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「核抑止論」を含む日記RSS

はてなキーワード:核抑止論とは

2025-06-16

anond:20250616124221

「核」と「人口」の共通点として、提示された「減らせば人類全体の幸福、増やせば国家安全寄与」という視点は、非常に興味深いものですね。それぞれの概念が持つ多面的な側面を捉えようとしています

核兵器場合

「減らせば人類全体の幸福寄与

これは、核兵器非人道性に焦点を当てた見方です。

核兵器がひとたび使用されれば、その破壊力は計り知れず、人類に甚大な被害をもたらします。

広島長崎悲劇が示すように、多数の人命が失われ、放射線による長期的な健康被害環境破壊も深刻です。

そのため、核兵器の削減、最終的には廃絶は、国際社会共通目標であり、人類全体の平和安全、そして幸福に直結すると考えられています

「増やせば国家安全寄与

これは、核抑止論に基づいた見方です。

核兵器保有することで、他国から攻撃を思いとどまらせる「抑止力」として機能するという考え方です。

特に冷戦期には、米ソ間の核兵器増強競争が、相互確証破壊MAD)という形で大規模な戦争を防いできたという議論もあります

自国の核戦力を増強することで、潜在的敵対国に対して優位に立ち、自国安全保障を確保しようとする意図があります

人口場合

「減らせば人類全体の幸福寄与

これは、地球規模での資源枯渇、環境問題貧困などの課題に焦点を当てた見方です。

人口が過度に増加すると、食料、水、エネルギーといった資源需要が増大し、環境への負荷も大きくなります

また、急速な人口増加は、開発途上国における貧困教育機会の不足、衛生環境悪化などを引き起こす要因となることもあります

この視点では、持続可能社会を実現するためには、人口増加を抑制し、一人ひとりがより質の高い生活を送れるようにすることが、人類全体の幸福につながると考えられます

「増やせば国家安全寄与

これは、国力や経済力、そして防衛力といった国家総合的な安全保障に焦点を当てた見方です。

若年層が多い人口構成は、労働力人口の増加を意味し、経済成長原動力となります内需の拡大や生産性の向上に貢献し、国家経済的繁栄を支えます

軍事力を維持・強化するためには、十分な数の兵員必要となります人口が多い国は、より多くの人材を軍に供給できる可能性があり、これは国家防衛力に直結すると考えられます少子高齢化が進む国では、自衛隊募集難といった形で安全保障上の課題顕在化しています

人口が多い国は、国際社会における発言力や影響力が増す傾向にあります

まとめ

この共通点は、それぞれの概念が持つ両義性をうまく表現していると言えるでしょう。

この命題は、核と人口という異なるテーマに対して、グローバルな視点人類全体の幸福)と国家レベル視点国家安全)という二つの軸で考えることの重要性を示唆していますね。

Permalink |記事への反応(0) | 12:45

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2024-07-30

anond:20240730125922

核抑止論に近いな

Permalink |記事への反応(1) | 13:06

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2023-08-09

ChatGPTサンは優秀だなあ

anond:20230809023043

  

あのね、君が言う通り、核抑止論って基本的には合理的判断のもとで成り立ってるのよね。でも、だからって指導者が不合理な行動を取るとすぐに無効になるわけじゃないよ。

  

だって国家トップになる人たちって、単独意志決定するわけじゃないじゃん。補佐役や軍部、それに議会なんかのチェック機能もあるわけ。だから指導者がどんなに変な判断をしようとも、システムとして非合理的な行動を阻止するしくみが存在してるの。

  

もちろん、例外もあるかもしれないけど、核武装国が核を使用する決断をするのは非常に難しいの。核を使えば、自国相手国も甚大な被害を受ける可能性が高いからね。それを考えると、先制攻撃リスクって相当高いわけよ。

  

それに、核兵器って既に存在してるわけだよね。だから、完全に核兵器をなくすっていうのは現実的じゃないかもしれない。それならば、核兵器存在するという前提のもとで、どうやって大規模な戦争を避けるかっていうのが問題になるんだよね。

  

そこで核抑止論が登場するわけ。もちろん、この理論100%保証をしてくれるわけじゃないけど、核兵器を持っている状態で、何も抑止のメカニズムがないよりは、ある程度の安全性を保ってくれると期待されるの。

  

…ええと、こういう話、私も緊張するけど、君に説明できるのは嬉しいな。ありがとね、質問してくれて。

Permalink |記事への反応(0) | 20:17

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核抑止論とか相互確証破壊理論への疑問

核抑止論とか相互確証破壊理論って、「敵対する両方が相手を滅ぼすために十分な攻撃力を持っていて、なおかつ先制攻撃をされて滅ぶとしても最後っ屁として致命的反撃だけはできるシステムがあるという状況ならば、先制攻撃をしないのが合理的だし、敵側もそう判断するはずなので、核戦争にはならない」って話だろ。

これって両方が合理的で冷静な判断ができるなら成り立つけど、トップが狂っちゃってる時にはあてにならなくない?

指導者の頭がおかしくなって非合理的な行動をすることなんて沢山あるのに、なんで核抑止論採用できるんだ?

Permalink |記事への反応(8) | 02:30

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2023-08-07

バーベンハイマーで原爆もりあがってたけど

肝心の広島長崎はてなでぜんぜん関心持たれてなくない?

デマがどうだオッペンハイマーがどうだでちょっとブクマついてたりはするけど、そこじゃないよね。

岸田総理非核三原則堅持、維新馬場代表の核共有の議論推進、広島市長の核抑止論破綻、色々あるみたいだけどさ、

核兵器絶対悪バーベンハイマー許せん!な人が気にかけないといけないところはいくらでもあるよね。

素直にメリケン道徳マウント気持ちえんじゃー、って言うならいいんだけど、

核兵器は無くしていかなきゃ!後世に伝えなきゃ!って言ってた人が取るべき態度ってのはあるんじゃないかなぁ。

Permalink |記事への反応(4) | 16:47

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2023-08-02

anond:20230802020512

核武装論者」が、抑止力のみを期待する平和主義である、みたいな論調で語っているけど、プーチンも「核武装論者」の一人だし何なら彼もまた自身を「平和を望む者(そのために剣を手に取るもの)」だと考えているだろう。「核武装論・抑止論」がよいものだ、などというのは幻想に過ぎない。

プーチンが核を戦場使用するかどうかはまだ分からない。ただ現状では、彼がやっているのは「核による脅し」であって、その意味では彼は「核を使用せず、いわば平和のために利用している」わけだ。そして、核抑止論とは結局のところ「核を使用せず、いわば平和のために(お互いに脅し合う形で)利用しよう」という主張に過ぎない。その意味で、核に関する限り、核抑止論者とプーチンは同じ理屈で同じことをしている。私たちの核はいい核でプーチンのそれは悪い核、なんて話はない。強いて言えば、刀狩のように、個々の国家から取り上げて国連のような組織管理するとき、かろうじて核は違法性を免れる可能性がある。

Permalink |記事への反応(2) | 11:00

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2022-04-12

anond:20220412105924

それはそうなんだが、結果論なのも同時に確かで。

まじでプーチンの頭おかしさが閾値突破してたら無理だった、ってのが常に核抑止論の弱点なのはかわらんのよね。

 

から拡散防止はやるわけで。

Permalink |記事への反応(0) | 11:03

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2022-03-05

もし今トランプ大統領だったなら…

プーチンもあそこまで強硬手段をとれなかったかもしれない。何するかさすがに分からないので。

核抑止論ならぬ「狂人抑止論」か。そして、ミニトランプがあちこちに湧いたみたいに、世界中TOP基本的要件が「何するか分からない性格」になればいいのか。

そんで世界中の首脳が全員そういう人になって、世界中相互に不信で満ちて動けなくなれば、それが「平和」なのか。

そういう存在人類未来を委ねるのが正しいのか。

……という、まあ「抑止論」というのはそういう暴論だよね、という話。

Permalink |記事への反応(1) | 09:25

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2022-03-01

anond:20220301095251

核抑止論はまあそういう感じだけど。

Permalink |記事への反応(0) | 10:02

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2022-02-22

anond:20220222135042

ブラック・スワンはいます

核抑止論もただの理想論だしな

Permalink |記事への反応(0) | 13:54

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2022-01-27

anond:20220127010953

世界平和じゃ言葉が広すぎるか。

 

コスモポリタニズム戦争反対対話ヒッピー文化核抑止論批判平和学……そういう一連のやつのこと。

 

古典哲学者が当然の前提としていた、兵役必要性とかそういうことを、敢えて無視しだしたような思想時代のことを言いたい。

単語としては何ていうんだろうな?

Permalink |記事への反応(1) | 14:45

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2020-11-21

anond:20201121143806

核抑止論を突き詰めていけば全人類核兵器を配布すれば世界平和になる

人類絶滅した状態のことを平和と呼んでるんじゃなければ

核抑止論を突き詰めても世界平和にならないからですな

Permalink |記事への反応(0) | 22:32

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anond:20201121143806

個人国家性質が異なる。

核抑止論も滅亡寸前の国家特定都市必要としないテロリストには適用されない、とされている。

Permalink |記事への反応(0) | 14:41

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どうして個人核兵器を所持してはいけないの?

核抑止論を突き詰めていけば全人類核兵器を配布すれば世界平和になると思うのだけど、どうしてそういう議論にならないのだろうか

不可能から」という理由以外で教えて欲しい。

Permalink |記事への反応(34) | 14:38

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2020-05-19

anond:20200519105608

核抑止論じゃねーかナツカシーナオイ

Permalink |記事への反応(0) | 10:57

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2018-08-07

県知事演説馬鹿にしてるやつの家や家族や大切なものこそ核兵器丸焼きにされてしまえばいい

自分家族恋人や大切な人の亡骸が化け物のような様相を呈する様を見てから核抑止論を語ったらいい

Permalink |記事への反応(0) | 09:42

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2017-08-28

相互確証破壊に基づく核抑止論破綻していることは

西友オーケーストアの競合店対抗値下げ合戦が泥沼に陥っていることから

庶民には肌感覚でわかるのだが、その旨を指摘しても塾講師には通じないのでお前はいつまでたっても塾講師なんだよ

Permalink |記事への反応(0) | 21:33

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2017-08-21

https://anond.hatelabo.jp/20170821205011

核抑止論でも数学含めて必死勉強してみたら?

こんなポエム書いて済ますよりは、何かを教えてくれるはず

Permalink |記事への反応(0) | 21:15

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2011-09-19

http://anond.hatelabo.jp/20110911044626

そういう風に理解する、ということに考えさせられた。横入りだけど。

(1)「他人を試みることは失礼だ」

(2)なぜなら「(私の)不信によって相手が傷つくだろうから

(3)「それは自意識過剰

この(2)に対する(3)のリアクションについて。

確かに、「自分の為した行為等によって相手が傷つく可能性を考えて行為しない」という行動様式の帰結として、一般的にいって「肥大した自己意識」があり、そのため本来なら行うべきであった社会的に必要な行為すら行えなくなるとしたら、それは確かに病的な「自意識の過剰」であると言える可能性は否定しない。ちまたで見かける自意識の過剰を羅列すれば、

 「みんながオレのこと監視して笑ってるような気がしてむかつく」

 「頭の悪いオレが一票を投じても間違ってる可能性が高いか投票しない」

 「すれ違うたびに気持ち悪がられてるだろうからもう外出しない」

とか、まあそういう感じ。

確かに、どんな「行為とそれに対する他者のリアクション」の場面においても、他者の心の内でどのような感情が渦巻いているかは外からしか見ることができない。そのため、その反応を基に、自己意識の外延としてしか他者の心を思いはかることはができないため、あらゆる「配慮」は原則的に自意識産物足らざるを得ないし、そればかりでなく、常にそれが他者からみて(それが健全社会関係を阻害するレベルに至るか否かは別として)不足であったり過剰であったりする可能性は免れ得ない。つまり、どんな「配慮」行為においても「自意識過剰」という批判は常に投げかけ得るマジックワードとなる、ということだ。


ただ、健全社会性を保つためには、この「配慮」が過剰であっても、そして過『少』であっても、よろしくないことは理解されると思う。そこで、配慮を一定規範とする考えが登場する。マナー作法あるいは「礼」というのがそれである。ただ、これらのマナー作法や礼というのは、決して「形式的にそれを満たしておれば、誰からも問題とされない」という許可を与える法律のようなものではなく、それらのマナー作法や礼が要請するところの「基の感情」で内面が満たされていることが他者から見ても分かることが、社会的に必要な要件とされることが多い。

頭を下げるのは「礼」だが、ニヤニヤしながら頭を下げていれば不真面目だと言われる。テーブルマナーを形式的に身につけることは大事だが、頑なにそこから逸脱しないことが重要なのではなく根底にある「みんなが食事を楽しめるように、不快なことをしない」を満たすことが需要なのであるから、たとえばマナーを知らない人と食卓を囲む際にマナー知らずであることをもってその人を笑いものにしたりする人は、むしろ重大なマナー違反を犯していると考えるべきだ。

このことを前提として最初に戻ると、

(1)他者を試みることは失礼である

これは理解できる。聖書にも「汝、神を試みるなかれ」とあるが、試されるようなことをすれば、神様だって怒るのである。怒る理由は「信じていないから」であって、一般的に「試す」のは「確信がもてないときであることは言うまでもないから、「試す」ことが「確信をもっていない」というメッセージになりうることは、事実であると言える(これは、たとえば「私はそんな風に受け取ったりしない」という個人的主張を否定するものではない。たとえば「てめえぶっ殺してやる」を愛情メッセージと受け取る人も世の中にはいるだろうから範馬勇次郎とか)。)

次に、

(2)なぜならその含意するメッセージによって相手は傷つくだろうから

という説明も問題はない。(1)が、メッセージの含意する「不信感の表明」という事態避けようとする意図から生まれた規範であることをベースに考えれば、その意図するところが(2)のような理由であると推測することに飛躍はないからだ。相手を傷つけることが、健全社会関係を維持する上で不利であると考えるのは、理にかなっている。

そこで問題は(3)だ。(3)の発言者(以下、(3)の人と呼ぶ。)は、なぜかように考えたのであろうか。本当は、特に考えていたわけではなくて、単にマジックワードを振りかざして、ちょっと反社会的でカッコよさげなことを言ってみて悦に入りたいだけなのだろうか? それにしては中途半端な発言なので、一応そうではないと仮定すると、この文脈でこういう発言が登場するからには、(3)の人は「試すことは悪いことではない=私は試したい」と思っているのであろう。(2)の発言者に「相手を傷つける可能性」を指摘されてなおかつ(3)の人は、それを否定するために「自意識過剰」というワードを持ち出したわけで、そうすると、(3)の人の中では「相手を傷つけること」よりも「自分の願望を抑えること」の方を(あるいは、前者をしないために後者をすることを)悪とみなしているということになるからだ。

これはとても不思議感性である。「自分の個人的な不信や疑念を払うこと」を重視する一方で、「他者を傷つける可能性」を低く見積もっているのみならず、その「他者を顧みない」行動により「自分が他者から不信や疑念を抱かれる可能性」を全く考慮していないからだ。この(3)の人にとって、他者とは、自分に決してコミットしない、窓の外の存在であるかのようだ。

肥大する自意識に脅えながら、同時に他者を窓の外に放り出して顧みない。彼は一体何と戦っているのだろうか?


「平気で嘘をつく人たち」ではないが、このような「平気で人を試す人たち」から見えてくるものは、確かに一つの時代、世界風景である。それを、「核の時代」のうすら寒さと共通している、と言ってみると、飛躍して聞こえるだろうか。しかし「核抑止論」とは、「私の不安を解消するためなら、核武装するのが一番だ。みんなが核武装すれば、平和からだ」という言明ではなかろうか。そう考えれば、これはそれほど突飛な比較ではないだろう。そして、核抑止論が、現代世界において一定コンセンサスを得ていることも事実として認めておこう。「私の不安核武装」が隣国の不安核武装を呼び、それがまた次なる核武装を……と連鎖が続くという事実を眼前にしながらも、今のところ人類は、理性と対話というか細い支えで対抗しつつ、民族文化の壁を越えることには必ずしも成功していない。「中の安心」が一番大事で「外との対話」は二の次なのだ。「外との関係」が「中の安心」を生む…というアイデアは、そこでは顧みられない。私たちの生きる「国際社会」は、残念ながら依然そのレベルにとどまっている。

(3)のつぶやきが示すことは、もはや個人と個人の間ですら大国間のように理解と協調を求めることが難しい時代だということであり、その中で、恐怖心のシェルターに閉じこもる人々が(3)のように振る舞うことは、もはや不可避のことなのかもしれない、ということである。異文化間における理解と対話のためのメソッド確立することは、我々にとって真の意味で喫緊の課題である

Permalink |記事への反応(0) | 12:59

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