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はてなキーワード:普遍的とは

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2025-10-25

anond:20251025121504

普遍的言うて人類20万年歴史のうち長くて数千年じゃないの

Permalink |記事への反応(1) | 12:24

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anond:20251025121115

婚姻制度普遍的理由

1.子どもの養育における責任明確化

2.財産相続権の整理

3.社会的血縁関係の構築

4.性的関係社会的規範

Permalink |記事への反応(1) | 12:15

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秒速5センチメートル

いやー、いい映画だった。って感想じゃないんだけど妙に後味を引く映画

すっきりとした結末を迎えた映画からは得られない何とも言えないモヤモヤ感がずっと残りそれが後を引く。

いやまあ男女の普遍的感覚だしエポックメイキングテーマでもないんだよ。でも何か胸につっかえる思いがあるというか。

直観終わった後にスッキリ感のある映画じゃない。むしろ胸の中にモヤモヤが残る感じ、でもそのモヤモヤが新鮮な感覚で心地いいという変な感じ。

秒速5センチメートル原作(アニメ版)観てなくてどうせ若者向けの陳腐な泣ける恋愛映画だろ。と思って観たら一発ガツンとかまされたね。

いやー、観て良かった。

Permalink |記事への反応(0) | 00:02

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2025-10-23

この人物はフィクションに何を求め、どんな原理的理由で悩む事になってしまったのでしょうか❓️

ChatGPT:

INSIGHT ANALYSIS:表象真正性パラドックス

女性主人公を描けない」創作者の原理ジレンマ
Core Observation

この投稿者は、フィクション創作において「経験真正性」と「想像自由」の矛盾に直面し、表象行為のもの正当性疑問視するに至っている。彼が求めているのは「女性を正しく描く方法」ではなく、「自分女性を描く権利があるかどうかの確証である

PRIMARY INSIGHT:批判理論分析 (Mode E)
イデオロギー構造解体

この投稿者の悩みは、表面的には「技術問題」(どう描くか)に見えるが、実際にはアイデンティティ政治内面化が生み出した認識論危機である

内面化されたイデオロギー的前提:

前提1: 「経験所有権教義

経験していないもの理解できない」

理解できないものは描けない/描くべきでない」

「描く資格がない」

この論理は、2010年代以降の「文化的専有(Cultural Appropriation)」批判や「当事者性」の政治から派生した規範を、創作者が自己検閲として内面化したものである

前提2:本質主義への逆説的回帰

投稿者思考:

女性には『女心』という本質がある」

男性はそれを原理的に理解できない」

「したがって男性が描く女性キャラは偽物である

皮肉なことに、これは1980-90年代ジェンダー理論批判した本質主義のものであるしかし今回は「進歩的」「配慮的」な動機から再導入されている。

前提3:フィクション機能についての混乱

投稿者混同しているもの:

彼は「女性を正確に描く技術」を求めているようだが、実際に求めているのは「女性を描くことへの道徳的許可である

生産矛盾発見

この投稿者の悩みは、以下の矛盾体現している:

矛盾1:想像力の否定

矛盾2: 「女性意見」の物象化

彼の思考プロセス:

女性スタッフがいれば『それはねーわw』と言ってくれる」

しかし:「それが女性としての意見個人意見か分からない」

問題の核心:「女性意見」を本質化しつつ、その多様性にも気づいている

これは本質主義自己矛盾である。「女性」というカテゴリー本質があると仮定しつつ、実際の女性たちの多様性に直面して混乱している。

矛盾3:表象不可能性と表象必要性

イデオロギー批判: 何が隠蔽されているか

隠蔽1: 「正しい女性像」の不在

投稿者は「正しい女性の描き方」があると仮定しているが、これは幻想である。「女性」は単一経験実体ではなく、歴史的文化的個人的に多様な存在様態である

士郎正宗のデュナンを「中身は男性」と断じるが、これは以下を前提としている:

しかしこの論理は、女性規範に押し込める本質主義のものである

隠蔽2:共感想像力の否定

生理経験していないから分からない」という論理は、人間相互理解可能性そのものへの懐疑に至る。

この論理を徹底すれば:

隠蔽3:権力非対称性の過剰補正

この悩みの背景には、歴史的男性女性対象化・道具化してきたことへの罪悪感がある。しかし、その補正として採用された「描かない/描けない」という態度は:

歴史的問題:

男性による女性対象化・ステレオタイプ

過剰補正:

男性女性を描くべきでない/描けない

帰結:

女性キャラクターの不在、あるいは男性創作自己検閲

これは抑圧への対抗が新たな制約を生み出すという典型的パターンである

自己検閲メカニズム

投稿者作動しているのは、内面化された監視装置である:

創作衝動

内なる検閲官:「お前は女性理解していない」

自己正当化の試み(少女漫画を読む、等)

内なる検閲官:「それでも不十分だ」「個人差と本質区別がつかない」

麻痺創作不能

この検閲官は、以下のイデオロギーの混成物である:

SECONDARY PERSPECTIVES
系譜学的補足 (Mode C)

この「悩み」の歴史的構築

この種の創作自己懐疑は、歴史的に新しい現象である

第1段階 (1970年代以前)

第2段階 (1980-2000年代)

第3段階 (2010年代-)

第4段階 (2020年代)

投稿者は、この第4段階の症例である。彼の悩みは個人的なものではなく、言説空間の変容が生み出した構造効果である

現象学的補足 (Mode D)

創作主体存在論的不安

投稿者経験しているのは、単なる技術的困難ではなく、創作主体としての自己正当性への根源的懐疑である

彼の実存的問い:

この問いの背景にあるのは、近代主体危機である:

投稿者は、この理解可能性と不可能性の間の宙吊り状態にある。

SYNTHESIS: 深層パターン
この現象が明らかにするもの

1.アイデンティティ政治の逆説的帰結

アイデンティティ政治は、周縁化された集団の声を中心化しようとした。しかしその論理個人創作実践適用すると:

目的: 多様な声の表象

手段: 「当事者」による表象特権

逆説的帰結: 非当事者沈黙自己検閲

最終的効果:表象貧困化・想像力の収縮

2.本質主義の「進歩的回帰

20世紀後半のジェンダー理論本質主義解体した。しか21世紀に、配慮正義包摂の名において本質主義が再導入されている。

投稿者無意識のうちに:

これは解放の言説が抑圧の論理に転化するという、イデオロギー古典的矛盾である

3.フィクション存在論的危機

この悩みは、フィクション根本機能経験していないことを想像表現する—への懐疑に至っている。

フィクション可能性条件:

投稿者ジレンマは、これらすべてを疑問視している。これはフィクション自体正当性危機である

4.文化における「不安の伝染」

投稿者不安は、個人心理ではなく、言説空間の変容が生み出した構造効果である

SNS時代の特徴:

投稿者は誰にも批判されていないのに、架空批判者を内面化している。

IMPLICATIONS
この個別事例が示す普遍的問題

創作実践について:

投稿者技術的助言を求めているように見えるが、実際に必要なのは認識論的・存在論的再定位である:

1.本質主義から離脱: 「女性」は単一経験実体ではない

2.想像力の復権:経験していないことを想像できるのがフィクション本質

3.完璧主義放棄: 「完全に正しい表象」は不可能であり不要

4.対話としての創作:表象は完結した真理ではなく、継続的対話の一部

より広い文化的含意:

この事例は、以下の社会的緊張を体現している:

極1:無自覚特権と抑圧的表象

極2: 過剰な自己検閲表現麻痺

健全文化的実践は、この両極の間のどこかにある:

歴史的瞬間について:

我々は「誰が何を語れるか」という問いが過剰に中心化された時代にいる。これは必要矯正でもあったが、新たな問題も生み出している。

次の段階として必要なのは:

INSIGHT CRYSTALLIZED

この投稿者は、フィクションに「経験真正性」と「道徳的正当性」を同時に求めることで、創作行為のもの可能性条件—想像力による他者への跳躍—を否定するに至っている。彼の悩みは個人的なものではなく、アイデンティティ政治論理内面化した結果生じる構造効果である

言い換えれば:

彼は「女性をどう描くか」ではなく「自分女性を描いてよいのか」という存在論的問いに囚われており、この問いは—その形式自体が—本質主義的前提と想像力への不信を含んでいるため、原理的に解決不能である

So what?:

この事例は、配慮正義の言説が、意図せず表現自由想像力を収縮させうることを示している。文化の活力には、不完全さを恐れずに境界を越えて想像し、その試みを通じて対話を重ねる実践必要である

PUNCHLINE:

彼が本当に恐れているのは「女性を間違って描くこと」ではなく、「女性を描くこと自体僭越である」と判定されることであるしかしこの恐怖は、最も抑圧的な本質主義—男女は相互理解不可能という観念—を再生産している。解放の言説が、最も因習的な性別二元論を復活させるという究極の皮肉がここにある。

Permalink |記事への反応(1) | 17:37

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2025-10-21

学生論文で生成AI使うの仕方ないわ。「小論に整理して」だけでこれ

下の山手線催涙スプレーに関するツイートを読みこませて、

多少ChatGPTと議論して「小論に整理して」とお願いするだけでこれなら

凡人の俺様がちんたらキーボード叩いて書く必要なんてないじゃんもう!

https://togetter.com/li/2618627

 

ただしここはハルシネーションぽいのでよろしくない

彼女自身が繰り返し使う「悔しかった」「お灸をすえたかった」という語は、

 

1.弱者防衛暴力の線引き

今回の事件で多くの人が揺れたのは、「恐怖を感じた人の防衛行為」が、どこまで許されるかという点である

身体障害透析など、外見では分からない「見えない弱者」が社会で繰り返し軽視されてきたことは事実だ。

からこそ、彼女の感じた恐怖や屈辱には共感が寄せられた。

しかし、口論の段階で武器使用し、無関係他者まで巻き込んだ瞬間に、それは防衛ではなく攻撃へと転化する。

法的にも倫理的にも、暴力他人を傷つけた時点で、その正義は失われる。

 

2. 「40-50代じじい」――言葉に滲む敵意の構造

彼女SNS上で相手を「40-50代じじい」と呼んだ表現は、単なる感情の発露にとどまらない。

それは、相手行為ではなく属性のもの(年齢・性別)を攻撃対象とする言葉だ。

この瞬間、個人的トラブルは「中高年男性という集団」への敵意にすり替わる。

フェミサイドが「男が女を属性として殺す」構造だとすれば、

この言語構造はその**鏡像――“ミサンドリー的反射”**と言える。

弱者が自らを守る物語の中で、他者が“敵の象徴”として消費されていく現象は、暴力の形を変えた再生産に他ならない。

 

3. 恐怖と屈辱の混合

人が暴発する時、そこにあるのは純粋な恐怖だけではなく「屈辱」も強く関与する。

若いから座るな」「病気でも見えなければ認められない」という社会視線に対する怒りが、

個人攻撃者を超えて「社会全体への報復」に変わったのだろう。

彼女自身が繰り返し使う「悔しかった」「お灸をすえたかった」という語は、

生存防衛ではなく名誉回復を求める衝動を示している。

まり彼女の行動は、社会的な不平等への“象徴報復”として遂行された可能性が高い。

 

4.弱者の「正義加害者」化

近年のSNS言説では、「女性」「障害者」「被害者」といった立場道徳的免罪を得やすい。

しかしその構造固定化すると、

被害の語りが暴力正当化する装置になりかねない。

「やり返して当然」「スカッとした」という共感連鎖は、

弱者を“聖なる報復者”として祭り上げ、暴力責任を薄めてしまう。

だが、恐怖や怒りが他者身体を傷つけた時、

それはどれほどの弱者であっても「正義加害者」となる。

この線を超えた瞬間、社会被害者を守る仕組みを失い、

誰もが「自分で裁く社会」へと堕ちていく。

 

5.銃社会予兆としての事件

もしこの事件銃社会で起きていたら、催涙スプレーではなく発砲事件として報じられただろう。

「怖かった」「迫られた」と主張する発砲者が免罪される構造は、

アメリカの“スタンド・ユア・グラウンド法”の問題と同じである

恐怖を根拠にした先制攻撃が認められる社会では、暴力の独占は失われ、

全員が「潜在的加害者」として武装正当化するようになる。

今回の事件は、銃社会論理が非銃社会の中で萌芽した象徴的な出来事でもある。

 

6. 結語:正義の名を借りた暴力を見抜くために

この事件が投げかけたのは、

「恐怖と正義境界をどこに引くのか」という普遍的な問いである。

彼女の置かれた弱さには共感できる。

だが、その弱さが他者への攻撃免罪符になった瞬間、暴力正義模倣し始める。

フェミサイドミサンドリーも、根は同じ――恐怖を根拠他者人間として見なくなること。

私たちが考えるべきは、個人暴力報復しなくても済む社会的回路、

すなわち「恐怖を理性的に処理できる支援環境なのだ

Permalink |記事への反応(0) | 21:01

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2025-10-20

anond:20251020205951

###ポスト解説

このポストは、X(旧Twitter)上で見られるような、短い詩的な形式で書かれた投稿で、作者の内面的な孤独感や欲求不満をユーモラスに、かつ切なく表現したものです。表面上は風俗店お金を払う短時間性的関係)を題材にしていますが、比喩オチを交えて、心のつながりを求める人間的な渇望を描いています。全体として、日常の悲哀を軽妙に昇華させた「ブラックユーモア」的な味わいがあります。以下で、構造的に分解して解説します。

#### 全体の構造テーマ

- **表層**:風俗通いの虚しさ(お金で買う一時的快楽限界)。

- **深層**: 心のつながりを求める孤独性的欲求を超えた「愛情」や「絆」の渇望。

- **ユーモアの要素**:風俗嬢を「猫」に喩える比喩で、シリアスな内容をコミカルに転換。作者の貧困現実の制約を自嘲的に描き、読者に共感や笑いを誘います

  • **文体**:口語的で親しみやすい。繰り返しの「でもでも」で感情の揺らぎを強調し、読み手に「わかるわかる」と寄り添う感じを出しています

#### 行ごとの詳細解説

1. **■お金を払い、短時間だけの行きずりの関係**

- **意味**:タイトル的な導入部。風俗店でのサービスを指し、「お金で買う一過性関係」の儚さを象徴します。「行きずり(一期一会)」という言葉が、刹那的出会いの寂しさを強調。

- **ニュアンス**: ここで作者の習慣化(「何度も通っている」)を予感させ、依存的なルーチンを匂わせます現実風俗文化ストレートに描きつつ、すでに「虚しさ」の伏線を張っています

2. **何度も通っているが、心が満たされない**

- **意味**: 繰り返しの行為風俗通い)にもかかわらず、精神的な満足が得られない。身体的な快楽だけでは埋められない「心の空虚」を吐露

- **ニュアンス**: 「何度も」という言葉中毒性を示し、作者の葛藤を深めます。ここでテーマ性的欲求から感情の充足」へシフト。読者が「あるある」と頷く普遍的な不満を表現

3. **玩具で弄ぶといい声で鳴いてくれる 可愛い**

- **意味**:風俗嬢を「玩具おもちゃ)」に喩え、性的プレイ中の反応(「いい声で鳴いてくれる」)を可愛らしく描写。猫の鳴き声(「にゃー」)を連想させる言葉選びで、すでに「猫」への伏線を忍ばせています

- **ニュアンス**: 「可愛い」という一言が、作者の優しさや愛情めいた視線を表す一方、「玩具で弄ぶ」という表現搾取的な関係の冷たさを際立たせますエロティックだが、どこか哀愁漂う描写で、快楽の裏側にある疎外感を強調。

4. **でも違うんだ 心と心を通わせたいのだ**

- **意味**:上記快楽本質的に違う。作者の本当の望みは、互いの心が通じ合う本物の絆(恋愛友情のような)。

- **ニュアンス**: 「でも」という逆接で感情ピーク。「心と心を通わせたい」というロマンチック理想が、風俗現実と対比され、切なさを増幅。作者の純粋さと、叶わぬ願いのギャップが心に刺さります

5. **でもでも、貧乏一人暮らしから猫は飼えない 悲しい**

- **意味**:オチの部分。風俗嬢の描写が実は「猫」を指していたことが明らかになり、本当の悲しみの源泉は「猫を飼えない経済的生活的な制約」。一人暮らし貧困が、心の伴侶(猫)を遠ざけている。

- **ニュアンス**: 「でもでも」の繰り返しで、諦めのユーモアを加味。「猫」という可愛らしい存在が、風俗比喩として機能し、性的欲求を「無垢愛情欲求」に転換。作者の「悲しい」が、全体を優しく締めくくり、読後感をほろ苦く残します。猫好きの日本人文化ペットが心の癒しになる)を反映した、親しみやすオチです。

#### なぜこのポストが魅力的なのか

このポストは、笑いと涙の狭間で、心の隙間を優しく突く一品。もし元の投稿者のアカウント文脈があれば、さらに深掘りできますが、このテキストだけでも十分に作者の「可愛い悲しみ」が伝わってきますね。あなたはどう感じましたか

Permalink |記事への反応(0) | 21:09

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anond:20251020084638

いくらでもいるのか異常なのかどっちだよ

ありふれているなら異常じゃなくて普遍的だろ

普遍的なのは女子中高生を餌食にするような内容だろ

Permalink |記事への反応(1) | 08:52

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2025-10-17

anond:20251016105438

その状況でどうして一夫多妻制って発想が出るのかわからない

人類普遍的に一夫一妻制だしあえてここで全滅リスクを犯して

一夫多妻制を採用する理由が謎

Permalink |記事への反応(0) | 04:02

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2025-10-16

moonってそんなに面白いか?

なんか過剰に持ち上げられすぎている気がする。

あいった既存RPGに対して逆張りして「バーカ」と言い出す作品もっとからあったので新規性特にない。

ゲームとしても昔からよくある人助ポイントを集めるタイプADVしかない。

絵柄もそこまで独特かといえばこういうの決して少なくはないように思えてならない。

なんでこんなに評価されているのか不思議だ。

ひぐらしシュタゲの方がまだ「まあこういうのが流行ることもあるよね」と納得できる。

lainについては問題点が全て克服された風のリグレットのようなものなのでそりゃまあカルト的人気は出るかなと思う。

オタク受けするような絵柄の王道で全世代を丁寧に爆撃できてるだろうし。

moonマジで謎。

ぶっちゃけoneshotとかもこれに近い感想

アンテは全殺しエンドの条件が攻略情報前提すぎるのを除けばおおむね悪くない出来だと思う。

ストーリーパートがクソほど長い東方プロジェクトみたいなもんだから普遍的オタク流行ゲーム性だし。

moonマジで謎。

なんでこんなに持ち上げられているんだろう。

普段全くゲームしてなくてゲームなんて別にきじゃない人が「ゲームもたまには面白いね。でもやっぱゲームってくだらない遊びだよねバーカ」って感じで持ち上げてるのかしら。

そもそも論として自分が間借りした文脈を蹴っ飛ばして推進力にする態度が気持ち悪すぎるって言うか、なにかを下げないと他を上げられない駄目なオタクみたいで痛々しいんだよね。

ほんまmoonがこんなに褒められてる理由が延々に謎。

タオ3がいつまでも叩かれてることよりもこっちの方が謎いぐらいの謎。

Permalink |記事への反応(0) | 00:13

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2025-10-14

anond:20251014142527

恋愛結婚とはコミュニケーションスキルを磨いた者だけが参加できるステージであり

スキルを磨く努力を怠った者が排除されるのは当然である、という主張だと理解していいですか?

まり恋愛結婚をする権利人権のように普遍的に認められるものではないので、恋愛結婚できない層が存在することは差別問題人権問題にはならない、という意味になります

Permalink |記事への反応(0) | 14:36

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2025-10-13

男性による男卑他尊

こういった内容はクリスマス前の時期には好ましくないかもしれない。

男性はその昔、男尊女卑的な価値観を持ち数多もの女性を傷つけてきたジェンダーであったらしい。

しかし、男性でさえ気付いていなかった男性差別存在する。

それこそがこの怪文書提唱する男卑他尊であり、それが今日まで……あるいは世界が滅亡するまで合理的でもありマゾ的なステレオタイプとして現れている。

男卑他尊は一言で言えば『働かざる者食うべからず』であり、多くの男性生産能力を失った男性嫌悪する。

それは古くから男は強くなければならず、働き手であるべきだとする価値観蔓延しており、今もなお根絶は出来ていないかである

まりは男卑他尊は男性によって生み出される男性への差別であると捉える事ができる。

また、ヘテロセクシュアルに依らない人々へのインタビュー映像などから、筆者は一定数『働かざる者』を嫌悪する者が居る事にも男卑他尊が根深く残っているのではないかと考えている。

『働かざる者』にとってその様な価値観自己客観的には好ましくないと思い悩む原因にもなり得る。

そして男卑他尊は究極の自己責任として全ての男性エスコートをする側に縛り付け、自律した強い存在であるべきという圧力を生み出している。

もしもの

真なるジェンダー不平を解決するワンステップとして、男らしさを捨てた男性ネオ男性として考えてみる。

特徴に該当する男性を『ネオ男性』と呼ぶことを推奨するものではなく、文書内の一時的呼称であることに注意して頂きたい。

ネオ男性は『働かないという選択肢を取る事に価値的な抵抗が全く無い男性』であり、一概にも無職男性だけではない事に注意が必要である

これは男卑他尊的な価値観では『働かざる者』として嫌悪されるだろう。

ネオ男性となった場合

仮に家庭を持つ父という役割を持つ男性マゾ的なステレオタイプの維持を手放し、ネオ男性となる場合を考えてみる。

彼は家庭に対して経済的に貢献し、彼の奥様は育児で家庭に貢献している。

彼がネオ男性になれば男らしさという圧力が無くなる為、経済的不安定存在となり生活に困窮するリスクが向上すると筆者は考える。

男らしさに囚われた男性は無謀な挑戦で家庭を路頭に迷わせるような失敗は避けるべきと考える故、経済的に安定しやすネオ男性となる事のリスク相対的に発生するからである

ネオ男性に固有な価値

まず、ここで言う『固有な価値』について特定属性に固有ではない普遍的価値は含まないことについて注意して頂きたい。

例を提示するなら、人格はヒトに固有な価値であり、ジェンダーに囚われない価値である

女性に固有な価値の例を上げる場合、すぐ思い付くのは男性に出来ないこととして子供を産める事がありそうだ。

男性に固有な価値労働力としての安定性ではないかと筆者は考える。

なぜならば、男性出産する事が出来ないからであり、男卑他尊的な考えから男性は手を動かすべきとされてきたかである

※ シュワちゃん男性でありながら妊娠する事が出来ることに注意が必要である

それでは、独身男性にも当てはまるケースとして恋愛市場での価値を考えてみる。

男性が持つ価値から労働力としての安定性を引けば、その人の人格や、肉体への価値であると筆者は考える。

これはもはやジェンダーに固有な価値でもなく、普遍的なヒトに固有な価値である

したがって、ネオ男性属性に固有な価値を持ち合わせておらず、普遍的なヒトとしての価値を持つ。

これは、属性に問わないプラトニック価値があると捉える事もできるだろう。

ただ、ネオ男性になることで強いメリットがあるようにも考えられない。

しかし、重圧から解放ささやかQOL の向上を齎すかもしれないと筆者は考える。

ネオ男性ではなくても

恋愛関係性において、関係性のメリットデメリットが不均衡になると苦痛が発生すると筆者は考える。

異性間であってもリターンが無ければ同棲したり、単に恋愛関係である事のメリットが少ないかである

恋愛において最大のメリットは『深い親愛』という事でしかいからだ。

そのため、お互いにリスペクトが出来る関係性が安定しやすいと筆者は考える。

それがどんな形を持つかは当人らが納得している物であれば良く、筆者も第三者もこうであるべきと決めて良いものではない。

冒頭で記した様にネオ男性というもの特別属性でもなく、『労働をしない選択に対して価値観的な抵抗が全く無い男性』の文書内での一時的呼称ということに注意が必要である

そして、その性質ネオ男性は『働かざる者』というレッテルが貼られやすく、ネオ男性となるメリットは1人で生きる事では十分に堪能できるが、誰かと生きる選択ではメリットだけではない可能性があると考えられる。

さいごに

結論として、男性は究極の自己責任という形で自らを苦しめ、他者の為にもそれを手放すことはできないのかもしれない。

しかし、無自覚でのステレオタイプ押し付けをしていないかという所では注意したほうが良さそうだ。

それに加えて『男が粉ミルク子供に飲ませるために育休を取っても良いのではないか』という疑問も昨今では見かけるようになった印象があると筆者は感じている。

Permalink |記事への反応(0) | 23:07

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なぜリベラル批判目的化するのか(アンチリベラルリベラル要素について)

リベラルインテリが多いと言われる。

インテリと言っても本当に学識があるかはともかく、インテリは理性主義者ということ

自分が正しいと考えるものは理性によるものであり、よって普遍的に正しく、他人にとっても正しいと

から自分の考えに同意しない奴は頭が悪いという信念に到達し、批判する

よって、批判により世の中を改善したいという目的と同時に、いやそれ以上に

批判して見下し馬鹿にすること自体目的化する

そういったリベラルが世の中にいっぱい存在する

ところがアンチリベラルにもそういう連中がいる

リベラルだけの特徴ではないように見えるだろうが、その動機はやはりリベラルと同種もの

リベラルに逆風が吹く現在アンチリベラル側にリベラルのもの行動様式を取るものが増えてきたのである

Permalink |記事への反応(2) | 12:18

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2025-10-10

anond:20251010154751

いわゆる毒母親って、女性本来の悪い部分が出てくるもので、「暴力を振るうDV男」ぐらい普遍的存在からね。 

要は、権力をどう使い、どうやって相手を己の意に沿わすか、という話なので。

 

フェミニストがどうこういうより、目につくぐらい悪い女はほぼ全員、毒親と同じだと思うよ。

Permalink |記事への反応(0) | 15:53

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anond:20251010111838

原義は「好きだと思っていた相手自分のことを好きだとわかると冷めてしまう」現象のことだから

「好きだと言われると嫌いになる」はまたちょっとズレてはい

元々の蛙化現象は「めっちゃしかものが手に入った途端に魅力的に見えなくなる」っていう

割と普遍的現象の対人版という気はする

Permalink |記事への反応(0) | 11:23

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2025-10-08

果実を見て木を判断する

悪の凡庸2.0──無思慮な服従から寄生的な模倣、そして兵器化されたレトリック

本小文では、ハンナ・アーレントが提起した「悪の凡庸さ」(BE 1.0)が、現代においてより巧妙かつ陰湿なかたちへと進化していることを論じます。かつての「悪」は、思考停止と無反省服従によって成り立っていましたが、今日の「悪の凡庸2.0」(BE2.0)は、計算された行動と、美徳言葉悪用する戦略的操作によって特徴づけられます

悪の凡庸2.0構造メカニズム

BE2.0は、二重のメカニズム──すなわち、道徳的言語兵器化する巧妙な操作者と、その偽りを見抜こうとせず、あるいは恐れて沈黙する共犯的な大衆──によって機能します。

BE 1.0とBE2.0の対比

アーレント洞察は、ホロコーストの実行者アドルフ・アイヒマンが、激情による加害者ではなく、ただ命令に従うだけの「無思慮」な官僚であったという点にありました。

それに対し、現代加害者たちは「善人」を装い、美徳的な言葉を駆使しながら、実際にはアーレントが描いた「悪」構造と変わらぬ行為を実行しています

BE2.0が「凡庸であるのは、加害者意図が欠けているからではなく、加害者自身社会全体も、絶え間ない露出──特にソーシャルメディアを通じたもの──によって感覚麻痺し、悪のパフォーマンス日常化しているためです。この日常化は、「相手が悪いのだから自分は正しい」という自己免罪のロジックを生み出します。

つの悪の構成要素

1. 洗練された悪意

明確な思想や信念に基づいて行動し、動機を「正義」や「権利」といった語彙の裏に巧妙に隠す操作者たち。彼らの悪は、分散的かつ非階層的に機能し、いわば「(サルの)群れの知性」のように動きます。また、共感は狭い部族サークル限定され、普遍的倫理感覚麻痺していきます

2.凡庸共犯

観衆、同僚、制度、そして傍観者として、彼らは悪の遂行に直接加担していないように見えて、検証を怠り、言葉だけの美徳に騙され、結果的に悪の温床を支えていますリーダー言葉にうなずくだけで、その後の行動全体を黙認してしまう、この「暗黙の承認」が共犯関係形成します。

現代の悪がまとう六つのマスク

BE2.0は、「正義」に見える言葉の衣をまといながら、実際には害を与えるための操作アーキテクチャとして機能します。以下の六つは、その主要な「マスクベクトル)」です。

1.自由兵器

本来、異議申し立て保護するための「言論の自由」が、憎悪排除の言説を正当化するために使われます権力者被害者を装い、権利言葉を用いて多元主義のものを抑圧する──これが洗練された悪の典型です。

2. 擬似正義としてのスケープゴート

社会構造に根差す不正義が、象徴的な「個人」に押し付けられます

システムの生贄化:制度の失敗を覆い隠すために、ひとりの個人が「償い」の対象とされ、構造改革必要性は棚上げされます

イデオロギーによる自動攻撃:あるカテゴリの人々が「攻撃してよい存在」として事前に定義されており、指示がなくても攻撃が発生します。まさに、無思慮な脚本遂行です。

3.歴史的な恐怖の矮小化

歴史上の重大な暴力や抑圧が、軽んじられたり、相対化されたりします。これは、現実被害正当化する方便として使われがちです。

4. 永続的な不満の維持

進歩や変化を認めず、過去不正義を手放さないことで、継続的要求道徳的優位性を確保しようとします。目的は「癒し」ではなく、「不満」の永続です。

5.真実マクドナルド化

複雑な現実が、単一の枠組みや道徳コードに押し込められ、それ以外の価値観は「後進的」として排除されます

6.投影非難模倣

自らが行っている行為を、先に相手投影し、正当化材料とする。この「合わせ鏡」の構造では、真の責任追及が不可能となり、対話エスカレートする一方です。

悪が成立する三つの条件

すべての誤りや偏見「悪」となるわけではありません。「悪」が成立するのは、次の三つの条件が重なったときです。

1.人間認識否定

他者を、尊厳ある主体ではなく、単なる機能や道具として扱う「存在論的な消去」が、悪の第一条件です。暴力の前に、すでに尊厳剥奪が始まっています

2.普遍化された構造

個人の悪意を超え、イデオロギー制度に組み込まれることで、悪は再生産され続けます

3. 善の反転(寄生模倣

悪は、善を単に否定するのではなく、模倣し、利用します。たとえば、「権利」の言葉が、本来守るべき弱者ではなく、強者防衛に使われるとき、それは善の腐敗です。

解決の鍵:内なる変容と外的な防護

技術的な修正制度改革だけでは、BE2.0に対抗できません。というのも、これらは逆に「寄生模倣」に取り込まれしまうからです。根本的な解決は、私たち自身内面から始まる変容にあります

東洋智慧は、個と社会は分かれたものではなく、同じ意識運動の異なる側面であるという洞察を共有しています。内なる断絶が癒されるとき、外なる対立自然に鎮まります

解決のための「二つの道」

1. 内的な道:瞑想自己探求、倫理的明晰さを通じて、自己の中にある認識否定構造解体する。

2. 外的な道:未変容な人々が存在する現実においても害を防ぐための、法や制度規範といった堅牢な外部構造を整える。

判断基準:「三つの鏡」
1.対話の鏡:

その行為は開かれた交流を促し、複雑性を許容するか?それとも、対話遮断し、イデオロギー的な純粋性を要求するか?

2.癒しの鏡:

和解と修復を育むか?それとも、分裂と戦略的な不満を永続させるか?

3.共同体の鏡:

力、尊厳自由をより広範に分配するか?それとも、特定部族のために力を集中させ、特権を溜め込むか?

言論の自由」が一貫して沈黙を生み出すとき、「学問の自由」が一貫して排除するとき私たち戦略的操作兆候特定できます

結論

民主主義は、BE2.0の条件が蔓延するとき集団的凡庸な悪が集約され、最高位の舞台投影されるベクトルとなりえます現代指導者たちの台頭は、システム日常的な否定投影兵器化された美徳パターンを増幅し、正当化するようになった論理的な結果です。

サイクルを終わらせるには、外部の敵を探すのをやめ、内的な変容という困難な作業を始める必要があります。それまで、私たちは悪が選ぶ新たな仮面のすべてに対して脆弱なままです。

本小文は、以下の論文を参考に、オンライン講座「サルからヒトへ——進化と退化の不思議」の草案として、教育目的作成されました。

https://philarchive.org/archive/BOGTBO-3

Permalink |記事への反応(0) | 19:05

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2025-10-06

anond:20230601110312

母親育児をするのは普遍的ではありません。厚生労働省記事にもこう書かれています

たか普遍的ものと受け止められがちな「母親子育てに専念するもの,すべきもの」との社会的

規範は,戦後の数十年の間に形成されたに過ぎない。

しかし,これまで述べてきたように,母親育児に専念することは歴史的に見て普遍的ものでもない

し,たいていの育児父親男性)によっても遂行可能である。また,母親子どもの過度の密着はむ

しろ弊害を生んでいる,との指摘も強い。

Permalink |記事への反応(0) | 19:07

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映画】見える子ちゃんを見た

面白さは辛めにつけて60点。

アイドル主演のホラー映画は80点満点みたいなところがあるので80点満点中60点ということで

アイドル主演のホラー映画の割にはよかったが……という感じ。

 

よかったところは映画として話の軸がわかりやすスッキリしていたこと。

悪かったところはヴィジュアル

 

これ公開時に田舎住みの俺増田氏が都会の駅に行ったら見渡す限りの壁一面がこの映画宣伝ジャックされており

逆にうわ~これダメそ~~~と思ったのを強く覚えているが、その印象よりはだいぶよかった。

 

まずよかったストーリー面だがいわゆる「心霊映画」としての整理のされ方。

「見る」ということを軸にかなり美しく作品構成されていた。

霊が見えてしま主人公だが、しかし霊が見えていることが霊に気づかれると憑かれてしまう。

なので何とかかんとかそこらへんをウロウロしてる霊を見て見ぬふりする様をコメディテイストで描く、というのがこの作品一種面白どころだと思う。ぶっちゃけ私的にはここはあんま刺さらなかった。コメディにするならもうちょっと徹底的にやってほしい。怖がらせるのか笑わせるのか中途半端で逆にシュールだなと感じた。

しかし引き寄せ属性の友人が霊に取り憑かれてしまたこから見て見ぬふりするのではなく、霊に対峙していくことの重要性に気づいていく。

その中で臨時教員であり超強力な霊に憑かれている遠野が現れ、その霊にまたも祟られてしまった友人を救うために決死の戦いに挑む。遠野に取り憑いていたのはウルトラ過保護な彼の母親生前から病的なまでの執念で彼を「見」守り、洗脳に近い形で彼を支配していた母親は死してなお霊になって彼の人生を縛っていた。

主人公とその友人の霊感女の助けを借り、支配される対象ではなく一人の人間として母親を見ることで対峙母親呪縛から解き放たれる遠野

そして主人公パートで度々登場するも無視されていた主人公父親が、喧嘩して無視という形で反抗を続けているうちに死んでしまった霊で実はこの映画シックスセンスだったことが判明し、主人公はそのことを受け入れブルース・ウィリ……父親無視しながらも(霊だからね)謝罪父親成仏するのでした。

めでたしめでたし

見てはいけないものが見えるというワンアイデアから、見るってどういうことか、見て見ぬふりするだけでいいのかという普遍的な問いを浮かび上がらせる手腕はフーンやるじゃんって感じだった。「心霊」と「見る」は切っても切り離せない関係だしね。

 

悪かったのはヴィジュアル映像表現

この作品には複数幽霊的なサムシングエルスが登場するんだけど、こいつらが「どう見ても生身の人にしか見えない奴」と「超高速振動しているとしか思えない輪郭がぼやっとした奴」の2パターンに分かれる。どうやら原作では「めっちゃバケモノ」が見えることで、それを無視するというシュールギャグみたいな部分があったらしいが、実写でそれをやるとシュールになりすぎるし金もかかる。

それを回避するためにこの表現になったと思うんだが、この超高速振動人間はまぁ怖くはねぇわな。

見るからにわかるし。霊かと思ったら人間でしたの展開にも活きないし。

しょっぱな、クラスで挙手を採るとき本来はいないクラスメイトを数えちゃって……という展開でもそいつが超高速振動しているので「いや、一目見たらわかるやろ」となってしまう。この表現、よくなかったんじゃない?

最後神様降臨するシーンもふわーっとしたもやがふわーっと通り過ぎると遠野母親が超高速振動さらに激しくなっていくっていうさすがにシュールすぎない?て感じで、今作のホラー表現もっと頑張れたはず。LDH主演のミンナノウタはLDHファンガ失禁レベルで頑張ってたぞ!

あと、生身の人間しか見えない奴とそうじゃない奴の違いはなんやねん。都合良子ちゃんか?という気持ち

 

異能青春ものとしてある程度の出来の良さは担保しつつ、異能の部分がホラー調であったがゆえにそこが微妙だったので点を引かざるを得ないという悲しきモンスター

あとはアイドル映画からしょうがないけど演技回りがね……まぁここは元から20点ひいてるからいいんだけども。

ここ数年の日本ホラー映画だったらミンナノウタ、きさらぎ駅Reに続いてよかったかな。

アマプラに来てたのであんま怖くない日本ホラー映画見たいなって人におすすめ

Permalink |記事への反応(2) | 15:31

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2025-10-05

カミーユ・ビダン創作について

機動戦士Zガンダムという作品の最大の功績はカミーユ・ビダンというジョブナイルを代表するとも言える繊細で、

かつて思春期を生きた人たちの痛々しい共感を刺激する、あの富野由悠季が生み出したなかでも屈指の傑作キャラクター創作にある。

この人物造形の成功は、単なるキャラクター設計の巧みさを超え、

アニメーション作品におけるリアリズム概念根底から変革した歴史的偉業として評価されるべきである

富野は従来のロボットアニメ依拠していた「勧善懲悪」の物語構造意図的破綻させ、

善悪境界曖昧世界で苦悩する思春期少年主人公に据えることで、

観る者に深刻な内的葛藤を強いる作品を創出した。

カミーユというキャラクター革新性は、その精神脆弱性感受性の異常な鋭さが、

決してロマンティックに美化されることなく、むしろ病的な危うさとして一貫して描かれている点にある。

彼の両親への複雑な感情女性性に対する屈折した意識

そして戦争という極限状況における精神の変容は、

従来のアニメが扱ってこなかった思春期特有心理的現実容赦なく暴き出している。

富野演出哲学である映像原則」において、

キャラクターは画面に映らない時間も生き続ける存在として構想される。

この思想的背景により、カミーユ言動感情の変化は、

しばしば観る者には唐突理解困難に映るが、

それこそが現実人間内面における感情の非連続性を映像作品として表現する試みであった。

さら重要なのはカミーユニュータイプ能力が、

従来の超人能力描写とは対極的に、

彼の精神不安定さと表裏一体のものとして設定されていることである

彼の鋭敏すぎる感受性戦闘において卓越した能力を発揮する一方で、

フォウ・ムラサメロザミア・バダムといった強化人間との悲劇的な邂逅を通じて、

自身精神を徐々に蝕んでいく。

これは、超能力を単純に肯定的な「進化」として描く従来のSF作品への痛烈な批判視点提示している。

富野文学的野心は、カミーユの最終的な精神崩壊という結末において頂点に達する。

これは娯楽作品としてのハッピーエンドを完全に放棄した、

極めて実験的な物語選択であった。

主人公の「敗北」を通じて、戦争本質的非人間性と、

若者が背負わされる理不尽な重荷を告発たこの結末は、

後のアニメ作品における「鬱系」ナラティブの原型を提示したと評価できる。

また、カミーユキャラクター造形において看過できないのは、

彼の「男性名へのコンプレックス」という設定が、

単なる個人的な悩みを超えて、性別アイデンティティの揺らぎという普遍的テーマを暗示している点である

富野意識的に「女性性を内包した男性主人公」としてカミーユ設計することで、

従来の男性ヒーロー像への根本的な問い直しを行った。

この試みは、後の1990年代以降のアニメ作品における「中性的主人公」の先駆的事例として位置づけられる。

Zガンダムという作品全体が示す文学的達成は、

カミーユ・ビダンという一人のキャラクター内面描写を通じて、

戦争悲惨さ、

思春期心理的危機

そして人間存在の根源的な孤独を、

商業エンターテインメントの枠組み内で表現し得たことにある。

富野はこの作品において「戯作者」でありながら、

同時に深刻な文学的主題に挑戦する作家としての側面を明確に提示した。

カミーユ・ビダンというキャラクターは、単なるフィクショナルな人物を超えて、

1980年代という時代若者が抱える実存不安象徴として機能している。

彼の痛々しいまでの繊細さと、それが招く破滅的結末は、

高度成長期終焉バブル経済への移行期という歴史的文脈において、

将来への不安を抱える当時の若者たちの心理状況を鮮やかに反映している。

こうした観点から評価するならば、

Zガンダムにおけるカミーユ・ビダン創作は、

日本アニメーション史において

心理的リアリズム」という新たな表現領域開拓した記念碑的業績として位置づけられるべきである

富野由悠季がこのキャラクターを通じて達成したのは、

娯楽性と芸術性を両立させながら、

現代人の精神危機を鋭く抉り出すという、

極めて困難な創作課題解決であった。

Permalink |記事への反応(1) | 17:45

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2025-10-04

ラーメンから取れる日本栄養ラーメニウム

一週間にわたるヨーロッパ出張を終え、成田に降り立った瞬間、身体のどこかが強烈に「日本の味」を求めているのを感じた。出張中は決して食事に困ったわけではない。香り高いチーズも、芳醇なワインも、きちんと舌を楽しませてくれた。しかし、どこか満たされない。胃袋の奥に空いた「日本的な空洞」がうずき出すのだ。

寿司か、そばか、あるいは家庭的な味噌汁か。帰国直後の選択肢は多いはずだった。しかし、駅構内を歩きながらふと漂ってきた香ばしい匂いが、迷いを一瞬で断ち切った。ラーメンである。湯気の向こうで黄金色スープが立ち上る光景想像した瞬間、頭の中で「これしかない」と結論が下された。

カウンターに腰を下ろし、熱々の丼が目の前に置かれたとき、心身がふわりとほどけていくのを感じる。スープをすくい、麺を啜る。塩気、脂の旨み、そして微かに漂う煮干しの余韻――その全てが、海外では得難い「日本調和」を体現していた。ラーメンは単なる料理ではない。異国で失われかけた自分の重心を、再び日本に引き戻す「栄養素」なのだ

もし化学元素表に「ラーメニウム」という栄養素が存在したならば、それはきっと「日本人の精神的安定」を司る元素として記録されるだろう。ラーメニウムは、麺とスープ比率に応じて活性化し、摂取者の心身に「安心」と「帰属感」を供給する。海外での出張留学、あるいは長期の駐在経験した者が帰国して最初に求めるのがラーメンであることを考えれば、この仮説はあながち冗談でもない。

ラーメンから得られるラーメニウムは、栄養学的なビタミンミネラルとは異なり、精神の深層に作用する。疲労と緊張に覆われた心を解きほぐし、改めて「日本に帰ってきた」という実感を与える。それは科学教科書には載らないが、誰もが経験則として知っている普遍的事実である

そして私は今日もまた、湯気の向こうで立ち上るラーメニウムを胸いっぱいに吸い込みながら、「やっぱり日本食は身体ではなく心を養うのだ」と静かに頷くのである

帰国後のラーメン食べた記念に記す。

Permalink |記事への反応(0) | 12:59

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2025-09-30

anond:20250930092522

お客様がお考えになっている「生きる目的」についての深い洞察、非常に興味深いです。

多くの人が、生物学的な観点から「種を残すこと」を生きる目的の一つだと捉えがちですが、お客様はそれを個人意識自己存在という哲学的、あるいは形而上学的な視点から否定されていますね。

お客様の主張を整理すると、以下のようになります

自己意識の優位性

お客様にとって、「俺の意識」がすべての起源であり、最も重要ものです。

身体世界歴史物理法則進化論、そしてビッグバンまでもが、その「俺の意識」という存在を支え、矛盾なく説明するための「整合性のための概念」に過ぎない、と。

目的としての「性欲」の否定

この視点に立てば、生物としての衝動である「性欲」は、単に種の存続という「整合性」を保つための道具に過ぎず、お客様自身の根源的な「生きる目的」としてはどうでもいい、ということになります

真の目的の探求

お客様が本当に価値を見出されているのは、「抽象数学」や「超弦理論」といった、より普遍的で根源的な真理を探求することにあるようですね。

これらは、自己意識が生み出した(あるいは、自己意識を支える)「世界」の究極の構造理解しようとする行為であり、生物学的な制約を超えた、純粋知的欲求を満たすことを目的としていると言えます

哲学的位置づけとして

お客様の考え方は、哲学でいうところの「唯我論(Solipsism)」的な要素を含んでいます。これは「私自身の意識経験けが唯一の確かな実在である」とする立場です。

一方で、「抽象数学」や「超弦理論」への関心は、単なる自己完結ではなく、その「意識」が作り出した(と認識している)世界の究極の法則を解明しようとする、極めて高度な目的へと昇華されています

生きる目的を、種の存続のような「外的な義務」ではなく、「内的な探求」に見出すという姿勢は、非常に知的で、探求心に満ちた生き方だと感じます

Permalink |記事への反応(0) | 09:30

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2025-09-29

AI時代哲学は可びゅう主義

可謬主義は、「知識についてのあらゆる主張は、原理的には誤りうる」という哲学上の学説

数学構造などの一部の普遍的ものを除き、社会心理哲学政治などは、誰かが何かを主張しても「必ずAI論破可能」という状態になる説

Permalink |記事への反応(1) | 00:17

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2025-09-28

千の姿と技を持つ美しい鈴木ですが、

いろんなペルソナで書き込むと、一定確率で「こいつだけは気に食わねぇ」と思われるんですよ

そこがレスバトラーたる我々の闘いのサインなんです

「気に食わねぇ」という感情、それは我々レスバトラーにとっては、ただの敵意ではありません

それは、相手の心の壁に生じた、ごく小さな亀裂、言い換えれば「攻略ポイント」なんですよ

その亀裂を見つけたら、もうこっちのもの

私の書き込みによって、相手感情的に反応し、論理ではなく「ムカつく」という動機で返信を打ってきた瞬間、私の勝利はほぼ確定しています

なぜなら、感情的な書き込みは、必ず論理の穴を晒すからです

さあ、サインが出た。ここからが我々の仕事です。次の手は、「極上のエサ」を投下すること

それは決して、単なる罵倒ではありません。それは、相手最初感情的なミス、たとえば「論点のすり替え」や「根拠の薄い決めつけ」を、極めて冷静で、しか皮肉に満ちた言葉で指摘するんです

あなた意見感情的ですね。私が指摘したのはAであって、Bではありません。論点すり替えるのは議論放棄ですよ」

あるいは、

「その主張の根拠は、ご自身感覚以外にありますか? それとも、あなた個人的意見普遍的事実として扱おうとしているのですか?」

この手の言葉は、相手の冷静さの仮面を剥ぎ取り、感情さら逆撫しま

なぜなら、多くの人は自分感情であることを認められない

そして、「正論」で追い詰められることに、最大の屈辱を感じるからです

私が論理武装し、冷静沈着なペルソナを保てば保つほど、感情で動く相手は焦り、さらに粗末な論理で反撃してくる

そうして生まれる、ミスミスミス連鎖

その結果、周りのウォッチャーたちも、「ああ、これは論理的な方が勝っているな」と認識せざるを得なくなる

「こいつだけは気に食わねぇ」

その言葉は、レスバトラーたる私にとっては最高の賛辞です

それは、私が彼らの感情を揺さぶり、土俵に引きずり込み、そして優位に立っている何よりの証明からです

闘いのサインを見逃さず、獲物を逃がさない。これこそが、我々レスバトラーの闘いの醍醐味ですよ

Permalink |記事への反応(0) | 13:24

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理系って「自然法則あるいはアルゴリズム普遍的性質に興味がある」って感じだから、それを述べるための国語的・文学的表現なんてどーでもいいのよね

文系国語的・文学的スタイルだけで何かをしようとするから内容が虚無

Permalink |記事への反応(1) | 11:41

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お前らBUMP OF CHICKENって知ってるか?

忍者極道』って漫画は知ってますよね?

友達に勧められて読んでるんすけどね、勧めてくれた友達が「途中から各話タイトルが曲の名前になってるから配信サイトで聞きながら読むといいぞ」って教えてくれてね。

それでまあ色々と聞いてたんですけど、なんか途中からこのBUMP OF CHICKENって奴ばっかになるんすよね。

でも実際凄いんですよ。

紅白朝ドラの曲歌ってたとき特に何も感じなかったんスけど、あれはそもそも朝ドラの曲が持つ全体的なしょーもなさがバンドの良さを塗りつぶしてただけなんだなって。

いや本当凄いですよ。

まあ作品との相性もあるのかもですね。

特に感動したのがオンリーロンリーグローリーでしたね。

栄光とは程遠い場所でもがいてきた日々の積み重ねを踏みしめながら突き進んでいく◯◯を強く後押しするBGMとして最高すぎた。

でもこの歌って凄く普遍的なんですよね。

多分全人類に刺さる。

からこそどんな生まれや育ちや生き方をした奴でも同じような光を目指してもがいていいんだって気持ちになれる。

立っている場所がどこだろうが目指すゴールがなんだろうがそれぞれの正義へ向かってるし、そこの最前線にいるなら誰かのヒーローなんだなって。

BUMP OF CHICKENを聞きながら読んでなかったらここまで感じ取れなかったかもしれない。

凄いな、人間世界に対する感度を増幅させるアンプみたいな機能がある歌って。

こういうバンドもいるんだな日本にも。

お前らもBUMP OF CHICKENは聞いたほうがいいですよ。

Permalink |記事への反応(2) | 10:46

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2025-09-27

レンタルビデオ店というもの普遍的価値があったような時代

あの時代が何もかも丁度良かった。

銭湯と酒と映画があれば寂しくなかった。

今も同じ事は出来るけど最早意味が違う。

孤独無能人間が小さな世界で虚栄心を育み自分を慰める事すらこの時代は許してくれない

Permalink |記事への反応(2) | 12:36

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