はてなキーワード:放火とは
毎月の様にオッサンがガールズバーの若い女とその後ろの反社の彼ピに金を巻き上げられた恨みで、包丁で刺殺テロや放火テロを敢行して捕まって大事件になるのが風物詩みたいになり
狂った精神障碍者がオタク界隈に人生逆転の活路を見出して居着いたら、狂って京アニ放火して津山事件を超える大量殺人事件で捕まって死刑判決を受け
それについて言及した芸大教授に正面から言い返せないから、ヤクザみたいなイチャモンをつけて炎上させて撤回させて
いただき女子りりちゃんは捕まった時の警察の罪状がテロリストマニュアル作って配布したに等しいレベルの罪で立件して
実際りりちゃんマニュアル使ってパパ活をファッション感覚で始めた若い子たちが気軽に経済犯罪や、騙した男性に刺殺されて事件になってるし
配信者界隈では唯我が殺害されるなんていう事件になり、金バエは気が狂ってる女に軟禁されて病院で緩和ケアさえ受けられずに遺骨の所在さえ行方不明
寸借詐欺繰り返してた夜職上がりの女配信者は恨みを買われた中年男に高田馬場の路上で白昼堂々刺殺される様子が生中継で配信されて、幕末の京都みたいな犯行現場のスクショがネットに出回り
オウム真理教も真っ青な頭のおかしい気が狂った泡沫政党が出てきてはSNSで有り余る暇使って政局を大混乱状態にさせてる
男ばかりじゃない、女で考えても推し活とか言って数年前は赤坂で中高学生が売り掛けの回収のために売春を強要されて大事件になっていたのがニュースで出ていたほどだし
トー横界隈なんてそれらの搾取だとかの結果薬物中毒死やビルから飛び降り自殺がひどい次期では月一頻度で起きていたというし
りりちゃん事件のルポタージュを書いてノンフィクション賞を書いた作家がこの手の界隈を俯瞰して「こんなに命のやりとりが軽い世界や重犯罪がファッション感覚で行われる世界なんて、戦争と何が変わらないんだ」と意見を記載してプチ炎上してたけど
なんかネットって行き着くところまで行き着いちゃってるよな、って思う
制作側のアバターキャラ的な格好良さを持っているのってシャリアじゃなかった?キケロガの戦闘作画がなんだかんだで一番かっこよかったし。ガンダムよりかっこよかったよね実際…。
マチュやニャアンについては親の目線だったり、教師の目線だったり、大人として子供のお世話係をやり振り回されている側の目線を感じて、JK自身が思うJK像とは違うように感じた。
シュウジの描写が薄いのも、親の目線で「シュウジに夢中になってるウチの娘」的な距離感で見ていて、シュウジ本人の魅力を直接食らったとされる立場とはかなりの距離があるからじゃないかと思う。
「何がいいんだかわかんないけど、ウチの娘、K-POPのナントカいうメンバーに夢中なんだよなぁ…」的な。あくまでマチュとニャアンは夢中なようですという外野フィルター通すから、シュウジの魅力が視聴者には直に伝わってこない感じ。
そしてJKの描き方が本当に親から見た子供というか。タマキなんかマチュの存在にキャリアとか人生とか破壊しかされてない。エグい迷惑。でも親は娘が生きてるだけでいいと思っちゃって…というのは子供にとっての都合が良い描き方というより、親の自己憐憫というか自己陶酔に近いものを感じて。
タマキの反対の存在としてのシイコも…親に迷惑かけてると指摘するコモリも…地球で売春させられていて館に放火して憎悪の表情を見せた少女も。親が!娘を守ってあげてるんです!的な目線。そして、何が起ころうと親に対してとことん雑なマチュ。
高校生のワガママさ、思春期の厄介さをリアルに描きすぎると高校生には逆に飲み込みにくくないか?美化されてたほうがリアルな自分像に感じるものじゃないか?
やっぱり親目線が強いように思う。オタクはマチュがカバスの館でソープ嬢をする同人誌を夏コミで買うんだろうと思うけど、本編がそういう方向性だったかというと全くそんなことはなかったよね。館でおとなしく働くわけがない…シュウジを思い描いて客の股間を蹴飛ばして脱走するよあいつは。
若者に対する期待みたいなものはエグザベとコモリに向けられているように感じた。社会人3年目。メンタル安定しててよくできた連中。
エグザベはキシリアの兵士だったけどスパイに来たシャリアに懐いてしまっているし、コモリもめんどくさくない程度にシャリアに興味や配慮を向けてきて職場の華として丁度いい。
やっぱ本体シャリアなんじゃないすか?エグザベみたいな若者に敬意を払われたいし本気で慕われたい、あとコモリと付き合う体力なり結婚してやる責任感はないけど「うっすらとした興味や配慮」を向けられると「丁度いい癒し」になる。
マチュ目線の物語だったようには全然感じなかった。もうマチュの親の世代に目線がシフトしてしまっていて、ぬめりけのある期待は社会人3年目世代に向けられてる。ロリペド感が薄い。
もちろん視聴者側のオタクにはロリペドもいる(二次創作エロのマチュがおとなしすぎてエアプかお前?みたいなのもいる)けど、制作側の感じはリアルすぎるJKを親目線で見ちゃって、ロリペドみがなくなってるという風に思いました。
キスシーンとかもなんか…娘に「色気づくな」とか言わない、毒親じゃない、理解のある親が、娘が喜びそうなものをプレゼントした感じというか。なんだろ…、なんだろねえ…。
nomono_pp お前ら、こんなのちょっと前まではおふざけのイタズラ扱いしてただろ。だいぶフェミに洗脳されてるな、いいことです
大切な女性が親族・配偶者・子供・恋人・友人・知人含め1人もいない、子供部屋でインターネットカタカタする以外にやることがない、社会不適合者と呼ぶのは社会不適合者に失礼なレベルの異常者にしか書けないテキスト。
アニメスタジオに放火したり登園バスに刃物を持って乗り込んだり、教え子に性加害するような悪鬼の卵がここにもまたあるのである。
自分を承認できていて、周りからも承認されていて、大切な人やものがあり、矜持を持った人間は、とても強く、邪悪にはなりえない。
弱者とは、醜い。
つくづく、弱者とは救いたい姿をしていない。
https://agora-web.jp/archives/2053545.html
共産党政策集の「女性・ジェンダー」の部分に新たに掲載された内容は、
>非実在児童ポルノは、現実・生身の子どもを誰も害していないとしても、子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つけることにつながります。
と断定し、「子どもを性虐待・性的搾取の対象とすることを許さない社会的な合意をつくっていく」という表現規制への旺盛な意欲を示す言葉で結ばれています。
「社会的な合意をつくっていく」という言葉に、共産党とその支持者の狡猾さがある。
共産党が表現規制をしようとしている、と批判されると、共産党の支持者は決まってこういう。
自分から規制する、と明言してしまえば憎き与党と同じ穴の狢になってしまう。
「社会的な合意」ができ、「市民」が「自分の意志」で表現規制を始めたなら、それは「市民」の「成果」である。
我々は(共産党)は表現規制なんかしてない。彼らが自分の意志でやったのだ、というわけだ。
「マッチを擦って他所の家の庭に投げ込んだだけで、放火しようと思ったわけじゃない」
<script asyncsrc="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script><独自>大阪府神社庁文書で「イスラム教徒が『邪教』と放火」の誤情報拡散か 宮司が否定https://t.co/Xw9pf4oBaE
産経新聞が府神社庁に取材したところ、担当者はこの文書を発出したことは認めつつ、記載内容は「現場の宮司からの報告を基にしている。注意喚起のために文書を出した」と話した。—産経ニュース (@Sankei_news)June 16, 2025
個人的には「脈あり感」と「サンクコスト感」がないために狂いについて納得感が薄い。
行間が広いとか、余白が残されているとか、匂わせ演出がされているというより、「落丁のある小説を読んでいるような違和感」が腹の中に積み重なっていく感じするわこの作品。
初対面で「わあイケメン」と思おうが、脈あり感という追加燃料がないと燃え続けられない。鎮火してしまう。
シュウジからはガンダム代弁とたったひとつの目的しか見えず、JK二人から好意を寄せられてヤッターと浮かれるような俗物感もまるで感じないし、半分妖精みたいというか、落とせる気がしない。可能性が感じられない。
脈ありげなリアクションが得られない、これ無理かもーと思うと私はすぐ萎えて気持ち切り替えてしまうタイプなんだけど、そうではない人のほうが多いんだろうか。
可能性を感じられるようなリアクションという追加燃料がなくても燃え続けられるのって、ドルオタとかでしか想像できない。マチュとニャアンのバトルが同担拒否になってまう…。
まあドルオタでも真剣に追いかけている人もいるけど、「クラバでの殺人も受け入れて追いつかなきゃ!シュウジのためなら現金盗んでアンキーに発砲もできる!
テロリストにされて国際指名手配で親の人生もめちゃめちゃになってるけど、知らん!シュウジーーー!!!」みたいな感情に、アイドルを推すような美味しいとこどりしたい感情だけで、なれるか???やっぱピンとこない…
小1にとっての1か月はクソクソクソクソ長いけど、高2にとっての1か月弱の付き合いってそうでもなくね?と思ってしまう。もちろん年食ってからの音速や光速で過ぎ行く一か月とは比較にならんほど長く感じはするけども。
関係に長い時間をかけていると失うのが惜しくなる感情はわかる。中1の最初の座席決めで近くなってから3年間友達だったけど一緒の志望校で片方合格して片方落ちたから気まずくなって連絡取れなくなったとかも、「3年一緒だったから」喪失感強いのであって。
短期間でもこのサンクコスト感出すのは何があるだろうと思うと、やっぱヤッてるとかなんだよなあ…でも本編見ててまるでそんな感じがしないというか…。
好きな男に好きと言われた、交際関係になった、ヤッた、この先もずっと一緒にいようね的なことを言われて期待を持った、そういうのがあったうえで急に「男が失踪」となると、そりゃ狂うわというのも納得する。
でも本編でそんな期待持ててたかなあ…サンクコスト感あるかなあ…ってなる。アンキーに引き返せと言われたとき、ウンウン引き返しなよと思ってしまう状態だった。あまりにもマチュ側の片思い感が強くて…。
「大好きになれた男と、両想いになれたのに!ヤッたのに!将来についても匂わされたのに!」みたいな状態だと、本当に、狂いの説得力が凄い。「なんで失踪されたのか、納得できない!」と狂って追いかけると思う。しかし本当、マチュの状態が片思いすぎる。
男以外での納得できる狂いというと、子供が不治の病とかですね。「この子が治らないわけがないです。納得できません。」と気が狂って、親が求める言葉を話す不誠実な医者に金を積んじゃう人も多いしね。これも子供をここまで育てるサンクコストがでかくて、失うなんて納得できないから。
「そりゃ女、狂いますわ!」となるような骨太の説得力が感じられなくて、現実感のない痛いクルクルパーに見えてしまってるのが現在なんだよね。独り相撲というか…マチュもニャアンもそれぞれにシュウジに執着して、返ってはこないそれぞれ独り相撲。
それで国際指名手配とか、要塞一つ潰して大量の人間を虐殺とか平気でやられると、「脈あり感」も「サンクコスト感」も全然ない片思いのために!?!?!?痛いよ!?!?!?って驚愕してしまう。
というか、山梨の、一方的な片思いをLINEブロックされて実家に放火した少年とか思い出してしまう。
本当に脈なしの一方的な片思いでも発狂して一線をこえて社会的に終わってしまうのって、そもそも滅多にいないものとして、いたとすると少女ってより少年なんじゃないかな…。
マチュもニャアンも中身男性(それもかなりやばめ)で、シュウジはララァ枠の男体化であり、性別を逆にしてみたという試み…だから少女として描かれている少女の行動にピンとこないんじゃないかな…。
ジークアクス、10話でシャリアの過去と望みが開示されて、シャリア・ブルだけは体重がありそうというか血が通ってそうというか、そういうキャラクターの重みみたいなものを感じた。
シャリアしかいねえ。エグザベ君、個人的にメチャクチャ怖いですこいつ。同期をケーキで毒殺されたのが判明してすぐ、なんでニャアンの手料理ねだってんの。さっぱりしすぎてて怖いよ。直近のことしか覚えてないみたい…。
1.私が本を選んだ理由
4.本からの教訓
例金閣寺
1. 私が本を選んだ理由
『金閣寺』を選んだ理由は、戦後日本文学の中でも特に評価の高い作品であり、美と破壊、自己と世界の関係を深く掘り下げていると聞いたからです。また、実際の金閣寺放火事件を題材にしている点にも興味を持ちました。
物語は、吃音に悩む主人公・溝口が、幼少期から父に聞かされていた金閣寺の美に魅了され、その美しさに対する執着が次第に狂気へと変わっていく過程を描いています。最終的に溝口は金閣寺に放火するという行動に出ます。もし私が溝口の立場であったなら、美に対する憧れや劣等感を抱くことはあっても、破壊という手段を選ぶことはなかったと思います。しかし、彼の内面の葛藤や孤独感には共感を覚えました。
•溝口:主人公であり、吃音と自らの容姿にコンプレックスを抱えています。彼の内面の繊細さや美に対する執着は理解できますが、次第に現実との乖離が進み、破壊へと向かう姿には恐怖を感じました。
•鶴川:溝口の友人で、彼にとっての「陽」の存在です。鶴川の純粋さや明るさは、溝口にとって救いであり、彼の存在が溝口の心の均衡を保っていたように感じます。
•柏木:内反足の持ち主で、溝口に影響を与える人物です。彼の冷静な分析や皮肉な態度は、溝口の思考に大きな影響を与えますが、個人的にはその冷淡さに好感を持てませんでした。
4. 本からの教訓
•現実と理想のギャップを埋めるためには、破壊ではなく創造的な行動が必要である。
私が『金閣寺』という作品を選んだ理由は、戦後日本文学の代表作として名高く、三島由紀夫という作家の美学と思想が強く反映された作品であると聞いていたからです。また、本作が実際の放火事件に着想を得ていることにも興味を持ちました。美と破壊という相反するものが、どのように小説として描かれているのかを知りたいと思い、手に取りました。
物語は、主人公・溝口の視点から語られます。彼は吃音症に悩み、幼い頃から金閣寺という存在を父親から理想化された形で聞かされて育ちます。その結果、彼の中では金閣寺は「絶対的な美」の象徴として神格化されていきます。しかし現実の金閣寺を実際に目にした時、彼はその美に圧倒されると同時に、自らの劣等感を強く意識し、次第にその美を「破壊したいもの」として捉えるようになります。最終的に彼は実際に金閣寺に火を放ち、美を自らの手で消し去るという極端な行為に至ります。
もし私が溝口の立場であったなら、同様に理想の美と現実の自分とのギャップに苦しんだかもしれません。しかし、破壊という選択は到底できなかったと思います。むしろ、その理想に近づく努力をするか、あるいは別の価値観を見出すことで、自分なりの世界を築こうとするでしょう。とはいえ、溝口の孤独や、自分自身をどうしても肯定できないという葛藤には強い共感を覚えました。
作中にはいくつか印象的な登場人物がいます。まず溝口自身ですが、彼は極端なまでに繊細で、自分自身と他者との間にある境界を越えられず、常に内省の中で生きています。その苦しみは読者としても重く感じられる一方で、彼が次第に現実との接点を失っていく過程には、恐怖や不安も覚えました。彼のような人物を完全に理解することは難しいかもしれませんが、文学を通じてその心理に触れることは貴重な体験です。
また、鶴川という友人は、溝口にとって「光」のような存在です。彼は素朴で正直、心の奥に揺らぎの少ない人物として描かれており、溝口が彼に依存していたのもよくわかります。鶴川の存在がなければ、溝口はもっと早く破滅していたかもしれません。
柏木という人物もまた印象的です。彼は皮肉屋で、自分の障害を逆手に取るような冷静さを持ち、溝口の思考に深く影響を与えます。私は彼のような人間にはあまり好感を持てませんが、一方で彼のような人物が物語に登場することで、溝口の内面の揺らぎが一層際立ってくるとも感じました。
この作品から私が得た教訓は多くあります。まず第一に、「美に対する過度な執着は自己を見失わせる危険がある」ということ。人は理想を持つことで成長できますが、それに囚われすぎると現実とのギャップに苦しみ、破壊的な行動を取ることもあり得ます。第二に、「自分のコンプレックスを否定せず、受け入れることが大切」であること。溝口はその苦しみと向き合うことができずに逃げ続け、その果てに破壊という手段を選びました。第三に、「他者との関係性が、自己のバランスを保つ鍵になる」という点です。鶴川のような存在がいたからこそ、溝口はぎりぎりまで自制心を保っていられたのかもしれません。
そして最後に、「理想と現実のギャップを埋めるためには、破壊ではなく創造の力が必要である」という教訓もあります。もし溝口が金閣寺を破壊するのではなく、別のかたちで自分自身の理想を昇華する手段を得ていたなら、彼の人生は違うものになっていたかもしれません。
『金閣寺』は、美と自己、現実と理想の間で葛藤する人間の姿を描いた文学作品として、非常に重層的で深い問いを投げかけてきます。私たちが日常生活の中で感じる違和感や自己不全感もまた、文学のなかで昇華されることで初めて言葉として形を持つことがあります。その点で本作は、現代を生きる私たちにとってもなお有効な問いを投げかけてくれる作品であると強く感じました。
https://news.livedoor.com/article/detail/28892067/
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.livedoor.com/article/detail/28892067/
米国の有名声優であるジョナサン・ジョスが射殺されたという記事が話題になっている。
この記事では犯人の動機は同性愛嫌悪であるという論調で、ブクマコメントも同性愛者だからといって殺すのか、家を燃やされても対応しなかった警察は何をやっているんだという意見が出ている。
・容疑者のシグフレド・アルバレス・セハが被害者ジョスを射殺したのは明確な事実。容疑者自身が認めている。
・両者の間では以前から騒音?などを原因としたトラブルが頻発しており、警察は40回以上呼び出されている。被害者がドラムをたたいたり歌ったりしてうるさかったことはパートナーのカーン・デ・ゴンザレスも認めている。
・24年6月には、被害者がクロスボウをもって容疑者の家に近づき、人種差別的な言葉を投げかけたという訴えがあったと警察は記録している。また当局は被害者の家を捜索し、クロスボウを押収している。
・また容疑者も被害者に対し同性愛差別の言葉を何度も発していた。
・25年1月には被害者の家が火災で全焼した事件があった。この事件について警察は原因不明としている。被害者は匿名の人物の話として、火災前日に被害者宅の敷地で容疑者を見かけたと話しており、容疑者が放火したと主張しているが記事では証拠は示されていない。
・その後被害者宅の敷地で火災で死亡した飼い犬の頭蓋骨が発見される事件があった。被害者はこれを隣人による嫌がらせと考え、熊手を持って辺りを徘徊し叫ぶようになった。
こうして見ると、殺害の動機は隣人トラブルであり、同性愛嫌悪についてはそれを激化させた可能性はある、といった推定ができるのではないか。
ただこうしたケースはアメリカの法執行機関におけるヘイトクライムの定義に当てはまるかどうかは微妙であり、よって警察はヘイトクライムとは断定していない、ということになるのだと思う。
こういう事情があるので、ブクマコメにある「警察は対応しなかったのか」といった非難については、少し過剰な非難なのではないか。事件がテキサス州で起きたことに絡めて警察も差別的だから対応しなかったというような意見もあるが、
事件が起きたサンアントニオはヒスパニックが多い民主党優位の都市であり、24年大統領選挙でもハリスが10ポイント以上リードしている。
どうしようもないコメントとしては
Gl17執拗な脅迫と嫌がらせ、放火、ペット殺害、そして銃撃殺人。どう見てもトランプ再選がエスカレート要因として大だろう。反ポリコレに寄り添えとかいう寝言はこういうのを容認しろという話だ、社会が破綻する。
というのもあり、トランプ再選前から起きている事件を「どう見てもトランプ再選がエスカレート要因として大」だとしたり、これを「反ポリコレ」の象徴とするという妄言まで発している。こういう人間が「憎悪を煽る」ことに警鐘を鳴らしているのなら、滅茶苦茶な話であると言わざるを得ない。
Permalink |記事への反応(11) | 09:52
マチュのような未成年女子キャラを娼館という舞台に置くことでエロ目線に晒した!
オタクはそれを素直に受け入れてメイド娼婦マチュ二次創作を平然とやっている!最低!
みたいな話は、個人的にはわりとどうでもいい。
(主人公としてのマチュにいまだにあんまり興味が持てないのかもしれない)
おれがあの娼館で気になったのは、マチュでもララァでもなく、今回出てきた(もう出番の無さそうな)モブロリメイドの方。
この2人の描き方(娼館について説明する際の様子、マチュを逃がすための放火)の違いから、恐らく一方はまだ客を取っておらず、もう一人は既に娼婦として仕事をしているだろう、と見られている。
その解釈は俺も恐らく正しいだろうと俺も思う。
…いや、キモくない?
2人とも既に仕事してるか、どちらもまだかなら分かるけど、わざわざ違いをつけることで、性経験の有無によってキャラ立ちを表現してるんだよ?
既に娼婦になったロリメイドと、いずれ娼婦になるロリメイド(あと一人、かつて娼婦だったロリメイドとかがいればちょっとした仮面ライダーアギトになる)
カラー作品らしいテクニカルな描写ではあるけど、いくらなんでもキモくない?
そして、これを読み取ったオタクたちが、本心ではタイプの異なるロリメイド2人にボッキボキに興奮しつつ、
みたいなことをシタり顔で言ってるのもキモい。ロリコンならせめてロリコンの顔をしろ。