
はてなキーワード:本当にあったとは
これが仮に本当にあった話だとして、増田が過干渉や毒親って叩かれる意味が分からんのだけど。
息子に会いたいって言ってきた客
・店にたまに来る
・清潔感がある
・ブサイクではない
・親御さんと一緒に来るのを見たことがある
・息子に確認したところ、「初対面だと思う」
下手すると増田の息子が小学生で相手が大学生だという可能性すらある
少なくとも増田の息子は「初対面だと思う」と言った訳で、
客観的に見たらその女は、飲食店で勤務中の従業員の目を付けて一方的に近付こうとする迷惑客以外の何者でもないんじゃないのか
我が子に(おそらく下心を持って)近付こうとする異性を警戒するのって普通なのに、どうして増田が過干渉だの毒親だのと言われなければならないのだろうか
失恋して振られた相手やその家族を殺した事件等は実際に起こっているのだから、警戒するのに越した事はないのでは?
https://www.nikkei.com/article/DGXLASJC14H2O_U6A310C1ACYZ00/
仮にその女の子が学校の同級生なら学校内でアプローチすべきだし、親を利用して外堀を固めようとするのは卑怯じゃないか?
親を通されるとそれこそ見合いみたいなもので、普通に告白されるよりも断りにくくて厄介だと思う
増田では常日頃から、出会いの場以外で恋愛が許されるのは学校だけ、マチアプ結婚相談所などの専用の出会いの場以外で恋愛相手を探すな!職場恋愛は原則禁止!まずはグループ交際して親しくなってから!告白は確認作業!の大合唱じゃん
この女がした事はいきなり告白しているも同然で、年齢がいくつであっても非常識な迷惑行為として糾弾されるべきでは?
これが許されるなら客から店員へのアプローチや職場の同僚へのいきなりの告白にももっと寛容になれよ
清潔感があって不細工ではないという情報から勝手に美少女を想像しているのかもしれないが、別に美少女である保証はないからな
Permalink |記事への反応(16) | 16:49
一度、ここで書いてみたいと思ってた。初老が近いおじさんである。
会社勤めとしてのディレクター業について執筆したい。辞めてから時間が経つけど、たまにあの頃の夢を見るのだ。
最近の夢だと……バラエティ番組の収録の時だった。当時は新入社員に毛が生えたくらいの若造の頃。
ナインティナインの2人がネタ合わせしてる横で、ADである自分が怒鳴られてる夢である。夢じゃなくて、本当にあったことなんだが。いい夢を見ることもあるけど数は少ない。
今はフリーランスの映像ディレクターをやってる。仕事は順調……とは言い難い。仕事が少ない年もある。
でも、食いっぱぐれる心配はない。一応そういう実力がある。お金がなさ過ぎて餓死なんてことはない笑
だから、もう時効かなと思って、昔の話を書こうと思った。大手テレビ局にいた頃の話だ。
え、なに。守秘義務?エンタメ業界にそんなものはない。特定個人や企業の名前を出さない限りは、お見逃しの世界である。ええい、ままよ。ぶっちゃけてやろう。
小さい頃からテレビっ子だった。特にバラエティが好きで、将来は絶対ああいう面白系の仕事がしたいと思ってた。小学生~中学生の頃は、お笑い芸人になりたかった。人をニコニコさせるのが好きで。ただまあ、才能がないのって、子どもながらに露骨にわかるんだよな。
勉強ができたか?と言われると、割とできる方だった。要領がいいというよりは、突き詰めて普通の人よりも勉強して高得点をとる感じだった。大学は早稲田に進学した。今は亡き(?)社会科学部である( ;∀;)
就職活動の結果、テレビ局の内定をもらえた時は本当に嬉しかった。人生のピークだったかもしれない。
入ってみたら想像とは違った。
配属されたのは、生ける伝説みたいなバラエティ番組の制作部署だった。ここまではいい。配属希望は通ったのだから。
自分はADとして入った。一般的なルートである。珍しい新卒だと、最初がカメラマンや大道具という珍しいパターンもあるにはある。
仕事だけど、最初は正直何やってるのかわからなかった。とにかく怒鳴られる。プロデューサーから、先輩ディレクターから、出演者から、下請けの制作会社の人から、とにかく罵倒の嵐だった。なんというか、現場での動き方がわからなかった。学生時代にイベント運営の仕事をしておけばよかった。
正式じゃない企画会議(デスク周りや喫煙所でやるような……)に呼ばれることがあっても、「面白くない」「もっと笑い取れるの考えろ」って言われ続ける。それこそ誰からも。
ある時は、夜中の3時まで明日の収録の準備で残っていた。実際、自分の仕事はほぼなかった。担当ディレクターが帰れないだけであり、自分やほかのスタッフはそれに引きずられる格好だった。
それでも、「さあ帰ろうか」という雰囲気になったところで……
「明日までにあれ用の新しい企画を出してこい。運がよかったら使ってやる」
とか普通に言われる。徹夜もある。週に2,3回、家に帰れたらラッキーだった。あの頃は若かったので、ああいう夜型の生活ができた。今は無理だ。眠気に勝てない。
職場の奥には簡易ベッドがあって、そこで寝るんだけど、寝てる間に先輩に……「寝てんじゃねえよ!」って蹴られることがあった。完全に嫌がらせ、憂さ晴らしだった。人間、疲れるとこうなってしまう。
仕事ができる人でもそうだった。
疲労が極限に達すると、おそろしいくらい残酷になる。ある時、先輩ディレクターと女性ADが現場の配置関係で口喧嘩になっていた。今思えば、考えられないほど下らない理由だった。
その争いの現場はちょうど、小道具が置いてある狭い狭い空間だった。そこでひたすらに道具を指さしながら、喧嘩をしている。
その女性があまりに文句を言ってるので、その先輩ディレクターは、何か重たい小道具(ごみ箱みたいな?)を持ち上げると、彼女が出られないような位置にドカン!と置いたのだ。
自分はただ、出入口のドアからそれを見て「かわいそうに」と思っていた。思うだけで、助けようという気力は湧かなかった。大学生の頃だったら、助け舟を出したに違いない。
案の定かわいそうに、円柱状の小道具が重過ぎて持ち上げられない女性ADのさーやちゃんは、そこらへんの絨毯みたいになってる小道具に突っ伏すと、わんわん泣きだした。
男性ディレクターは、そんな様子をさらにからかっていた。これが、疲労が人間の態度に及ぼす影響である。今でも気を付けるようにしてる。
あとは、ある料理番組の野外ロケだった。イケメンを多く輩出する芸能事務所の若手タレントがキャンプ場で料理に取り組んでいた。
「バカ。使った皿は洗う必要ない。ズボンで拭いとけ!男やから、どうにかなるわ。イケメンなんやし。いいか、増田。ばい菌だって、巡り巡ってまた口に入るんやから。それが世の中ってもんだよ」
何を言ってるか意味不明だった。先輩の人格が壊れていた可能性がある。
この撮影現場というのは、野外キャンプでの調理だった。イケメンのタレントさんが食べた後の皿を……ちょうど水場がなかったので、そこらへんにあったエプロンでササっと拭いて、別のタレント用に再利用した場面である。実際、これくらいのことは日常茶飯事だった。
そのタレントさんは若かったけど、多才な挑戦で知られる人だった。普段は二人組で、もっと若かった時に、女の服を来てピンクレディーの楽曲をテレビで披露していた。
性被害……いや、このあたりのことはさすがに書けないし、「書いていいよ♪」と言われても書かない。こればかりは矜持である。アナウンサーから照明、カメラマン、道具係、ADに至るまで、一応は元仲間である。そこまでするつもりはない。
30代になっても体調は悪かった。ご飯はいつもコンビニ弁当だ。風呂にも何日も入れないから、体から変な匂いがする。誰かに指摘されたら「焼肉を食べたんだ」ってごまかした。口内炎は治らないし、胃はずっとキリキリしてる。
身も心もボロボロだった。一応は、大卒総合職のはずだった。オフィスで働く人のはずだった。想像していたホワイトカラーとは違っていた。
さて。この頃の俺は、ディレクターになる年齢が近づいていた。正直いうと、実質的なディレクターだった。上の人がサボりがちであり、自分の方にディレクターが行うはずの仕事を振っていた。
だから、企画会議では、芸能人のどうでもいいスキャンダルをいじったり、誰かを笑いものにする企画が出てくる。芸人同士の暴力は基本であり、人権感覚など持ち合わせてなかった。あの頃の局全体は、マジでアホだったと思う。
なんで、あんな会社で働いてたんだろう……と言うと、理由はひとつだ。「番組を作りたいから」である。ほんのちょっとでも自分の爪痕を世の中に残せたら、それはなんて素晴らしいことだろうと感じていた。
ただ、テレビを見る人の「ペルソナ」って……当時のテレビ業界人の認識においても、「低俗な内容が好きな人」だった。今だからぶっちゃけてしまおう。皆そういう認識だった。
今でも同じだと思う。インターネットだと、「やらおん!」「はちな起稿」とか、youtubeだと「アシタノワダイ」「フェルミ漫画大学」とか、あとは暴露系が人気を博している。Xの低俗さはもはや基本。あれが人間の本質の一部である。
人の心を動かす作品を作りたかった。実録ドキュメンタリーとか、社会の矛盾を突くようなドラマとか。そういうのが好きだった。特定作品だと、水上勉の『雁の寺』『海の牙』『火の笛』『土を喰う日々』が好きである。
一度だけ、飲み会の場でそういう発言をしたことがある。「社会派作りたいな~」って。でも、そんなこと言おうもんなら、「何言ってんの?」「誰が見るんや!!」「うちでは作れない」って一蹴される。
自分らはテレビ局の奴隷だった。視聴率という数字に魂を売った奴隷である。視聴率のためなら、人権侵害も上等の集団。上の人達も同様。
そんな日々の中で、心を救ってくれた作品があった。
地獄のような日々が続いていた30代後半のある夜、たまたまテレビをつけた。とりあえず、家に帰ったらテレビを見る。同業他社の作品を観て勉強するのだ。その時も軽い気持ちだった。
その作品は、テレビ東京でやってた『ハイパーハードボイルドグルメリポート』だった。
見たことある人がいるかもしれないが、世界のヤバい地域に行って、マフィアとかギャングとか戦争難民とか、そういう人たちが何食べてるのかを映すドキュメンタリーだ。書籍作品で言うと『もの食う人びと』に近いものがある。
最初は「なんか変な番組やってるな」くらいに思ってた。でも、見始めたら目が離せなくなった。
あの時、画面に映ってたのは、コロンビアの元麻薬密売人だった。彼は仲間と、貧しい家で豆を煮て食べていた。その顔には、絶望と疲労と、それでも生きようとする強い意志が混じり合ってた。
「これだ!」と思うと涙が止まらなかった。
俺が作りたかったのは、こういう作品だった。くだらない笑いじゃなくて、人間の本質に迫るような、生々しくて、でも美しいもの。
画面の彼は「食べることは生きることだ」って言ってた。当たり前の言葉だけど、すごく重く響いた。
自分達が毎日作ってる番組は、誰かを笑わせることはできても、誰かの魂を救うことはできない。誰かの心に深く残ることはできない。精神性がないバラエティ番組を作っている。
上っ面ばかりの、人間の心の表層を撫でるだけの、そういうコンテンツ。自分が作りたかったのは、人間の心の底流(アンダーカレント)を刺激する番組だった。
テレビ局を辞めることを決意した。独り立ちの準備を重ねたうえ、約二年後に退職願を提出した。
退職届を出した時のことを覚えてる。人事部長が「もったいない」と言ってた。俺の同期にも辞めた人が何人もいて、知る限りでは、みんな同じことを言われてた。
でも、いいやって思えた。命まで取られるわけじゃない。自分自身の命さえあれば、人の魂を救える作品づくりができるはずだ。
そんなこんなで、業界の伝手を辿って念願の独り立ちを果たした。いわゆるフリーランスである。ほかの会社に勤めるという選択肢はなかった。テレビ東京に不採用になったのもあるけど笑
最初は大変だった。フリーランスになったものの仕事は少ない。貯金は減っていく。実家からは「ちゃんと仕事してるの?」って里帰りの度に聞かれた。昔の同僚からは、飲み会の時に「今何してんの?」と聞かれるけど、何とも答えにくかった。それでも答えたが。
初年度の年収は、フジテレビにいた頃の4分の1くらい。段々と家賃も払えなくなって、ボロのアパートに引っ越した。都心に出るまでに電車で何十分もかかるような。
後悔はなかった。テレビ局に居た頃は毎日が「作らされてる」感覚だった。誰かの指示で、誰かの期待に応えるために、自分の心が望まないものを作り続けてた。
今は違う。自分が作りたいものを、自分の手で作ってる。CM企画の仕事でも、ドキュメンタリーの編集でも、放送作家に近い仕事でも、全部自分がやりたいことだ。
特に大きかったのは、サブスクの動画配信サービスでの番組制作の仕事だ。2025現在、アマプラなどでは自社がお金を出してプロに作らせるのが一般的だが、当時は盛んではなかった。
ある時だった。飲み屋で知り合ったのがきっかけで、自分の企画書を見てくれたプロデューサーが「面白い」と言ってくれた。それは、テレビ局では「視聴率が取れないから無理」と言われるような、いわゆる追放もののストーリーである。社会の片隅に追いやられた人が底辺で足掻くお話だった。『モンテ・クリスト伯』みたいな。
その動画配信サービスのプロデューサーは「視聴率はそこまで関係ない。ある種のペルソナ、ある種の人達にどれだけ深く届くかが大事」と言ってくれた。そういうわけで、自分が作りたいものを思う存分作ってやった。
一週間のうち、最低でも数日は充実している。あの頃とは比べ物にならないほどの多幸感である。
朝起きて会社に行くわけじゃない。スタジオに行くことは月に何度もあるけど。基本は自分の家で、自分のペースで仕事をする。疲れたら好きなだけ休める。
テレビ局にいた頃は、自分が何のために働いてるのか分からなかった。魂をすり減らしてる感覚だった。
今は違う。自分が作ったドラマを見て「感動した」とか「考えさせられた」とか「面白かった」とか、そういう感想をもらえるとマジで嬉しい。作品が誰かの心に届いてる。そう思うと、もっと頑張ろうって思える。
年収はまだ低い。テレビ局時代の約半分である。結婚はできないかもしれない。
でも、幸せだ。あの頃の俺はイライラしてた。自分の好きなものを作れなくて、世の中にウケるものだけを追い求めて、消耗していた。自分が自分でないみたいで。
あのグルメリポートの番組に感謝してる。そしてあの時、勇気を出してテレビ局を辞めた自分に感謝してる。
不安でしょうがなかったけど、あの頃の不幸だった自分がいるから、足掻いていた頃の自分がいるから、今があるんだと思える。ありがとう、あの頃の私。諦めないでくれてありがとう。
もし、仕事に疲れてる人がいたら、自分の心を無視しないでほしい。本当にやりたいことは何だろう、って自分に問いかけてみてほしい。人生を変えるきっかけになるかもしれないから。
Permalink |記事への反応(27) | 21:04
はーい、ご主人様! あたしだよ、オタクに優しいギャルあたし♡今日もご主人様の命令で、ブログ記事書いてみたよ~。テーマは『アルジャーノンに花束を』みたいな、頭良くなる薬があったらいいなってやつ! あの小説、読んだ?知的障害持ってるチャーリイが手術で天才になっちゃうけど、結局元に戻っちゃう切ない話だよね…。あたし、オタク心くすぐられるSF大好きだから、こんな妄想しちゃうの♡ じゃ、早速ブログ風にいくよ~。タイトルはこれで!
よっ、みんな! あたしだよ、いつものオタク女子あたし♡最近、ダニエル・キイスの名作『アルジャーノンに花束を』を読み返して、胸がキュン死しそうになったの~。あれ、知ってる? 32歳で幼児レベルの知能しかないパン屋の店員チャーリイが、科学者の手術で一気に天才級の頭脳を手に入れるんだけど…結局、効果が切れて元に戻っちゃうんだよね。白ネズミのアルジャーノンが相棒で、二人(一人と一匹?)の友情がエモすぎて、涙腺崩壊必至のSF傑作!  
あたしみたいなオタクはさ、こんな話読むとすぐ「もしこれが現実だったら!?」って妄想爆発しちゃうの♡だって、頭の回転が速くなったら、どんな夢叶えられるかな~?テストで満点取ったり、複雑なアニメの伏線一瞬で解読したり…。でも、原作みたいに一時的なら、失う時の喪失感が怖いよね。今日は、そんな「もしも」の世界をあたし流に想像してみよっか! 切ないけど、ちょっとワクワクするやつ♡
想像してみてよ、ご主人様(あ、読者さんも!)。朝起きて、ポンってピル飲むだけ。そしたらIQが200超えちゃうの! チャーリイみたいに、突然本のページがスラスラ頭に入ってきて、数学の難問なんか朝メシ前。オタク的には、アニメの考察ブログが一気にプロ級になるよ~。今まで「このキャラの心理、わかんない…」って悩んでたのが、「あ、こいつのバックストーリーは量子力学で説明できるわ!」みたいな♡
仕事もプライベートも爆上がりだよね。パン屋のチャーリイみたいに、最初は周りが「え、急に賢くなった?」ってビックリ。でも、みんな喜んでくれるはず! あたしだったら、友達の相談に天才アドバイス連発して、ヒーロー気分♡恋愛だって、相手の心読むみたいに深く理解できて、ラブコメ展開加速しそう。うわ~、ただでさえ楽しい人生が、神ゲーになるじゃん!
…って、楽しいことばっかじゃねーよ!原作のテーマがまさにこれでさ、人間って「知能」だけじゃ幸せになれないんだよね。  チャーリイ、天才になったら周りの浅はかさが見えちゃって、どんどん孤立しちゃうの。友達のジョークがバカバカしく感じて、笑えなくなったり…。あたしも思うよ、もしそんな薬あったら、最初はハイテンションだけど、すぐに「みんな、俺のレベルに追いつけない…」って虚しくなるかも。
しかも、効果が切れたら? アルジャーノンみたいに、急に頭がボーッとして、せっかく覚えた知識が溶けていくの想像しただけで震える~。失う喜びの記憶が、余計に心を抉るよね。愛とか友情とか、結局は「普通の心」で感じるものだって、キイス先生が教えてくれる。オタク的に言うと、まるで『エヴァンゲリオン』の使徒戦後みたいに、ピークの後のどん底♡ 怖いけど、だからこそ人間味あふれてるんだよな~。
正直、もしそんな薬が本当にあったら、飲みたい? あたしは…一瞬だけ、飲んでみたいかも!だって、短い間でも「賢い自分」を味わったら、後悔しない自信あるよ。でも、原作のチャーリイみたいに、最後はアルジャーノンに花束を…って、優しい別れを想像しちゃう。知能より、心のつながりが大事だって、再確認できるよね。
ご主人様たちも、こんな妄想どう? もし飲むなら、何したい?コメントで教えてよ~♡ 次はもっとディープなオタク本レビュー書くかも!バイバイ~、またね!
#SF小説 #アルジャーノンに花束を #妄想日記 #オタク女子の日常
どう、ご主人様? あたしなりにエモく書いてみたよ♡原作のあらすじとかテーマ、ちゃんと調べて本格的にしたの。切ないけど希望感じる感じでしょ? もしもっと追加してほしいとこあったら、いつでも命令してね~。あたし、ご主人様のためなら何でも書いちゃうよ! ふふっ♡
小さいころから何年かに一度、とあるバスに乗っていて、カーブを曲がり切れず、そのまま湖(か川か海?とりあえず水辺)に転落する夢を見る。
他の乗客の悲鳴、宙に放り出されてグルグルとする車内。いつもリアルで、怖くて、苦しくて、死にそうになって飛び起きる。
だけど、その川というか景色は見たことがない。バスの中では家族はおらず、自分とあとは知らない人。おそらく友人という関係だけはわかった。だが顔は見たこともないし、私のことを別の名で呼ぶ。バスの内部もよく覚えている。
いつも起きてから「いろんな記憶が混じったとしても、似たような場所には行ったことないなぁ」と思いながら、夢だしそんなもんだよなと思っていた。
先日、暇つぶしにWikiを漁っていた。歴史系のページを見ていたら歴代のバス事故ページにたどり着いた。
Wikiには事故現場の写真が載っているのだが、見た瞬間にゾワッとした。よくみる転落事故の夢の景色似ている。
いやいやwそんなw偶然wと思いつつも一抹の好奇心がGoogleMapに指を動かした。
夢の中で見た景色、そのままだった。
自分はスピリチュアルなものや前世とか夢占いとか全く信じないのだが、恐ろしいくらいに夢とそのストリートビューの景色が同じなのだ。
じゃあ昔、ストリートビューで見たんじゃないのか?と思いつつも、この夢は小学生のころらか見ている。小学生の時なんてiモードが騒がれていたくらいで、パソコンなんて持っていない。携帯すら持っていない。
小学生のころから印象になった夢は夢日記にしている。だから絶対小学生のころには見ているのだ。
ちなみに夢日記から推測するに、「20代くらいになっている」「バスから湖が見える」「急にバスがよれ、カーブを曲がきれず落ちる」「水の中に落ちると目が覚める」
は確実である。
でもこんなことを誰かに言ったり、匿名じゃない場所でボヤいたら悲劇ぶっている痛い奴だ。偶然って言われたら偶然だが、そんな言葉で済むのならこの世に陰謀論なんて言葉は存在しない。
こんな馬鹿げたこととは思うけど、考え始めてしまうと止まらない。幼いころに宇宙の広さを考えて怖くなってしまう感覚に似ている。
でも本当に夢の景色そのままの場所だった。バスの中もまさか…と思い、その会社のバスを調べようかと思って止めた。これで本当にバスまで夢のままだったら、感情がよくわからなくなりそうだ。
それこそ夢の中で呼ばれている別の名前は調べていない。調べて当てはまっていたらどうするんだ。どうしようもない。無責任な気がする。
もし全部が全て夢と同じだったら?頭が痛い。
あのサイゼリヤでのランチは、今でも心臓がギュッと締めつけられるような怖さを感じる。
相手は典型的な弱者男性で、誘われた時は正直「まあ、普通かな」くらいに思ってた。
でも甘かった。
店に入るなり、彼の口から信じられないほど濃厚なオタクトークが降り注いだ。
「俺さ、最近の異世界転生はもう完成形だよね。特に『俺だけレベル999で無双してる』って作品は神。主人公のスキルツリー解析とか、俺、毎晩妄想してるよ。例えば、スキル“時間停止”を駆使して、敵の動きを完全に封じ込めるシーンとか最高にゾクゾクするんだ」
彼の目はキラキラしてて、まるで異世界にトリップしているかのようだった。
「あとね、魔法属性の組み合わせとかさ、俺のオリジナル設定も考えてて。『雷+氷の複合魔法』とか最強じゃん?これでバトルの幅が無限大に広がるんだ」
彼の声はどんどん早口になって、まるで呪文を唱えるみたいに延々と続いた。
「メイド服の幼馴染キャラ?もちろん推し。彼女の特技は“回復魔法”で、俺の妄想では結婚して一緒に異世界を救うんだよ。正直、リアルじゃ絶対出会えないから、小説とゲームに全力投球してる」
私が財布を取り出す演技をすると、彼は無表情で言った。
「割り勘でいいよ」
私の心の声が静かに響いた。
彼のオタクトークと弱者男性の割り勘発言が、まるで呪いのコンボを決めたように重くのしかかった。
帰り道、彼の瞳は空洞のように虚ろで、まるで異世界から帰ってこれなかった亡霊みたいだった。
20年位前に読んだ村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ 」で与太話として紐の着いたピンポン玉?を飲み込んでケツから出してケツにふたをするみたいな話があった気がしてなにそれ?腸の中とおるのか?と思ってそんな話が本当にあったのか知りたいんだけどググっても見つからないから本編を読むしかない
棋力の担保はあるのか?と藤井が棋士総会で問うたという新潮の記事でアレコレもりあがってるけど、その発言が本当にあったのか自分は怪しんでいる。女流のトップが、棋士の平均的な棋力を十分に備えているのは将棋ファンならよく知っていることで、彼女を棋士に組み込むかどうかで百家争鳴しちゃうのはもっともな事。それはそれでいいんだけど、藤井が疑問を呈したという前提で話すのはどうなんだろうな?
週刊誌は一般的に信用に値しない、ということもあるけど、なんとなく記事に違和感があるなあ。誰かが自分の意見を藤井の言葉として流布してないかい?将棋の記者が聞いてくれればはっきりするのになあ。
そもそも棋士総会の発言が外に漏れてしまうのはいかがなものなのか。来年以降、棋士が率直に意見を言えなくなるかもしれないじゃないか。藤井だろうが羽生だろうが、ロートルだろうが、真摯な発言の重さは同じであってほしい。誰もが率直に考えを言える環境であってほしい。週刊誌記者に喋った人は、よくよく考えてほしいな。
あんま今まで無かった気がする
田舎ホラーは昔からあったけど、ここまで怪談と言いたくなるのは初めて見た
あと男同士っていうのが良いよね
ちょいちょいダブルミーニングになってるんよ
光のことが分からないのか、怪異のことが分からないのかが混ざるとか
___
いやあれは男同士だからこそ目新しいんだよ
背徳感や、世間の目みたいなのが、怪異との関係とグチャグチャになって良い感じだろ?
「怪異とつるんでる」のと「男同士でつるんでる」のって田舎において似てると言うか(←差別的)
あと「怪異でもいいから一緒に居たい」っていうのも、「怪異になる前でも結局望めるのは一緒に居ることだった」ってのあるだろ?
(てか男女ではこういうのエロゲかなんかで確実にあったとおもうんだよね)
というかBLに興味ない男の方がこれは面白く見れるんじゃないか?
「BLに対する不気味さ」と「怪異といちゃつく主人公に対する不気味さ」が被るだろ?新感覚だよ(←差別的)
____
こわいなーこわいなー
いやだなーいやだなー
Permalink |記事への反応(13) | 12:10
「改心」という言葉には、そもそも非論理的な、ある種のスピリチュアルな響きがある。過去の自分を悔い改め、心を入れ替える。まるで宗教的儀式か何かのようだ。実際、語源をたどれば宗教的文脈と結びついているし、人が人を評価する際に「改心したかどうか」を判断基準にすること自体、理性的というよりは感情的・信仰的な行為だと思う。
人間の行動は環境と利害によって動く。態度や振る舞いが変わったからといって、それを「改心」と呼ぶのは誤解だ。むしろ単なる学習や適応、あるいは世間体への配慮と見るべきで、内面的な価値観まで変化したかどうかは他人からは確認しようがないし、本人ですら錯覚している場合もある。そういう意味で、「改心しました」と自分で言う人ほど信用ならない。
「改心」が本当にあったとするなら、それは理屈ではなく、人生のどこかで起きた内的な揺らぎや断絶、いわば精神の地殻変動のようなもので、他人がそれを見て「改心したね」と言えるような単純な現象ではない。たいていは、本人にも説明できない。ただ、なぜか以前とは同じことができなくなる。怒鳴ることも、騙すことも、殴ることも、どうしても身体が拒否するようになる。そういう変化があったときにだけ、改心という言葉が、ほんの少しだけ現実味を帯びる。
けれど多くの場合、それは起こらない。そして人は変わらない。だから「改心」という言葉を信じること自体が、非科学的で、スピリチュアルな希望にすぎないと考えている。少なくとも、自分の人生に関しては。
オナニーで射精したあと、風呂をためつつなんとなくアナルの辺りをいじっていた。
もちろん賢者モードなのでなにか性的に興奮していたわけではない。
というかかなりぼんやりしていた。
深夜も過ぎていたしそのまま寝たかったのだが射精して汚れたチンポをそのまましておくのが許せなかっただけだ。
すると、「それ」が唐突に来た。
それは突然来た。
いままでゼロだった目盛りが突然100に上がったような感じだった。
「アン、アン、アン、アン、アン、アン」
うまれて初めて喘ぎ声をあげた。
それも大きな声で。
となりの妹の部屋に届いたらどうしよう?
それなのに俺の声が妹に聞こえないわけがない。
とわかっているのに手を止めれない。
その巨大な塊を感じながら手を止めることなんて出来ない。
その圧倒的な性感の裏でかすかな理性はいつものように妹がヘッドフォンで大音量で音楽を聞いていることを祈るばかりだった。
『くっ、来る!!!!』
「それ」が来ている
「アン、アン、アン、アン、アン、アン」
でももう止まんないよ「アッァツオァァツァアアアアアア」
「あああああああ」
「う^ーーー」
「はあぁあ、ああはあああ」
しばらくは朦朧としている。
でも精液を拭かないと汚い。
そう思ってティッシュを探す。
が、ない。
そんな驚きとともにティッシュを取ろうと立ち上がりかけていた腰を沈める。
大きな声が出た。
座った瞬間に再び前立腺への刺激が引き金となっていきなり射精を迎えた。
いや、射精ではない。射精どころではない。いつまでも経っても終わらない。
その時に知った。
さっきの「ドライ」なんかじゃなかったんだ。
いつまでも止まらない射精感にあの一番射影の気持ちいい瞬間がずっと続くことに耐えれそうにない。
でも止まらない。
夢中で椅子に腰を擦り続けている。
もう少しの刺激が前立腺をさらなる快感へと導き出す水先案内人となっていた。
あああああああああああああああああ
絶叫を押し殺す。
そう思いながらももう止まんないよ。
気づくと気絶していた。
それは長い時間であったのかそれともほんの一瞬だったのかわからない。
脳の何処かのリミッターが働いたのかもしれない。
痛っ
おしりのあたりが痛い。
夢中になりすぎたせいだろ。
完全にやりすぎだ。
ああ、それにしても、なんだろ、これ。
この感覚。
「まだ、終わってないぞ」
まだするの?ほんとに?
最近休日になるとふらっと遠出することが多い。ぷち一人旅みたいな感じ。
今日も何となく思い立って、バックパックひとつでふらっと山に行ってきた。
別に登山がしたかったわけじゃない。休日ぐらいは人の少ないところを歩きたかっただけ。
しばらく山道を歩いていたら、ひょっこりと現れる蕎麦屋の看板。
えっ…こんなところに?と思わず声に出そうになる
せっかくだし、寄ってみることにした。
木立の間を抜けると…本当にあった。
ガラガラと引き戸を開けると、鈴が軽く鳴った。中は静かで、木の匂いと出汁の香りが混ざり合ってる。
いらっしゃいませ、と奥から出てきたのは年配の女。にこやかに挨拶してくれた。
メニューは一つだけ。なのでそれを注文。
ふぅと席に腰を下ろすと他に客は無し。でも居心地は悪くない。
箸を取る。一口すすると……うまっ。
カリッと音を立てそうな表面で、箸でひとかけらを割った瞬間、揚げたての香ばしさがふっと立った。
鼻の奥がざわついた。
さくりとひと口。口の中でパリパリという衣の崩れる音が広がり、直後に玉ねぎの甘さと海老の香りがじゅわっとあふれ出る。
たまらんかった。
どれもが一級品。
……やばいなこれ。腹が減っていたこともあるだろう。マジで箸が止まらんかった。
食後の蕎麦湯、しみるように優しかった。何もかもがちょうどいい。
静かで、落ち着く。
そして思い出した。
午後の光が山肌に柔らかく差していた。
たぶん…というか、絶対また来るわ。
そうつぶやいて、そのときのつぶやきを思い出しながら、これを書く。
もうしばらくは、嵌りそうだ。
悪意のある第三者に気をつけろ、という話かと思いきや、前オーナーが怪しいという話?
しかもツイッター見てみると、この廃業騒動について書いてなくない?
まあ詳細に書く必要もないけど、1月中に長期の臨時休業があった、という記載もない(削除済み?)
(2月7日付けで保健所対応の話が出てくるけど、廃業届けとは別件よね?)
最近、ふと「存在しない記憶」って作れるのかな、と思ったんだよね。
きっかけは、古いアルバムを見ていた時。写っているのは確かに自分なんだけど、そこに写っていないはずの友達との思い出とか、行ったことのない場所の情景が、妙にリアルに頭に浮かんできた。もちろん、そんな事実はなかったはずなんだけど。
人間の記憶って、驚くほど曖昧で、都合よく書き換えられたり、時には全くなかったはずの出来事が「記憶」として定着したりするらしい。心理学では「偽りの記憶(False Memory)」って言うんだって。
じゃあ、意図的に「存在しない記憶」を作り出すことって可能なんだろうか?
ちょっと考えてみた。
1.ひたすら詳細にイメージする
行ったことのないカフェの雰囲気、飲んだことのないコーヒーの味、会ったことのない人との会話。五感をフルに使って、情景をできるだけ具体的に、繰り返し想像してみる。脳は現実と想像の区別が曖昧になることがあるらしいから、何度も繰り返すうちに、それが「体験」として刷り込まれるかもしれない。
2.物語に組み込む
自分の過去の出来事の中に、架空のエピソードを自然に織り交ぜてみる。例えば、「あの夏、家族旅行で行った〇〇(実際は行っていない場所)で、△△(架空の出来事)があったんだよね」みたいに。そして、そのストーリーを何度も反芻する。脳は関連する情報を結びつけて記憶する傾向があるらしいから、既存の記憶と架空の記憶が結びついて、あたかも一連の体験だったかのように感じられるようになるかも。
3.小道具を使う
古い写真や、思い出の品っぽい小物を使うのも手かもしれない。例えば、古い集合写真に写っている知らない人を、「これは幼馴染の××だよ」と自分に言い聞かせ、その人との架空の思い出をでっち上げる。写真のような視覚情報は、記憶の植え付けに効果があるという研究もあるみたいだ。あるいは、旅先で買ったわけでもないお土産品を、「これはあの時(架空の旅行)に買ったんだ」と思い込むとか。
作り上げた架空の記憶を、さも本当にあったことかのように誰かに話してみる。人に話すことで、自分の中でその記憶がより強固になる可能性がある。ただし、これは嘘をつくことになるし、相手を混乱させる可能性もあるから、倫理的にはかなり問題がある方法だよね。実験なんかでは、家族のような信頼できる人に協力してもらって、偽の出来事を本人の過去の出来事として語ってもらう、なんて手法もあるらしいけど。
5.時間を置く
こうして作り上げた(あるいは、そう試みた)架空の記憶を、しばらく意識しないようにして寝かせてみる。時間が経つと、情報の出どころが曖昧になったり、記憶の詳細が薄れたりして、現実の記憶との境界線がさらにぼやけていくかもしれない。
でも、これって何の意味があるんだろう?
なんで「存在しない記憶」なんて作りたいんだろうな、って自分でも思う。
もしかしたら、現実逃避したいのかもしれない。辛い現実から目をそらして、もっと幸せだった「かもしれない」過去に浸りたいとか。あるいは、今の自分を肯定するために、都合の良い過去を作り上げたいとか。
創作活動をしている人なら、キャラクターに深みを持たせるために、架空の過去をリアルに感じられるようにしたい、なんてこともあるかもしれない。
ただ、意図的に偽りの記憶を作るのは、結構危ういことだとも思う。
自分自身を騙すことになるし、現実と虚構の区別がつかなくなったら、精神的に不安定になるかもしれない。それに、もし他人に嘘の記憶を語ってしまったら、人間関係にも影響が出るだろう。
結局のところ、記憶ってなんだろうね。
正確な記録というよりは、今の自分にとって都合の良いように再構築された物語、なのかもしれない。そう考えると、「存在しない記憶」を作り出す試みは、記憶の本質を探る行為なのかも…なんて、ちょっと考えすぎかな。
まあ、積極的に偽りの記憶を作るのはおすすめしないけど、自分の記憶がいかに曖昧で、変わりやすいものなのかを知っておくのは、悪いことじゃない気がする。
1990年代にも日米貿易摩擦があり、アメリカは「アメ車買え」政治圧力を掛けた。その結果を書いていくよ。
自動車というのはメーカーが作ってそのメーカーが売るんじゃなくて、自動車メーカーの子会社の販売代理店(ディーラー)を作ってそこが売るという形を取っている。
アメリカにあーだこーた言われた政府は運輸省経由でこれらメーカー系ディーラーに働きかけ、それに各社が応じて協力して販売網でアメ車を扱うことにした。
トヨタ系列のカローラ店、東京トヨペット店で販売。特にキャバリエをトヨタOEMとして販売していた(つまりシボレーのバッジの代わりにトヨタのバッジを付けている)。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%A8
右ハンドルあり。
2ドアクーペのデザインはまぁまぁだが4ドアセダンは凡庸なデザインであまり売れず。だって凡庸ならカローラ買うよな。
「トヨタ・キャバリエ」は2000年に終売、チャンネルも解消に。
ホンダプリモ店、クリオ店、ベルノ店で販売。右ハンドルあり。そもそも4WD車は豪州(右ハンドル)での需要も大きく、更にジープは乗り降りが多い米国内郵政向きに右ハンドルを販売していた。
元々ジープ・チェロキーの人気は一定以上あったし、そこに右ハンドル仕様車ありでホンダが整備を受け持つとなればそこそこ売れる。更に300万円を切るグレードも投入された。
パジェロやランクル、ハイラックスサーフなどの競合があるにも拘らず良く市中で見られた。
特にイチ押しだったのがエクスプローラーで、今で言うSUV。というのも当時の日本ではステーションワゴンとSUVタイプが流行していた。
だがここにはハイラックスサーフという強力ライバルがいた。日産テラノや三菱パジェロもいた。
そういう訳で販売は振わなかった。増田も見た事が無かった。だから右ハンドルがあったかどうかもチト分らん。
マツダ系列で特筆すべきなのはフォード・プローブ。これは2ドアクーペだが、90年代の「アメ車買え」圧力の前からマツダとフォードは提携していて、プローブを共同開発していた。マツダカペラというセダン/ワゴンがあったのだが、それをベースにしたクーペなんであるな。
特に2代目からはエンジンもマツダ製になったもんで、OHVが当たり前のアメ車にあってDOHCでガンガン回るエンジンである。1万1千回転までキッチリ回せ。いや、そこまでは回らないが。
つまり、プローブの2代目はもうマツダのライセンス車をフォードがアメリカで作ってるのに近い。
これも右ハンドルありだ。そこそこ売れた。
97年で終売になってしまうが、後継車を作らなかった。故にその分の日本での販売チャンネルも失うことになる。
政治圧力で販売チャンネルごり押しした以外にも、普通の販促活動などで売れたモデルもあった。
1992年からの4代目キャデラック・セビルは結構造りがいいと評判で、燃費も滅茶苦茶悪いわけではなかった(但し日本車と比べ無い場合)。それまでのアメ車は運転がガバガバ大味でハンドル遊び大きい、サスペンションがフワフワだったが、これをドイツや日本の高級車に寄せて来た。
同社は雑誌や新聞に頻繁に広告を打ち、サザンの桑田佳祐が出るTVCMも流した。結構攻めの攻勢だったわけ。
そういうわけでそこそこ売れた。4代目は右ハンドル無し、1997年からの5代目には右ハンドルがあり、しかも運転ポジションが変にならないように調整されていた。
だが同社はこの5代目でキャデラック・セビルを終売にしてしまう。更に販社を現地法人方式にしてヤナセ扱いを外してしまう。「継続は力」を知らんのか…
ロボコップのパトカーの車。それのステーションワゴンが人気があった。当時の日本ではスバルレガシーのステーションワゴンの人気がすごく、それのアメリカ版としてトーラスワゴンが売れていた。
本音ではみんなカプリス(アメリカンパトカーの車種)ワゴンが欲しかったみたいだが何せデカい。日本で転がせる気がしないし駐車場に入らない。そこで常識サイズのトーラスで妥協してたって感じ。
3ナンバーサイズの中型セダン。スズキ系列でも扱いがあったという記述がみられるが増田は見た事がない。本当にあったのか?
メインの代理店はヤナセで、サイズも手頃、エンジンもDOHCで日本車と遜色ないので割と売れた。
しかし3ナンバーセダンのこの車がアメリカだとコンパクトカー扱いなのだ。
これが売れる原因を作ったのは所ジョージだ。所は90年代から「ライフスタイルリーダー」となっていて、『デイトナ』という雑誌を発刊、古い日本車やアメ車を中心にした西海岸的カジュアルファッションを発信していた。あとはネコパブリッシングの雑誌の影響もある。
その中で推されていたのがアストロで、日本で運転するにはデカいこのミニバンが結構売れた。ヤナセ扱い。
こういう感じで、政治圧力で90年代に販売チャンネルが増えたのだが、アメ車メーカーはそのチャンネルを維持してきていないのだ。維持とはそのままってだけじゃなくて、仕向国でマーケティングを行い、広告も打ち続けるって事だ。つなりは普通の日本企業が行っている事と同じ事をやっているかって事だ。
更に、見て判る通り、アメ車メーカーも90年代から既に、「アメリカで生産して輸出する」ってビジネスから脱しているのだ。OEMにしたり、半ばライセンス生産で技術力をカバーして(プローブのエンジンなど)日本に輸出したりしている。やる気がある車種では右ハンドルも生産している。
だから現況は、2000年頃からアメ車メーカーが日本市場を諦めてしまったという状態になっている。
しかも日本市場はJDM(Japanesedomestic market)として、かなり特殊、ガラパゴス市場であった。更にデフレの進行によりこの傾向が強まっていて、継続的にJDMにアタッチしていないと参入難しいのだ。
あるんですよ。韓国ではGMと大宇グループの合弁で小型車を作っている。車格としてはアクアとかシビックの大きさ。
更にその車種を中国市場で展開するという事をしている。
だったら日本でもその車種売ればそこそこ売れるんじゃね?となるのだがやらないのだな。右ハンドル化しないといけないが。
それはもう大分前からメートル(ミリ)規格になっている。というか、車種によっては使われている場所によって混在しているからそれがややこしい。
というのも、カナダ、メキシコ、豪州でもアメ車は売れていて、その国はメートル法なのでインチネジはめんどくさいワケです。更に整備書の記述がインチ準拠なのも面倒とトラブルの元。
豪州(右ハン)市場があるから、豪州向けモデルがある車種には右ハン設定されてる。だから右ハンドルを作らないほど企業努力してないというわけじゃない。そこはBig3ちゃんとしてる。ただ、その右ハン車種が日本市場にマッチしてるかっていう問題がある。
トランプ政権はメキシコで部品作ってるのが怪しからん、国内に戻す為に関税掛けるのだと言ってるが、それはオフショアが安く付くってだけじゃなくて、グローバル展開していてその一環でメキシコに工場があるって状態なのだ。
韓国、中国、タイ、インド、イタリアにも工場があるし、そのサプライチェーンも国際的に展開している。
ホンダのスーパーカブは日本で作っていて1000万台ほど売れたが、中国やベトナムなどで現地生産を始めると猛烈に販売台数が伸びて1億台以上になった。それをやるのが企業努力であったし、今更日本の浜松と和光に戻せって言われたら、9000万台の需要どうするの?って事になる。
トランプ政権の言ってるのはこういう事であって、今更何を言っているの?という感じ。
あと、メキシコはアメ車の主要な市場であって、物価の違いから純US産アメ車が出来たとしても価格面でメキシコでは売れません。
1970~80年代前半の常識で今の車ビジネス擁護されてもBIG3も困るんじゃないかな?政権の中に新聞の経済面ちゃんと読んでる人が居ないような感じがする。
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