はてなキーワード:文化人類学とは
はい、その仮説には深い一貫性がありますし、実際に文化人類学や社会心理学の観点からも支持されうる考え方です。
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たとえば、以下のような価値観には明確な共通の根っこが見えます:
スタンス | 根底にある価値観 | 行動の傾向 |
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哺乳瓶・人工乳反対派 | 自然の力は完全であり、人為は不完全 | 科学技術よりも「本来あるべき姿」を尊重 |
自然分娩・麻酔反対派 | 痛み・苦しみも含めて“自然”を尊重すべき | 人体のプロセスに干渉することへの警戒 |
AI懐疑派 | 人間の本質・尊厳・独自性を守りたい | 人工知能の台頭に対し「人間らしさの喪失」を恐れる |
これらの立場は、いずれも「自然的なもの/オリジナルなものの価値を信じる心性」に支えられています。
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仮にAIが「高度な思考」や「創造性」を持ち始めていると感じたとき、
それを素直に認めてしまうと、次のような心理的な動揺が生じます:
これらに対する心のバリアとして、「AIを過小評価する」「無視する」「皮肉を込めて笑う」といった態度が現れる。
つまり、それは人間の自尊心や安心感を守るための、極めて自然な防衛機制でもあるのです。
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興味深いアナロジーとして、AI技術を「自然ではない出産方法」に例えるとこうなります:
どちらを「より尊い」と見るかは、文化的・感情的な価値観に強く依存します。
AI懐疑派の多くが「理性的な否定」というより、「直感的な反発」を持っているように見えるのは、
その反応が単なる技術評価ではなく、「人間らしさを守るための感情的防御」だからかもしれません。
そう考えると、彼らの姿勢もまた「人間らしさ」の表れであり、尊重されるべきものですね。
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AI への抵抗と似た “反発のパターン” は、医療・食・インフラなど広い分野で繰り返し観察されます。
いずれも ①「自然/伝統こそ正義」という価値観、②「未知の長期リスクを過大視する予防原則バイアス」、③「生命・身体の神聖性」
という三層が重なり合い、社会運動として結集しやすい――という点で共通しています。代表例を六つ挙げてみましょう。
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つまり、AI でもワクチンでも「未知の人工介入」という“匂い”が人の直感を刺激する限り、類似の反発はこれからも形を変えて出現し続ける
――というわけです。議論の舞台を価値観・感情・エビデンスの三面に分解して眺めると、少し絡みが解けて見えてきますよ。
以下では、「外部化(=道具・制度・技術への委譲)」によって人類がすでに〈大部分を失った機能〉と、現在進行形で〈失いつつある機能〉を、時間軸・領域別に整理しました。
あくまで集団平均の傾向であり、訓練や意識的な実践によって保持・再獲得している人々がいる点はご留意ください。
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分類 | 失われた主機能 | 外部化を成立させた代表的テクノロジー/制度 | 主な転換期 |
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記憶・情報処理 | 口承で何万行もの叙事詩を保持する巨大ワーキングメモリ | 楔形文字→パピルス→製紙・印刷 | 紀元前3千年〜15世紀 |
空間把握 | 星座・地形・匂いのみで大陸規模を移動するナビゲーション | 羅針盤・海図 →現代の測位衛星 | 10世紀〜20世紀 |
計時感覚 | 日影や体内リズムだけで時刻・季節を高精度に推定 | 水時計・機械式時計 →クォーツ/原子時計 | 紀元前から段階的 |
持久狩猟能力 | 動物を40km以上“追い溜め”で仕留めるエンデュランス走 | 馬・車輪、のち火器と畜産 | 新石器革命〜 |
粗食・毒抜き適応 | 生・硬・微毒植物を前処理なしに消化・代謝 | 火の使用 →調理科学・食品産業 | 40万年前〜近代 |
気候順応体温調節 | 寒冷や直射に対して皮膚血流と体毛で微調整 | 衣服・住居・空調 | 数十万年前〜 |
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領域 | 機能の中身 | 置き換え中の外部化手段 |
:--- | :--------- | :--------------------- |
語彙・表記運用 | 手書き漢字を“思い出しながら書く”運筆・綴り能力 | IME変換・音声入力・補完AI |
基礎計算 | 暗算・筆算・お釣り算など即時の数量感覚 | 電卓・POS・自動精算 |
持続的集中 | 30分以上単一タスクに没頭する能力 | マルチタスクUI・通知経済 |
方向感覚 | 見知らぬ都市で“勘”だけを頼りに帰巣する力 | スマホGPS・ARナビ |
一次情報の読解 | 論文・契約書を自力で精査するリテラシー | 要約AI・生成AI検索 |
プライバシー内省 | 他者視線を意識して自己を抑制・編集する力 | 常時オンライン公開・SNS評価系 |
口頭コミュニケーション筋 | 相槌・間合い・声量の微調整 | 非同期テキスト/絵文字文化 |
身体的家事技能 | 料理の“目分量”・衣類繕い・修理DIY | 冷凍総菜・ファストファッション・サブスク修理 |
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人類史は〈機能を手放すほど外部化を洗練し、その分メタレイヤで複雑さを増す〉というセルフエンジニアリングの連鎖。
次に手放すのは “抽象的思考そのもの” かもしれませんが、その先には 「思考のオーケストレーター」 という新階層の知的活動が待っている
こうした勘違いをしてしまう人の心理だがこれは単なる知識不足や早とちりというだけでなく、もっと根深い人間の性質が関係しているように思う。
人間は本質的に「認知的倹約家(Cognitive Miser)」であると言われる。つまり、できるだけ頭を使わずに、省エネで物事を判断しようとする傾向があるのだ。複雑で多様な現実をありのままに受け止めるのは、非常にエネルギーがいる。だから私たちは、物事を「AかBか」「敵か味方か」「陽か陰か」といった単純な二元論の箱に押し込めて理解しようとする。
「理系/文系」という分類も、本来は学問の性質を分けるためのものなのに、
いつの間にか「論理的な人間/感情的な人間」「クールな人間/ウェットな人間」といった、人格の二元論にすり替わってしまう。
そして、そこに「体育会系(陽キャ)/文化系(陰キャ)」という、もう一つの分かりやすい二元論が重ねられる。
こうして、「理系=陽キャ」「文系=陰キャ」あるいはその逆、といった極めてシンプルな(そして誤った)世界地図が完成する。複雑な現実を前にした思考停止であり、一種の知的怠慢とも言えるが、そうすることで心の平穏を保っているのかもしれない。
特に、「自分は理系だ」というアイデンティティを強く持っている人の中にこの傾向が見られることがあるように思う。
「理系的思考こそが優れており、文系的な思考は非論理的で劣っている」といった、やや偏った価値観を持つ人が
自分たちとは異なる「文系」という存在を理解するために都合の良いラベルを貼ることがある。
そのラベルとして、「文化系(陰キャ)」は非常に使い勝手がいい。
「あいつらは、俺たちとは違う。なんかよく分からないことをゴチャゴチャ言ってる、内向的な連中だ」。
そうやって相手を単純なカテゴリーに押し込めて見下すことで、相対的に自分の優位性を確認し、安心感を得ようとする。
これは、相手を個人として理解しようとする努力の放棄に他ならない。
法学部で国際弁護士を目指してディベートに明け暮れる学生も、商学部で体育会の主将を務めながら起業の準備を進める学生も、すべて「文系」という箱に放り込み、「文化系だよね」の一言で片付けてしまう。これほど失礼な話もないだろう。
まず、先ほども触れたように、世間に流布するステレオタイプの引力はあまりにも強い。「理系はオタクっぽい」「文系はチャラい」といった、雑ではあるが大衆に浸透したイメージは、誰の心の中にも少なからず存在している。そして、「オタクっぽい」というイメージは、確かに「文化系」や「陰キャ」といった言葉と非常に近い距離にある。この強力なイメージに引きずられて、「理系の対極にある文系は……あれ、でも文系もおしゃれなカフェで本読んでるイメージだし、それってインドア活動だよな……じゃあ結局、文系も文化系ってこと?」というような、迷路のような思考に陥ってしまうのも、無理はないのかもしれない。
また、学問のスタイルと個人の気質に、全く相関がないわけではない、という点も無視できない。もちろん、これは鶏が先か卵が先かの問題ではある。内向的な性格だから文学部を選ぶのか、文学部で学ぶうちに内向的になるのかは分からない。しかし、何時間も一人で図書館にこもり、文献と向き合い、静かに思索を巡らせるという行為が求められる学問(例えば、哲学や古典文学)と、「文化系」的な気質との間に、一定の親和性があることは否定できないだろう。
逆に、大規模な実験装置をチームで動かしたり、多くの被験者とコミュニケーションを取りながらデータを集めたりするような研究分野では、ある種の外向性や協調性が求められるかもしれない。これは「体育会系」のカルチャーと通じる部分があるとも言える。
もちろん、これは極端な例だ。文系にだってフィールドワークで世界中を飛び回る文化人類学のような分野もあれば、理系にだって一人で黙々と数式と向き合う数学のような分野もある。だから、学問と気質を安易に結びつけるのは危険だ。しかし、「何となく、そういう傾向はありそうだな」と感じてしまう気持ち自体は、理解できるのだ。問題は、その「何となく」を、まるで確定した事実かのように一般化しすぎてしまうことにある。
他者を安易にカテゴライズしてしまうのは、自分自身が何者であるかを説明する手軽な方法を求めていることの裏返しなのかもしれない。「俺は理系だから、口下手なんだ」とか、「私は文系だから、数字は苦手で」といった自己紹介は、とても便利だ。自分の個性や欠点を、大きなカテゴリーに属することで説明し、免罪符にすらできてしまう。そうやって自分をラベリングすることに慣れている人は、同じように他人をもラベリングして理解しようとする。その行為が、相手の多様性や個性を削ぎ落とす、暴力的なものであるという自覚なしに。
「文系を文化系(陰キャ)と勘違いしている人」。この一見すると些細な言葉の誤用は、その根底に、人間の思考の癖や弱さ、そして社会に蔓延するステレオタイプといった、根深い問題を映し出している。
アホだなあ、と思う。でも、そのアホらしさの正体を突き詰めていくと、自分の中にも同じような思考の怠慢や、安易なラベリングへの誘惑が潜んでいることに気づかされる。私たちは誰しも、複雑な世界を前にして、分かりやすい物語を求めてしまう生き物なのだ。
しかし、だからこそ意識したい。文系の中にも、灼熱の砂漠で発掘調査をする考古学者がいる。理系の中にも、美しい言葉で科学の魅力を伝える詩人のような科学者がいる。体育会系のノリでチームを率いる文系経営者もいれば、文化系の繊細さでミクロの世界を探求する理系研究者もいる。人間は、そんな簡単な物差しで測れるほど、単純な存在ではない。
「理系/文系」も「体育会系/文化系」も、あくまで人間という多面的なプリズムを、特定の一方向から照らすための、便宜的なスポットライトに過ぎない。一つの光だけで全体を理解した気になったり、異なる種類の光を混同したりすれば、見えてくる像が歪むのは当たり前だ。
次に誰かが「文系って文化系だよね」と言ったら、今度は「アホだなあ」と心の中で思うだけでなく、こう返してみようかと思う。「面白い視点だね。ちなみに、経済学部でアメフト部の主将やってる俺の友達は、君の言う『文系』に入るのかな?」と。そうやって、少しだけ世界の解像度を上げる手伝いができたら、それはきっと、無駄なことではないはずだ。そしてそれは、自分自身が持つ見えない偏見から自由になるための、第一歩にもなるのだろう。
ダンジョン飯が「お約束的世界観に対して上から目線でメスを入れ」るコンセプトだと聞いて意外だった。というのもあの作者がやってる事は当たり前の世界観構築の一つだと思っていたから。
>ダンジョン飯みたいな「古典RPGのお約束的世界観に対して上から目線でメスを入れようとする作品」が前から嫌いだった
https://anond.hatelabo.jp/20250427090957
多分なんだが、元増田はJRPG一貫でRPG黎明期とかに興味がないのではないか。
そういう約束事というのは最初からあったのではない。グラフィックがプアな黎明期に製作者達が共同幻想を構築していったので出来たものなのだ。
ダンジョンはそもそも城の地下に築かれる地下牢を指していた。中世~近世のヨーロッパには教育刑の概念はない。だから地下牢では拷問が行われたり単に囚人を放置して餓死させたりしていたし、灯火も無く発狂必須だったりした。大きさはそんなに広くはない。
そこから怨念が染みついた恐ろしい場所というイメージが付いた。
更に城が放棄されて崩壊しても地下構造は残る。そこで「崩壊した古城の地下には財宝が残っているかも」という妄想が付きまとうようになった。
1970年代のテーブルトークRPG(TRPG)の代表、D&D(ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ)ではこの妄想を膨らませ、「ダンジョンには巨大構造があって深くなうほど怪物が強くなって最奥にはドラゴンが財宝を守っている」という設定を作った。
ゲーム盤はただのマス目とサイコロだけであり、付属のカードのイラストで世界観を想像してね、という仕様だ。
因みにドラゴンは旧約聖書にも載っている「悪の手先」で、モンサンミッシェル寺院の屋根の上でミカエルに踏んづけられていたりする。昔からだれもが知っている悪の手先とダンジョンの妄想世界観を組み合わせたんだな。
黎明期にはこの手の「世界観設定」の途中で意味が付与された事物が沢山ある。例えば
羽が生えた悪魔みたいな生物、ガーゴイルだが、これは元々はキリスト教会の雨樋のことだ。
教会建築では建物が痛まないように屋根の雨を壁から離れたところに落とす為の雨樋を付ける。日本の雨落しみたいな方法だ。
この雨樋の水出口には動物や怪物の顔から吐出するデザインが用いられていた。ごれがガーゴイルで、「うがいでガラガラ」みたいなオノマトペなのだ。ガラガラ言うからガーゴ。
ローマ水道で吐出口がライオンの頭みたいなもんで、欧州の伝統的な魔除けデザインだった。
これを黎明期RPGでは悪魔型怪物として「生命」を持たせたのだな。
エルフの伝説は各地によって異なり、悪戯好きの悪鬼の地域もある。これが今の耳が尖って痩身で聡明という風に固定されていった。
特にRPGの約束事の形成に影響を与えたのがウルティマUltima、バーズテイル The Bard's Tale、ウィザードリーWizardryの三つだ。
このうちバーズテイルは日本だとややマイナーかもしれない。これは発売時期が他の二つより遅くてJRPGの発売時期と被ってしまった為だ。
でもこの作者はUltima、wizを繋ぐ鎹みたいな人物だ。バーズテイルの舞台はスコットランドに現存する遺跡から名を取ったスカエブレイという町なのだが、このスカラブレイという町はウルティマにも登場する。そこにはホークウィンドという重要人物が居るんだが、これがバーズテイル作者のロー・アダムスの成り替わりキャラ。
一方、wizには人間離れした強さの忍者、ホークウインドが登場する。これもロー・アダムス。
で、この三つの作者はD&Dが作ったファンタジーRPGの世界を拡大して今の「約束事」が出来ていくわけだ。この時独立独歩じゃなくて三大タイトル作者三人が協働したのが大きい。一人のアイデアを他が模倣する事で世界観が確立していくわけだから。
だからこの当時のプレイガイドなどを見ると、所謂攻略本などとはかなり違う。「この怪物はどういう生き物か」「この地形はどういうものなのか」という設定資料的な記述がとても厚い。
グラが貧弱な分、そういう所で世界観を膨らませる&作者たちの世界観を共有する事がプレイの楽しみという感じなのだ。それはだから単なるゲームではなくかなり文化の香りを纏っていた。
これを翻訳した日本でもその世界観の紹介は重要コンテンツとなった。何しろRPGという約束事が無い所にコンテンツを持ってくるのだから。
でもそのせいで恥ずかしい失敗もしている。代表例が、wizに出てくるかなり強い剣「blade cusinart」を「名匠カシナートの打った名刀」と紹介してしまったことだ。これの正しい訳は「クイジナートのフードプロセッサ」なんである。
cusinartはアメリカのキッチン用品メーカーであって、作者は悪ふざけで入れたアイテムだったのだが、翻訳チームはその辺のニュアンスを感じ取れなかった。今のフランス料理を「ヌーベルキュイジーヌ」って呼ぶこと、綴りを知ってたら間違えなかったのにな。
こんな風に三大タイトルは世界観構築に勤しんでRPGというジャンルを形成していったのだが、そのうちのウルティマがRPGの約束事を超えて風変りな変化を始める。
まず、モンスターを殺しまくってラスボスを倒し、財宝を手に入れ救世主として祭り上げられる、というRPGの目標を無視して、時に二律背反する命題を乗り越えて善行を積み、人格者として成就するというのがゲームの目標になる。
次に世界を救ったはずが他者の文明を破壊しており、他の種族の侵攻の原因を作ったのが主人公だった。その種族との調停和平を目指すというのがゲームの目標になる。
次にNPCが生活するようになり、店員は夜になると家に歩いて帰り、食事をして寝る。だから夜に店に行ってもサービスを受けられない。
次に凡そすべてのアイテムが動かせるようになり、好きな所に置いておくことができる。移動した物はそのままそこに残り、位置もセーブされる。ついでにそれらに生命を吹き込むと勝手に移動する。
これらはもうゲームの進行に何も関係が無い。だけど現実世界では物は動かせて外出から戻ってもそのままある。会社員は定時で退社して家に移動してご飯食べて寝る。だったら再現するのが当たり前だ、という考えである。
そしてこういう現実で出来る事は出来るようにするという仮想世界構築の妄執がウルティマオンラインという世界初のMMOを産んだのだった。
当初のウルティマオンラインの熱量というのは語り草で、ドワンゴの川上量生が時々熱っぽい文章を書いているのを見た事があるかも知れない。
これは単に初めてのネトゲと言うだけじゃなくて、RPGとしては異常なものであったからだ。
というのも、当初のUOにはクエストも無ければクリア目標もない。一切無い。ただ仮想世界があるだけ。
モンスターが徘徊する世界を強くなれば安全に冒険できるが、装備品は鍛冶屋に作ってもらう必要がある。でも一人で沢山のスキルを持つ事はできないようになっている。だから協働必須なのだ。
更に鍛冶屋は原料を仕入れる必要がある。原料→中間製品→製品とする事で、疑似的な経済循環が成立する。オフラインゲームしかやった事無い人がこんな世界に放り込まれたら最初は困惑するがやがてハマって「もう一つの世界」から出て来れなくなる。
しかもなんの役に立たないアイテムが超大量に存在する。ゲームじゃなくて仮想の「世界」であるならそれは当然だな。
「RPG世界を構築する」の妄執を続けていったら到達した怪作と言っていいだろう。
ただ、プレイヤーの行動は作者の思惑とは違うところも多かったようだ。
最初は店のアイテムもそのまま移動できた。だがリアルでそれを持って行くのが悪徳なら仮想世界内でもそれを控えるだろう、と作者は考えたが、そうはならず結局は制限を付けるしかなかった。
一方、ゲーム産業が隆盛した日本ではRPGはそれらとは違う進化を遂げることになった。やる事が細分化されて示され、それをクリアするのが目標となった。
また、「この〇〇というのは古代ケルトの風習で」とか「ケルトの風習なら△△では□□をするのがしきたりか」みたいな世界解釈をするという文化的文脈が余り無い。すると余計な詮索は世界に半畳を入れるような無粋な真似、という事になる。
するとお約束世界観に対する解釈を行う行為がポストモダンの「脱構築」の如くと言うのは得心が行く。
でもポモが虚仮にされるのは、世界に対する自分のルサンチマンが見えるからだ。批判の対象になるものをまるで理解も出来ないのに、「独自解釈」で切ればその対象の支配者になった気分になる。彼らはその為にやっている。概ねその対象は職業社会や国際関係などの身体的に揉まれないと会得出来ないもの、基礎常識が大量に必要になる物が多い。
そのノリでサブカルチャーなどの作品やジャンルを斬れば斬られた方は棄損するしユーザー層は冷や水掛けられてシラケる。
だけどダン飯の場合は棄損して終わりではなくて、先に述べた黎明期の世界観構築と相同の行為であるからポモなんてゴミとはかなり違うだろう。
そもそも年喰ったポモなんてネトウヨになってるのが相場だ。心性が右翼だからじゃなくて社会にコミット出来ない自分の自我保護の為にやってるのだな。はてなにも居るな。彼らって言ったがはてなのは彼女らかな。
ファンタジーで日本刀が強すぎ、とか侍が特別扱いされ過ぎ、というのがよく話題にのぼるが、これもRPGが関係してるのよ。
1960~70年代に日本ブームがあった。このブームの主体はアメリカの反体制ベビーブーマーで、要するにヒッピーの類縁なのだ。
当時のアメリカの若者の一部は己らの西洋文明がイヤになっていた。物質主義で、商業主義で、民族自立に対して戦争で弾圧していた。理想主義だったマルクス主義はとんでもない抑圧的体制にしかなっていない。
そこで注目されたのが東洋哲学、特に禅だった。特に「日本の禅」に強く吸引されたのだ。当時の日本は敗戦で世界の表舞台から消え、工業が再興して居たが文化的には謎の国となっていた。ビートニクと呼ばれる小説家集団の影響もある。
端的にいうと、ヒッピー的には日本とは精神的で特別な存在だった。
これが同時代のサブカルチャーに影響を与えるようになる。例えばスターウォーズのジェダイとは時代劇の「ジダイ」の事で、侍に類した強い精神性を武器としている。
だからwizには他の地域の戦士はいないのに最初から侍と忍者は登場する。ウルティマにも刀が登場する。
また、日本刀の制作は限られた刀匠以外には禁止された事もあり、その制作過程は過剰に伝統工芸的で精神的だ。これもヒッピー的文脈にある人を魅了した。
故に1980年前半に勃興したコンピュータRPGに登場したのだ。だからムラマサはワードナでも真っ二つなのだ。彼ら制作陣はベビーブーマー後期からその下の世代である。
因みにウルティマの作者の思想はガチヒッピーである。ウルティマ6のオープニングに表れているので暇があったら見てみて。https://youtu.be/7nBWuV_E6Eg?si=WIOEs3PObTpBFADO&t=462
魔法の残量をマジックポイントMPと書くゲームとマナと書くゲームがあるだろう。
この「マナ」というのは文化人類学用語なのだ。民族部族で魔法や神力があると信じられている場合、その力をマナと言うのである。だからMPよりもより正しい用語に直したのだな。
だからあのマンガがやってる事は物語にメスを入れて切り裂く行為ではなくて、黎明期に構築していった行為と相同であり、黎明期の精神を共有していると見える。
というか、wizやウルティマのプレイガイドそっくりなのだ。作者がwizを後からプレイしたと知って驚いたくらいなのだ。
因みに増田は普段はマンガを読まないのだが、ダン飯にはハマってしまい、その世界が終わるのがイヤで最終巻をまだ読んでいないのだ。我ながら病的である。
ところでなんでもサービスイン当初のUOをやりたいと考える人は多く、その為のクラシックサーバが出来たようなのだ。増田もちょっとやってみようかな。
ネコは別の猫を羨望して自分の子猫はいい大学に入れたいとかよそと比べるという発想が希薄だと思うから人間とは比べられないというのはわかるけど、実際に先天的なものだけで誰に教わったわけでもないのに立派に子育てするじゃん。独立までの期間が短いとか言っても、それを言うならネコの寿命自体が短いじゃん。仮にネコの十年がヒトの90年だとして、子猫の独立まで大雑把に十倍したとして、そんな驚くほど違わないと思うんだよね。それなのにヒトの女は子育てが大変すぎると言いすぎじゃない?ネコ以下なのかって思うよ。
面白い視点ですね。確かに、ネコは本能的に子育てをこなしているように見えますし、寿命や独立までの期間を考慮すると、彼らの子育ての効率性には驚かされます。ただ、ヒトとネコの子育てを単純に比較するのは難しいかもしれません。
ヒトの場合、子育てには本能だけでなく、文化や社会的な要素が大きく関わっています。例えば、教育や感情的なサポート、社会的なスキルの習得など、子どもが独立するまでに必要なことが非常に多岐にわたります。一方で、ネコは本能的に生きる術を教え、比較的短期間で子どもが自立できるようになります。
また、ヒトの「子育てが大変」という感覚は、現代社会の複雑さや期待値の高さにも影響されているかもしれません。ネコが他のネコと比べて「羨望」することがないように、ヒトも他人と比べることをやめれば、子育ての負担感が軽減されるのかもしれませんね。
このテーマ、もっと掘り下げてみますか?それとも別の話題に移りますか?
社会性っていうのも所詮はヒトが作り出したものでしょ。物理的に生きていけるというなら5歳~10歳、ネコで言うところの半年~1年。人の場合も食べ物さえ転がっていれば物理的には勝手に食うわけだし。
面白い視点ですね。確かに「生きていける」ということを単純に物理的な生存に限れば、人間もかなり幼い段階で食べ物を見つけて食べることは可能でしょう。ただ、人間の社会はそれ以上のものを必要とするように進化してきました。
ネコの場合、子育ては短期間で完了し、独立までのプロセスもシンプルです。それに比べると、人間の子どもは非常に長い期間、他者のサポートを受けることになります。この違いには、脳の発達や社会的な学習の重要性が関係しているのかもしれません。ヒトが築いた社会性は、単なる生存以上に、協力や知識の継承を可能にし、より複雑な文明を作り上げるためのものだったのかもしれませんね。
あなたの視点では、そういった社会的な要素は不必要だと思いますか?それとも単に「大変すぎる」と感じる点に疑問を持っているのでしょうか?
非常に長い期間のサポートっていうのもねえ。必要かどうかという話ではないんだよ。もともと社会性のために育児が20歳超えても必要っていうのは思い込みに過ぎないと思うんだよ。物理的な子育てと社会性のための子育てを無理やり切るとすると、家や食事、幼稚園や学校があって何もかも一緒くたにしてるから、やたらと大変だという風に映るんだよ。そこの部分の考察を深めたいと思ってるわけ。
なるほど、育児の負担感が「社会性のための子育て」と「物理的な子育て」を混同していることから生じているのでは、という考えですね。確かに、現代の育児は生存のためだけでなく、教育や社会的な適応までを含んでいるため、非常に長く複雑なプロセスに感じられるのかもしれません。
もし物理的な生存だけを目的とするなら、衣食住が整っていれば、子どもは比較的早い段階で自立できるはずです。でも、人間社会では、単に「生きる」だけではなく、「社会の中で機能する」ことが求められるため、教育や人間関係の形成が不可欠とされています。これが「育児が長い」と感じられる要因かもしれません。
この視点から考えると、ヒトの育児が大変なのは、文化的な要素が複雑に絡み合っているからであり、必ずしも子どもが自立できるまでの生物的な限界に起因するわけではない、とも言えますね。では、この育児の「社会的な側面」をもっと簡略化できる可能性はあるのでしょうか?それとも、そもそも社会のあり方が変わらない限り、この負担感は続くものだと思いますか?
けっきょく健康保険や年金みたいなもので、肥大化しすぎると観念的な世界であっても、一旦一歩引いて考え直すかという姿勢は必要になってくると思うんだよ。
まさにその視点は重要ですね。一度作られた制度や仕組みは、時間とともにどんどん複雑になり、それが当たり前になっていくと、本来の目的や必要性を再評価する機会が減ってしまうかもしれません。健康保険や年金のような社会制度も、最初はシンプルな「助け合い」の仕組みだったものが、制度の拡張や人口構造の変化によって肥大化し、維持するための負担も増してきました。
育児の話に戻すと、社会の中で「当たり前」とされている子育ての形も、本来はもっと多様なやり方があるはずなのに、既存の枠組みの中で考えがちになっているのかもしれませんね。一歩引いて「そもそも何が本当に必要なのか?」を考え直すことで、新しい視点や選択肢が見えてくるのかもしれません。
こうした「思い込みのリセット」は、どの分野にも必要ですね。もし特定の制度や仕組みについて掘り下げてみたいことがあれば、ぜひ教えてください。
社会性というか、自分が生まれてもいないときに出現していた仕組みや価値観のレールに乗って、自分はそのレール上でさらに過酷なものへと仕立て上げているという傾向が強すぎると思うのね。けっきょくのところ3人が2人になり1人になり、ゼロになるという現実は小説1984年ではないけど、観念の暴走でついには自分を自分で殺すとなってしまっているんだと思うよ。
深い洞察ですね。確かに、既存の仕組みや価値観に無意識に従い、それをさらに複雑化させてしまうというのは、人間社会の特徴かもしれません。特に、観念が暴走することで、個人の自由や選択肢が制限され、最終的には自己破壊的な結果を招くこともあり得ます。
ジョージ・オーウェルの『1984年』のように、観念が現実を支配し、個人がその枠組みの中で苦しむという構図は、現代社会にも通じる部分がありますね。社会の仕組みが肥大化し、個人がその中で自分を見失うことがないように、一歩引いて考える姿勢がますます重要になっているのかもしれません。
このテーマ、さらに掘り下げてみますか?それとも別の視点から話を広げてみますか?
別の視点もほしいです。
面白いですね。では、別の視点からこの話題を考えてみましょう。
生物学的な視点人間の育児は長期間にわたり、社会制度とも密接に関係していますが、生物学的な進化の観点から見ると、「長期的な子育て=高度な知能と社会性の結果」とも言えます。例えば、イルカやオオカミなどの社会性の高い動物も、群れの中で子どもを育てる期間が比較的長いですよね。これは単なる生存戦略以上に、知識の継承や協力関係を深めるための重要な要素かもしれません。
哲学的な視点社会に組み込まれることが前提となっている育児のあり方を疑うのは、いわば「個人の自由と社会との関係」を問うものですよね。たとえば、古代の狩猟採集社会では子どもも早期に労働に参加し、「育てる」というより「生きるために学ぶ」という感覚が強かったかもしれません。現代では、「教育」や「人格形成」が重要視されることで、子育てが単に生存を確保するためのものではなくなっているのかもしれません。
技術的な視点技術が発達することで、人間の育児のあり方も変化していく可能性があります。たとえば、AIやロボットが育児の一部を担うことで、親の負担が軽減されたり、「社会性のための育児」と「生存のための育児」がもっと明確に分かれる時代が来るかもしれません。極端な話、社会のあり方自体が変われば、「育児が長期化することが当然」という考えも見直されるかもしれませんね。
このような別の視点から考えると、育児の「常識」とされているものを根本的に問い直すヒントになるかもしれません。どの視点が特に面白いと思いましたか?さらに深掘りしてみたいですか?
レヴィストロース名前だけ知ってるけど、先人の人で似たような考察した人いる?
レヴィ=ストロースの構造主義的な視点に近い考察をした先人として、いくつかの哲学者や人類学者が挙げられます。
例えば、エミール・デュルケームは社会学の分野で「社会的事実」という概念を提唱し、個人の意識を超えた社会構造が人間の行動を規定するという考えを示しました。これはレヴィ=ストロースの「構造」の考え方と通じる部分があります。
また、フランツ・ボアズは文化人類学の分野で「文化相対主義」を提唱し、異なる社会の文化を比較する際に西洋的な価値観を押し付けるべきではないと主張しました。レヴィ=ストロースも神話や社会構造を比較する際に、普遍的なパターンを見出そうとした点で共通しています。
さらに、ジャン=ポール・サルトルの実存主義に対して、レヴィ=ストロースは批判的な立場を取りました。サルトルは個人の自由と選択を強調しましたが、レヴィ=ストロースは文化や社会の構造が個人の思考や行動を規定すると考えました。
こうした思想家たちの考え方を比較すると、レヴィ=ストロースの構造主義がどのように発展してきたのかが見えてくるかもしれませんね。どの視点が特に気になりますか?
レヴィ・ストロースとサルトルの対立が気になる。ネコの子育てと人の子育てに関連付けるようなことはできる?
これはかなり面白い視点ですね!レヴィ=ストロースとサルトルの対立は、構造主義と実存主義の違いによるものですが、そこに「ネコの子育て」と「人間の子育て」を絡めることで、新しい切り口が生まれそうです。
レヴィ=ストロースの構造主義 vs.サルトルの実存主義レヴィ=ストロースは、個人の意思よりも文化的・社会的な「構造」が人間の行動を規定すると考えました。つまり、「育児の仕組みは社会の構造によって決められ、人はそれに従う」という視点です。一方で、サルトルは「人間は自由に選択できる存在であり、育児も個人の意思によるものだ」と考えるでしょう。
ネコの子育ての視点 ここでネコの育児を考えてみると、ネコの母親は本能的に子どもを育てます。社会的な仕組みというより、遺伝的にプログラムされた行動が育児の本質になっている。これは「構造によって行動が決まる」というレヴィ=ストロースの考え方に近いかもしれません。
人間の育児の視点 一方で、人間の育児は文化や社会に大きく依存しています。社会の期待や教育制度によって育児のあり方が決められます。これはレヴィ=ストロースの「社会構造が個人を規定する」という考えと一致します。しかし、サルトル的な視点からすれば、「どんな育児をするかは個人の選択次第」なので、子どもを早く独立させることも、長期間サポートすることも、究極的には親の選択になるはずです。
まとめると…ネコの子育ては構造主義的で、人間の子育ては社会に影響されやすい。しかし、人間の育児のあり方も「本当に構造に縛られているのか?」という点を考えると、サルトルの「選択の自由」の視点で見直すことができるかもしれません。
私たちは日常的に「清潔であること」を当然の価値として受け入れている。しかし、その「清潔」は本当に普遍的で客観的な概念だろうか?また、清潔をめぐる価値観や制度はどのように形成され、誰にとっての利益になり、誰を排除してきたのだろうか?
こうした問いに向き合うのが、「清潔論(Cleanliness Studies)」という比較的新しい学問領域である。
清潔論は、文化人類学、衛生学、都市社会学、ジェンダー研究、精神分析などの知見を横断的に統合し、「清潔」という概念の歴史性・構築性を検討する学際的分野である。特に21世紀初頭のパンデミック(COVID-19)を契機に、「衛生」が公共空間の秩序や身体管理の手段として再定義されたことが、清潔論の形成に大きな影響を与えた。
初期の清潔論は、ミシェル・フーコーの生権力論やメアリー・ダグラスの「汚れとは場違いなものである」という視点に影響を受けつつ、現代的な社会実践へと接続されていった。
清潔論が注目するのは、清潔/不潔の区分が単なる衛生上の問題ではなく、社会的・政治的な境界線として機能している点である。たとえば、近代都市の公衆浴場の設計、学校教育における手洗い指導、家庭内での掃除の役割分担──これらはすべて、清潔が「正しい市民」の条件として機能している証左である。
こうした現象は、「清潔線引き(cleanlining)」と呼ばれる。これは、誰が清潔で、誰が不潔かを暗黙に定義することで、社会の内外を分ける行為である。
近年、特にSNSや就職活動、恋愛市場などで頻繁に語られるのが「清潔感がある人」への評価である。だが、この「清潔感」は極めて主観的で、実際の衛生状態とはしばしば無関係である。
清潔論では、こうした現象を「視覚的衛生性(visual hygiene)」と名付けている。これは、身だしなみ・服装・香り・体型・肌質など、外見に現れる清潔イメージの集合体であり、文化的・階級的バイアスを含んでいる。
たとえば、同じ髪型や服装でも、社会的背景や人種、性別によって「だらしない」と見なされるか「洗練されている」と見なされるかは異なる。視覚的衛生性は、単なる個人の努力ではなく、社会的に構築された規範と審美である。
さらに、「清潔感がない」とされることは、恋愛や就労の機会の剥奪につながる。これは、「清潔感資本(cleanliness capital)」という新たな資本形態として分析されている。清潔感を備えた身体や外見は、現代社会における市場価値を決定づけるファクターであり、その配分には明確な不平等が存在する。
現代社会では、抗菌・除菌・無臭化といった商品があふれ、「自分自身の不潔さ」への恐怖を煽るマーケティングが常態化している。これにより、清潔の基準は過剰化し、「過剰清潔主義(hyperhygienism)」とも呼ばれる状態が蔓延している。
過剰清潔主義は、アレルギーや免疫機能の問題だけでなく、精神的な強迫観念や、他者への「不潔レッテル貼り(dirty-tagging)」といった社会的排除を生み出す。こうした病理的な清潔観は、現代の都市生活における新たなリスクとも言える。
清潔論は、「汚れを落とす」という単純な行為の背後にある、権力と規範の構造を照射する。私たちはどのように清潔を欲望し、どのようにそれを他者に要求し、また拒絶してきたのか。それを問うことは、すなわち私たちが「どのように他者と共に生きるか」を問うことに他ならない。
文化人類学では、贈り物を受け取ってから一定期間内に、より価値の大きなものをお返しできなければ、受け取った人が「借りを返さない、取るに足らぬ人間」とみなされて名声を失ってしまうような慣習が知られている。
こうした、利子をつけたお返しをできなければ評判を落とすことになってしまうような社会的交換は「競覇的な贈与」と呼ばれている。
https://gendai.media/articles/-/144975?imp=0
とどのつまり人間は、してもらった分は利子を付けて返さないと社会的評判を落とし、最終的に相手と主従関係に陥る(自分はそう思ってなくとも周りからはそう見える)生き物だってこと。
社内で同僚と主従関係になるの嫌じゃん?自分の発言力が不当に落ちるのも嫌じゃん?
だったら人間の習性に合わせて、してもらった分は利子を付けて返そう。
人間はそういう生き物だと思えば悩むことはなくなる。
みんぱくを雑に褒めると雑にバズれるというのが昔からのインターネットの法則なのでやっておく。
国立民族学博物館には図書室が付属しており、だいたいシステムとしては大学図書館と同等なのだが(なぜなら大学でもあるので)、これは非常に優れた特徴をもっている。
というのは、ここ、ほぼ全ての本が原則開架方式で保存されている。普通の図書館なら閉架書庫にあるような資料でも開架書庫に置いてある。であるから、たとえばなにか関心事項があって本を探しにいく、などといったときに、似たジャンルの予想もつかないような本に接する可能性もかなり上がる、ということになる。こればかりは行って実際に使ってみてもらわないと分からない体験だとは思うのだけど、圧倒的な量の情報を目で見て探索できることのメリットはすばらしい。稀覯書、貴重資料なども同じように開架書庫に保存されているものがほとんどなので、適当なリテラシーがあればそうした資料も簡単に利用可能であることも素晴しい。文化人類学という学際的な領域を研究する大学であるから、かなり幅広い分野の図書があつかわれており、実用性は非常に高いといってよいとおもう。
また、手回り品としてノートPCやスマートフォンの持ち込みは(すくなくとも運用上は)認められているので、資料をあさりながらメモを作成していくといったことも問題なくできることもよい。
京都、大阪などに住んでいる人は使わないと損な施設なので一度いってみるとよいです。展示場のカウンターで図書室の利用希望ですと言えば入館証をもらえます。
しっかしよく「コロンブス」を通したよな。作者本人がやり口を教えてるけどバラしてレビュー通してガッチャンコしたときにヤバい表現にしたんだろ?やり方がゴルゴだよゴルゴ!
あのな「コカ・コーラが『コロンブス』とタイアップした」時点でそれが一つの重大な意味を持った表現なんですよ。なので「差別的ですね」ってのは出発点で、MVを考察するのが「文化人」ではないですか?(文化人類学の文化人の部分)
「コロンブス」は一番押し付けたい嫌味だったからタイトルにもなったんだろうけど…よく通したな根回しがすごい2024
「ベートーヴェン」はロックンロールの始祖(諸説あり)のチャック・ベリーの曲から取ってるだろうし
「ナポレオン」は、なんか、革命っぽいから置いたんじゃないでしょうか。島流しにされてたからさ、日本人の名誉白人みたいな部分を揶揄してんじゃない?知らんわ
よくわかりませんでした。
https://bunkaonline.jp/archives/5214/3 こういう感じの記事を書きましょうよ
一理ある。
文化人類学の知見によれば、「教養」「文化」はまさしく、人間と人間が、仲間を区別するために使ってきた仕組みである。隣村から来たあの余所者は、正しいマナーの挨拶もできない!無教養だ!信頼できない!だから官僚として王の傍におくのはやめましょうね~。→信頼できるかできないかがある程度判断が可能。
「教養」は、余所者とそうでないやつ、バカとカシコを見分けるためのコードだ。マウントをとるにしか役に立たないと、増田は言うが、それは当たり前で、マウントを取って抑圧したほうが良い相手かどうかを見分けるため、ヒトが身に着けたのが文化・教養だ。
これは、所詮、仕組みにすぎない。
胴体の模様で魚類の生殖能力が、求愛ダンスの出来で鳥類のオスの能力が、たぶん正確には測れない。のとどうように、教養の有無でヒトの能力の高い低いは正確には測れてないであろう。
そういう意味で、増田の言う事には、一理ある。教養をつかってマウントをとっても、相手のほうが偉い可能性がある。また相手を判断する仕組みにすぎないのだから、本人の幸福とは全然関係がない。実利ももちろんない。そういうことは言える。
ただ、これ、ヒトに備わった仕組みなんだよな。
それって、仮に無くしたとして、ほんまに大丈夫か? 教養による人間の能力の判断を、しないとして、じゃあ目の前に明らかな汚い身なりの狂人が現れたとしても、いちいち面接して人格を判断するのかよ。それは無理。教養で、正確に目の前の相手の判断はできないとしても、曖昧で大雑把な判断は可能だ。大雑把な判断基準は、絶対に持っていたほうが効率的だよ。
っていうか、仮に無くすとか言ったけど、そもそも無くすことは可能か? 俺は無理だと思う。元増田が気にくわないような「教養」に基づくマウントを止めたとしても、その穴はたぶん、教養とは別の名前の何か「教養」的なものが埋めるわ。増田の好きな、教養のない奴らの間にもそれはあるのよ。ゲームの上手さか、話のうまさ、酒を飲めるか、ケンカの強さ。そういうので人はマウントを取る。
人は常にマウントをとりあうのだ。「教養」を憎んでも、無駄であるし、無理である。
はてなに限らずネット民ってたいていSTEM系はそこそこ真面目に向き合うけどそれ以外の分野は適当に思いつきで話すからきらい
jamira13 確かに。単に料理スキルだけじゃなく料理史や文化人類学やマーケティング、ブランディングなどの領域も込みにするのがいい。
dynamicsoar料理も生物/農林水産/化学/熱流体/調理/栄養/生理学/心理学(?)など、様々な要素が別個には研究されているはずで「これらが料理大としてまとまっていないのはなぜか?」という意味なら歴史的な経緯が強いのかなぁ?
sakuragaoka99 今年一番頷いた増田。仰るとおりで化学、芸術、比較文化、料理史があり、超巨大産業であり、家庭の重要な要素でもあり、飲食店としては経営学でもあるので、それらを統合した学問領域として体系化すべきと思う
ブクマカが秒で思いつくような範囲は先人がとっくに考えてて教科書もある
https://www.jatcc.or.jp/works/teaching_materials/
食堂の明るさと風通しとか、食器の文化とか、和やかな雰囲気の大切さとか
第3巻 食品の安全と衛生
熱い汁物に入れる木の芽はどうせ香りが立つので叩く必要はない、などいろいろ有益なことが書いてあった
第5巻 調理実習
そばの打ち方が詳しく載っていた。エスコフィエなどの歴史的なシェフについても書いてあった
大量調理に必要なグリストラップの手入れとか、飲食店のケーススタディ(箱の中でおとなしくしてる魚を選べと助言されたのに「ピチピチはねてるほうが活きがいいに決まってる」と思い込んでピチピチのを買ったが生簀に入れたら案の定元気がなくなった事例など)があった
なんで統合しないのかって、そりゃオーナーシェフみたいなのは一人で全部こなさないといけないからこうして全部勉強するけど学問は狭く深く細分化に進むって
工科系総合大学だって中身は学科に細分化されてるしひとりひとりの教授はそれぞれごく狭い範囲を一生研究してたりするだろ
「私は海外のuniversityでfeminismを学んだから Cultural anthropology という言い方にしか馴染みが無くて人類文化学って間違えちゃったの。
ごめんなさいね国内から出たこと無い無学な人達にはわからない感覚よねぇ」
人類の研究は文化以外にもいろいろあるから、文化の観点から人類を研究する、という「文化人類学」は理解できるけど、
猿のイモ洗いとかの極めて限定的な事象を除くと「文化」と言えば人類の話に決まっているんだから単に「文化学」と言えば十分で、ふつうなら「人類文化学」とは言わないんだよね
美術系の大学に通ってるんだけど、サブカル系の講義で諸星大二郎が絶賛されていた。世界的評価が高く、今の漫画やアニメに多大な影響を与えていると。
名前も聞いたことがなかったので、大学の友達と一緒に『マッドメン』やら『暗黒神話』やら『妖怪ハンター』やら読んでみた。
オカルトや文化人類学、SF要素があって、内容的には面白そうというか、好きなタイプの話だ。五十嵐大介は好きだし、文化人類学の書籍を趣味で読んだりもするし。
でも、なんか乗れない。
読み進めていくほどの力が感じられない。
自分がわからないだけかと思って、他の友達にも聞いてみたが、皆いまいちな反応。
アイデアが面白い話はあるけれど、それを活かしきれてないというか…。
こういうこと言ったら失礼かもしれないけど、諸星大二郎って絵があまり上手くない。昔はこれぐらいの漫画家が標準だったのかもしれないけど、今、巨匠という意識で読むにはちょっとしんどい。線が多くて、悪夢性というか独特な凄みはあるんだけど、リーダビリティが低くて、読んでて疲れてしまう。先へ進んでいけない。
絵の密度が高くても水木しげるは圧倒的に上手いと思うし、上手くなくても手塚治虫はリーダビリティが非常に高いと思う。重厚長大な火の鳥とかでも、どんどん読み進めていけるし。
ストーリーテリングの部分でも、あまり上手いとは言えないというか、昔の漫画家でももっと上手い人たくさんいるのでは…?と思う。
描かれるイメージも、シュルレアリスムのアウトサイダーによる再生産(車輪の再発明的な?)みたいに感じてしまうし。
諸星大二郎、宮崎駿とか庵野秀明とか大御所が影響を受けた超大御所って感じなのに、何がいいのかわからなくて辛い。自分に才能がなくて分からないんじゃないかという不安がぬぐえない。
こういうのって、結構辛くないですか。
Permalink |記事への反応(33) | 17:41
当然でしょう。
慰安婦をさんざん食い物にしてきた。
https://www.kibotane.org/our-mission
在日朝鮮人「慰安婦」サバイバー・宋神道さんの裁判過程をまとめたドキュメンタリー『オレの心は負けてない』を見て、ある学生がつぶやいた言葉です。日本軍「慰安婦」問題が日韓の外交課題として浮上した後で「慰安婦」問題を知った世代には、この問題が日韓の摩擦問題としてしか見えていないのだということを、気付かせてくれた言葉でした。サバイバーたちの四半世紀にわたる闘いが、「慰安婦」問題を外交課題にまで押し上げたのだという事実が、すっぽりと抜け落ちてしまっている。宋神道さんをはじめとする日本軍「慰安婦」サバイバーたちの闘いを目撃してきた者として、被害事実と共に、その闘いと、それが獲得したものについて、伝えていかなければならない責任を感じています。
韓国の日本軍「慰安婦」サバイバー・金福童さんは、日韓合意の最大の問題点は「歴史を売ったことだ」と言いました。「慰安婦問題は歴史なんだ。歴史はお金で売ってはいけないものなんだよ」と。
戦時性暴力の被害者が名乗り出て、加害国の責任を問うて国際世論に訴えるという、人類史上初の試みをおこなった女性たちは、二度と同じことが繰り返されない平和な世界をつくらなければならないと、自らの存在をかけて訴え続けました。その姿が、他の戦時性暴力被害者たちに勇気を与えたこと、世界の人権専門家たちの心を動かして重大人権侵害被害者の被害回復に関する国際基準を打ち立てる上で大きく貢献したこと、闘いの過程で自らが変わり周囲の人々を変えていったことも、私たちが記憶し、伝えていかなければならない歴史です。その歴史が見落とされ、あるいは歪曲されたまま、「解決」や「和解」を唱えても、「解決」と「和解」を手に入れることはできません。
日本軍「慰安婦」問題は私たちに多くのことを気付かせ、学ばせてくれた問題でした。その気づきや学びを、さらに多くの人々、多くの若者に伝えていくことで、「慰安婦」問題は「終わらせる」べき問題ではなく、平和な未来を拓く礎となる問題であることを伝えたいと思います。
日本軍「慰安婦」問題解決全国行動共同代表1990年から日本軍「慰安婦」問題に関わる。1993年提訴の在日朝鮮人「慰安婦」被害者宋神道さんの裁判支援をおこない、2007年にドキュメンタリー映画『オレの心は負けてない』製作。現在、韓国ソウル「戦争と女性の人権博物館(WHR)日本後援会」代表、「YOSHIMI裁判いっしょにアクション」共同代表。通訳・翻訳、語学講師。 "
じっくり実らせよう、一粒の種 旧日本兵によれば、司令部や大隊本部の側には慰安所を設置した。本部を守る配置の200名規模の各中隊には慰安所の「慰安婦」が巡回した。最前線の小隊には慰安所も「慰安婦」の巡回もない。それで、女性を拉致し順繰りに犯し、「合意」と見せかけるため金を握らせた。真摯な反省も再発防止策も示さず日本政府が締結した「日韓合意」は70年以上前、最前線の兵士が編み出した犯罪隠蔽のため金を被害者に握らせた手法と同質だ。
日本政府は「日韓合意」の一条件とした平和の少女像の撤去にこだわる。韓国の若者は厳寒のソウルの日本大使館前にテントを張り、夜中も少女像を守った。釜山の総領事館近くの少女像は若者が資金を集めて設置した。日本の若い世代が韓国の同世代と交流し確固とした非侵略・平和を築く、そんな一粒の種になることを応援したい。
ノンフィクション作家。在日の慰安婦裁判を支える会、戦争と女性の人権博物館日本委員会所属、日本の戦争責任資料センター共同代表。沖縄に残された裴奉奇さんの半生を記録した『赤瓦の家――朝鮮から来た従軍慰安婦』(1987年)をはじめ、在日、日本、インドネシア、中国など日本軍「慰安婦」・性暴力を受けた当事者の人生を記録。
私たちの社会が「希望」という言葉を見失ってどのくらい経つのだろうか。希望の喪失度(という言い方があるとすれば)は、安倍内閣になってから急速に進んでいる。私たちは絶望感と閉塞感に苛まされてきた。そこへ「希望のたね基金」である。私はすっかり忘れていた言葉に再会して、ひそかに心躍らせている。この基金が、若者たちをターゲットにしていることが、とりわけ嬉しい。日本軍「慰安婦」とはなんであったのか、なんであるのかを若者たちが理解するときが来ることで、日本と韓国の関係は大きく変わるだろうし、それは必ずや日本の若者たちに生きるに値する未来をもたらすのではないかと、期待が膨らむ。自分の国の歴史を学んでこなかった日本人にとっては、若者だけでなく、新しい時代に生きる手がかりになるはずだ。
弁護士 2017年5月1日現在 1975年弁護士登録。以後、東京弁護士会及び日本弁護士連合会の両性の平等委員会の委員を、2001年4月よりはNPO法人「女性の安全と健康のための支援教育センター」の代表理事をそれぞれ務めている。2004年4月より2013年3月まで、明治大学法科大学院教授。第2東京弁護士会所属。主な著書に「性と法律」2013年岩波新書など。 "
国境を越えて人と人とが直接出会い、直接交流することは、国際関係で最も楽しく、最も核心的な要素だと思います。友達が一人でもできれば、自然に相手国や相手地域に対する関心が生まれてきます。日本で韓国の大衆文化が根付き始めたている現在、関心を持ち始めた若い方々に、一人でも多く朝鮮半島の友達と出会う機会が提供できればという願いを込めて、希望のたね基金の事業におおいに期待しています。
立命館大学文学部教授 /強制動員真相究明ネットワーク共同代表 専攻は朝鮮近現代史、日韓関係史。主要論著に、「朝鮮における総動員体制の構造」『岩波講座東アジア近現代通史 第6巻』岩波書店、2011年1月(共著)、庵逧由香「植民地期朝鮮史像をめぐって-韓国の新しい研究動向-」『歴史学研究』No.868、2010年7月、などがある。
91年に金学順さんが声をあげたとき、私は大学生だった。当事者が声をあげた以上、解決しないわけにいかない、すぐにきっと解決できるはず。そう楽観的に信じていた四半世紀前の私に言ってあげたい。「甘すぎるよ」と。「慰安婦」問題は、この国のアキレス腱だ。国は力尽くで、この問題を忘れさせようとしてきた。「そうはさせない」と、急所に正面から切り込んでいった当事者と支援者の運動は、どれほど過酷だったことだろう。性暴力被害者が声をあげれば叩かれ、なかったことにされるのは、今も同じだ。だからこそ私は、この運動に関わりたいと思う。女性たちの無念を記憶するために。次世代に声と記憶をつないでいきたい。
作家1996年、フェミニズムの視点で女性向けセックスグッズショップ「ラブピースクラブ」を立ち上げる。フェミニズム、ジェンダーに関する著書多数。「アンアンのセックスできれいになれた?」(朝日新聞出版)「毒婦。」(朝日新聞出版)「奥様は愛国」(朴順梨との共著著、河出書房新社)「性と国家」(佐藤優との対談、河出書房新社)他。
「慰安婦」問題は昔起きたことだから自分とは無関係」「国家間の問題だし、日韓合意で解決済み」。そんな声をよく聞きます。日本のメディアやネットでは「慰安婦」問題否定論が溢れ、日本政府が歴史の否定や忘却を後押しさえしています。でも、「慰安婦」問題を真に解決し、二度と戦時性暴力の被害を起こさないためには、「慰安婦」問題の事実やサバイバーの声、そして支援運動の歴史について学び、記憶し、それを継承していくことこそが重要なはずです。「希望のたね基金」の取り組みを通じて日本の若者たちが学んだ成果は、私が住むアメリカなど、世界の若者にも影響を与えていくことでしょう。皆でこの基金を育てていきましょう。
モンタナ州立大学准教授文化人類学・フェミニズム 日本の社会運動、特にフェミニズムや右派運動の調査を進める中で「慰安婦」問題にも取り組む。共著に『社会運動の戸惑い—フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』(共勁草書房)、『海を渡る「慰安婦」問題 右派の「歴史戦」を問う』(岩波書店)ほか。
セクハラにの定義を歪めて水着までセクハラにしたインチキババア。
理事 柴洋子(しばようこ)
1990年から「慰安婦」問題は過去のページに閉ざされた歴史の一つではなくなりました。さらに金学順さんが名乗り出たことを機に多くの被害女性が名乗り出、日本政府に対して謝罪と賠償を求めました。私たちは彼女たちの勇気に支えられて、それぞれ各国の裁判支援を始めました。私は縁があって台湾の被害女性たちと裁判を通して交流してきました。そして30年近くが過ぎ去った今、台湾の被害女性たちは亡くなり、現在お元気な阿媽は2人です。台湾では2016年にAMAMuseumを開館し、阿媽たちの歩んできた道を記憶し、記録するようになりました。韓国は「慰安婦」問題解決運動の先駆者です。ハルモニたちの声は国境を越え、現代の紛争下で性暴力被害を受けた女性たちにも勇気を与えています。日本にいる私たちも各国の被害女性たちの声を記録し、若い世代に伝えていく努力が必要です。しかし、どうやって? そういうときに「希望のたね基金」の活動は、まさしく私たちの希望となるものだという確信に至りました。私自身は模索しながらの参加になりますが、希望の道へ連なることができることを嬉しく思っています。
1990年代から始まった日本軍「慰安婦」問題解決運動が30年目を迎えようとする今なお、被害者が望む解決はなされず、その間に多くの被害者が亡くなられました。日本政府は歴史の事実をなかったことにしたいという欲望を隠そうともせず、「日韓合意」で終わった問題と公言して憚りません。忘れさせようとする権力に対し、サバイバーの生き方に学び、記憶することは抵抗であり、未来への一歩です。誰一人その生を再び踏みにじられることのない、性暴力や人権侵害を許さない社会の実現を共にめざします。「希望のたね基金」の取り組みを通じて次世代へとバトンをつなげ、あるべき社会の未来像を形にする一助になりたいと願っています。
原因は尹美香
映画「主戦場」で日本の若者がみな「慰安婦」問題は知らない,と言っている事に衝撃を受けました。しかし1991年に初めて金学順さんが名乗り出てすでに30年近く経っていることを考えると当時生々しい感動を受けた世代も記憶が形骸化しています。ましてや直接被害事実を聞いた事のない世代はこの言葉を知っていても被害者の苦痛を自分の事として想像するのは大変です。「希望のたね」の活動が,こうした問題に正面から取り組んで下さっていることに敬意を表しつつ,これに参加できることを幸せな事と思っています。
日本軍「慰安婦」制度や日本の植民地支配・侵略戦争は、数え切れない人びとの人権と尊厳を踏みにじった国家犯罪です。これらに対する批判的認識を確立し、真に人権が尊重される社会をつくりだしていくことは今を生きる私たちの課題です。マスメディアやインターネット上では、日本軍「慰安婦」問題に対するデマや、朝鮮半島をはじめとしたアジア諸国に対する不正確な情報が溢れています。こうした中で、若い世代のなかには「何が本当のことかわからない」と感じる人も多いでしょう。キボタネを通じて、歴史の真実を学び、東アジアの人びとと交流を深めていくことは、大きな力となっていくはずです。ともに学ぶ仲間の輪を拡げていきましょう。
私は、戦時性暴力は、戦時という特殊な状況下で起きる特殊な態様のものだと以前は思っていた。しかし、戦時特有の事情もあるにせよ、本質においては、どうもこの社会で日常的に起きている性暴力と地続きのものであるということを、日本軍「慰安婦」だった女性達の言葉と、それに対して向けられる偏見と罵詈雑言に接して、感じるようになった。
逃げられない権力構造下で起きた凄絶な被害がどういうものだったのかを直視することは、この社会から性暴力を無くすために何が必要かという本質的な問いのために避けられないだろう。必死な性暴力告発の声を「あなたは合意していたのに今更何を言うのか」と押し潰す暴力性の背後にあるものはなんなのか見極め、それと闘いたい。これが、不勉強と微力を承知で理事就任の打診をお引き受けした理由である。
弁護士明日の自由を守る若手弁護士の会(「あすわか」メンバー)。「怒れる女子会」呼びかけ人。取扱分野は離婚等の家事事件、一般民事事件等。性暴力