
はてなキーワード:未来社会とは
俺がこの作品を観ようと思ったのは単純に「オリアニ×SF」というキーワードに惹かれたからだ。
しかも舞台は独裁政権下の未来。その政権の名が“オーウェル”となればSFファンならここでもうニヤッとくるはず。なるほど。つまりこの作品は未来の管理社会を通じて現代を批評するようなタイプの本格SFなのかもしれないな。
そう思った俺の期待は一話目で脆くも崩れ去った。
0話目は導入として普通に面白かった。問題は一話目の…全部だ。コールドスリープから主人公が目を覚ましたら未来の世界であったにも関わらず文明は退化していて、そこに現代知識を持つ主人公が知識や技能を披露して「すごい!」と驚かれる。
…これって要はSF版なろうじゃないのか?SFでやる必要ある?とまず思った。しかもその未来の描き方があまりに表層的。冷凍睡眠もアンドロイドも既に古典SFが散々掘り尽くしたアイデアばかりで、掘る場所を間違えた考古学者みたいになってる。
SFの魅力って未知の世界をどう構築するかにあると思うんだ。つまりセンス・オブ・ワンダーってやつ。俺たちがまだ知らない技術が確立された未来社会においては倫理観や感情がどのように変化するのか?その技術がどう世界を変えるのか?それを見せるのがSF本来の役割で、未来を描くっていうのはそういったことのはずだ。だがこの作品は未来の皮を被った過去の焼き直しでしかない。アンドロイドが出てくるだけでSFを名乗られても困るんだよ。そこに新しさがなければ、それはただの衣替えだ。
一話のアクションシーンもそう。ぬるぬる動いていたし作画も良い。ビームの描写も迫力あった。見応えはあったけど…それはアニメとしての演出であってSF的思考とはまるで関係がない。アクションが悪いわけじゃない。ただ、なぜここでアクションを描くのかという意味が全くない。悪役は馬鹿だし、世界の論理を補強するどころか寧ろノイズになってしまってる。アンドロイドの存在を“人間とは何か”を問うための象徴ではなく、“戦う存在”としてしか描けていない。
しかもオーウェルという言葉を軽く使ってしまっているのも問題だ。あの名前が持つ文脈を理解していたら本来もっと慎重に扱うはず。オーウェル体制という単語を出した瞬間に、視聴者は「ディストピア的な思想統制」を期待する。でも実際はその概念を掘り下げることもなく、物語の装飾として消費しているだけ。だから軽い。あの名前を冠するなら、社会構造をもっと徹底的に描くべきだし、政治や思想が人間の精神をどう変えるのかを掘り下げないといけない。それは本来最初にやるべきことだった。
監督インタビューを読んでさらに残念だったのは、その自覚がまったくなかったことだ。作品の狙いとして語られていたのは感情のドラマや人間と機械の絆で、要するにSF的な思索を背景としてしか見ていない。感情を描くのは大事だけど、SFが背景に退いた瞬間、それはもはやSFじゃない。
この作品って要はSFとして未来を描けてない。未来を描いているように見えて、実際は過去しか描いてないんだよ。
映像も舞台設定も“未来風”ではあるけど、実際の中身は何十年も前のテンプレートの焼き直しにすぎない。つまりこれは、未来を描こうとして過去を描いた作品だ。未来っていうのは単に時代が進んだ先のことじゃない。“まだ誰も見たことのない概念を提示すること”だと思うんだよ。でもこの作品にはそれがない。冷凍睡眠もアンドロイドもディストピアも、すべてが既に古典SFで語られ尽くした過去の遺産だ。その使い方にも新しい視点がない。技術の発展を描いているようで、結局は“古いSFの模倣”にとどまっている。これじゃあ未来を見せるどころか、昔の未来をもう一度なぞっているだけだ。
どうか最後までこうならないことを願うばかりだ。
万博に最初に行ったのは、開幕1週目の平日。もともとは「う~ん万博?まぁよっぽど閑古鳥が鳴いてたらいってみようかな…?」といった感じだったのだけど、直前になると報道も(悪評が中心だが)増えてきて、こりゃ話のタネに行ってみたいなと急遽行くことにしたのだ。
そんなわけだから、「行ったら行ったで面白いだろうしけど、つまらなかったらつまらなかったで話のタネになるぞ」というくらいの気分で行ったわけだけど、結果楽しかったのでその後もリピートしているわけである。
とか言っていても、お囃子の声が聞こえてくれば、ちょっと行ってみようかなという気になり、行ったら買い食いもするし盆踊りを見たくなるもんさ。そういう魔力がお祭りにはある。(というより、その種の魔力を祭りというのかもな)
適当に歩いてたらさ、なんか踊ったり歌ったりしてる人がいてさ。ほんで自然に人が集まって、パフォーマンスが終われば自然と拍手が起こる。そういう空気が良かったなぁ。
昨今、社会の分断が問題って言われるじゃないですか。その場限りの空気ではあるが、それでも見ず知らずの人たちの間でちょっとした一体感ができることに、少しだけ救いを感じる。なんなら、入場ゲート前に国旗が並んでいるのを見るだけでもちょっとぐっとくるものがあった。
まぁもちろん、こんなのは幻想だ。万博を半年やったくらいで分断が消えるわけでもないし、国旗を並べただけで世界平和が達成されるわけでもない。なんなら万博自体が分断の種ですらある。あるいはこのイベントはパンとサーカスの類なのかもしれない。
が、それでも、である。たまにはそういう幻想を見て、仮に現実がそうでなくても、あくまで理想がどのようなものかを再確認する、というのは意義があるではないだろうか?
あー万博のテーマ?いのち輝く未来社会?う~ん、こっちについては自分はどういう意味かよく分からなかった。
いろいろ技術の展示はある。ただ、どうしてもこういう場所で展示されている技術はだいぶ無理した「背伸び」の展示だなという印象を受ける。技術ってのはもっと地味なもんなんだよ、ってのが自分の技術観だからなかな。
自分が冷めた人間なのかな。シグネチャーパビリオンを見ると、自分の表現物を実現するのに大金が動くクリエイターと、食うに事欠く人間の差は何なんだろう?とか考えてしまう。
まぁもちろんね、芸術に全然金が回らないような社会がいいとは思わないんだけどさ。
金のある先進国や産油国のパビリオン。あるいは企業パビリオンやシグネチャーパビリオン。まぁそういうところは、たしかに見てすげーってなるし、それぞれテーマがあって面白い。
でまぁそういうのも良いんだけど、けど、なんだかんだで私は中小国のパビリオンが好きだな。比較的待たずに入れるのも魅力だし、そういうところにふらっと入ったら愛想の良いスタッフが居たりすると嬉しい。ほんとの小国ともなると、説明員が誰も居ないか、居てもスマホいじってるだけだったりするわけだけど。
気合の入り方もピンキリでアフリカなんかは、正直どこの国も似たようなもん置いてんなぁ、違うのは大統領(大概軍人)の御真影だけか?みたいな国も多くてね。
それでもね、世界にはこんなに国があるのか~知らない国がい~っぱいっていうのを見れるだけでも、楽しいし有意義だと思うんだよね。子供達にはぜひそういうところを見てほしいね。
何回か行った万博で、やっぱり一番いい体験は、4月の開幕1週目に行ったときだったな。
単純に来場者が少なくて並ばずに入れるところが多いし、気温もちょうどいいし、というのが一番大きいのだけど、それだけではなく、事前情報がろくになかったので、攻略方法などという野暮なことを考えずに済んだ、というのも大きい。
好評が出回る中でも悪評が消えない予約システムだが、そもそも予約なんて大してあてにしてなかったからね。どこが見どころとか分からなかったし。
何度も言うように、万博はお祭りなのだ。祭りに行くときに、まずは射的をして次に焼きそばを…なんて考えるやつはいない。適当に歩いて、目に入った店を気分で見ていく。祭りってそういうもんだろ?
それを攻略法だのと称して、まるで最適解があるかのように言うもののなんと多き事よ。まぁね、安くもない入場料を払ったからには、というのも分かるんだけどなぁ。しかし、そのような「攻略法」は、万博の体験をむしろ損なっているのではないか?と私は思うのだ。
と言いながら、私も4回目とかになると、まだ行ったことの無い人気パビリオンに行きたいものだから、会場内で予約サイトをしょっちゅうチェックしたりしちゃうわけだ。
もうちょっとこう、何とかならないものかねぇ。(システム的な意味と、そういう野暮な行動をしてしまう自分の煩悩と)
話変わって、このあいだイオンモールに買い物に行ったんですよ。そしたらエスカレーター脇のちょっとした催し物とかやるスペースで、高校生かな?がビブリオバトルやってったの。で、クラスメイトらしき人や地域の人、たぶん通りがかっただけの人が周りで足を止めてなんとなしにそれを聞いている。
これを見て、私はそこに万博みを感じた。
日常の場と非日常の場、世界が集まる場と地域の場、スケールは全く違うけれど、小なりといえども舞台の上に立つ若者と、見知らぬ人たちの間で共有される拍手。
なんやかんや、イオンモールっていいところだなと思った。聞くところによれば海外では階層によって行くお店も使う交通手段も違うという。まぁ日本でも本当の貧困層や富裕層はイオンモールには来ないかもしれないけれど、それでも老若男女、だれが来ても許される空気みたいなのが、ここにある。そうだな、自分が好きな日本ところというのは、イオンモールに象徴されているのかもな、なんてことを言うのは大げさかな。あるいは地方都市民の発想かしらね?
A:今回の「アジャイル・ガバナンス」の件も、そうした観点から見直す必要がありそうですね。
B:そう思います。新しい技術への対応は確かに必要ですが、それが法の基本原則を損なうものであってはいけません。慎重な検討が必要です。
A:そういえば、「アジャイル」とか「Society5.0」とか、こういう用語ってどこから来ているんでしょうか?
B:それは非常に重要な指摘ですね。これらは元々、IT業界が新しいサービスの販売促進を図るために作り出したマーケティング用語なんです。
B:そうです。「アジャイル」はソフトウェア開発の手法から始まって、今では「迅速・柔軟・革新的」を表すバズワードとして使われています。「Society5.0」も政府とIT企業が共同で打ち出した未来社会のブランディング概念です。
A:つまり、商品を売るための言葉が法学の議論に入り込んでいるということですか?
B:まさにその通りです。私はこれを「法学のマーケティング化」と呼んでいます。学術的な厳密性よりも、印象的なキャッチフレーズが重視されるようになっている。
A:具体的には、どんなマーケティング的手法が使われているんですか?
B:いくつかのパターンがあります。まず「対立構造の演出」。「古い法学 vs 新しい法学」という分かりやすい図式を作り上げる。次に「権威付け」。G7合意だとか大学でのシンポジウムだとかを使って、お墨付きがあるように見せかける。
A:なるほど。それに「危機感の煽り」もありますね。「対応が遅れると取り残される」みたいな。
B:そうです。そして最も問題なのは、「破壊的変化の演出」です。
A:破壊的変化というと?
B:マーケティング用語の特徴として、「これまでは○○だったが、これからは○○だ!」とか「○○はもう古い!これからは○○の時代だ!」みたいに、変化や断絶を過度に強調する傾向があるんです。
A:確かに、「アップデート」という言葉も、そういう印象を与えますね。
B:まさに。でも法制度の発展というのは、本来はもっと地味で着実なものなんです。
A:どういうことですか?
B:法制度は社会の基盤ですから、急激な変化よりも着実な発展を求めるべきなんです。継続性を重視し、長年の経験の蓄積を大切にし、新制度導入前には十分な議論と検証を行う。
B:そうです。マーケティングは「売る」ことが目的ですが、法制度は「社会を支える」ことが目的です。この根本的な違いを忘れてはいけません。
B:もちろんです。ただ、その対応のあり方が問題なんです。既存制度の詳細な分析、他国事例の慎重な研究、段階的な制度設計、継続的なモニタリング...こういう地味な作業こそが真の改革につながるんです。
A:「パラダイムシフト」とか「ゲームチェンジャー」とかいう言葉とは真逆ですね。
B:その通りです。そういう「革命的転換」を演出する言葉は、法学には馴染まないんです。
A:でも、なぜ法学者の方々がこうしたマーケティング用語に惹かれてしまうんでしょうか?
B:いくつか理由があると思います。一つは、研究評価で新規性が重視されるようになったこと。地道な基礎研究より、目立つ新概念を提示する方が注目されやすい。
B:そういう面もあるでしょうね。それに、マーケティング用語は響きが良いので、つい使いたくなってしまう。
A:確かに、「アジャイル・ガバナンス」なんて言われると、なんだか先進的な感じがしますもんね。
B:でも、それこそが罠なんです。内容をよく検討せずに、言葉の響きだけで判断してしまう。
A:そうすると、法学者としての本来の使命を見失ってしまうと。
B:はい。法の安定性や予測可能性を確保し、民主主義や人権といった基本的価値を守ること。そのために蓄積されてきた知恵を継承すること。これが法学者の使命なんです。
A:マーケティング的な「新しさ」の追求とは、確かに相容れませんね。
B:そうです。特に今回の「アジャイル・ガバナンス」のように、民主主義の根幹に関わる問題については、より慎重になるべきです。
A:学術的権威が政策の宣伝に使われないよう、注意が必要ということですね。
B:まさに。法学者は、商業主義的な思考に惑わされることなく、学問の独立性を保つ必要があります。
A:でも、一般の人には、マーケティング用語の方が分かりやすいという面もありませんか?
B:それは確かにそうです。ただ、分かりやすさと正確性は別の問題です。複雑な法的概念を安易に単純化してしまうと、かえって誤解を招くことになります。
A:なるほど。私たちも、響きの良い言葉に惑わされないよう気をつけないといけませんね。
B:そうです。特に政府から出てくる政策提言については、その背景にあるマーケティング的意図も含めて、批判的に検討することが大切です。
A:「新しい」「革新的」という言葉だけで判断するのではなく、中身をしっかり見るということですね。
B:その通りです。そして、その「新しさ」が本当に社会にとって必要なものなのか、従来の価値を損なうものではないのかを、慎重に見極める必要があります。
A:今回の対話で、「アジャイル・ガバナンス」の問題がよく分かりました。ただの新しい政策提案ではなく、法学そのもののあり方に関わる深刻な問題なんですね。
B:はい。単に個別の政策の良し悪しを論じているのではなく、学問としての法学の在り方、ひいては民主社会の基盤をどう守るかという問題なんです。
A:私たち市民も、もっと関心を持って、しっかりと考えていかないといけませんね。
B:そうです。民主主義は私たち一人一人のものですから。権威や響きの良い言葉に惑わされることなく、自分の頭で考えることが何より大切だと思います。
Appleは製品を売っているのではない。「理想の自己像」を売っている。これは完璧に設計されたマーケティング戦略の成果だ。
私たちはAppleという檻の中で、“自由”という幻想を消費している。
AppleのiPhone戦略は、「Proで羨望を創り、SEで妥協点を作る」階層構造にある。
Proモデルは“一度使うと戻れない”中毒性の体験を提供する。
対してSEは、廉価モデルの“安心感”を装いながら、実はProの神聖性を保つための緩衝材として存在している。
ゆえにいずれ物足りなさが不満に転じ、上位機種への渇望を生む。
しかもAppleは廉価グレードであるSEですら“型落ち”需要を狙った巧妙な罠を張っている。
最初は性能を抑え、価格も中途半端だが、時間が経ち型落ちモデルが姿を現す頃に“これでいいか”需要が生まれるよう設計されている「時限爆弾」なのだ。
気づけば複数のApple製品を揃えないと「Apple体験」は成立しない。この「ストレスのない世界」は、完璧な囲い込みの設計だ。
⌚️:Apple Watch:バンドに潜む“自尊心”のトリガー
Apple Watch自体よりも、着目すべきはバンドの持つ「自己表現」だ。
Amazonを探せば多種多様なデザインのバンドが販売されている。ユーザーは自分の趣向に合わせて着用できる。
しかもバンドはApple Watch専用。互換性を持たせないことで、“腕からの依存”すら設計しているのだ。
iPadシリーズは「安くてゴミ、高いがゴミ」という構造を持つ。
無印iPadは安価だが、RAMも少なく、Pencilは旧式。分割表示も不安定で、書く行為すらストレスになる。
Proモデルは高性能なM4チップ(MacBookと同じチップセット)と16GBRAMを備えながら、macOSには及ばない。つまり「オーバースペック」な高級品。
iPadAirやMiniは、汎用性の高いデバイスとして、また「サブスマホ」的な位置付けとしての「ちょうど良さ」を装うバランス型搾取。納得感で財布の紐を緩ませる設計だ。
Appleは体験の快適さを段階的に操作することで、自然と上位モデルへと導く。
Proで「憧れ」を植え込み、廉価版で「ストレス」を仕組み、サードパーティで「個性」を売る。
その結果、私たちは徐々にAppleを通じた生活スタイルそのものを選ぶようになる。
Appleはこれらを統合し、「縛られる」ことによって他社が追いつけない“なめらかな体験”を提供する。
その心地よさが、囲い込みと依存を強化していくのだ。
ストレスは、あって初めて気づくもの。Appleユーザーは気付かぬうちに搾取構造の渦中に巻き込まれようとしている。
例えば、クラウド業界ではAWSが圧倒的なシェアを誇り、その背後にはAI・GPUチップで覇権を握るNVIDIA、そして製造を担うTSMCがある。
TSMCは日本にApple専用ともいえる工場を建設し、SonyのCMOSセンサー(スマホカメラ)を製造している。
これはAppleが情報漏洩リスクを最小限に抑えるための“囲い込み”戦略の一環だ。
業界標準を握る者が、すべてを支配する。これを理解し実行している企業だけが、生き残る。
🧺:檻は、悪ではない
Appleの「檻」は、決して悪ではない。
例えば動画撮影における「望遠から広角レンズへの切り替え」は動きをつけられ、Airdropによってメンバーとすぐに情報共有ができる。
あるいはMacBookによるiPhone遠隔操作で、さらなる生産性向上にも貢献できよう。
それはまさに、クリエイティブな未来を生み出すための“舞台”でもある。
:創業者、スティーブ・ジョブズの願い
「コンピュータになにができるかではなく、コンピュータを使ってクリエイティブな人々はなにができるか」
iPadAirを、Apple Watchを、iPhone Proを子供たちに使ってほしい。
未来社会のデザイナーが、インスピレーションを起こせるように。
https://x.com/mori_arch_econo/status/1916305363441451325
https://x.com/colecameron/status/1915653555471737154
の転載
東京在住ニュージーランド人、コール・キャメロン氏による大阪万博への酷評。
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筋金入りの万博オタクの俺は、これまでも世界中を駆け巡って、人間の創意工夫と文化を鮮やかに表現する様を目撃してきた。
上海万博2010の都会的なスペクタクル、麗水万博2012の海辺の魅力、ミラノ万博2015の活気あふれる雰囲気コロナ禍のパンデミックのせいでドバイ2020行かなかったんだけどな。
2025年の大阪万博は、俺にとっての究極のラスボス。キッチリしてる国、おもてなしの国。日本が誇るハイテクを駆使した素晴らしい万博になってるもんだと思ってたんだ。何ヶ月も前からXでもガンガン大騒ぎし、1年前からチケットを確保。俺のオタク魂は、期待度がどんどん高まっていたよ。
ところがだ、2025年の大阪万博は、すべての可能性を全否定、無駄のお手本、マジイライラするものだわ。退屈でくっそつまんねえ、俺がいままで万博に期待してたもの、そのすべてを裏切るものだよ。
まあ、私の愚痴を聞いてくれよ。
(1)デジタル全滅万博:ダイヤルアップ時代に逆戻りしたような世界
新幹線とロボット専門家はじめ技術があるはずの日本が、なぜか2005年の頃のような(20年前のような)、時代遅れのデジタル体験をさせられたぜ。俺の話を聞いてくれ、万博会場内じゃ、4つの別々のアプリを使わなきゃならない。しかも、どれもバグだらけで使えたもんじゃねえ。
メインアプリは、見た目だけのただのウェブページで、ブラウザの「戻る」ボタンすら付いてなかった。万死にあたるとはこのことだ!なんでまた、画面をスクロールしていくのは、まるで泥沼の中を進むようだった。俺は技術者として素人じゃないけど、これは悪夢だった。ウォークマンを発明したような国が、どうしてこんなにも基本的なアプリデザインをずさんにしてしまうか?不思議でならんよ。
俺は計画を立てたい人間なんだよ。旅程を組むのは本当に楽しい。過去の万博でも、そのおかげで完璧なスケジュールを簡単に組むことができてた。それがだ、2025年の大阪万博はどうだったか?というと、まさに、わけのわからん重労働。万博の予約サイトは、あらゆる人にとって迷路。すべての情報をごちゃ混ぜにした迷宮、まるでデジタル版ピタゴラススイッチだよ。わけもなく無限に複雑だった。
先週、まるでルーブ・ゴールドバーグ・マシン(ピタゴラスイッチのことだよ)と格闘しているようだとツイートしました。完全にお手上げになった俺は、もうこれまでの万博の知識に頼って、現地で臨機応変に対応することにしました。これがまさに、俺としたことが初心者並のミスだった。
上海や麗水、ミラノでは、回る順番を決めて戦略的に列に並べば息を呑むほど美しいパビリオンに入場できたんだけど、大阪万博のシステムではオンライン予約そのものが最初の難関。
ステップ 3: そして「クールな」パビリオン、コンサート、あるいはまともな食事の抽選に応募。
ところが、ここで抽選だ! 話題のパビリオンや展示の予約枠を追いかけて、何時間もアプリを延々と更新するはめになる。パビリオン予約の「空いている」はずの枠は、全部クリックした瞬間に消えてしまう。
しゃあないと、コモンズ館に行くと、予約はいらんけど二流のブースに閉じ込められることになった。それは、もう、まったく魅力のないどころか、見せかけの、見本市や展示会のただのブースだった。それなりに待てば入場できた、ミラノ万博の見事な「生命の樹」や、飛び入り参加可能だった上海万博の「中国館」と比べればわかる。
大阪万博の予約サイトの仕組みは、万博会場に到着する前に、みんなの心を折るように設計されているんだよ。まったく。
大阪湾の人工島、夢洲に足を踏み入れた俺は、「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマにした未来的なワンダーランドを想像していたんだ。ところがだ、その夢はもろくも崩れ去ったよ。実際には、ただただ過密状態、それが全てという、なんの魂もこもっていない企業展示会のようなものに遭遇してしまった。
会場レイアウトはごちゃっとしたまま、パビリオンはあちこちに散在して、案内の看板はまばらにしかない。至る所に人の動きをせき止めるボトルネックがあったぞ。コモンズ館でのぞいたほとんどのブースは、流行のキャッチフレーズや標語と、パワーポイントのスライドが映し出されるだけで、いいかげんなものだった。万博における文化の深みはどこへ行ったのか?そんなものは全く感じられなかった。
レストランは事前予約をしていないと入れないし、食事は、ぼったくりだった。道頓堀のフードホールで800円で買えるようなスモールピザセットに2000円も払ってしまったよ。
俺が一番悲しいのは、日本は本当はその期待と責任に答えるることができたはずななのに、ということだ。新幹線、スタジオジブリ、そして寿司を運ぶロボットの国、日本は世界へそのラブリーな魅力を発信するべきだった。
ところが、2025年万博はクソ官僚主義といいかげんさで、なにもかも頓挫してしまった。2010年の上海万博は世界的なビジョンで人々を魅了し、2012年の麗水万博は海洋イノベーションで人々を魅了した。2015年のミラノ万博は、食と文化を華やかに融合させた。それに対し、大阪万博は、最悪の欠点ばかりが目立ち、その魅力が消え失せてしまった。
(5)最終判定:とりあえず今持ってる円を使うな
2025年の大阪万博、俺は本当にそれに夢中になりたかったよ。でも、ひどいデジタルカオス、チケット予約地獄、そして退屈なアトラクションの数々を考えると、それは無理だな、断固拒否。
もう万博は諦めて、大阪の真のスター、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンへ行こうぜ。あんなに楽しい体験をするために(万博予約のような)兵站の博士号並の知識も準備も必要ない。
むしろ東京に来た方がいい。東京は毎日が巨大な万博みたいなもんだ。
熱心なワールドエキスポファンとして、これまで世界中を渡り歩いてきた。
🇨🇳上海2010の都市のド派手さ、🇰🇷麗水2012の海の魅力、🇮🇹ミラノ2015の活気ある文化融合(🇦🇪ドバイ2020はコロナでパス)。
2025年大阪万博は、日本の技術力とホスピタリティが光る最高峰のイベントになるはずだった。
𝕏で何ヶ月も盛り上げ、1年前にチケットをゲットして、心の準備は完璧だった。
だが、結果は失望の極み。可能性を無駄にした、ガッカリな万博だった。
今回は、その全てを正直に語らせてもらう。
4つも別々にインストールさせられた挙句、どれもバグだらけ、動きは鈍くて、使い勝手は最悪。
メインアプリは、ただの劣化版ウェブサイトのようで、「戻る」ボタンすら正常に機能しない。これはUX設計最大のタブーでしょう?
これが新幹線を走らせる国、世界に誇るIT技術を持つ日本の仕事かと思うと、ショックだった。
俺は、旅の計画を立てるのが好きだ。
行きたいところ、見るべきもの、全部きっちりスケジュールに落とし込むタイプだ。
これまでの万博なら、それが楽しかった。でも大阪では、スタート地点から躓いた。
公式サイトは、あれもこれも詰め込みすぎて、何が重要なのかさっぱり分からない。
必要な情報にたどり着くだけでも一苦労。これじゃ計画なんて立てられない。
仕方なく現地でアドリブ勝負に切り替えたけど、それが大間違いだった。
他の万博みたいに、並んだらすごいパビリオンに入れる――なんて甘いもんじゃなかった。
大阪は、「チケット購入→日付指定→さらに個別抽選」という三段階地獄が待っていた。
しかも、抽選がまたキツい。「予約可能」と表示されてるのに、タップした瞬間に消える詐欺まがいの仕様。
何度アプリをリロードしても、人気パビリオンの枠は幻みたいなもの。
夢洲の人工島、テーマは「未来社会のデザイン」とかでワクワクしたのに、実際は雑多な企業展示会。
レイアウトはグチャグチャ、案内表示は不足、人の流れはボトルネックだらけ。
ブース内も、パワーポイントと流行語を並べただけのやっつけ展示ばかりで、文化的な深みは一切存在しなかった。
食事も高額な割に感動ゼロだった。予約なしで入れるフードコートでは、小さなピザセットに2,000円も払わされた。
日本は、新幹線、ジブリ、寿司ロボットといった世界が憧れるイノベーションを生み出してきた国だ。
本来なら、これらを世界に見せつける最高の舞台になったはずだった。
上海2010は壮大なビジョンを見せ、麗水2012は海の未来を描き、ミラノ2015は食と文化の躍動を体現していた。
だが、大阪2025は、それらの失敗要素だけを寄せ集め、「魔法」を完全に忘れたかのようだった。
しかし、最悪なデジタル体験、ストレスフルな予約地獄、心を動かさない展示。
断言する。「行かなくていい」。
本当の大阪のスター「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」に行った方が絶対にいい。
それか、東京へ行けばいい。東京は、毎日がワールドエキスポみたいな都市だ。
俺みたいにリアルじゃ全然目立たんし、社会でも居場所ない感じの人間にとって、コスプレって数少ない自己表現のチャンスなんよ。
もちろん迷惑かけたらアカンのはわかってる。通路塞いだりとか、過激な露出とか、それは確かにマナー違反やと思う。でもさ、ちゃんと節度守って楽しんでる人まで「気持ち悪い」とか「場違い」って言われんのはキツいわ…。
俺、コスプレイヤーさんが万博行ったって見て、「いいね!」って感動したんよ。俺も、ああいう風にちょっとでも目立てたら、普段の自分から少しだけ抜け出せる気がするんよね。
万博って「未来の社会」見せる場所やろ? だったら色んな文化とか個性を受け入れる懐の深さも見せてほしいやん。コスプレがあることで、「あ、こんな生き方もあるんやな」って思う人もおるかもしれんし。
だから、頼むから「コスプレ=迷惑」って決めつけんといてほしい。俺みたいな冴えへんやつでも、一瞬だけ主役になれる大事な表現やねん。もっとみんなが寛容になって、誰でも楽しめる万博になってほしいわ…。
それにそもそもやけど、この日本って国は「公序良俗」や「法律」に違反してへん限り、どんな格好しても自由なんよ。これ、当たり前の話な。
論点が整理されていないので、Grok君に整理してもらいました。参考にしてください。
以下は、X上で議論されている「大阪万博にコスプレで参加することの是非」に関する論点を整理し、コスプレ否定派とコスプレ容認派の主張をまとめたものです。各論点について、関連する過去の事例・判例・法令を必要に応じて記載します。主張の評価は行わず、客観的な整理に徹します。
公式ルールの曖昧さ:大阪万博の公式ルールでは「持込禁止物に該当しないもの」「公序良俗に反しない服装」「平穏を乱す行為の禁止」を条件にコスプレが許可されているが、具体的な基準が不明確である。更衣室がないことやトイレでの着替えが禁止されていることから、コスプレを想定したイベントではないと解釈すべきである。
暗黙の禁止:公式が明確に「コスプレ歓迎」と明記していないため、「許可されている」ではなく「禁止されていない」に過ぎない。コスプレは運営が想定していない行為であり、ルールの隙間を利用する行為は不適切である。
運営負担の増加:コスプレに関する問い合わせが増えると運営の負担となり、将来的にコスプレが禁止されるリスクが高まる。
公式ルールの明確な許可:大阪万博の公式FAQで「コスプレまたは仮装をしての入場は可能」と明記されており、特定の条件(持込禁止物、公序良俗、平穏)を満たせば問題ない。ルールに則っている以上、コスプレは正当な行為である。
運営の歓迎姿勢:コスプレイヤーへの現地スタッフの対応が好意的であり、事実上コスプレが歓迎されている。運営側がコスプレを問題視していない証拠である。
多様性のテーマとの整合性:大阪万博のテーマ「いのち輝く未来社会のデザイン」や「多様性」にコスプレが合致し、文化表現の一環として認められるべきである。
大阪万博公式ルール:公式FAQによると、「持込禁止物に該当しないものであれば、装着しての入場は可能」「公序良俗に反する服装や平穏を乱す行為は禁止」「更衣室はなく、トイレでの着替えは禁止」「他の来場者に迷惑となる写真撮影や、不安感・恐怖感を与えるものは入場拒否の可能性」と規定されている。
過去の万博:愛知万博(2005年)ではコスプレサミットが開催され、コスプレが公式イベントとして組み込まれた。上海万博(2010年)やドバイ万博(2020年)でもコスプレ関連イベントが存在し、万博とコスプレの親和性が示唆される。
場違いな行為:万博は国際的な文化交流や技術展示の場であり、テーマパークやコスプレイベントではない。アニメキャラクターのコスプレは万博の目的(各国の文化・歴史・技術の体験)にそぐわず、場の雰囲気を乱す。
他の来場者への影響:コスプレは目立つため、意図せず注目を集め、写真撮影や囲みの発生で他の来場者の体験を妨げる。特に海外からの観光客がコスプレをイベントの一部と誤解する可能性がある。
公共交通機関や移動の問題:コスプレ姿で公共交通機関を利用したり、会場外を移動することは、コスプレ界隈の暗黙のルール(公共の場でのコスプレは控える)に反する。
文化表現としての正当性:コスプレは日本のサブカルチャーとして世界的に認知されており、万博の多文化交流の一環としてふさわしい。コスプレを通じて日本の文化をアピールできる。
他の来場者との交流:コスプレは同じ趣味を持つ人々との交流を促進し、万博の「共感の輪」を広げる。スタッフやキャラクターとの好意的なやり取りも、ポジティブな体験となる。
個人の自由:コスプレがルールに則り、他の来場者に迷惑をかけない限り、個人の表現の自由として認められるべき。万博の多様性を体現する行為である。
コスプレイベントの例:コミックマーケットやコスプレサミットでは、公共の場でのコスプレ移動を避けるため更衣室が用意され、移動時のルールが厳格化されている。万博では更衣室がないため、移動時のコスプレが問題視される。
テーマパークの事例:ディズニーランドやユニバーサル・スタジオ・ジャパンでは、特定の期間(例:ディズニーハロウィーン)を除き、コスプレでの入場が制限される。これは場の調和を保つための措置とされる。
著作権侵害の可能性:コスプレ衣装はアニメや漫画のキャラクターを基にした二次的著作物であり、権利者の許可なく製作・着用することは著作権法の複製権や翻案権の侵害に該当する可能性がある。現状は権利者の黙示の許諾に依存しているグレーゾーンである。
不正競争防止法のリスク:コスプレ姿をSNSに公開し、注目を集める行為は、キャラクターの顧客吸引力を利用した「不正競争」に該当する可能性がある。特に万博のような公共の場での露出は、権利者のイメージを損なう恐れがある。
コスプレ界隈への悪影響:無許可のコスプレが目立つと、権利者が法的措置を取る可能性が高まり、コスプレ文化全体に規制が及ぶリスクがある。
著作権侵害の非該当:コスプレは二次的著作物に該当しない場合が多く、翻案権侵害には当たらない。個人による非営利のコスプレは、権利者が黙示的に許諾しているため問題ない。
ファン活動のポジティブな効果:コスプレは作品の宣伝やファンコミュニティの活性化に寄与し、権利者にとっても利益がある。万博でのコスプレは作品の布教につながり、文化的価値を高める。
法的リスクの低さ:非営利目的のコスプレは、権利者が訴訟を起こす可能性が低く、実際には問題にならない。万博のルールに則っている限り、法的問題は生じない。
著作権法:コスプレ衣装が元のイラストの「表現上の本質的な特徴」を再現する場合、複製権(著作権法第21条)や翻案権(同第27条)の侵害に該当する可能性がある。ただし、私的使用(同第30条)や非営利目的の場合は権利者の黙示の許諾により問題にならない場合が多い。
不正競争防止法: 「マリカー事件」(東京地裁2018年、知財高裁2020年)では、マリオ等のコスプレ衣装を使用した商業活動が不正競争行為(不正競争防止法第2条1項1号)に該当すると判断された。非営利のコスプレは対象外だが、SNSでの公開が「顧客吸引力を利用」と見なされる可能性がある。
コスプレのグレーゾーン:コスプレは権利者の黙示の許諾により成り立っているが、2021年に政府がコスプレの著作権ルール整備を検討する方針を表明。現時点で明確な法規制はない。
マナー違反の懸念:コスプレは目立つため、意図せず他の来場者に迷惑をかける(例:写真撮影の囲み、スペースの占有)。特に子どもや海外来場者への配慮が不足している。
承認欲求の押し付け:コスプレ姿でSNSに投稿することは、自己顕示欲や承認欲求を満たすための行為であり、他の来場者に強制的にコスプレを見せる結果となる。
悪意ある利用のリスク:過去にテーマパークで不適切な目的(例:子どもへの接触)でコスプレをした事例があり、万博でのコスプレが同様のリスクを孕む。
マナーを守れば問題ない:ルール(公序良俗、撮影禁止、迷惑行為の禁止)に則り、他の来場者に配慮すれば、コスプレは問題ない。実際、問題行動を起こしたコスプレイヤーの報告は少ない。
テーマパーク的体験の提供:コスプレは来場者にとってテーマパークの着ぐるみのような楽しさを提供し、万博のエンターテインメント性を高める。
個人の楽しみ:コスプレは自己表現やキャラクター愛の表れであり、他の来場者が不快に感じるとしても、ルール違反でない限り制限すべきではない。
過去のトラブル:テーマパークでのコスプレによるトラブル(例:不適切な接触目的のコスプレ)は、公共の場でのコスプレに対する懸念を高めている。ただし、万博での具体的なトラブル事例は未報告。
コスプレイベントのマナー:コミックマーケットやコスプレサミットでは、撮影時の囲み防止や移動時の配慮が暗黙のルールとして存在する。万博ではこれが徹底されていないとの指摘がある。
コスプレ界隈の体質:コスプレ界隈には「ルールを守らない」「文章を曲解する」傾向があり、万博でのコスプレもその延長線上にある。炎上はコスプレイヤーのマナー違反や非常識な行動への反発である。
個人的な不快感:コスプレが万博の場にそぐわないと感じる人々が、ルール以前に「見たくない」という感情から批判している。これは個人の価値観の相違によるもの。
過剰な注目:特定のコスプレイヤー(例:鹿乃つのさん)がSNSで目立つ投稿をしたことで、他のコスプレイヤーにも批判が波及。影響力の大きい人物の行動が炎上を増幅した。
不当なバッシング:ルールに則ったコスプレが「承認欲求」「場違い」などのレッテルで批判されるのは不当。批判者の多くはルールを把握せず、感情的な反発に終始している。
コスプレ文化への偏見:コスプレに対する否定的な意見は、コミックマーケットなどでのオタクバッシングの延長であり、偏見に基づく。万博の多様性を否定するものだ。
運営の公認:大阪市長がコスプレ関連の記事をリポストするなど、事実上公認されている。批判は「個人的な不快感」を押し付けるわがままである スpost:1⁊
過去の炎上事例:コスプレ界隈では、イベント外でのコスプレ(例:ディズニーランドでの無許可コスプレ)やSNS投稿が炎上した事例がある。万博のケースも同様の構造を持つ。
SNSと炎上:SNSでのコスプレ投稿は注目を集めやすく、批判が過熱する傾向がある。法的な問題がなくとも、感情的な反発が炎上を招くケースは多い。
炎上の中心事例:議論の中心は、コスプレイヤー鹿乃つのさんが『ダンジョン飯』のキャラクター「マルシル」のコスプレで万博に来場し、SNSに投稿したことによるプチ炎上である。このケースが多くの論点を引き起こしている。
法的グレーゾーンの影響:コスプレの著作権や不正競争防止法に関する議論は、法的解釈の曖昧さが議論を複雑化させている。明確な法規制がないため、双方の主張が対立する。
万博の特殊性:国際的なイベントである万博は、テーマパークやコスプレイベントとは異なる目的と雰囲気を持つため、コスプレの適切性が特に議論の焦点となっている。
以上が、X上で議論されている「大阪万博でのコスプレの是非」に関する論点整理です。各論点について、否定派と容認派の主張をバランスよくまとめ、関連する事例・判例・法令を記載しました。
反論: 「開催できたこと自体が成功」とするのは、評価基準が極めて主観的です。国際博覧会(万博)は国際的な交流、イノベーションの発信、地域経済の活性化といった多目的のもとに開催されるイベントであり、「開催した」だけでなく、その社会的・経済的な波及効果によって評価されるべきです。
開催したという事実だけで評価を完結させるのは、事業効果の検証責任を放棄することになります。
---
反論: その通りであり、だからこそ厳密な成果検証と説明責任が求められるのです。
公共事業が税金でまかなわれていることを理由に「どうでもいい」「どうせ回収できている」とするのは本末転倒です。むしろ税金で賄われているからこそ、透明性・費用対効果・市民の納得感が重要になります。
---
反論: この主張には陰謀論的要素と侮蔑的言辞が混ざっており、社会的議論の土俵に乗せにくいものです。確かに、公共事業に利権構造や不透明な資金流用が指摘されるケースは過去にもあります。しかし、それは事実に基づいて個別に検証すべき問題であり、「すべての公共事業はキックバック目的」とするのは根拠のない一般化です。
また、納税者を「愚民」と呼ぶことは公共議論の質を著しく損ないます。民主主義社会では、市民が政策や公共事業の在り方を判断し、批判・提案を行うことが健全なプロセスです。
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■論点4:「持ち出し金なんて全部payできてる」
反論: 現時点で、万博関連費用(会場整備費・運営費・インフラ整備費など)のすべてが回収できているという公式な会計報告や第三者検証は存在しません。むしろ、一部費用の増額や追加支出(パビリオン建設支援など)が報道されており、収支の透明性は今後の大きな論点です。
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総合的に見ると:
この投稿は皮肉や怒りの感情が強く、万博に対する不信感が現れています。しかし、公共事業である以上、事実とデータに基づいて冷静に議論しなければなりません。「成功か否か」「税金の使い道」「収支の妥当性」「利権の有無」――これらは全て、感情ではなく客観的検証と市民的な議論によって判断されるべきです。
【追記】04/15 16:30
こういうプロ驚き屋な記事をかくと、反応が入れ食いになるのがブクマのよいところですね。
ただ、コメントを読んだ感じ、どうにも僕が作品の中の起こってる事象そのもの以上に、そこで起こる人間の心理や価値観、欲望の表出に驚いてることがいまいち伝わっていなくて、自分の筆力の無さを感じている。
そもそも価値観や人間の心理って、線形の延長線上にあるテックな未来と比べると、イレギュラーに変化するゆえに想像つかないと僕は思っているが、どうにもブクマカは人間の心理は一定で変わることはないと思ってるようで、その辺が齟齬の原因かなと思ってる。
あと、下に書いてるけど、1994年発刊だけど、この小説の初出は1992年だからね。なのでパソコン通信である種の文化があったのはわかるが、インターネットはすでにあったみたいな指摘してる人は頓珍漢だからね。
とはいえ、僕は小林恭二が忘れられた作家になるのはもったいないと思ってるので、もっとこの本を含めて読んでほしいなと思います。
あたりがおすすめです。
僕にとって、この人と薄井ゆうじの二人は、森見登美彦と万城目学のようなコンビのイメージなんですよ。
【追記終わり】
小林恭二という作家がいる。いやいたと言ったほうが近いかもしれない。今は専修大で作家育成をしていて自作は15年くらい発表していないと思われる。
僕は30年近く前の大学時代、この作家が世界で一番好きな作家だった。今もベスト5くらいには入る。あの頃読んだ現代作家の多くは、だんだんと思想の方向がどうにも自分と合わなくなってしまい作品を読むこともなくなった(すべては不用意な発言を垂れ流すTwitterが悪い)のだが、そういうのをやってなかったこともあって小林は今も好きなままだ。あと、もう一人薄井ゆうじという作家も好きだったがこの人も作品を書かなくなった。
きっかけは高校時代に書評欄に数行紹介されていた「ゼウスガーデン衰亡史」だった。のちに福武文庫で買ったその小説は、主人公がいない群像劇で今までに見たこともないとてつもなく魅力的な小説だった。のちの書評なんかを読むと「 『虚構船団』 の影響が大きすぎる」と言われたが、僕には「虚構船団」よりも「ゼウスガーデン衰亡史」のほうがはるかに好きだし、いまでも面白い小説の基準はこの小説になっている。この小説よりおもしろいことは小林の他作を含めてもなかなかないのだが。まあ、この作家を読んでたことで僕は今も奇想の強い小説や奇書が好きである。レムの「完全な真空」なんかも好きだ。
年末に書庫を整理したところ、小林恭二の「短篇小説」という単行本が出てきた。奥付を見ると1994年だが多分貧乏大学生の自分が買ったのは1,2年程度たった後の古本だったと思う。小林先生申し訳ない、たぶん自分が新刊で買ったのは数冊しかない。
何とはなしに読み直すことにした。けっこう好きな短編集だったが、特に好きなのは冒頭からの3作「光秀謀反」(戦国時代の戦国大名は、ハプスブルク家とつながっていた信長など、ヨーロッパ諸侯とつながっていたという話。めちゃくちゃ面白い)、 「豪胆問答」(生まれてこの方驚いたことない侍が化け物に遭遇する話、面白い)、「バービシャードの49の冒険 序章」(英雄バービシャードが冒険に出るまでの話。続きが読みたい)だったので、それ以外はあまりちゃんと読んでなかった。たぶん全部を丁寧に読むのは21世紀に入ってから初めてだろう。
なんかかなりグッとくるエロイ話とかあって、あれ、こんなにセクシーなのを書く作家だっけかと思ったりしたのだが「磔」という短編を読んでとんでもなくびっくりした。これ、現代の話じゃね??とちょっと動揺してしまったけど、共有するところが見つからなかったので増田で書き散らそうと思い書き始めている。いちおうKindle版もあるようだが、バッキバキにネタバレと引用をするので、ネタバレ回避したい人は読むのやめましょう。とはいえ、10編ある短編の一つなので1編程度のネタバレがあっても十分面白く読めると思うが。
主人公の男性はN区(都会の幹線道路沿いだというから中野区あたりかね)にあるビルの27階にある住居兼仕事場で暮らしている。主人公の仕事についての描写
わたしは、現在とある不動産会社にアナリストとして勤務している。仕事は、電話線を通してコンピュータに送られてくる膨大な情報の検索及び処理で、パソコンと電話機があればどこにいても可能な仕事のため、専ら自宅で仕事をしている
えっ、これリモートワーカーじゃね?? さらに続く文章に驚かされた
会社に行くのは一か月にせいぜい一度か二度くらい。近頃は外に出るのも億劫になり、買い物も通信販売と宅配サーヴィスにたよっているから、部屋を出ることも稀だ。
十年位前まではよく、そんな生活をしていて社会とのつながりが希薄にならないかと問われた。
私は答えたものだ。
「もともと会社や社会とのつながりを希薄にしたいために、こういう職を選んだのだ。わたしとしては月に一度程度会社にいくことすら面倒くさい」
これが2020年ごろに書かれた作品なら普通だろうけど、さっきも述べたように奥付は1994年。この作品の初出は1992年である。30年以上前の作品である。
小林はけして、現代SFの作家などにあるような科学的な考証などを積み重ねて世界を描き出す作家ではない。
実際、この後、主人公は仕事を終えて、自分用のパソコンのスイッチを入れるのだが
パソコン通信でクラシック音楽情報を専門に扱うネットにアクセスする。
ちなみに現在かかっているモーツアルトの歌曲は、昨日ネット内で教わったもので、近くのビデオ屋(CDも貸し出している)にファクスして取り寄せたものだ
と、ネット通販どころかインターネットすら登場しない。パソコン通信の会議室だ。(このニュアンスの違い、増田を読む人ならわかるだろうから説明は省く)
作者は自分の想像力の範疇だけで書いているのだ。おそらく小林氏は当時パソコン通信をやっていたと思われるのでそういう描写なのだろう。
どうやら、このクラシックの会議室には太陽暦氏というモデレーターがいて、今日のおすすめを教えてくれるらしい。(この辺、僕はパソコン通信詳しくないんだが、パソコン通信でこういうことをやってる人はいたんだろうか。誰か詳しいネットの古老の方は教えてほしい。)
ちなみに太陽暦氏はハンドルネーム、つまりパソコン通信ネット上のペンネームで、無論、ちゃんとした本名もあるのだが、ネット上ではハンドルネームで呼び合うのが礼儀となっている
太陽暦氏は私のほか何人かのクラシック初心者のために、三か月の間毎日推奨のレコードを挙げてくれることになっている。
それでもって翌日に曲の聴き所などレクチャーしてくれる。
年をとった人に言うと、それでいくらとられるのだと聞かれる。
無料だと答えると大概驚く。
こちらのほうが驚く。
この辺は、ちょっと時代が2周くらいした感じはある。現代社会、やはり情報は商品になっている。むしろこの時代よりはるかに商品度は高い。2000年代前半くらいまでのネットの価値観ではあるが、まあ、今も一部の分野、特に趣味の分野では無料になってる面はある。この後、情報についてのT.ストウニアの「情報物理学の探求」という本からの言及がある。ストウニアとこの著作は実在するようだが、現代社会でどういう評価なのかはちょっとわからなかった。忘れられた学者みたいな感じなんですかね。
まじで今の話じゃないの?
哲学の会議室で「かなり痛烈な罵倒用語を駆使」してメッセージを書き込んで去り、夜中に反論の嵐が巻き起こるのを期待している。荒らしかw
バーといっても本当のバーではなくネット上におけるバーである。
ここはバーカウンターにいるような気持ちで人のメッセージを読み、あるいはメッセージを書き込むという、いわば言葉の上でのバーを形成している
2ちゃんのバーボンハウスみたいなもんか。いや、あれは釣られて受動的に行く場所だから違うか。これもパソコン通信で実際にあったやつなんでしょうか。
まあ2ちゃんの雑談スレッドやXなどでなれ合いをしてるような感じだろう。
ここで主人公は、その日の夕方に自分だけが得たとっておきの情報を披露する。その情報が何なのかはまあ表題でネタバレしているが割愛しておく。
書きながら私はぞくぞくしていた。それは渇望していた情報を得たときの快感と対をなすものだった。それはパーフェクトな情報を発信する快感である。
この気持ちに心当たりのある人、手を挙げて! はーい! だからこのエントリーを書いてるんだよ!!
これってつまりバズる感覚ですよね。ネットでバズることの気持ちのよさをこの作者は30年前に理解していたのだ。いくら小説家という職業とはいえ、この感覚を90年代初頭に持っていたのは相当に新しいのではないだろうか。ほんとに深く驚かされた。
主人公の情報は狙い通りにバズり、彼はその日のその酒場での「英雄」となった。
そして翌日、彼は新聞で自分のバズらせた話題の件について読む。ここで新聞というメディアへの評価も非常に今の時代っぽいので引用しよう
こんな感じの印象を新聞(だけでなくオールドメディア全般)に持ってる人多いでしょうなあ。
最初にリモートワーカーの意味を言い切った時点で、うわっすげえと思ったのだが全部読んで、とにかく小林恭二の凄みを感じさせられた。
乱暴な話だが、資料をある程度収集して咀嚼すれば、未来社会がどんな風になってどんなものがあるかは書くことができる。それが30年後の現在と適合していても、ああ、資料よくそろえたね頑張った頑張ったくらいの感想どまりである。しかし、その未来社会で、人がどういう価値観を持ち、どういう欲望をどのように満たそうとして行動するかまで描いたら、そして、それが後世の人間からして違和感のないものであれば、まったく意味合いが違ってくる。
もし、僕が今時の書評系TikTokerのように「30年後のSNS社会を予見したとんでもない短編!!」とか宣伝したら、バズってこの主人公のような「パーフェクトな快感」を得られるだろうか?
参考文献(アフィはないのでご興味あればどうぞ)
Permalink |記事への反応(10) | 02:25
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🚆2025年日本国際博覧会の開幕を取材しようとスプートニク特派員が大阪へ出発! 現地からとびっきり新鮮な情報をお届けします。
🤩大阪・万博の一番の見どころはスプートニクで! 皆さんもご一緒に見学をお楽しみください。
#大阪万博をスプートニクが取材 #大阪・関西万博 #EXPO2025
https://x.com/sputnik_jp/status/1910656068109160448
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大阪・関西万博の開幕を取材しているスプートニク特派員が、稼働を開始したメディアセンターの雰囲気をお届けします!
映像はワーキングスペースの様子、写真は展示されているグッズ、そして「夢洲駅」のオールジェンダートイレ。
大阪・万博の一番の見どころはスプートニクで! 皆さんもご一緒に見学をお楽しみください。
#大阪万博をスプートニクが取材 #大阪・関西万博 #EXPO2025
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石破首相は12日、大阪・関西万博の開会式で「世界の人々が対話し、交流する舞台を提供する。ここから新しい日本の姿を世界に発信していく」とあいさつした。
「コロナ禍を乗り越えた世界は、様々な分断の危機に直面している。こうした時代に、世界中の人々が集まり、『いのち』というテーマに向き合い、最先端の技術や多様な考え方、そして文化に触れることは極めて大きな意義がある」
続けて石破氏は、会期を通じて各国や来場者相互の交流が進み、世界が再び結びついていくことを期待してやまないと述べた。
大阪・関西万博は13日開幕する。会期は10月13日までの184日間。会場は大阪市の人工島「夢洲」で、テーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」。
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https://x.com/sputnik_jp/status/1910953651159392386
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2025年大阪・関西万博の会場は、13日の開幕に向けて最終準備が進められている。
現在、会場への入場が許されているのは関係者と取材許可を得た報道関係者のみ。
スプートニク特派員は、会場のシンボルである「大屋根リング」やその内側のゾーンの様子を撮影した。ここにはまもなく、世界中から代表団が集まる!
「大屋根リング」は、日本の神社仏閣などの建築に使用されてきた伝統的な貫(ぬき)接合に現代の工法を加えて建築しているという。1周およそ2キロ、高さは最大20メートルで、「世界最大の木造建築物」として2025年3月4日にギネス世界記録に認定された。
大阪・万博の一番の見どころはスプートニクで! 皆さんもご一緒に見学をお楽しみください。
#大阪万博をスプートニクが取材 #大阪・関西万博 #EXPO2025
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大阪万博には行ったほうがいい。
大阪万博は、ただの国際的な展示会ではなく、未来を感じることができる場所だ。このイベントには、最新技術や未来社会のビジョンを直接体験できる貴重な機会が詰まっている。そのため、万博に参加することは、単なるレジャーとして楽しむだけでなく、後の自分の人生や記憶に大きな意味を持つ。
万博で体験できる技術や展示は、未来に向けての大きな一歩を感じさせてくれるものばかりだ。自動運転車やAI、エネルギーの新しい形、さらにはバイオテクノロジーなど、これらの技術は近い将来、私たちの生活に大きな影響を与えるだろう。こうした先端技術を実際に目の当たりにすることができるのは、まさに貴重な体験だ。これを逃すことは、未来の世界を形作る瞬間を見逃すことになるかもしれない。
また、子どもの時にやったゲームの話題に入れないというのは、思いのほか大きな寂しさを感じるものだ。例えば、友達や大人たちが懐かしいテレビゲームや映画の話をしているとき、自分がその時代にその体験をしていなければ、話の輪に入れずに疎外感を感じることがある。大阪万博も、未来の重要な話題となることは確実だ。万博で触れた技術や社会的なテーマは、未来の世代が語り継ぐ話題になるだろう。そのため、万博に行かないことが後々大きな後悔につながる可能性がある。
さらに、万博には子どもを連れて行くことを強く勧めたい。特に子どもたちにとって、万博のような場所で未来を感じ、さまざまな技術や文化を体験することは、彼らの成長に大きな影響を与えるだろう。子どもたちは、新しいテクノロジーや社会の進歩に触れることで、好奇心や探求心を育むことができ、また、親と一緒にその体験を共有することは、親子の絆を深める貴重な時間にもなる。万博での体験は、子どもたちにとって将来にわたる大切な思い出となり、彼らの価値観や考え方にも影響を与えるだろう。
万博に行くことで、未来の社会や技術についての理解が深まり、それを後の世代と共有できる。万博で得られる経験は、単なる観光以上に、未来に向けた一歩を踏み出すことになる。将来、万博を体験したことがどれほど貴重で意味のあることだったかを実感する時が来るだろう。その時に、「行かなかった」という後悔を感じないためにも、今のうちにこの機会を逃さず体験しておくことが重要だ。
万博に参加することで、将来に渡る大切な記憶を作ることができる。子どもと一緒に行けば、その体験は親子で語り継ぐことができ、未来に対しての理解や価値観を育むための素晴らしいステップとなる。その貴重な機会を手に入れてほしい。
ぐんぴぃさんが「女性交渉経験がない」まま「妻子持ち」となり、かつ子供が彼の遺伝子を引き継ぐためには、SF的な技術を活用して、従来の肉体的な関係を完全に回避する方法を考えます。以下はその設定です:
状況の背景
ぐんぴぃさんは未来社会に生きており、結婚は社会的な契約として存在するが、子作りはすべて科学技術によって行われる世界にいます。彼は妻と法的な夫婦関係を結んでいるものの、個人的な信念や文化的な理由で「女性との直接的な交渉」を一切拒否しています。
子作りのプロセス
遺伝子提供: ぐんぴぃさんは自分の遺伝子(DNA)を医療機関に提供します。これにより、彼の遺伝子が確実に子供に引き継がれます。
人工子宮: 妻との間で子供を作る際、妻の卵子とぐんぴぃさんの精子を体外で受精させ、その受精卵を人工子宮で育てます。妻は妊娠・出産を経験せず、子供は完全に人工的な環境で誕生します。
妻の役割: 妻は法的な「母」として子供を育てる役割を担いますが、ぐんぴぃさんとの間に肉体的な接触は一切ありません。彼女自身の遺伝子が子供に引き継がれるかどうかは状況次第ですが、少なくともぐんぴぃさんの遺伝子は必須条件として含まれます。
「バキ童」の維持
ぐんぴぃさんはこのプロセスを通じて、女性との直接的な「交渉」(肉体的な親密さ)を一切経験しないまま、子供を持つことができます。彼の「バキ童」としてのアイデンティティは、物理的な接触がないことで保たれます。
SF的要素の強化
もしさらにSF色を強くしたいなら、ぐんぴぃさんの遺伝子からクローン技術で子供を作り、それを妻が「育ての母」として引き取る形も可能です。この場合、妻の遺伝子は関与せず、純粋にぐんぴぃさんの遺伝子だけで子供が作られます。
あるいは、遺伝子編集技術(CRISPRなど)を用いて、ぐんぴぃさんの遺伝子を基盤にしつつ、妻の特徴を模倣した子供を人工的に設計する、という方法も考えられます。
具体的なストーリー例
ぐんぴぃさんは、異性との接触を極端に嫌う潔癖症の持ち主であり、「交渉なんてありえない!」と豪語する男です。しかし、家系存続のために子供を残す義務を感じ、最新のバイオテクノロジーを利用。自分のDNAを提供し、人工子宮で育てられた息子を持つことに成功します。妻とは契約結婚の関係で、彼女は子供の母親として社会的に認められていますが、ぐんぴぃさんとは一度も手を握ったことすらないプラトニックな関係です。
周囲からは「妻子持ちなのにバキ童ってどういうことだよ」と笑いものですが、本人は「俺は科学の力で純潔を貫いた」と誇らしげです。
あんま話題になってない映画だけどこの辺に感想ぶら下げておくかな
ネタバレだけど大したストーリーじゃないからネタバレ知って見ても問題ないと思う
予告見た瞬間に誰もが思うことであるし、
クリエイターなら誰もが一度は思うことかもしれない
なお監督もラピュタを参考にしたと言ってるしパンフでも突っ込まれている。
そして映画を見てしばらくすると
どう見てもズートピアです。本当にありがとうございました。
という羽目になる。
どこかで見たことある要素だけで作られたよくできた映画でしかない
ラピュタとFLYとズートピアとベイマックスとマダガスカルとアイアンジャイアントあたりの要素で大体全て説明可能
メインテーマは「感情のないロボットが心を持ってしまったら・・・?」ていうベタすぎて100万回擦られたネタ
今どきそれ正面からやる?
隙間なくアクションとギャグを詰め込まなければ映画が持たないという強迫観念を感じる
アクションを派手にするためなら多少設定や整合性を無視してもいいだろっていう雰囲気がある
もっとなんも起こらない緩い間とかあってもいいしそこまで激しいアクションにしなくてもって思う
そのへんはピクサーのほうが慎みがあって好きだな
中盤まではすごい小さい島のスケールのまま終わっていく雰囲気があってそれはそれでよかった
雁の群れが旅立つシーンはクライマックスとしては最高だった
典型的なロボ泣きとして文句ない出来だったし斜めから見てても泣けた
いや文句がないわけじゃないよ
なんでお前らだけ急に親切やねんとか
なんか布石うっとけばいいのに
魅力的なキャラとして描かれてはいるからそこは些細な問題だったかな
見てるこっちのテンションは下がりっぱなしよ
まず雁の群れが嵐に巻き込まれてロズの仲間が働いてる農場に逃げ込んだら
外部から生物が入ってくると汚染されるからまずいというなら鳥が入れないような設計にしとけよ
簡単には入れない農場にキラリの機転で頑張って入った!みたいな場面を少し挟むだけで解決する問題だと思うんだが
「バトルシーン入れるなら派手な方が良くね?」という精神でどんどん頭悪くなっていくっていう
ボスベイビーとかマダガスカルは頭悪くてもいいから、SFやるならもっと慎みを持てよ
その後の展開もロズ1体を回収するのにどんだけドンパチやってんだって話だし
あれぐらい派手なバトルやるなら、地球の未来ぐらいかかってないとダメだろ
突然出てきたタコ型ロボットも面白いキャラだったけど、やっぱりいい悪役って序盤から
積み上げていかないとさ、突然アクが強いキャラ出てくると薄っぺらく見えるよね
ほんの少ししか出てこないのに強烈な印象を残す
莫大な金かけてラピュタを真似してラピュタ以下の映画を作ってもなー
やっぱメインキャラの造形が他の映画に似すぎてるってのは、比べられても仕方ないと思う
自分で回収信号を出して散々な目にあったのにまた懲りずに回収信号出して無事回収されましたとさ、で感動するか?
またあのタコ型ロボットが回収しにきたんじゃねーのか?その辺都合よく誤魔化してないか?
完全に動かなくなって朽ち果てていくロズ、でもハートはここにあるよ!で終わる方が泣けたと思うがなぁ
ロズを開発した会社のコールセンターの人ぐらいしか出てこなくて、明らかに人間は描きたくありません!ていう描写なんだけど
単に未来社会を描くのが面倒だったようにしか見えないね。少しの描写であってもそこに批評性を持たせることもできただろうに。
あんなんだったら人間の文明は滅んでいたっていう話にした方がよほど面白くなったと思う
慎みなんかよりわかりやすくパクって盛った方がヒットするってことだね!
火星で発見された遺跡の調査を進める中で、主人公たちは高度な文明を持つ「恐竜人類」の存在を突き止めます。物語の終盤、彼らが残したメッセージから、地球の人類と火星の文明が深く関わっていることが明らかになります。
主人公は、謎の物質「ダイヤモンドの涙」を追い求める中で、物質が人類の意識や存在に深く影響を与えることを知ります。最終的に、主人公はこの物質を利用して人類の進化や未来に新たな可能性をもたらす選択をします。
主人公は、奇妙な事件に巻き込まれ、フィボナッチ数列に関連する謎を解明していきます。物語の結末では、この数列が異次元への扉を開く鍵であることが判明し、主人公は新たな世界への旅立ちを決意します。
天才数学者である主人公は、宇宙の根本的な法則を解明する「沈黙の方程式」を発見します。最終的に、この方程式が宇宙の崩壊を防ぐ鍵であることが明らかになり、主人公はその知識を使って宇宙の存続を守ります。
5. 『アンドロイドは東の空に愛を歌う』ウィリアム・B・ファレル
人間とアンドロイドの共存が進む未来社会で、主人公はアンドロイドの権利を巡る闘争に巻き込まれます。物語の終盤、主人公はアンドロイドにも感情や意識が存在することを確信し、彼らの自由と平等のために立ち上がります。
主人公は、宇宙の未知なる領域で「空洞の神々」と呼ばれる存在と接触します。物語の結末では、これらの存在が宇宙の創造や進化に深く関与していることが明らかになり、主人公は人類の位置づけを再考することになります。
月面での探査中、主人公たちは月自体が巨大な知的生命体であることを発見します。最終的に、月は人類と共存し、宇宙の知識を共有する意志を示し、主人公たちは新たな時代の幕開けを迎えます。
人生の知恵と経験を集約し、新たな目的や役割を見つけるための教育機関。第二の人生を始めるための準備を行う。
2. 賢老大学(Wise Elder University)
社会の未来を導くために、高齢者が知識を共有し、若い世代の指導者を育成する教育機関。
3.時間叡智館(Chrono Wisdom Institute)
時代を超えた知識や歴史の教訓を学び、未来を設計するための教育機関。
人生の終わりを深く理解し、自らの存在意義や宇宙との調和を学ぶ機関。「死生学」「存在論」「魂の解放」を専攻。
5. 魂の統合学園(Soul Integration Academy)
生涯の経験と記憶を統合し、魂の次のステージに進むための準備をする教育機関。
肉体的限界を超えた知識と存在の探究を行う場所。時間、空間、意識の枠を越えた学びを提供。
7.未来創造大学(FutureCreation University)
これからの世代のために、未来社会の構想や文化的な遺産を残すための教育機関。
8.意識融合センター(Consciousness Fusion Center)
個人の意識を集合意識と融合させ、宇宙全体の調和を目指す教育機関。
9. 老賢者の殿堂(Hall of the Elder Sages)
社会の最高の知識と叡智を集約し、世界の指導者たちに助言する役割を担う機関。
# 前提条件:
# 実行指示:
{書籍のジャンル}である{書籍タイトル}の書籍を作成するために、
{本の目次}の{今回作成する章}の内容{今回作成する章の内容}を、
[#出力フォーマット]を参考に、{スタイルやトーン}で執筆してください。
各セクションは最低でも{各セクションの最低文字数}文字以上で記述してください。
#情報:
年齢:28-35歳
職業:戦略コンサルタント、投資銀行家、起業家などエリートビジネスパーソン
興味関心:世界史、地政学、テクノロジー、ビジネス戦略、未来社会
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職業:歴史哲学者、科学思想史家、数理生物学者、計算論的精神医学研究所所属
専門知識:歴史学(世界史、文明史)、地理学、生物学(進化生物学、疫学)、数学(数理モデル、複雑系)、哲学(科学哲学、歴史哲学)、社会科学(政治学、経済学、社会学)、計算論的精神医学(知能モデル)
補足:ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」の議論を基盤としつつ、最新の研究成果と批判的視点を取り入れ、より厳密で多角的、かつ未来志向の文明論を展開する。数理哲学的な厳密さと歴史学的な実証性を重視し人間の知能を問い直す。
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書籍タイトル="文明の興亡:地理、病原菌、技術、そして社会構造の進化"
ターゲット層="知的好奇心旺盛なビジネスエリート、グローバル企業のリクルーター"
本の目次="
* なぜ今、文明の興亡を再び問うのか?
* 「銃・病原菌・鉄」は何を間違えていたのか?
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序章と終章以外の各章の最低文字数="2000"
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# 出力フォーマット:
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{このセクションが章の中で果たす役割、読者に提供する情報を具体的に示す。}
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# 補足: