハックしてその循環系をぶっ潰せ
dorawiiより
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人種、身長、年齢、全ての限界を超えて男子100m決勝に進んだアジア人スプリンター・蘇炳添(ソヘイテン)の話をしようと思う
短距離界は長らく黒人選手の独壇場とされてきた。爆発的なパワーと大きな歩幅はアフリカ系スプリンターの大きな強みだ。
蘇炳添は173cmと小柄で、アジア人の骨格が不利だと見なされていた。さらにスプリント選手のピークは20代半ばと言われる中、30歳を超えても挑戦を続けていた。
常識的に考えれば、世界のトップで戦える条件は揃っていなかった。
そんな数々の限界を打ち破り、アジア人として実に89年ぶりにオリンピック男子100m決勝の舞台に立ったのが、中国の蘇炳添である。
2010年代、日本では桐生祥秀や山県亮太らが台頭し、誰がアジア人初の9秒台に到達するかが注目されていた。
その競り合いの先陣を切ったのが、2015年世界陸上北京大会で9秒99をマークした蘇炳添だ。
アジア人として史上初めて10秒の壁を破り、世界中を驚かせた。
蘇炳添の武器は鋭いスタートだ。爆発的な初速でリードを奪い、室内60m走ではアジア記録を次々と更新し、世界の強豪と互角に走れる下地を築いていった。
2018年には9秒91、9秒92と複数回9秒台をマークし、実力として世界最速に近い領域に居続けることを証明した。
この時点で既にアジア史上最高のスプリンターであることは疑いようがなく、30歳を超えた彼がそのまま引退しても伝説として語り継がれただろう。
年々高まる男子100mのレベルに阻まれ、日本の桐生祥秀・山縣亮太・多田修平の3人は惜しくも予選敗退。
テレビの前の陸上ファンが最後の望みを託したのは、アジア人で唯一準決勝に駒を進めた蘇炳添だった。
だが、その期待は同時に不安でもあった。
なぜなら蘇炳添が走る準決勝第三組は「死の組」と呼ぶにふさわしい激戦区だったからだ。
そしてイタリアのマルセル・ジェイコブス、自己ベスト9秒80。この男こそ後に東京五輪で金メダルを掴むことになる選手だ。
決勝に進めるのは各組上位2人、そして準決勝全体でタイム上位の2人。
第三組の顔ぶれを見れば、その争いが絶望的に険しいことは明らかだった。
この組を突破するのはほとんど不可能ではないかと、多くの陸上ファンが思っていた
31歳になった蘇炳添は、静まり返るスタジアムの中でスターティングブロックに腰を下ろした。
他の選手よりも明らかに一歩前に出る会心のスタート。室内60mでアジア記録を連発してきた男の真骨頂が、この世界最高の舞台で完璧に決まった。
世界のトップスプリンターたちが猛然と追い上げる中、蘇炳添は最後の一歩まで粘り、胸を突き出してフィニッシュラインを駆け抜けた。
結果は1着。
アジア人が100m準決勝を着順で突破する。それだけでも歴史的な快挙だった。
だが、真の衝撃はその先に待っていた。
9秒83
その数字を確認した瞬間、蘇炳添は感情を爆発させた。カメラの前で何度もガッツポーズを繰り返す。
大声で叫びながら歓喜を全身で表現する姿は、これまで積み重ねてきた努力が一気に解き放たれたかのようだった。
動画解析によれば、蘇炳添はレース中盤、60m地点を 6秒29 で通過していたという。
これは非公式ながら、現在の室内60m走の世界記録をも上回る驚異的なタイムだ。
蘇炳添は人類史上最速のスタートダッシュを、オリンピック準決勝という極限の舞台でやってのけたのである。
100m走は身体の消耗が激しく、蘇炳添は準決勝で全力を出し切っていた。十分な回復ができないまま臨んだ決勝の舞台。
結果は6位、タイムは9秒98。
メダルには届かなかったが、それでも同じ日に2度も9秒台を叩き出したという事実が、彼の実力を雄弁に物語っていた。
アジア人が9秒8台で100mを走った。
YouTubeには蘇炳添の準決勝の走りが無数にアップロードされ、ファンが編集したドキュメンタリー動画は瞬く間に1000万再生を突破した。(現在は権利の関係で削除されているが、当時の熱狂ぶりを物語っている。)
東京五輪男子100mの話題は「誰が金メダルを取ったか」ではなく、「蘇炳添が9秒83で走った」というニュースで持ちきりだった。
男子100mの記憶に残るレースといえば、真っ先に思い浮かぶのはウサイン・ボルトだろう。
2008年北京五輪で胸を叩きながら駆け抜けた9秒69(当時の世界新記録)、2009年ベルリン世界陸上で叩き出した人類最速の9秒58。
世界歴代1位から5位までのスプリンターが一堂に会した史上最速決戦の中で、ボルトは圧巻の9秒63(五輪記録)を記録し、自らの王座を守り抜いた。
彼の走りは、人間はここまで速くなれるのかというロマンを世界中に刻み込んだ。
それ以上に私の記憶に焼き付いているのが、東京五輪男子100m準決勝である。
自分と同じアジア人で、もしかしたら自分よりも背が低いかもしれない男が、大柄な黒人スプリンターたちを一瞬で置き去りにする圧倒的なスタート。
その光景は、アジア人スプリンターの可能性を根底から覆す瞬間だった。
ちなみに、ウサイン・ボルトが記録した9秒58の時の60m通過タイムはおよそ6秒30と言われている。
一般的に、身長の高い選手は加速局面を苦手とし、スタートが遅い傾向にある。
それにもかかわらず、身長ほぼ2mのボルトが、173cmの蘇炳添と同じスタートダッシュを見せられるというのは、まさに異次元としか言いようがない。
『立正安国論』(日蓮著)と『共産党宣言』(マルクス、エンゲルス著)は、成立した時代、背景、そして思想的基盤は類似点を見出すことができます。
社会の主流派や既得権益の外側に身を置いた急進的な異端者という視点から見ると、「体制外からの批判と、絶対的な正義に基づく世界観の強要」という構造的な類似性が浮かび上がります。
この共通性は、両者が既存の秩序・権威を根底から否定し、「唯一の正義」による強制的な社会変革(革命)を求め、その結果、体制側から徹底的に弾圧された点に集約されます。
「引きこもりニート」という表現は極論であり、史実的には日蓮は精力的な遊行と布教を、レーニンは地下活動と亡命生活を送った活動家です。しかし、この言葉が持つ「主流社会の権威や経済システムから疎外された者」というニュアンスに注目すると、両者の著述態度には共通性があります。
日蓮(『立正安国論』): 当時の仏教界の主流であった念仏宗(法然の教え)や、これを庇護する鎌倉幕府の権威を徹底的に否定しました。彼は比叡山や清澄寺といった既成の権威ある場所から離れ、独自の解釈である「法華経」のみを「正法」として掲げ、それ以外の教えを「亡国の原因」と断じました。これは、「俺の言っていることだけが絶対の真実だ。それ以外は全て間違いだ」という、体制に属さない者が持つ孤高で排他的な絶対正義の表明です。
レーニン(『共産党宣言』):マルクス主義は、当時のブルジョアジーが支配する資本主義体制、その上に立つ国家、法律、倫理の全てを、「階級搾取の道具」として否定しました。レーニンもまた、ツァーリ体制下で弾圧され、ヨーロッパ各地を転々とする亡命生活(社会のメインストリームから切り離された生活)を送りました。彼の主張は、「現在の経済システムは全て不正であり、これを打倒してプロレタリア独裁による理想国家を作る以外に道はない」という、体制外からの急進的で排他的な社会変革の要求です。
両者の著書は、その内容の異質さにもかかわらず、「二元論に基づき、体制内の悪を徹底的に清算しなければ、理想的な安寧は実現しない」という構造を持っています。
両文献は、現状の社会が直面する危機(災厄)を明確にし、その原因を体制内の「悪」に断定します。
危機:天変地異、飢饉、疫病、他国からの侵略(自界叛逆と他国侵逼)。
原因: 「謗法」(念仏などの誤った教え)が国に満ちていること。
危機を回避し、理想郷(安国または共産社会)を実現するためには、「唯一の正義」による反対勢力の強制的な排除が不可欠であると説きます。
「立正」、すなわち法華経のみを国教として立てること。その結果、謗法者(念仏を唱える人々)は弾圧・追放されるべきであると強く示唆します。
「プロレタリア革命」による階級闘争とプロレタリア独裁。その結果、ブルジョアジーは私有財産と共に消滅(排除)されます。
このように、『立正安国論』は宗教的絶対主義、『共産党宣言』は経済的絶対主義に基づくものですが、両者とも「現状の悪は体制内にある」「それを根絶するためには、体制外からの急進的な一元論を強制適用しなければならない」という、強力な教義的排他性を持っている点で、構造的な共通性があると言えます。
だがしかしりつみん、お前は駄目だ。おまえらは自分がかわいいだけのクズ野郎の集まりだ。共通点があるのは日本保守党だけでしょうね。
多くの人々がポーカーというゲームに魅了されるのは、それが単なるギャンブルではなく、高度な戦略、精密な計算、そして相手の心理を読む深い洞察力が求められる「マインドスポーツ」だと信じているからだろう。煌びやかなトーナメント、数億円という破格の賞金、そしてスポットライトを浴びるチャンピオンたち。その姿は、努力と才能が正当に評価される、実力主義の世界の象徴のように見える。
しかし、その輝かしいイメージの裏で、我々が決して目を向けてはならない、あまりにも残酷で不都合な真実が存在する。もしあなたが本気でポーカープロを目指しているのなら、この甘美な幻想は、キャリアの初期段階で徹底的に打ち砕いておく必要がある。
結論から言おう。現代のポーカープロになるための必須条件、それはスキルでも、経験でも、ましてや精神力でもない。それは、常軌を逸した「強運」と、その運を試すための試行回数を他人の金で確保する「資金調達能力」である。
ポーカーのトーナメントの本質を、極限まで単純化してみよう。それは、膨大な数の「オールイン対決」を生き残り続けるサバイバルゲームだ。特に、チップ量が拮抗し、プリフロップでのオールインが頻発する中盤から終盤にかけて、プレイヤーのスキルが介在する余地は驚くほど少なくなる。
ここで、ポーカーで最も頻繁に発生する「50% vs50%」の状況、通称「コイントス」または「フリップ」を考えてみよう。例えば、あなたのハンドがAK(エース・キング)で、相手がQQ(クイーンのペア)。どちらが勝つかは、コミュニティカードが開かれるまでほぼ五分五分だ。
さて、もしあなたがトーナメントで優勝するために、この50%の勝負を10回連続で勝つ必要があったとしよう。その確率は一体どれくらいだろうか?
そうだ、たったの1024分の1である。これは、スキルも経験も一切関係ない、純粋な確率の世界だ。コインを振って10回連続で表を出すことと何ら変わりはない。
つまり、極端な話、ポーカーを覚えたての初心者であろうと、10年経験を積んだをベテランであろうと、この「1/1024」の幸運の雷に撃たれさえすれば、世界的なトーナメントで優勝できてしまうのだ。そして、この偶然の産物であるチャンピオンは、いとも簡単に「自分は強い」と勘違いを始める。
「あのアクションが神がかっていた」「あのブラフで相手を降ろしたから勝てた」「プレッシャーの中で冷静な判断ができた自分は本物だ」
彼らは、結果から逆算して自分の成功物語を紡ぎ始める。しかし、その裏側にあるのは、9回連続でコイントスに勝った後、最後の10回目で無情にも敗れ去った、彼より遥かに実力のあるプレイヤーたちの無数の屍だ。メディアは1024分の1の勝者を英雄として祭り上げるが、残りの1023人の敗者の物語が語られることはない。この強烈なサバイバーシップ・バイアスこそが、「ポーカーは実力ゲームである」という幻想を強固に支える最大の要因なのである。
「長期的に見れば、期待値(EV)がプラスの行動を繰り返すことで収支はプラスに収束する」
これは、ポーカーを科学的にアプローチしようとする者が、まるで聖書のように信奉する言葉だ。しかし、この「長期的に見れば」という言葉の本当の恐ろしさを、彼らは理解しているのだろうか。
ここで、ポーカーの世界から一度離れて、カジノの胴元の立場になって考えてみよう。ブラックジャック、ルーレット、バカラ。これらのテーブルゲームは、すべてカジノ側(胴元)にわずかながら数学的な優位性(ハウスエッジ)があるように設計されている。つまり、胴元のすべての判断は、常に「期待値プラス」なのである。
彼らは、ポーカープレイヤーが血の滲むような努力の末にようやく手に入れるかもしれない、ほんのわずかな優位性を、ルールそのものによって永続的に保証されている、いわば「期待値の神」だ。
しかし、そんな神ですら、運の前にひれ伏すことがある。カジノの運営において、特定のテーブルゲーム部門が1日単位、1週間単位、あるいは1ヶ月単位でマイナス収支に陥ることは、決して珍しい話ではない。あるハイローラー(大金を賭ける客)が驚異的な幸運を発揮し、たった一晩で数億円をカジノから奪い去っていく。そんなニュースを耳にしたことがあるだろう。
数学的に絶対に負けないはずの胴元ですら、統計上の「ブレ」や「偏り」、すなわち「分散(Variance)」によって、短中期的には容易に赤字を出すのだ。
さて、ここでポーカーの世界に話を戻そう。胴元が持つ数%の鉄壁のアドバンテージに比べて、トッププロ同士の戦いにおける実力差(エッジ)など、一体どれほどのものだというのか。0.5%? それとも0.1%? おそらく、その程度の、誤差のような差でしかないだろう。
そんな、カジノのハウスエッジに比べれば無に等しいような僅かな優位性で、人生というあまりにも短い試行回数の中で、収支がプラスに収束すると本気で信じているのだろうか。答えは明白だ。人生のすべてを賭けても、ポーカーの収支は決して収束しない。あなたの生涯収支を決めるのは、日々の細かな期待値の積み重ねなどではない。キャリアを根底から揺るがす、数回から数十回の巨大なポットを、運良く勝ち取れたか、不運にも失ったか。ただそれだけである。
ここまで述べたように、トーナメントでの成功は天文学的な確率の産物であり、日々のプレイですら、あまりにも巨大な分散の前では個人のスキルなど無力である。
では、なぜ「ポーカープロ」という職業が成立し、彼らは破産せずに活動を続けられるのか。日々の生活費を払い、高額なトーナメントに参加し続けることができるのか。
その答えこそが、この世界の最も醜く、そして最も本質的な真実を突いている。
現代のポーカープロに必須の条件、それは**「ステーキング(Staking)」によって、他人の金でギャンブルすること**である。
ステーキングとは、投資家(バッカー)がプレイヤーのトーナメント参加費を肩代わりし、その見返りとして、もしプレイヤーが賞金を獲得した場合、その一部を受け取るという契約モデルだ。
これこそが、現代のポーカープロを支える生命線なのだ。彼らは自らのスキルを商品として投資家にプレゼンし、「私はこれだけの実績がある」「私のプレイスタイルは今のメタ(主流戦術)に適している」とアピールして資金を調達する。そして、その集めた金で高額トーナメントという名の宝くじを何十回、何百回と購入し続ける。
20回連続で参加費を失っても、彼らの懐は痛まない。損失を被るのは投資家だ。そして、21回目に、あの「1024分の1」の幸運を引き当て、莫大な賞金を獲得する。彼らはその賞金から投資家へ配当を支払い、残った巨額の利益を自らのものとする。そして、メディアは彼を「天才」と呼び、彼は再びその名声を元手に、次の投資家を探すのだ。
つまり、彼らの本当のスキルは、カードテーブルの上で発揮されるものではない。彼らの主戦場は、投資家との交渉のテーブルなのだ。いかに自分を大きく見せ、いかに自分という金融商品に投資価値があるかを説得するマーケティング能力と交渉術。それこそが、運という名の荒波を乗りこなすための唯一の羅針盤なのである。
これからプロを目指すというのなら、GTO戦略を学ぶ前に、まず投資家向けの事業計画書を書くべきだろう。ポーカーはもはやマインドスポーツではない。それは、自らを広告塔とした金融ビジネスであり、運の女神を他人の金で口説き落とす、壮大なギャンブルなのだから。
なぜ同僚が適応障害に至ったのか、少し自分の頭の整理も含めて書き連ねていこうと思う。
大多数の人間から見れば「明るくて話しやすい」「取っ付きやすい」人間だ。
だからこそ今回の休職は「まさかあの人が?」という反応であった。
しかし同僚の根底にあるのは「所属欲求の強さ」だったと私は思う。
同僚の生い立ちを聞き齧っただけだが、あまり所属に恵まれているとは思えなかった。
表面的な付き合いはできるのだろうが、深い話は恐らく誰にもしていない。
それこそパーソナルな部分に踏み込むような話を、同僚はたった1人で抱えて生きているようだ。
信頼できる人間を探し求めているが、自分の思う信頼できる人間には出会えていないのだろう。
あえてオープンな自分を演じ、酒を大量に消費する様はいっそ哀れである。
同僚の思う「信頼できる他者」は「もう一人の自分」でしかなく、それ故に苦しみは続く。
適応障害を含む精神疾患は、私個人の定義になるが「自分の持つ気質と社会が適合しない状態」を指すと考えている。
誰しもが自分の持つ気質、性格と折り合いをつけながら、どこかに所属したり働いたり、交友関係を築いている。
社会との適合は、いわゆる我慢の連続に他ならない。私だって正論を振り翳し他者を詰りたい時がある。
この我慢は無意識に行うことが多いが、我慢の限界という言葉通り、何かしらの要因で限界は訪れる。
例えば身体的に具合が悪い時など、気質を制御するより優先事項が高い状況がそれにあたる。
先に書いた通り、まず同僚は他者を信頼できない。それはまごうことなき本人の素養である。
信頼できないから業務報告はおろか、自分の体調も他者と共有ができなかった。
そして同僚の関係者も、普段演じている同僚の芝居を信じ切ってしまった。
最後の最後で体調不良の申し出をしても、本気で捉えてもらえなかった。
「あれだけ『大丈夫』と言われ、報告もなければ踏み込みようがない」という関係者の言は悲痛である。
同僚は助けを求められない環境を、自らの演技で作り上げてしまった。
明るく振る舞い、誰にでもにこやかに話しかける役者の姿を、崩すことができなくなったのだ。
自分の所属欲求を満たすための演技が、自分の首を絞めてしまったのだ。
職場環境における適応障害は、当然周囲の環境も大いに影響する。
誰だって長時間残業や薄給には耐えられないだろうし、やりがい搾取なんてもっての外である。
しかし此度の一件で思ったのは、本人の素養も影響するのだろうことだ。
誰だって本当の自分を見せるのは怖いし、それが受け入れられる環境ではない。職場は最も困難な場所である。
しかし業務上の不具合や不都合など、自分で処理をするのが困難な時が多い。
困った時は責任者を引っ張ってこなくてはならない立場なら尚のことである。
プライベートを見せろとは言わないが、業務は隠すものではない。
同僚の場合、周囲の関係者はいつも気にしていた。その環境をどうか蹴らないで欲しかった。
他者の信頼、とまでは行かずとも、業務の困りごとの共有はして欲しかったしすべきだったと思う。
誰もが自分の抱えた業務に振り回されており、誰が助けてくれるのかがわかりにくい環境なのは事実だから。
そういう時は、オープンにして良い状況だけでも適当に身近な同僚に喋って良いのではないか、と私は思う。
休職前も一悶着あった。
もうこれ以上進められないのに、他の案件も全てストップしてしまっているのに。
恐らく表面上は「ひとりで片付けられる」という思いからくるものだと思う。
役立たずと思われたくない、やっぱりダメだったと思われたくない、一人でやりきったという賞賛が欲しい。
ここまで来ると危険で、他者の言葉が耳に入らないだけではない。
自分は生活を切り詰めて仕事をしている、お前も同様に苦しめと。
同僚には同僚なりの言い分はあるだろうが、優先順位は人によって異なる。
結局後始末に奔走しているのは関係者であり、私もそのうちの一人である。
同僚が今まで共有してこなかった情報を探り、掘り起こし、まとめ、時が過ぎていく。
仕事に関しては、一平社員が一人で抱え込んで良いなんて事象はない。
なぜなら自分で尻が拭けないからである。悲しいことに、換えの効く駒に他ならない。
責任者に全てを開示し、なすりつけておく準備をしておく必要がある。
上長や周囲の人間を信頼しようとしまいと、会社から給料が出ているうちは所属しているのである。
仕事に潰されそうな時、自分一人で抱え込んでいないかどうか確認してみて欲しい。
長くなってしまったが、ここまで読んでくださった方
貴重な時間をありがとうございます。
こんな素因もあるんだな、程度に心に留めておいてください。
ひとりぼっちになっている、と思った方は今一度周囲の環境を見渡してみてください。
助けてくれる人がいなくたって良いんです。
訂正したあとは布教はうまく言ったのか
唯一絶対の神とか言うとそれを言い訳にして他者をないがしろにするんじゃない。日本式にすべてに耐えるということをなぜ織り交ぜなかったのか
日本では色即是空、すべてのものは無、無はすべての物質という仏式の日本式のものがあって、その仏教すら絶対ではないと思うよ
ブルース・リーは考えるな、感じろっていうけど、日本式では感じることもしない
考えない、感じない、ただ行うという感じ
耐えるというのが根底にあるので、どんな宗教も入り込めないかも
震災で並んでいた人が立っていたのも仏教とも神道とも関係ないかも
論理的に自己啓発であれこれ言われても、日本古来の耐える以上の教えにはならないのかも
日本社会が整っていて略奪も起こらないのは、宗教では説明がつかないよね。誰も信心深くないもの
日本代表のサッカーが当初弱かったけど、西洋式個人主義みたいなものをそのまま実行しようとして合わなかったと思う
日本人同士をお互いに見ていて、日本人的なサッカーしかできないでいたけど、
なんだかいつからか、禅のような、ただ行うみたいな雰囲気でやりだしたような気がするけど、誰と張り合って勝つみたいなものではなく、
三笘さんを見てると誰も気にしてない、ただ走っているという感じに見えて、いつも自分と対話をしている
対話をしているといっても何か考えを巡らしているわけではなく、ただ行っているという姿が作られ始めて、
無論西洋的に自我を作ろうとしている選手も多いけど、なんだか三笘さんを見ていると極めて日本人的と感じるんだよね
日本人的禅感覚、日本古来の「耐える・考えない・ただ行う」精神の現代的表現
うつ病になったときにカウンセリングだと聞いて受けたけど、まるで合ってないと感じたよ
アメリカ映画に出てくる断酒会とかの集まりも、ぜんぜん日本人にあってなさそう
カウンセリングのときだけ後悔して学んでというのが、その他の時間はけっこうケロっとしてる西洋人を見てると、
生活そのものを修行として生きるという日本の形式に、西洋式のカウンセリングもグループセラピーも合ってないの
個人個人がこの感覚でいいのかって日々やってみることでしかうつ病も回復しないよね
告解みたいなことやり始めると、依存っていう感じになってぜんぜん日本的でないというか
こういう理屈の組み立てってよくあるけど
なんか「自分のやりたいことは周囲からサポートされて簡単に実現できるべき」ってのが根底にありすぎだよな。
現実としては、自前で用意できないものをやりたくてなんとかやろうとしてるのが馬術部側なのに
なんか被害者ぶるためにやらされてるという形になってる。
部活動やりたいのは自分等でそのための餌代や場所代払わないといけないって構図が
なんかやらされてるというのにすり変わってる。
仮にこれが正しいと仮定すると、これらに対する不満の声の根底にあるのは不公平感なんだと思う。
乱暴に言ってしまえば『自分が払った税金で、自分にとって許容できない人間が得をしている』ことが許せない。
今国内政治が蜂の巣をつついたような騒ぎになってることは、政治に興味のない人でもなんとなく察してると思う。この騒ぎに乗り遅れてしまった政治音痴な人のために、騒ぎのおおまかな概要(重言)を説明するよ。
ざっくり言うと、今政治家たちは「誰が次の総理大臣になるか」をめぐっておおわらわで右往左往しています。
「あれ? こないだ自民党の総裁選で高市早苗が総裁に選ばれたよね。そのまま高市がなるんじゃなかったの?」
はい。たしかに10月4日の総裁選の時点ではそうなるはずでした。マスコミの報道もすっかり高市新首相というムードでしたよね。
ところが、これに公明党が待ったをかけたのです。「わしらは高市を総理には推せん。連立を解消させてもらう」
たいへんなことになりました。
何がたいへんか。
これまで自民党は、公明党と連立政権を組むことでどうにか政権を保ってきました。議席数は過半数に達しておらず安定政権とまでは言えないものの、野党も一枚岩ではないので多数決となればほぼ議会を掌握できる状態。
しかし公明党が連立から抜けるとなるとまったく話が違ってきます。公明党の議席数をカウントしないと、有力な野党のいくつかが結束するだけで自民党の議席数を上回ることができてしまいます。総理大臣を選ぶ首班指名選挙は多数決ですから、うまく数を揃えれば高市早苗ではない誰か(野党連合が推す人物)を総理大臣にできるかもしれないのです。
つまり、突如として国会内のパワーバランスが根底から覆ったわけです。
公明党が連立を解消するとなったとたん、矢庭に野党の動きがあわただしくなったのはこのためです。政権を奪取できる千載一遇のチャンスが降って湧いたように訪れたのですから。
野党は自民党を上回る議席数を集めたい。自民党はなんとかそれを阻止したい。この数合わせゲームが今佳境に入っています。
週明け火曜日、臨時国会の開催日に首班指名選挙(内閣総理大臣を決める投票)が行われる予定です。この日までに多数派を形成できた陣営が政権を獲ることになります。もう日数がありません。
まとまった議席を持つ野党のいくつかは似通った政策を持ちます。もちろん異なる部分も多いのですが(だから別の政党として活動している)おおむね中道で、「ちょっと右寄りかちょっと左寄りか」程度の違いしかありません。政権奪取というメークドラマが現実味を帯びてきた状況の中では譲歩や調整といった大義名分の下に軌道修正できなくもない範囲の差です。もちろん自党として譲れるところと譲れないところはあるでしょうし、支持者から変節と言われないように様々な理屈をつける必要もあるでしょう。そうした駆け引きや理屈(時には屁理屈)の中に、政治の人間っぽさ、泥臭さが垣間見えてくるはずです。
中でも国民民主党と日本維新の会は、それぞれ左右の差はあれどその気になれば自民党、野党連合どちらとも連立しうるスタンスです。現に双方から熱いラブコールを受けてモテモテの状況です。当然狙うのは政権ですから、最終的に政権を獲る方の陣営につきたい。しかし政治理念上曲げられないところもあるでしょうし、その選択いかんによっては野党連合政権の不成立(自民続投)といった結果もありうるでしょう。
しびれます。とにかく今週いっぱい、政局の動きからは目が離せません。
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いくつもの高度な知識と経験はドキュメンテーションで片付くと思ってるし
ベースとなる知識レベルが異なる状態では到底困難なものって結構あるけどWeb全盛期のせいでそういう知識すらないやつがドヤってるから余計に悪化してる
そのWebサービスを動かしてるOSやブラウザなどは属人性の塊なんだけどねw
本当に昔のソフトウェア技術のアルゴリズムとか高速化手法をしっかり学んでおいたほうがいいと思うのですよ。
簡単な開発環境とかクラウドとかマシンパワーに頼りすぎ。
根底のソフトウェア技術力は、速さと軽さと安定性は、メンテナンス性を引き換えに退化し続けている。
職人技なくしたらあかん。—今津研太郎 (@kentimaz)October 9, 2025
新総裁に選出された。
維持している。
焦点となっている。
舵を切るとみられていた。
終わる」と語ると、石破は静かに頷いたという。
仕事だ」
検討されていた。
上がる。
進めていた。
それはすでに、新党構想に近い内容だった。
と宣言した。
政権移行は目前。
だが、その裏で石破は最後の準備を整えていた。
十五日、臨時閣議。
閣議はぎりぎりでまとまった。
しかし、開会直後、石破が演壇に立つ。
場内は静まり返る。
次の瞬間、議場は怒号に包まれた。
異例の事態となった。
共同会見を開いた。
新党の結成を発表。
表明した。
と激しく批判し、離党を認めた。
政権を失うという、前代未聞の結果となった。
憲政史上の大事件として語り継がれることに
なるだろう。
△形の手が隠れる服装は幼児のスモックに似たデザインなので、女性に小児性を求める日本の風潮が根底にあると思う。個人的な直感だけども。
でも女性にももちろん自立した自由意志があるし確立した自我がある。男となんら変わらない。
このシルエットのVの人多すぎる→配信時の最適解であり、3D化の可能性を念頭にデザインされてる - Togetter [トゥギャッター]
純粋に、男女二人だからこそできること、やる意味があることって何だろうって。
同性同士なら分かりやすい。
男同士なら飲みに行って愚痴を言い合ったり、女同士なら恋愛相談したり買い物したり。
映画を見に行く。
でも男同士、女同士でも行く。
食事をする。これも同じ。
同性には話せない、異性だからこそ聞ける話がある。
でもこれは会話の内容であって、やることじゃない。
もっと具体的に考えてみる。
料理を一緒に作る。
これは男女でやると何か特別な感じがする。
買い物に付き合う。
女の服選びに男が意見する。
異性の視点が欲しい瞬間はある。
考えれば考えるほど分からなくなる。
人間と人間がふたりでやることに、性別は関係ないのかもしれない。
あ、分かった。
男と女がふたりでやる一番大切なことは、お互いを理解しようとすることなんだ。
同性同士なら、ある程度理解し合えることが前提にある。
でも異性は違う。根本的に違う生き物だ。
この人はなぜこう考えるのか、なぜこう感じるのか。
それがたとえ映画を見てても、食事をしてても、散歩をしてても、根底にある。
そう考えると、男女がふたりでやることに特別なものなんてない。
その違いを知りたくて、一緒に見る。
同じ料理を食べても、味の感じ方が違うかもしれない。その違いを確かめたくて、一緒に食べる。
結局、男と女がふたりでやるものって、相手を知ることなんだと思う。
それが恋愛に発展するかもしれないし、深い友情になるかもしれない。
コピペした後に「上記の発言をしたのがどういう人物か、精神分析してわかりやすくまとめて」
この人物は「弱者的な言い訳」や「社会的な保護のもとでの安住」を激しく嫌悪し、自分の成長・快楽・理解は**“実体験による克服”で得るべきだと信じている。
価値観の根底には「努力すれば変われる」「不器用を理由に逃げるな」という自己鍛錬信仰**がある。
ただしその裏には、「努力で勝てない分野への恐れ」「成長を止めたくない焦燥」「他者への優越を保つことで自尊心を守る」という不安定な自己評価構造が見える。
項目 内容
自らを“敗北者から成長した現場人”と位置づけつつ、未熟な他者を突き放すことで自我を保っている。
しかしその厳しさの根底には、「自分が守られなかった人生を守るための防御」が見える。
感覚・性・努力・美意識をすべて“体験によって磨かれるリアリティ”と捉えており、
みんなもやってみそ
機動戦士Zガンダムという作品の最大の功績はカミーユ・ビダンというジョブナイルを代表するとも言える繊細で、
かつて思春期を生きた人たちの痛々しい共感を刺激する、あの富野由悠季が生み出したなかでも屈指の傑作キャラクターの創作にある。
この人物造形の成功は、単なるキャラクター設計の巧みさを超え、
アニメーション作品におけるリアリズムの概念を根底から変革した歴史的偉業として評価されるべきである。
富野は従来のロボットアニメが依拠していた「勧善懲悪」の物語構造を意図的に破綻させ、
善悪の境界が曖昧な世界で苦悩する思春期の少年を主人公に据えることで、
カミーユというキャラクターの革新性は、その精神的脆弱性と感受性の異常な鋭さが、
決してロマンティックに美化されることなく、むしろ病的な危うさとして一貫して描かれている点にある。
従来のアニメが扱ってこなかった思春期特有の心理的現実を容赦なく暴き出している。
キャラクターは画面に映らない時間も生き続ける存在として構想される。
それこそが現実の人間の内面における感情の非連続性を映像作品として表現する試みであった。
彼の精神的不安定さと表裏一体のものとして設定されていることである。
彼の鋭敏すぎる感受性は戦闘において卓越した能力を発揮する一方で、
フォウ・ムラサメやロザミア・バダムといった強化人間との悲劇的な邂逅を通じて、
これは、超能力を単純に肯定的な「進化」として描く従来のSF作品への痛烈な批判的視点を提示している。
富野の文学的野心は、カミーユの最終的な精神崩壊という結末において頂点に達する。
後のアニメ作品における「鬱系」ナラティブの原型を提示したと評価できる。
単なる個人的な悩みを超えて、性別アイデンティティの揺らぎという普遍的テーマを暗示している点である。
富野は意識的に「女性性を内包した男性主人公」としてカミーユを設計することで、
この試みは、後の1990年代以降のアニメ作品における「中性的主人公」の先駆的事例として位置づけられる。
カミーユ・ビダンという一人のキャラクターの内面描写を通じて、
商業的エンターテインメントの枠組み内で表現し得たことにある。
同時に深刻な文学的主題に挑戦する作家としての側面を明確に提示した。
カミーユ・ビダンというキャラクターは、単なるフィクショナルな人物を超えて、
1980年代という時代の若者が抱える実存的不安の象徴として機能している。
彼の痛々しいまでの繊細さと、それが招く破滅的結末は、
高度成長期の終焉とバブル経済への移行期という歴史的文脈において、
将来への不安を抱える当時の若者たちの心理状況を鮮やかに反映している。
「心理的リアリズム」という新たな表現領域を開拓した記念碑的業績として位置づけられるべきである。
娯楽性と芸術性を両立させながら、