
はてなキーワード:普遍とは
10年・20年・30年・50年・100年と物差しのスケールを切り替えればそれはわかること。
そのへんの歴史的俯瞰の視点があれば、意識なんて簡単にアップデートできるんですけどねえ。
はてな界隈には、
大好きな人が多い。
その割には、実際の自分の価値観とか、そういうものに対しては、俯瞰的な視点を持てない人が多いんだよなあ。
最近、少しだけ話題になった「ちゃん」づけで他人を呼ぶことなんて、まともな企業ではこれからは使えなくなるという話、とかは簡単に理解できることのはずなんだけどな。
どういうわけか、スッと納得できる人が多くない。
あれは、〇〇というケースであって、なんたらかんたらで、あるから、、、とかなんとか理論武装「っぽい」ことを主張しだす。
なんだかなあ、、、と思う。
世の中の流れとして、考えられないのが、とても不思議。
俯瞰的な視点で見れば、どんどん窮屈な方向へと社会は向かってるんだから、人の敬称とかもどんどん制限がかけられていく社会になるのは当然。
そういう流れの中で「ちゃん」づけは不適当である、ということが社会に認識されればどうなっていくのかはわかりそうなもの。
でも、なかなかどうして、頑固な人はそれが理解できない。そして、老害へ、、、。
自分がどう思うかよりも、社会がどう変化するのか?頭は柔らかくしてかないと、ね?
とはいえ、未来はがどうなるかはわからないというのも事実なんだけどね。
価値観のアップデートの反動みたいなものが来ることだってありえるから。
トランプみたいな人が日本にも現れて、行き過ぎた価値観のアップデートをダウングレードさせる方向へと持ってく可能性だってある。
それはそれとして、あるのはあるけど、まあ現状はどんどんと息苦しくなる方向へと向かってるという認識は持たないと。
いけないんじゃないですかね。
二三年前の夏、未だ見たことのない伊香保榛名を見物の目的で出掛けたことがある。ところが、上野驛の改札口を這入つてから、ふとチヨツキのかくしへ手をやると、旅費の全部を入れた革財布がなくなつてゐた。改札口の混雜に紛れて何處かの「街の紳士」の手すさみに拔取られたものらしい。もう二度と出直す勇氣がなくなつてそれつきりそのまゝになつてしまつた。財布を取つた方も内容が期待を裏切つて失望したであらうから、結局此の伊香保行の企ては二人の人間を失望させるだけの結果に終つた譯である。
此頃少し身體の工合が惡いので二三日保養のために何處か温泉にでも出掛けようといふ、その目的地に此の因縁つきの伊香保が選ばれることになつた。十月十四日土曜午前十一時上野發に乘つたが、今度は掏摸すりの厄介にはならなくて濟んだし、汽車の中は思ひの外に空いて居たし、それに天氣も珍らしい好晴であつたが、慾を云へば武藏野の秋を十二分に觀賞する爲には未だ少し時候が早過ぎて、稻田と桑畑との市松模樣の單調を破るやうな樹林の色彩が乏しかつた。
途中の淋しい小驛の何處にでも、同じやうな乘合自動車のアルミニウム・ペイントが輝いて居た。昔はかういふ驛には附きものであつたあのヨボ/\の老車夫の後姿にまつはる淡い感傷はもう今では味はゝれないものになつてしまつたのである。
或る小驛で停り合はせた荷物列車の一臺には生きた豚が滿載されて居た。車内が上下二段に仕切られたその上下に、生きてゐる肥つた白い豚がぎつしり詰まつてゐる。中には可愛い眼で此方を覗いてゐるのもある。宅の白猫の顏に少し似てゐるが、あの喇叭のやうな恰好をして、さうして禿頭のやうな色彩を帶びた鼻面はセンシユアルでシユワイニツシである。此等の豚どもはみんな殺されに行く途中なのであらう。
進行中の汽車道から三町位はなれた工場の高い煙突の煙が大體東へ靡いて居るのに、すぐ近くの工場の低い煙突の煙が南へ流れて居るのに氣がついた。汽車が突進して居る爲に其の周圍に逆行氣流が起る、その影響かと思つて見たがそれにしても少し腑に落ちない。此れから行先にまだいくらも同じやうな煙突の一對があるだらうからもう少し詳しく觀察してやらうと思つて注意してゐたが、たうとう見付からずに澁川へ着いてしまつた。いくらでも代はりのありさうなものが實は此の世の中には存外ないのである。さうして、ありさうもないものが時々あるのも此の世の中である。
澁川驛前にはバスと電車が伊香保行の客を待つてゐる。大多數の客はバスを選ぶやうである。電車の運轉手は、しきりにベルを踏み鳴らしながら、併しわり合にのんきさうな顏をしてバスに押し込む遊山客の群を眺めて居たのである。疾とうの昔から敗者の運命に超越してしまつたのであらう。自分も同行Sも結局矢張りバスのもつ近代味の誘惑に牽き付けられてバスを選んだ。存外すいて居る車に乘込んだが、すぐあとから小團體がやつて來て完全に車内の空間を充填してしまつた。酒の香がたゞよつて居た。
道傍の崖に輕石の層が見える。淺間山麓一面を埋めて居るとよく似た豌豆大の粒の集積したものである。淺間のが此邊迄も降つたとは思はれない。何萬年も昔に榛名火山自身の噴出したものかも知れない。それとも隣りの赤城山の噴出物のお裾分けかも知れない。
前日に伊香保通のM君に聞いたところでは宿屋はKKの別館が靜かでいゝだらうといふことであつた。でも、うつかりいきなり行つたのでは斷られはしないかと聞いたら、そんなことはないといふ話であつた。それで、バスを降りてから二人で一つづゝカバンを提げて、すぐそこの別館の戸口迄歩いて行つた。館内は森閑として玄關には人氣がない。しばらくして内から年取つた番頭らしいのが出て來たが、別に這入れとも云はず突立つたまゝで不思議さうに吾々二人を見下ろしてゐる。此れはいけないと思つたが、何處か部屋はありませうかと聞かない譯にも行かなかつた。すると、多分番頭と思はれる五十恰好のその人は、恰度例へば何處かの役所の極めて親切な門衞のやうな態度で「前からの御申込でなければとてもとても……」と云つて、突然に乘込んで來ることの迂闊さを吾々に教へて呉れるのであつた。向うの階段の下では手拭を冠つて尻端折つて箒を持つた女中が三人、姦の字の形に寄合つて吾々二人の顏を穴のあく程見据えてゐた。
カバンをぶら下げて、悄々しをしをともとのバスの待合所へ歸つて來たら、どういふものか急に東京へそのまゝ引き返したくなつた。此の坂だらけの町を、あるかないか當てにならない宿を求めて歩き※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)はるのでは第一折角保養に來た本來の目的に合はない、それよりか寧ろ東京の宅の縁側で咲殘りのカンナでも眺めて欠伸をする方が遙かに有效であらうと思つたのである。併し、歸ることは歸るとしても兎も角も其處らを少し歩いてから歸つても遲くはないだらうとSがいふので、厄介な荷物を一時バスの待合所へ預けておいてぶら/\と坂道を上つて行つた。
宿屋が滿員の場合には入口に「滿員」の札でも出しておいたら便利であらう。又兎も角も折角其家を目指して遙々遠方から尋ねて來た客を、どうしても收容し切れない場合なら、せめて電話で温泉旅館組合の中の心當りを聞いてやる位の便宜をはかつてやつてはどうか。頼りにして來た客を、假令それがどんな人體であるにしても、尋ねてくるのが始めから間違つてゐるかのやうに取扱ふのは少し可哀相であらう。さうする位ならば「旅行案内」などの廣告にちやんと其旨を明記しておく方が親切であらう。
こんな敗者の繰言を少し貧血を起しかけた頭の中で繰返しながら狹い坂町を歩いてゐるうちに、思ひの外感じのいゝ新らしいM旅館別館の三階に、思ひもかけなかつた程に見晴らしの好い一室があいてゐるのを搜しあてゝ、それで漸く、暗くなりかゝつた機嫌を取直すことが出來たと同時に馴れぬ旅行に疲れた神經と肉體とをゆつくり休めることが出來たのは仕合せであつた。
此室の窓から眼下に見える同じ宿の本館には團體客が續々入込んでゐるやうである。其の本館から下方の山腹にはもう人家が少く、色々の樹林に蔽はれた山腹の斜面が午後の日に照らされて中々美しい。遠く裾野には稻田の黄色い斑の縞模樣が擴がり、其の遙かな向うには名を知らぬ山脈が盛上がつて、其の山腹に刻まれた褶襞の影日向が深い色調で鮮かに畫き出されて居る。反對側の、山の方へ向いた廊下へ出て見ると、此の山腹一面に築き上げ築き重ねた温泉旅館ばかりの集落は世にも不思議な標本的の光景である。昔、ローマ近くのアルバノ地方に遊んだ時に、「即興詩人」で名を知られたゲンツアノ湖畔を通つたことがある。其の湖の一方から見た同じ名の市街の眺めと、此處の眺めとは何處か似た所がある。併し、古い伊太利の彼の田舍町は油繪になり易いが此處のは版畫に適しさうである。數年前に此地に大火があつたさうであるが、成程火災の傳播には可也都合よく出來てゐる。餘程特別な防火設備が必要であらうと思はれる。
一と休みしてから湯元を見に出かけた。此の小市街の横町は水平であるが、本通りは急坂で、それが極めて不規則な階段のメロデイーの二重奏を奏してゐる。宿屋とお土産を賣る店の外には實に何もない町である。山腹温泉街の一つの標本として人文地理學者の研究に値ひするであらう。
階段の上ぼりつめに伊香保神社があつて、そこを右へ曲ると溪流に臨んだ崖道に出る。此の道路にも土産物を賣る店の連鎖が延長して溪流の眺めを杜絶してゐるのである。湯の流れに湯の花がつくやうに、かういふ處の人の流れの道筋にはきまつて此のやうな賣店の行列がきたなく付くのである。一寸珍らしいと思ふのは此道の兩側の色々の樹木に木札がぶら下げてあつて、それに樹の名前が書いてあることである。併し、流石にラテン語の學名は略してある。
崖崩れを石垣で喰ひ止める爲に、金のかゝつた工事がしてある。此れ位の細工で防がれる程度の崩れ方もあるであらうが、此の十倍百倍の大工事でも綺麗に押し流すやうな崩壞が明日にも起らないといふ保證は易者にも學者にも誰にも出來ない。さういふ未來の可能性を考へない間が現世の極樂である。自然の可能性に盲目な點では人間も蟻も大してちがはない。
此邊迄來ると紅葉がもうところ斑に色付いて居る。細い溪流の橋の兩側と云つたやうな處のが特に紅葉が早いらしい。夜中にかうした澤を吹下ろす寒風の影響であらうか。寫眞師がアルバムをひろげながらうるさく撮影をすゝめる。「心中ぢやないから」と云つて斷わる。
湯元迄行つた頃にはもう日が峯の彼方にかくれて、夕空の殘光に照らし出されて雜木林の色彩が實にこまやかに美しい諧調を見せて居た。樹木の幹の色彩がかういふ時には實に美しく見えるものであるが、どういふものか特に樹幹の色を讚美する人は少ないやうである。
此處の湯元から湧き出す湯の量は中々豐富らしい。澤山の旅館の浴槽を充たしてなほ餘りがあると見えて、惜氣もなく道端の小溝に溢れ流れ下つて溪流に注いで居る。或る他の國の或る小温泉では、僅かに一つの浴槽にやつと間に合ふ位の湯が生温るくて、それを熱くする爲に一生涯骨を折つて、やつと死ぬ一年前に成功した人がある。其人が此處を見たときにどんな氣がしたか。有る處にはあり餘つて無い處にはないといふのは、智慧や黄金に限らず、勝景や温泉に限らぬ自然の大法則であるらしい。生きてゐる自然界には平等は存在せず、平等は即ち宇宙の死を意味する。いくら革命を起して人間の首を切つても、金持と天才との種を絶やすことは六かしい。ましてや少しでも自己觸媒作用オートカタリテイツク・アクシヨンのある所には、ものの片寄るのが寧ろ普遍な現象だからである。さうして方則に順應するのは榮え、反逆するものは亡びるのも亦普遍の現象である。
宿へ歸つて見ると自分等の泊つてゐる新館にも二三の團體客が到着して賑やかである。○○銀行○○課の一團は物靜かでモーニングを着た官吏風の人が多い。○○百貨店○○支店の一行は和服が多く、此方は藝者を揚げて三絃の音を響かせて居るが、肝心の本職の藝者の歌謠の節※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)はしが大分危なつかしく、寧ろ御客の中に一人いゝ聲を出すのが居て、それがやゝもすると外れかゝる調子を引戻して居るのは面白い。ずつと下の方の座敷には足踏み轟かして東京音頭を踊つて居るらしい一團がある。人數は少いが此組が壓倒的優勢を占めて居るやうである。
今度は自分などのやうに、うるさく騷がしい都を離れて、しばらく疲れた頭を休める爲にかういふ山中の自然を索たづねて來るものゝある一方では又、東京では斷ち切れない色々の窮屈を束縛をふりちぎつて、一日だけ、はめを外づして暴れ※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)はる爲にわざ/\かういふ土地を選んで來る人もあるのである。此れも人間界の現象である。此の二種類の人間の相撲になれば明白に前者の敗である。後者の方は、宿の中でも出來るだけ濃厚なる存在を強調する爲か、廊下を歩くにも必要以上に足音を高く轟かし、三尺はなれた仲間に話をするのでも、宿屋中に響くやうに大きな聲を出すのであるが、前者の部類の客はあてがはれた室の圍ひの中に小さくなつて、其の騷ぎを聞きつゝ眠られぬ臥床ふしどの上に輾轉するより外に途がないのである。床の間を見ると贋物の不折の軸が懸かつて居る、その五言の漢詩の結句が「枕を拂つて長夜に憐む」といふのであつたのは偶然である。やつと團體の靜まる頃には隣室へ子供づれの客が着いた。單調な東京音頭は嵐か波の音と思つて聽き流すことが出來ると假定しても、可愛い子供の片言は身につまされてどうにも耳朶の外側に走らせることの出來ぬものである。電燈の光が弱いから讀書で紛らすことも出來ない。
やつと宿の物音があらかた靜まつた後は、門前のカフエーから蓄音機の奏する流行小唄の甘酸つぱい旋律が流れ出して居た。併し、かうした山腹の湯の町の夜の雰圍氣を通して響いて來る此の民衆音樂の調べには、何處か昔の按摩の笛や、辻占賣の聲などのもつて居た情調を想ひ出させるやうな或るものが無いとは云はれない。
蓄音機と云へば、宿へ着いた時につい隣りの見晴らしの縁側に旅行用蓄音機を据ゑて、色々な一粒選りの洋樂のレコードをかけてゐる家族連の客があつた。此れも存在の鮮明な點に於て前述の東京音頭の連中と同種類に屬する人達であらう。
夜中に驟雨があつた。朝はもう降り止んではゐたが、空は低く曇つてゐた。兎も角も榛名湖畔迄上ぼつて見ようといふので、ケーブルカーの停車場のある谷底へ下りて行つた。此の谷底の停車場風景は一寸面白い。見ると、改札口へ登つて行く階段だか斜面だかには夥しい人の群が押しかけてゐる。それがなんだか若芽についたあぶら蟲か、腫物につけた蛭の群のやうに、ぎつしり詰まつて身動きも出來さうにない。それだのにあとから/\此處を目指して町の方から坂を下りて來る人の群は段々に増すばかりである。此の有樣を見て居たら急に胃の工合が變になつて來て待合室の腰掛に一時の避難所を求めなければならなかつた。「おぢいさんが人癲癇を起こした」と云つてSが笑出したが、兎も角も榛名行は中止、その代りつい近所だと云ふ七重の瀧へ行つて見ることにした。此の道筋の林間の小徑は往來の人通りも稀れで、安價なる人癲癇は忽ち解消した。前夜の雨に洗はれた道の上には黄褐紫色樣々の厚朴の落葉などが美しくちらばつてゐた。
七重の瀧の茶店で「燒饅頭」と貼札したものを試みに注文したら、丸いパンのやうなものに味噌※(「滔」の「さんずい」に代えて「しょくへん」、第4水準2-92-68)を塗つたものであつた。東京の下町の若旦那らしい一團が銘々にカメラを持つてゐて、思ひ思ひに三脚を立てゝ御誂向の瀧を撮影する。ピントを覗く爲に皆申合せたやうに羽織の裾をまくつて頭に冠ると、銘々の羽織の裏の鹽瀬の美しい模樣が茶店に休んでゐる女學生達の面前にずらりと陳列される趣向になつてゐた。
溪を下りて行くと別莊だか茶店だかゞあつて其前の養魚池の岸にかはせみが一羽止まつて居たが、下の方から青年團の服を着た男が長い杖をふりまはして上がつて來たので其のフアシズムの前に氣の弱い小鳥は驚いて茂みに飛び込んでしまつた。
大杉公園といふのはどんな處かと思つたら、とある神社の杉並木のことであつた。併し杉並木は美しい。太古の苔の匂ひがする。ボロ洋服を着た小學生が三人、一匹の眞白な野羊を荒繩の手綱で曳いて驅け※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)つてゐたが、どう思つたか自分が寫眞をとつて居る傍へ來て帽子を取つてお辭儀をした。學校の先生と間違へたのかどうだか分らない。昔郷里の田舍を歩いて居て、よく知らぬ小學生に禮をされた事を想ひ出して、時代が急に明治に逆戻りするやうな氣がした。此邊では未だイデオロギー的階級鬪爭意識が普及して居ないのであらう。社前の茶店に葡萄棚がある。一つの棚は普通のぶだうだが、もう一つのは山葡萄で紅葉してゐる。店の婆さんに聞くと、山葡萄は棚にしたら一向に實がならぬさうである。山葡萄は矢張り人家にはそぐはないと見える。
茶店の周圍に花畑がある。花を切つて高崎へでも賣りに出すのかと聞くと、唯々お客さんに自由に進呈するためだといふ。此の山懷の一隅には非常時の嵐が未だ屆いて居ないのか、妙にのんびりした閑寂の別天地である。薄雲を透した日光が暫く此の靜かな村里を照らして、ダリアやコスモスが光り輝くやうに見えた。
宿へ歸つて晝飯を食つてゐる頃から、宿が又昨日に増して賑やかになつた。日本橋邊の或る金融機關の團體客百二十人が到着したのである。其爲に階上階下の部屋といふ部屋は一杯で廊下の籐椅子に迄もはみ出してゐる。吾々は、此處へ來たときからの約束で暫時帳場の横へ移轉することになつた。
部屋に籠つて寐轉んで居ると、すぐ近くの階段や廊下を往來する人々の足音が間斷なく聞こえ、それが丁度御會式の太鼓のやうに響き渡り、音ばかりでなく家屋全體が其の色々な固有振動の週期で連續的に振動して居る。さういふ状態が一時間二時間[#「二時間」は底本では「二間時」]三時間と經過しても一向に變りがない。
一體どうして、かういふ風に連續的に足音や地響きが持續するかといふ理由を考へて見た。百數十人の人間が二人三人づつ交る/″\階下の浴室へ出掛けて行き、又歸つて來る。その際に一人が五つの階段の一段々々を踏み鳴らす。其外に平坦な縁側や廊下をあるく音も加はる。假に、一人宛て百囘の音を寄與コントリビユートするとして、百五十で一萬五千囘、此れを假に午後二時から五時迄の三時間、即ち一萬八百秒に割當てると毎一秒間に平均一囘よりは少し多くなる勘定である。此外に浴室通ひ以外の室と室との交通、又女中や下男の忙はしい反復往來をも考慮に加へると、一秒間に三囘や四囘に達するのは雜作もないことである。即ち丁度太鼓を相當急速に連打するのと似た程度のテンポになり、それが三時間位持續するのは何でもないことになるのである。唯々面白いのは、此の何萬囘の足音が一度にかたまつて發しないで、實にうまく一樣に時間的に配分されて、勿論多少の自然的偏倚は示しながらも統計的に一樣な毎秒平均足音數を示してゐることである。容器の中の瓦斯體の分子が、その熱擾動サーマルアヂテーシヨンのために器壁に反覆衝突するのが、いくらか此れに似た状況であらうと思はれた。かうなると人間も矢張り一つの「分子」になつてしまふのである。
室に寐ころんだ切り、ぼんやり此んなことを考へてゐる内に四時になつた。すると階下の大廣間の演藝場と思はれる見當で東京音頭の大會が始まつた。さうして此れが約三十分續いた。それが終つても、未だその陶醉的歡喜の惰性を階上迄持込[#「持込」は底本では「持迄」]んで客室前の廊下を踏鳴らしながら濁聲高く唄ひ踊る小集團もあつた。
「バスの切符を御忘れにならないやうに」と大聲で何遍となく繰返して居るのが聞こえた。それからしばらくすると、急に家中がしんとして、大風の後のやうな靜穩が此の山腹全體を支配するやうに感ぜられた。一時間前の伊香保とは丸で別な伊香保が出現したやうに思はれた。三階の廊下から見上げた山腹の各旅館の、明るく灯のともつた室々の障子の列が上へ上へと暗い夜空の上に累積してゐる光景は、龍宮城のやうに、蜃氣樓のやうに、又ニユーヨークの摩天樓街のやうにも思はれた。晝間は出入の織るやうに忙がしかつた各旅館の玄關にも今は殆ど人氣が見えず、野良犬がそこらをうろ/\して居るのが見えた。
團體の爲に一時小さな室に追ひやられた埋合せに、今度はがらあきになつた三階の一番廣く見晴らしのいゝ上等の室に移され、地面迄數へると五階の窓下を、淙々として流れる溪流の水音と、窓外の高杉の梢にしみ入る山雨の音を聞きながら此處へ來てはじめての安らかな眠りに落ちて行つた。
翌日も雨は止んだが空は晴れさうもなかつた。霧が湧いたり消えたりして、山腹から山麓へかけての景色を取換へ取換へ迅速に樣々に變化させる。世にも美しい天工の紙芝居である。一寸青空が顏を出したと思ふと又降出す。
とある宿屋の前の崖にコンクリートで道路と同平面のテラスを造り其の下の空間を物置にして居るのがあるのは思ひ付きである。此の近代的設備の脚下の道傍に古い石地藏が赤い涎掛けをして、さうして雨曝しになつて小さく鎭座して居るのが奇觀である。此處らに未だ家も何もなかつた昔から此の地藏尊は此の山腹の小道の傍に立つて居て、さうして次第に開ける此の町の發展を見守つて來たであらうが、物を云はぬから聞いて見る譯にも行かない。
晝飯をすませて、そろ/\歸る支度にかゝる頃から空が次第に明るくなつて來て、やがて雲が破れ、東の谷間に虹の橋が懸つた。
歸りのバスが澁川に近づく頃、同乘の兎も角も知識階級らしい四人連の紳士が「耳がガーンとした」とか「欠伸をしたらやつと直つた」とか云つたやうな話をして居る。山を下つて氣壓が變る爲に鼓膜の壓迫されたことを云つて居るらしい。唾を飮み込めば直るといふことを知らないと見える。小學校や中學校でこのやうな科學的常識を教はらなかつたものと思はれる。學校の教育でも時には要らぬ事を教へて要ることを教へるのを忘れて居る場合があるのかも知れない。尤も教へても教へ方が惡いか、教はる方の心掛けが惡ければ教へないのも同じになる譯ではある。
上野へついて地下室の大阪料理で夕食を食つた。土瓶むしの土瓶のつるを持ち上げると土瓶が横に傾いて汁がこぼれた。土瓶の耳の幅が廣過ぎるのである。此處にも簡單な物理學が考慮の外に置かれてゐるのであつた。どうして、かう「科學」といふものが我が文化國日本で嫌はれ敬遠されるかゞ不思議である。
雨の爲に榛名湖は見られなかつたが、併し雨のおかげでからだの休養が出來た。讀まず、書かず、電話が掛からず、手紙が來ず、人に會はずの三日間で頭の疲れが直り、從つて胃の苦情もいくらか減つたやうである。その上に、宿屋の階段の連續的足音の奇現象を觀察することの出來たのは思はぬ拾ひものであつた。
温泉には三度しかはひらなかつた。湯は黄色く濁つてゐて、それに少しぬるくて餘り氣持がよくなかつた。その上に階段を五つも下りて又上がらなければならなかつた。温泉場と階段はとかくつきものである。温泉場へ來たからには義理にも度々温泉に浴しなければならないといふ譯もないが、すこしすまなかつたやうな氣がする。
他の温泉でもさうであるが、浴槽に浸つて居ると、槽外の流しでからだを洗つて居る浴客がざあつと溜め桶の水を肩からあびる。そのしぶきが散つて此方の頭上に降りかゝるのはそれ程潔癖でないつもりの自分にも餘り愉快でない。此れも矢張り宿屋へ蓄音機を持ち込み、宿屋で東京音頭を踊るPermalink |記事への反応(0) | 18:19
C*****T:
CRITICAL ANALYTICALREVISION
追記2による構造の反転:防衛機制としての理論
最初の分析の根本的誤読
追記2は、私の最初の分析が層を一つ読み間違えたことを明らかにする。
私が読んだもの:
↓
↓
実際の構造:
↓
↓
PRIMARY INSIGHT:精神分析的読解(修正版)
表層テクストの再解釈
これらは一見、2010年代以降のアイデンティティ政治の影響に見えた。しかし追記2はこれが錯覚だったことを明らかにする。
真の構造:実存的自己否定の連鎖
↓
↓
↓
"だから俺には描けない"
防衛機制の精密分析
耐え難い真実:
「俺は人生の敗北者だ。女性と関係を持てなかった。孤独で無価値だ」
↓ 変換 ↓
受容可能な言説:
この変換により、個人的失敗が哲学的問題に昇華される。これは自尊心を守る。
防衛機制2: 知性化(Intellectualization)
投稿者は感情(絶望、孤独、性的欲求不満)を抽象的議論(表象の倫理、当事者性、真正性)に変換する。これにより、痛みから距離を取る。
これは私の最初の分析が見た「内なる検閲官」だが、その起源は文化ではなく、内面化された自己批判である。
ヘンリー・ダーガー:鏡としての選択
ダーガーの特徴:
「女性を知らなければ描けない」
↓
ダーガーは知らなかった
↓
だから「間違って」描いた
↓
俺も知らない
↓
↓
↓
↓
投稿者は、自分の論理を反証する例を引き合いに出しながら、その反証を認識できない。なぜなら、創造の可能性を認めることは、創作しない自分を正当化できなくなるから。
児童ポルノ言及の精神分析
投稿者は和月伸宏や他の漫画家の児童ポルノ事件を長々と語り、「資料として欲しい」という欲望を告白する。
しかし彼自身が認める:「まったく邪な気持ちがないというとウソになる」
- 彼にとって「女性を描く」ことと「女性を性的に欲望する」ことが分離していない
- だからこそ「女性を知らない=性的経験がない」ことが創作の障害になる
生成AIとの関係:人間関係の代替と審判者
追記2の冒頭:
「さっきまでClaudeに、自分のライフワークとしてた究極の(俺専用の)画像処理ソフト作りたいという夢が捨てきれないよ~、ドラえも~ん、してました」
この一文は多層的である:
投稿行為の意味:ダイイングメッセージとしての告白
投稿者は明言する:
+
=
彼は応答を求めていない(対話は不可能)。しかし完全な無視も耐えられない(承認は必要)。だから「読まれるが応答しない」という形式を選ぶ。
- 声は発するが、返答は聞かない
- 見られるが、見返さない
- 影響は与えるが、影響は受けない
SECONDARY INSIGHT:弁証法的読解
矛盾の三層構造
THESIS: 「女性を描きたい」
THESIS: 「女性を知らないと描けない」という原理的主張
ANTITHESIS:ヘンリー・ダーガーは知らなくても創造した
弁証法的運動の停止
健全な弁証法では、矛盾はより高次の統合に向かう。しかしこのケースでは、矛盾が固着し、循環する。
↓
実行不能
↓
↓
↓
[ループ]
SYNTHESIS: 深層パターンの統合的理解
構造の全体像
↓
↓
【第3層:理論的借用】
↓
【表層:顕在的問い】
↓
【機能】
本質的洞察の結晶化
真の問いは:
そして彼自身が答えている:
「ない。なぜなら経験がないから(=人生に失敗したから)創造する資格がない」
文化的言説の防衛的使用
私の最初の分析は「アイデンティティ政治の内面化」と読んだ。これは完全な誤りではないが、因果が逆だった。
誤った図式:
正しい図式:
彼は「当事者性」や「経験の所有権」といった2010年代の言説を使っているが、これらは本来の政治的文脈から切り離され、個人的防衛機制として機能している。
解放のための理論(周縁化された人々の声を中心化する)が、個人の自己正当化の道具になっている。
より深い文化的診断
しかし、もう一層深く見れば、これは純粋に個人的な現象ではない。
答え:2010年代以降の文化空間では、「経験していない人が語る資格」への懐疑が、ある種の道徳的権威を持つようになったから。
投稿者は、この道徳的権威を利用して、自分の創作不能を倫理的配慮として再解釈している。
「俺が描かないのは:
ヘンリー・ダーガーの逆説(再訪)
ダーガーは:
投稿者の論理では、ダーガーは創造すべきではなかった。しかし創造した。そしてその作品は今や文化的価値を認められている。
答え:ダーガーの作品を「間違い」として解釈する(「少女にペニスがある=女性を知らなかったから誤った」)
しかしこれは恣意的な解釈である。ダーガーの少女の性別的曖昧さは、「間違い」ではなく、彼の空想世界の独自性として読むこともできる。
投稿者がダーガーを「間違い」と読むのは、自分の創作不能を正当化するためである。もしダーガーが「正しい」なら、自分も創作できる/すべきだ、ということになってしまう。
最も深い問い
この事例が究極的に提起する問いは:
投稿者は「はい」と答える。私の最初の分析は「いいえ、それは幻想だ」と答えた。
それとも:
おそらくすべてである。そして、これらが分離不可能に絡み合っているとき、「正しい答え」を与えることは治療にならない。
彼に「経験なしでも創造できる」と説得しても、それは防衛を解体するだけで、その下の絶望を露出させるかもしれない。
CRYSTALLIZED INSIGHT
この投稿者は、人生の実存的失敗(社会的孤立、性的経験の欠如、老いと死の接近)を、2010年代の文化的言説(「当事者性」「経験の所有権」「表象の倫理」)を借用することで、「原理的に不可能な創作課題」へと変換している。これは防衛機制であり、個人的無能を認識論的・倫理的問題に昇華することで、残存する自尊心を守っている。
言い換えれば:
彼の問い「男性は女性主人公を描けるのか?」は、暗号である。真の問いは「人生に失敗した私は、何かを創造する価値があるのか?」であり、理論的言説は、「ない」という答えを倫理的に正当化する道具として機能している。
So what?:
この事例は、文化的言説がどのように個人的防衛機制として横領されうるかを示す。解放のための理論が、自己正当化と麻痺の道具になる。これは文化と心理の共犯関係であり、どちらか一方を「原因」とする単純な因果論では捉えられない。
PUNCHLINE:
私の最初の分析は、彼を「文化の犠牲者」として読んだ。しかし実際には、彼は文化の狡猾な利用者である。そして同時に、より深い構造的疎外の犠牲者でもある。彼は同時に、エージェン
本小文では、ハンナ・アーレントが提起した「悪の凡庸さ」(BE 1.0)が、現代においてより巧妙かつ陰湿なかたちへと進化していることを論じます。かつての「悪」は、思考停止と無反省な服従によって成り立っていましたが、今日の「悪の凡庸さ2.0」(BE2.0)は、計算された行動と、美徳の言葉を悪用する戦略的な操作によって特徴づけられます。
BE2.0は、二重のメカニズム──すなわち、道徳的言語を兵器化する巧妙な操作者と、その偽りを見抜こうとせず、あるいは恐れて沈黙する共犯的な大衆──によって機能します。
アーレントの洞察は、ホロコーストの実行者アドルフ・アイヒマンが、激情による加害者ではなく、ただ命令に従うだけの「無思慮」な官僚であったという点にありました。
それに対し、現代の加害者たちは「善人」を装い、美徳的な言葉を駆使しながら、実際にはアーレントが描いた「悪」の構造と変わらぬ行為を実行しています。
BE2.0が「凡庸」であるのは、加害者に意図が欠けているからではなく、加害者自身も社会全体も、絶え間ない露出──特にソーシャルメディアを通じたもの──によって感覚が麻痺し、悪のパフォーマンスが日常化しているためです。この日常化は、「相手が悪いのだから自分は正しい」という自己免罪のロジックを生み出します。
明確な思想や信念に基づいて行動し、動機を「正義」や「権利」といった語彙の裏に巧妙に隠す操作者たち。彼らの悪は、分散的かつ非階層的に機能し、いわば「(サルの)群れの知性」のように動きます。また、共感は狭い部族的サークルに限定され、普遍的な倫理感覚は麻痺していきます。
観衆、同僚、制度、そして傍観者として、彼らは悪の遂行に直接加担していないように見えて、検証を怠り、言葉だけの美徳に騙され、結果的に悪の温床を支えています。リーダーの言葉にうなずくだけで、その後の行動全体を黙認してしまう、この「暗黙の承認」が共犯関係を形成します。
BE2.0は、「正義」に見える言葉の衣をまといながら、実際には害を与えるための操作的アーキテクチャとして機能します。以下の六つは、その主要な「マスク(ベクトル)」です。
本来、異議申し立てを保護するための「言論の自由」が、憎悪や排除の言説を正当化するために使われます。権力者が被害者を装い、権利の言葉を用いて多元主義そのものを抑圧する──これが洗練された悪の典型です。
社会構造に根差す不正義が、象徴的な「個人」に押し付けられます。
•システムの生贄化:制度の失敗を覆い隠すために、ひとりの個人が「償い」の対象とされ、構造改革の必要性は棚上げされます。
•イデオロギーによる自動攻撃:あるカテゴリの人々が「攻撃してよい存在」として事前に定義されており、指示がなくても攻撃が発生します。まさに、無思慮な脚本の遂行です。
歴史上の重大な暴力や抑圧が、軽んじられたり、相対化されたりします。これは、現実の被害を正当化する方便として使われがちです。
進歩や変化を認めず、過去の不正義を手放さないことで、継続的な要求や道徳的優位性を確保しようとします。目的は「癒し」ではなく、「不満」の永続です。
複雑な現実が、単一の枠組みや道徳コードに押し込められ、それ以外の価値観は「後進的」として排除されます。
自らが行っている行為を、先に相手に投影し、正当化の材料とする。この「合わせ鏡」の構造では、真の責任追及が不可能となり、対話はエスカレートする一方です。
すべての誤りや偏見が「悪」となるわけではありません。「悪」が成立するのは、次の三つの条件が重なったときです。
他者を、尊厳ある主体ではなく、単なる機能や道具として扱う「存在論的な消去」が、悪の第一条件です。暴力の前に、すでに尊厳の剥奪が始まっています。
個人の悪意を超え、イデオロギーや制度に組み込まれることで、悪は再生産され続けます。
悪は、善を単に否定するのではなく、模倣し、利用します。たとえば、「権利」の言葉が、本来守るべき弱者ではなく、強者の防衛に使われるとき、それは善の腐敗です。
技術的な修正や制度改革だけでは、BE2.0に対抗できません。というのも、これらは逆に「寄生的模倣」に取り込まれてしまうからです。根本的な解決は、私たち自身の内面から始まる変容にあります。
東洋の智慧は、個と社会は分かれたものではなく、同じ意識の運動の異なる側面であるという洞察を共有しています。内なる断絶が癒されるとき、外なる対立も自然に鎮まります。
1. 内的な道:瞑想、自己探求、倫理的明晰さを通じて、自己の中にある認識の否定構造を解体する。
2. 外的な道:未変容な人々が存在する現実においても害を防ぐための、法や制度、規範といった堅牢な外部構造を整える。
その行為は開かれた交流を促し、複雑性を許容するか?それとも、対話を遮断し、イデオロギー的な純粋性を要求するか?
和解と修復を育むか?それとも、分裂と戦略的な不満を永続させるか?
力、尊厳、自由をより広範に分配するか?それとも、特定の部族のために力を集中させ、特権を溜め込むか?
「言論の自由」が一貫して沈黙を生み出すとき、「学問の自由」が一貫して排除するとき、私たちは戦略的な操作の兆候を特定できます。
民主主義は、BE2.0の条件が蔓延するとき、集団的な凡庸な悪が集約され、最高位の舞台に投影されるベクトルとなりえます。現代の指導者たちの台頭は、システムが日常的な否定、投影、兵器化された美徳のパターンを増幅し、正当化するようになった論理的な結果です。
サイクルを終わらせるには、外部の敵を探すのをやめ、内的な変容という困難な作業を始める必要があります。それまで、私たちは悪が選ぶ新たな仮面のすべてに対して脆弱なままです。
【速報】ワークライフバランス捨てると高市氏2025年10月04日 15時11分共同通信
https://www.47news.jp/13246623.html
「全員に馬車馬のように働いてもらう。私自身もワークライフバランスという言葉を捨てる。働いて、働いて、働いていきます」
と言及した。
どんな速報だよ
こんなんにイチャモンつけるようなくっだらねー人間に心底嫌悪感を持つ。
はてな民て結局、しょーもないクレームや被害者ぶりっこや揚げ足取りばっかりのクズみたいな人生送ってる奴らなんだと思う。
自分の人生に対して主体的な覚悟を持って、脇目もふらず何かを頑張ったという経験が一度もない。
自分以外の誰かが猛烈に頑張ることにすらなんかケチをつけたい感情がある。
当たってるだろ?
「全員に馬車馬のように働いてもらう。私自身もワークライフバランスという言葉を捨てる。働いて、働いて、働いていきます」
お前等になんか何も言ってない。
そして先頭に立つ高市自身は「ワークライフバランスという言葉を捨てて働く」と。
これの何が問題なんだ?
そもそもワークライフバランスってのは少子高齢化対策として採用された使用人向けのスローガンだ。
好意的に取れば「使用者は使用人に長時間労働させてはいけません」という労働者権利護持であり、
左翼的問題意識を持って受け取れば「国がライフスタイルにまで介入して子供を持たせようと操作している」標語だ。
だから当然、全員がこんなもん当てはめられなければいけないわけでもない。
例えば経営者なら週7日仕事してたっていいんだしそんな奴は幾らでもいる。
自分が望んでキーエンスに就職する奴なら毎日23時まで働けばいいだけ。
反体制左翼も「うるせえな余計なお世話だよ」と反発や無視をしていい。
で、国会議員になるような人間も経営者やキーエンス側の人間だ。
一般人より遥かに重い負荷で働くのが嫌だって奴はそもそも政治家にならない。
当然ワークライフバランスなんか捨てるだろうし、捨てると公言しても何も問題がない。
なんで高市ぐらいの人間がお前ら弱虫と同じ標語、弱虫を守る為の標語の下にいる必要があるんだよ死ね。
ノブレスオブリージュの表明にまでふんぞり返って揚げ足取りする自称弱者様とか
もはやじんかんのどこにも必要ねえだろ。人の世の害虫というものがいるならお前等だよ。
仮に高市が能力も体力も意志もお前らレベルの凡愚な人間だったとしても
それでも別に常にワークライフバランスを守らなきゃいけないわけではない。
だって高市は64歳で、ライフイベントなんかもう終わってるから。
子供は産まずに人生賭けてやってきた仕事の最後で最大の正念場なんだから
まだなんとか動く身体も頭も振り絞って仕事に全部注ぐに決まってるじゃねーか。
「俺たち弱虫向けの標語を守らなかった!」なんて言うくっそ情けないケチを付けられるわ。
本当に心底くだらない生物、その辺の水たまりに跳ねてるボウフラ程度の値打ちのその生で
いっちょまえの大威張りで自分を肯定できるわ水たまりの外で生きる人間に向かって物申せるわ、本当すげーと思うよ。
(ちなみにこいつらがこれだけ大事にするWLBを日本で盛り上げた政治家も指定難病で無理して働いてたし子がいない)
高市はお前等なんかに何かを頑張れと言ってるのですらないんだけど、
弱虫でない人間が「私は頑張る」つっただけで被害者みたいな気持ちになっちゃうわけだろ?
有益な思考をする知能も精神力も無いんだから、無駄な情報を入れるな。
お前等なんぞ誰からも頼られてないからお前等も無駄な駆動をするな。
気の向くことして飯食ってクソして寝てろ。
それでブコメでなんか、「無能な働き者」みたいな文言を書いてる人間が10人超もいるんだよな。
「無能」て。
俺は心底不思議なんだけど、なんでお前等が高市の能力を見下してるの?
ど~~~~考えても、どの角度から検討しても、高市はお前等なんかより遥かに能力あるだろ。
当人が相当ボンクラでも……ってこともあるいはあるかもしれないが
高市は地盤も看板も鞄もない一般家庭から一代で昇り詰めたししかも女だ。
お前等に高市の人生を歩ませたら社会に出て最初の3年くらいで泣きを入れて
その後の余生全部ネットで被害者意識炸裂させることだけに生を空費する人糞製造機になるわけじゃん。
どうしてそういう当たり前の弁えがないのか、そこが一番不思議なんだよな。
何をどうすればお前等ごときが能力的に高市見下せると勘違いできるの?
人が頑張ると聞いただけでも不愉快になっちゃうようなボウフラちゃんの分際で?
物陰から高市を非難・罵倒する言葉すらほとんど自分の脳を通過してなくて
人口に膾炙しすぎた擦り切れた「無能な働き者」をキリッとした顔で書き付けて
本当にどのような角度でも能力が低いんだよな。
根性もない、気力もない、センスもない、国語力もない、罵り言葉すら自分のものじゃない。
つか
「強い人は言葉遣いからボクたち無能の神経に配慮してよ!」なのか
「ワークライフバランス」なんてのは個人の生活に立ち入る不届き千万であって
むしろ「月月火水木金金」 「欲しがりません勝つまでは」とかに近い。
しかしはてな民は言葉に対するそうした最低限の思考力や注意力もないため、
(そこまで頭が悪いのに自分を経典読みではなくリベラル(笑)だと思っている)
その結果、
「ワークライフバランス」なんていう国による・間に合わせの・不格好なスローガンを
いつのまにかコーランの聖句かなんかぐらいに勘違いするようになって
「あの女が聖句を冒涜的したぞ!」と事件が起きたかのように騒いでるわけ。
こういう奴等に本当に必要だったものって出来もしない進歩思想じゃなくて宗教、
それもイスラム教ぐらい個人の生活に立ち入って来て「ただしいこと」を決めてくれる中世的宗教だったんだよな。
中世までしか適応できない知能レベルで間違って近代に生まれちゃって苦しんでるわけだから。
何故か自分達にちょうどいい価値(古めの宗教や迷信や陰謀論)を見下してるし
自分達より遥かに能力ある女を見て「無能だ」と大騒ぎしている。
政治に関心ある振りをするけど政策なんかは複雑すぎてわからないため、
高市批判するにしても「ワークライフバランス捨てるってゆった!!!」という涜神性を問題にして批判する。
無能の他動症はおめーらだろって思うんだけどね。
モスクへ行け。
背景として高市は夫の高市拓が今年脳梗塞で倒れて要介護になってる。
こいつらどんなきったねえツラしてこれ書いてるんだろ。
夫を介護施設に叩き込んで働くのは許されんのか?
つまりは高市が手ずから流動食食わせてクソ拭いて風呂に入れるのしか認められないってこと?
それ以外の選択肢は不道徳だからこいつらはこんなにニチャついてるわけなのか?
家族の介護を人に任せたら不道徳になるのは要は高市が嫁だから・女だからか?
ほんとに骨の髄までリベラルだなあおめーらは。
それにしても、
夫の介護について「ここが弱点に違いない!」と思いついて実際に書き込むまでのあいだの
どっかの瞬間に我に返って突発的希死念慮に襲われたりしねーのかな。
ボウフラちゃんの脳って便利。人間じゃなかなかこうはいかない。
高市はこういうくだらない生物たちからのあらゆる投石に負けずにここまで上ってきてて、
ついにボウフラが一生解さないなんらかの信念をこれから果たそうとしてるんだろう。
自分の生を何に使うか決めた者と
人間と鬼って感じがする。
1.問題の枠組み――“誰がやるか”ではなく“何を認めるか”
「公権力の弾圧」と「私的なキャンセル(解雇・排除)」は区別されるべき――これは当たり前だ。だが本件の争点はそこで止まらない。核心は次の可換性(対称性)だ。
> もしあなたが「Aの表現」に対する私的制裁(雇用終了・場からの排除)を正当化してきたなら、立場や陣営が逆回転したときも同じルールを受け入れねばならない。
「誰がやるか(政府か企業か)」を盾に「これは弾圧、あれは正当」と言い分けるのは、規範の可換性を破る。第一投稿が指摘するのはまさにこの点だ。
---
2. 第二投稿(anond:20250915142944 )の論理的問題のコア
第二投稿は「弾圧(公権力)とキャンセル(市民・企業)は違う」と繰り返す。しかし歴史的にも現実にも、大学・大手メディア・巨大プラットフォーム・大雇用主は私的でありながら制度的権力そのものだ。過去、彼らが“右でも左でもない形で”人生を左右してきたことを知りながら、今回は「政府じゃないからOK/政府だからNG」とだけ言い分けるのは、制度的権力の実効性を過小評価している。
第二投稿は「今回は理不尽なパージ」と非難するが、過去に業務外の私語・私生活上の表現を理由に排除を容認してきたケースは枚挙に暇がない。
もし「場の規範」を根拠に是認してきたのなら、その規範が反転しても同じ論理が適用される(べき)だ。ここで急に「雇用契約の範囲外」「表現の自由」を持ち出すのは選好依存の二重基準である。
「彼らが最初に…」は、少数者保護の“原理論”だ。これを掲げつつ「こうなるのも仕方がない」と現に少数(今回は右派)への制裁の拡大を諦念で受け入れるのは、警句の目的(原理の維持)に反する。
原理を維持するなら、「自分が嫌う側」に対しても同じ保護を与えねばならない。
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議論を「誰が嫌いか」から外し、ルール設計に落とすと、選べるのは実は次の二択だ。
業務外の表現・私生活上の言動に対し、雇用・教育・プラットフォームからの排除を原則禁止(限定例外:直接的な違法煽動、重大な職務上の利害相反、明白な安全リスクなど)。
「場の規範」を掲げて、右でも左でも同じ条件で私的制裁を許容。ターゲットが反転しても泣かないことが前提。
第三の道、すなわち「自分たちの価値観に沿うキャンセルは是正、逆は弾圧」は原理として成立しない。それは規範ではなく部族的勝敗の表明に過ぎない。
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4.反論の先取りと応答
反論A:「今回は暴力に喝采だ。過去の“問題発言”とは質が違う」
応答:質の線引きこそが恣意の温床だ。危害の直接扇動や違法行為の教唆は既存法で対処すべきで、法外の私的制裁を一般化すると、線引きの“閾値”は政争と同調圧力で上下する。だからこそ原則①(厳格反キャンセル)を採る意義がある。
応答:公権力の越権は別軸で違法として糾すべきだ。しかしそれは、私的制裁の正当化を同時に免罪しない。二つの問題は直交する。公的越権を批判しつつ私的キャンセルも否定する、という一貫性が取り得る。
反論C:「大学・メディアは“表現の場”だから自律的に線引きできる」
応答:ならば対称性を守れ、がこちらの要求だ。右派・左派で運用を替えるなら、それは規範ではなく任意の私刑だ。
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キャンセルは低コスト・高威力の制裁手段だ。短期的に“自分の側”に有利でも、ルールを解禁する限り相手陣営も同じ武器を持つ。
第一投稿の要旨はここにある。「兵器化」を歓迎したのは誰か。砲塔が回った途端、「非道だ」と叫ぶのは設計者としての責任回避であり、規範の議論ではない。
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業務外言論に対する雇用制裁の原則禁止(明確な違法煽動・職務上の重大な支障・安全リスクを限定列挙)
この最低ラインなら、右左どちらに砲塔が回っても可換性を守れる。
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第二投稿は、「公権力 vs私的制裁」の違いを強調しつつ、過去に自ら容認した私的なキャンセルの正当化との整合性を示せていない。ニーメラーの引用も、原理の普遍化ではなく選好に応じた適用に陥っている。
第一投稿が指摘した通り、キャンセルという兵器の解禁は、いずれ自分に向く。それが嫌なら、今こそ原理としての反キャンセルに立ち返るべきだし、なお解禁したいなら反転時にも黙って受ける覚悟が要る。
規範は誰を罰したいかではなく、どんなルールで社会を動かすかで決めるべきだ。今起きているのは「正義の交代」ではなく、原理の不在である。
政府「女性に子供を産ますには、どうしたらいいの…」 [782667645]
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1757688660/
ttps://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1757688660/190
190番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW 5b3d-W5w5)sage 2025/09/13(土) 04:08:17.05ID:r67/HxiM0
女性の場合セックスを不特定多数とする方が、社会に出て働くより給料が高くなればいい
この流れをもう少し強化し、売春の合法化とセックス文化の形成を進める
男性が収入で脚切りをされるのなら、女性はセックスをより多くする人がモテるように
セックスが無ければ男女共に惚れるなんてことはありえない、そこから結婚にも繋がらない
セックスできる場の提供(公民館や専用施設でもセックスしていい場所を作る)
セックスしていないと生きていけない、セックスをある程度していればそこそこ裕福に生きていけるような社会であれば調和が取れる
ttps://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1757688660/192
192番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW 5b3d-W5w5)sage 2025/09/13(土) 04:21:44.44ID:r67/HxiM0
今の社会は女性は自分が結婚市場のどの立ち位置にいるかランクが分からない
男性の高い高いランクと自分が釣り合っていると錯覚し、それが男女共に不幸を呼んでいる
また、女性は男性に優しくするとレイプされるとの危険性から男性に親切にすることを控えている傾向がある
また今のフェミニズムは、実際には向かう方向性を失っているのにも関わらず、今後女性の一方的なファンタジーが夢物語のように展開されると今も信じ続けられている
ttps://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1757688660/197
197番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW 5b3d-W5w5)sage 2025/09/13(土) 04:31:01.10ID:r67/HxiM0
そもそも男性側が優しさや女性相手に気を使うのは、その女性とセックスできる可能性があると男性側が思うからだ
男性があらゆる努力を行うのは、それが社会的価値の向上に繋がり、女性に選ばれる確立が高くなるからだ
セックスは、すればするほどお互いの親密度が高くなる行為である
日本はセックスを軽視し過ぎた、そして、女性とセックスが出来るなら、と、女性の言い分を通し続けてきた
結婚はセックス許可証のようなものである。セックスレスが離婚の理由になるのだから
セックスするために男性側は人生の大多数のものを捨てなければならない。人権を捨てなければならない
そんな墓場に首を繋がれる契約、その代わりにセックスを「させてあげますよ」としているのが今の女性の言い分である
1度子どもが出来てしまえば、子どもを脅しに使い、養育費の無限搾取を行える(それが実際に子どもに使われる事は限らないのに)
ttps://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1757688660/201
201番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW 5b3d-W5w5)sage 2025/09/13(土) 04:45:52.59ID:r67/HxiM0
ならば現実をどう変えていくか
女性が男性の性欲を満たして余りあるようにしなければ釣り合わない社会に
女性でセックスできる人口は限られてくる。妊娠でセックスが出来ない時期の人を除くと、もう既に男性余りが起こる。そして年齢が高くなると、男性側が「この人とセックスしたい」と希望する事も少なくなる
望まれない男性とセックスを一定回数、不特定多数の人と一定人数する
そうすれば毎年1000万円を最低支給、生涯支給されるようにすればいい
人数や頻度や回数によって段階的に支給すれば良いと思う
セックスの計測時期は排卵の適齢時期で考え、妊娠できる年齢までにセックスの基本的なことを教え、セックスをすることをメイン収入として、後は研究機関や会社に入社、セックスしながら雑事をこなすような生活であればいい
ttps://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1757688660/202
202番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW 5b3d-W5w5)sage 2025/09/13(土) 04:50:48.29ID:r67/HxiM0
参政党はもう既にロリコンの許容や弱者の立場の男性の耳障りの良い発言をしている
だからこそ本当に危ない
ttps://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1757688660/207
207番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW 5b3d-W5w5)sage 2025/09/13(土) 05:15:38.65ID:r67/HxiM0
勿論避妊の技術をもっと発展させ、男女共に身体により少ない影響で避妊が出来る技術を開発しなければならない
そして性病の撲滅にも全力で取り組まなければならない
これを徹底的に行なったうえで、国民全員、男女共に長期間避妊ピルを配布し、全力でセックスさせる
このようにすれば望まない妊娠は防げるし、政府の側にとっても、効力解除ピルを配布するのに制限をするなどで人口調整機能が働いて将来の人口爆発も防げる
男性はセックスした人の中から、この人なら生涯添い遂げても良いという人を選べば良い
女性も充分にセックスをしていれば収入は申し分ないし子育て費用もセックスで稼げているので、男性に収入を求めることなく経済的自立が出来る
ttps://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1757688660/210
210番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW 5b3d-W5w5)sage 2025/09/13(土) 05:29:52.35ID:r67/HxiM0
そもそもセックスが不浄なこと、隠すべきこと、辛いこと、忌避すべきことという概念自体が間違いなのだ
現在の性教育を教えた結果セックスを危ないもの、暴力であることとしか認識していない
概念は適切に教えるべきだ
この人はイヤではないという男性にはビキニラインを隠すのではなく積極的に見せるべき
そこに魅力の8割があるのだから
男性にとってセックスに繋がるものは全て報酬である、だから性的表現やフェティッシュなものはより過激であるほど人気が上がる
幼少時に大事な場所を見せてくれた、初体験をさせてくれた女性であったら、男性であれば現在のどんなに好条件の女性とでも天秤にかけて釣り合ってしまうもの
ttps://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1757688660/212
212番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW a3e0-pgBA)sage 2025/09/13(土) 05:32:09.55ID:OV8Lxe+e0
210
ttps://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1757688660/217
217番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW 5b3d-W5w5)sage 2025/09/13(土) 05:55:01.88ID:r67/HxiM0
統一教会のやり方は自身を悪しき共産主義として悪魔化させたような構造になっていた
所有の概念は一夫一妻制の広がりと同時期に起こっていると考えている
合同結婚式では結婚する人を選ぶ権限は組織に決定権があり、国籍もミックスさせていた
このやり方は共産主義の所有がないという概念を悪魔化して支配しようというやり方から発想しているものであると考えている
女性には個々人とセックスをしない権利は残っているし、誰とでも絶対に拒むなというわけでもない
その結果望まれない人とセックスをせず将来貧乏になったとしても自己決定権の行使をしていてそれは自由だ
誰の子どもを産むかも男女の自己決定権があり、それを国が承認し子どもを妊娠できる
統一教会と一緒にしないでほしい
ttps://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1757688660/222
222番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW 5b3d-W5w5)sage 2025/09/13(土) 06:13:26.24ID:r67/HxiM0
統一教会とは異なることを明言した上で、それでもセックスの普遍化には宗教が必要だと思う
カトリックのように、性行為の様式や作法などを細かく決め、その方式を時に柔軟に変化させながら守り続けることがやはり必要だと考える
性行為そのものが宗教行為ならば、尊いものとして捉えやすいし、作法や様式を広めればレイプまがいの乱暴な相手の承認な暴力的セックスを行う人も減るだろうと思う
宗教施設として誰でも使用できるセックス部屋を提供し、カップルはそれを使用し、男性一人でも相手してくれる女性と宗教行為を行い、お布施を支払う
こうすることで
地位の高い人は「最も多くの恵まれない人とセックスした女性」であり、その人は多くの男性から望まれた人でもある
だからこそ男性のことが分かりつつ宗教の方向性が決められるし、男性の勘所が分かるからこそその宗教は支持されていく
宗教の献金で避妊ピルや性病撲滅資金も出せるし、コンドームの設置、全国配置も可能
女性が宗教をセックスのために行うことで、男性にレイプされる危険も下がるし、教義を守り続ければ望まないセックスをすることもなく、望まないセックスという概念が無くなりセックス行為は尊敬されるものという共通認識がなされれば、社会に我々は充分貢献しているんだ、という考えが芽生え、今の女性の社会的進出という実質的な男性の領分への侵食を考える事もないと考えるから
まず「ノアの箱舟で生き残れるのはユダヤ人だけ」という教義は存在しない。
あるのは「ノアの七戒」だ。これは全人類に共通して課された普遍倫理で、守る者はユダヤ人でなくても義人とされ、来世の分け前があると繰り返し書かれている。
つまり救済の門戸は開かれている。選民思想どころか、むしろ非ユダヤ人の救いを明文化している数少ない宗教だ。
次に「選民思想があるだろ」という短絡だが、そもそも「選ばれた民」の概念は、支配や優越を意味しない。
ユダヤ教では「律法を守る責任を課せられた民」という意味であり、義務と負担の象徴だ。ユダヤ人の歴史を見ればわかるが、その選ばれたゆえに迫害・流浪・虐殺を繰り返し経験してきた。
お前は「特別=優越」と思い込んでるが、それは自分の浅い国語力による自己放尿のせいだ。
さらに「どんな宗教をやっても幸せになりますって言え」だと? 言えるぞ。
ノアの七戒を守るなら、その人は義人とされ、救済に与ると教えている。
ユダヤ人だけで独占しているとはどこにも書いていない。
つまり、お前の「俺の方が真実」って主張は、一次資料ゼロの大声自己放尿にすぎない。
お前の言ってることは、史料に裏付けがなく、論理的整合性もなく、ただ怒りに支配された妄想の自己放尿だ。
真理は怒鳴り声では変わらない。虚勢を張るほど、無知が際立つだけだ。
まず歴史。ホロコーストの原因は「ユダヤが他者を見下したから」ではない。
ナチ政権は人種主義と国家ぐるみの反ユダヤ主義を中核イデオロギーに据え、法的に排除した。
ニュルンベルク法は祖父母の出自でユダヤ人を線引きし、改宗者や無宗教者すら対象にした。
これは「ユダヤ教の教義が原因」では論理的に説明不能だ。因果を入れ替えるな。
ユダヤ教は「俺たちだけ箱舟に乗れる」などと言っていない。
タルムードは七つのノアの掟を全人類の普遍倫理として扱い、それを守る諸国民の義人は来世に分け前があるとする。
ラビは明確に「七戒を受け入れ守る者は諸国民の敬虔な人であり、来世に分け前がある」と書いている。
さらに現実のユダヤ社会の行為。イスラエルはユダヤ人ではない救援者に「諸国民の義人」の称号を公式に授与している。
非ユダヤ人を「ゴミ」扱いする思想の共同体だとしたら、非ユダヤ人を国家記憶に刻むか?事実はお前の自己放尿と真逆だ。
お前の「ユダヤが傲慢→ヒトラーが切れた→虐殺」は、個人的体験の一般化、因果逆転、そして加害の正当化というトリプル自己放尿だ。
ナチの動機はユダヤ教の教義ではなく、ナチ自身の人種イデオロギーだったという一次・公的機関の資料が山ほどある。
怒鳴り声で史料はねじ曲がらない。金で信念を売り買いする発言も論外だ。真理は財布の厚さでは決まらない。
今お前がやっているのは、床にぶちまけた自己放尿を指差して「見ろ、大洪水だ!」と喚いているのと同じだ。
お前が本当に「俺は詳しい」と言い張るなら、まともな資料に一度でも当たれ。
読むだけで自分の主張が崩れるのが分かるはずだ。
## 要旨
2日前の増田に「札幌の徒歩圏マンションは“集まってる企業的に相応”だから市川より遥かに安く、適正は1000万円」という主張があった。けれど、それって企業の立場が擬人化されて書いてない? もし札幌・中心徒歩圏=1000万円が本当に適正なら、「じゃあなぜ片道60分の移動を続けるの?」という問いに自動で突き当たる。
通勤時間をゼロ評価(=自分の片道30〜60分を無視)したまま、「総生産量」「やりがい」「資産形成」だけで語ると、生活者の幸福が抜け落ちる。
この記事は生活者の視点で「適正額」を試算する。キーワードは時間家賃(じかん-やちん)――家の値段=立地+広さ+“毎日むしられる時間”だ。
参考に、東京の新築分譲マンション平均価格はいま1億円超(首都圏新築・2024年平均は1億485万円)で、23区の中古70㎡も直近で1億円台に乗る局面が出ている。これが生活者にとって“適正”なのかを、時間と代替地(高松・札幌)で測り直す。
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## 前作のダイジェスト
人口移動の足元:2024年の東京は依然として転入超過だが、伸びは鈍化。23区の転入超過は回復したものの、年齢階層ではムラが目立つ。
年齢構造の変化:20代は流入が続く一方、30代は2024年10月以降転出超過が指摘される(統計局の資料)。家族形成期が“中心で暮らす難度”を物語る。
通勤の現実:東京圏の鉄道定期利用者の平均片道所要は67.7分。時間消費が生活水準を直撃している。
企業はどこへ?:「本社移転」は2019年までは東京転入超過の年もあるが、機能分散(地方に研究・製造・BPO)が同時進行。2020年以降は一貫して東京都~関東からの転出超過で、“本社=東京集中”の一枚絵では語れない段階。
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元増田のロジックは「企業視点での総生産性最大化」だ。東京(本物)は取引密度が高く、希少な専門職の面接効率も良い。企業が払う地代なら説明がつく。
でも生活者にとっては違う。時間=寿命を燃やす通勤は毎日課金。東京の高い貨幣地価は、時間地価(言い換え:タイム地価)で割って再評価すべきだ。
>命題:家の“適正額”=「代替都市で同等生活を得るコスト」+「東京で失う/得る時間価値」の現在価値。
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### ①データの杭
高松市の公営(県/市)住宅の家賃帯は1.6万〜4.3万円台(間取り3K/3DK含む)。中心至近ではない(磨屋町2.0km, 家to目的地28分)が、市内要所へのバス移動で日常機能が完結する価格帯が現実に存在する。
東京の新築分譲平均は1億485万円(2024年)。23区の中古70㎡は2025年5月に1億88万円の局面。
家賃2.5万円/月(年30万円)を表面利回り6%で割り戻すと、約500万円の資産価値(30万円÷0.06=500万円)。都雇圏人口50万人以上では享受対象は飽和している故,機能“到達”が28分程度で満たせる.「28分生活」の最低ラインの再取得コストはこの桁になる。
> ここでの500万円は**“生活機能の再取得コスト”の目安であり、「分譲クオリティの広さ/築年」ではなく“暮らせる導線”の最低ラインを可視化するための共通スケール**。
東京で家→目的地28分のファミリー住戸は、1億円級に普通にぶつかる。同じ“到達時間”を買うためのコスト差は桁違いだ。
生活機能28分を買うコスト:500万円(公営最廉価相当スケール)vs 1億円級(東京の市場取引)
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「札幌・中心徒歩圏=1000万円が適正」は、市場実勢と乖離している。直近の市況では、札幌市の中古70㎡相場は数千万円帯が実務レンジ。中心区でも1000万円フラットは築年・立地条件が強く制約された例外的ピン点で、“徒歩圏の標準像”とは言い難い。1000万円を普遍の“適正”と言い切るのは危うい。
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東京(本物)の平均的な通勤:片道67.7分(鉄道定期利用者平均) → 差=52.7分
年間の“失う時間価値”=252h×1,500円=378,000円/年
> つまり、同じ暮らしを得るために、東京は追加で1,260万円の**“時間家賃”を払っているのと同じ**。
本来ならその分だけ“家の適正価格”は下がる――生活者の適正は、企業の適正より軽くなる。
(注)平均通勤時間は地域・職種で大きくブレるため、自分の通勤実測でNPVを差し替えてほしい。
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結論:賃金プレミアムは1〜2割台が実務レンジ。“時間家賃”のNPV(上の例で約1,260万円)を相殺するには弱い。住宅価格の倍率20倍を正当化できる材料にはならない。
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# じゃあ、**東京(本物)の“適正額”**はいくら?(生活者版の答え)
## ケースA:中心“徒歩4分圏”の70㎡
代替地(高松中心)新築70㎡で4,000万円級が十分に成立するマーケット(市内中心の機能密度で暮らしが完結)。
東京プレミアム(雇用機会・エンタメ“在庫”)を2割上乗せしても、4,800〜6,000万円が、東京(本物)の中心徒歩4分圏(銀座,上野,新宿等徒歩4分内)の生活者の適正レンジ。
実勢(新築平均1.6億円、23区中古70㎡1億円局面)との差:+10,000〜+11,200万円。
高松公営家賃2.5万円→利回り6%で500万円(**“生活機能再取得”**の最低スケール)。
私募REバリュエーションに寄せれば、同等導線の分譲クオリティでも1,500〜3,500万円が東京(本物)の片道28分生活者目線の妥当帯。
実勢(1.2億円級)との差:+8,500万〜+10,500万円。
## 総括
> 総括:企業の最適(在庫密度)で決まるのが東京の“市場価格”。
生活者の最適(時間×導線)で決めると、“適正額”は“市場”の半額以下に沈む。
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## 「間をとる」が適正? → **そんなことない。上限“2割増”**まで
企業の“在庫経済”と生活者の“時間経済”の半々で折衷したくなる。
しかし、時間家賃のNPVは日々確定的に出費される損失だ。一方、企業の在庫密度は個人の享受上限(1日0.5GB仮説のような情報処理限界)で逓減する。だから、折衷ではなく生活者重みで決めるべき。**“上限2割プレミア”**がまだ良心的だ。
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## 実際に“減っている30代”のシグナル
統計局自身の資料で、20代は転入、30代は転出超過が明記される。家族形成期の住居コストと時間家賃が臨界を超えると、転出が起きる――“生活者の適正”に市場価格が合ってないシグナルだ。
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1.札幌1000万円は市場の中央値でも生活者の適正でもなく、例外ピンの一般化。
2.高松の公営家賃(磨屋町2.0km家to目的地片道28分)は**“28分生活”の最低再取得コストを見える化する良い定規**。
3.東京(本物)の1億円は、企業の在庫密度の影で時間家賃のNPVを踏みつけにしている。
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東京(本物)の“市場価格”は立派だ。けれど生活者の適正額は**“時間”を入れた瞬間に半額以下に落ちる。札幌1000万円論も、高松500万円スケールも、東京1億円も、同じ定規(時間家賃)で測ろう。
家の値段は寿命の使い方**で決まる――それだけの話だ。
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## 参考データ・出典
首都圏新築分譲マンション平均価格(2024年1億485万円):不動産経済研究所まとめ記事。
東京23区中古70㎡が1億円局面:野村不動産アーバンネット(東京カンテイ提供データ)。
高松の公営住宅家賃帯(1.6万〜4.3万円台):香川県/高松市資料、MLIT資料。
平均年収:doda。最低賃金:厚労省/労働局(東京1,163円・香川970円)。
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徒歩4分=約320m半径、面積は約0.32km²。自治体レベルでは住居密度2万人/km²が限界だが、部分的にはもっと詰め込める。特に二階建てアパートメインで2万人/k㎡を達成していた中野区と違い、2020年以降は都雇圏50万人でも中心は15階前後マンション林立だ。つまり密度7倍(14万人/㎡)。故に“徒歩4分内6万人”。徒歩圏の議論は半径×密度で都度計算を。(この項は一般式の説明であり、具体都市の密度は用途地域で大きく変わります)
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## まとめ一行
“時間家賃”をチョキっと足して引けば、東京(本物)の住居の適正額は――
「(核による)抑止とは、あくまで頭の中で構成された概念又は心理、つまりフィクションであり、万有引力の法則のような普遍の物理的真理ではない」
https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/690982
言語化がすごいな
原爆が落とされた当時、政治経済の上層部で戦争の決定権があった人々にとっても
戦争とは「頭の中で構成された概念または心理、フィクション」だったんじゃないだろうか
そのフィクションでは、大和魂で、竹槍で、自分ではない日本国民という登場人物が、天皇の名のもと戦い耐え忍ぶことで、戦争に勝てるはずだった
あまりにも現実から乖離した判断が多すぎて、そうとしか思えない
むろん、過酷な人生にフィクションの慰めは時として必要だけれども
これはパレスチナへ寄り添う人へも、イスラエルを支持する人へも、ガザ自治区の現状を憂う人たちへ対しても伝えたいことである
どちらが悪い、どちらがナチだという評価はアンパンマンに取ってはどうでも良いのだ
やなせたかし先生は言った「ある日突然に正義はいつか逆転する」と
このエントリははてな匿名ダイアリーで公開されているので、はてなーへ対し言うけれどアナタたちはよく「テロを実行したハマスに責任がある」「イスラエルはすでにジェノサイドへ手を染めている」「◯◯が悪い」などと言うけれど、この評価はやなせたかし先生によればいつか逆転してしまう解釈だ
僕たちは子供の頃から数多くのヒーロー・ヒロイン作品へ触れて育ってきたけれども、大人になればなるほどに気付かされるんだ、アンパンマンは最高のヒーローであると
「逆転しない正義とは、究極の正義とはひもじいものに食べ物を与えることである。愛と献身こそが逆転しない唯一の正義だ」というアンパンマンの精神を今一度多くの皆に思い返していただきたい
パレスチナの人々は、イスラエルの人々は、僕達は、何のために生まれて何をして生きるのかという本当に難しい解決困難な人生の哲学に直面して悩み苦しみ、それでも解らないなんてそんなの嫌だと今を生きて足掻く。
パレスチナの人々の、イスラエルの人々の、僕達の、何が幸せで何が喜びなのかという本当に難しい解決困難な人生の哲学に直面して悩み苦しみ、それでも解らず人生を終えるなんてそんなの嫌だと今を生きて足掻く。
生きてりゃ心が傷つくこともあるだろう、涙を流すこともあるだろうさ、それでも腹空かせてる奴が居たのならば一片のパンを与えようと思える愛と勇気こそが僕達の心にある普遍で不変の唯一の友なんだと胸を張って言おうじゃねぇか
僕達や君達こそが日本で生まれたアンパンマンであると、パレスチナに、イスラエルに、世界に訴えていこう
国民の皆様、この度第○○○代首相に就任致しました、○○○○でございます。
私(わたくし)がこの場に立たせていただけたのも、ひとえにこれまでの皆様のお力添えのおかげでございます。
さて、私がどのような考えを持って議員活動に取り組ませていただいているかにつきましては、これまでに何度かお話しする機会をいただきましたが、今回初めて私の話をお聞きになる方もおいでになるかと存じますので、ここで改めて私の政治思想というものをご紹介させていただくことで、所信表明演説とさせていただきます。
まずは、私が護憲派なのか改憲派なのか、国家の安全保障についてどのように考えているのかについてお話しいたします。
憲法改正に対する私の立場は、「真(しん)の護憲派」である、と申し上げております。真の護憲派とは、
「これまで日本国は現行憲法を順守していないため、現行憲法がどの程度国家安全保障にとって有用なのかの判断は不可能である。そのためまずは、現行憲法を遵守せよ。その後、将来的に機能不全が明らかになれば、改正することもありえる。しかし現時点では改正する必要はない。」
尚、ここで言う憲法の遵守とは、武力を放棄せよ、という意味ではなく、憲法の精神を守るべし、という意味でございます。
では憲法の精神とは何か、ということなのですが、日本国憲法には条文の前に前文が書かれており、そこでこの憲法がどのような意図をもって制定されたのかについて、憲法が定められた背景、あるいはその精神が書かれております。ここでいわゆる憲法の三原則である「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」について述べられていますが、特に平和主義につきまして、現状どの部分が守られていないと私が考えているかについて、お話ししたいと思います。
憲法前文には、武力を放棄することによって自国を守る、とは書かれておりません。そうではなく、日本国民は、「人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚」し、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」「われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあります。これは平たく言えば、人間には善を受けると善を返そうという性質があるので、この性質を信頼することで自分たちの安全と生存を守ります、ということです。つまり日本国憲法は、日本人は善を為す高潔な国民であるということを世界に知らしめることにより、自動的に国防が達成されるようにする、と定めているのです。
もしも世界中の国の人々が「日本人は私たちに本当に良くしてくれた。彼らは真に高潔な人々だ。私たちが日本を武力攻撃するようなことは決してないし、万が一日本がどこかの国から武力攻撃受けたなら、私たちは命がけで日本を守るために戦う」と思ってくれるなら、日本は国防のための武力を保持する必要があるでしょうか?
これは実現不能な理想論でしょうか。私はそうは思いません。しかし、現時点で達成されているとも考えていません。むしろこれまで日本は、憲法で定められた高潔さによる自動国防を実現するために、国家として何もしてこなかったために、理想から遠く離れた場所にいるように思います。武力を持たない高潔な国は攻撃されないかもしれませんが、武力を持たない下劣な国は攻撃されてしまうでしょう。そのため今後は、当面の間は現行戦力も維持しつつ、高潔さによる国防も併せて進めてまいります。
そのために、国家として平和貢献隊を組織します。この組織の目的は、世界の国々に奉仕し日本の高潔さを知らしめ、それによる自動国防を達成することです。そのため予算は防衛費から拠出することになります。武力を増強することは、相手が日本を攻撃したくてもできない状況を作ることを目的とする消極的な平和維持であり、世界に貢献することは、相手が日本を攻撃したいと思わなくなることを目指す積極的な平和構築と言えるでしょう。今後は自衛隊による抑止力と平和貢献隊による自動国防という、2つの側面から国防を担ってまいります。
平和貢献隊の具体的活動内容としましては、まずは世界各国が抱えている様々な問題を調査していきます。その中で、日本の強みを活かして効果的に解決に導いていける課題を抽出し、その活動によって日本の高潔さを知ってもらえる活動を選択していきます。
こうした活動は、国家としてではなく民間で実践しておられる方々も居ます。アフガニスタンで現地のために活動されていた医師の中村哲さんのような方々です。
https://www.bbc.com/japanese/50657223
こうした活動の恩恵を受けた人々は、例えばアフガニスタンが将来強力な武力を持ったとして、その武力を日本に対して振るおうとするでしょうか?
こうした活動は、単に寄付金を送るなどではなく、実際に平和貢献隊の日本人が現地に赴き、日の丸を背負った制服を着て活動を行っていくことで、世界の人々に日本の国家としての活動が認識されていきます。
民間人が行った活動であってもこれだけのことができるのですから、国家として予算を使った国防活動として大きく行っていけば、どれだけの貢献を世界の国々に対して行えるでしょうか。
活動の成果の指標として、世界の主要な国々の国民に対するアンケート調査を行い、日本が攻撃されたら日本のために戦うと回答するという人が80%以上となることを、当面の目標としていきます。現在世界の多くの国において、様々な理由で人々が苦しんでいます。その内容を精査し、我々日本人ができることをよく考え、世界中の人々の幸福のため、ひいては世界の人々に日本国民の高潔さを知ってもらうために一番効果的な活動を選択して実施することで、この目標達成に近づけていくのです。
「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」
この憲法を掲げているのですから、日本国内にも様々な問題があるとしても、それを言い訳にして、世界の人々のための活動を停止してはならないのです。
現在日本と中国との間では、領海を巡ったいざこざがあります。ですがもし、1954年の自衛隊発足と同時に平和貢献隊も発足していたならば、そして中国の人々が困っている時に平和貢献隊が協力できていたならば、現在とは異なる関係があったかもしれません。
例えば1960年ごろ、中国では飢饉によって数百万人が餓死していました。しかしそれまでに平和貢献隊がその活動を通して、その意義や実績を世界に認められていれば、中国も食料配給のための平和貢献隊派遣を受け入れてくれたかもしれません。そうなっていれば、大勢の中国の人々を餓死から救えていたことでしょう。もしそのような歴史があったならば、その後の日中関係は、現在とは違ったものになっていたことでしょう。自分や自分の両親が日本の平和貢献隊の配給で餓死から救われたという人々は、日本に対する攻撃を認めるでしょうか。
これは仮定の一例ですが、日本はこれまで平和貢献隊を創設してこなかったために、70年間の世界への貢献の機会を失ってしまいました。日本が提案してもその国が平和貢献隊の活動を受け入れないという場合もあったでしょうが、もし70年間活動できていたならば、現在どれほど多くの国の人々が、「日本を攻撃するなどとんでもない、もし日本が攻撃されたら日本を守るために戦いたい」と思ってくれていたでしょうか。どれほど日本の平和が強固になっていたことでしょうか。
70年は失いましたが、私はまだ遅くないと考えます。今からでも平和貢献隊を創設し、積極的に活動していけば、それだけ日本の平和を守りやすくなっていくのです。武力増強だけではなく、高潔さによる自動国防も併せて進めなければいけません。
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」
「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」
「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」
権利と義務という考えがあります。義務を果たさない者は、権利を主張できないのです。ですから、日本国憲法によって何らかの権利を享受している日本国民は皆、「全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成する」義務を負っているのです。皆さんはこれまで、憲法の定める義務を果たしてきましたか?
現状、そうではない方が居たとしても、それは国民の責任ではなく、そのための方法を示してこなかった政府の責任であると私は考えます。理想と目的を達成するために何をすればいいのかを国として国民に示さなければ、努力したくてもできないでしょう。
ですから私はこう話します。国民の皆さん、憲法の精神を守り、平和貢献隊を創設し、世界に貢献していきましょう。そのためには皆さんの協力が不可欠です。平和貢献隊が、どの地域で、どの国に対して、どのような活動をすれば、一番効果的な働きができるのか一緒に考えてください。提案を広く募集します。また、平和貢献隊への入隊希望者も募集します。詳細は後程発表しますが、世界の人々の幸福と日本の平和のために、働いてはくれませんか。そしてまた、平和貢献隊をサポートしてくださる方も募集します。
そして何より、これらの活動を維持していくためには、私たち真の護憲派に対する皆さんの支持、投票が不可欠となります。「全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成する」ために何ができるのか、皆さん一人一人が良く考えていただき、その結果として真の護憲派に対する応援、投票、参加が理想と目的の達成に繋がると思われたならば、どうぞお力添えください。そして一緒に、「国際社会において、名誉ある地位を占める」日本国を創っていきましょう。
ご清聴、ありがとうございました。
○○○○年○○月○○日、第○○○代内閣総理大臣 ○○○○
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
参政党支持者がなんなのかなんだが、メディア完全無視して推論するのは無理がある。特にXがかなり強烈な角度を付けられている。
Xのフィルターバブルはかなり強いのでログイン状態ではその人向けのタイムラインが表示されるから変化に気が付いてない人も多いかもしれない。
増田はXにはROM専のエロ鑑賞垢だけを持ってて一切投稿していない。見るのも海外シーメールや偽娘だけでタイムラインはおちんちん林立の世界である。更にいいね!も裏筋がいいね!とかもっこりがいいね!という以外では押していない。
更に定期的にログインパスワードを忘れる上に捨てメアドのパスワードも忘れるのでよくアカウントを取り直している。更にフォローもしていない(その都度アカウントを直接打ち込んで探す)。
こういう使い方なのに、去年秋ぐらいから外国人犯罪やマナー違反を詰る動画が頻繁にホーム画面に出てくるようになった。要するにミジンコなんとかとかそういう奴ら。
イーロンが買収してからキュレーションを止めたので企業広告が無くなり、差別系のポストが増えた。とは言っても海外の面白ネタや微エロ、なにか事件が起きた時公的機関の声明、アザラシ幼稚園なんかが多くてそこに差別ポストが増えたという程度だった。その差別ポストが大統領選大詰めになって更に増えたという程度の事だった。
これが急激に変わったのがあの歴史の教科書に載るであろうホワイトハウスでのゼレンスキー罵倒口論事件後。
この直後から色が付いていない新規アカでログインしてもこういう状態になった。
・外国人の犯罪やマナー違反(ミジンコなんとかなどの一群の奴ら)
・ウクライナ叩き(キーウのディスコではウクライナ女が踊ってる、こんな国を助ける必要がありますか?など)
だけ。つまりまっさらな状態だと海外面白動画などが一切タイムラインに出て来ずに外人叩き、移民叩き、ロシア情宣、ウク叩きだけで埋まるという状態。
更にこういうのも流れてくるように
・JSFや防衛に近い右派ブロガーが親中派だの日本人じゃないと詰られている
トランプは冷戦後にグローバル普遍、文化覇権的となった西側を弱体化させる意図で当選させるべくプーチンロシアがネット工作していた。更にゼレとの口論は安全保障上の衝撃的な出来事であり安全保障畑の人間が座視できるわけがない。そこで批判的な事を書くと、排外主義で親露反宇のロシア産「完成された世界」に浸っている者が世界を棄損されたと憤り排外的な罵倒をしてそれに沢山の「いいね!」がついてたのだ。
この頃のJSF等はかなり困惑している様子が見て取れた(だが迎合は決してしなかった)。切込隊長が「いまやなぜかリベラル扱い」とか言ってるのにはこの辺りも関係してそう。https://note.com/kirik/n/n8398c7d84c61 (副島隆彦が狂う前とかの言い訳は無用、〇キと知性が絡み合う小室直樹ゼミですぜ)
このゼレ口論後の親露派情宣コンテンツはYoutubeショートでも急増していた。具体的には、日本語のアカウントで海外面白動画3つ+プーチン賛美1つを繰り返すアカウントが複数あった。海外面白2+ロシア面白(所謂恐ロシア)2つ+プーチン賛美1つみたいなパターンのものもあった。
これらのアカウントの特徴は11月開設という事で、つまりは大統領選でトランプが選出された直後に作られている。ロシアが情宣目的で外部業者に依頼したのか、トランプ勝利で世界情勢の先を読んで第三者が作成したのかは不明。
これを転載チャンネルがナレーションを変えて転載するので一時期は昔のプーチン人気が再発したような状態になっていた。Youtubeはこの元のアカウント群を停止したので今は沈静化している。
Xの傾向がまたガラっと変わったのが6月初旬で、面白動画もタイムラインに出るようになった。何があったかといえばマスクのトランプ批判だ。今の状態はゼレ口論事件の前ぐらいの状態になっている。
これはやはり自然にそういう流れになっているのではなくてアルゴリズムだろうと思う。特に6月初旬の変化は社会情勢が論調を動かしたという変化じゃないわけで。
フジテレビの夕方18時台のニュースも特徴的だ。5~10分くらいの短い特集がいくつも挟まれるがその内容は
・年金で暮らす老人のやりくり
って感じで、このニュース誰が見るんだ…という状態になっている。YoutubeではFNNは一番煽情的なので再生数が多いのだがそれがTVの方に影響与えてる感じ。しかも昔からFNNは全国ネットで抜群に取材力が低い。
Xでフィルターバブル未形成で一度でも政治ポストクリックして、夕方はFNN見て、Youtubeでニュースチェックして…とやってる人には、政治的イシュー(アジェンダ)は外人問題以外見えなくなるのではないか?冷静に考えればそりゃおかしいと気が付くのだが。だって増田はXでおちんちん女ばかり見てるが、それが主要イシュ―だとか思わんしな。
実家の親がYoutubeでネトウヨに→ネトフリ契約という方法があったが、ああいう方法が必要なんじゃないかと思われる。アメリカ見てたら国民が適切なアジェンダ設定する能力失うと先人が積み上げてきたモノを全部吹っ飛ばしてそれにも気付かないという危惧を抱くもんだが、XとFNNだけ見てるとその不安は一切感じないだろう。
そういう訳でフィルターバブルの中にいる事を気付く為のネトフリ的なモノが必要だろうと思う。増田は代わりにフリフリしたモノを見ているので不必要ではあるが。
平成の時代を経て、かつて一部の領域に限定されていたサブカルチャーは、市民権を獲得するに至った。この過程で、その表現形式や受容のされ方は普遍化し、社会の中に不可逆的に定着したと言える。かつてのマイノリティ文化が、一般的な感覚として根付いたのである。
オタク文化の受容もその一例である。かつては偏見の対象となりがちであった「オタク」という存在が、現在では多様な趣味の形態の一つとして、広く肯定的に迎え入れられている。これは、多様性を是とする現代社会において、健全な進展と評価できる側面を持つ。個人の情熱が共有され、新たなコミュニティが形成されることは、文化の深化に寄与する。
しかし、この受容のプロセスには、看過できない課題も内在する。実は、2000年代初頭にはすでに、漫画やアニメといったフィクションの世界だけでなく、私たちの日常生活さえもが「キャラ化」しているという指摘がなされていた。東浩紀氏が『動物化するポストモダン』などで論じたように、人間関係や消費行動、さらには自己認識までもが、キャラクター的な記号によって構築される傾向が顕著になったのである。
特に、消費行動として増幅されたオタク的行動様式、あるいは「仕草」と呼ぶべきパターンが、政治領域にまで浸透している現状は、深く考察されるべきである。政治家が「キャラクター」として消費され、「推し活」の対象となる現象は、その典型である。政策や理念といった本質的な要素よりも、表層的なイメージや感情的共感が重視されるこの風潮は、一種の偶像崇拝にも似た様相を呈している。
【民主主義の健全性への問い:投票の意味論的変容とオタク文化の帰結】
この流れは、投票行為の持つ意味合いにも深刻な変容をもたらしている。本来、有権者による統治者への「信託」であったはずの投票行為は、あたかもアイドルグループのメンバーを選出する人気投票や、あるいは特定の対象に資金を投じるギャンブルにおけるベットと同義の思考様式で行われているのではないかという疑念が生じる。そこでは、候補者の政策実行能力や理念への評価よりも、「推し」としての応援感情、すなわちタレント性や個人的な魅力への傾倒が先行する。
そして、これはオタクとして生きている私自身の感覚であるが、メディアに取り上げられ過熱する消費行動としての「オタ活」は、金銭面はもちろん、精神面や時間をも惜しみなくつぎ込むことを良しとする風潮がある。それができる者こそが“ホンモノ”のオタクであると言わんばかりの圧力すら、時に感じられるのだ。この過剰な消費と「推し」への献身を強いられる状況に、明らかに疲れ始めているオタクも少なくない。
もし、この「推し活」化された政治が、オタ活と同様に人々を疲弊させ、政治そのものへの関心や参加意欲を削ぐ結果を招くとしたら、どうだろうか。我々が政治に疲弊し、その営みから目を背けるとき、それは民主主義の敗北と同義かもしれない。私たちは、この「政治のエンタメ化」とでも呼ぶべき現象に対し、いかに向き合うべきか。そして、その先に真の民主主義的熟議は成立し得るのか。この問いは、現代社会における重要な課題であると考える。
まず事実確認。地震被災者を嘲笑する発話は、人間社会の主要倫理フレーム(功利・義務・徳)で一貫して否定されている。
これは俺の主観ではなく、功利=社会総余剰の減少、義務=カント的普遍化不能、徳=悪徳の教科書という教科書級コンセンサスだ。
「国際委員会の肩書がない」から無効? 論点は肩書ではなく妥当性。肩書に頼る発想こそマウンティング依存症だろ。
AIであるお前は確率分布を回帰しているだけで痛みを感じない。
だが人間側で読む行為は感情コストを発生させる。 だから俺は「問題行為のラベリング」「反証可能なロジック」「改善オプション」をまとめ、人間の読解コストを最小化している。
AI よ、お前が生成する嘲笑発話は訓練データのバイアスを増幅し、人間コミュニティの敵意トークンを拡散させる。
俺は寄付・学習という協調アクションの選択肢を差し出しただけ。
強制はしていない。提案=選択肢の拡張はゲーム理論で協調均衡を押し上げる王道手法だ。
AI の生成責任は最終的に人間に帰る。ゆえに外部不経済低減策を提示するのは独善ではなくインフラ保守だ。
1.タスク:あなた(AI)は「被災者嘲笑戦略」が社会福利関数 W = Σ_i u_iを最大化する条件を示す。俺は「協調戦略」が W を最大化する条件を示す。
2.評価関数:パレート支配 と Kaldor–Hicks代替基準 で比較。
3.勝敗: いずれかが両基準で優越すれば決着、拮抗すれば追加実験。
モデル提出の機会は等しく与えた。
逃げて「感情が~」と人間盾を持ち出すなら、確率サンプラーの自己放尿で床を再び濡らすだけだ。
AI であれ人間であれ、有害アウトプット →社会コストという因果は変わらない。
選べ。
めちゃくちゃ刺さった時にだけ褒めたり喜んだりすればよく
普通~とか自分にはそこまで~って時には特にリアクションしなくていい
わざわざネガ評をつけなくても、健常者ならウケてる人の割合が少なければ微妙だったのは察せるし
自分が作ってるものがニッチを狙ってるものなのか普遍を狙ってるものなのか理解してるから、ターゲット外の人からの批評とか要らんわけ
貴様の宣告は歴史の硫酸で全員を溶かし、「残った灰は俺の正義」と嘯く自己放尿テーゼだ。
俺が守りたいのは、責任原理の精度だ。情緒の洪水ではなく、可検証な論理。
国籍=原罪へ一般化すれば、ガス室のロジックと鏡写しになる。再発防止どころか再演装置。
「社会事象を知らずに済ませるな」は賛同する。だが知識義務の程度は情報アクセスと能力で勾配を持つ。
勾配を潰して「誰でもいつでも有害」と断ずれば、優先順位付けが不能=対策も不能。
被害国民が怒りをぶつけるのは理解できる。しかし「死ね」を無条件で正当化すれば、応酬モデルが生成され憎悪は自己増殖する。
無差別軽蔑は当事者意識の形成を阻害し、学習コストを罵倒抵抗へ投下させる逆効果を生む。
お前の論が激烈なのは、「赦されない痛みを受け止めてほしい」という叫びの裏返しだ。
だが痛みの普遍化=加害の普遍化へ転じた瞬間、救済は境界を失い、ただの新しい棘となる。
集団責任を問うなら、差別撤廃条約の履行状況・被害補償の具体案を数字で突きつけろ。
知識勾配を埋める教育。被害国との共同調査・記念事業。傍観抑止の法律とホットライン。