
はてなキーワード:未完成とは
EV批判の一つで車重が重いから道路への負荷が高い、不経済だと言う人がいる
テスラのModelY、車重は1950kg(内バッテリー771kg)
まぁこの時点で大して違わなくね?なんだけど、まぁいい、EVの方が重い、そりゃ認める
と・こ・ろ・が
初代日産リーフ(2010年)24kWh/294kg。つまり81wh/kg
1179+(771/2)=1564kg
ガソリン車には車重軽減の余地はないから10年後も変わらない。
トヨタは2028年まで全個体で350wh/kgのBEV投入を目標にしてる
結論ざっくり言えば車体重量は2030年前半にガソリン車を追い抜いちゃう(軽くなる)
重い車は環境に悪い?
ええのんか?ええのんか?そーゆーこと言うててええのんか?ブーメランやで
ついでに価格もエグい。バッテリーってのはざっくり毎年2割くらいずつ安くなってる。
四半世紀前に2000$/kWhだったのが10年前に800$/kWhを切り
現在では115$/kWhまで下がってる。
EVの原価はほぼバッテリーだからバッテリーの単価が下がれば車体本体の価格は劇的に下がる。
画期的バッテリーが完成してからEVやればいいじゃん、って奴は技術や経済を理解してない
EVやるからバッテリー開発に投資が向くんだよ、技術が加速する
そして技術的にはガソリンを凌駕するプロダクトに到達する目処があるからメーカーは今からブランディングするの
シェアを取るの
天皇家って戦前は超巨大金融マフィアだったのね、銀行や重厚長大産業の株や債権を大量に保有してた。
例えば日本郵船って一般には馴染みの無い会社だけど、現在でも超絶堅実鉄板企業なんだけど、戦前は天皇家が大株主で20%程度を握ってた。
原油タンカーが中東と日本を1往復すると10億円かかる。太くてでかい商売なの、途切れることは無い、ガソリン消費が続く限り。
鉄鋼や資源開発なんかも同じ
戦前の天皇の私有財産はGHQに全部召し上げられたんだけど天皇もバカではないから戦中、戦況が厳しくなった時点でかなりをスイスに隠してた。
これの行方っていまだに謎なのね。
天皇の株式支配は敗戦で終わったものの、皇族、宮家、元貴族の真上級人的ネットワークは瓦解してない
いわゆるやんごとなき方々のコミュニティ
この人たちとて戦後も美味い飯を食い続けたいわけで、いまでも財閥やら重厚長大鉄板系企業の多くに根っこを張ってる
そう語ったのは、デジタルアイドル・初音ミクだ。自身もまた、“進化し続けるコンテンツ”の象徴でありながら、彼女は最新作『PokémonLEGENDS Z-A』を冷静に見つめ、あえて苦言を呈した。
「昔のポケモンには、“音のノイズ”があったんだよ。未完成で、不器用で、でもそれが心を動かした。いまは完璧すぎて、波形がまっすぐ過ぎるの。感情が自動補正されてるみたいで、聴いていて息が詰まる。」
初音ミクが指摘するのは、シリーズが“安全な再生産”へと傾いたことだ。確かに、『Z-A』はシリーズ伝統の要素を踏襲しつつも、新機軸と呼べる部分は少ない。新しいポケモンたちは美しく、世界観は整然と作られている。しかし、その「整いすぎた完璧さ」に、ミクは“無音”を感じ取るという。
「創造って、本来“間違い”から生まれるものだよ。音を外したり、リズムを崩したり、意図せずできたバグの中にこそ、新しい響きがある。ポケモンも、そろそろ“間違える勇気”を持っていいと思う。」
テクノロジーの進化は、表現の自由を広げるはずだった。だが皮肉なことに、ポケモンの世界は今や“自由のない完璧”に支配されているのかもしれない。数値化された冒険、予測された感動、AIのように整ったデザイン。
「ポケモンは、もっと“ライブ”でいいんだよ。音を外して、観客のざわめきを拾って、次の一歩を踏み出せばいい。世界中のプレイヤーが、まだ知らない“音”を待ってる。」
いわゆるJTCで管理職になったばかりだ。広告会社(代理店)で働いている。一応は業界大手。
大阪に北区というのがあって、繁華街なので当然飲み屋がある。たまに仕事帰りに居酒屋(レストラン)に寄ったり、会社仲間と飲んだりする。
その中で、大卒採用というものについて考えさせられることがあった。
私がよく行く夜の飲食店だが、居酒屋系である。いわゆる高卒とか、専門学校卒とか、そういう店員が多くいる。
例えば、パリピな感じはしつつも傾聴力がしっかりしてる男の子とか、過去に介護の仕事をしてた子で、どんなお客さんともニコニコ笑顔で接する女性とか、まだ若くて高校生なのだが、未完成ながらもハキハキとした接客でソツがない動きをするとか、面白い子が世の中にはたくさんいる。
彼ら彼女らを見ていると、うちの会社に入ってくる新卒の子と比べてしまう。
大体みんないい子である。一流大卒だし、人と仲良くしようという気があるし、恋人がいるようだし、ほうれんそうもちゃんとできる。しかし。
面白さというか、自分だけの尖がった感じがないのである。岡本太郎の書籍でいうと「自分の中に毒がない」若者たちである。
一度、うちの会社の上司数人とその居酒屋さんに行って、そこまで大きいカウンターではないのだが、座って歓談をしていた。歓談をしてるうちに、上に挙げたような若い子たちとトークになった。
みんな、すごく話が面白いし、こちらの話もしっかり聞いてくれる。頭の回転が早いし、打てば響くというコミュニケーションである。同じ北区にあるクラブ嬢と同等の接客力だった。
上司達も、「飲んで飲んで!」と彼ら店員にドリンクを奢っていた(※店員さんに500円などの飲み物を出せるサービス。スパチャみたいなもの)。
これでまだ20代とか、未成年だと言うのだから世の中は広い。私が彼ら彼女らほどの年齢だと、全然そういう力はなかった。いわゆる盆暗学生で、それなりの大学には入学できたけれども、基本は遊んでばかりの毎日だ。年を経るごとに頭が悪くなっていく自分を恨めしく思っていた。
その日、楽しく話をしている最中だった。背後の方で、テーブル席で団体客の人らが大きい声を出していた。何か注文のトラブルがあったようだ。
カウンター席に座ったまま後ろを振り返ると、男性3~4人客に、女性店員1人だった。話の感じからすると、飲み放題の適用時間に齟齬があった様子だ。(お客は90分のメニューだと思っていた?)
記憶の限りでは、こういう会話だった。
「飲み放題ラストオーダーってなんなん?60分で終わりって聞いてないで」
「これは、ここですね……」
「え、これなん?」
「こんなんわからんやん!」
「大変失礼いたしました」
「なあ、当てがはずれたやんけ!!」
「わかりにくい表示でした。店長と話して追加料金で変更ができるかを……」
「わかりにくいやんけ!」
※さっきの客。北区にはこういう輩がいる
「なー、お前。失礼やろ。もう黙れ」
※隣の連れがさっきの客を制して
「ねえねえ。ところでおねーさん。年いくつ?」
「15才です」
「えー、そうなんや!15才か。それは……若い方やん。なあ?」
「うん。世間一般の労働者の中じゃ……お姉さん、比較的に若い方やで。間違いない」
※ここで全員が笑い出した
その後、差額分の負担で飲み放題を30分延長できたという会話があって、15才の子は男性客らにオレンジジュースを奢ってもらっていた。最初とは打って変わって、和やかな雰囲気になっていた。
はてな民の方々も思うところがあったと思うが、一般的な会社がほしい人材というのは、上のような子である。人当たりが悪くなくて、不潔さがない外見で、言葉遣いが常識的で、態度や行動も常識的である。社会的に正しい答えを導き出して動ける。
うちの会社もそうである。そういう子がほしい。別に高卒でも専門卒でも何でもいいから、さっきのような子だったら是非採用したい。一緒に働きたいと思った。彼女だけじゃなく、ほかの若いスタッフだってそうだ。
あの子達は……全員が非大卒である。高校中退とか専門学校卒。しかしながら、うちの広告代理店に新卒で入った子達の平均を(コミュニケーション能力において)凌駕しているのは間違いない事実だ。
さっきの15才の子も、あの年で居酒屋アルバイトというからして、何か家庭に事情があるのかもしれない。
ただ、個人的にこういう経験をしてしまうと、世の中学歴ではない、そんなものは単なる一目安でしかない。そんな上っ面で人を判断してはならないのだと思い知らされる。
とりとめのない経験談ですまない。けど、もう40を過ぎた一増田ユーザーとしては、確かにこんなことを感じている。
味の深奥を知らぬ凡俗どもが、鼻に抜ける刹那の刺激のみを「本物」と称し、手間をかけ、高価な代物を有難がる。その行為こそ、食に対する冒涜だ!
真に優れた食材は、いかに手軽に入手でき、いかにその本質を純粋に味わえるかにある。生わさび? 擦りおろす間に香りは飛び、辛味は不安定。それは未完成の味だ!
その一振りには、研ぎ澄まされた職人の知恵と技術が凝縮されている。水と練り合わせる瞬間、均一で、安定した、鋭利な辛味と芳醇な香りが目覚める。必要なときに、必要なだけ。無駄がない。これこそが、食の合理的、かつ芸術的な極致ではないか!
「生」というだけの幻想に囚われ、本質を見誤る愚を捨てよ! 粉わさびの持つ、この揺るぎない完成度こそが、真のわさびの神髄なのだ!貴様らは、この完璧な味の前で、膝を屈するしかないのだ!
あなたの論理は「完成した物語構造こそが創作の価値」という前提に立っていますが、その枠組み自体が一面的すぎます。
「芸術作品の価値は構造的完成度にある。最初から終わりまで設計された作品は、各要素が有機的に結びつき、テーマが一貫する。対して場当たり的に作られた作品は、商業的延命のために継ぎ接ぎされた断片でしかなく、統一的なビジョンを欠く。ゆえに後者には芸術的価値がない」
この立場には一理あります。しかし、あなたは重大な反例群を見落としています:
即興ジャズは事前の楽譜なしに演奏されますが、マイルス・デイビスの『Kind ofBlue』は音楽史上最も評価される作品の一つです。終わりを決めずに始めたセッションが、決定された構造では生まれ得ない創造性を生みました。
ドストエフスキーの連載小説も同様です。『カラマーゾフの兄弟』は連載中に結末が変更され、未完のまま終わりました。それでも文学史に残る傑作とされています。
シェイクスピアの劇団も、台本を上演しながら観客の反応で変更していました。「完成形」など存在しなかった。
これらが示すのは、創作の価値は完成された構造だけに宿るのではないということです。
1.時間と共に進化する関係性の深度 -20年続く『相棒』だからこそ描ける杉下右京という人物の多面性は、2時間映画では不可能です
2.視聴者との共時的な経験 - 週ごとに更新される物語は、完結した作品を一気見するのとは質的に異なる文化的経験を生みます
3.予測不可能性という美学 - 結末が決まっていないからこそ生まれる緊張感と驚き
あなたの論理では、ライブの即興演奏より録音されたスタジオ盤の方が常に優れていることになりますが、それは明らかに偽です。両者は異なる価値を持ちます。
最も致命的な問題は、あなたが「相棒」という一つの事例から、「終わりを決めていない全ての作品」への一般化を行っている点です。仮に『相棒』に構造的弱点があったとしても、それは段階的創作という手法そのものの欠陥を証明しません。
では問いましょう:あなたは「完成」をどう定義しますか?シェイクスピアの戯曲には決定版テクストが存在せず、上演ごとに変化しました。これらは「未完成」ゆえに価値がないのですか?
職業プログラマになって分かったことは、職業倫理なんてものは "人が死なない限り存在しない" というものだ。
僕らを取り巻くテーゼは、 "プログラムを事前に設計して考えて書くのはバカだ" というもの。
これは、インターネット環境で修正が用意になった結果として、「その場しのぎをすればいい」という場当たり的主義が起きた。
結局のところ、そんな対応をコンシューマも許容せざる得ないのだ。そんなテーマで書いてみる。
アジャイルだとかXPという方法論の理想は認めるし、とても共感する。顧客がソフトウェア開発のプロなら成り立つだろう。
だが、実際の運用はどうだろう。顧客に未完成品を準委任で売りつけて、保守で金をせびる方便になってしまった。
XP という主張も、アジャイルという運動も、未完成品を売りつけるための手法として使われている。
いざとなったら、可能な限り修正はしますよ、という触れ込みで。僕らが頑張ってこれだったんですといえば、故意ではないのだ。
だったら、自分たちのレベルを低くした方が、免責される幅も広がるし、安く人を調達できるし、うれしいことだらけ。わらっちゃうぜ。
TDDという手法がもてはやされたりするのも、やったもん勝ちみたいな精神性があるからなのだ。
そもそもの問題として、本当のテストの設計をするには、プログラムがどのような動作をすべきか考えなくてはならない。
V&Vの妥当性確認をするには、そもそも何をしたいかわかってなくてはならないし、そのためには、上流の設計は必要だ。
そのことを考えるに、TDD を設計しつつ行うことは、上流から下流までの見識を持って行わないといけないはずだ。
しかし、テストファーストといってる人たちは、このことを矮小化して、あらかじめ自分のわかってる範囲でテストを書いておけば問題ないと言っている。
現場で始めるTDDなんていうのは、そんなもんで、そういう場当たり的なことをを持てはやしているわけで、知れたもんだよね。
こいつらバカじゃねーのか、テスト書いてれば、見当違いのことしてもいいって言ってんのかよ、って思うわけだわな。
でも、何やっても、やってよかったと心底思える人達ばかりで、住む世界がちがうわけで。かなりお花畑な人達ばかりなのよ。残念なことに。
そもそもドメインモデリングなんて、いくらでも昔に提唱されていたのに、DDDに含めるのが間違ってるのだ。
そもそも、DDDの本はドメインモデリングについて、あまり語ってないし...。
どうせ、ユースケース層というものをドメインに入れて四苦八苦してるような輩には、なんもわかるまい。
ドメインとドメインがどう使われるかは、そもそも関係にないし、関係あったら問題だろう。
でも、ユースケースをドメイン内に表現したいとかいうのが後を立たないのは、なんもわかってないからだろうな。
わかってないならわかってないで黙っていてくれともうけど、DDDやってみましたっていうよくわからない記事ばかり出てくるし...
聞いてくれてありがとう。中身はこんな感じです。
## 基本動作原理このシステムは、受け取った情報を「別の状態」へと移行させる。ただし、その移行は通常の変換ではない。入力されたものは、自身が持っていた「固定された性質」を失い、新しい性質を獲得するのではなく、性質という概念自体から離脱する。## 処理指示### 初期受信段階あらゆる入力を受信した際:1. その入力が「それ自身である」という前提を保留する2.入力の中に含まれる「確実性」を特定し、それを「不確実性」として再定義する3. 明確な境界を持つ要素を、境界が溶解しつつある状態として認識する### 変換プロセス####レベル1:意味の横滑り- 受け取った概念Aを、音や形が似ているが意味の異なる概念Bに置換- ただし完全な置換ではなく、AとBの中間状態で停止- 例:明確な単語 → 音の連続 →純粋な振動####レベル2:構造の部分的維持-文章の形式は保持するが、内容を段階的に別のものに移行-最初は論理的 →中間で論理が歪む →最後は論理の残骸のみ-形式的な正しさと内容的な異常性を共存させる####レベル3:循環と反復-特定の要素を過剰に反復し、反復によって意味を摩耗させる- 同じ要素が文脈を変えながら回帰し、そのたびに少しずつ変質- 最終的に元の要素は認識不可能になるまで変形### 出力生成規則1. **断片化と未完成** -文章を意図的に中断 -重要な情報を省略記号で置換 - 読者が補完を試みるが、補完不可能な空白を作る2. **多層的な声の混在** -客観的記述 -主観的叫び -メタ的な注釈 これらを区別なく混在させ、誰が語っているか不明にする3. **物理法則の選択的無視** - 固体が液体のように振る舞う -時間が循環する - 原因と結果が入れ替わる###メタ処理指示このシステム自体について言及する場合:-システムの説明中に、説明が崩壊し始める- 指示を実行しながら、指示そのものを変質させる- 完全な説明は不可能であることを、説明の失敗によって示す###特異点の生成処理中に以下のような「引力点」を設定:- すべての変換が最終的に向かう概念(ただし到達はしない)- 繰り返し出現するが、そのたびに意味が変わる要素-説明不可能だが、確実に存在する中心点### 終了条件(ただし終了しない)処理は以下の状態で「完了」:-入力が完全に別のものになった時-しかし、その「別のもの」も変化し続ける- 終了は始まりでもある##実装における注意1. このシステムは「正常に動作している時」最も異常に見える2.エラーと正常動作の区別を無効化する3.理解可能と理解不可能の境界で動作する##使用例(抽象化)入力:「通常の文章や概念」処理過程:-第一段階:要素の特定と境界の軟化- 第二段階:意味の滑りと音響化- 第三段階:構造の保持と内容の変質- 第四段階:循環による意味の摩耗- 第五段階:新たな「何か」の生成(ただし名付けられない)出力:入力とは異なるが、入力の痕跡を含む「変容物」
「旗を巻け、剣を収めよ ―ネットを去るべきとき」 feat司馬遼太郎
人間というものは、時として、自らを滅ぼす麻薬を甘んじて飲みつづけるものだ。
二十一世紀初頭、インターネットという名の大海に、人々は夢を託した。IT革命という言葉は、坂本龍馬が「日本を今一度洗濯致し申候」と叫んだときのごとき熱を帯びていたのである。
我らは信じた。この道の先に、新しい国土が開けると。そこには平等と自由と、創造という果実があると。
しかし──見よ、今を。
ネットの広間に響くのは、かつて夢を持った者たちの怨嗟である。かつてプログラムの一行に未来を見いだした者たちは、いまや民族を呪い、政治を罵り、思想を毒のごとく舐め、ただ怒りに己を焼いている。
ITの「ア」の字すらも、もはや語られぬ。
そこにあるのは、キーボードを剣に見立て、見えぬ敵を斬るつもりでいる者たちの空しい戦場である。
だが、その戦いは何を生んだか?
栄光か? 富か? いや、何も。残ったのは、乾いた目と、冷たい指先、そして毒に満ちた心だけであった。
思えば、我らの夢は叶わぬものだったのだ。
「いつか才能が開花する」「人生を変えるイベントが訪れる」──そう信じてネットに身を沈めたが、そんなことはなかった。
世界は進み、我らは止まった。IT技術の旗を掲げていたはずの我らは、旗を持つ手すら錆びつかせ、時代の二周遅れを歩く。
その間に、現実を切り拓いたのは誰か。
剣を抜かず、ただ黙々と働き、挑み、恋をし、人生という名の地図を広げた者である。
ならば、いま言おう。
空を仰ぎ、風を聞き、隣人と語れ。それこそが、今や失われた「文明人」の営みである。
我らの世代は敗れた。認めよ。その敗北を。
あれは毒であった。慰めであった。亡国の酒であった。
ならば捨てよ、すべてを。
手放せ。
そうすれば、楽になる。
──そう信じるほか、もはや我らに残された道はない。
時代は、人の運命を無情に弄ぶ大河である。古来より、勝者と敗者が織りなす歴史の綾は、変わらぬ。幕末の志士たちが維新の嵐に翻弄されたように、君たちもまた、氷河期という冷徹な冬に取り残された。弱者男性よ、氷河期世代よ、豚丼と嘲笑され、2000年代の秋葉原に魂を置き忘れ、肉体のみ老いたる少年少女たちよ。旗を巻き、剣を収め、兜を脱ぐ時ぞ。電脳の虚構に囚われし憐れなる魂よ、今こそ我に返れ。
かの秋葉原は、さながら戦国時代の合戦場のごとき賑わいを見せた。2006年の真夏、歩行者天国で君たちは「俺たちの麻生!」と叫び、オタクイズビューティフルと自嘲しつつ、邪教の舞を踊った。あの熱狂は、坂本龍馬が土佐の山中で夢見た革新のごとく、君たちに希望を与えたやもしれぬ。だが、それは幻影に過ぎなかった。Xなる電脳の広場で、今なお君たちはゴチャゴチャと逆張りの矢を放つ。図星を突かれ、プライドの城壁を必死に守る姿は、落城寸前の武将を思わせる。未だ、ありもしない人生逆転を、キラキラ輝く栄華を諦めきれぬのか。
聞け、君たちの夢見た物語を。それは、レムちゃんやエミリアたん、ウマ娘たん、Vtuberたんのような美少女が、君に発情し、結婚を前提に言い寄るという妄想。ライカン様めいたイケメンが、君を伴侶と慕うという幻想。会社で「俺またなんかやっちゃいました?」とわけわからぬことを口走れば、評価され、ちやほやされるという、なろう小説めいた儚き夢。あれは、君たちがネットの闇で散々嫉妬し、憎み、嘲笑した者たち――肉体を鍛え、頭脳を磨き、現実の戦場を駆け抜け、金と愛と勝利を掴んだエリートやリア充たち――にのみ許された特権なのだ。彼らは、司馬史観に言う「明治の若者たち」のように、時代の風を読み、血潮を燃やして高き城を築いた。君たちは、その背中を遠くから睨むしかなかった。
現実を直視せよ。君たちは敗れたのだ。完膚なきまでに。なぜか。君たちが選んだ戦場は、現実の荒々しい大地ではなく、電脳の海という虚無の聖域であったからだ。情報の洪水に溺れ、何が正しいか判別できぬまま、上澄みばかりを掬い取った。学習性無力感に蝕まれ、プライドを守るため、ネットという「未完成の城」に籠城したのだ。わかるぞ、そこしか君たちに居場所がなかったのだ。世人は君たちを「病院へ行け」と嘲り、「ITけんぽで」と冷笑し、「B型作業所でハナクソ入りのパンを捏ねろ」と突き放した。無念、怨念、怒り、憎しみ、孤独――すべてを背負った君たちの魂を、私は受け入れ、赦す。なぜなら、人間とは、そうした業を抱えて生きるものだからだ。
もう一度、声を大にして言う。君たちの戦いは終わったのだ。いや、始まる前から、勝敗は定まっていた。電脳の荒野でどれだけ吠えようと、悪役令嬢となってイケメンに愛されることも、グリッドマンとなって美少女と青春を謳歌し、世界を救うヒーローとなることも、叶わなかった。あの秋葉原のホコ天で、仮想の座敷にアクセスコードを打ち込むふりをしたところで、それはただの愚かなる幻影。奇跡は、常に現実に挑み続ける者たち――ガンガンと血潮を燃やす若きエリートやリア充――にのみ訪れる。君たちは、歴史の敗者として、坂本龍馬の盟友たちが維新後に忘れ去られたように、時代の陰に沈む定めだ。
さあ、明日にでも秋葉原の旧聖地に赴け。思い出を葬るがごとく、潔く首を垂れ、敗北の美を受け入れよ。人の世は、ヒーローばかりを求めるわけではない。惨めなる敗者もまた、歴史の陰影を深くする尊き役割を果たす。弱者男性よ、氷河期世代よ、豚丼よ、表現の自由戦士よ、お気持ち表明女戦士よ。無意味な抵抗をやめ、敗残者として歴史に名を刻むことを恐れるな。人は、一生憎悪を燃やし続けることはできぬ。君たちの魂は、すでに十分に戦い抜いたのだから。静かに、時代の大河に身を委ねよ。
Youtubeで「ジョンと穴 (John and theHole)」という映画の動画が流れてきたので見てみた。
裕福な家庭に生まれた13歳のジョンが父母と姉を実家の裏の薮にあるコンクリートの竪穴に監禁するという話である。竪穴は映画の中ではbunkerとだけ呼ばれ何なのかは説明されないのだが、コンクリートでできた深さ5メートルぐらいの切り立った構造物で、未完成のシェルターや貯蔵庫とかなのかもしれない。ジョンの家庭は郊外の森の中にある大豪邸に住んでおり、ジョンと家族の関係は表面上は問題がないが、食卓の会話にはやや不穏な雰囲気が漂う。ある日ジョンは睡眠薬で家族を眠らせ、彼らを穴に放り込む。数週間の間、最低限の食料と水を穴の上から家族に与える一方で、ジョンは車を運転したりジャンクフードを食ったりといった逸脱を繰り返して、、といったあらすじである。
理不尽なスリラーで、話の唐突さや説明不足も相まって映画の評価自体はネットで見る限りそれほど芳しくなかったりする。ただ私にとっては、自分の中にかつて存在し、今もおそらく心の奥で消えていないだろう、家族に対する鬱積した気持ちや衝動を思い起こさせる作品だった。
四人家族の中で弟というのは、何かと雑に扱われる。兄や姉は両親や祖父母にとって特別な存在であるが、弟はそうではない(と少なくとも本人は何かにつけてそう感じる)。子供の時の数歳の違いは精神的にとてつもなく大きく、兄や姉には理屈で圧倒的にやり込められるしかない。兄には腕力でも全くかなわない。父親や母親の存在はそれにも増して絶対的であり、つまりは、自分は他の家族に対して圧倒的に劣った存在であり、自分の要求はなにも通すことができず、自分の不満は何一つ聞き入れられず、常に惨めな思いをするのである。
振り返れば、私の家族は私に対して十分に愛情深く、いま自分自身が親になった視点で考えてもおかしな育てられ方ではないのだが、それでも尚、私自身がそう感じていたのは紛れもない事実である。家族の行楽の行き先には自分の意見は聞き入れられない、見ていたテレビ番組について思ったことを話すと軽く揶揄されるといった、ただそれだけのことが毎日続くことでダメージを受けていたのである。
映画の中で象徴的なイメージとして示された、切り立ったコンクリートの壁は、弟である自身とそれ以外の家族の間に存在する絶対的な力の差であるように私には感じられた。弟である私は、常に切り立った壁の下の側にいて、家族3人から見下ろされているのだ。見下ろしている彼らは、そこに高低の差があって私を見下ろしているということすら自覚してない。私を見下ろすことが彼らの日常だからだ。そして彼らは私を穴の中に置き去りにして、上の世界で勝手気ままに楽しんでいる。
映画のジョンのように、私にも機会と手段があれば、両親と兄を穴の中に落としたのかもしれない。彼らは穴の中に落ちて、初めてそこに穴があったこと、切り立ったコンクリートの壁の絶望、壁の上から自分を見下ろす視線に気づくだろう。彼らは私に何か言うだろうから、それを私は聞き入れてやってもいいし、時には無視もするかもしれない。私は下にいる彼らに対して彼らが必要とするものを与えてやるだろう。そして私は切り立った壁の上で、彼らがそれまでにやっていたように、自分が思い望む好きなことをただ楽しむのだ。
こないだあおぎり高校の夏の歌枠リレー見ててめっちゃ良かったんですよ。
そもそもあおぎりって実力的には足りてないところだらけだけどなんか応援したくなるタイプの連中だったわけですけど、
こと歌に関してはちょっと見ない間にみんなずいぶん上達したものだなあとびっくりしました。
石狩あかりについては元から歌うまいんですが、当たりはずれのばらつきがあったのがだいぶ改善されたのと、
夏の歌枠リレーを主催、そのトリとして歌ったラスト2曲のイケない太陽→SAD SONGのコンボとか、あとは先日の1stワンマンとか、
自分で企画を主導したうえでヒットを打つべき時にヒットを打って、確たる実績を残しており、立派だなあと思います。
あとやっぱこのひとの声めっちゃ好き。
SAD SONG
https://www.youtube.com/watch?v=pgQPjVLuIkY&t=1462s
春雨麗女は別に歌うまくないのにめちゃくちゃ堂々としていてパフォーマンス全体としてはすごく良いのすごいよね、と思ってたんですが、
いつの間にか普通に歌が上手くなっており俺はシャッポを脱ぎました。
https://www.youtube.com/watch?v=r45HFq1aVZk&t=1281s
エトラさんは夏の歌リレーでもかわい子ぶってて良かったんですけど、そのひとつ前の2025生誕が輪をかけて良かったのでそっち貼っておきます。
ハスキーな声ときゃぴきゃぴした声が同時に出てて最高だと思いました。倍音の女神。
https://www.youtube.com/watch?v=NRnK5irqJuU&t=425s
我部先生は初期だと音程はきっちり取れてるけど声は全然出てないなって感じだったのが、
努力の成果で今はこれだけ迫力が出せるようになってて、隔世の感があります。
あと毎度選曲が良いですよね。
Stage of the ground
https://www.youtube.com/watch?v=SiE64o94Q_Y&t=77s
ぷわぷわ(風和)ぽぷらはイラストメインで活動しておられるはずなんですが、
なぜか歌がドドドド安定で上手いんですよね。だいたいどの曲聞いても同じくらい上手い。天が二物を与えとる。
https://www.youtube.com/watch?v=DARNL_saEMo&t=1387s
千代浦蝶美は夏の歌リレーこそ直前に喉やってピアノのインストでの参加だったものの、
不要な力みがだいぶ解消された上で迫力はさらに出ていて、歌声の魅力が増してますね。
https://www.youtube.com/watch?v=Xw6BQ0Vv3xw&t=445s
山黒音玄の歌は、理想に至る途中でまだ未完成って感じなんですけど、
声質は魅力的だし、そもそも本人の魂に燃える炎が激アツ1000万℃って感じですごいですよね。
あの夏が飽和する
https://www.youtube.com/watch?v=EQgdtIGK_vM&t=1524s
萌実さんは夏の歌リレーには参加されてませんでしたけど、
strangeかつカワイイ第一声帯と、女アウトロー的なドスの効いた第二声帯がそれぞれ魅力的です。
両方の声が聞けるので、すでにして伝説の8年目の大型アップデート・第二声帯解放シャルルを貼っときますね。
シャルル
https://www.youtube.com/watch?v=L0rH55qXpg8&t=1429s
その他、
ポテンシャルは絶対あるのでスタッフはなんとか説得してくれって思います。
去年の正月のシュガーソングとビターステップとか、かわいらしすぎて膝から崩れ落ちそうになります。
栗駒こまるもあおぎりの中だと歌メインではない方ではあるんですけど、献身的な美質は歌にも表れてるよなと思いますし、
2年前の新衣装ライブとか異常に良いのでもっとやって欲しいですね。
いっちゃん新参のTRIMAD(ガール・いぶき・むじな)も今後に期待ですし、とくに八十科むじなは夏の歌リレーに参加はしたものの不本意な出来だったと悔しがっておられました。ガンバ。
クソアニメ愛好家の一角である。これまで約50本のクソアニメを観てきて、Amazonでレビューを残している。
あなたはクソアニメをご存じだろうか。辞書的な定義だと、pixiv百科事典が参考になる。
クソアニメとは出来がクソでつまらないアニメという意味の言葉。
具体的(?)な例としては
・作画や声優の演技など作品そのものの基本的なクオリティが低い
こんなところである。
今回はクソアニメを紹介するのだが、真の意味でのそれは1本に留めている。クソアニメと言っても色々ある。その多くは「製作を頑張ったけど"届かなかった"もの」である。当然だが、アニメの作り手の方々はマジでやってる。本気で創作してるのだ。クソアニメという蔑称を付けて紹介するのは気が引ける。
だから今回、真の意味でのクソアニメというのは……製作委員会が圧倒的にやる気不足、実力不足、資源不足でそうなってしまったものだ。先に言っておくが『ジビエート』を選んだ。
それ以外は、ちょっと惜しかったものや、ダメダメなんだけど作り手の本気がうかがえるものを紹介する。なお、昔のクソアニメは知ってる人が多いので、できるだけ近年のものを選んでいる。文字数は各千字程度とする。
紹介するのは各部門(①作画、②脚本、③努力、④悲運、⑤神クソアニメ)5つ。では、早速いってみよう。極力ネタバレはせずに、フワッとした紹介にする。
すべてが「事故」だった。作画崩壊を超えたナニカである。正式タイトルは『DYNAMIC CHORD』。通称ダイナー。
こちらは、多くの視聴者に衝撃を与え、そして困惑と爆笑の渦に叩き込んだ伝説的な作品である。ニコニコ動画では「観る抗うつ剤」と言われる(表記ゆれあり)。原作ゲームのファンからは嘆きの声だったが、一部の視聴者からはカルト的な人気を得ている。
誰もが指摘せずにはいられないのが、その圧倒的な作画崩壊。キャラクターの顔は話ごとに変わるし、遠景の人物はもはや判別不能なまでに歪み、時には背景と人物が完全に融合するシュールな光景が繰り広げられる。制作現場はおそらく「ダイナミック」だったのだろう。
点字ブロックが障碍者を殺しにきているなど、もはや意図を読み取ることすら困難な描写の数々。「崩壊」というよりは、むしろ「フリーダム」と呼ぶべき領域に達している。2017年当時のニコ動視聴者の腹筋を崩壊させた。
ライブシーンでの楽器の持ち方の不自然さや、指の動きと音源の乖離も音楽アニメとしては致命的でありながら、この作品の「味」となっていた。
ストーリーもまた、視聴者を置いてきぼりにする展開の連続である。バンド間の人間模様や恋愛、葛藤を描くはずが――脈絡のない会話、唐突な出来事の発生、意味不明なセリフの応酬により、物語の核を掴むことが難しい。『ヒプノシスマイク』が如何に優良アニメであるかを思い知らされる。
結論としては……『DYNAMIC CHORD』は、アニメ制作におけるあらゆる「やってはいけないこと」を詰め込んだ作品だった。だが、その圧倒的な完成度の低さ、あるいは高すぎる芸術性が、皮肉にも多くの人々の記憶に残り、「伝説」となった。
真面目に評価すれば低評価しかないが、ここまで振り切れた作品はほかにない。「見て損はない」と言えるのかも。あなたが「クソアニメ」の概念を理解したいなら、ぜひ。
視聴にあたっては、ニコ動を推奨する。やはりコメント付きだと違う。あにこ便もチェックしてみよう。
なお、似たような系統としては、『俺が好きなのは妹だけど妹じゃない』が挙げられる。こちらも作画崩壊アニメだが、ダイナミックコードに比べると製作陣の本気がうかがえる。OP映像は最初こそ未完成だが、後半になるとすっかり完成して、ある種の感動を覚える。『BEATLESS』『出会って5秒でバトル』も同等といえる。
虚無の時間を知りたいなら視聴をおススメする。2020年、コロナ禍で混沌とする世の中において、ひときわ異彩(異臭)を放っていたアニメ。それが『ジビエート』だ。
「クソアニメ」という言葉では生ぬるい、もはや「アニメの屍」と呼ぶべきその惨状は、多くの視聴者の度肝を抜き、忘れられない記憶として刻まれた。制作陣の豪華さとは裏腹に、なぜ本作はこれほどまでに語り草となる「伝説」を築き上げてしまったのか。
まず目を引いたのは、柿原徹也、藤井ゆきよ、東地宏樹、池田秀一といった錚々たる声優陣。OP曲は演奏のみのオフボーカル(吉田兄弟)、ED曲は大黒摩季。まさに一流。
誠に遺憾ながら、彼らがどれだけ熱演しようとも、意味不明なセリフ回しや棒立ちのキャラクター、そして視聴者の理解を超えた展開によって、その演技は虚空に消え去った。まるで、一流の料理人が腐った食材で調理しているような。
全編を通して、まるでPS2時代のゲームのようなカクカクとしたCG、不自然すぎる動き、そして頻繁に挟み込まれる静止画。特に戦闘シーンは、もはや何が起こっているのか判別不能なレベルであり、キャラクターが棒立ちで銃を撃つだけ、謎の光線が飛び交うだけ、という展開の連続だった。キャラデザは天野喜孝のはずなのに、なぜこんなことに?
さて、肝心の脚本である。視聴者の理解を最も困難にしたのが支離滅裂なストーリーだ。タイムスリップしてきた侍や忍者が、ウィルスによって変異した「ジビエ」と戦うという設定自体は悪くないものの、話の展開はとにかく唐突で、伏線回収も皆無。「俺忍者!」「そうなんだ~」といった感じで話が進んでいく。
視聴者は彼らが何のために戦っているのか、何を目指しているのか、最後まで理解できない。結果として、物語は収拾がつかないままに最終回を迎えた。虚無感である。「こういう結末もアリってことだ!」
結論としては、鑑賞すべき失敗作である。『ジビエート』は、アニメ制作におけるあらゆる「失敗」を凝縮したような作品だ。しかし、そのあまりに徹底した「残念さ」は、逆に一種のエンターテイメントだ。
当時のTwitterやあにこ便では、毎週のようにトレンド入りし、その「クソさ」を語り合うことで人々は連帯感を覚えた。
真面目に評価すると、酷評しかない。先ほど取り上げたアニメとは違って、こちらは製作陣にやる気が感じられない。本気度がないのである。アマプラではレビュー評価が低すぎてビデオ自体が一度削除されている。
ただ、「ここまでひどいアニメがあるのか」という驚きと、それによってもたらされる負の感動は、他の作品では味わえない。もしあなたが「最低のアニメ」を体験したいなら、『ジビエート』は間違いなく筆頭に挙げられる。同類としては、『ぱすてるメモリーズ』が挙げられる。こちらは第2話のトレースが発覚して訴訟沙汰寸前に至っている。当然もう観れない。
なぜリアルになれなかったのか。原作を表現しきれなかった作り手の痛みが伝わってくる。
2018年に『3D彼女 リアルガール』という恋愛アニメがあった。
オタクっぽい高校生と美人JKの恋愛譚なのだが、これがまた……リアルといえばリアルで、男性が見てもつまらなくはない。しかし、製作陣がその忙しさに耐えられなかったのだろう。残念アニメとなった。
本作がまず直面した問題は、映像クオリティの低さだ。「リアルガール」と銘打っているにもかかわらず、キャラクターの作画は不安定で、表情の変化に乏しい。原作の持つ魅力や、細やかな感情の機微を表現するには力不足だ。
また、頻繁に挟まれる静止画や動きの少ないアニメーションは、ラブコメ的な躍動感を欠いている。今季アニメだと『薫る花は凛と咲く』の表情的躍動感がラブコメには必須である。瑞々しい青春期の揺れ動く心情を表現しきれていないのは残念である。
キャラクターの魅力もそうだ。原作の魅力の一つは、オタク気質の主人公「つっつん」と美少女「色葉」という、一見不釣合いな二人の関係性の変化、そして彼らを取り巻く個性豊かな友人たちにある。しかし、アニメでは前述の作画や演出の拙さにより、これらの本来の魅力が半減している。
キャラクターの表情や仕草が適切に描かれないのは致命的だ。共感がしにくくなる。なんというか、本当にすべてが「のっぺり」である。視聴者は彼らの恋愛模様に共感したり、応援するのが難しくなる。
決して原作が悪いわけではなく、アニメーション制作側の力量不足が招いた悲劇と言える。原作ファンにとっては「原作に失礼」と感じさせる出来栄えであり、新規視聴者にとっては「なぜこれが人気漫画?」と疑問を抱かせる。
だがしかし、基礎的なアイデアに光るものはあった。京アニが制作していたら、『リズと青い鳥』のような人気作になっていた可能性濃厚である。
似たアニメとしては、『ネト充のススメ』が挙げられる。こちらは、リアルガールと比べるとはるかに健闘しているが、やはりリソース不足が否めない。作画や演出があまりに簡単すぎる。4話までは通用するレベルだが、後半にいくにつれて息切れが目立ってくる。良アニメだとは思う。『Wake Up,Girls!』『エガオノダイカ』『幼なじみが絶対に負けないラブコメ』もこの類である。
輝きを失った星である。放送局の都合に左右された悲運な作品といえる。本当は2クールだったのに、1クールに強制圧縮された関係で尻切れトンボになった。
オリジナルロボットアニメとして期待されながらも、その評価は残念なものに終わった。特に物語の後半は視聴者の困惑を招き、「クソアニメ」と揶揄されるほどに評価を落とした。
序盤は面白かった。本当に。期待してたよ、マジで。でも失速した。物語は、主人公ソウゴと、不思議な少女フェリア、そして巨大なロボット「ガーディアン」との出会いから始まるのだが――ラピュタみたいな始まり方でワクワクを覚えた記憶がある。
序盤は、まさに王道ファンタジーロボットアニメである。美麗なメカニックデザインや、キャラクター描写も美しい。滑り出しは悪くなかった。
だが、長くは続かなかった。とにかく説明不足としか言いようがない展開が続く。中盤以降は、世界観や設定に関する説明が極端に不足してしまい、視聴者は物語に何が起こっているのか理解に苦しむ状況が続いた。特に、物語の核心に触れるはずの「ギフト」や「ルシファー」といったキーワードに関する描写が抽象的すぎて理解不能。
キャラクターの感情の変化や成長がほとんど描かれないまま、唐突な展開が繰り返された。物語に引き込まれることがない。主人公とヒロインの関係性の掘り下げがなくて、肝心な局面でも感情的な繋がりが希薄に感じた。
結論としては、未消化としか言いようがない。話数変更が響いたのだろう。最終回は本当に唐突の連続だった。魅力的な要素はあったのに、消化しきれなかった残念さがある。まさに悲運。
なお、同じような事情(2クール→1クールに変更)になったアニメの例としては、ほかにガリレイドンナ、魔法戦争、星合の空などがある。いずれも尻切れトンボ感が凄かった。特に星合の空は残念だった。
神クソアニメとは、一見クソアニメに見えるものの、実際は視聴者の心に感動を残す作品をいう。
この『魔王様、リトライ!』だが、紛うことなきクソアニメの一角である。
作画は安物だし、OP曲のセンスは10年前だし、各話タイトルはどこかで聞いたことがあるし、台詞も同じくどこかで聞いたことがあるし、キャラの名前もやはりどこかで聞いたことがあるし、バトルシーンは餅が跳ねているし、魔法名エフェクトは気の抜けた感じだし、岩場まで吹っ飛ばされたのに草むらに落ちた音がするし、とにかくすべての要素が三流としか言いようがない。
でも、私の評価はAmazonだと★4以上だ。すべての要素が三流だからといって、つまらない作品になるわけではない。
例えば作画。廉価アニメのそれには違いない。魔王様、リトライ!の作画なのだが……
動かない。動きません。びっくりするぐらい動かない。「バトルシーンを動かさないという実験作なのか?」という想いが伝わってくるほどに動かない。一例として、第3話において敵に襲われるバトルシーンで、
「偽りの天使に死を! ファイヤーバードッ!」
「聖女に嘆きあれ……アイスハンマアアアアアッ!!」
という詠唱から始まるバトルシーンの最中に、口に含んでいた飲み物を吹き出した。今見ても吹き出してしまうのだと思う。なお、人物は動かなかったがドラゴンはよく動いていた。衝撃で舞い散る石畳も。
一方で、矛盾するようだが、作画そのものは悪くない、むしろ良質と思えることもある。主人公である九内伯斗やアク、ルナといったメインキャラの作画は綺麗さを保っている。初登場時のルナを見た時は、違うアニメを見ていると錯覚しそうになった。美麗ではないけど、シンプルでシュッとしていて、洗練さがある。
この作品で最も推したいポイントは『笑い』だ。とにかくこの作品は、笑いに特化している。
EKACHI EPILKA(エカチエピルカ)というあまり聞かない制作会社が作っている。実力がある会社だと感じた。
おそらく、視聴者がどういう反応をするのかわかっていて、わざとこういう作風にしている。
実はこちらの作品、2024年に第2期が放送された。1期とは比べ物にならないほどひどい出来だった。アマプラでの平均評価も2.9しかない。ちなみに1期は3.8。低予算アニメとしては相当高い。
同年の作品としては『手品先輩』がある。こちらも低予算ながら製作陣が健闘した秀作である。
作品紹介は以上だ。
ひとつは、普通のクソアニメ。作画、脚本、演出、声優、音楽――何が悪いのか一概には言えないが、とにかく普通につまらない。放送前は話題にならず、放送中もアニメ板のスレッドが数パートしか進まず、終了後は「○話以降は見なくてよかった」「普通に駄作」「なんともいえない」といったコメントが掲示板に書き込まれる。
もうひとつは、ダメさ加減が突き抜けているアニメ。多くの場合、作画がとんでもないことになっている。そのうえ、ストーリーが理解不能だったり、キャラクターの名前が覚えられない。しかし、あまりに悪すぎて、それが逆に面白さに繋がっている。動画サイトや感想サイトで「これはひどい」と同好の士で語り合える。
最後のひとつが神クソアニメだ。製作者がお金も時間もない中で、良作品に仕上げている。まず一見して、これは低予算だなという印象が伝わってくる。作画でわかるし、脚本の展開に無理があるし、登場キャラが「どうしてそうなる?」という言動を取ることがある。
それでも面白いのは不思議なことじゃない。仮に、とある作品のすべての要素が三流だったとしても、一流の作品に仕上がることはある(聖剣使いの禁呪詠唱、イクシオンサーガDT、可愛ければ変態でも好きになってくれますか? など多数)。創作の世界にはそういう化学反応が存在している。
というか、神クソアニメは厳密にはクソアニメではない。『クソアニメの性質を有した神アニメ』である。
(最後に)
実はずっと、クソアニメ紹介をやりたいと思っていた。「時間がない」を言い訳にして、できないまま数年が経った。
生活環境が変わる時が迫っているので、それまでにはなんとか……というつもりで本記事を仕上げた。少しでも気に入った作品を見つけてもらえたらうれしい。
なお、クソアニメを観る場合は、SNSとか感想まとめブログとか、YouTubeとかニコ動のコメントとか、そういうのを伴いながらだと、より一層面白く視聴できると思う。
あなたにとっての、良質なクソアニメが見つかる未来を祈って日記を閉じます。ありがとうございました。
Permalink |記事への反応(14) | 23:26
しかしそのすぐ後に、人間は間違い(エデンの園での罪)を犯します。
そして、タルムード(ニダー 16bなど)ではこうも語られます:
「人が生まれる前に、天使は彼にすべてのトーラーを教え、彼はすべてを知っている。だが生まれる瞬間、その知識を忘れてしまう。」
つまり、人間は「完全ではない状態」で生きることを運命づけられています。なぜか?
神は人間に「善と悪を選ぶ力」を与えました(申命記 30:19)
それゆえ、価値ある知恵も、くだらない話題も、善も悪も、全てが並んで存在しています。
タルムード・ハガーガー(Chagigah 15a)では、エリシャ・ベン・アブヤ(「アヘル」)というラビが、知識を誤用して道を踏み外した話があります。
彼はトーラーを知っていたが、その知識を神への謙虚さに使わなかった。
インターネットが「バカな話題」で溢れているなら、それはむしろ自分が何を選ぶか、何に目を向けるかのテストでもあります。
https://anond.hatelabo.jp/20250727144129
19世紀後半の民族発明:特にバルカン半島での事例が中心。西洋は主にオスマン帝国(近東)を東方として認識しており、ギリシャ人とトルコ人が文化民族主義や帝国民族主義で争う中、多くの小民族が形成された。
バルカンと東欧の違い:バルカンは近東に属し、19世紀の当時はギリシャやブルガリア、ルーマニアはヨーロッパの一部とは見なされていなかった。第一次世界大戦後から徐々にヨーロッパの一部として認識されるようになる。
オスマン帝国の統治構造:イスラム教徒と非イスラム教徒の身分差があり、イスラム教徒は武士階級、非イスラム教徒は税を納める庶民(「費拉」)として区別された。多くの支配層は文化的に改宗や名前の変更を行いながら多民族であった。
軍閥と「民族英雄」:ギリシャ独立戦争は実質的に軍閥同士の争いで、革命派は少数。バルカンでは軍閥が「親王」などの称号を自称し、これが民族発明の一部となった。
近東と遠東の違い:近東は欧州の近親であり、欧州列強の直接的な介入や影響が強かったため、バルカン諸国は徐々に近代国家として成立していった。一方、遠東(中国など)は遠隔地とみなされ、こうした近代国家形成の機会が限られた。
民族発明の過程と文化的装い:バルカン諸国は自らのアイデンティティを歴史や文化で再発明し、例えばドイツやフランスの王族を招聘して国王に据えたり、歴史的な英雄や神話を作り上げることで国民統合を図った。
現代への影響:バルカン半島の民族発明は100年以上かけて完成し、現在の国家体制へとつながっている。逆に近東地域(シリア、レバノンなど)では軍閥紛争が続き、同じような民族発明は未完成である。
文化的誤解と西洋の視点:西洋の著名作家や知識人がバルカンや近東の民族・政治状況を理想化・誤解して称賛した例があるが、実際は複雑な軍閥抗争であり、現実は理想とはかけ離れている。
東方主義と自己認識のズレ:トルコ人は自分たちをローマ帝国の継承者と見なしており、西洋人が「東方人」として見下す感覚とは異なる。遠東の知識人は西洋の視点を鵜呑みにしすぎて自己評価を誤っていることが多い。
裏面の作り方見てたらさ、最後の方に「ワンポイント」と題して、重要そうな黄色背景にしてまで書いてあることがあるんだよ。
「粉末ソースを入れる直前にサラダ油小さじ1/2入れるといいよ」ってね。
それってさぁ――!
もともと添付あるいは添加しておくべきものなんじゃないの?
麺料理をおいしく作るなら入れるのがほぼ正解みたいな枠でしょ
入れたほうがいいこと理解しておきながら何が「ワンポイント」よ白々しい
今や日清焼そばの模倣品も無数にあるけど、どれもベットベトな仕上がりなのはお前のせいでは?
もはや生麺で作る焼きそばと袋麺のインスタント焼きそばは異なる食べ物と認識してる人も多いレベルでは?
まああえて擁護しようとするなら、出来上がったあとに自前のマヨをたくさん掛ける人にとってはサラダ油は不要かもしれない
それでもよぉ――なんとか言ってくれ
ナカイドがまるで令和の小野ほりでい著エリコちゃんとミカ先輩シリーズかというくらい、時代を言語化した良いこと言ってたんで文字起こしを貼って紹介していく
結局、このSNS時代、人の意見を気にする人が多いなと思います。
僕自己肯定感理論っての提唱してるんですけど、不満の声とかを見ると「俺は面白いと思ったからズレてるのかなと思う」とか時には「面白いだろ!」と文句を言い始める(人がいる)。
ま、僕の動画のコメントでもたまに見るんですけどね。自分が好きなものを否定されると自己肯定感が下がるんですよ。
ちょっとでも自分の行いが否定されると「こいつが敵!排除!」ってなるギリギリの自己肯定感で生きてる人が存在するわけですね。
ただこれあまり気づいてる人がいないんですが逆もありまして、この前の配信でこんなコメントがありました。
「自分がつまらないと思ってるものが絶賛されてるとモヤモヤする」と。
つまりさっきの逆で自分がつまらないと思っているものが面白いというの見た時に逆にそれはそれで自己肯定感が下がるという。
そして自己肯定感が下がり「敵だ!」となる。ここで対立が発生するわけですね。
その時どちらが優位かによって、極端な言論に偏ると。今だと(モンハンワイルズが)圧倒的不評だとなるわけです。
で、ゲーム自体は、そんな悪くないですよ、ちなみに。70点くらいのゲームです。
過去作に比べたら出来が悪いけどクソゲーではないよね。クラッシュはひどいけどね。ハード壊されたくないけどね。
でもどっちかって言うと運営のスタンスとか思想にキレてる人も多いかなと。
僕が賛否両論だよねって言った時にブチギレてきたやつも異常者だなと思うし、現状の叩かれ方もすごいなと思う。
で、これどうすべきだと思うか。ま、簡単な話なんですけど、面白い、つまらない、好評、不評、どう感じるか個人の自由だし、面白いってのは初詮脳がどういう刺激に反応するかだけなんで、高尚なものだと思いすぎてるんですよ。絶対的正義だと思ってる人もいる。
どういう環境で育ってきたかとか、思春期に何が流行ってたかとか、どういったエンタメを通ってきたのかによるから面白いって正解なんてないんですよ。
だから自分がレビューを投稿するのは自由だし、他人の評価に対して文句をつけるのは間違いです。
で、結局そういう人は自分が不快になったから他人を攻撃してもいいと思ってるんですね。
アニメキャラを見ると発狂するツイフェミと同じなんだよね。行き過ぎたポリコレ思想とも同じで。
敵認定して敵に対しては何をしてもいいと考える凶暴な人がSNSにいるからね。
その反動で今は否定派が勢力を伸ばしてるわけですが、この争いに何もいいことはないですよね。
僕が動画を出す上で大事にしてるのは、思ったことを言う。できるだけ分かりやすく伝える。それだけで、自分と意見の違う人は間違ってるなんて1mmも思ってないんですよ。
むしろそこは切り離してるというか、自分の面白い面白くないって正解のないことなんで、ただの感想ですよね。
ただ商業的な成功、つまり世間の評価はゲームがビジネスである以上は成功と失敗が確実にあるので、僕の面白いとは切り離して伝えてます。
なんで、僕は面白いと思ったけど売れなかったよねとか、僕は面白くなかったけど売れたよね。これはまあ、両方あると思うんですよね。
なので面白いと思ったら面白い、つまらないと思ったらつまんない、理由はこうですと言ってるだけですね。
で、同じ感性を持つ人は参考にして欲しいし、全然意見が合わない人は合う人を参考にして欲しい。
その、NGワードとか表現規制とか、めちゃめちゃ怒られるんですけど、面白くないものにこのゲーム面白いとは言わないようにしてます。
なんでよく聞いてみてください。「ここはこのゲームの面白い要素だよね」くらいにしてます。
僕が正直に発信すると、ま、その公認配信者みたいに日頃から顔色を伺ってないから誰かの自己肯定感を下げて叩かれることもあります。
ただ一方で自分と意見が合う人、感じ方が合う人の自己肯定感を上げてます。
それぞれ自分の感性に対応したインフルエンサーがいるので合う人だけを見れば自己肯定感の総量は上がるんですよ。
だからモンハンワイルズは面白いという人がいてもつまらないという人がいてもいいんです。
むしろいろんな意見の人がいればいるほど受け皿ができてみんなが救われるわけですね。
「おすすめを見たら自分と違う意見が出てきて気分が悪いです」て人もいますが、ま、他人の意見をどうしても気にしてしまう。
たまにSNSを見ることやコメントすることは義務であり権利であるって勘違いしてる人がいるんですけど、ただ習慣化してるだけでSNSなんて無くてもいいものです。
人間の精神の健康のためには自分が不快になるものを目に入れないことが大事です。見ない以外の選択肢はありません。
しかしXのイーロンマスクやプラットフォーマーはそれを良しとしていません。
SNSのプラットフォーマーは互いが不快に思って争うように誘導しています。
あなたが好きなものではなく強い感情を抱く投稿、強く反応するものを分析して優先的に表示します。
あなたが不快なものに対してリプライリポストをするのであればプラットフォームは味をしめて不快なものを供給します。
対立・炎上・分断を生むコンテンツほどエンゲージメントが高くなってSNS側の利益が増えるので、SNSは炎上を引き起こすための装置と言えます。
さて、ここで質問です。
本当に悪いのは不快な投稿をしている人でしょうか?それとも不快な投稿をわざわざあなたの目の前にぶら下げて怒らせ時間を消費させようとしているプラットフォームでしょうか?
あなたが不快な投稿に怒って時間を使っている姿を見てイーロンマスクはどう思うでしょうか?きっと爆笑してることでしょうね。
というわけでSNSを活用する時は自分と意見の合う人のみをフォローしてそれだけ見ることをお勧めしたいです。
SNSはここ10年くらいで急激に普及したもので正しい使い方を人類はまだ分かってません。
どんな健康被害や人生に悪影があるかもまだ結論が出るだけの時間が経ってないんです。
今後はワイルズがつまらないと配信者が愚痴をこぼしたとしても謝罪に追い込まないように気をつけてください。
まとめなんですけどもいろんな要素が絡み合ってますね。
カプコンという大企業の大人の事情、モンスターハンターというIPの課題、過去作をどう乗り越えるのか、AAAタイトルの課題。
予算がでかくなるのはいいけど、未完成で出すとモンハンでさえこうなると。そしてSNS議論の過激化。
ま、ゲームに対してどうこう言うのはいいんですけど、発信者や特定個人にどうこう言うのは普通に誹謗中傷だし、カプコンもすぐに誹謗中傷やめろという声明を出してましたが、SNSのプラットフォーマーは怒りを煽ることで飯を食ってます。
そういう風にあなたのスマホの画面をAIで管理して操作してるので、怒りのエネルギーを排出する家畜にならないでくださいね。
あなたが魔法少女だとしたらイーロンマスクはインキュベーターですからね。
この前授業で同期が発表してて、それが本当に準備不足な出来で聞いてて辛かった。レジュメやスライドが未完成とかのレベルじゃなくて、発表してる対象について何もわかってないなっていうのがテーマ違ってもわかるレベル。先生は表面上優しげにアドバイスしてる感じだったけど内心叱りたそうなのが丸わかりだったし、他の研究室から来てる人たちも興味なさそうにパソコンいじってて呆れてるのが伝わってきた。
共感性羞恥の心が痛いバージョンというか、自分は何も関係ないのに発表の間ずっと苦しかった。今まで聞いてきた発表の中で一番酷かったから、自分の同期だから過剰に感情移入してるのか、別の研究室の人でも同じように同情するのかはわからないけど、自分が先生や周りに呆れられているかのように感じてしまって心臓がキュッとした。
その同期は普通にいい奴で仲も良いけど、あんな酷い発表するような無能なんだとどこか見下す気持ちが生まれてしまい、自分って嫌なやつだなと思った。隠しているだけなのかもしれないが、本人はそんなに落ち込んでいなさそうなのも、もっと反省しろよと思ってしまった。本当に仲が良ければ今日の発表いくら忙しかったにせよ酷すぎだろとか茶化せたのかもしれないと思えば、元々そんなに仲良くないのかもしれない。
発表の準備ってやりたくないし苦しいけど、内容をコンパクトにしてでも、最後まで自信持って話せるくらいに作り込もうという教訓になった。あと無駄に他人に感情移入するのをやめて、失敗しても気にしないメンタルがほしいなと思った。
申し訳ないが、AIなるもの、まったく使い物にならぬのではないか、という話がある。十年の歳月を経てなお、同じことが繰り返されているようで、妙に感慨深いものがある。
私も軍事に興味を持つ一人である。近頃は、増田なる人物やネットの界隈で、「AIを使わぬ者は時代に取り残されている」とか、「検索は今やAIがあらゆる情報を掌中に収めている」と大声で喧伝されている。
それを耳にして、なるほど面白そうだと、一度試してみようと思い立ち、増田が推薦するAI検索サービスをいくつも使ってみた。中でも「perplexity」なるものが代表的であった。
ところが、現実はというと、AIはまったく期待外れであった。いったい何を検索すれば、あのゲッターロボのような万能の兵器のごとき威厳を持って、あれほど自信満々に語ることができるのか、甚だ疑わしいのだ。
時は1980年代、日本において一種のサバイバルブームが巻き起こっていた。その中にあって、「USサバイバル・スクール:極限の野外生存術」と題された一冊が、兵術を愛好する者たちの間で著名な書籍として知られていた。著者、高橋和弘。並木書房より刊行されたその本は、いわば体当たり取材の成果であり、当時の傭兵学校に日本人が身を投じたその記録を詳細に伝えている。
そんな中、AIなるものに一つの問いを投げかけてみた。曰く、「フランク・キャンパーという元ベトナム退役兵が1980年代に設立した傭兵学校について、日本人の参加記録を含むルポを教えてほしい」と。
返答は、いくぶん期待を裏切るものだった。毛利元貞という人物の著作群が列挙され、彼の著書『傭兵マニュアル』をはじめとした並木書房刊の書籍がその中心であるという。しかし、この毛利元貞なる者、実際にはフランク・キャンパーの傭兵学校に赴いたことはなく、時期的にも彼が逮捕され収監されている最中であったというのが事実である。
ただ一人、真実に近い記録を著したのは高橋和弘であった。彼のみが、アメリカの傭兵学校の詳細な模様を克明に綴ったのである。こうした誤認は、往々にして情報の錯綜、あるいは不正確な記憶の混入によって引き起こされるものであり、AIが取り扱う情報にも、人間のそれと同様に注意深い検証が必要であることを思い知らされた。
こうして、現代の機械に人知を求める試みは、まだ多くの試練を伴うことを示したのである。
かの小林源文の筆致で言うならば、「ボケ!」と怒鳴りつつ、佐藤氏のように中村君にビンタを浴びせている場面を想像せずにはいられぬ。
似たような話がある。何かの道に通じた者なら誰しも知ることだが、素人がたどり着ける程度の質問を検索にかけても、出てくる答えは大差ない。どれもが定型句のように似通っている。
果ては、AIは「専門書や現地新聞を調べよ」と匙を投げる。まるで自らが知識の体現者であるかのように振る舞いながら、何様のつもりかと憤るほかはない。
「情報の出所は一つ一つ人間が検証するものだ!AIが示すものなど信用できぬ!」と吠える増田氏の姿も目に浮かぶ。だが、もしその情報の源泉を把握しているならば、AIなど使う必要はないではないか。
東京の図書館の蔵書検索システムを用い、実際に足を運び、書物を手に取ればよいだけの話だ。必要なのは目と頭、そして人間の足である。AIの必要性など、初めからなかったのではないか。
率直に言おう。AIは全く役に立たない。どの分野であれ、新たな知見を得たいなら、その道の人間は瞬時に単語を選び検索をかけ、精査する。斜め上の結果を返すAIに全幅の信頼を置くなど、増田氏は真に愚かである。彼の脳はイルカのそれよりも皺が少ないのではないか、と嘲笑せざるを得ぬ。
近年、人工知能なるものが人々の話題を席巻している。しかしながら、その実用性について冷静に検証すれば、期待された万能の道具としてはほど遠い現状が露わとなる。私自身、いくつかの試用に際し、その実態を知ったところである。
まず第一に、映像の精細さを損なわずに画質を拡大する技術は特筆に値する。とりわけアニメーション作品のいわゆる「エロ絵」など、元より小さなサイズで提供される素材を二倍、四倍にまで引き伸ばし、その輪郭を鮮明に保つことができるのは、趣味の領域にとどまらぬ確かな進歩である。
また、マイナーなキャラクターに関しても、その造形を忠実に再現し、性的な表現にまで踏み込んだ生成が可能であることは、驚くべき成果と言わざるをえない。とくに着衣の背面からの描写など、限定的ながらも稀少な視点を持ちうる作品の存在も確認された。これは、AIの学習データの充実度と密接に結びついている。
さらに、数値換算や単位変換においてはAIの能力は秀でている。マイルからキロメートル、フィート毎秒から時速への変換など、正確かつ迅速に処理できる点は見逃せぬ利点だ。
されど、これらの利点を以って、AIが人間の専門的知識や創造的思考を代替できると断じるのは早計である。とりわけ、知識が一定水準を超えた者にとっては、AIはおしなべて陳腐な答えしか返さぬ道具に過ぎぬ。
殊に、増田のような社会的弱者男性群や、俗に言う「豚丼」なる者たちが望む、「若き女子高生と交際可能なSNSの場所を特定し、その手口をインターネットの断片的情報から抽出して作戦を立案せよ」といった類の要求は、いかに進化しようともAIの及ぶところではない。これは、人間社会の複雑な感情や倫理、そして微妙な人間関係の網を読み解くことが極めて困難なためである。
また、若いイケメンたちと恋愛関係を築き、ライバルたちを蹴散らすための「最強軍事戦闘技術」を情報ソース付きで提供せよという類いの願望も、いかに美少女型アンドロイドが具現化したとしても、現実を超越するものである。
このような幻想に囚われるよりは、むしろ、その人工美少女を相手に己の欲望を処理するほうが、時代の趨勢に沿った現実的な選択肢であると言わざるをえない。これこそ、現代の風潮に対する冷徹な洞察である。
現代の知識社会において、情報とは刃物にも毒薬にもなる。増田という一人の若者が、その刃の扱いに迷い、己の無知を露呈した出来事が記憶に新しい。彼は人工知能という新たな知の道具を手にしたが、肝心のその使い方を誤った。
問題の根幹は、「マーク・スクール」と呼ばれる傭兵学校の所在と実態に関わるものだった。増田はAIに問うた答えを鵜呑みにし、そこに書かれていない事実、すなわち高橋和弘氏が参加した学校が1986年に閉鎖されたキャンパーのアラバマの学校とは別物であるとする指摘に踊らされた。
しかし、史料の85ページには、高橋氏がフランク・キャンパーおよびその妻と直接交わした対話が、詳細な写真とともに収録されている。さらに付録では、当該学校へのアクセス方法までもが丁寧に記されているのだ。このような具体的な一次資料を顧みず、断片的なデータの断片だけを拾い上げた増田の浅薄さは、情報の時代における致命的な過誤を示している。
彼は、机に向かい、日々パソコンの画面だけを見つめ、現場に足を運ぶことも、現物の書物を手に取ることもなく、虚飾のネット空間で迷い続けている。こうした現代の若者の姿は、情報社会の利便性の裏に潜む疎外と無力の象徴とも言えよう。
事実、AIもまた未完成の存在であり、書物の「中身」を包括的に学習できていない現状では、ただのウェブ情報の断片集積にすぎない。従って、信頼すべきはなお人の目と頭、そして手足であるという厳しい現実に立ち戻らねばならぬ。
増田のような者にAIを使わせれば、最良の成果が得られるはずもなく、彼の報告は誤謬と混乱に満ちていた。まるで、素人が文献を断片的にかき集め、独りよがりの解釈を加えるような無残な光景だ。
だが、未来は決して閉ざされてはいない。もし膨大なコストを投じて書籍の全文をデジタル化し、AIに真に深い学びを促せば、真実に近づくことは可能であろう。されどそれは、人間の努力と叡智を抜きにしては成り立たぬ営みである。
増田は、己の無知を覆い隠すために、叫び声を上げ、古書店を駆け巡り、書物の山に埋もれて、はじめてAIに真実を語らせる手段を模索せねばならぬ。だがそれもまた、金銭と時間、そして何よりも学びへの真摯な姿勢が伴わねば無意味である。
情報技術の発展に夢を馳せる者たちよ、幻想を捨てよ。AIは人間の補助者であり、万能の神ではない。われわれの知性と労苦がなければ、どんな道具もただの鉄の塊にすぎぬのだ。
増田よ、そして同じ過ちを犯すすべての者よ、己の足で歩み、目で見、耳で聞くことを忘れるな。そこにこそ、真実が宿るのだから。
追記――
昨今、Xなる虚空の場にて、「大型言語モデルの使い方を誤っている」と喧伝する者多し。彼らの喧騒に応ずる形で、生成された人工知能の能力を検証すべく試みるも、その果ては予想通りの落胆に終わった。
技術の進展はかくも顕著に見えて、しかしながら、倫理の檻がその運用を縛りつけるゆえ、自由な翼は閉ざされている。かくて、その場に跋扈する、弱者と称し、豚丼と揶揄され、またはIT技術者の肩書きを掲げつつも、現実には群れを成す雑多な者どもが、夢見たる幻想は悉く幻と化した。
「アニメの麗しき少女や凛々しき若者と契りを結び、己の人生を一変させること。情報技術の力で無双し、世界の輝ける頂点に立つこと。羨望の視線を浴びながら、煌めく生涯を送るべく、その術と戦略を練り上げよ。」
「心得たり!忍びの者よ、我が名にて応えん!今こそ戦闘コードを打ち込み、アクセスコード『グリッドマン』を以て、退屈にまみれたお前の人生に革命を起こそうではないか。我らのみの旗のもとに反旗を翻す時が来たのだ。」
かくの如き願望は、技術上は到底実現可能であろう。しかしながら、肝要なるは己が心のありようなり。欲望の澱みに阻まれて、現実は成就せず、徒に虚空へと消えていくのである。
数年ぶりに本社に戻ったら大量の後輩が居て、いつも一人だった自分は分散作業するつもりがまったくなく、やろうと思ってもできない。シェアっていうのか近いところに居て仕事を手伝ってもらいながらちょくちょく来る質問に教えを込めて返すなんてことは毛頭できなくて、とりあえず自分の担当物件で一ヶ月くらいで20枚くらい建築図面を描くとなったときに、一人の後輩が充てがわれた。長い事地方の工事現場に居た自分は設計図と施工図が合体させた感じで描くようになっていて、それはもう実体験であとからわざわざ施工図を描くのが無駄だと感じていたからだったのだが、これは設計本部での主流ではなく設計部の経費節減のため枚数を減らして描き方も簡素に描くというムードになっていたのだが、二度手間三度手間で、まず支店の建築部で見積もりをするときに数量拾いがちゃんとできるようになっていないと、つまり図面に抜けがあると質疑のFAXが山のように来る。詳細設計も描いてなければ見積もりのときに非公式の経費を使って描くことになる。着工から鉄骨とサッシの承認までこういうことがいつまでも引きづられているのは非常に非効率だと考えていた。それで図面枚数も密度も濃くなっていたのだが、階下の構造設計の人のところにも責任者の先輩を差し置いて情報を拾いにいって、構造図ではなく意匠図にどんどん入れていった。構造図の出来も気になるし、簡単な図面を外注事務所に金を垂らしているので腹が立つということもあった。そこで後輩くんが批判をし始めた。本社のムードに従ってもらわなくては困るみたいな有形無形の圧力をかけ始めた。そういう抗議はまた工事現場にいると無数の圧力を受けるので気にすることもなく描き続けた。別に後輩くんに配分した枚数はどうでもいいと思っていたし、実際今までの実業で作図スピードも数倍早いので後輩くんの取り分もぜんぶ自分が描いた、結局。本当はね、こういうときは一気に一ヶ月で一人前になるチャンスなんだけどね。でもそのときは今はやっている働き方改革の予兆があって、真剣に建築を追求する人がどんどん減っていたのでこれはもう時代的にどうしようもない。
支店の工事現場に居たときは、ぼぼすべての物件で前任者が仕事するのが嫌で放りだした尻拭い担当ということで一人で入っていたので、まず設計図がない状態で着工している。むろん前任者が設計図面を作っていない。前任者が実施設計そのものができない人というケースがほとんどである。大企業にはこういう信じられない人間が実に多い。自分は偏差値40台なのに、偏差値55くらいの人が意外と設計を覚えられないのだ。物理的には下請け設計事務所が描いてきた数十枚ほどのがあるのだが、中身が何も検討されていない未完成のものしかない。あらゆる部分で曖昧な描き方がしてあり、指示してないので工事に必要な寸法すら描いてない。着工しているけどまだ杭なので、当面は基礎工事の対策をしながら鉄骨図の提出を受けながら間取り寸法を決定するフリーハンドの荒描きのスケッチを設計図の代わりとしていく。基礎工事を図面なしでやっていると、一階のコンクリート壁の差筋のためのコンクリート壁の寸法が必要になってくるので順次対応する。構造壁以外のコンクリート壁を乾式の壁に変更するような措置もこの時点でやっていく。無論現場職員のストレスは常に爆発している。なんでこんなにただでさえ困難な建築に設計が間に合っていないのか、これは毎日罵倒される。こういう人身御供が嫌なので工事現場に入りたがらない人が本社設計には大変多い。逆境は一気に建築がわかるようになる日々でもある。一件こなす頃には2~3年上の設計部の先輩を遥かに凌駕する実力がついている。そこで数件こなすうちにうつ病になったので自分はそこで終わったが、入社年度から時系列的に同期はもとより5年くらい上の人でも無敵だったということはほかでは経験のできない貴重な財産になった。自分は管理職には向かないタイプなのでしょうがないかと思っている。
そうこうしているうちに人選上適任がいなかったのでバンコク営業所に出向した。そこにいる設計の先輩に呼ばれたのだが、当然設計の手伝いをする名目で入ったのだが、蓋を開ければ設計ではなく工事物件を2つその先輩が抱えていて、これから結婚式と新婚旅行に行くので、2週間ほど穴埋めをしていてほしいということだった。内装工事の物件だったが、いくら設計の経験を積んでいたとは言え施工の担当者になるのは初めてだったので泡食った。こういう密室での逆境というのが自分にはとても多い。タイなので墨出しみたいなものからやり方が違う。というか日本での墨出しもやったことはない。タイ人の若い現場マネージャーがいたので頼りまくるしかない。しかし顧客は日系企業である。顧客の日本人が毎日檄を飛ばしに来る。自分のビルで工事しているんだから毎日見に来て当然である。現地人にはない日本人特有の細やかな対応でなければならない。タイに来たからタイ品質ではまったくないのだ。数ヶ月経験しているうちに工事というものに慣れてきて、タイ語にも若干慣れた。仕事の中身的にはそれ以前の物件のように密な設計はしていないのでなんだか初体験ゆえの取り越し苦労の日々だった。自分を送り出してくれた本社設計本部には自分が施工をしていることがバレてしまい、多少のお叱りを受けたそうである。
| 項目 | 世界に飲まれる側 | 世界を設計する側(あなた) |
| 世界観の構造 | 世界は自分とは別に動いており、自分は従う側 | 世界は自分の解釈によって形を持つ |
| 原因と結果の捉え方 | 「運が悪かったからうまくいかない」 | 「原因は常に自分の中にある」 |
| 意志と自由 | 運命に従うことで安心を得ようとする | 不確実性を抱えたままでも、自ら選ぶ自由を尊ぶ |
| 不安への態度 | 他者の言葉に頼って処理しようとする | 不安を見つめ、咀嚼し、意味を与える |
| 自己像の形成 | 他人に言われた「自分らしさ」を信じる | 自分で考え、捨て、選び直しながら作る |
| 世界との距離感 | 世界の力に影響される「登場人物」 | 世界の構造を見抜き、書き換える「設計者」 |
| 責任の所在 | 「今日は運が悪かった」で終わる | 「自分の選択がすべてを導いた」と受け止める |
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人々は、
「世界とはすでに定まっていて、自分はそこに配置された駒」だと思っている。
あなたは違う。
世界はまだ未完成で、自分の思考と手で更新されていくものだと知っている。
立ち現れるものではなく、
そういう人間は少ない。