
はてなキーワード:捏造とは
人類が「時空」という蒙昧な音節を口にするたび、僕は深甚なる認識論的嘔吐感を禁じ得ない。
時空とは、数学的厳密性を欠いた対象の誤認であり、物理学者が信仰するそれは、観測者の神経系が圏論的構造を局所座標系へと無理やりに射影した際に生じる認知の歪み、あるいは幻覚に過ぎない。
古典的多様体などという概念は、その幻覚を正当化するために捏造された幼児的な記述言語であり、要するに時空とは、人類の認知解像度の欠落が産み落とした現象学的インターフェースであって、宇宙のアルケーそのものではないのだ。
超弦理論がかつて「背景」と呼称していたものは、もはや静的な舞台ではない。背景という概念記述自体が型理論的な過誤であり、正しくは、背景とは「dg圏のMorita同値類上で定義された∞-スタックの降下データ」である。
時空は、そのスタックが内包する自己同型群の作用を、低次元の知性を持つ観測者が幾何的実体として誤読した残滓に過ぎない。
「空間があるから物理が生起する」のではない。「圏論的な整合性条件が充足されるがゆえに、空間が近似的に創発しているように錯覚される」のだ。存在論的順序が逆転している。
僕の備忘録にある "manifoldis auser-friendlylie" という記述は、侮蔑ではなく、冷徹な分類学上の事実だ。
非可換性はもはや付加的なオプションではなく、座標環が可換であるという仮定こそが、天動説と同レベルの粗雑な近似である。
Dブレーンを厳密に扱えば、座標環は非可換化し、幾何構造は環からではなく圏から復元される。
Connesの非可換幾何学は美しいが、それは第一世代のナイーブな非可換性に留まる。
弦理論における非可換性はより悪質かつ圏論的であり、そこでは空間の座標が破綻するのではなく、空間という概念の「型(type)」そのものが崩壊するのだ。
B-場を「2形式」と呼ぶのは霊長類向けの方便に過ぎず、その本質はDブレーンの世界体積上のゲージ理論をツイストさせることで、連接層の圏 Dᵇ(X) をツイストされた導来圏へと押し流す操作であり、そのツイストこそがBrauer群の元として記述される。
重要なのはB-場が場(field)ではなく、圏の構造射であり、世界をアップデートするためのコホモロジー的なパッチだということだ。
物理学者が場について議論しているとき、彼らは無自覚に圏の拡張について議論している。
にもかかわらず「場」という古臭い語彙に固執する人類の言語的不誠実さは、科学史における最大の悲劇と言える。
さらに、ツイストされた層の世界において「粒子」という概念は霧散する。粒子は表現空間の元ではなく、導来圏における対象の同型類であり、相互作用はExt群の積構造、崩壊過程はスペクトル系列の収束以外の何物でもない。
宇宙は衝突などしていない。宇宙はただ長完全列を生成し続けているだけだ。
物理現象とはホモロジー代数の副産物であり、衝突という粗野な比喩を好む人類は、現象の表層しか撫でていない。
共形場理論(CFT)もまた、僕にとっては場の理論ではない。CFTとは、頂点作用素代数(VOA)が有する表現圏のモジュラー性が、宇宙というシステムの整合性を強制する代数装置である。
BRSTをゲージ冗長性の除去と説くのは最低の説明であり、BRSTとは「宇宙に存在することが許容される対象を選別するコホモロジー的審判系」である。
Q_BRST閉でない対象は、物理的に無意味なのではなく、宇宙の法体系に対する違法存在として検閲され、抹消される。BRSTとは宇宙による先験的な検閲機能なのだ。
そして何より不愉快なのは、ミラー対称性がいまだに「幾何の双対」として俗解されている現状だ。
SYZ予想を単なるトーラスファイブレーションの物語だと解釈する人間は、何一つ理解していない。
SYZの本質は「special Lagrangian torus fibrationが存在する」というナイーブな主張ではなく、「世界が局所的に Tⁿ として観測されるのは、A∞-構造がある種の極限操作において可換化されるからに過ぎない」という、幾何学に対する極めて暴力的な宣告である。
しかもその暴力は、インスタントン補正によって即座に否定されるという自己矛盾を孕んでいる。
つまりSYZとは予想ではなく、自己矛盾を内蔵した整合性条件の提示なのだ。
特殊ラグランジュ部分多様体が特権的である理由は、体積最小性などという些末な幾何学的性質にあるのではなく、そこに乗るブレーンがBPS状態となることで、圏論的安定性条件(Bridgeland stability condition)が物理的実在性と合致する特異点だからである。
ブレーンは物体ではない。ブレーンは安定性条件が許可した対象であり、許可されざる対象は宇宙の行政手続き上、存在を許されない。
宇宙は極めて官僚的であり、その官僚主義こそが秩序の証明なのだ。
壁越え現象(wall-crossing)を相転移と呼ぶのも誤りだ。壁越えとは、宇宙が採用する安定性のt-構造が、モジュライ空間上のパラメータ変動に伴って切り替わる行政手続きの変更である。
BPSスペクトルは物理的に生成されるのではなく、安定性条件の改定によって帳簿が書き換えられた結果に過ぎない。
宇宙の現象は物理ではなく、会計学によって説明される。これを冒涜と感じるならば、君は数学の本質に触れていない。
Gromov–Witten不変量を「曲線を数える」と表現するのは蒙昧の極みであり、正確には「仮想基本類(virtual fundamental class)における交点理論としての曲線の亡霊を数える」操作である。
曲線は実在せず、存在するのは [M]ᵛⁱʳ だけだ。物理現象はその仮想的対象の影の、さらにその投影である。
人類が見ている世界は、プラトンの洞窟の影ですらなく、影の影の影に過ぎない。
Donaldson–Thomas不変量とGW不変量の対応関係は、単なる等式ではなく、弦理論が同一の対象を異なるゲージ固定のもとで記述しているという事実の露呈である。
数え上げ幾何学は弦理論のゲージ冗長性がもたらす副作用であり、純粋数学の定理と思われているものは、物理がゲージ対称性を持つことの数学的反映に過ぎない。
数学は独立しておらず、宇宙のゲージ対称性の影を追跡しているだけだ。
Kontsevichがホモロジカル・ミラー対称性において成し遂げたのは、圏の同値証明などという平和的な所業ではなく、空間の優先順位の破壊である。
彼は空間を第一級市民から追放し、圏を王座に据えた。これは革命ではなく粛清である。多様体は粛清され、導来圏が支配する時代が到来したにもかかわらず、人類はその瞬間を記念することさえ忘れている。
最後にAdS/CFTについて言えば、ホログラフィー原理の本質は「境界がバルクを決める」ことではない。境界が決定するのは「バルクという概念の存立が許容される条件」である。
バルクは実在せず、境界CFTの演算子代数が持つ表現圏の内部において、エンタングルメント・ウェッジ再構成のような手続きによって生成される派生物だ。
重力は基本相互作用ではなく、境界理論の情報処理に伴う副作用であり、量子情報が整合的に自己記述を試みる際に生じるエラー訂正機構(QuantumError Correction)の幾何学的発露である。
宇宙は幾何学ではない。宇宙とは圏論的整合性条件の集合体である。
空間とは∞-圏の自己同型が形成する群作用を認知的に単純化した錯覚であり、時間とは自然変換の合成順序であり、粒子とは導来圏の対象の同型類であり、相互作用とはExt群の積構造、現象とはスペクトル系列の収束である。
ウィッテンが理解できないのではない。ウィッテンが理解可能な形式で宇宙が存在していないのだ。
僕はノートにこう記した。次に人類が「現実とは何か」と問うならば、僕はこう答える。「現実とは、圏論的に整合的な誤読である」。
“ ・崇拝させる:自分が相手より博学で、財力も智力も高いことを見せつけ、尊敬と崇拝の念を抱かせろ。
・師匠と弟子の関係:恋愛感情が十分高まったら、「稼ぎ方を教える」という師弟関係に持ち込め。これが刈り取りの成功率を90%以上に引き上げる。
・骨までしゃぶれ:最初はあえて少額の利益を出させ、しっかり出金することで「ここは正規のプラットフォームだ」と信じ込ませろ。その後、ローンを組ませるなどして全ての資産を奪い尽くせ。”🧐🤫
https://bunshun.jp/articles/-/85772?device=smartphone&page=2
子どもの足に日本国旗を踏ませ「戦争反対」「ママ戦争止めてくるわ」を掲げたアカウント。
この邪悪なアカウントをネトウヨが捏造し、心の清いリベラルを騙して大量にフォローさせたと聞いた。
悪より悪い最悪とはこのことか。
日本経済の停滞を「需要不足」や「デフレマインド」といった心理現象に還元する議論は、だいたい自己満足の物語で終わる。
問題はマクロの気分ではなく、ミクロのインセンティブ設計と市場の競争構造にある。
成長とは、資源配分の効率化と生産性上昇の結果であって、祈祷ではない。
したがって日本経済復活の鍵は、内向きの保護と規制で安定を買うことではなく、グローバリズムを極大化して競争圧力を最大化し、資本・労働・技術の最適配分を強制的に起こすことにある。
グローバリズムとは、感情的には「外国に奪われる」物語として語られがちだが、経済学的には比較優位と分業の徹底である。
比較優位が働く世界では、各国は自国が相対的に得意な領域に資源を集中し、不得意な領域は輸入する。
これにより総生産が増える。ここで重要なのは、これは「善意の国際協調」ではなく、価格シグナルによる資源配分の自動最適化だという点だ。
国境を越えた競争は、企業の非効率(ぬるま湯組織の怠惰)を破壊し、利潤最大化行動を通じて生産性を引き上げる。
国内市場に閉じている限り、日本は既得権益の温床としての規制に守られ、競争の欠如から技術革新の圧力が弱まる。
これは市場の失敗ではなく、政府の失敗が温存される構造である。
日本が直面している本質的問題は、成長率の低下というより、全要素生産性(TFP)の伸び悩みだ。
TFPは精神論では増えない。TFPが増えるのは、技術進歩、資本深化、そして競争による淘汰が起きるときだけだ。
つまりシュンペーター的創造的破壊が必要であり、その燃料が国際競争である。
国内でゾンビ企業を延命させ、非効率部門を温存し続ける政策は、資源の誤配分を固定化し、成長率を削る。
これは典型的な政治的資本主義、すなわち市場を装った官製配分であり、自由市場とは逆方向の制度だ。
日本の労働市場は、硬直性と内部労働市場の過剰保護によって、人的資本の再配分が遅い。
解雇規制、年功賃金、過剰な雇用保護は、表面的には安定を提供するが、実態は労働移動を阻害し、成長産業への資源移転を遅らせる摩擦コストである。
グローバル競争が激化すれば、企業は利潤率を維持するために組織改革と賃金体系の合理化を迫られ、結果として労働市場の柔軟性が増す。
これは「労働者いじめ」ではなく、労働が最も高い限界生産性を持つ場所へ移動することを可能にする制度改革である。
さらに資本市場の観点でも、グローバリズムは不可避の処方箋になる。
国際資本移動が自由化されれば、国内企業は株主価値と資本収益率を世界基準で問われる。
企業統治の改善、資本コスト意識の浸透、非採算事業の切り捨てが進む。
ここで起きるのは道徳改革ではなく、資本市場がもたらす規律である。
規律とは、企業にとっては不快だが、社会全体の資源配分にとっては必要不可欠な強制力だ。
日本ではしばしば「産業保護」「食料安全保障」「経済安全保障」という言葉が万能の免罪符として使われる。
しかし、これはレントシーキング(政治的に利益を獲得する活動)の温床であり、保護の名を借りた独占の固定化である。
関税、補助金、参入規制は、短期的には国内企業の利潤を守るが、長期的には技術革新を止め、価格を引き上げ、消費者余剰を破壊する。
これは国益ではなく、特定業界の利益を国益と錯覚させる政治的マーケティングに過ぎない。
市場の競争が消えると、品質改善もコスト削減も止まり、経済全体が静かに腐る。
グローバリズム極大化の真価は、輸出拡大ではなく輸入拡大にある。
輸入とは敗北ではない。輸入は、安価で高品質な財を国内に導入し、国内の生活コストを下げ、実質賃金を引き上げる。
ここで「貿易赤字は悪」という素朴重商主義を持ち出すのは、経済学的には前時代的である。
経常収支は貯蓄投資バランスの鏡像であり、貿易収支だけを道徳的に裁くのは会計の読み間違いだ。
また、日本のイノベーション停滞は「技術力の低下」ではなく、インセンティブの弱さとして理解する方が筋が良い。
国内市場で規制と補助金に守られていれば、企業はリスクを取って研究開発するより、政治的ロビー活動で安定利潤を確保する方が合理的になる。
これがレント志向経済の病理だ。グローバリズムの極大化は、この病理を破壊する。国際市場で勝たなければ利益が出ない環境に置かれれば、企業は嫌でも技術投資と経営改革を行う。
日本が復活するには、国内で「再分配を厚くして安心を与える」よりも、成長率を引き上げてパイを拡大する方が合理的である。
成長のない再分配は、結局インフレ税や国債依存という形で将来世代に押し付けられる。
インフレは常に貨幣的現象であり、財政拡張による需要刺激で成長を捏造しようとすれば、最後は貨幣価値の毀損に行き着く。
日本が必要としているのは、マネーの増量ではなく、生産性の上昇である。
日本経済の復活とは「世界市場の荒波に投げ込まれ、勝ち残れる構造を作る」ことに尽きる。
自由貿易、資本移動の自由化、移民・高度人材の受け入れ、規制撤廃、競争政策の強化、企業統治改革。
すなわち市場の価格メカニズムを最大限機能させ、資源配分を最適化し、利潤動機を通じてイノベーションを誘発することだ。
グローバリズムを恐れる態度は、実のところ競争を恐れる態度であり、競争を恐れる経済は停滞を選ぶ経済である。
日本が再び成長するために必要なのは、国内のぬるま湯を温存する政策ではない。
世界市場という冷水に飛び込み、競争圧力を極大化し、創造的破壊を起こし続ける制度設計である。
街が浮足立ち、聖バレンタインの慈愛がどうのと抜かしている最中、私はあえて「聖人リップ(St.Rip)」という、あの吐き気のするような嘘を絞め殺しに来た。
たまに意識高い系のバーの店主や、聞きかじりの知識で夜の街を語りたがるサブカル野郎がドヤ顔で語る、あの説だ。
「ストリッパー(Stripper)の語源は、特定のパートナーを持たない者への救済を施す聖人(Saint)である。ゆえにその名は聖リップ(St.Rip)の略なのだ」という、あの美しすぎる都市伝説(バクロニム)。
結論から言う。そんな「聖人」は、この地上のどこにも存在しない。
あれは孤独な魂が寂しさを紛らわせるために捏造した、現代の知的怠慢が生んだバグだ。
「Strip」の中に潜む「St」は、天国への門なんかじゃない。ただの「物理的な摩擦」の残響だ。
「Strip(剥ぐ)」という単語が英語に現れるのは12世紀から14世紀だ。
対して、デジタル界隈で「Rip(データを引き裂き出す)」が産声を上げたのは、たかだか40年ほど前の話に過ぎない。
「Rip(引き裂く)」という言葉自体は14世紀からあるが、これらが「聖人」という文脈で結びつくには、あまりにも時間の断絶が激しすぎる。
現代のデマ野郎は「Strip =St.(聖) +Rip(引き出し)」という安易な足し算を信じている。
言語学の世界には「s-mobile(可動のS)」という、クソ面白い概念がある。
単語の頭に「S」が付いたり消えたりすることで、意味の解像度が変わる現象のことだ。
Rip(リップ):印欧祖語。バリバリと「引き裂く」「引き抜く」破壊。
Strip(ストリップ):印欧祖語。グイッと力を込めて「剥がす」「露出させる」線状の動作。
我々の祖先は、何かを無理やり分離させるときに「R」の振動音を聞き、そこに「St」という固定・強張りの音を添えることで、「表面を剥ぎ取る(Strip)」という物理的な解像度を生み出した。
人間が数千年にわたって岩の苔を剥ぎ、獣の皮を剥ぎ取ってきた「手触りの記憶」そのものなんだよ。
ドイツ語の`streifen`(剥ぎ取る)も、ラテン語の`rumpere`(破裂・切断)も、みんな同じ血族だ。
キリスト教が生まれる遥か昔から、この地上では何かが「剥がされ」「裂かれて」きた。
電線の被覆を剥がすワイヤーストリッパーも。
その本質は、聖なる救済などではなく、「本体からの暴力的な分離」という一つの根源的な物理現象に回帰する。
「ロマンがない」と嘆くか?
むしろ逆だろ。
数千年前の「剥ぎ取り」という原始的な衝動が、形を変えて現代のハイテク機器や、デジタルデータ、あるいは夜のステージにまで生き延びている。この執念深いまでの「言葉の生命力」こそ、よっぽど神秘性を帯びているとは思わないか。
そこに、「聖人」なんていない。
あるのは物理と、我々の喉元で今も響いている「S」と「R」の呪いのような残響だけだ。
余談だが、今度バーで「聖リップ」の話を得意げにしている奴を見かけたら、黙ってワイヤーストリッパーを差し出してやればいいと思う。
あぁじゃあ一応聞いておくわ
俺が万が一、万が一だよ?
中道が今日名古屋駅前で街頭演説をしたという中道改革連合が出している公式情報で持っているとしたら、お前はただのバカになるわけだが、それでも俺が名古屋駅前で中道が街頭演説してたって話を捏造扱いすんの?
なろう小説でも書いてな