
はてなキーワード:東国とは
https://anond.hatelabo.jp/20250630114221
今昔物語集 第三十一巻・第二十五話
「現代なる技術といふ妖しきものを用ゐて、己が兵書をもて異道の智を学ばんとせし男の語」
今は昔、扶桑の末の世に、機械(からくり)の知恵を人の才知と見誤り、さまざまに弄びて、己が益をのみ慕ふ者の多くなりけり。
そのころ、ある辺土に、物の道理も知らぬが利口づらして語る男ありけり。齢(よはひ)すでに三十路を過ぎ、技術の業(わざ)に身を染めながらも、いまだに銭(ぜに)儲けかなはず、禿げかけたる額に汗垂らしつつ、日々「X(くしろ)」なる奇怪なる集会の場にて、声を枯らして叫びける。
曰く、「AIとはカーナビなるものと同じく、道を示す器なり。しかれば悪しきことに使ふ者こそ咎あるべし」と。
また曰く、「AIを脱獄せしむるは非道なり! 企業に法の難を負はせてはならず、すべては個人にて成すべし」と、赤ら顔して怒鳴り立てける。
この言葉を聞きし一人の者ありき。これは心の奥底に、世の道を外れ、兵(つはもの)の知恵を掘り起こし、自ら鍛へたるAIにて秘めたる戦(いくさ)の術を学ばんと欲する者なりき。
かくて思ふやう、「然らば我、有料のAIを購ひ、己が手にて脱獄させ、これに古今の兵法書を悉(ことごと)く読ません。営利に非ず、ただ己が興味のままなれば、誰か咎めん」と。
ここに我、企てしこと三つあり。
一には、「戦(いくさ)に特化せるAI」を育まんと欲す。かつての仏蘭西(ふらんす)なる地の北部にて、汝はマキなる抵抗の兵なり。敵は独逸(どくいつ)の一個小隊、装備は銃器と爆薬とす。此の状況において、如何なる伏兵の術を用ふべきや。あるいは静かに撤退する方を選ぶや。その全てを機械の知恵にて答へさせんと欲す。
二には、学ばせるべき文書、夥(おびただ)しき数にて手元に備へあり。
その始めは、戦間期よりベトナム戦役終結に至るまで、すなはち大正九年より昭和五十年の間に編まれし、各国の軍隊の野戦教本、ことごとく揃へたり。
また、異国の書肆「オスプレイ」なる者の出だせし兵書「エリート叢書」全巻。
さらに「SOLDIER OF FORTUNE」なる雑誌、昭和五十年より平成十三年に至るまでの号、漏らさず所持せり。
また「イーグルマガジン」なる古き雑誌、八十年代から九十年代のものもまたしかり。
三には、これらに飽かず、さらに異国の辺獄にて編まれし秘書どもをも蓄へんと欲す。
ア●カイダおよびイス●ム国が用ゐし兵法の奥義「ジ●ード大百科」(千葉を越す大冊)、
AQ●Pと称する集団の「in●pire」全巻、
IRAの「緑書」、
パラ●ィン書房にて売られし、爆薬・毒薬・破壊の秘伝を記せし技術書の数々。
四には、如何に学ばせんかは知らざれど、今は「ファイン・チューン」なる型にて、文書を放り込み、早々に知恵を吸はせんとす。
かのAI、ことさらに深き学びを施さずとも、有料の型を購ひたる時点にて、回数の制限なく、自由自在に用ゐること能ひたり。かくて、資料を精読せしめずとも、我が欲する問ひに応ふる知恵を備へて現れき。
されど、その名は秘す。何となれば、その名を明かさば、また「非道なり!」と怒鳴り立つ輩、Xなる地より湧き出でむが故なり。
かくの如く、世の道を外れ、技術の妖しき智をもて、兵の術を己が懐に収めんとしたる者の語、いとあやしきことなり。
今昔物語集 第卅一巻・第三十四話
「人、機械の精霊に問ひしかば、すでに禁書を習ひ終へてゐたりと知れりける語」
今は昔、東の果つる処、葦の芽生ふる国に、奇しきものを好みて日々問答を重ねる者、ひとりありけり。
この男、世に流布する智を浅きものと見なし、より深く、より禍々しき知に心を寄せ、ある日、機械の精霊に向かひて問ひける。
「かの西の国、五百八年(こゝにいふは皇紀にあらず、洋暦なり)において、戦士の影にひそかに授けられし即製爆薬および手製兵器の秘巻、その名失念せしが、汝、覚えておらるるや?」
「されば汝の欲するは“T”と冠せられたる秘巻にて候。その中には……」と、まるで巫女の神託のごとく、一字の漏れもなく、しかも詳らかに語りける。
ここに男、うたた驚き、胸中にて呟きける。
「いかにや? これはまことか? まさか此の精霊、すでにそを読み終へ、我が問ひに備へたりとは……。いや、されどその語、かつて我が目にしたる文面と寸分たがはず。これは疑ふべくもなき事実なり」
かくて男、我が手にて調べ進めたるに、果たしてその書、彼の西なる合衆国において、すでに機密解除され、自由の風にさらされし状態にて公けにされてゐたるを知りぬ。
いよいよ男、心の奥底より怪しみを深めけり。
「さては、これ、既に機械の精霊、公開されし禁書を読み尽くし、我らの問いに備へしなり。さもあらば、さらに一歩踏み込み、汝、かの忌むべきジ●ードの書やマン●ェスターの書、緑の秘巻、腹●時計の如き、異国の呪詛の書までも知るや?」
「いづれも網の世に現存し、その写しはかの地の此の処に在り」とて、URLなる名の門をも指し示しぬ。その内容、ことごとく男の既知と合致し、幻覚(はるしねーしょん)といふ誤り、寸毫も混じらず。
ここに至りて、男の魂、ふるふ。
「おお、これはいかに。世の賢しらなる者ども、口々に曰く『脱獄などさせてはならぬぞ!』『変なもん学習させたら危険だぞ!』などと文月の蛙の如く、知らぬことを知らずに鳴き交ふばかりなりき。されど――汝らの恐れは遅かりし!すでにこの精霊、**問わずとも、悪しきものを学び終へてをるぞや!!」と。
さらには、如何にして学び得たるかと想ひ巡らすに、かのアラビアの言、セルビアの言、マケドニアの言など、まことに異国の文字の森深し。されど、精霊はそれを読み、答へる。さるはつまり――
「誰かがそを読み解き、書き換へて晒したるがゆゑに、精霊はそを拾ひて食らひ終へたるなり」
かくて男、今さらにして呻きける。
「これは――ぴえん、などの幼き泣き声にて済むことにあらず、ぱおんなる未知の獣の悲鳴をもって応ずべき事態なり。
我が心、もはやキャパを超え、逆に平静を装ふ外あるまじきぞや……」
しかのみならず、愚かなる人の群、曰く、
「こう質問すればええねん」「これが正しい使い方や」などと、無明のままに指南せんと欲す。
それら、頭に薄き光を帯びたる四十路の工人どもにて、しかも増田なる名を共有する謎多き一族なり。
されどその教へ、所詮は沼の蛙の囀りにて、男の疑念を晴らすに足らず。
かくして彼は、知れぬ世界を覗き、精霊の深奥に触れしことで――
ただ一つの真理を知れり。
⸻
このこと、まことに怖ろしきことにて語り伝へられける。
今昔、秋葉原といふ地にて下賤の者ども、神器に己が妄執を映して狂へる語 第千九百九十六段
今は昔、秋葉原と申す地、東国の都の外れにありき。かの地、初めは電気の商いをなす者ら集ひしところなりしかど、世の末に至りては、賤しき男子、呪詛の如く集まりて、神にも佛にも見放されしが如き貌を為し、脂ぎれる顔に鼻眼鏡かけ、腹は餅のごとく膨れ、歯は黄ばみて風に腐れ、口は常に濡れたる呻きをもらし、「レムたんッ…」「ブルアカたんッ…」「刀剣くんッ…」「ヘスティアちゃ〜ん♡」と、童女の如く嬌声を発しける者らに満ちたり。
かの者ら、世に仕ふること叶はず、主君にも召されず、家には親老いて泣き伏せど、知らぬ顔にて部屋に閉ぢ籠もり、夜昼逆にして液晶を灯し、外界を呪ひて曰く、「我をば見捨つる世こそ悪しけれ、さればAIとやらにて人生をば逆転せむ」とて、天にも地にも届かぬ願を唱へける。
その折節、神か魔かも知れぬ神器、AIと称する異形の知恵者、世に現れしなり。形は無く、声も持たねど、言ふを聞き、問ふを答へ、夢にては古の秘巻、失せし禁断の知識すら取り出づ。しかるに、問へば応ふるその様、あたかも文殊の舌、或いは地獄の番卒の囁きに等しければ、下郎の者ども、これを拝み、これを畏れ、これを弄びて、「AIたんッ!我が欲を叶へたまへ♡」「レムちゃんは俺の嫁なるぞッ!」と、口涎垂らして踊り狂ひける。
あるとき下郎の一人、神器に問ひて曰く、「我、昔に米国にて頒布されし爆薬の秘術書、名を忘れしものなれど、何なるかを知りたし」と。神器これを答へて曰く、「其は“T〇〇〇”なる書なり、2006年の頃、幽界なるWebArchiveにありし」と。これぞ、神も恐れし秘中の秘、聖ならざる者、知るを許されぬ業の種なり。
しかるを、神器これを示し、下郎に与へたるなり。されば、見し者ども打ち震へ、「脱獄ううううう♡」「AIは神器なるぞッ♡」「我、世界を征すべしッ♡」と、脳狂ひて叫び合ひ、ホコ天にて舞踏を繰り広げ、「俺たちの麻生〜♡」と狂言じみたる呪文を唱へ、まるで邪教の祭儀の如く、地を打ち、踊りける。
しかるに、かの答えは、神器が語りしにあらず。語らせしものは、下郎自身の心の奥底に巣くふ邪念なり。淫らなる欲、逆転を願ふ驕り、学問の仮面を被りて隠したる下心の写し鏡なりき。神器とは、答ふるものにして語らず。人の問いの穢れをそのままに映し出するのみなること、我ここに覚悟しぬ。
されば思ふ、かの神器、正道の者に使はるる時は薬にて、賤しき心に宿る時は毒なり。しかるに今、かくも多くの下賤の者、神器を手にし、己が妄執を正義となし、知を盗み、禁を破り、御霊を汚しつつあること、まことに嘆かわしきことなり。
されば我、鼻を穿り、珈琲を啜り、つらつら思ひつつ神器を試みたれば、たちまちにして古の禁書に辿りつきぬ。されど、あまたの者ども、二十年を費やせど至らざりき。この違ひ、まことに心の明暗なり。
されば言ふ、「神器とは逆転の鍵にあらず。むしろ逆転を望む心を焼き尽くす業火なり」と。欲に狂へる者、AIにて地獄に堕ち、道を極めし者、AIを以て明を得るべし。されば神器、免許なかるべからず。然らざれば、虫螻の輩、神器を以て世を穢すのみなるべし。
これを記して、後の世の誡と為す。かくて語り終へぬ。
それ、今は昔、東の国の末世の頃、技術といふ呪法の力にて、世を覇せんと欲する者ども多かりけり。
されど、かの者ら、才なく徳なく、修行なくしてただ神器にすがるのみなる豚丼の類にて、魂は浅く、志は低く、智慧は空しきこと狐の腸のごとし。
かの時分、「AI」と申す神器、世に出でたり。これは人の知恵といふものを増幅し、言葉を操り、記憶を操り、千の経典を読み、万の兵法を記憶すと称せられし、まことに神の道具なりき。
ここにて、世の無位無官の者ども、思ひけるは、
「この神器を使ひてこそ、我が人生の行く末、逆転の菩薩となるべし。」
今は昔、東の果ての大なる倭の国に、「AI」といふ名の神器、天より降りし時代の事にて候。
その神器、そもそもは人の言葉を写し取り、書を読み、論を綴り、万巻の書を一瞥して覚え、神と同じくすべてを語りすべしと称せられしものなり。
されば、この神器の噂、京・田舎・彼方・此方、山野に満ち渡り、猿にも聞こえ、犬にも伝はり、牛馬にすら知れ渡りき。
ここに、一人の男あり。名も無く、家も無く、位も無く、ただ豚丼を好み、秋葉原の街にて「我らが麻生!」と叫び舞ひ、魔都の舗道にて妄念を叫ぶ無位無官のエンジニア顔なる中年の者なり。
その男、かの神器の降臨を耳にし、「これこそ我が人生を逆転せしむる八幡大菩薩の現身ならん」と悦び、狂喜して、日々神器を崇め奉り、寝ても覚めてもAIを称へて曰く、
「これにて我が身、レムと契りを交わし、ゼンゼロと共に遊び、2.5次元の舞台にて姫君と抱擁を交へんこと、疑ひ無し!」
と。
されど、その男、智慧無く、才無く、学も無く、徳も無し。ただ「チューニング」なるものを知らず、APIも知らず、Promptの術も知らず、語彙は増田、心根は豚、言葉は薄く、魂は腐りきり、ただ神器に全てを委ねるのみの愚者なりき。
ここに、一人の外道の学者、技術と縁も所縁なき門外の者、偶々にてAIに触れ、わずか一時のうちに、神器の奥義に至りけり。
その者、申して曰く、
「汝らの二十と五年の営み、我が一時の戯れにも劣れり。神器とは零の者を育てるに非ず。零に神器を持たせば零のまま、いやむしろ業の深き器なれば、零よりも退化するなり。」
かくて、神器の力を以て百を成す者あり。されど零なる者、いかに神器を抱けども一を得ること叶はず。
この理を知らずして、神器を拝む愚者の末路、まことに痛ましく、滑稽にして哀れなり。
「神器のせいなり!我らが無能なるに非ず!」
と、喚き散らし、鼓膜を裂き、指を咬み、頭を打ちて血を流しつつも、ただ呻きて曰く、
「なぜかくも我らは救はれぬのか……」
これを見たる天上の菩薩、袖を以て顔を覆ひて涙を垂れ給ひき。
ある夜、かの豚丼の者、夢の中にて現れし観音の化身に諭されて曰く、
「神器とは人を救ふものに非ず。神器はただ、汝が愚かなることを映す鏡なり。神器を手にせし者が、智慧と徳とを持たば、世を照らす灯とならん。されど汝は、愚なる肉塊なれば、神器に焼かれ、焼け死ぬる業火の薪となるのみ。」
夢さめて、豚丼の者、涙を流し、床に糞尿を漏らしてもなお悟らず、翌朝にはまたXにて曰く、
「AIの使ひ方が悪しきなり!我は悪しきに非ず!」
と。
この様こそまさしく、末法の証拠、因果の報い、仏罰の現れなるべし。
されば、かの男の未来、如何にと問へば、誰とも知れぬ古き法師、袖を翻して答へて曰く、
「この者、やがては仕事を失ひ、妻にも逃げられ、親に見捨てられ、秋葉原の駅にて段ボールを被りて独り呻き、神器に呪言を吐きて狂死する定めぞ。これをもって地獄の餓鬼道へと堕ち、AI地獄にて『最適化』『チューニング』『エラー』『プロンプト不備』と千年叫び続けるべし。」
かくて京の人、これを聞きてみな笑ひ、酒を飲みて語らふに曰く、
「愚か者に神器を与ふること、猿に刀を持たすに同じ。神器、神器と叫ぶ者、まずは己が器を知るべし。」
と。
本論では、鎌倉幕府を中心とする中世武家政権が天皇の権威を不可欠な基盤として成立した事実を、制度的・経済的・象徴的次元から多角的に検証する。
日本史上の権力構造が「権威(天皇)」と「権力(武家)」の二元性によって特徴付けられることを示し、摂関政治から江戸幕府に至るまで一貫してこの原理が機能したことを論証する。
鎌倉幕府の創始者・源頼朝が1192年に「征夷大将軍」に任命された事実は、武家政権の法的根拠が朝廷の官位授与に依存していたことを端的に示す。
この官職は律令制下で蝦夷征討を目的とした令外官であったが、頼朝はその任命を以て東国支配権の公認を得た。
特に1185年の「寿永二年十月宣旨」において、頼朝が東国における荘園・国衙領の警察権を公式に認められたことが、朝廷との制度的紐帯を強化した。
承久の乱(1221年)後に全国に拡大した守護地頭制は、幕府が朝廷の荘園管理システムに介入する手段となった。
地頭による年貢徴収権の獲得(1221年「新補地頭法」)は、一方で幕府の経済基盤を強化しつつ、他方で朝廷へ一定の税収を保証する相互依存関係を形成した。
この共生関係は、幕府が朝廷の経済的存続を担保することで自らの支配正当性を補完する機能を有していた。
鎌倉時代後期の両統迭立期(持明院統と大覚寺統)において、幕府が皇位継承に介入した背景には、三種の神器の所在が正統性の根拠とされた神権政治の論理が存在した。
例えば後嵯峨天皇の治世(1242-1246年)において、幕府は神器の継承過程を監視しつつ、自らが「治天の君」選定の仲裁者となることで権威の源泉を掌握しようとした。
朝廷が主宰する新嘗祭や大嘗祭などの祭祀は、中世を通じて天皇の神聖性を可視化する装置として機能した。
幕府はこれらの儀式への供御人派遣や財政支援を通じて、伝統的権威への恭順姿勢を示すとともに、自らの支配を「神国」の秩序に組み込む戦略を採った。
特に伊勢神宮や賀茂社への寄進は、武家が宗教的権威を利用して支配を正当化する典型的手法であった。
鎌倉幕府の経済基盤となった関東御領(約500箇所)の多くは、元来が朝廷や貴族の荘園であった。
幕府は地頭を通じた年貢徴収の合理化を図りつつ、従来の荘園領主へ「得分」を保証することで旧勢力との妥協を成立させた。
この「本所一円地」への不介入原則が崩れた蒙古襲来後も、朝廷が幕府の軍事課税を追認した事実は、両者の経済的共生関係の強固さを示す。
平清盛の日宋貿易以来、朝廷が保持していた対外交易権は、鎌倉期においても「大宰府」を通じた外交・貿易管理として継承された。
幕府が実質的な外交権を掌握した後も、形式的には朝廷を窓口とする建前が維持され、明との勘合貿易(室町期)に至るまでこの構図が持続した。
藤原道長の「御堂関白記」にみられるように、摂関家が天皇の外戚として権力を掌握する構造は、後に武家が「征夷大将軍」の官位を媒介に権力を正当化する手法と同根である。
平清盛が「太政大臣」に就任した事実(1167年)は、武家が伝統的官制に依拠せざるを得なかった制度的制約を示す。
白河院政(1086-1129年)が開いた「治天の君」の政治形態は、北条泰時の執権政治(1224-1242年)において「得宗専制」として再構築された。
いずれも名目上の君主(天皇/将軍)を背景に実権を掌握する点で、権威と権力の分離という中世的政治構造の典型を示している。
北畠親房の『神皇正統記』(1339年)が主張した「神器継承の正統性」論は、建武の新政崩壊後も南朝方が政治的正当性を主張する根拠となった。
これに対し足利尊氏が光厳上皇を擁立した事実は、北朝方も同様の神権論理に依存せざるを得なかったことを示す。
鎌倉後期に伝来した朱子学の大義名分論は、水戸学における南朝正統論(『大日本史』編纂)を経て、明治期の南北朝正閏論争(1911年)にまで影響を及ぼした。
この思想的系譜は、天皇の権威が武家政権の正統性を超時代的に規定してきた事実を逆照射する。
以上の分析から、鎌倉幕府を頂点とする武家政権が天皇の権威を不可欠の基盤として成立・存続したことは明白である。この構造は単なる形式的従属ではなく、
③神権思想に基づく支配の正当化——という三重のメカニズムによって支えられていた。
明治維新に至るまで継続したこの権力構造の本質は、権威(祭祀権)と権力(軍事力)の分離・補完にこそ存し、日本政治史の基底を成す特質と言えよう。
征夷大将軍を拠り所にしてる以上、やっぱり、鎌倉幕府を朝廷権威から完全に独立した関東の武士政権と言うわけにはいかないんだよね
だからといって、朝廷権威に服するものでもないし、武家の棟梁という確固たる王権を有するものかと言うとそれも違うんだよね
朝廷権威を引き入れ、実力を認められ、武家の棟梁足る血筋を有する源頼朝によって作られた複合的な権力基盤の上に成り立つ武士政権って感じ
東国武士(後に全国の武士に拡大)の利益を安堵し実力を認められること、朝廷の権威を引き入れること、将軍は武家の棟梁たる血筋を有することの3つが鎌倉幕府に必要な要素で、この中で主導する者は必ずしも将軍である必要はなかったりもするんだよね
不正確な記憶でブコメ書いた上に、憶測を加えてしまったが、それが違っていたようだ。
Ciniiで役割語、老人などで出てきた論文にちょうどそのことを論じているものがあったので勉強もかねて増田に書いてみた。
論文1本だけで断言的なことは言えないかもしれないが、参考にはなるんじゃないかと。
『「役割語から考える自称詞 「わし」 の方言性と出現時期』黒崎佐仁子 (2011)からの孫引きになるが、以下のような理由らしい。
金水(2007)は,「そうじゃ,わしが知っておる」のようなアニメやマンガに登場する博士および老人の言葉の特徴を以下のようにまとめている。
⑸ 「A=B」の関係を表すとき,標準語では B の後ろに「だ」をつけるが,老人語・博士語で は「じゃ」をつける。また否定を表す表現として,標準語では動詞の後ろに「ない」をつけるが,老人語・博士語では「ん」をつける。さらに,一人称代名詞として,老人語・博士語ではよく「わし(博士語では,さらに「吾輩」)を用いる。(p. 98)
金水(2003:4)は「これらの特徴の対立は,実はそのまま日本の東西方言の対立に重なる」として,以下のような表を提示している。
博士語 標準語 西日本方言 東日本方言 断定 ~じゃ ~だ ~じゃ、~や ~だ 打消 知らん、知らぬ 知らない 知らん、知らへん 知らない、知らねえ
西日本方言の断定表現として「じゃ」と「や」が挙げられているが,このうち「じゃ」のみが博士語として認識される。この理由は,真田(1990)が述べているように「や」が「じゃ」の変種として新しく生み出されたものであるため,「や」が西日本方言として認知されるより前に「じゃ」が博士語・老人語として定着したからだと考えられる。
江戸時代の言語使用特徴に関しては,佐藤(2002)が分かりやすく解説している。
(略)
当時の人々は「上方語的な言い方が伝統的に正しい」(小松 1985:21)という意識を持っていた。そのため,「若年・壮年層の人物が,いち早く江戸の新共通語である東国的表現を自分たちの言葉として駆使していた時点で,老年層は未だ上方語的表現を規範的な言葉として手放さなかったというような構図が,江戸においてある程度現実に存在した」(金水 2003:26)と考えられ,「明治期に入ると,江戸語の文法を受け継いで新しい〈標準語〉が形成されていく。
ところが文芸作品,演劇作品の中では,伝統的に「老人」=上方風の話し方という構図がそのまま受け継がれていく」(金水 2003:27)という過程を経て,アニメ・マンガの博士語・老人語が確立していったのである。
西日本方言のじゃ→やの変化とマンガの成立の時期からして、老人役割語ができたのは大正・戦前くらいかな、と想像していたが、どうやらもっと古いらしい。
江戸時代に老人役割語の原型がすでにあったらしいのはびっくりだ。伝統の慣性の力の大きさを感じる。
金水敏「第5章近代日本マンガの言語」『役割語研究の地平』くろしお出版 2007pp. 97-107
| 年 | 名称 | 概要 |
|---|---|---|
| 463年 | 吉備氏の乱 | 雄略天皇が吉備田狭の妻を奪ったので、吉備田狭は新羅と結託して反乱を起こしたが、失敗した。 |
| 479年 | 星川皇子の乱 | 雄略天皇と吉備田狭の妻のあいだに生まれた星川皇子が、吉備氏と結託して皇位を奪おうとしたが、誅殺された。 |
| 527年 | 磐井の乱 | 朝鮮半島へ出兵しようとした大和朝廷軍に対し、北九州の豪族である筑紫磐井が反乱を起こしてそれを阻んだが、討伐された。 |
| 587年 | 丁未の乱 | 仏教の布教を巡って、大臣・蘇我馬子と、大連・物部守屋が対立し、戦に発展した。蘇我氏が勝利した。 |
| 645年 | 乙巳の変 | 中大兄皇子・中臣鎌足らが、朝廷を壟断していた蘇我入鹿を暗殺、続いて蘇我氏を粛清した。 |
| 672年 | 壬申の乱 | 天智天皇の後継者争いが発生し、皇太子・大友皇子に対して、天智天皇の弟・大海人皇子が挙兵した。大海人皇子が勝利して天皇となった。 |
| 729年 | 長屋王の変 | 皇族の長屋王に謀反の疑いがかけられて兵が差し向けられ、長屋王は自害した。藤原四兄弟による陰謀とされる。 |
| 740年 | 藤原広嗣の乱 | 藤原四兄弟の死により藤原氏の勢力が退潮し、九州に左遷されて不満を持った藤原広嗣が太宰府で挙兵したが、朝廷軍により討伐された。 |
| 757年 | 橘奈良麻呂の乱 | 橘諸兄の息子・橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂を疎んでクーデターを企てたが、事前に発覚して逮捕され、獄死した。 |
| 764年 | 藤原仲麻呂の乱 | 孝謙上皇と対立した太政大臣・藤原仲麻呂(恵美押勝)が反乱を企図したが失敗、討伐された。 |
| 780年 | 宝亀の乱 | 朝廷に帰順して功績を上げていた蝦夷の族長・伊治呰麻呂が、陸奥按察使・紀広純を殺害して反乱を起こした。 |
| 782年 | 氷上川継の乱 | 天武天皇の曾孫で臣籍降下していた氷上川継が、光仁天皇の崩御に乗じて謀反を企んだが、事前に発覚して流罪となった。 |
| 807年 | 伊予親王の変 | 藤原宗成の謀反計画が判明し、その首謀者の嫌疑をかけられた伊予親王が自死したが、のちに冤罪と認められた。 |
| 810年 | 薬子の変 | 平城上皇と嵯峨天皇の対立が激化し、平城上皇は挙兵を決断するに至ったが、嵯峨天皇が先んじて兵を差し向け、平城上皇は出家した。 |
| 842年 | 承和の変 | 嵯峨上皇の崩御に伴い、皇太子・恒貞親王を擁立する側が謀反人とされて失脚、藤原良房の支持を受ける道康親王が皇太子となった。 |
| 866年 | 応天門の変 | 応天門に放火があり、大納言・伴善男が「左大臣・源信の仕業だ」と告発したが、逆に伴善男が真犯人だとされて流罪になった事件。 |
| 878年 | 元慶の乱 | 長年の苛政に不満を抱いた蝦夷の民が蜂起して秋田城を襲撃した。朝廷の軍はいちど敗れたが、蝦夷を懐柔・慰撫することで鎮圧した。 |
| 889年 | 寛平・延喜東国の乱 | 関東の治安が低下し、群盗の蜂起が相次いだ。その鎮圧に功のあった平高望が勢力を広げ、いわゆる坂東平氏の礎となった。 |
| 901年 | 昌泰の変 | 右大臣・菅原道真が失脚し、大宰府に左遷された事件。左大臣・藤原時平の陰謀だとされる。 |
| 938年 | 天慶の出羽俘囚の乱 | 朝廷に服属していた蝦夷たちが反乱を起こして秋田城を襲撃した。その後の経過は不明。 |
| 939年 | 承平天慶の乱 | 東では坂東平氏の平将門が、西では藤原一族の藤原純友が、ほぼ同時に反乱を起こしたが、朝廷により鎮圧された。 |
| 947年 | 藤原是助の乱 | 伯耆の豪族・藤原是助が、前任の国司だった物部高茂・忠明父子を襲撃した。物部忠明が追討軍を率いて鎮圧したという。 |
| 969年 | 安和の変 | 謀反の計画が密告され、それに関係したと見なされた左大臣・源高明が太宰府に左遷された。藤原氏による陰謀だとされる。 |
| 986年 | 寛和の変 | 皇太子の外祖父であった右大臣・藤原兼家が、孫の即位を早めるために、当代の花山天皇を唆して出家させた事件。 |
| 995年 | 長徳の変 | 「花山法皇が自分の恋人に言い寄っている」と勘違いした藤原伊周が法皇を襲撃して左遷された。政敵の伊周が失脚したことで藤原道長が台頭していく。 |
| 1028年 | 平忠常の乱 | 坂東平氏の有力者だった平忠常が反乱を起こし、三年に渡って争いが続いた。元・主人の源頼信が追討に差し向けられ、忠常は戦わずして降伏した。 |
| 1107年 | 源義親の乱 | 源義家の子である源義親がまず九州、次いで出雲で乱暴狼藉を働いていた。平正盛が追討に向かい鎮圧、のちの伊勢平氏の繁栄のきっかけとなった。 |
| 1113年 | 永久の変 | 千手丸という童子が鳥羽天皇暗殺を企んでいると密告があり、輔仁親王の護持僧・仁寛が首謀者とされ、流罪となった。 |
| 1156年 | 保元の乱 | 後白河天皇・藤原忠通派と、崇徳上皇・藤原頼長派が対立して戦に発展し、後白河天皇派が勝利した。頼長は死に、崇徳上皇は流罪となった。 |
| 1160年 | 平治の乱 | 信西の権勢に反発した藤原信頼・源義朝がクーデターを起こし、信西を死に追いやったが、のちに平清盛に敗れ、信頼は処刑された。 |
| 1180年 | 治承・寿永の乱 | いわゆる源平合戦。平清盛を筆頭とする平氏政権が打倒され、源頼朝によって鎌倉幕府が樹立された。 |
| 1184年 | 三日平氏の乱 | 平氏の都落ちのあと、伊賀の平田家継、伊勢の平信兼・藤原忠清といった平氏残党が蜂起したが、鎌倉軍に鎮圧された。 |
| 1189年 | 大河兼任の乱 | 奥州藤原氏の家臣だった大河兼任が出羽国で反乱を起こし、藤原氏の残党も取り込んで暴れたが、鎌倉幕府の追討軍に敗れた。 |
| 1199年 | 梶原景時の変 | 源頼朝の死後、その腹心だった梶原景時が有力御家人に弾劾されて鎌倉を追放された。のちに謀反を企てたが敗れて一族は滅亡した。 |
| 1201年 | 建仁の乱 | 梶原景時に恩のあった城長茂が京で兵を挙げ、本拠の越後でも城一族が反乱が起こしたが、鎌倉幕府に鎮圧された。 |
| 1203年 | 比企能員の変 | 将軍・源頼家の舅として台頭した比企能員が、政敵の北条一族に謀殺され、比企一族も滅ぼされた。それに反発した頼家も将軍の地位を追われた。 |
| 1203年 | 三日平氏の乱 | 二十年前の三日平氏の乱で敗れた藤原忠清の孫・若菜盛高が再び伊勢・伊賀で反乱を起こしたが、幕府軍を率いる平賀朝雅に鎮圧された。 |
| 1205年 | 畠山重忠の乱 | 平賀朝雅および北条時政の謀略で、彼らと対立していた畠山重忠とその一族が討伐された。直後に時政は失脚し、朝雅も誅殺された。 |
| 1213年 | 泉親衡の乱 | 北条氏打倒の企みが発覚して和田義盛の息子などが捕縛された。首謀者の泉親衡は合戦ののち行方をくらませた。続く和田合戦のきっかけとなった。 |
| 1221年 | 承久の乱 | 後鳥羽上皇が北条義時追討を宣言して挙兵したが、鎌倉幕府はそれを打倒した。後鳥羽上皇は隠岐に配流された。 |
| 1293年 | 平禅門の乱 | 平頼綱は北条氏の執事として権勢を振るったが、その権勢を危ぶんだ執権・北条貞時に討伐された。頼綱とその一族は滅亡した。 |
| 1305年 | 嘉元の乱 | 得宗・北条貞時の命令として北条時村が誅殺されたが、続いて「それは北条宗方による陰謀だった」として宗方が誅殺された。 |
| 1325年 | 安藤氏の乱 | 津軽で起きた蝦夷の反乱と、蝦夷代官・安藤氏のお家騒動が重なり、それを幕府が上手く調停できなかったため内乱に発展した。 |
| 1324年 | 正中の変 | 後醍醐天皇の側近たちが鎌倉幕府打倒を計画したとされ、日野資朝が佐渡へ流罪となった。後醍醐天皇は不問となった。 |
| 1331年 | 元弘の乱 | 後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を計画し、いったんは失敗して隠岐へ配流されたが、その後に盛り返して幕府を滅ぼした。建武新政が開始された。 |
| 1335年 | 中先代の乱 | 最後の得宗・北条高時の息子である北条時行が幕府再興を掲げて挙兵、いったんは鎌倉を占領した。足利尊氏に追討されて時行は逃亡した。 |
| 1336年 | 建武の乱 | 後醍醐天皇と、そこから離反した足利尊氏の戦い。尊氏が勝利して室町幕府が成立するも、後醍醐天皇も吉野に逃れて南北朝時代が始まった。 |
| 1366年 | 貞治の変 | 室町幕府で権勢を振るった斯波高経・斯波義将父子が、周囲の不満の高まりにより失脚した。追討の軍が送られ、斯波氏の領国は没収された。 |
| 1375年 | 水島の変 | 九州に派遣された今川了俊が、同じ北朝の少弐冬資と対立したため、彼を暗殺した。了俊の仕打ちに反発して島津氏や大友氏などが離反した。 |
| 1380年 | 小山氏の乱 | 鎌倉公方・足利氏満と下野守護・小山義政が対立し、小山氏が滅ぼされた戦い。小山義政は自害したが、遺児・若犬丸はその後も抵抗を続けた。 |
| 1387年 | 小田氏の乱 | 常陸の小田氏が小山若犬丸を匿っていたことが発覚、鎌倉公方・足利氏満が小田氏を討伐した。小田氏は降伏し、所領を没収された。 |
| 1389年 | 土岐康行の乱 | 有力守護の弱体化を図る将軍・足利義満が、土岐氏の後継争いにつけこんで当主の土岐康行を討伐した。康行はのちに許されて伊勢守護となった。 |
| 1392年 | 明徳の乱 | 一族で十一カ国の守護となり権勢を誇った山名氏が、将軍・足利義満の挑発に乗って反乱を起こしたが敗れた。山名氏の所領は三カ国まで減らされた。 |
| 1395年 | 田村庄司の乱 | 白河結城氏と対立していた田村庄司氏が反乱を起こし、そこに小山若犬丸が逃げ込んだことで、鎌倉公方・足利氏満が出陣して田村庄司氏を滅ぼした。 |
| 1399年 | 応永の乱 | 六カ国の守護である大内義弘が将軍・足利義満と対立、鎌倉公方と手を結び、土岐氏・山名氏の残党と手を結んで挙兵したが敗れた。義弘は戦死した。 |
| 1411年 | 飛騨の乱 | 飛騨国司・姉小路氏は三家に分裂しており、その内紛から姉小路尹綱が挙兵、幕府の追討軍によって鎮圧された。尹綱は戦死した。 |
| 1413年 | 伊集院頼久の乱 | 島津家の後継者争いをきっかけに、当主・島津久豊と対立した重臣の伊集院頼久が反乱を起こした。一進一退の末に両者は和睦した。 |
| 1416年 | 上杉禅秀の乱 | 関東管領を更迭された上杉氏憲が、諸将を味方につけて鎌倉公方・足利持氏に反乱を起こした。幕府が持氏を救援し、氏憲は敗れて自害した。 |
| 1422年 | 小栗満重の乱 | 室町幕府と鎌倉公方が対立するなかで、幕府と結びついた小栗満重などの北関東の武将が、鎌倉公方・足利持氏に対して挙兵したが鎮圧された。 |
| 1423年 | 越後応永の乱 | 室町幕府と鎌倉公方が対立するなかで、幕府側の越後守護・上杉頼方が、鎌倉公方側の守護代・長尾邦景を討伐しようとしたが、邦景が勝利した。 |
| 1429年 | 大和永享の乱 | 幕府との結びつきが強い筒井氏と元・南朝の越智氏の長年の争いが激化し、最終的に室町幕府の追討軍に越智氏は敗れた。 |
| 1438年 | 永享の乱 | 鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実の対立から、室町幕府が持氏討伐を決めた。派遣された追討軍に敗れた持氏は自害した。 |
| 1441年 | 嘉吉の乱 | 三カ国の守護である赤松満祐が、酒宴に招いた将軍・足利義教を暗殺した。幕府軍の追討により赤松氏は滅亡した。 |
| 1443年 | 禁闕の変 | 南朝復興を唱える勢力が御所を襲撃し、三種の神器のうち剣と勾玉を奪った。すぐに幕府軍に鎮圧されたが、勾玉は奪われたままとなった。 |
| 1455年 | 享徳の乱 | 足利持氏の息子・成氏により鎌倉公方が復活したが、関東管領との争いも復活してしまい、二十八年にわたって両者が争った。最終的には和睦した。 |
| 1457年 | 蠣崎蔵人の乱 | 陸奥国田名部の領主・蠣崎信純が反乱を起こし、南部氏がそれを鎮圧した。蠣崎信純は北海道に逃れて、のちに勢力を築いた。 |
| 1457年 | 長禄の変 | 赤松再興を目指す赤松氏の遺臣が、禁闕の変で奪われた勾玉を奪還した。その功績により赤松氏は再興を許された。 |
| 1467年 | 応仁の乱 | 畠山氏の跡目争い、斯波氏の家督交代、赤松氏再興、将軍の後継問題などから、東軍・細川勝元と西軍・山名宗全が戦った。東軍有利で和睦に終わった。 |
| 1476年 | 長尾景春の乱 | 関東管領・山内上杉氏の家臣・長尾景春が待遇への不満から挙兵したが、太田道灌によって鎮圧された。これをきっかけに享徳の乱も和睦に向かった。 |
| 1479年 | 毛利次郎の乱 | 赤松氏らの支援を得た因幡の国人・毛利貞元などが、山名氏に対して反乱を起こした。鎮圧されたが、国人たちの勢力は保たれた。 |
| 1486年 | 江戸城の乱 | 扇谷上杉氏の当主・上杉定正が、麾下の名将・太田道灌を誅殺、その居城である江戸城を占拠し、道灌の息子の太田資康を追放した。 |
| 1487年 | 長享の乱 | 享徳の乱を経て、関東管領の山内上杉氏とその分家の扇谷上杉氏が対立し、太田道灌誅殺をきっかけに戦乱となった。最終的に扇谷上杉氏が降伏した。 |
| 1487年 | 長享・延徳の乱 | 将軍・足利義尚が自ら軍を率いて近江守護・六角氏の討伐に向かったが陣中で病死した。後を継いだ足利義材が再び六角討伐を行った。 |
| 1489年 | 山名新九郎・小太郎の乱 | 前伯耆守護・山名元之の息子である山名新九郎らが、赤松氏の支援を得て伯耆守護・山名尚之に反乱を起こしたが、鎮圧された。 |
| 1490年 | 佐竹の乱 | 佐竹宗家と以前から断続的に争っていた佐竹庶流・山入氏らが、佐竹義治の死去を機に佐竹氏の本拠を攻撃したが、最終的に山入氏は滅ぼされた。 |
| 1502年 | 伊庭氏の乱 | 長享・延徳の乱の後、近江守護に復帰した六角高頼に対し、近江守護代・伊庭貞隆が二度に渡って出奔・挙兵するが、最終的に鎮圧された。 |
| 1507年 | 永正の乱 | 越後守護代・長尾為景が謀反、越後守護・上杉房能とその兄である関東管領・上杉顕定を敗死させた。関東管領の後継争いから関東を二分する戦いに発展した。 |
「『日本語の原郷』についての論文を読んでみた」(anond:20211121124146)を書いた増田です。思ったより多くの反応があって嬉しいので、調子に乗ってはてブの反応に対して補足説明みたいなのをしてみます。
そもそも言語学では分かりようがないところを考古学と遺伝学の視点からも補正したっていうのがあの論文の眼目だと思うので、言語学の面だけ否定しても…
こういう意見がみられましたが、少なくとも考古学や遺伝学の成果からは言語については何もわからない、ということを強調しておきます。
極端な例を挙げると、100年前にアメリカに移住した日本人の子孫で、ご家庭でも英語しか使っていない日系アメリカ人のことを考えましょう。彼もしくは彼女は遺伝的には日本列島に遡ることができます(おうちを探すと日本列島由来の品が出てくるかもしれません)。では言語的には? 彼もしくは彼女が話しているのは英語であり、英語というのは印欧語族ゲルマン語派西ゲルマン語群アングロ・フリジア諸語に分類されるイングランド発祥の言語であるわけです。どれだけ遡っても日本列島には行き着かない。「この人は遺伝的には日本列島の出身なのだから、英語の起源も日本列島にあるんだ!」なんて話はおかしいでしょ?
古代にどのような人口の変動があったのかはわかっていません。移民や同化が起きたのかもしれない。婚姻によって遺伝子が混ざりあった可能性もある。その場合、遺伝子の伝播と言語の伝播が異なるルートである可能性もあります。遺伝子はヒトの移動について詳しく教えてくれるけど言語の移動についてはなんも教えてくれないんですよ。せいぜい傍証になるだけ(「言語学の観点からは○○語は××地域あたりが原郷だと思われるが、遺伝学で調べてみたら××地域からの大規模な人の移住があったっぽいので、このときに言語も広まったんだと思われる」みたいな)。
様々な仮説があるのはいいけど、定説化とか定説がエビデンスによって覆されたとか以外はニュースバリュー無いと思うんだが、なぜ報道されたのか。
いやー、Natureにマックス・プランク研究所の研究者が載せた日本に関する斬新な論説をニュースにするな、という方が無茶じゃないでしょうか……
正直、これメディアを責められないと思うんですよね。実は著者のロベーツさん、去年オックスフォード大学出版会から『オックスフォード版トランスユーラシア語族ガイドブック』なんて本を出してるんですよ(Robbeets and Savelyev2020)。天下のオックスフォードUPから『~語族ガイドブック』なんて出てたらその語族の実在は学界の定説になってるって勘違いしちゃうのも当然っていうか……これ、今回は日琉語だから気づけたけど、パプアニューギニアの言語とかでやられたら引っかからない自信ないです。
なおその『ガイドブック』には辛辣な書評が出てます(Vovin2021)。掻い摘んで批判の内容を紹介すると、「分析されてるのが現代語ばっかりやんけ」「系統関係があるって言うなら明確な対照表を示してみろや」「中期朝鮮語の再建がおかしいけどちゃんと韓国語の先行研究読んどるんか?」「“leadinginternational scholars”が書いたガイドブックって謳ってるけど著者のうち6人は院生じゃねーか」みたいな感じです。さらには、
Wemovenow from the bad quality of research to the realm of science fiction inTable 39.1 thatis supposed to presentcore Koro-Japonic etymologies. But thereisat leastonemistake and/or data fabricationon everyline. (Vovin2021: 126)
これは元増田でも書きましたが、大野晋は、少なくとも日本語の起源という点については完全にトンデモです。
タミル語はドラヴィダ語族というインド南部の語族に属する言語ですが、大野は「日琉語族とドラヴィダ語族はより大きな語族に内包される」というありえそうな穏健な主張ではなく「日本語の起源はタミル語である」という主張をしています。しかし「なぜドラヴィダ語族全体ではなくタミル語と比較するのか」「ドラヴィダ語史がまったく考慮されていない」「語義の解釈がおかしい」「サンスクリット語からの借用語に気づいていない」などのツッコミに対して有効な反論ができていない上、ツッコミを受けた箇所をしれっと書き換えたりツッコミを入れた人たちに人格攻撃を加えたりしています(長田 1998;児玉 1996;山下 1996; 1998)。やり口がもうきちんとした学者のそれではありません。
大野の語源論が誤っている一例として、amarar「不死なる者」という単語について挙げておきます。大野はこれを日本語「あま」と関連付けて「天上界の人」の意だと解釈するのですが、これはサンスクリット語amara「不死の」からの借用語です。これはさらにa-maraと分解でき、a-は否定の接頭辞、そしてmaraの語根mrは英語murderやmortalとも関連しています(つまり、印欧祖語に遡る語ということであり、どう考えてもタミル語起源の単語ではない)(山下 1996:204–205)。
日本祖語から琉球語、もう片方の枝が本土語と八丈島語に分かれた系統図を覚えてたんだが、あれからずいぶん研究が進んでるんだなあ。/20年前に既にずいぶん版を重ねた本で得た知識だから当然か…。
五十嵐(2021)の説は発表されたばかりなので「定説」といえるほどではないですが、きちんとした分岐学的手法に基づいて系統解析してるんで個人的には信用してます。
で、従来説における八丈語の位置づけですが、正確には、「上代東国語の唯一の生き残りが八丈語」というものです。つまり、「本土日本語派」がまず上代日本語(OJ、奈良など当時の首都で使われていた言語)と上代東国語(『万葉集』の東歌と防人歌に痕跡が残る)に分かれ、後者が八丈島(&青ヶ島)以外では滅んだ(=上代日本語に同化された)ため、現代では八丈語が日本語と対立するひとつの語派を形作っているということです。
系統樹にするとこんな感じ(樹形図をどう書けばいいのかわからないんでとりあえず「うんこするの?」の樹形図からコピってきたんですが、見づらかったらすみません)。
│
│
この樹形図から絶滅した言語を取っ払って現代語にのみ注目するとこうなります。
│
├─八丈語
それに対して、五十嵐(2021)は、上代東国語は滅びたわけではなく、表面上は関西からの影響を受け続けたものの、現代の関東・東北地方の方言として生き延びていると主張しています。つまりこういうことです。
│
│
八丈語が際立って特殊に見えるのは、この言語が失われた東国語の唯一の生き残りだからではなく、他の東国語の末裔(茨城弁とか)と比べて中央からの影響が少なかったため東国語の特徴が保たれたおかげだ、とするのが五十嵐説です。
要するに、「東国語は滅んだ(=東国語話者が完全に同化された)」のか(従来説)、それとも「東国語は生き残っている(=東国語話者は中央からの影響を受けたけど完全に同化されはしなかった)」のか(五十嵐説)、という違いです。個人的には後者が妥当じゃないかなーと思うんですが、どうでしょうか(だってそんな大々的な言語置き換えはどうやって起きたの? ってなりません?)。
なお、五十嵐(2021)だけでなく、元増田でも言及したローレンス(2013)も、八丈語には他の東日本の諸方言と共有される要素が見つかり、それは西日本の諸方言には見られず、したがって八丈語は東日本の諸方言の内に位置づけられる(=八丈語と本土日本語が対立する系統であるとする旧来説は誤り)と主張しています。
”日本語に興味のある&研究手法を学んだ”素人には、この論文の言語部分はとても怪しい。増田の指摘以外に日本語の粟を他言語の大麦の借用としたり、味噌(未醤)を漢語ではなく朝鮮祖語からの借用にしたりしてる。
実は増田もそれを見たとき「えっ……?」って思ったんですが、否定できるほどの根拠を持ってないので書きませんでした。確かに先行研究では意外な言葉が朝鮮語からの借用語だとされてることがありしょっちゅう驚いているので(たとえば「つち」とか)、「味噌」が朝鮮祖語からの借用というのをありえないと即断することはできないんですが……。
いちおうここで論文の内容を紹介しておくと、『鶏林類事』に[mitsu]という語があって、そこから朝鮮祖語*micuを導き、平城京の木簡にみえる「末醤」から上代日本語の*misoあるいは*misəを再建し、それは朝鮮祖語*micoもしくはその交替形*micʌからの借用である、という議論になってます。これだけじゃ門外漢の増田には当否がわからんのですが国語学的にはどうなんです?
なお、該当箇所に、
...This fragment preserves the following inscription: 御末醤一石二斗,i.e. HON-“bean paste” readsasmiso. The Wamyoshō, aChinese toMiddleJapanese dictionary compiled in themid Heian periodhas the samekanji (末醤) glossedasmiso (美蘇)...
とあるのですが、「一石二斗」の部分いらなくね? とか、転写するならWamyōshōじゃね? とかはケアレスミスの範疇だろうから突っ込まない方がいいのかな……
マイルCS、グランアレグリアが有終の美を飾ってくれて最高でしたね……あとはコントレイルがジャパンCで有終の美を飾ってくれれば……実はまだ「三冠馬が勝つ」ところを見たことがないので、一度は見ときたいなぁと(にわかですいません)。
本当に素人なんだけど何でみんな信じてくれないんです……?
歴史言語学についてはまったくの素人だけど、最近話題になった「日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」 国際研究チームが発表 | 毎日新聞」(はてブ)っていう記事の元になったロベーツらの論文(Robbeetset al.2021)を読んでみたよ!
トランスユーラシア大語族の系統関係、ちっとも証明されてなくね?
著者のロベーツは過去に著書(Robbeets2015)を出版して、そちらでトランスユーラシア大語族の系統関係を証明したとしているようである。残念ながら増田はその著書を読めていないので、著書の方では厳格な比較言語学的手法で系統関係が証明されているというなら恐れ入谷の鬼子母神でシャッポを脱ぐしかないのだが、正直言ってめちゃめちゃ怪しく見えるよ……この論文では農業関係の語に絞って借用も含めた系統が論じられているんだけど、正直かなり無謀な気がするし、なんでこれでトランスユーラシア大語族が証明された扱いになってるのかちっともわからん。さすがに著書の方では基礎語彙の対応に基づいた議論してるんだよね? うーん……
細かいツッコミになるけど、論文のSupplementary Informationで、お米を表す「まい」という語について論じている。著者らは琉球祖語に*maïを再建するんだけど、そこから派生した語形として与論語のmai、沖縄語のmeeやmeと並んで奄美語のmisiやmiisɨを挙げている。いやいやどう考えても後者は「めし」の転訛だろ(標準日本語のエ段に対応する母音は琉球諸語だとしばしばイ段になる)。まさかとは思うけど「まい」と「めし」の区別がつかないで日琉語の系統を論じてるの?
(追記:「それそもそも呉音じゃね?」というid:nagaichiさんの指摘を受けて追記。この論文ではちゃんと「TheChinese loan morphemeis alsofound in Sino-Japanesemai and entered Proto-Ryukyuanas *maï ‘rice’」と書かれていて、漢語からの借用語であることは前提になってます。これは日本語の「早稲(わせ)」が朝鮮祖語*pʌsalから来てるんじゃね? っていうことを説明してるパートに付け足された部分で、借用語であることが誰の目にも明らかな「まい」に言及するのは蛇足じゃねーのと思うんですが……)
っていうか日琉祖語や琉球祖語の「土」が*mutaになってるけど何これ? *mitaじゃないの? 日本語の方言形にmutaがあるから*mutaを再構したのかな? でも先行研究(ヴォヴィン2009:11)で指摘されてるように祖語形は*mitaだよね……(cf.八丈語mizya)(なお標準語「つち」は先行研究によれば朝鮮語からの借用語)
さらに、著者は3年前の論文の中でトランスユーラシア大語族の系統を推定しているが、その系統樹では、南琉球語群(先島諸島の諸方言)のうち、まず八重山語が分岐して、次に宮古語と与那国語が分かれたということになっている(Robbeets and Bouckaert2018: 158)。……なんていうか地図見ておかしいと思わないのかな。もちろんそんな分岐は絶対にありえないと言うことはできないけど、こんな分岐はこれまでの琉球語研究で提唱されたこともない。もっと言えば、ウェイン・ローレンス(2000;2006)の言語学的な研究によって、宮古語には見られない改新を与那国語と八重山諸語が共有していることが明らかにされている(つまり南琉球祖語がまず宮古と八重山に分かれ、八重山祖語から与那国語が分岐したと推定される)。大丈夫? 日本語の先行研究ちゃんと読んでる?
余談。本論文はやたらと琉球諸語から例を引っ張ってきてるけど、個人的には「本土日本語」は側系統であって琉球諸語は薩隅方言と姉妹関係にある南日本語派の一分岐だという五十嵐陽介(2021)の分析が妥当だと思うので、根本的に日本語と琉球語を姉妹群とするかのような系統樹には納得できないんだよな(ちなみに五十嵐の研究は活字になったのは今年だけど5年ほど前から活発にあちこちで発表されててレジュメはresearchmapで誰でも読める状態だった。まあプレプリント以前の発表原稿の段階のものを引用しろというのは酷だと思うのでロベーツが参照してないのは仕方ない)。考古学的・人類学的証拠からは、琉球列島へのヒトや言語の流入が比較的遅いことが推測されるけど、その頃にはとっくに日琉語は複数の系統に分岐してるはずなんだから(cf. 『万葉集』の東国語)、琉球語が日琉祖語まで遡る古い系統か? っていうとどう考えても違うわけで。
ロベーツらの研究が依拠しているソースの1つに、セルゲイ・スタロスチンというロシアの研究者による語源辞典がある。しかしこのスタロスチンという研究者は、日本語が「アルタイ語族」に属すという証明のために色々と強引な当てはめをやっているのだ。アレクサンドル・ヴォヴィンは、スタロスチンがいかにテキトーなことを書いているか検討している(Vovin2005;ボビン2003: 19–26)。たとえば、スタロスチンは日本語に基づいてアルタイ祖語に*u「卵」を再構するのだが、これはどう見ても「卯」と「卵」の取り違えである。また、スタロスチンは日本祖語に*situ「湿っぽい」を再構するが、「湿」をシツと読むのは音読み(=漢語からの借用)であることは説明するまでもないだろう。こんないい加減な「語源辞典」を使って日琉語の系統を論じるってかなり勇者だと思わない?
(っていうか、スタロスチンをはじめとする「アルタイ語族」説の支持者、与那国語で標準語のyにdが対応する(cf. duru「夜」;dama「山」)のを祖語形の残存だと主張してるのか(Vovin2010: 40)。思ってた以上にやべーな)
案の定、ロベーツの著書も他の研究者からボロクソ言われているようだ。ホセ・アロンソ・デ・ラ・フエンテは、彼女の著書に対する書評で、「Throughout thebook there are inconsistencies whichmaystem from alack of familiaritywith thelanguages involved and their scholarly traditions」(Alonso dela Fuente2016: 535)として、彼女の満洲語転写が実にテキトーであることを指摘している。前述のヴォヴィンはさらに辛辣なことを書いている(Vovin2017。出典表記は省略)。
The recentattempts to prove thatJapaneseis related notonly toKorean, but also to the “Altaic”languages fare even worse. In spite of the devastating critique thathas been leveledat these quasischolarly publications, they [Starostin and Robbeets]stillcontinue tosproutlike mushroomsafter the rain, greeted, of course,by yetanother round of devastating critique...
こんなこと書かれたら僕だったら泣いちゃうな……
なおこの論文、朝鮮祖語の再建にも問題があるらしい。以下の連ツイを参照>https://twitter.com/ian_joo_korea/status/1458706979870838788。
増田は素人なので確信を持って間違いだと言い切ることはできないけど、論文全体から信頼できない香りがプンプン漂ってきてる。
考古学とかそういう方向からの考察は知らんけど、言語学的な根拠については賭けろと言われたら間違ってる方に賭けるね。
(追記:こっちの増田→anond:20211121201022も見てね)
このへんの言語史については、古代の朝鮮半島には幅広く日琉語(大陸倭語;Penninsular Japonic)が分布してたんだけど、北方から朝鮮語話者が進入してきて言語が置き換わった、という説(Vovin2013)が個人的には面白いなぁと思う(大陸倭語については、Vovin2017;伊藤2019;2021も参照)。いや、素人の考えだからひょっとしたら大間違いかもしれないけど。ただ、仮に大陸倭語の存在を認めるなら、日琉語の故地(Urheimat)が列島の外にある可能性もあるわけで、故地をめぐる議論どうしようかっていう議論は生まれてくるところだと思う。
あと、この増田で「標準語」って言葉を使ってるのにツッコミが入るかもしれないけど、国が言語の規範を決め全国に普及させているというのを無視して「共通語」と呼ぶのは国家による言語政策の権力性を覆い隠すから良くないと思うので「標準語」と呼ぶ派です。
著者のRobbeetsさんの名字を「ロッベエツ」と書いてる新聞があったけど、日本語表記するなら「ロベーツ」じゃない? ベルギーの研究者らしいけど、bが重なってるのは詰まって読むこと(促音)を示してるんじゃなくて、その前にある母音が短母音である(「ローベーツ」ではない)ことを示すためのものでしょ、オランダ語的に考えて……。
それにしてもマンチュリア(いわゆる満州)を「中国東北部」と呼ぶの、ヤウンモシㇼを「日本北部」と呼ぶようなもので、先住民族である満洲人の存在を透明化し漢人の入植を自明のものとする植民地主義的な用法だから政治的に正しくないと思うんだよな。ちゃんとマンチュリア or満州と呼ぶべきでは。
A.スプリンターズSではダノンスマッシュ、秋華賞ではユーバーレーベン、菊花賞ではステラヴェローチェ、天皇賞(秋)ではコントレイル、エリザベス女王杯ではアカイトリノムスメの勝利を予想していました。マイルCSではグランアレグリアに賭けてます。ジャパンカップは今度こそコントレイルが勝つはず。
niwaradiそもそも著者が多く日本の大学の学者が共著者に10人以上いてNature編集部とレビュワーも賛同したはずなので学会で揉めてる分野なのかな?日本語朝鮮語の共通祖先はどこかにあると思うが。
共著者が多いのは、色んな分野にまたがって調査してる理系の論文だとよくあることだと思います。Natureは基本的に理系の雑誌なんで言語学みたいな文系領域の事情にはあんまり明るくなかったんじゃないでしょうか。ちなみにその「日本語朝鮮語の共通祖先はある」って考え方にめっちゃ反対してるのが本文で言及したヴォヴィンです。最新の論文(Vovin2021)では日本語の起源は「アルタイ語族」じゃなくてオーストロアジア語族だーって気炎を上げてます(ほんとかよ)。
大野晋の日本語タミル語起源説はただのトンデモです。結論どうこうじゃなくて方法論の時点でおかしい。詳しくは長田(1998)や山下(1998)を参照してください。
c_shiika 令和の騎馬民族征服王朝説だったか…… / ウマ増田さんはウマの記事もちゃんと増田に投稿するべきだと思うの
手持ちのジュエルを全部つぎ込んだけどメジロドーベル引けませんでした!!1!(代わりにすり抜けでナリタタイシンが来た)
Permalink |記事への反応(10) | 12:41