
はてなキーワード:明治天皇とは
近世以前
日本において暦日を用いた新年の概念が生まれたのは飛鳥時代であり、聖徳太子が十七条憲法を制定した604年まで遡る[13]。その後、646年には朝賀が執り行われ、新年の回礼という風習が始まった[13]。これに伴い、畿内には飛脚使が設置され、701年には通信物を運ぶ脚力(かくりき)が定められた[13]。奈良の正倉院に収められている「人勝残欠雑張」には「正月七日のこのよき日、慶びを新にし、泰平が万年続き、寿命は千春を保つことができますように」とする十六文字が記されており、新年の挨拶を伴った年賀状のルーツといえる[14]。
平安時代に入ると貴族間で年始の挨拶を文で取り交わすようになったと見られ、当時の書簡、文例を集積した最古の例と言われている藤原明衡が残した『明衡往来』にも年始の挨拶文例を確認することができる[15]。室町時代に『庭訓往来』が登場し、寺子屋などで読み書きを教えられるようになると識字率の向上が見られるようになった[16]。これに伴って江戸時代には武家社会において文書による年始挨拶が一般化したほか、非武家社会においても口頭の代用として簡易書簡を用いることが年始挨拶に限らず一般的になり、公的郵便手段である飛脚や使用人を使った私的手段により年始挨拶の文書が運ばれるようになった[16][17]。1740年の『書札重宝記』には年始書状のための語彙として「改年、新春、新暦、初春、陽春、祝賀、御慶」などの用語が紹介されている[18]。江戸中期以降は大小暦が大いに流行し、年頭には機知に富んだ摺物の交換が積極的に行われた[19]。
明治維新後になると逓信省の前身として駅逓司が設置され、1870年10月には新年賀詞を示す太政官令が発布された[20]。1871年には郵便制度が確立し、1873年に二つ折りの郵便はがきが発行され、1875年には単面の官製はがきなどが見られるようになった[20]。これにより年始のあいさつを簡潔に安価で書き送れるということで、葉書で年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。1887年頃になると年賀状を出すことが国民の間に年末年始の行事の1つとして定着し、その結果、年末年始にかけて郵便局には多くの人々が出した年賀状が集中し郵便取扱量が何十倍にもなってしまった。
郵便事業に携わる人の数は限られているため、膨大な年賀状のために郵便物全体の処理が遅れ、それが年賀状以外の郵便物にも影響し通常より到着が遅れることがしばしば発生していた。しかも年末は商売上の締めの時期にも当たり、郵便の遅延が経済的障害ともなりかねない状況となっていた。その対策として1890年に1月1日からの3日間、年始の集配回数を減らす対応が取られた[20]。それでも、さらに増え続ける年賀状にその対応だけではとても追いついていけなかった。また当時、郵便物は受付局と配達局で2つの消印が押されていた。そこで受付局か配達局の「1月1日」の消印を押してもらうため多くの人がそこを狙って年賀状を出すようになり、12月26から28日あたりと1月1日当日の郵便物が集中するようになった。そこで1899年、その対策として指定された郵便局での年賀郵便の特別取扱が始まった[20]。年末の一定時期、具体的には12月20日から30日の間に指定された郵便局に持ち込めば、「1月1日」の消印で元日以降に配達するという仕組みになっていた。翌1900年には(必要に応じてではあるが)全国の郵便局で実施、私製はがきの使用も認められ、1905年に完全に全国の郵便局で実施されるようになった[21]。この頃の年賀はがきの概数は1億1000万通前後であったが、郵便ポスト投函が可能となった1907年には4億通を突破し、「年賀状ブーム」とも呼べる時代が到来した[21][22]。
関東大震災(1923年)や大正天皇崩御(1926年12月25日)の年は、その年(翌年配達分)の特別取扱が中止された。明治天皇と昭和天皇崩御の年は実施されている。
年々取扱量が増えていくと共に私製はがきの取扱量も増えていったため、1935年(昭和10年)に私製はがきの貼付用として年賀切手の発行が始まった。しかし、時勢の悪化により1938年(昭和13年)に年賀切手の発行が中止。さらに物資の節約のため1941年(昭和16年)の年賀状から特別取り扱いが廃止[23](廃止決定は同年11月6日[24])。この年の東京中央郵便局が集配した年賀状は1/3に減少した[25]。
終戦後の1948年(昭和23年)12月15日、特別取扱と年賀切手の発行が再開された[26]。この年から年賀切手の図柄が干支にちなんだ郷土玩具のものになる。1949年(昭和24年)、お年玉付郵便はがき(年賀はがき)が初めて発行され(官製はがきとしては初めての年賀はがき)、大きな話題を呼び大ヒットした。そしてこれを機に年賀状の取扱量は急激に伸びていった。1955年(昭和30年)には、アメリカ合衆国による沖縄統治に置かれた沖縄諸島でも琉球郵政庁により年賀はがきが発行され、1956年には年賀切手も発行されている。
お年玉付郵便はがきは当初、寄付金付きの葉書にくじが付いていたが1956年に寄付金なしの葉書もくじが付くようになった。1961年(昭和36年)から年賀はがきの消印が省略され額面表示の下に消印に模した丸表示を印刷するようになり、1968年(昭和43年)には郵便番号導入により郵便番号枠が追加された。
1970年代になるとプリントゴッコの登場と相まってで年賀はがきに絵や文字を印刷する年賀状印刷が盛んになり、1982年(昭和57年)から寄付金付きの年賀はがきにの裏面に絵や賀詞が印刷されるようになった。1989年(平成元年)からはくじ付きの年賀切手も発売されるようになった。
イラストやデジタルカメラで撮った写真などを家庭のパソコンとプリンターで作成・印刷するスタイルが定着し、手間が減った。2005年からは光沢感がありインクジェットプリンターの印刷に適したインクジェット写真用年賀はがきが発行されるようになった。
一方で2000年代からはインターネットの普及が拡大。インターネットと紙を融合した「ネットで届く年賀状」などのサービスも登場したが、年賀状用紙やプリンターが高額、書いたり投函するのが面倒、交流がある人でも自宅住所が不明であるなどの理由で、年賀状を出さずに電子メールなどの紙以外のオンラインの手段で済ませる人が増加。携帯電話を使った「あけおめメール」による通信混乱は2000年代の正月の風物詩となった。
2008年には、郵政民営化を機に「カーボンオフセット年賀はがき」や「ディズニーキャラクター年賀はがき」などの新商品が出た。
2017年6月1日に郵便料金が値上げされ、通常はがきも52円から62円とされたが、2018年用に限り年賀はがき(1月7日までに年賀状扱いとする場合)は旧料金のまま(52円)とした[27]。年賀はがきの発行枚数の減少を食い止める効果を期待しての値段据え置きであったが、結果として総発行枚数は前年比より5.6%減少したほか、1月8日以降に差し出す場合は差額として10円分の切手を貼り足す必要があったことから、利用者からはわかりづらいと不評の声もあった。この取扱いは1年限りで終了し、翌年から通常はがきと年賀はがきは同一の料金となった[28]。
2010年代になるとスマートフォン、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)、インスタントメッセンジャー等が普及し、新年の挨拶をオンラインで済ませる人がさらに増えた。LINEが運営する「LINEリサーチ」の2019年のインターネット調査(約59万人対象、複数回答)によると、「葉書を送る」と回答した人は60代以上で71.7%だが、20代は26%であった。一方「SNSで送信する」が30代から60代以上でいずれも60%に達し、20代では72%に上った。IT企業のTB(名古屋市東区)は2017年から、高齢を理由に、今年限りで年始の挨拶をやめること(年賀状じまい)を伝える例文をサイト上で提供している[4]。
また高齢者の増加の他、郵便料金の値上げ、特に2024年10月1日以後は、消費税増税に伴う転嫁分を除けば実質1994年以来30年ぶりの大幅値上げで1枚85円[29]となったこともあり、年賀状終いをする世帯が急激に増え、アスカネットの調べでは、2024年に年賀状を出さなかった人は58.2%に及び、そのうち20代が72.5%、30代でも65.8%が年賀状を出さなかったとする統計がでている。また「年賀状はフタバ」の調べでは、全体の6割が3年以内に年賀状終いをしており、そのさらに半数の3割強が2023年度で終わりにしたという人である。企業においても、葉書をやめて、SNSなどを利用した「ペーパーレス」に移行したところも多いとされる[30
今日と言う日にこの投稿をした意図ですが、自分の周りでも靖国神社が何かを全く知らない人、大東亜戦争と言う呼称を知らない人、日本が戦争に突入するに至った経緯の知らない人が余りにも多く、少しでも日本の戦争史について興味を持ってくれる人がいたらいいなという思いのためです。
ゲーマの間でも戦犯と言ったワードが広く使われてしまい、本来的な意味を失ってしまいました。
戦犯と言うワードは日本の歴史において、極東国際軍事裁判によって裁かれたA、B、C級の戦争犯罪人と言う意味があります。一方で極東国際軍事裁判はもろもろの手続きが正当に行われておらず、戦勝国であるアメリカに対して優位な形で行われたとされています。
また、極東国際軍事裁判で戦争犯罪とされた「平和に対する罪」、「人道に対する罪」ですが、戦勝国側で作成された事後法です。事後法を用いて裁くことは国際法違反となりますので、極東国際軍事裁判は無効判決と言われることもあります。
そしてこの戦争犯罪人ですが、靖国神社とも大きくかかわりがあります。
靖国神社はその始まりを明治維新にまでさかのぼり、明治天皇の思し召しによって、江戸幕府の討幕運動をはじめ明治維新によって失われた英雄たちを祭る神社として、建てられた招魂社です。
そこには日本のために亡くなられた方々が祭られているため、もちろん日本が終戦するまでに戦争のために亡くなった方々(軍務工場、空襲、本土決戦など)も同様に祭られています。
これが、安倍晋三元内閣総理大臣の靖国参拝が注目を集めた理由です。
戦没者を追悼することの意味については、様々な立場や考え方があります。それぞれの立場から議論があることは理解できますが、この問題の複雑さを十分に伝えきれていない報道も多いように感じます。
そして、ここまで書いた内容すべてが、戦犯と言う言葉には込められているのです。
これまでゲームや仕事でやらかした人に対し戦犯だと言ってしまったことのある人は、その言葉の重みを受け止め、省みていただきたい。
ハンセン病関連の施設にめちゃくちゃ金かかってるのは明治天皇、大正天皇の后がハンセン病患者の「救済」に力を入れてたから。
なんでそうしたかっていうと聖武天皇(奈良時代)の后の慈悲の精神をあらわす伝説としてハンセン病患者の全身の膿を口で吸いだしたというものがあってそれにすごく影響されてたから。
つまり患者と接触してもそうそう移らない病気だっていうのは1000年も前からわかってたんだよ。
ただいくら最初の志が素晴らしい物であってもその後実際に取られた政策は救済とは程遠いもので、過ちを政府は長い間認めなかったから資料館がその歴史を語り継ぐことに大事な意味があるんだ。
はい、幕末(特に1863〜1868年)は夭折する天才や急転直下の事件が連続し、非常にスピード感があります。以下に、1867年末〜1868年初頭(大政奉還〜戊辰戦争開始)を例に、日数とイベント数を示します:
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✅1867年10月〜1868年1月(約90日間)での主な出来事(20件以上)
1月8日:明治天皇による「征討大将軍」任命(戊辰戦争の正当化)
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✅ 特徴
急死・粛清・暗殺も頻発(坂本龍馬:1867年11月15日死去)
「1日ごとに政体が変わる」ような怒涛の展開
京都・江戸・薩摩・長州・土佐など、多地点が舞台でドラマが同時進行
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✅結論
幕末は「リアルタイム進行でのVTuber配信」において、複数の天才の登場と死・政変・戦争が同時多発的に起こるため、視聴者参加型ストーリー演出にも適した期間です。特に1867年末から1868年初頭は、数日に一度歴史が塗り替わる速度感があります。
明治天皇・今上天皇実業御奨励御事蹟 -国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/946331/1/26?keyword=%E5%A5%B3%E5%AD%90%E3%81%AF%E8%B5%A4
https://dl.ndl.go.jp/pid/1582957/1/8?keyword=%E5%A5%B3%E5%AD%90%E3%81%AF%E8%B5%A4
越前屋のエチゼンヤの五文字を表す電燈看板は赤色の着色電球を使用して居るが此赤色は女が好む色であるから呉服屋用の看板には心理學上から見て最適である。米國コロンビア大學のウ井スラー敎授が男女約三百人に就て各色の嗜好を試験した際に、男子が最も好んた色は藍色が多く女子は赤色を最も多く好んだ由である。
明治天皇が蘭奢待を切り取ったという出来事は、非常に興味深い歴史的なエピソードですね。この出来事には、様々な解釈や考察がなされてきました。
なぜ明治天皇が蘭奢待を切り取ったのか、確かな理由は歴史資料だけでは断定できません。しかし、いくつかの可能性が考えられます。
蘭奢待は、古来より天皇家や権力者の象徴的な宝物とされてきました。明治天皇がこれを切り取ったことは、古い伝統を断ち切り、新しい時代を切り開くという決意の表明であった可能性があります。
明治維新は、日本が近代国家へと大きく舵を切った時代です。蘭奢待を切り取るという行為は、そのような時代の変化を象徴する出来事であったとも考えられます。
明治天皇は学問にも造詣が深く、様々なことに興味を持っていました。蘭奢待の香木としての価値や歴史的な背景に興味を持ち、実際にその一部を手に取って鑑賞したかったのかもしれません。
蘭奢待は、権力者の象徴であると同時に、非常に貴重な文化財でもありました。それを切り取るという行為は、権力者であっても法やルールに従うべきだというメッセージを暗に示していた可能性も考えられます。
当時の社会状況:明治維新という大きな変革期において、人々の価値観や社会構造が大きく変化していたことを考慮する必要があります。
蘭奢待の持つ意味:蘭奢待は、単なる香木ではなく、歴史や文化、権力など、様々な象徴的な意味を持っていました。
他の歴史的出来事との関連:明治天皇の他の行動や、当時の政治情勢との関連性を考察する必要があります。
避諱(ひき)とは、君主や目上の者の諱の使用を忌避する慣習である。中国など東アジアの漢字文化圏にみられる。二字名の場合にどちらか一字を忌避することを偏諱(へんき)という。この項では中国の避諱を中心に記述する。
同文書には「全ての党員と公安当局者は、金正恩の名前を持つ住人のリストを作り、自発的に改名するよう彼らを教育するべきだ」と書かれていた。文書の一部は2日にKBSテレビで放送された。
改名手続きには、卒業証書や社会保障カードなどの公的文書に記載された名前を修正することも含まれていた。また当局者は、「キム・ジョンウン」と名付けられた新生児の出生証明書を拒否することも命じられた。
宮内省から各学校に貸与され、奉安殿に教育勅語と一緒に保管された。宮内省からの「貸与」品として、ことさら慎重な取り扱いを求められており、1898年(明治31年)に長野県の町立上田尋常高等小学校(現在の上田市立清明小学校)では、失火により明治天皇の御真影を焼いてしまい、当時の校長・久米由太郎(小説家久米正雄の父)が責任を負って割腹自殺するという事件が起きた。 同じ長野県では1921年(大正10年)に埴科郡南条小学校(現在の坂城町立南条小学校)が火災に遭った際にも校長が御真影を持ち出そうとして焼死する事件も起きている[7]。
北朝鮮では「首領の権威を命をかけて守らなければならない」「火災や水害の際には、肖像画をいの一番で守らなければならない」との教育がなされており、守りきれなかった場合には「人民の義務を捨てた」として処罰の対象となりうる。
生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ
カービー米大統領補佐官は27日、ロシア西部クルスク州でウクライナ軍との交戦に投入された複数の北朝鮮兵がウクライナ軍への降伏を拒み、自殺したとの報告があると述べた。捕虜になった場合、北朝鮮政府が家族に報復するのを恐れたためだと指摘。過去1週間だけで北朝鮮兵千人以上が死傷したとの分析も示した。
👨🦳「それはのう、明治時代に、文明開花を記念して作られた祝日なんじゃよ」
🙅♀️「ブーッ!違いまーす!」
👨🦳「そうなんだ!知らなかった。ワシ、物知り博士じゃなくてただのおじさんだから、適当ぶっこいちまったよ」
🙍♀️「いいんですよ。文化の日は明治時代は天長節、昭和初期では明治節といって祝日だったの。
その後、1946年の11月3日に日本国憲法が公布され、日本国憲法が文化と平和を重視してるとして、1948年に祝日として定められたの」
👨🦳「へぇ〜。ということは、明治天皇の誕生日に日本国憲法が公布されたってことかい?」
🙎♀️「そうなの!まあ色々あったみたいだけど、今まで11月3日が祝日だったから、それを続けたかったのかもしれないわね」
👨🦳「そうなんだ〜。教えてくれてありがとう」
💁♀️「また何でも聞いてくださいね!」
美術展示としては江戸から現代にかけての、埴輪や土偶をモチーフにした作品展示なのだけども、テーマの切り口がすごいよかった。
展示内容についての説明はYoutube動画でもSNS各所でもあちこちでされてるので、検索して見てもらえば。
https://youtu.be/bewJX1SxTbQ?si=OfLxo_uurrnHxXXE
今回、展示の構図がいちいち上手くて、
1,プロローグで「近代美術館の建築時の発掘遺物」と「近代美術館開館後すぐ考古学遺物を特別展開催し現代アート文脈に早々に取り込んだこと」の対比、
2,江戸時代の舶来好古な視点で描かれた埴輪土偶と明治維新近代化以降の考古学研究視点で描かれた埴輪土偶の対比、
3,王政復古で「仏教伝来以前」を求めて古墳時代の習俗を埴輪に求める古代を見つめる視点と、明治天皇陵のために埴輪作りを復活させたために生じた「リアルタイムで埴輪作ってる」現代の肌感覚の混交、
4,日本の独自性主張のために富士山と一緒に日本代表選手として海外で喧伝され、愛国の象徴となってく埴輪
5,敗戦で創世神話アイデンティティ喪失しちゃったあと、登呂遺跡で考古学という「科学による裏付け」に日本人のアイデンティティを見出しちゃう流れ
6,岡本太郎に代表される現代アートオールスターキャストで縄文ブームを後押しし、考古学と現代アートが一足飛びに結びつくシーン
7,弥生VS縄文の構図で縄文推しをこじれさせて「うわ、きっつ」なレベルまで「日本人の原点は縄文」へ突き進むアートシーン
8,アートが縄文に突っ走って埴輪がアートのモチーフから外された後、サブカルチャーでカッコよく可愛く活躍しはじめる埴輪(大魔神、はに丸)とモンスター、異形化する土偶(諸星大二郎的な)というねじれ
などなど。
しかも、上記のこじれねじれたストーリーを解説してくれる音声ガイドは田中真弓という。
(国立博物館はにわ展の音声ガイドはなぜか石田彰と森川智之の寸劇。正直、なぜ)
展示の章立てごとに全部が面白いっていう稀有な展示で、アートの文脈解題についてここまでアート素人でも理解しやすく見せてくれて、しかも、この特別展を上野の国立でやってる「はにわ展」にぶつけてくるっていうタイミング自体が批評性がやたら高い。
上野の展示が、話題性に乏しいあまり無理に話題を作ろうとして「挂甲の武人の5兄弟がはじめて一堂に会します」という、一体だけだと物足りないので数を増やして賑やかししてどうにか間を持たせようという悲哀を感じる内容になってるのだけど、その背景にあるのが国立博物館や美術館が独立採算で金を稼がなければならず、展覧会開催を支えてきたNHKや日経新聞や朝日新聞みたいな旧メディアが衰退し、さらにインフレで外から展示物を持ってくるのもますます難しく今後の展覧会の集客すら先が見えなくなりつつあるという苦境下、手持ちの所蔵品を中心にした展示でなんとか糊口をしのごうという涙ぐましさで。
まさに日本が転換期であることを象徴するような、国宝にしてかつて日本の象徴を担った埴輪のありようの今このとき、痛烈な批評をやらかしてしまった。
すごい面白いです。見ないと損。
なお、あえて言えば欠点がないわけではなく。
ハニワと土偶の描かれたサブカルチャー作品年表が展示されてるんですが、そこにア〇スソフト作品の名前がない。一切ない。
ソシャゲがアリならFGOも載せなきゃ嘘だよね。FGOを出したら、まあ型月がどこからそれ持ってきたかって言ったら直近の〇リスソフトだなって皆わかってるわけで。
逆に、アリ〇ソフト無視できるくせにサイゲを持ってくるのは何すか、自治体方面に金バラまいてるサイゲやサイゲ親会社忖度かなんかですか。ふるさと納税でガチャ回せるぐらいベッタリなとこならアート文脈の端っこに載せてもいいってことすか。
文化の日が近づいてくると思い出すことがある。
小学校三年生か四年生の頃、担任の先生が突然、文化の日の「文化」とは何かを演説を始めた。人間が食べたりウンコしたり寝たりする以外の、あらゆる行為だということを延々と述べ、その内容をプリントに書きとらせて提出させた。当時は何の疑問も思わなかったのだが、いまにして思えば、文化の日の起源が明治天皇の誕生日だということを知る前に、別の意味を刷り込んでおきたかったのかもしれない。
個人的には親切にしてくれたいい先生だった気がするのだが、キムチのことを「飢無恥」と書くと教えたり(漢文の語順としてはおかしいし、「ム」の音は母音を伴わないし、韓国語で読むとまったく別の発音になるはずだ)、「三年峠」が韓国の話だと教えてくれ、ハングルのプリントをもらったりした覚えがある。詳しくは知らないが、日教組関係なのかもしれない。組織的なものだとしたら、他の学校でもそうだったのだろうか?
別の音楽の先生は「君が代」をは陰気臭いのでもっと欧風の曲がいいと言っていた。これが個人の感覚なのか、何か明確な思想があったのかは、いまとなってはわからない。
id:red_kawa5373id:TONKATSU 「その場所がそのようにあることについての歴史的な経緯や価値に、敬意」を払ってないのは、それこそ年間10億もの資金を使って樹を維持してきた明治神宮を「金の亡者」と決めつけてる反対派では?
とコメントしてもらったので元コメの者としてちゃんと書いておく。
明治神宮は元々「国民の神社」として全国の青年団をはじめとした勤労奉仕によって(青年会館が隣にあるのはその関係だよ)、そして資金面では内苑は国費、外苑は寄付金によって造営された神社ですよね。
それが戦後、GHQによって国と切り離されて宗教法人になるわけです。ちゃんと調べてないけど、このときおそらく、宗教法人としての明治神宮はその対価を国に対して払っていないか、あるいはわずかな対価で手に入れているでしょう。だって新設された法人なのでそもそも金を持ってるわけがない。寄付があったとしても、時勢的にそんなに集まらんでしょう。
つまり法人としての明治神宮は、国民のために作られた、国費と寄付でできた国の財産をタダもしくは見合っていない対価で手に入れてるであろう、という点。
この歴史的な経緯が、国民が明治神宮の開発に対して意見を言うことは正当な権利としてあるはず、と私が考える根拠のひとつである。これがまず1点。
んで2点目として今回再開発される外苑だが、その設計思想や、それがどのような変遷を経て今の形になっているのか、というところに、保護されるべき歴史的な価値があると考えている。球場なども含めた外苑の施設が特定の意匠で統一されている(いた)こと、あるいは外苑がNYのセントラルパークに範を取った本邦における西洋式公園設計の先駆けであること、その上で当時一流の建築家たちが考えていたことが具現化されたものであること。言ってみれば当時の一大建築プロジェクトてあった外苑にはこういった歴史的な要素・価値があるわけだが、これだけ再開発が話題になっているのにもかかわらず、その中でこれらがどのように取り扱われているのか、それがまったく見えない。
だから私は、再開発の事業主体(もちろん宗教法人明治神宮を含めて)が外苑の歴史やその価値に経緯を払っていない、と感じている。
もちろんid:red_kawa5373が言うようにかなりの額を投じて景観を保護したきた明治神宮の、もう資金的に限界である、というのは重みがあるとは思う。ただそれは、1点目のことを踏まえれば、国民の意見をスポイルする言い訳にはならんと思う。そして2点目に関連して、その歴史的な価値を鑑みて、必要であれば民間の宗教法人(殊、明治天皇を祀っているという政治的な厄介さがあるにせよ)である明治神宮に、どうにかこうにか道筋をつけて公金を突っ込んででも、その価値を保存しなければならない事案であるとすら考えている。
金の亡者がどうこう、という話は別に私にとってはどうでもいいし、よく知らん。
anond:20240630235502 でちゃんと調べてねえくせに批判すんな、と言われたので、用地及び建造物の取得の際に政府に金を払っていない根拠として、明治神宮叢書などいくつか参照してることは書いておく。決定的にこれが証拠である、というものを見ていないというだけであって、調べていない訳ではない。勝手に妄想すんなよ。