
はてなキーワード:書き言葉とは
たとえば「存在しないかもしれない背景を想定しすぎなのでは。」の部分だけを抜き出してchatgptに比較させたまとめ
「~なのでは」は口語では自然ですが、書き言葉としては「~なのではないでしょうか」「~しすぎではありませんか」の方が丁寧。
「存在しないかもしれない背景を想定しすぎ」までで意味は十分に通じています。
👉 くだけた場面なら違和感なく使えます。少し改まった文に直すなら:
「存在しないかもしれない背景を想定しすぎではありませんか。」
2. 全部間違ってるのに、どことか言ってるのがもうやべーんだよw
完全に会話・ネットスラング寄りです。
「やべーんだよw」は意図的にくだけた強調で、文法的には「やばいのだよ」と解釈可能。
「どことか言ってる」がやや崩れており、厳密に直すと「どこと言っているのかが~」くらいになります。
👉口語としては自然に伝わりますが、正しさより感情表現が優先されている文。
比較まとめ
正確で安定しているのは 1 の文。
「文法的には一応成立している」と評価されるものを「間違ってる」と断じるのは無理があると思うなあ
-----BEGINPGP SIGNEDMESSAGE-----Hash: SHA512https://anond.hatelabo.jp/20250913151828# -----BEGINPGP SIGNATURE-----iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaMUMtwAKCRBwMdsubs4+SA3IAP96n7nTDBEsB4XoyTXJi+t7qDyGL52sPcSlZt55JXd/7QD/WyStoT/qTFmzMUJyUgQaHo8wER67OS1r3K4fy+BKsAI==jQN7-----ENDPGP SIGNATURE-----
これは、大量の書き言葉を学習する際に、発音しにくい文字列を優先的に排除するためです。
たとえば「会い合う」や「追い追う」などの表現は、AIが生成する文章ではまず見られません。
また、AIは構造的シンメトリーを無意識に作り出してしまうため、文の前半と後半が意味的に対応していることが多い。
たとえば「空は青く、心は静かだった」という文はAIの典型です。
自然なようでいて、人間は感情と自然現象をこんなふうに一対一対応では語らないんです。
つまり「AはB、BはC、ゆえにAはC」という構造の文章が少ない。
なぜならAIは確率ベースで文章を作っているので、推論の途中でCよりDの方が確率的に高いと判断すると、平気でそっちに行ってしまう。
逆にいえば、ちゃんと三段論法になっている文章は人間の可能性が高い。
人間の書く文章には、意図していない「うっかり」が混ざりますが、AIは常に「最適化されたうっかり」しかできないんです。
「SNSでわざわざ方言を使う人がわからない」っていうのがあったが「わざわざ」の使い方間違ってるよね。勝手な予断がある。
方言を使う人にとっては自分の方言の何から何までについて書き言葉ではどう書くのかの対応関係を把握などしてないのかもしれない。
そういう人から見れば書き言葉で書くためにこそ「わざわざ」対応関係を調べると言うことになる。
俺はアスペだろうし活字で言葉を学んだ割合が多い口だしアニメとかで口調がキョン化する程度には「確固たる自分の方言」ってものを持ってない人間だけどな。
-----BEGINPGP SIGNEDMESSAGE-----Hash: SHA512https://anond.hatelabo.jp/20250607155028 -----BEGINPGP SIGNATURE-----iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaEpqswAKCRBwMdsubs4+SNW1AQCfFNRHUlXOZn61wR0oTDoN026YrUMt8YC93hO6SCaFnAD/SgsXq5yw8oP5K/1AUQ3HjBCS0l7ZYJhd5pUpa3L3Zgc==+REt-----ENDPGP SIGNATURE-----
職場に松浦弥太郎みたいなおっさんが異動してきて毎日イライラしてる
ぼーくはさあ、ぼーくはねえ、みたいな
それで、知り合いのミュージシャンが今度個展を開いてどうとか、
にんじんはさっと湯がいて何もかけずに齧るのがうまいんだよなあ……とか、
チャットでずっと言ってる
そいつ、最低限の衣食住があれば給料は低くてもいいんですよ〜みたいなことを面談で言ってたんだけど、
でもなんか見た目がヒョロっとして一見お洒落な感じなせいで、みんなに庇われてる
仕事できないのは暗黙の了解でみんな分かってるんだけど、それを指摘しちゃ駄目みたいな空気がある
AIは整然とした三段論法や接続詞を好みますが、人間は雑。たとえば:
⇒ “でもまあ” “それはそれとして” “たぶん” などの脱線風接続詞が有効。
⸻
AIはオチをつけたがるが、人間は「で、何が言いたいの?」で終わることが多い。
⇒ 断言を避けて“逃げる”と人間くさくなる。
⸻
⸻
⸻
ChatGPTは文体が揃いすぎる。あえて崩すと良い。
⸻
⇒ “わかってるふり”をやめると生っぽさが出る。
⸻
⸻
⸻
まとめると、人間っぽくするには:「揺れ・曖昧さ・不完全さ」を盛れ。
わちきは高校生のときからメンタル不調で、いちばんやばかった時期は異常なほどの孤独感と焦燥感がつねに頭から離れず、微熱が2、3ヶ月ほどつづき、食欲はなく、寝ることも起きることつらくて、ただ存在してるだけでつらいみたいなかんじだった。もしかしたら鬱病とか自律神経失調症とかいうやつだったのかもしれん。そんなメンタル不調のときにしてたいくつかの習慣について書いていく。
「なぜ世界は存在してるのか?」「宇宙がはじまる前にはなにがあったのか?」「意識とは何か?」とか考えてた。でもこういうことをじっくり考えると気分が悪くなる。たとえば「意識とは何か?」という疑問について考えるとする。てはじめに自分の意識というものを観察してみる。自分の内側に注意を向けてみる。でもそこにはなにも見つからない。観察前は自分という「かたまり」がどこかにあるはずだと直感的に信じていたけど、観察後にはそのようなものはどこにも見当たらないことに気がつく。その事実を頭ではなく体で理解したとき、まるで真っ暗な真空空間になげごれたみたいな恐怖感をおぼえる。「自分とはなんなのか」「そもそもこの世界ってなんで存在してるんだ」みたいな「存在に対する疑問」がうまれてやがて死ぬ。
人生がうまくいかない原因は自分のパーソナリティにあるんじゃあないかとおもい心理学を学んでた。フロイトとかカール・ロジャースとか加藤諦三などの本を読んだ。心理学では無意識に抑圧されたトラウマ(幼少期の親との関係など)が現在起きているさまざまなトラブルの原因だと説明されることがよくある。わちきはトラウマを克服する方法をいくつか試した。すると一時的に気持ちが軽くなることもあるが、たいていはすぐ元にもどった。
エッセイを読んでた。たとえば又吉直樹のエッセイ「東京百景」を読んだことがある。暗い人間の陰鬱とした日々みたいのが書かれてて、暗い人間であるわちきはとても共感し、ページをめくる手がとまらなかった。ところが読み終わったあとの気分はあまりいいものじゃあなかった。ネガティブなエッセイを読んだあとというのは「やっぱり生きることはつらいことなんだ」という価値観がより強固になるだけで、「気持ちが晴れわたる」「将来に希望をいだく」みたいなことはおきない。そういえば又吉が「言葉は事物を確定させる作用がある。書いたり話した言葉は、タトューのように体にきざまれる」と書いていたけれど、わちきもそう思う。ところで本に書かれている文章ってSNSやブログに書かれている文章と違ってなんか普遍的かつ絶対的な真実という印象をうけてしまうのだがなぜだろう。
哲学や心理学やエッセイのほかにもいろいろな本を読んだ。本のなかには共感する文章とか役立つ文章があり、それらを読むと勇気が湧いたり心の傷が癒やされたりした。本は人生をよりよくするものだと信じていた。家庭や仕事でつらいことがあると本を読んだ。本が精神安定剤のような役割をしてた。
「その日あった嫌なこと」「いまかかえている人生の問題とその解決策」「幸せになるためにするべきこ」などを日記に書いていた。そうすることで明日以降にやるべきTodoリストをつくることができた。日記を書くことは、人生の問題を効率的に解決するために役立つと信じていた。
「幸せになるにはどうすればいいか」ということを真剣に考えた結果、ネガティブコンテンツから離れることが必要不可欠だと考えるようになった。ネガティブコンテンツとは「触れたあとに気分が晴れないコンテンツ」のことである。ネガティブコンテンツに該当するものは哲学とか心理学とか暗いエッセイなどだ。これらは共感するけども「生きるのつらいよね」で止まってしまい希望が持てない。家にあったそれらの本はすべて捨てた。だが本当にお気に入りの本は捨てられず、視界に映らないクローゼットの中にしまいこんだ。くわえて日記を書くこともやめる事にした。日記を書くことで過去のつらい出来事を掘り起こして再体験したり、必要以上に将来について考えて不安を感じることになると考えたからだ。たしかに日記はやらなければいけないことを洗い出せる。だがそれはやらなければいけないことが常に頭の片隅にあるということでもある。わちきはそれがストレスだった。
かくしてわちきはネガティブコンテンツから離れる事に。最初は気持ちが落ち着かなかった。哲学することや本を読むことは、不安から意識をそらせて苦痛を低減させる効果があったのだろう。読書はある種の依存症だったのかもしれない。わちきは気分転換がてら新しい趣味をはじめることにした。まずコロコロコミックを小学生ぶりに買って読んでみた。いまだにフルカラーのページを見るとワクワクする。あと恋愛系の漫画を読んでみた。「不思議の国のアリス」とか「推しに甘噛み」とか。あとアニメをたくさん観た。「Aria」とか「スペース・ダンディ」とか。アニメはいつも「悲しいことがおきない物語」または「悲しいことがギャグとして消化される物語」を選んだ。悲しいことをみると気分が落ち込むので。あと3DSを買ってエクストルーパーズとかダンボール戦機をプレイした。小学生の時に遊びたかったけどしたお金がなくて買えなかったゲーム。まあこんなかんじの日々を数ヶ月すごした。んでさまざまな変化があらわれた。
だんだん哲学について考えないようになった。そして哲学なんてどうでもいいと感じるようになった。いま哲学の本を読むと「あほくさ」という印象がある。言葉という虚構をつかったただの論理ゲームで、現実に地に足がついていないというか。ところで、「なぜ世界は存在してるのか?」「宇宙がはじまる前にはなにがあったのか?」「意識とは何か?」みたいな疑問にたいする答えを仮に「真実」と呼ぶとすれば……真実がわかったところでわちきたちの生活はどのように変わるのだろうか。きっと何も変わらないんだろう。もしも科学技術がめちゃくちゃ発展して、これらの真実がわかったとしても、わちきたち人間の生活になんの影響もおよぼさない。「朝にパンを食べる」「風呂に浸かる」などの動作にはなんの変化もおきなくて、わちきたちはただ生きるだけだ。わちきのなかで哲学的な疑問は解決された。それは真実わかったからではなく、真実をわかる必要性がなくなったからだ。そういえばカーネギーの本「道を開ける」に「人は人生をわかるために生まれてきたのではなく、生きるために生まれてきた」みたいなことが書いてあったが、わちきもそう思う。理屈でなく直感でそう思う。
心理学には意識と無意識という概念があるけども、本当にそんなものはあるのか?心の中に意識という空間と、無意識という空間がある……みたいな認識をわちきはもっていたのだが、いまになるとそんなわけあるかと思う。あと現在の問題の原因が過去のトラウマだというのも疑っている。「数十年まえの出来事」と「いま感じていること」にそこまで強い因果関係が本当にあるのか?「意識と無意識があって、トラウマを処理したないと……」っていう話は言葉のうえではきれいにまとまっているけど、現実は本当にそうなのだろうか?
わちきは論理的な文章が好きだった。たとえば主語・副詞・動詞の順番はいつも同じにするとか、ルールががっちりと決まっている数学のような文章が好きだった。でもそうやって書いた自分の文章を読むと、「自分らしくない」という妙な違和感があった。自分の文章に納得できなかった。そこで思い切って自由に文章を書いてみることにした。小学生の日記帳みたいに文法や単語はぐちゃぐちゃでいいから、おもいついた言葉をなんの加工もせずにただ吐き出していく。最初はただそれだけの作業が難しかった。どうしても修正したくなった。でも次第になれた。そしてわちきの意思は「もっともっと自由に書く!」という方向に進んだ。読んだときにわかりやすい文じゃなくて書くときに気持ちいい文を書きたい。わかりやさは大事だけど、言葉ってのは相手のためだけでなく自分のためのものでもあるんじゃあないか。この意識の変化は話すときにも影響をあたえた。これまでわちきは話すときにも書き言葉を使っていたけど、だんだんとその傾向はなくなった。結局、人はありのままの自分で生きるしかないのだなと。わちきは自分をすごい人だと相手におもってほしかった。実際以上の自分の能力を相手に植え付けようとしていた。でもそれは最悪の試みだった。この試みをして、仮に成功した場合、その高いイメージを保たなければならないプレッシャーに苛まれることになるし、失敗した場合、恥ずかしくて死にたくなる。つまり「自分を賢く見せたい」という試みは、成功しても失敗しても、その先に楽しい未来は待っていない。
さっき「本当にお気に入りの本は捨てずにクローゼットにしまった」と書いたけど、いまではそれらの本もすべて捨てることができた。もう魅力を感じなくなった。いまはメンタルがめちゃくちゃ回復してる。家庭や仕事で嫌なこともあるけど以前に比べたらめちゃうまくいってる。人生でもっとも暗い時期から抜け出したと思ってる。それができた要因の一つにネガティブコンテンツから離れたことがあると思う。ネガティブコンテンツから離れるのは容易いことではない。ネガティブコンテンツにはDIOのような不思議な魅力がある。だがぜひ離れることに挑戦してみてほしい。アリーヴェデルチ。
書いたら色々思い出したので、言語に関する単なる思い出語りをちょっとメモさせて頂きます。別に面白くないと思います。
わたしが滞在していた時はアラブ革命の前後だったので、段々シリアの方が物騒になってきて、シリアにいた外国人留学生がエジプトに逃げてきました。
それで何人かの子と同じフラットで住むことになったのですが、シリアで勉強していた人は当然シリア方言です。そしてエジプト方言に馴染んだ日本人から見ると、シリア方言を話す青い目の西洋人がめっちゃかわいくて上品に見えました。
前提のお話をすると、アラブ世界というのは中世ヨーロッパみたいな感じに、「正式な言葉」と「普段使う言葉」がかなり乖離しています。フスハーと呼ばれる「正式な言葉」は、書き言葉のほか、宗教関係や法曹関係、演説やテレビのニュースなどで話し言葉としても使われます。テレビのアニメも教育目的でフスハーが使われていたりします。このフスハーはアラブ世界共通です。
一方、アーンミーヤは地域差が激しく、それぞれの方言があります。
で、日頃この方言で話している場で急にフスハーで喋る人がいると、日本で言えば「ござる言葉」で話す人みたいで滑稽で、なんか可愛い感じもします。
シリア方言はエジプトの感覚からすると少しフスハーに近いというか、古くて伝統的な感じがするのですが、外国人が喋っているとそれも相まってめっちゃ可愛いのです。まぁ、わたしがエジプト方言を喋るのもエジプト人からするとかわいかったのかもしれませんが。
これも単なる自分の思い出語りですが、わたしは元々ずっとフスハーを勉強していて、アラビア語愛が高まりすぎて仕事を辞めてエジプトに行ってしまった人間なので、エジプトに行ったばかりの頃は、「あの美しいフスハーを喋らない現代エジプト人は、なんて堕落しているんだ!」「エジプト方言はイーイー言ってる感じで下品!」と思っていました。
アニメがきっかけで日本語を勉強した外国人が、実際に日本に行くと誰もナルトとか悟空みたいな喋り方をしていなくて愕然とする、みたいな感じでしょうか。
最初の頃はひたすらフスハーを学び、関わりのあるエジプト人もフスハーで喋ってくれていました(教育水準によりますが、なんちゃってフスハーでよければ皆んな多少は喋れます)。
でもしばらく暮らしていると、買い物をするのにも不便だし、その辺の無学なおっちゃんの喋っていることは全然わからないし、普段周りにいる人達の会話に入っていけないのはすごく辛いです。
で、途中からエジプト方言も積極的に学ぶようになり、エジプト人同様に二刀流になりました。
フスハーはクルアーンの時代の言葉をベースにかなり無理して人工的に保存している言語なので、純度が高いですが、アーンミーヤには前のエントリで書いたようにトルコ語とかアラブ化以前のコプトの言葉、古いイタリア語由来らしい言葉などが結構混ざっています。もちろん現代語彙では英語やフランス語由来のものもあります。その辺のごった煮な感じに現代方言ならではの魅力があります。
ちなみに文法の超絶難しい正則アラビア語に比べると、現代方言は簡略化されていますが(ラテン語とフランス語くらいの感じ)、その分不規則要素が多くなり、なんというか、英語みたいに「ノリ」で話している感じがあります。
これも余談ですが、アラビア語とヘブライ語は兄弟言語なので、会話などはまったくわからないものの、古い言葉はなんとなく類推で意味がわかるものもあります(そもそもアラビー=アラビア語とイブリー=ヘブライ語は同じ子音の順番を変えた言葉で縁が深い)。
ヘブライ語ではなくアラム語みたいですが、イエスが最後に言った「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」とかも、アラビア語風にカタカナ表記をすれば多分「イラーヒー、イラーヒー、リマーザー、タラクタニー」(إلهي إلهي لماذا تركتني)で、すごく似ています。tとthが入れ替わったのかなぁ、とか想像が膨らみます。アラビア語訳の聖書とかも重々しい感じでジーンと来ますよ!(もちろん、本当はヘブライ語やギリシャ語で読むべき)
この辺は言語の本物の研究者の方たちがめっちゃ深堀りされているでしょうね。自分は中途半端にかじったレベルなので、本物に色々教えてもらいたいです。