
はてなキーワード:新規性とは
なんか過剰に持ち上げられすぎている気がする。
ああいった既存RPGに対して逆張りして「バーカ」と言い出す作品はもっと前からあったので新規性も特にない。
ゲームとしても昔からよくある人助けポイントを集めるタイプのADVでしかない。
絵柄もそこまで独特かといえばこういうの決して少なくはないように思えてならない。
ひぐらしやシュタゲの方がまだ「まあこういうのが流行ることもあるよね」と納得できる。
lainについては問題点が全て克服された風のリグレットのようなものなのでそりゃまあカルト的人気は出るかなと思う。
オタク受けするような絵柄の王道で全世代を丁寧に爆撃できてるだろうし。
アンテは全殺しエンドの条件が攻略情報前提すぎるのを除けばおおむね悪くない出来だと思う。
ストーリーパートがクソほど長い東方プロジェクトみたいなもんだから普遍的にオタクに流行るゲーム性だし。
なんでこんなに持ち上げられているんだろう。
普段全くゲームしてなくてゲームなんて別に好きじゃない人が「ゲームもたまには面白いね。でもやっぱゲームってくだらない遊びだよねバーカ」って感じで持ち上げてるのかしら。
そもそも論として自分が間借りした文脈を蹴っ飛ばして推進力にする態度が気持ち悪すぎるって言うか、なにかを下げないと他を上げられない駄目なオタクみたいで痛々しいんだよね。
→
IFの話なので何とも言えないが、
最初からドライフルーツとして売っていた場合との違い(グミとして売ることのメリット)は、
(そもそも普通の人は「え?ドライフルーツってそんな添加物入ってるの?果物乾かしただけじゃないの?」くらいの認識と思われるので、"無添加ドライフルーツ"というワードではアイキャッチできなさそう)
などがあげられる。
”無添加”に飛びつくような人が、「楽天やAmazonで類似商品を検索して価格を比較する」可能性は高くないため、確かにドライフルーツの名前でも同じように売れていたかもしれない。
しかし上記に示したようにキャッチ―さは減るし、仮にユーザーが市場価格との差を認識したときの不満感の正当化はなされないため、より不誠実な商売になっていただろうと想像する。
また、仮に「グミという名称が適切ではないとのご批判に従い、ドライフルーツに名称変更します」と真摯に反省してきた場合、批判者は素直に矛を引っ込められるのか?
→
少し前に国産LLM開発着手について - GPUで戦うな | チキンズブログ!という記事が注目を集めました。賛否両論が集まりましたが、個人的には、その後の対応も含め、このままではよくないなと思っています。
もっとも大きな問題は、手羽先氏が指摘に対して真剣に対応していないことです。例えば、誤差逆伝搬法を用いないニューラルネットワークの学習方法についてはかなりの量の既存研究が存在することを指摘されても、それらの文献の調査を行っておられません。調査を行わないことには、自分が考えた手法に新規性があるのかわかるわけもなく、価値あるアイデアなのかどうか、自分自身を含めて誰にもわからないでしょう。英語が読めないとか、そんな言い訳は通用しません。既存手法の調査はスタートラインに立つために最も重要な仕事です。
指摘1:https://x.com/faster_almighty/status/1961694382555549949
指摘2:https://x.com/NASNETou/status/1961687423362240938
他にもまずいなと思うところがあります。国産LLM開発着手について - GPUで戦うな | チキンズブログ! には文意がよくわからないところ、どう考えてもおかしいところが多すぎます。以下、具体的に指摘を入れておきます。
いくつか指摘を書きましたが、この文章は、細かい指摘を受け取って欲しいというよりは、問題が多い状態であるということを伝えたくて書きました。注目を集めたこの機に、誰かよいメンターを見つけてくれると一番いいなと思います。手羽先氏がはばたけるように祈っています。
以下記事に、CB Insightsが作成した「AutomotiveAI readinessindex」の図版が掲載されている。本稿は当該記事と図版を基に論点を整理する。
出典:自動車大手20社のAI対応度、トヨタは保有特許最多で3位(日本経済新聞)https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC123HX0S5A810C2000000/
日経の記事は、CB Insightsのデータセットを用いたランキング図版として掲載している。一次ソースはCB Insightsであるが、一般に公開されている範囲では、日経が引用した図版と説明に整合がある。よって「日経がCB Insightsの図版を引用したもの」という意味で本物と判断する。
図版注記の要旨は次の通りである。
Execution 60%が実装重視という設計のため、巨大な製造と販売ネットワークを持ち、AIを幅広く回せる体制を築ける企業が上位に来やすい。トヨタはこの点で積み上げが厚い。
日経記事に掲載された図版はCB Insightsのランキングに基づくもので、出典としての整合は取れている。
指数は「AI投資と実装の本気度」を俯瞰する物差しとして有用だが、性能や安全性の優劣を断定するものではない。
トヨタの3位は、実装偏重の配点と同社の実装能力の厚みが合致した結果であり、恣意ではなく設計思想の帰結と理解するのが適切である。
これ結構マジの疑問なんだけど、今期のアニメでもなろう系をはじめとするファンタジーは相変わらず何作品もあるのに対して、SFは全然なし。
これってどうしてなんだろう?
そこで仮説を立ててみた。
例えば近未来を舞台にしたSFなら、描かれる未来が絶対に訪れないとも言い切れない。
可能性はゼロに近くても、もしかしたらそう言った未来が訪れるかもしれない…!といったワクワク感がある。
でもなろう的なファンタジーの世界が現実に訪れることはありえない。
そこで思うんだけど、昨今ファンタジーが多いのはアニメに現実逃避を求め過ぎているからじゃないかと思うんだ。
だからSFは忌避される。SFは「もしかしたら現実になるかもしれない」っていうその本来の魅力自体が現代だと逆にマイナス要素になっているような。
つまりアニメは虚構であればあるほどいいという風潮が現代ではより強いような気がしていて、違和感がある。
こういうのって実は社会的な情勢が関与しているんじゃない?
もちろんアニメはそもそも虚構だし、そこに楽しさや面白さがあるという点は否定しない。
でもさ、現実逃避に加担し続ける作品ばかりが作られるというのは流石に健全じゃないと思うんだ。
今だってタコピーがあれほど話題になるのは結局のところ、それほどリアリズムを感じる作品がアニメに減ってきているからだというそれだけの理由だと思うんだ。
ファンタジー世界を舞台にしてしまうと既存の設定を用いて新規性を作るしかない…ってわけじゃないけど、今の作品って全部これ。
はっきり知って新規性は皆無で、でもだからこそ受け入れられるんだろうなっていう気もしている。理由も既に書いているけど…慣れた設定だと理解が容易いからね。
SFは逆に新規性が売りでアイデア一発勝負!みたいなところもSFの強みだったんだけど、その強みもまた現代では弱みに分類されてしまう。
新規性のあり過ぎる設定はユーザーにとって「?」でしかなくて、観る作品が多いと「分からんからこの作品はもういいや」ってすぐに投げ出される。
結果的に残るのは、現実逃避できて、ありきたりで、分かり易くて、ただキャラクターが可愛いだけの作品。だから砂糖たっぷりの金太郎飴みたいな作品が乱立して、それを舐めていれば満足するわけだ。
枕草子は新規性に価値があったから残っているとかいうけど、別に清少納言がいなくても誰かがいずれはあのような文章を書いている程度のもので、あいつがいなかったら今のようなエッセイの筆致が存在してないとかはとても考えにくい。
新規性といっても、こいつがいなかったら前にも後にも同じ発想をする人が到底出てこないほど複雑で深淵なアイディアってのと、そうでなくてまあいずれは似たような人が生まれて同じことをするだろって考えられるようなものとは区別すべきだろう。
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なんとかファーストって「じゃあそれ以外は大事じゃないんですか」とか詭弁を展開するための起点となる意図的なミスリードであり「誤った二分法」に近い。
密接に関連する概念として、ある範囲の選択肢があるのにそのうちの両極端しか考えないという場合もあり、これを白黒思考 (black-and-white thinking) などと呼ぶ。なお "dilemma" の先頭の "di" は「2」を意味する。2つより多い選択肢の一覧が示され、その一覧以外の選択肢が存在するのに考慮しない場合、これを誤った選択の誤謬 (fallacy offalse choice) または網羅的仮説の誤謬 (fallacy of exhaustive hypotheses) と呼ぶ。
でも2より多い選択肢が提示されているわけではない(「都民ファースト」「日本人ファースト」とか一個しか提示されてない)ところに新規性がある。
つまり「誤った二分法」「白黒思考」の類似技術だけどそれそのものではないのだ。
音楽も豪華で、SNS時代の視聴者が盛り上がるポイントを的確に押さえていた。
だが、それと同時に強烈な違和感があった。
というのも、あの作品には新規性というものが決定的に欠けていたからだ。
ジークアクスは、その構造のほとんどがパロディと引用で成り立っている。
ガンダムという巨大な看板を背負いながら、その中身は引用とオマージュの応酬だ。
むしろ「ガンダムを用いる必要があったのか?」と問わざるを得ないほどだ。
だが皮肉にも、そのガンダムという看板こそが必要だったといえる。
既存のブランドの威光を借りなければ成り立たない、それ自体が作品の弱さを証明してしまっていたのだ。
と、ここまで冷静に書いたつもりだが…正直、俺は怒ってる。いや、怒って当然だと思う。
だってジークアクスって、よく「面白い!」とかSNSで持ち上げられてるけどさ、いってしまえばあれは現代のアニメの悪いところの詰め合わせだ。
そもそも元ネタのガンダムに対するリスペクトがあったか?ねぇよ。だって本当にガンダムってものをリスペクトしてるなら、あんな風に自分の推しアイドルのネタだの入れるわけねぇだろ。
俺から言わせりゃ、ガンダムってのは単なるロボットアニメじゃない。
SFアニメの宗教なんだよ。その宗教の聖典を勝手に書き換えて、よくもまぁドヤ顔できるなって話だ。
例えるなら新約聖書のリメイクを作って、わけわかんねぇ新キャラ出して、キリストを救っちゃいました!とかやってるのと同じだぜ?
それを冒涜って言わずになんて呼ぶんだ?空虚なシミュラクラ?消費の偶像化?いや、まさにその通りだよ。ガンダムっていう信仰の遺産をただ食いつぶしてるだけじゃねぇか。
それでいて「パロディや引用は売れるための適応なんです」なんて、わかった風なこと主張する。
でもさ、それが無名の会社で背水の陣でやってんなら俺だって文句言わねぇよ。けどガンダムだろ!?最初から注目される看板背負ってんだろ!?
何のためのガンダムなんだよ。何のための名のある監督なんだよ。
そんな安全圏でパロディの山積みして、SNSで「神回」とか「最高」なんておだてられて満足して、それで本当に作品作ったって言えんのかよ!!!?
新しいもの作るってのは、そういうことじゃないだろ!!今こそ勝負する場だったはずだろ!?ガンダムの名があるからこそ、できる挑戦があったはずなんじゃないのかよ!!
昔ガンダムが見せてくれたセンス・オブ・ワンダーはどこに消えちまったんだよ!!!?
もしガンダムすら保守的になってしまうなら、他のどこで新しい挑戦ができるんだ?
ガンダムっていう舞台が唯一それが許されるはずだったんじゃないのか!?
なのに作り手は挑戦しねぇ、ファンはこれで満足って顔してる。SNSじゃ「神!最高!」って同調圧力の嵐。
これが文化の退廃じゃなくて何なんだよ。
結局、ガンダムって名を借りて商業的贖罪の供物を捧げてるだけだろ。
魂の抜けた偶像を拝んで、ありがたがってるだけだろ。
あれは教養と思想があった。庵野の時代はまだパロディに哲学があった。
迎合だけの軽薄なオマージュ。それを肯定して「これが良い」って思ってしまったのが、俺たちオタク文化の堕落の始まり。
ジークアクスはその象徴だ。あれが面白いって言ってしまえる今の空気こそが、堕落の原因なんだよ。
今の空気に甘えて挑戦を捨てた作り手と、それを甘んじで享受してしまう消費者側。
どちらも最大の罪人なんだと、俺は強く思う。
先日、東京都対暇空のBOND住民訴訟(DV補助金裁判)の判決が出た。結果は後者の敗訴。
元より研究者の間では「この裁判はよくて五分五分」といった形で、敗訴の方はある程度予想されていた事だった。
しかしいざ出た判決文を読んでみると、色々内容が酷かったので軽くまとめてみる。
判決文では次のように述べられてる。
本件団体は、若年被害女性等支援事業に基づき「ボンドのイエ」を、セーフティネット交付金により「ボンドのイエANNEX(アネックス)」を実施していた。
都は「アウトリーチ」や「一時保護」「自立支援」は若年被害女性等支援事業、「ステップハウス支援」はセーフティネット交付金と明確に区分されており、重複はないと主張。
これは行政側の整理論だが、判決ではこのような役割分担を「相乗効果があるから一体的実施が想定されていた」として違法性を否定。
しかし「想定」や「相乗効果」などは交付要綱の法的要件ではなく、あくまで行政の運用的な理屈に過ぎず
要綱の目的が「経費の重複防止」にある以上、「想定されていたからセーフ」という論理は不十分だと思われる。
裁判所は都の判断(=同一対象でも経費が重複しなければOK)を違法とはしなかった。
要綱等では「交付対象事業の区分」が求められており、単に「経費の重複回避」だけでなく「事業そのものが別であること」が要求されている。
裁判所が「経費が被らなければ実質同じ事業でもOK」という判断を容認すれば、実務上の交付金の目的外使用・使い回しが隠れ合法化される可能性あり。
本件では、
と、発注部局が異なるのに、「同一団体なら全体の支援方針のもとで調整可能」とされています。
実際には部署間での情報連携が不十分で、支出の二重化チェックが不可能な体制になっている。(と仮定。連携が十分にされていたらそもそもこの様な問題は担当者レベルで共有・問題となり、ストップがかかる……筈)
一団体に複数部局から補助金を出していても、都が一元的な審査体制を持たない場合、重複支給のリスクが常に存在するだろう。BOND以外でも起こり得る問題である。
同一内容でも「年度が違う」「書類の上で経費が被っていない」ことを理由に、
制度上の整合性や抑止力が損なわれ、チェック不可能かつ悪用しやすい構造が温存されることになると推察される。
・「ボンドのイエANNEX」はセーフティネット強化支援交付金(DV交付金)対象
→都は「事業の目的と内容が違う」「明確に区別している」と主張
→裁判所もこの主張を追認し、よってR3では「別事業」と認定された。
「ボンドのイエANNEX」が若年被害女性等支援事業の実施計画に掲載されており
居場所提供の実績にも「ANNEXでの受入」がカウントされている。(例:内閣府報告や東京都資料)
→つまり、R3ではDV交付金の対象としていた「ANNEX」をR4では支援事業(委託事業)の一部として使っている。
項目 R3年度 R4年度
ボンドのイエANNEX DV交付金事業(ステップハウス) 支援事業(委託)に含まれている
→実施内容は同じなのに、資金の請求先・制度枠だけ変わっている
→ 都は「目的が違う」と主張するが、R4では矛盾して同じ枠に統合している
・「R3は創設初年度なので新規性があり、ステップハウス事業として別立てにした」
・「R4は継続事業で新規性が薄れたので、包括的な支援事業に統合した」
→しかしこれは交付要綱や実施要綱の「事業の目的・範囲を明確に区別する」要件に反している。
BOND側が便宜的に交付金の枠を「切り替えて」請求しているだけで、実施内容自体は同じでは無いか?
これは制度的チェックが実質無効化される前例になりかねないと思われる。こんな判例だした地裁…さすが「頭痴裁」と呼ばれる所以か。
都・BONDの「形式的区分」は名目でしかなく、実態としては「同一事業を別会計で回していた」可能性が高い。
R3の段階で「ANNEXを別事業」としたのは「財源別け」のためのテクニカルな処理であると思われる。
→実際には、R3・R4を通じて一体の居場所提供・自立支援事業が継続しており
これは補助金等適正化法の趣旨(重複補助の禁止、目的外使用の禁止)に反する可能性がある。
以上が総論だが、今回の裁判、何故かはてなや5chなどの一部のサイトでは
「事前に判決を知っていたかの様に」敗訴を叫び煽っていた人達がいたけど
A:今回の「アジャイル・ガバナンス」の件も、そうした観点から見直す必要がありそうですね。
B:そう思います。新しい技術への対応は確かに必要ですが、それが法の基本原則を損なうものであってはいけません。慎重な検討が必要です。
A:そういえば、「アジャイル」とか「Society5.0」とか、こういう用語ってどこから来ているんでしょうか?
B:それは非常に重要な指摘ですね。これらは元々、IT業界が新しいサービスの販売促進を図るために作り出したマーケティング用語なんです。
B:そうです。「アジャイル」はソフトウェア開発の手法から始まって、今では「迅速・柔軟・革新的」を表すバズワードとして使われています。「Society5.0」も政府とIT企業が共同で打ち出した未来社会のブランディング概念です。
A:つまり、商品を売るための言葉が法学の議論に入り込んでいるということですか?
B:まさにその通りです。私はこれを「法学のマーケティング化」と呼んでいます。学術的な厳密性よりも、印象的なキャッチフレーズが重視されるようになっている。
A:具体的には、どんなマーケティング的手法が使われているんですか?
B:いくつかのパターンがあります。まず「対立構造の演出」。「古い法学 vs 新しい法学」という分かりやすい図式を作り上げる。次に「権威付け」。G7合意だとか大学でのシンポジウムだとかを使って、お墨付きがあるように見せかける。
A:なるほど。それに「危機感の煽り」もありますね。「対応が遅れると取り残される」みたいな。
B:そうです。そして最も問題なのは、「破壊的変化の演出」です。
A:破壊的変化というと?
B:マーケティング用語の特徴として、「これまでは○○だったが、これからは○○だ!」とか「○○はもう古い!これからは○○の時代だ!」みたいに、変化や断絶を過度に強調する傾向があるんです。
A:確かに、「アップデート」という言葉も、そういう印象を与えますね。
B:まさに。でも法制度の発展というのは、本来はもっと地味で着実なものなんです。
A:どういうことですか?
B:法制度は社会の基盤ですから、急激な変化よりも着実な発展を求めるべきなんです。継続性を重視し、長年の経験の蓄積を大切にし、新制度導入前には十分な議論と検証を行う。
B:そうです。マーケティングは「売る」ことが目的ですが、法制度は「社会を支える」ことが目的です。この根本的な違いを忘れてはいけません。
B:もちろんです。ただ、その対応のあり方が問題なんです。既存制度の詳細な分析、他国事例の慎重な研究、段階的な制度設計、継続的なモニタリング...こういう地味な作業こそが真の改革につながるんです。
A:「パラダイムシフト」とか「ゲームチェンジャー」とかいう言葉とは真逆ですね。
B:その通りです。そういう「革命的転換」を演出する言葉は、法学には馴染まないんです。
A:でも、なぜ法学者の方々がこうしたマーケティング用語に惹かれてしまうんでしょうか?
B:いくつか理由があると思います。一つは、研究評価で新規性が重視されるようになったこと。地道な基礎研究より、目立つ新概念を提示する方が注目されやすい。
B:そういう面もあるでしょうね。それに、マーケティング用語は響きが良いので、つい使いたくなってしまう。
A:確かに、「アジャイル・ガバナンス」なんて言われると、なんだか先進的な感じがしますもんね。
B:でも、それこそが罠なんです。内容をよく検討せずに、言葉の響きだけで判断してしまう。
A:そうすると、法学者としての本来の使命を見失ってしまうと。
B:はい。法の安定性や予測可能性を確保し、民主主義や人権といった基本的価値を守ること。そのために蓄積されてきた知恵を継承すること。これが法学者の使命なんです。
A:マーケティング的な「新しさ」の追求とは、確かに相容れませんね。
B:そうです。特に今回の「アジャイル・ガバナンス」のように、民主主義の根幹に関わる問題については、より慎重になるべきです。
A:学術的権威が政策の宣伝に使われないよう、注意が必要ということですね。
B:まさに。法学者は、商業主義的な思考に惑わされることなく、学問の独立性を保つ必要があります。
A:でも、一般の人には、マーケティング用語の方が分かりやすいという面もありませんか?
B:それは確かにそうです。ただ、分かりやすさと正確性は別の問題です。複雑な法的概念を安易に単純化してしまうと、かえって誤解を招くことになります。
A:なるほど。私たちも、響きの良い言葉に惑わされないよう気をつけないといけませんね。
B:そうです。特に政府から出てくる政策提言については、その背景にあるマーケティング的意図も含めて、批判的に検討することが大切です。
A:「新しい」「革新的」という言葉だけで判断するのではなく、中身をしっかり見るということですね。
B:その通りです。そして、その「新しさ」が本当に社会にとって必要なものなのか、従来の価値を損なうものではないのかを、慎重に見極める必要があります。
A:今回の対話で、「アジャイル・ガバナンス」の問題がよく分かりました。ただの新しい政策提案ではなく、法学そのもののあり方に関わる深刻な問題なんですね。
B:はい。単に個別の政策の良し悪しを論じているのではなく、学問としての法学の在り方、ひいては民主社会の基盤をどう守るかという問題なんです。
A:私たち市民も、もっと関心を持って、しっかりと考えていかないといけませんね。
B:そうです。民主主義は私たち一人一人のものですから。権威や響きの良い言葉に惑わされることなく、自分の頭で考えることが何より大切だと思います。
上手い下手じゃなくてさ
新規性やらは関係なしに何でもいいからかけと言われてすぐかけるテーマがあるかどうかって話よな
A:先ほどから「アジャイル・ガバナンス」の問題について話していましたが、なぜこんな議論が法学界で受け入れられているのか不思議です。
B:それは実は、最近の日本の法学界の変化と関係があるかもしれません。
A:変化というと?
B:かつての日本の法学は、伝統的な議論との連続性をとても重視していました。新しい理論を導入するときも、従来の学説とどう整合するかを慎重に検討していた。
A:それって、保守的すぎるということですか?
B:確かにそういう面もありました。新しいアイデアが出にくかったり、権威ある先生の意見に若手が従わざるを得なかったり。
A:なるほど。それが最近は変わってきたと。
B:そうです。より自由に議論できるようになったし、新しい視点や理論も積極的に導入されるようになった。これ自体は良いことなんです。
A:でも、何か問題もあるんですか?
B:新規性や独創性がとても重視されるようになって、時には伝統的な議論の蓄積が軽視される傾向も見られるんです。
A:具体的には?
B:例えば、「これまでの法学では対応できない」「全く新しいアプローチが必要」といった主張が、十分な検証なしに受け入れられやすくなっている面があります。
A:それって、自然科学の影響ですか?新しい理論が古い理論を置き換えるような。
B:その通りです。他の社会科学の影響もあるでしょうね。でも法学は少し特殊なんです。
A:どう特殊なんですか?
B:法学では、新しい理論で古い理論を完全に置き換えるというより、蓄積された知恵を継承しながら発展させることが重要なんです。
A:なぜですか?
B:法的概念が頻繁に変わると、法の安定性や予測可能性が損なわれてしまいます。それに、長い間使われてきた概念には、歴史的経験が込められていることが多いんです。
A:なるほど。「法の支配」みたいに。
B:まさにそうです。800年以上の歴史がある概念を軽々に「アップデート」していいものか、もっと慎重に考える必要があります。
B:もちろんです。ただ、何を変えて何を変えないかの判断が重要なんです。根本的な価値や原則は継承しながら、具体的な制度や運用を改善していく。
A:そのバランスが難しいということですね。
B:そうです。そして、最近は「新しいから良い」という発想が強くなりすぎている面があるように思います。
A:それが「アジャイル・ガバナンス」のような議論につながっていると?
B:一因になっている可能性はあります。新奇な概念や横文字の理論に対して、批判的に検討する前に「新しくて進歩的」という印象で受け入れてしまう。
B:本来はそうあるべきなんですが...。最近は研究評価でも新規性や独創性が重視されるようになっていて、そのプレッシャーもあるかもしれません。
B:そういう面もあるでしょうね。従来の議論を丁寧に検討する地道な研究より、新しい概念を提示する方が注目されやすい。
B:はい。特に法学では、基礎的な概念や原則についての深い理解が不可欠です。それがないまま新しい理論を導入すると、土台のない建物のようになってしまう。
A:でも、若手の研究者にとっては、新しいことをやりたいという気持ちもあるでしょうし...
B:それは当然のことです。問題は、新しさと伝統的価値の継承をどうバランスさせるかなんです。
A:そういえば、シンポジウムとかで「アジャイル・ガバナンス」が議論されているという話もありましたね。
B:ああ、それも問題の一つかもしれません。大学でのシンポジウムや研究会で取り上げられることで、学術的に認められた議論という印象が作られてしまう。
B:もちろんです。ただ、批判的検討が十分なされているかが重要なんです。新しい概念を紹介するだけで終わってしまうと、結果的にその概念にお墨付きを与えることになりかねない。
A:なるほど。学術的権威が政策の宣伝に使われてしまう可能性があると。
B:そうです。特に政府機関が提唱している政策については、学術機関は慎重な距離を保つべきだと思います。
A:でも、社会に貢献したいという気持ちもあるでしょうし...
B:それも大切なことです。ただ、学術的議論と政策提言は区別して考えるべきでしょうね。
A:どういうことですか?
B:学術的には「こういう理論的可能性がある」ということと、政策的に「実際に導入すべき」ということは全く別の問題です。
A:確かに。理論的に面白くても、実際に導入するには問題があるということもありそうですね。
B:その通りです。特に憲法や民主主義の根幹に関わることについては、より慎重さが求められます。
B:まず、その議論が本当に学術的検証を経ているかを見ることです。批判的な検討も含めて、多角的に議論されているか。
A:一方的な宣伝ではなく、ちゃんとした学術的議論かということですね。
B:そうです。そして、新しい理論が提示されたときは、それが従来の価値や原則とどう関係するのかを確認することも大切です。
B:まさに。完全に断絶した新理論は、法学においては特に注意が必要です。
A:分かりました。でも、研究者の方々にも気をつけてもらいたいことがありますね。
B:おっしゃる通りです。新規性の追求も大切ですが、法学の基本的な使命を忘れてはいけません。
A:基本的な使命というと?
B:法の安定性や予測可能性を確保し、民主主義や人権といった基本的価値を守ること。そのために蓄積されてきた知恵を継承することも重要な役割です。
A:新しいことをやりつつ、大切なものは守るということですね。
B:そうです。そして、政策提言については特に慎重になる。学術的権威を政策の宣伝に使われないよう注意することも必要でしょう。
B:はい。特に法学者は、民主主義社会の基盤に関わる重要な役割を担っているのですから。
A:今回の「アジャイル・ガバナンス」の件も、そうした観点から見直す必要がありそうですね。
B:そう思います。新しい技術への対応は確かに必要ですが、それが法の基本原則を損なうものであってはいけません。慎重な検討が必要です。
IR(情報検索)や推薦システム(Recsys)における「セレンディピティ」についてですね。
関連性、新規性、多様性、人気性といった指標は比較的理解しやすい一方で、セレンディピティは確かに掴みどころがないと感じるかもしれません。
セレンディピティ(Serendipity)は「偶然の幸運な発見」「予期せぬ有用な発見」といった意味合いで用いられます。
情報検索や推薦システムの文脈では、ユーザーが求めている情報や好きそうなアイテムを直接的に提示するだけでなく、ユーザーが「知らなかったけど、これは素晴らしい!」と感じるような、予期せぬ驚きと喜びを伴う発見を指します。
関連性だけを追求すると、システムはユーザーの過去の行動や明示的な好みから導かれる、非常に「安全な」推薦ばかりをする傾向があります。これはこれで重要ですが、以下のような問題点も生じます。
1.フィルターバブル/エコーチェンバー:ユーザーが常に同じような情報に触れることで、視野が狭まり、新しい視点や情報に触れる機会が失われる。
2. 飽き: 常に似たような推薦ばかりでは、ユーザーは新鮮味を感じなくなり、システムの利用から離れてしまう可能性がある。
3.潜在的ニーズの掘り起こし:ユーザー自身がまだ気づいていない、しかし非常に高い満足度をもたらす可能性のあるニーズを掘り起こす機会を逃す。
セレンディピティは、これらの問題を解決し、ユーザー体験をより豊かにするために重要となります。
システムがユーザーを「驚かせ」「喜ばせる」ことで、ユーザーエンゲージメントの向上や、長期的なロイヤルティの構築に繋がります。
セレンディピティは、非常に測りにくく、実装も難しい概念です。いくつかの試みやアプローチがあります。
1.多様性(Diversity)との関連: 多様な推薦をすることで、結果的にセレンディピティが生まれる可能性が高まります。ただし、多様性が高すぎると単なる「ノイズ」になる可能性もあるため、バランスが重要です。例:ユーザーの通常の視聴履歴とは異なるジャンルの映画を、関連度は低いが一定の人気や評価があるという理由で推薦する。
2.新規性(Novelty)との関連:ユーザーがまだ知らない、新しいアイテムを推薦する。しかし、単に新しいだけでなく、ユーザーにとって「有用な」新規性でなければセレンディピティには繋がりません。 例:ユーザーが普段聞かないようなインディーズバンドの、しかし高い評価を得ている曲を推薦する。
3. 意外性(Surprise)の導入:ユーザーの期待を意図的に裏切るような推薦。ただし、これも「不快な驚き」にならないよう注意が必要です。例:ユーザーがクラシック音楽ばかり聴いているが、過去に一度だけ興味を示したことがあったジャンル(例えばジャズ)から、そのジャンルの名盤を推薦する。
4. 探索的な推薦戦略:ユーザーの明示的なクエリや行動だけでなく、より広範な情報(例:世間のトレンド、専門家の意見、他の類似ユーザーの意外な行動など)を取り入れて推薦候補を生成する。「探索(Exploration)」と「活用(Exploitation)」のバランス: 推薦システムは、ユーザーの過去の行動から「活用(Exploitation)」して関連性の高いものを推薦するだけでなく、新しい可能性を「探索(Exploration)」してセレンディピティを生み出す必要があります。
5.偶発性の設計:システムが意図的に、ある程度のランダム性や偶発性を推薦プロセスに組み込むこともあります。ただし、これも「単なるランダム」にならないための工夫が必要です。
セレンディピティは、情報検索や推薦システムにおいて、ユーザーに「知らなかったけど、これは良い!」という予期せぬ喜びと発見をもたらす、非常に価値の高い指標です。
関連性、新規性、多様性といった他の指標と密接に関連しながらも、それらを組み合わせることで生まれる「化学反応」のようなものです。
測定が難しく、実装も試行錯誤が必要な分野ですが、ユーザーの長期的な満足度やエンゲージメントを高める上で、今後ますます重要になっていくでしょう。