
はてなキーワード:断罪とは
情報が人々の心を動かすかたちで届くようになり、理屈よりも感情が先に動く社会となっている。真摯だが複雑な説明より、粗雑だがわかりやすく強い言葉が歓迎される。
生活の負担が重くなり、誰かを責めたい気持ちが静かに膨らむ。なぜ自分たちばかりが苦しいのかという問いが繰り返され、やがて怒りに転化する。そして、弱者を断罪し、強く断言する者を求める力へと変わっていく。
通貨の価値は揺れ、物の値段は少しずつ上がる。懸命に働いても所得は上がらない。忍び寄る将来への不安は、見えない誰かへの不信となり、誰かから何かを取り戻したい、という漠然とした願いを強くする。
国の存在感が薄れ、影響力も低下していくなか、どうにか誇りを取り戻そうという声が広がる。かつての栄光が語り継がれ、それが現実よりも魅力的に見え始める。自身と現在への諦観が、国家と過去への賛美を呼び起こす。
政治はまとまりを失い、議論のなかで生む合意よりも、拙速でシンプルな決断がもてはやされる。秩序と安定という言葉が、自由や多様性という言葉を静かに押しのけていく。
アニメ一話がよかったので、きっとほのぼの系だろうなあとおもって原作に手を出したのだが、
なんというか、これ、かわいい系ほのぼの異世界転生の皮を被った
ストーリーはこんな感じで進む。
これを何度もくり返す。
だけど、客観的に見て
見ていてこの一家に全く好感が持てない。
タイトルからして主人公らの魅力をベースにした物語が展開すると思うじゃん?
だけど、なんつーか、作者がムカつく奴を物語に登場させて、そいつを追い詰めたいと言う願望が先に出て無理矢理シーンを組み立てている感じがする。
ラブラブ夫婦の夫に一方的に横恋慕宇してる愚かな女を断罪したいなー
とか
主人公しか作れない薬を配って慈悲の女神になりたい。もちろん奪いに来る悪役を断罪したいなー
作者の願望が漏れ出ているとしか思えない主人公の性格が悪すぎる。お前ら大人しく精霊界に帰って白で平和に暮らせ、二度と下界に関わるなと言いたい。
原作はそれがあからさまに出ていて、なんつうか、物語が主人公の主観的事実のみで美化しようとしてる臭さがある。
お前絶対ここに書いてないことあるだろうとか、権力をかさに着て相手を悪く書かせただろうこれみたいな雰囲気がある。これを意図的に醸し出しているなら天才だと思うが、多分そうじゃないんだろうなこれ。
アニメでは第一話で上手く消臭したが、第二話ではなんか臭ってきて失敗している感じがする。
一発逆転するとしたら、最終話で、
これだったら楽しい。
もしこのニュースを見て、小泉陣営はもう駄目だなと思うようであればマジでSNSはやらない方がいいと思う。
そもそもステマを全くしていない議員は存在しているのか?ということを先に考えるべきである。
なのにニュースでは断罪するかのようにこのニュースを報道する。ステマ=悪という情報を流布すること自体がステマであることに気づかないようではネットに向いていないし、はっきり言ってしまえば現代においてステマを防ぐことは不可能である。
これは議員側の責任ではなく、どちらかと言えばプラットフォーム側の問題だ。何故ならこの投稿自体も、小泉陣営側のステマとなり得るから(といってもこれはスマテではありませんが)。
なので「小泉進次郎はステマをしていたから叩くべきだ!」と躍起になっている皆さんには、ネットリテラシーを一度勉強することを本気でおすすめする。
あと、小泉陣営を叩こうと思って炙り出した結果が「ステマ」だけというのは、逆に好感度が上がると思うのだが、世間は違うのだろうか?
表現の加害性みたいのって
それを、子供に、善き事だと垂れ流す
これ系の最悪な発露が宗教戦争だ
幼稚園児がアンパンチで友達の悪事を断罪するのは教育で対応するし
消さねばならぬと批判される
彼らはきっと、世の常識は俺たちが作る、とでも思っていたことだろう
だから語られる
「恋愛を扱うドラマが描かれるときって、『恋愛しないと成長しない』とか、『恋で人生の全てが変わる』みたいな、恋愛が人生において最も重要なものとして描きがちというか、その考え方を押し付ける暴力性があるのではないかと、以前から気になっていたんです」
これを表現の加害性と読み解けないのは義務教育をやり直せと思う
だが同時にこれだけなら別段、性的表現をターゲットにしてるようには見えない
絵だけど、未成年だぞ
これはダメなんだ
言っちゃいけないワードなんだよ
火中の栗なんだ
スカートの皺が、くびれのしなりが、赤らめた頬が、これで叩かれてきたんだ
それを知らんわけがないだろう
実際、その後の言葉はこう続く
「現実ではそんな会話しない」と強く否定した“女の子たちが互いの胸の大きさについて言及し合う描写”なども含め、そういうシーンはアニメにおいては何気ないよくあるものと考えてしまっていたが、吉田恵里香さんは「それを売りにしている作品でない場合においてはノイズ」と言い切る。
「現実的に考えても、ギターを弾きながら胸が不自然に揺れ続けるみたいなことはないわけですし、そういう描写があったら私は幼い息子にその作品を見せるのを躊躇する。自分の子どもに見せられるかどうか、というのは大事にしている基準です」
これ言い出したら、女子向け作品の男の会話とか「ナイワー」ってなるけど
あれは修正しないんだろう?
君の怒りは理解できる。赤ちゃんが苦しんでいるのは私も辛い。陽性だと知った時は、正直、頭が真っ白になったし、君と赤ちゃんに申し訳ないという気持ちでいっぱいだ。だが、君の言葉はあまりに感情的で、事実を歪曲しすぎている。
「コロナの可能性」というのは、今となっては結果論だ。昼前に起きた時、熱は下がっていた。朝からずっと微熱だったり、他の症状が強く出ていたりすれば、すぐに検査に行ったさ。
しかし、その時点ではただの「微熱後の体調不良」だと自己判断してしまった。これは判断ミスだったかもしれないが、「コロナの可能性がある人間としての義務を全く果たさなかった」と断罪されるのは行き過ぎだ。もし熱が下がっていなければ、予防接種にももちろん行っていない。君も熱が下がったという私の言葉を受け入れ、予防接種に連れて行ったんじゃないか。君自身もその時点ではそこまで深刻に考えていなかった証拠だろう。
君は「私たちをいたわることもなく、病院が閉まる直前の時間にやっとコロナの検査にいった」と言うが、そうではない。再び熱が出てきた時点で、「これはまずい」とようやく自覚し、すぐに検査を受けられる場所を探したんだ。仕事の休憩中や、シャワー中に「抜く」ことはあったかもしれないが、それはこの病気の状況とは関係ない。体調が戻らない中、病院の受付時間に間に合わせるために動いていたんだ。これは無責任ではなく、状況を立て直そうとする行動だ。
陽性だったとして、赤ちゃんに影響が出る可能性は重々承知している。だからこそ、すぐに君たちと物理的な距離を取り、隔離生活を始めている。
君が「私と赤ちゃんが実家に避難するための準備」について言っているが、まずは私の陽性を確定させることが最優先だった。陽性か陰性か分からない状態で避難の準備をしても、無駄足になるかもしれないし、移動中に他の人に感染させるリスクだってある。まずは私が「コロナである」という事実を確定させ、そこから君と赤ちゃんの行動を決めるべきだと判断した。その判断が、君の望むタイミングと違ったのかもしれないが、「バカでしかない」とまで言われる筋合いはない。
あの時の私の言葉は、君を傷つける意図はなかったが、確かに言い方が悪かった。訂正する。
君は赤ちゃんが苦しんでいる様子を詳しく伝えてくれた。ミルク、着替え、保冷剤を自分の脇で温めてから使う...。君がどれだけ手間をかけているかは伝わったし、感謝もしている。君の愛情深い行動を否定するつもりはない。
私が言いたかったのは、君も私と同様に「その時点ではコロナだと思っておらず、いつも通りの育児をしていた」ということだ。君は予防接種の副反応だと信じて、熱を下げるための対応に集中していた。私を罵倒する一方で、「昼間、熱が下がった私を野放しにし、赤ちゃんに接触するリスクを君も容認した」という点に、少しでも責任転嫁しているように聞こえたんだ。
「お前だけが被害者ぶるな、お互いに油断していた部分があるだろう」ということが言いたかった。それなのに、あの表現は君の頑張りを「担いでただけ」と矮小化してしまった。それは謝る。
今、私たちに必要なのは、お互いを罵倒することではなく、赤ちゃんの回復と、これ以上の感染拡大を防ぐことだ。
君の不安や怒りの矛先が私に向くのは当然かもしれない。だが、今は責め合うのをやめて、次に何をすべきか、冷静に話し合えないか。私自身、陽性という結果に動揺し、どうしたらいいか迷っているんだ。
この人が最大限の配慮をとりたくなるような可愛い妻じゃなかったわたしが悪いです。
こんなことを言う必要は全くない。君は素晴らしい母親だ。可愛いとか可愛くないとか、そういう話じゃない。どうか自分を責めないでくれ。
「清太はアホや」 火垂るの墓めぐる自己責任論、共感ひろがる理由は:朝日新聞
https://www.asahi.com/sp/articles/AST9C0SCRT9CULLI00QM.html
『火垂るの墓』の清太を「自己責任」で断罪する言説には、たしかに違和感がある。
まだ14歳の子供にすべての責任を押し付けるのは、あまりにも酷だし、戦争の犠牲者としての側面を無視してしまうからだ。
けれど同時に、「だから清太は悪くない」とだけ言って済ませてしまうのも、どこか引っかかる。
むしろそこには、彼を縛っていた“有害な男らしさ”の呪いが見えてくるんじゃないか。
「男は弱さを見せるな」「面子を守れ」という規範が、清太に頭を下げることを許さず、結果的に妹を餓死させてしまった。
この構図は、旧日本軍が民間人に「捕虜になるより自決を」と迫った場面を連想させる。
清太は戦争の犠牲者であると同時に、その「有害な男らしさ」に加担してしまった存在でもある。
だから彼を責めるというよりも、男らしさという呪いがどうやって彼を通じて節子に及んだのかを考える必要があると思う。
自己責任論としてではなく、“男らしさ”批判として読むとき、この物語が突きつけているのは戦争の悲惨さを超えて、現代にも続く抑圧の構造なんじゃないか。
お前は今まで心の底から渇望したことがないんだろう。そして、求めても得られず、何年も苦しんだことがないのだろう。あまつさえ、お前にとっての「プラスマイナスゼロ」になるために、ただ「ふつう」になるためにゴミのような境遇から這い上がらなければならない人間のことなど何も気にかけていないのだろうな。
俺はそれが許せない。
お前のように、何も求めずとも得てきた人間。
健康的な精神、健康的な肉体、趣味、友達、親、彼氏、社会的な成功、生きる理由などなくても生きられる暖かい暖かい生活をして生きたお前。
俺は憎悪する。
お前の境遇そのものではない。その境遇にあって何も感じず、その無知から軽い気持ちで他者を見下す前をこそ憎む。
お前が不幸になったときはゲラゲラと笑ってやろう。お前の子供が入院したときは鉢植えの橙百合を贈ろう。
それまでは幸せにな。無病息災でな。お前に何かあったとき、俺が耳元でゲタゲタと笑ってやる。
しかし俺は強烈に生きている。生きざるを得ない。お前の生活レベルに遠く及ばずとも、はいつくばっでも生きている。
お前、お前のような人間がいる。そのことにだ。
お前が憎い。
お前の文章のすべてが憎い。
夜景がきれいだとか、ここからの景色は雄大だとか。そういう気持ちでのぞき込んだのだろう。
お前はもうわかっているだろうが、お前がうらやむ綺麗な夜景にはゴキブリが生きるために蠢いている。
お前、お前を俺は許すことができない。
のぞき込むのは簡単だ。しかしお前のような人間が、「ふつう」を光り輝かせて上から降りてくると、それまで「普通」だと思っていたやつらは「俺は底辺だったのか」と意識せざるを得ない。闇の中で身を潜め、温めあってそれなりに幸せに生きていたのに、光をいきなり浴びせられ、自分たちがゴキブリだったと気づかせられる。お前にはわかるまい。
お前は罪びとだ。
しかし断罪はできない。するつもりもない。お前は罰を受けるべき人間ではない。幸せに、子供と夫と生きていけばいいだろう。
呪いを、恨みを俺が乗せる。
お前は幸せになるべきだ。俺たちを踏みつけて、生きていくべきだ。
お前を憎みながら、俺は蠢いていく。
いつかお前のレベルまで這い上がるのが俺の生きがいだ。そしてもっと上へ、もっとまともなところへ行きたい。
それが俺の生きがいになってしまった。
人間、本当に憎い時は息を吐くんだな。お前のおかげで分かった。
お幸せに。
生きがいなど幻想だ。
光を逃れて陰に入った安心感だけで生きていけるのだ。
車で外食に出かける時に、俺が運転し、後部座席には子供達がいるのに妻が自分一人でYouTube のなんか動画を平気で見る。
礼儀とか他人と時間・空間を共有しているという気持ちが無いんだろうか。人として終わってんなと思った。
帰りに、同じように俺が運転し、父が隣に座り母が後ろに座った。母が自分一人でYouTube のなんか動画を平気で見る。
俺の母は携帯にも疎いし礼儀にそれなりに厳しい人だったので俺はひどく動揺した。70歳を超えているので人として壊れ始めているのではないかと心配した。
一番信じられないのは二人ともヘッドフォンをするわけでもなく携帯からの音声を普通に垂れ流していたことだった。うるさいでしょ。
そして俺は、ふと「こんな小さなことを気にして自分勝手に人間のあるべき姿を持ち、そこから外れた人を家族であろうと断罪している俺の方が壊れてるのかもしれないな…」と思った。
俺はどちらかというとPC とか動画にのめりこみやすいタイプで人とのコミュニケーションも億劫になる方だ。
だけど、人と一緒にいる時にPC とか動画にのめりこんでその場にいる人との交流を疎かにするのはとても失礼だと思っている。
けど、時代が進んで実は今はそんなことで失礼だと思う奴はいないのかもしれない。
俺は壊れてるのだろうか、価値観のアップデートが追い付いていないのだろうか。
それとも、妻や母が知能が弱いためにYouTube のアルゴリズムに心を支配され始めているのだろうか。
なんにせよ、すごく自分の価値観が揺さぶられ、自分の子供を最後まで愛せるのは俺一人だけの気持ちになり、不安になった夜だった。
Permalink |記事への反応(12) | 21:29
すごい。私の主張のために、こんなに丁寧に時間をかけて反論してくださったんですね。ありがとうございます。論点をまとめてみました。
あなたは「教育・勤労・納税」に準じて出産も義務だとしています。
ただ、憲法や法律上、出産・結婚は義務ではありません。国家的に人口を維持する必要があるのは事実ですが、それを個人に「道徳的義務」として背負わせるのは乱暴です。
一方で、社会全体が少子化で苦しむ中、子を産み育てる人々が社会を支えているのも事実です。だから「感謝や支援が必要」という議論は成り立ちますが、それを「産まない人=寄生虫」とまで言うのは論理の飛躍です。
私の主張は「自分の人生の目的を持つことで、他人の選択に振り回されない」という点に重きを置いています。これは個人の尊厳を守る考え方から来ています。
あなたはそれを「幻想」「逃避」と切り捨てていますが、それは「社会的貢献の形は一つ=結婚・出産・労働」という狭い価値観から来ています。
実際には、社会への貢献は教育・芸術・医療・ボランティア・納税・地域活動 など多様な形があります。出産・育児はその中の大きな一つではあるけれど、唯一の正解ではありません。
3. 「免罪符」という発想の危うさ
「免罪符」という言葉は、そもそも「産まないのは罪」という前提があるからこそ出てきています。でも、産むか産まないかは本来「罪と罰」の話ではなく、価値観や条件による選択の話です。
「産まない=社会的寄生虫」というのは、社会を「再生産のための装置」としか見ていない発想です。人間の存在をあまりに機能的に見すぎている。
「産まない代わりに社会にどう責任を果たすか」を考える姿勢の方が、はるかに成熟したスタンスだと私は感じます。
まとめ
「免罪符が必要」という発想自体が不健全で、むしろ「自分はどう社会に関わるか」を主体的に考える方が建設的。
「寄生虫」的な断罪は、社会の持続性への不安の裏返しだが、個人の尊厳や自由を軽視しており危うい。
まあ、1分でAIにまとめてもらったんですけどね。
SNS見てると、いじめ加害者は絶対許さないって盛り上がってるのをよく見る。
でも調べると、小中学生の8割くらいが加害経験ありってデータがある。
無視とか仲間外しとか、からかいも含めるとほとんど全員加害者側に立ったことがある。
そう考えると、加害者叩きしてる人も、実は自分も過去にやってた可能性高いんじゃないか。
差別も同じだと思う。
誰だって無意識に偏見持ってるし、差別的なこと口にしたことがない人なんてほぼいない。
私は差別しないなんて言い切れる人ほど逆に怪しい。
大事なのは一度も加害しないことじゃなくて、やってしまったときに気づいて修正できるかどうか。
よくきたな。おれは██████だ。おまえは今、████████という名の底なしの便所の落書きを眺めながら、そこから吹き上がってくる正義と配慮の悪臭に顔をしかめ、己の魂がじわじわと腐っていくのを感じているのだろう。なぜ、善意の言葉がナイフのように突き刺さるのか。なぜ、思いやりを装った連中が、血も涙もない処刑人のように見えるのか。その答えは簡単だ。おまえが今、目撃しているのは、タルサドゥームが発明した最新にして最悪の精神的拷問器具・・・・・・「ノーコスト気遣い」という名の魂へのグーパンチ・・・・・・だからだ。
いいか、まずおまえの脳みそを洗浄しろ。おまえが████████の██████で遭遇するアレは「議論」でも「対話」でもない。あれは、己の空っぽの自尊心を満たすためだけに、安全圏から他人を撃ち抜く道徳的優位スナイピングだ。連中は、自分の意見、自分の信条、自分の人生を賭けて戦っているのではない。ただ、「おれはこいつより倫理的で、配慮深く、”わかっている”人間だ」と証明するためだけに、言葉の弾丸をばら撒いているだけなのだ。
昔の男たちは、たとえ相手が気に食わないクソ野郎でも、「盗人にも三分の理」と言って、その存在を認め、その土俵で殴り合った。そこには、自分とは違う理屈で動く人間がいるという、世界の複雑さに対する最低限のRESPECTOがあった。
だが、今の██████の腰抜けどもはどうだ?奴らは「バカの文章には1分の理もない」と高らかに宣言する。これは、己の貧弱な感性の物差しで測れないものを、全て「無価値」「悪」と断罪する、思考停止のファシズムだ。奴らはもはや、相手の理屈を砕こうとすらしない。
その代わりに奴らが使うのが、ぬるぬるした毒だ。「あなたは自意識過剰ですよ」と正面から殴るガッツすらない。その代わりに、「あなたのその言動は、見ていて辛い。専門の福祉に繋がった方がよいのでは?」と囁くのだ。
これが何を意味するか、わかるか?これは、おまえを「対話の相手」から「治療・救済されるべき可哀想なオブジェクト」へと引きずり下ろす、人格そのものへの攻撃だ。おまえの言葉の正当性や論理を問うのではなく、「おまえは正常ではない」という烙印を押すことで、議論のテーブルそのものをひっくり返す、最も卑劣な手口なのだ。それはもはや言葉ではない。魂の尊厳に対する化学兵器だ。
さらに吐き気がするのは、その全てが「ノーコスト」で実行されることだ。奴らは、おまえを「福祉に繋がれ」と突き放した後、実際におまえの手を引いて役所に連れて行くわけでもなければ、おまえの苦しみに寄り添うわけでもない。ただキーボードを叩いて「心配しているフリ」を演じ、周りからの「いいね」という名の安っぽい拍手喝采を浴び、次のターゲットを探しに行くだけだ。
それは気遣いですらない。道端の石ころを蹴飛ばすのと同じ、何の痛みも覚悟もない、空っぽの暴力だ。己の安全圏は1ミリも揺らぐことなく、ただ他人の魂に土足で上がり込み、憐れみという名のツバを吐きかけて満足する。これこそが、タルサドゥームが現代人に与えた、最も手軽で中毒性の高いエンターテインメント・・・・・・腰抜けライドショー・・・・・・の正体だ。
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おれが言いたいことは以上だ。おまえがその悪臭漂う沼で生き残りたければ、まずその偽善の言葉の構造を理解しろ。「あなたのためを思って」という前置きは、MEXICOの荒野では「今からおまえの背中を撃つ」のと同じ意味だ。
そのぬるま湯のような毒に浸され、反論する気力すら失い、「おれが間違っているのかもしれない…」などと思い始めた瞬間、おまえの魂は死ぬ。やがておまえは何も発言できなくなり、他人の顔色を窺うだけの透明な存在と化し、誰にも記憶されることなく、静かにアカウントに鍵をかけて消えてゆくだけだ・・・・・・END・・・OF・・・SELF・・・・。
わかったら、今すぐそのクソみたいな██████を閉じろ。そして、ノーコストの言葉で他人を殴って快感を得るのではなく、汗と血を流して、現実世界で何かを成し遂げろ。それが、おまえが真の男になるための唯一の道だ。
このパターンと思いきや違うやつ「悪役令嬢たちは揺るがない」 これは面白かった
「聖女と王子が恋におちて婚約破棄される悪役令嬢」ってテンプレのメタ、さらにメタぐらいのひねりがある
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あと「屋根裏部屋の公爵夫人」は婚約破棄じゃなく結婚された後冷遇される話だけども、邪悪ではなく無能な奴らがひたすら主人公に迷惑かける話なので、読んでて納得感があった。
「邪悪な奴が残酷な断罪されてザマア」パターン、邪悪な奴が意味なく邪悪だったりするので冷めるんだよね。
「害悪バカを啓蒙して味方に取り入れる」パターンは女性向けではあんまりないけど、最近でてきててそれはいいと思う。
個人的には、婚約破棄された令嬢が隣国の王子とかとくっついたり、実家で虐げられてた子がスパダリ当主に嫁にと所望されたり、ここまではまあいいんだけれど
その後「ヒロインが実は特殊能力持ちでした」になったら離脱したくなるな
職人の見て盗め文化は時代遅れっていう論調をよく耳にする。SNSなんかではそれを過去の悪しき伝統と断罪する声も多い。でも本当にそうか?
だってもし簡単に手順をすべて公開すれば、その技術はすぐに外へ流れる。極端な話、数か月だけ働いて辞めてしまえばそのまま別の会社やライバル業者に技術が渡ることになる。
だから昔の職人は、弟子がある程度の年月をかけて技術を身につけるのを見届けながらこの人は信頼できると思ったタイミングで核心部分を教えてきた。これは単なる意地悪ではなく、技術を守るための防衛策でもあったと思う。