
はてなキーワード:日本語表現とは
最近、「殺す→56す」「死ぬ→4ぬ」みたいな感じに置き換えてるのをネットでよく見かけるんだけどなんともいえない気色悪さを感じる。
これもともとはyoutube側の規制に引っかからないために動画制作側が対策で置き換えてるのが発端らしい。
実際切り抜きとかに多い。
動画投稿してない一般ユーザーが表現を置き換える意味は一切ないんだが、広まってるのがぞわぞわする。
なんでこれが気色悪いのか言語化してみると
しょーもないアフィカス切り抜き周辺で見かける表現だからってのも大いにある。
なにも考えずやってるやつ4なねーかな?
kotobuki_84さんが続きを書きました、整理してくださいhttps://anond.hatelabo.jp/20251126115927
ざっくり言うと、「②」は
でも、それをもって「暇アノン認定」してくる法華狼のロジックはおかしい
って話をしてます。
法華狼ブログ側の指摘はざっくりこうでした:
「どこもガバガバ会計だからColaboだけ特別アウトじゃない」という擁護をしたとき、
これに対して kotobuki_84 は:
「それなら小杉氏も会計ガバガバのダメ野郎で、そんな人の尻馬に乗った自分も雑だったってことだよね。それは分かった」
→自分が“知らずに引用してしまった”のは言い訳にならない、といちおう反省はしている。
ただし、そこで一言、
とも言っていて、「ミスったこと」と「暇アノン扱い」は別だろ、という線引きを主張。
kotobuki_84 が皮肉っぽくまとめると、法華狼側の要求はこんな感じに見えるらしい:
そんな立場に立つのは無理だし、「昭和でも許されんやろ」と拒否している。
さらに、
先鋭化して、内部で疑心暗鬼やってるカルトみたいになってない?
と、今度は逆方向に「Colaboアノン」ラベルを貼り返している。
単なるミス
の両方の読みを許してしまう。
→行政批判や企業批判で、“イカサマを匂わせつつ、ミスに逃げ道を残す”ためにメディアが使い始めたんじゃないか、と邪推している。
そのうえで、
という点は、多くの人が認めている前提じゃない?
と見ていて、そこからは
「要は都の制度や運用が悪い」という方向に収束するのが一番公益的だ、
自分が「Colaboアノン」と呼んでいるのは、むしろその収束を妨げるごく一部の“公共の敵”だ
法華狼側は、
「3団体は事業継続しており、監査でアウトとは見なされなかった。
と書いていた。
kotobuki_84はここもよく分からないとしつつ:
自分の記憶では「都は信用できないので組めない」というColabo側の主張で外れたのでは?
当時の記事をきちんと追っていないので、ここも“雑言及”になってる自覚はある、と一応謝罪している。
つまりこの部分は、
自分もちゃんと把握できてない前提で“モヤモヤ”だけ書いてる、という感じ。
「ジャップの心をへし折るためにヤバイ兵器なのを承知で原爆ぶち込もうぜ!!!みたいな気持ちも分からんわけでは無い」
法華狼側はこれを、
「カスと思っている相手への反応には見えない」と批判していた。
これに対して kotobuki_84 は:
“基本は否定だが、心情として理解できる部分はある” というときに使うのが普通では?
それを「カスと思ってない」とまで言われるのは、さすがに読解としてキツくないか。
と主張している。
②での kotobuki_84 の立場をまとめると:
小杉沙織を“ちゃんとした同業者”扱いで引き合いに出したのは誤りだった、と認める。
「お前は暇アノン」と分類されるのは飛躍だ、と反発。
→ 都の制度・運用の問題に焦点を移すのが公共の利益になると考えている。
それを邪魔する一部の過激な擁護勢力を「Colaboアノン」と呼んでいる。
「気持ちも分からんわけでは無い」は“共感+否定”表現であり、
ざっくり言えば、
「小杉の件を雑に持ち出したのは悪かったと認める。
でもそれをもって、俺を暇アノン陣営に分類してくる法華狼の読みはおかしいし、
無言の帰宅はどのような経緯で死の湾曲表現となったのでしょうか。
ChatGPT:
とても良い質問ですね。「無言の帰宅」という表現が、なぜ「死の婉曲表現(遠回しな言い方)」になったのかについては、言葉の由来や使われ方の変化をたどると理解しやすいです。
■ もともとの意味
「無言の帰宅」は、文字通りには「何も言わずに家に帰ること」です。
たとえば、ケンカをして口をきかずに家に帰る、というような場面にも使えます。
しかし近年(特に2000年代以降)、この言葉はネット掲示板やSNSなどの文脈で「死亡」を婉曲的に表すスラング として使われるようになりました。
たとえば:
敵にやられて無言の帰宅。
→(=キャラクターが死んで帰還した、つまりゲームオーバーになった)
■ 「死」の婉曲表現になった経緯
オンラインゲームやFPSなどで、プレイヤーが倒されることを「帰宅」「ログアウト」と呼ぶ文化が生まれました。
「無言」=死者の静けさ という連想
死者は言葉を発さない、というイメージが、「無言」という言葉に重なります。
「死んだ」と書くと生々しいため、冗談めかして「無言の帰宅」と書くことでトーンを和らげる目的もありました。
→ 同様に「天に召された」「成仏」「お亡くなりになった」なども同系統の婉曲表現です。
■現在の使われ方
つまり、実際の死から比喩的な“敗北・脱落”まで幅広く使われるスラングになっています。
■ まとめ
もしご希望があれば、「無言の帰宅」と同様に“死”を婉曲に表す日本語表現(たとえば「長い眠りにつく」「帰らぬ人になる」など)の一覧も紹介できますが、見てみますか?
英語だとexpandだし展開っていう言い方もあるけど日本で解凍っていうことが多いよな。
むしろ水分が含まれたら解凍後のほうがだいたい体積は減るのでは
(追記)
よなあ。圧縮→アチチだからむしろ解凍してるよな。まあデータはエチチかもしれないけど。
でもそうすると逆によ、逆にだけどさあ、旧ツイッターの場合はどんだけ「凍結」しても「解除」なのが今度は謎だよな。「キューツイッター解凍されたー!」って言ってる人みたことないわ。
(追記)
expandって言わない件、ちょっとAIの野郎にきいてみたわ
| 日本語表現 | 意味・用途 | 英語表現 |
| 圧縮 | データを小さくまとめる | compression |
| 解凍 | 圧縮されたデータを元に戻す | decompression |
| 展開 | 解凍とほぼ同義。特にGUIでよく使われる | extraction / unpacking |
| アーカイブ化 | 複数ファイルを一つにまとめる | archiving |
| 復元 | 元の状態に戻す(バックアップなど) | restore / recovery |
| パック | 圧縮と似ているが、ゲームやソフトで使われることも | packing |
| アンパック | 展開と同義。特定のツールで使われることが多い | unpacking |
そんでexpandは圧縮のソフトでもたまに用いられるけどふつうはもっとUIよりの表現らしい
| 英語表現 | 日本語訳 | 用途・ニュアンス |
| expand afolder | フォルダーを展開する | UI操作で中身を表示する(Windowsなど) |
| expand a section | セクションを展開する | 折りたたまれた情報を表示する(WebやPDFなど) |
| expand a compressed file | 圧縮ファイルを展開する | やや技術的。`extract`や`unzip`の方が一般的 |
| expand memory | メモリを拡張する | 容量や機能を広げる意味での「拡張」 |
| expand code snippet | コードスニペットを展開する | 折りたたまれたコードを表示する(IDEなど) |
inflateは専門よりらしい
| 用語 | 日本語訳 | 用途・ニュアンス |
| inflate | 展開・復元する | zlibやgzipなどのライブラリで、圧縮されたデータを元に戻す処理。 |
| deflate | 圧縮する | inflateの対義語。DEFLATEアルゴリズムとしても知られる。 |
(追記)
文書ファイルをアーカイブ化することを昔は「凍結」と呼んでたんだよ
で、アーカイブ化したファイルを変更するために一旦元に戻す行為を、対義語として「解凍」と呼ぶようになって、そちらがそのまま生き残ったが、圧縮するのが当たり前になってからは「凍結」は「圧縮」に置き換わっていった
・英語圏ではアーカイブ化のタームに「凍結・解凍」の概念は用いないらしい(AIさんより)
・それとは別の流れで、unix系osではfreeze/meltというコマンドがあり、これはアーカイブ化ではなく圧縮・解凍(展開)の機能だったらしい。このコマンドは1980年代中盤に登場し、80年代後半から90年代初頭に人気があったらしい(これは確かっぽい)
ただし、freeze のマニュアルには「所有者やパーミッション、タイムスタンプを保持できるのでアーカイブ用途にも使える」といった記述があり、このあたりから「凍結=保存・保管」というニュアンスで広く捉えられた可能性はあります。
とはいえ、当時も複数ファイルをまとめる作業はtar や cpio の役割で、「凍結」という言葉がアーカイブ全般の俗称だったわけではありません。
・LHAの「凍結・解凍」の由来はアーカイブ化の文脈で用いられていた語の流用か、それともfreeze/meltを意識して採用したのか?(疑問1)
・アーカイブ化の文脈で日本で凍結・解凍の語が使われだしたのはアーカイブの特性からまったく新たに発想されたのか(疑問2)
・そこに(圧縮解凍機能だが)freeze/meltコマンドの影響もあったりしたのか?、その逆もあったのかも?(疑問3)
さらっと調べただけだがなんか深そう!
(追記)
「でもさあ、お前が圧縮してるのって全部オカズばっかだろ?オカズは解凍するから合ってるんだよ」
って返しを思いついたわ。ここにこっそり記すものとする。
Permalink |記事への反応(23) | 05:46
死ぬ→4ぬ
動画周りで広がってるみたいでよく見かける。
切り抜きとかに多い。
これ要はyoutubeの規制に引っかからないために動画制作側が対策で置き換えてるのが発端みたいなんだが、なんともいえない気色悪さを感じる。
理由としては
しょーもないアフィカス切り抜き周辺で見かける表現だからってのも大いにあるわ。
なにも考えずやってるやつ4なねーかな?
人はどこまでみっともなくしつこく駄々こねられるのだろうね。
"猫の甘露煮"という表現の用例は手許にないが、これは文法/表現上の誤りを犯してるのかね?
と、修辞的疑問の形をとるとまたバカが食いつきそうだから明確に言っておくが何の瑕疵もないよ。
言葉の組み合わせは無限であり、ただし慣用句として「こうすべき」という組み合わせや、「これはダメ」という特例があるだけ。
「せんから」を「だいぶ」で強調しようが「ずっと」「もう」で強調しようがごく普通の日本語表現でしかない。「それは禁忌だ!」というならその誰も聞いたことのない特例を探してこい。
当たり前の事実が事実である証明ができなければウソだ!なんていう寝言が通ると思ってんの?ちょっと1たす1は2である証明してみせろよ。
増田はこの14年ほど、海外情勢に強い関心を抱くようになり、毎日ストリーム配信で海外ニュースをチェックすることと、ニュース記事などを乱読することを続けている。(もちろん、新しい単語や表現の勉強も欠かしていない)
その成果あってかなり英語がスムーズに読み、聞き、また喋れるようになって来たのだが、困ったことに、次に上げるような弊害が出てきた。
写真をとる totake a picture を「撮る」に変換する考え方とかが凄くめんどくさいと感じるようになった。音で聞いても文脈で聞き分けられるものに、いちいち違う漢字を当てる意味とは? とどうしても思ってしまう。
「何故ならば」「というのも」みたいに、日本語表現だと持って回ったものとしてあまり多用されないargumentation(理由付け)をいちいちつける癖がついてしまったり、翻訳調の言い回しにどうしてもなってしまう。
英語の場合、「文が切れてないことを示すために抑揚を上げたままにする」というルールがない、あるいはそこまで重視されない。
↑という文を、例えば日本語で
英語の場合、「文が切れてないことを示すために抑揚を上げたままにする」というルールがない。あるいはそこまで重視されない。
しかし、英語では元々、口語でも後付けで whichis など関係代名詞の複文を継ぎ足していくことが出来るような構造をしているため、短文の連続とひとつに連なった複文で、イントネーションをしっかり変えるというルールがない。だから、英語をスムーズに読む訓練をするときは、日本語と逆に、「,」だから音を上げたままにする、「.」だから音を下げる、などのルールに拘らず、「,」でも適当に音を下げてしまう。「.」でも音を上げっぱなしにしてしまうというイントネーションになれる方が良い。そうしないと、ネイティブのニュースリーダーなどのイントネーションで文の切れ目に変な先入観が入って上手く聴き取れない。
これになれてくると、今度は日本語の「、」と「。」のイントネーションのコントロールが難しくなってくる。
書いていても、なんとなく複文の途中で音を切ってしまう感覚で「。」を入れたり、日本語としては読みにくい句読点の使い方が出てきてしまったりする。
増田は学生時代小説など書いていて、「、」「。」の使い方にまで結構拘る方だったのだが、最近はこのせいであんまり日本の小説などの味わいもよくわからない感覚にとらわれ始めている。翻訳で失われるものってどれだけ重要なのか、と考えて自己正当化を図ろうという衝動も起こりさえする。
言語の隔たりって、難しい。
虹の橋を渡る
読み方:にじのはしをわたる
「虹の橋を渡る」とは、ペットの死を意味する婉曲的な表現。愛犬や愛猫を亡くした飼い主により「今日【ペットの名前】が虹の橋を渡りました」といった言い方で用いられることが多い。
「虹の橋を渡る」という表現は、「虹の橋(RainbowBridge)」と題する詩が念頭に置かれている。同詩はペットの死を題材とする散文詩であり、《飼い主に先立って死んだ愛犬や愛猫の魂は、虹の橋を渡って天国へ昇る》という趣旨の叙述がある。
なお、同詩では「ペットの魂は虹の橋を渡らずに飼い主を待っており、飼い主が亡くなった後、魂は再会を果たし、連れ立って虹の橋を渡り、天国へ向かう」と述べられている。ペットが先に単独で「虹の橋を渡る」となると、もともとの詩の内容とは食い違ってしまうが、そこには暗黙の了解がある。おそらくは、原作との齟齬よりも、「天国へ旅立つ」イメージや日本語表現としての自然さが優先されたものと推察される。
ぶっちゃけ増田的にはこれ愚問でしかないんだけど、たぶんみんなタイトルだけ見て完全にこの記事の内容勘違いして想像してると思うんだよね。
この記事は、実はその勘違いがどっから起きてんのかって話です。
夏目漱石の有名な一節「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と、昨今みんな当たり前のように理解したつもりで使ってる「政治的な正しさ」が日本語の乱れによってどんな風に誤って解釈されているか。
まあこの辺でちゃんとしてる人はもう気づいてると思うけど、それは「的な」という便利ないいかげんな日本語表現から来てるよってことを述べる記事でござんす。気づかなかった君こそ読もう。
「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」って言葉は、国語の授業で「こころ」を読んだ中高生はたいてい知ってる。
ときには授業のあとにクラスで、冗談めかして馬鹿だ馬鹿だと言い合う遊びが流行ったりしただろう。
でもその意味を本当には理解できているのか? 「精神的に向上心のないもの」とは何だ? 「精神的にでなく向上心のないもの」とは何が違うんだ?
この言葉は作中で計二回用いられている。一度めはKが何気ない場面で「私(若き日の先生)」にかけた言葉。そして二度めは、それを反復して「私」がKにやり返した言葉だ。
最初の場面にはただこう書かれている。
つまりKにとって「精神的に向上心のないもの」とは、ただ「日蓮の事について取り合わなかったもの」のことなのだ。
次の場面には、これをもうちょっと細かく解説した文がつけられている。
Kは昔から精進という言葉が好きでした。私はその言葉の中に、禁欲という意味も籠っているのだろうと解釈していました。しかし後で実際を聞いて見ると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なのですから、摂欲や禁欲は無論、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨害になるのです。
ここでは「精神的に向上心のないもの」とは、一言で言えば恋をするものということになっている。
もうだいぶ見えてきた。実はこの「精神的に」という言葉は、君たちが思ってるよりだいぶシンプルで、現代となっては時代錯誤過ぎて本気には取れないような内容なのだ。
spiritually
そう、Kにとっての「精神的に向上心のないもの」とは、ただ単に宗教的精進をしないものということなのだ。
普通の向上心、つまり立身出世とか勉学の追究とか、そういう現世利益とは程遠いという意味で、わざわざ「精神的に」とつけているのだ。
これは英語のpolitically correctの訳語なので、英語で調べるのが手っ取り早い。オックスフォード英英辞典のcorrectの項目には、こんな類似表現が紹介されている。
environmentally correct
環境的に正しい、とでも訳そうか。これはどういう意味だろうか?
普通に考えれば、平易な日本語で言う「環境に優しい」くらいの意味だろう。まかり間違っても、本音では違うんだけど環境に配慮して用意した建前、なんて入りくんだ意味ではないだろう。
それなのになぜ、「政治的に正しい」という表現になると、そのような皮肉を含んだ偽善的なニュアンスをもつものになると考える人がいるのだろうか? 同じニュアンスで「優しい政治の」くらいにふんわり理解しても良さそうなものなのに。
結論を言えば、これはひとえに「的な」という便利な、それゆえに乱暴に使われがちな日本語表現の問題から来ている。もちろんそれと、そういう曖昧さを悪用しようとするずるい詭弁愛好精神にもよるものだけど、これを言い出すと話がややこしくなるので触れません。
「的な」という言葉は、上で見てきた例のように、英語の名詞から作られた形容詞を直訳するための便利な接尾語という側面がある。この場合、もとの英語の意味内容をそのまま適用して、その名詞の事柄に関するものというくらいのニュアンスしか持たないとおおらかに解釈しておくべきだ。
しかしここに何故、もっと皮肉なニュアンスが含まれると勘違いしてしまいがちなのか。
君たち的にはどう思う?
……そう、つまりこういうことだよね。口語のブロークンな表現として、「オレ的には」「アイツ的には」なんて言い方で、その人にとってはそうだけど、他の人には必ずしも理解されるわけではないよっていうエクスキューズの言葉に使われているからだよね。
でも注意深く考えてみればわかるけど、それは一般の形容詞を作る場合、特に外国語を訳して作られた言葉の場合には何の関係もない、あくまで「的な」の複数の意味内容のひとつにすぎないんだよね。それこそ、「口語的」にはそうだけど、堅い術語では違うわけ。
こういう解釈で「精神的な」「政治的な」を解釈したら、本来の意味が薄れちゃう。「政治的な正しさ」に建前だとか皮肉な意味なんてないし、「精神的な向上心」は「気持ち的に高まる」みたいな曖昧な意味ではない。
増田的には、みんながもっとこの点に注意深く、誠実になってくれることを切に望むよ。将来展望的に。
お知らせ、速報にしか使えないなんてことはなさそうやね
取り急ぎ
読み方:とりいそぎ
取り急ぎ(とりいそぎ)とは、一時的に急いで対処することや、緊急性が高い事柄に対して優先的に行動することを指す言葉である。主に、時間的制約がある状況下で、最も重要な事項に焦点を当てて対応する際に用いられる表現である。また、取り急ぎは、他の事項に対する対応が後回しになることを意味することが多い。
取り急ぎの語源は、古くから使われている日本語の言葉で、「取り」は「取り上げる」、「急ぎ」は「急ぐ」の意味を持つ。これらの言葉が組み合わさって、「取り急ぎ」という言葉が成立し、現代の日本語でも広く使われている。
取り急ぎの使い方は、主にビジネスシーンや日常生活での緊急時に適用される。例えば、会議で重要な決定事項が発生した際に、その事項に対して速やかに対応することを意味する場合や、災害発生時に避難所への避難を優先することを示す場合などがある。また、取り急ぎは、メールや手紙の冒頭に記載されることがあり、その場合は「取り急ぎの連絡」として、緊急性の高い情報を伝える意図がある。
設定というか、善意の解釈のひとつね。真実は傲慢カップルだった可能性もぜんぜんあるよ。でもわたしは、善意の解釈が大好きだって言うだけ。
で、先制攻撃と解釈しているのは、私ね。カップルにとっては単に「自分たちにはわからない日本語」だったんじゃないかな。
ただし、元ツイートの雰囲気から察するに、店主が温厚な雰囲気で発言したとは思いにくい。善意の解釈が大好きな私でさえ、店主のことを善意には解釈しにくい。残念だけど。
なので、カップルも「入店したらいきなり日本語でまくし立てられた」と感じたんじゃないかなあと言うのが、私の解釈。「ポカン」というのも、「びっくり面食らった」という解釈ね。
そして、「ええと、日本語がわかんなくて申し訳ないんですけど、"nihongo"だけはなんとか聞き取れたし、ひょっとして(日本語メニューしか置いてない=)英語メニューがないという意味でしたか…?」ということを言いたくて、でもそんな高度な日本語表現はできなくて、でもでも今までの日本での経験から、「noenglish menu?」くらいは通じるんじゃないかと期待して、おそるおそる尋ねてみた…という解釈。
これは、ポケモン社はいま現在、“侵害行為が存在している” とみてることを表してると思う。
一般的な権利侵害に対する態度を表明してるのなら、「していきます」とはならないだろう。
「しています」が日本語表現として妥当だ。すなわち、~適切な対応を取っております、となるはず。
問題の文章は、侵害行為の存在を前提として、それについてこれから対応を取る、と言ってると読める。
文章の順番にも注意してほしい。
「調査したのち、侵害行為には対応する」であれば、侵害行為が現時点であるかないかは不明瞭だ。
「侵害行為は、調査した上で対応する」になってるのだから、侵害行為の自体はあると見てると思う。
皆さんはどう思いますか。
「推し」って感覚が未だにまったくわからない。なんだよ推しって。
俺はみくるたん萌え~とか、あーみんは俺の嫁!って世代のオタクだ。二次元・V含めアイドルには一切興味がない。
だがなんとなくわかった気になっているだけかもしれない。なので改めて調べてみた。
推し(おし)とは、主にアイドルや俳優について用いられる日本語の俗語であり、人に薦めたいと思うほどに好感を持っている人物のことをいう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E3%81%97
推し(おし)とは、特定の人物やキャラクター、作品、商品などに対して、熱心な支持や愛情を示す行為やその対象を指す言葉である。推しの語源は、「推す」(おす)という動詞から派生し、主に若者を中心に広まったインターネット用語である。推しは、アイドルや俳優、声優、アーティスト、アニメキャラクター、漫画、ゲーム、映画、テレビ番組など、幅広い分野において使用される。
推しの行為には、対象の情報収集や作品の購入、イベントへの参加、SNSでの応援メッセージの投稿などが含まれる。また、推しを応援するファン同士が交流し、情報共有や意見交換を行うことも一般的である。推しの対象は個人の好みや価値観によって異なり、多様な選択肢が存在する。
推しに対する熱意や忠誠心は、ファン同士のつながりを深める要素となり、コミュニティの形成や発展に寄与することがある。推しを通じて、ファンは新たな友人や知り合いを得ることができる場合もある。しかし、推しに対する過度な熱狂や執着は、他者への配慮を欠く行為やトラブルを引き起こすことがあるため、適度な範囲での応援が求められる。
https://www.weblio.jp/content/%E6%8E%A8%E3%81%97
う~ん、やはりピンと来ない。
と頭を捻っていたら、Pixiv百科事典にそこそこしっくりくる記述を見つけた。
そもそも「推す」が「他者に薦める」という意味の言葉のため、「推し」は自分が独占欲を持たないものに対して使う言葉である。つまり、自分が恋愛的な感情を持っている相手に対して表現するにはあまり適切でない言葉と言える。英語における「Love」と「Like」の違いで言えばLikeに当たる。
日本のことわざに「高嶺の花」があるが、花を取ろうとせずに見るだけで良いと思えるのが「推し」である。
https://dic.pixiv.net/a/%E6%8E%A8%E3%81%97
ここまでをまとめると「推し」っていうのは、
存在に対して使うのか(間違ってたら教えて)。
いや~こうして改めて意味を調べてみるとよくわかるな。自分にはまったく理解できない感覚だってことが。
例えばハルヒなら俺は佐々木が好きというか俺の嫁なんだが、ハルヒを読んでいるとき俺はキョンだ。俺自身がキョンになっている。だから佐々木がキョン以外と絡むエロ同人を読んだだけで寝取られた気分になる。これは紛れもない独占欲だな。
「佐々木は俺の嫁!」ってTwitterで主張したい気持ちは無くはないが、別に他人に佐々木の良さを薦めたいわけじゃない。別に他人に佐々木を好きになってほしいわけじゃない。ただ「刮目せよ!俺の嫁を見ろ!」って言いたいだけだ。他人の好みなんてどうでもいい。いやどうでも良くはないな。俺以外で「佐々木は俺の嫁!」って言ってる奴を見かけたらイラつく。お前の嫁じゃなくて俺の嫁だって思う。交流なんてぜんぜんしたくねえ。
こうして我が身を振り返ると、昨今の「推し」文化ってのは随分と上品じゃあないか?
みんなが私の好きなものを好きになってほしいです、独占欲は持ちませ~んってか。
嘘つけやって思ってしまうのは俺が古いオタクだからかそれとも歪んでいるからか或いはその両方か?
本当にいまのオタクどもは辞書通りの気持ちで「推し」って言ってるのか?
ドロドロした欲望を小綺麗な「推し」って言葉で包んでるだけじゃないか? どうにも信じられない。
Permalink |記事への反応(10) | 16:41
これって両方言えて、「日本語話者に引っ張られた英語の歌」と「英語の歌っぽい発音の日本語の歌」は完全に同質なんだよな
そこを英語の歌だからって特別に気にするのは、俺としては奇異に感じるぞ
要は言語学で言うところの音韻論の話で、ネイティブスピーカーが正しいと感じる発音をより再現できている歌が、その言語の歌として完成度が高いわけ
つまるところ、音節ごとに音符をはめて、言語の区切りに休符があり、イントネーションに音階が沿うのが、”正しい”歌なわけ
若い子からしたらしょうもないかもしれないけど、小椋佳とか、すごく日本語的に正しい歌を作ってくれる
yoasobiのアイドルの英語版は確かに英語の歌として正しくないかもな
もちろん、正しいか正しくないかで、歌の価値や芸術の価値は決まらないぞ
宇多田ヒカルなんか、「な・なかいめのべ・るでじゅわきー」という日本語の区切り方をする
宇多田ヒカルのデビューは98年とか99年ごろなわけだけど、日本語の使い方に当時高校生だった俺は驚いたよね
ミスチルもそんな歌は当時よく作ってたけどさ、シーソーゲームとかね
今でこそそんなのは当たり前になっているけども当時は新鮮だった
miwaなんかはイントネーションぶっ壊しの達人で、「か↑きごおりー↓」で俺は大爆笑した
いくらその後いい歌作ってもその後「か↑き氷ー」の人って呼んでる
で、絢香だな
音節って要は音、声のまとまりなわけだけど、日本語と英語はずいぶん違う
日本語は基本的に全ての文字に母音がつくので、文字ごとに音がある
日本語以外だと子音がたくさんあるので、いろんな音が重なって1音節になる
例えばアイスクリームだと、日本語だと「ア・イ・ス・ク・リー・ム」だけど、英語だと「ice・cream」で2音だ
絢香は本来たくさん母音がある音を、子音っぽく発音して、ひとつの音符に複数の音節を乗せるスペシャリストだ
だから絢香は歌がうまいのは異論をはさむ必要はないのだけど、「日本語の歌」を「日本語表現」を損なわずに歌うのは決してうまくない、というか、そういう方向に向かっていない
絢香がやってるのは日本語を使った英語の歌い方なんだもん仕方ないよ
で、増田が言ってるのはyoasobiのアイドルのことでしょ?
そもそも日本語版の歌が「絢香歌い」になっている作りなので、アイドルの原語版をそもそも日本語の歌だと捉えられない
同じyoasobiでも「夜にかける」がしっかり日本語を歌っているのに対して、アイドルはそういう方向にそもそも向かっていないのは最初からわかると思う
1音に言葉詰めすぎでしょってなる
だからネイティブ日本語話者でも絶対に聞き取れないし、歌詞を読まないと何を表現した歌かすらわからない
まあ、もちろんyoasobiは音が面白ければそれだけで唯一無二のいい音楽になるという、音楽の面白みというか音遊びを突き詰めたような人たちなので、日本語表現がどうこうのせいで価値が損なわれることは全くないのだけど
しかし、そのような性質の歌を、今度は英語に直しただけで、歌に異論が出てくるのは違わないか?
え?英語がどうこうの前に、そもそもアイドルは「日本語の歌として正しい」のか?と
もちろん正しいか正しくないかで芸術としての価値は決まらないし、正しさからの逸脱が面白みになるケースも多いのよ
でも、正しくない日本語の歌をスルーして、異言語版にだけ文句が出てくるところを見ると、えー、うそー、そこ?そこなの?と思わざるを得ない
まあ、好みの話にしちゃうならもはやどうでもいいんだけどさ
I see that among menall things depend upon threewants anddesires, of which the endis virtue, if they are rightlyledby them, or the opposite if wrongly.Now these are eating and drinking, whichbeginatbirth—everyanimalhas anaturaldesire for them, andis violently excited, andrebels againsthimwho says that he must not satisfyallhis pleasuresand appetites, andget rid ofall the corresponding pains—and the third and greatest and sharpest want anddesire breaksoutlast, andis thefire of sexuallust, which kindles in men every species of wantonness andmadness.
私は、人間のあいだではすべてのことが三つの欲望に依拠していると見ています。それらは、正しく導かれれば徳であり、誤って導かれればその反対となります。まずは「食欲」と「飲欲」であり、これらは生まれたときから始まります。あらゆる動物が自然とその二つの欲望を備え、激しく興奮させられ、己の快楽や食欲を満たしてはいけないと言う者に逆らい、付随する苦痛からは逃れようとします。そして第三の、最も強く鋭い欲望が、最後に噴き出します。それは人々のあらゆる種類の淫気と狂気を燃え上がらせる「性欲」の炎です。
今のところこれが最古である。さすが西洋哲学の祖。「食」と「飲」が分かれているのが特徴。プラトンの著作は明治時代に翻訳されていて日本人にも知られていたと思われる。
欲界三欲
(一)飲食欲,即凡夫於種種美味之飲食,多生貪愛之心。(二)睡眠欲,即凡夫之心多暗塞,耽著於睡眠而不能勤修道業。(三)淫欲,即一切男女由互相之貪染,而起造諸種欲事。
欲界三欲
1.飲食欲、すなわち凡夫はさまざまな美味の飲食において、多くは貪愛な心を生む。2.睡眠欲、すなわち凡夫の心は暗く塞がり、惰眠に耽って修業に励むことができない。3. 淫欲、すなわちすべての男女は互いに貪欲に染まり、それがさまざまな欲事の原因となる。
『翻訳名義集』は中国・南宋時代に編纂された仏教系の書物。もちろん日本にも伝わっている。というかこの組み合わせが現在のスタンダードである。
いにしへの人三慾を忍ぶ事をいへり。三慾とは、飲食の欲、色の欲、睡の欲なり。
『養生訓』は江戸時代の大ベストセラー。貝原益軒は儒学者だが、この組み合わせは仏教の「三欲」と同じなので、「いにしへの人」というのは僧侶のことなのか。三欲を「抑えるべきもの」と捉えているのも仏教的である。「睡眠を減らすと健康になる」みたいなことも言っている。
『歌学提要』は幕末の歌人・香川景樹の理論をその弟子の内山真弓がまとめたものだという。
人間の根源の欲望を、食欲・性欲・表現欲に三大別して言うそのことは、江戸末期の巨匠香川景樹以来、歌界ではならいとなっている。
ということで「食欲」「性欲」「表現欲」を表しているらしい。
これはイギリス科学振興協会の当時の会長であったライアン・プレイフェアのスピーチが翻訳されたもののようだ。原文を当たると「かつての錬金術師は黄金・健康・不死のために賢者の石を研究していた」…みたいな内容だったらしい。
they hoped toattain the three sensuous conditions ofhuman enjoyment --gold, health, and immortality.
村上専精は僧侶だが仏教の「三欲」とは異なるのか。「生存欲」は戦時中の文章で「日本人は三大欲求の生存欲を抑えて国家に殉じるからすごい!」というふうに使われているのを見かけて面白かった。
人間の三大慾望たる衣食住
個人的に「衣食住」は欲望というより「基本的なもの」「必要なもの」というニュアンスで捉えていたのだが、井原西鶴の『世間胸算用』でも「分際相応に人間衣食住の三つの楽の外なし」と書かれているそうなので、あながち「欲望」的な捉え方でも間違いではないのか。似たようなパターンだと三大欲求を「福・禄・寿」に割り当てることもある。
美術評論家が三大欲求に「美欲」を入れるのは、歌人が「言語表現欲」を入れるのと似通っているか。
明治以降は経済発展もあってか「金銭欲(利欲・財欲)」や「名誉欲(出世欲)」を挙げることがかなり多い気がする。
もとはアメリカで1948年に刊行された小説だが、原文だと「threemain pastimes」なので「三大娯楽」かな。
といった記述がある。
食欲、性欲、排泄欲の根源的意味に比べたら、人間の他の欲望である出世欲とか名誉欲とか権力欲とか支配欲とか金欲とか知識欲など、それこそ屁以下の価値しかない。
いわゆる「生理的欲求」のひとつとして食欲や睡眠欲と並べて語られる「排泄欲」だが、「三大欲求」として挙げられていることは少ない印象を受ける。ただ「性欲(射精欲)」を排泄欲の一種とみなすこともあるようだ。
本来、仲間と一緒にいたい、集団の中で自分の安定した位置を占めたいという欲求――集団欲は、食欲、性欲と並んで三大欲と言われる程のものである。
この「集団欲」を三大欲求とみなすのは戦後にかなり広まった感じがする。近年の書籍でも睡眠欲に代えて集団欲が挙がることがあるようだ。
貞潔・清貧・従順の修道三誓願は人間共通の三大欲求(肉欲・所有欲・支配欲)にかかわるものとして、生涯の一大試練と誘惑になりうる。
これはつまりカトリックの修道士が守る三誓願の対義語となるような欲望(貞潔↔肉欲清貧↔所有欲従順↔支配欲)を「三大欲求」と見なしているらしい。カトリックのあいだでポピュラーな解釈なのかは知らないが、三誓願そのものは3世紀末くらいまで遡るらしいので、当時からそうした発想があったとしたら面白い。
現在の一般的な認識。「金銭欲」「名誉欲」「集団欲」あたりを含めて「諸説あり」と言われていてもおかしくなかったと思うが、最終的にほとんど「食欲・睡眠欲・性欲」で固定されてしまったのは面白い現象である。