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はてなキーワード:挙兵とは

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2025-10-15

anond:20251015112650

自分自身罵倒した所で彼女はできないし挙兵もできないんだよ

それとも雲超えシコキチに該当してるのは増田だけだって理解できてないのかな?

Permalink |記事への反応(0) | 17:20

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2025-09-30

anond:20250927174851

目覚めてしまったネトウヨ連中にぶっ刺さる文章

まぁ今更になって最近じゃあ、お前らみたいなのの中からネット我慢できずに政治に口挟んでデモだの世界を賭けた遅れてきた学生運動昭和右翼ごっこみたいなことリアルで始めて、順調にテロリスト化まであと一歩みたいに「育ってきてる」オッサン豚丼たちもたまーに霞が関とか国会議事堂前とか、あと何故か秋葉原とかでアジ演説してんの見かけるんだけどさ

どいつもこいつもおたくらみたいに、ハゲ散らかして上半身だけでっぷり超えて下半身は不摂生運動不足でよわよわなカエルさん体型のオッサンかオバハンか、生まれてこの方心臓が16ビート以上刻んだ運動したことないんだろうなって骨格レベルで歪んでるのがわかるチビガリみたいなオッサンエロ同人の汚いオッサン枠みたいな小太りのヤカラとオタク雑種みたいなオッサン愛国テロリストになって、ネットでここ数年散々喚いてた「ボキタンやアテクシにレムちゃんエミリアたん、ウマ娘たん、ライカン様みたいなイケメン美少女政府は宛がえ!」とか主張して挙兵して、そういう美少女イケメンが惚れてくれていつか本当の自分を愛して人生逆転できるんだウフフみたいな妄想抱えてリアルであーいうアクション起こしてるの見てると、日本も来るところまで来たなと憂慮しちゃいますよ、ワタクシ。つーか馬鹿なことやってねぇで働けよとしか言いようがないんだけどな

Permalink |記事への反応(1) | 18:04

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2025-07-15

ぶっちゃけ西田敏行人生ってこんな感じでしょ?

1169 西田敏行法住寺殿において出家法皇となる。

1180 西田敏行、父と共に源頼朝挙兵に加わり、山木館を襲撃

1205 西田敏行追放された父を継いで鎌倉幕府執権就任する

1561 西田敏行武田信玄啄木鳥戦法を献策するも謙信に見抜かれる

1579 西田敏行大工棟梁として建造を指揮した安土城天守が完成

1584 西田敏行西田敏行小牧長久手の戦いで敗れる

1598 西田敏行死去。遺児は後に西田敏行に滅ぼされる

1600 西田敏行真田昌幸に進軍を阻まれ西田敏行の叱責を受ける

同年 西田敏行石田三成関ヶ原に破る

1603 西田敏行幕府を開き初代将軍になる

1605 西田敏行西田敏行将軍職を譲り、後に駿府城に移る

1612 西田敏行、自らの私財をなげうち道頓堀の開発に着手

1614 西田敏行西田敏行を「関ヶ原には遅すぎ、大坂には早すぎる!たわけうつ間抜けーッ!」と怒鳴り付ける

1632 西田敏行征夷大将軍西田敏行の死により、流罪赦免される

1702 西田敏行女性としては最高位の従一位官位を得る

1703 西田敏行元禄赤穂事件において赤穂浪士によって襲撃を受ける

1716 西田敏行八代将軍になる

1745 西田敏行徳川家重将軍職を譲り、江戸城西の丸に移る

1776 西田敏行長崎で手に入れたエレキテルを修理して復元する

1782 西田敏行、自らが船頭を務める船が難破、ロシア領に漂着

1827 西田敏行柏原宿で大火に遭い家を失う

1860 西田敏行会津藩家老となる

1861 西田敏行愛加那との間に西田敏行を授かる(それをナレーションする西田敏行

1867 西田敏行西田敏行に命じられて江戸薩摩藩邸を本拠として江戸市内を混乱させ、薩摩藩邸焼討事件を起こさせる(それをナレーションする西田敏行

1868 薩摩藩西田敏行らと長州藩西田敏行らが協力し会津藩西田敏行と戦う

(それをナレーションする西田敏行

同年 西田敏行会津藩西田敏行への伝令にかこつけて追放される

1869 西田敏行五稜郭の戦い新政府軍に敗れる

1873 西田敏行日本初の商業銀行となる第一銀行頭取就任

1877 西南の役で、長州閥西田敏行総指揮の官軍西田敏行軍は鎮圧され、城山に追い詰められる(それをナレーションする西田敏行

1883 西田敏行共立学校の初代校長となる

同年 西田敏行、この頃に海運業を始める

1904 西田敏行日銀総裁として日露戦争の戦費を調達する

同年 西田敏行京都市長就任し、父である西田敏行のことを、部下に語りだす

1942 西田敏行日本文学報国会の会長就任

1945 西田敏行フィリピン戦場で誤って兄に撃たれる

1984 西田敏行マッキンリー冬季登頂した直後に遭難し死亡

Permalink |記事への反応(1) | 14:27

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2025-06-12

淀君関ヶ原の戦いへの道程石田三成を支持したのはなぜ?

関ヶ原の戦いに至る道筋で、淀君淀殿)が石田三成を明確に支持したという直接的な史料は少ないですが、状況証拠から、**結果的石田三成が率いる西軍に豊臣家が擁立される形になり、淀君もそれを容認せざるを得なかった**という見方が強いです。

詳細としては以下の点が挙げられます

**豊臣家の存続を第一に考えていた**:淀君豊臣秀吉側室であり、秀頼の生母として、豊臣家の安泰を最優先していました。徳川家康が力を増していく中で、豊臣家の立場が危うくなることを懸念していたのは確かです。

**家康との対立**:豊臣秀吉の死後、五大老筆頭である徳川家康権力を強めていく動きは、豊臣家の権威を脅かすものでした。淀君家康の行動に不満を抱いていたとされます

**西軍の「豊臣家擁護」の大義**:石田三成挙兵する際、その大義名分は「豊臣家を守り、家康の専横を止める」というものでした。このため、豊臣家の重臣である毛利輝元などが西軍総大将に担ぎ上げられ、形式上は豊臣家が西軍を支持する形になりました。

**大坂城から支援**:関ヶ原の戦いの際、淀君と秀頼がいる大坂城から西軍に軍資金が与えられたという記録もあります。これは、完全に三成を支持したというよりも、豊臣家の名のもとに西軍が動いていたことを示すものと考えられます

**戦後対応**:関ヶ原の戦い西軍が敗れると、淀君自身と秀頼が西軍に深く関与していなかったことを家康に認めさせ、責任追及を免れました。これは、淀君政治的に非常に慎重で、豊臣家を存続させることを第一に考えていたことを示唆しています

結論として、淀君積極的石田三成の「個人」を支持したというよりも、豊臣家の存続と権威を守るという目的のために、結果として石田三成が率いる西軍の動きを容認支援する形になった、と考えるのが妥当でしょう。

Permalink |記事への反応(0) | 12:21

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2024-04-16

戦争になった場合

戦争ができる法案を作ったり賛成した議員、及びその政党に票を投じた者、それらの年長者から順に前線に行く」と定めたらいいと思う。

自分絶対その立場にならない」時、人間ってめちゃくちゃ残酷になるから共感性を失うんだよね。どんなに歳をとってても女でも、戦争に賛成した奴から戦場にいってくれよ。ほんと、偉い身分武力イコールだった時代は良かった。

天武天皇とか見習え。挙兵して(←推し団扇)いまの奴らなんなの?人に戦わせてんじゃねーよ

Permalink |記事への反応(1) | 17:40

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2023-12-17

2024年 弱者男性 挙兵

1月 総勢10万の弱者男性高尾山挙兵共和制国家弱者男性第三帝国樹立宣言

2月 国号を「弱者男性共和国」に変更

3月 日本政府が「弱者男性共和国」を正式承認

4月 「弱者男性共和国」が全面無税化に踏み切り、寄付運営を開始。移住者企業本社移転数増加

5月 「弱者男性共和国」の人口20万人に到達

6月 「弱者男性共和国」の人口が50万人に到達

7月 日本政府が「弱者男性共和国」と断交国境付近に壁を建設

8月 総勢10万の弱者男性、3方面から東京都内の様子を伺った後に撤退

9月 「弱者男性共和国解散

Permalink |記事への反応(1) | 15:54

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2023-10-10

anond:20231010130800

超優秀な能吏だしちゃん朝鮮出兵もしたのだけど、武士出身じゃなくて戦場に出ずに出世したのと、言い方が細かい点で嫌われた。

まり人望がなかった。

あともう一つは、歴戦のつわもの家康にしてやられた。老獪な策略で関ケ原に出てくるように仕組まれたというのが現代のおおよその見方

家康は数時間おきにラッパを飛ばして「治部は挙兵たか」と確認させていた。

Permalink |記事への反応(2) | 13:11

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2023-07-22

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(後編)

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(前編)

名称概要
1531年享禄・天文の乱浄土真宗本願寺派権力闘争である享禄の錯乱管領細川晴元一向一揆を利用したら暴走してしまったので本願寺を討伐した天文錯乱
1532年北部九州天文の乱大内氏大友氏が北九州を巡って抗争を行うなかで、大内義隆大友氏の支援を受けた少弐氏を滅ぼし、豊前筑前肥前を平定した。
1533年稲村の変安房里見当主里見義豊が、叔父里見実堯を誅殺したところ、その息子の里見義堯が謀反を起こして義豊を殺し、自らが当主となった。
1536年花倉の乱駿河守護今川氏輝と弟・彦五郎が急死、その他の弟で出家していた玄広恵探栴岳承芳が後継を争った。栴岳承芳勝利今川義元を名乗った。
1537年河東の乱北条氏今川氏は長く同盟を結んでいたが、今川氏武田氏と手を結んだため、武田氏と争っていた北条氏今川領に攻め込み河東地域占領した。
1542年天文の乱伊達当主・稙宗とその息子・晴宗の内紛。婚姻外交が進んでいた奥州を二分する大乱に発展した。最終的に晴宗が当主となったが伊達氏は衰退した。
1550年二階崩れの変豊後大名大友氏において、嫡男の義鎮を支持する勢力が、当主の義鑑と三男の塩市丸を襲撃して殺害した。事件後に義鎮が当主となった。
1551年大寧寺の変周防大名大内義隆に対して、家臣の陶晴賢が謀反、義隆は自害に追い込まれた。後継は大友から迎えられ、陶晴賢が実権を握った。
1565年永禄の変畿内勢力を誇る三好氏が、将軍足利義輝を襲撃して殺害した。その後、将軍の後継争いから、三好氏の内紛へと発展していった。
1568年本庄繁長の乱越後上杉家臣・本庄繁長が上杉謙信に対して反乱を起こした。繁長がよく戦い、謙信被害も大きかったので、繁長は降伏して帰参を許された。
1569年本圀寺の変本圀寺にいた将軍足利義昭三好三人衆が襲撃した。幕府軍がよく守るあいだに畿内織田方の勢力が救援に駆けつけたため、三好三人衆は敗れた。
1569年大内輝弘の乱九州に侵攻した毛利氏の後方撹乱を狙った大友氏が、大内氏再興を目指す大内輝弘を周防挙兵させた。毛利元就九州侵攻を諦めて引き返し鎮圧した。
1570年元亀の変伊達晴宗と伊達輝宗の父子が対立するなかで、晴宗に重用されていた中野宗時が謀反の疑いをかけられ、中野一族粛清追放された。
1574年天正最上の乱出羽最上氏の当主となった最上義光と、その父・義守が対立し、伊達氏が義守に味方して内乱となった。最終的に義光有利で和睦した。
1576年三瀬の変伊勢北畠氏は織田氏に降伏し、織田信雄を養子に迎えて家督を譲っていたが、その後も叛意が残っているとされ、そのため北畠一族粛清された。
1578年御館の乱上杉謙信の死後、その甥の景勝と、北条氏から迎えた景虎という、謙信養子二人で後継争いがあり、武田氏を味方につけた景勝が勝利した。
1578年天正伊賀の乱伊勢を掌握した織田信雄が続いて伊賀に攻め込んだが敗退、数年後に織田氏はあらためて大軍で侵攻し、伊賀を平定した。
1582本能寺の変織田家臣・明智光秀が謀反を起こし、本能寺宿泊していた主君織田信長を襲撃した。信長自害した。
1582天正壬午の乱織田信長の死去により武田旧領から織田軍が撤退し、空白地帯となった武田旧領を巡って徳川北条上杉が三つ巴で争った。
1585年粟ノ巣の変伊達氏に降伏した畠山義継が、前当主伊達輝宗を拉致した。追いかけた伊達軍により、輝宗ともども義継は討ち果たされた。
1591年九戸政実の乱南部晴政の死去に起因する後継争いか南部家臣・九戸政実が反乱を起こした。南部当主・信直は豊臣秀吉に救援を求め、諸大名軍により平定された。
1599年庄内の乱島津忠恒重臣伊集院忠棟を誅殺した。伊集院氏は籠城して徹底抗戦したが、秀吉死後に実権を握った徳川家康の調停により、最終的に降伏した。
1637年島原の乱島原天草苛政に耐えかねた領民が、旧領主に仕えていた浪人たちを中心として一揆を起こした。一揆勢は籠城して戦ったが、幕府軍鎮圧された。
1651年慶安の変軍学者由比正雪が、教え子の浪人たちと共に、幕府転覆計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。由比正雪自決した。
1652年承応の変軍学者の別木庄左衛門が、仲間の浪人たちと共に、幕府転覆計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。別木庄左衛門は磔にされた。
1837年大塩平八郎の乱腐敗した大坂町奉行所や、飢饉でも米を買い占める豪商失望した元・町与力大塩平八郎らが決起し、豪商などを襲撃した。半日鎮圧された。
1837年生田万の乱国学者生田万が、大塩平八郎の乱に感化され、仲間とともに越後桑名藩陣屋を襲撃したが、長岡藩によって鎮圧された。
1860年桜田門外の変攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、安政の大獄引き起こし水戸藩を圧迫していた開国派の大老井伊直弼を襲撃し、暗殺した。
1862年坂下門外の変攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、公武合体推し進めていた開国派の老中安藤信正を襲撃し、負傷させた。
1863年朔平門外の変破約攘夷派の公家代表格であった姉小路公知暗殺され、薩摩藩田中新兵衛逮捕されたが、新兵衛が自害したため真相不明
1863年天誅組の変尊攘派公家による倒幕計画に基づき、尊攘派の「天誅組」が大和国挙兵したが、幕府鎮圧された。同時に京では政変があり尊攘派公家が失脚した。
1863年生野の変長州支援を受けた尊攘派浪士らが、天誅組と同様に但馬国挙兵をしたが、幕府鎮圧された。
1864年天狗党の乱水戸藩内の尊攘過激派天狗党」が急進的な攘夷を求めて筑波山挙兵したが、幕府鎮圧された。この内乱により水戸藩の影響力は低下した。
1864年禁門の変前年の政変により京から追放されていた長州藩が、復権を目指して京で挙兵会津藩薩摩藩らと戦ったが敗れた。これにより長州征伐が決まった。
1874年喰違の変征韓論で失脚した不平士族たちが、征韓反対派の右大臣岩倉具視を恨みに思い襲撃、負傷させた。下手人らはすぐに逮捕され処刑された。
1874年佐賀の乱征韓論で失脚した江藤新平らが中心となって不平士族佐賀県挙兵したが、政府軍により鎮圧された。
1876年神風連の乱熊本県の不平士族が結成した「敬神党」が廃刀令への反発から挙兵したが、政府熊本鎮台軍により鎮圧された。
1876年秋月の乱神風連の乱呼応して、福岡県で不平士族挙兵したが、政府小倉鎮台軍により鎮圧された。
1876年萩の乱神風連の乱呼応して、山口県で不平士族挙兵したが、政府広島鎮台軍により鎮圧された。
1877年福岡の変西南戦争呼応して、福岡県で不平士族挙兵したが、福岡城に残っていた政府軍などに鎮圧された。
1878年紀尾井坂の変石川県の不平士族たちが、内務卿・大久保利通を襲撃、暗殺した。下手人らは自首し、処刑された。

Wikipediaで立項されているものだけまとめた。「〜の変」「〜の乱」という別称があっても、その呼称で立項されていなければ除外している)

明確な定義は決まっていないという前提で、だいたい以下のような基準だと思う。

〜の変:大きな戦闘を伴わない政変。謀反・暗殺粛清・失脚など。権力上下関係ない。成功たか失敗したか関係ない。

〜の乱:大きな戦闘を伴う内乱。反乱・暴動後継者争いなど。国家同士の戦争を指すことはほぼ無い。成功たか失敗したか関係ない。

こういった呼称は「絶対にいずれかに統一しなければならない」というものではないので、「これって乱というより変じゃね?」と思うような事件は、だいたい「変」「乱」どちらで呼んでも通じたりする。たとえば蘇我氏物部氏の戦いである「丁未の乱」は他に「丁未の変」や「丁未の役」とも呼ばれる。将軍足利義教暗殺された事件は、その暗殺の部分だけを見れば「嘉吉の変」と呼ばれ、その後の赤松討伐戦も含めれば「嘉吉の乱」と呼ばれる。

あとついでに。

〜の役:大規模な軍役。必然的辺境への遠征対外戦争が多い(がそれに限らない)。例として前九年の役後三年の役富山の役・文禄の役慶長の役など。

〜の陣:長期間の在陣。遠征戦線の膠着・包囲戦など。例として鈎の陣・志賀の陣・天正の陣・大坂の陣など。

という感じだと思う。「役」と「陣」はなんとなく互換性があり、「小田原の役・小田原の陣」「朝鮮の役・朝鮮の陣」「大坂の役・大坂の陣」などはどちらも用いられる。

Permalink |記事への反応(5) | 01:02

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「〜の変」「〜の乱」のまとめ(前編)

名称概要
463年吉備氏の乱雄略天皇吉備田狭の妻を奪ったので、吉備田狭は新羅と結託して反乱を起こしたが、失敗した。
479年星川皇子の乱雄略天皇吉備田狭の妻のあいだに生まれ星川皇子が、吉備氏と結託して皇位を奪おうとしたが、誅殺された。
527年磐井の乱朝鮮半島出兵しようとした大和朝廷軍に対し、北九州豪族である筑紫磐井が反乱を起こしてそれを阻んだが、討伐された。
587年丁未の乱仏教布教を巡って、大臣蘇我馬子と、大連物部守屋対立し、戦に発展した。蘇我氏勝利した。
645年乙巳の変中大兄皇子中臣鎌足らが、朝廷壟断していた蘇我入鹿暗殺、続いて蘇我氏粛清した。
672年壬申の乱天智天皇後継者争いが発生し、皇太子大友皇子に対して、天智天皇の弟・大海人皇子挙兵した。大海人皇子勝利して天皇となった。
729年長屋王の変皇族長屋王に謀反の疑いがかけられて兵が差し向けられ、長屋王自害した。藤原四兄弟による陰謀とされる。
740年藤原広嗣の乱藤原四兄弟の死により藤原氏勢力が退潮し、九州左遷されて不満を持った藤原広嗣太宰府挙兵したが、朝廷軍により討伐された。
757年橘奈良麻呂の乱橘諸兄の息子・橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂を疎んでクーデターを企てたが、事前に発覚して逮捕され、獄死した。
764年藤原仲麻呂の乱孝謙上皇対立した太政大臣藤原仲麻呂恵美押勝)が反乱を企図したが失敗、討伐された。
780年宝亀の乱朝廷に帰順して功績を上げていた蝦夷族長伊治呰麻呂が、陸奥按察使・紀広純殺害して反乱を起こした。
782年氷上川継の乱天武天皇の曾孫で臣籍降下していた氷上川継が、光仁天皇崩御に乗じて謀反を企んだが、事前に発覚して流罪となった。
807年伊予親王の変藤原宗成の謀反計画が判明し、その首謀者の嫌疑をかけられた伊予親王自死したが、のちに冤罪と認められた。
810年薬子の変平城上皇嵯峨天皇対立が激化し、平城上皇挙兵決断するに至ったが、嵯峨天皇が先んじて兵を差し向け、平城上皇出家した。
842年承和の変嵯峨上皇崩御に伴い、皇太子恒貞親王擁立する側が謀反人とされて失脚、藤原良房の支持を受ける道康親王皇太子となった。
866年応天門の変応天門放火があり、大納言伴善男が「左大臣源信仕業だ」と告発したが、逆に伴善男真犯人だとされて流罪になった事件
878年元慶の乱長年の苛政に不満を抱いた蝦夷の民が蜂起して秋田城を襲撃した。朝廷の軍はいちど敗れたが、蝦夷を懐柔・慰撫することで鎮圧した。
889年寛平・延喜東国の乱関東治安が低下し、群盗の蜂起が相次いだ。その鎮圧に功のあった平高望勢力を広げ、いわゆる坂東平氏の礎となった。
901年昌泰の変右大臣菅原道真が失脚し、大宰府左遷された事件左大臣藤原時平陰謀だとされる。
938年天慶の出羽俘囚の乱朝廷に服属していた蝦夷たちが反乱を起こして秋田城を襲撃した。その後の経過は不明
939年承平天慶の乱東では坂東平氏平将門が、西では藤原一族藤原純友が、ほぼ同時に反乱を起こしたが、朝廷により鎮圧された。
947年藤原是助の乱伯耆豪族藤原是助が、前任の国司だった物部高茂・忠明父子を襲撃した。物部忠明が追討軍を率いて鎮圧したという。
969年安和の変謀反の計画が密告され、それに関係したと見なされた左大臣源高明太宰府左遷された。藤原氏による陰謀だとされる。
986年寛和の変皇太子の外祖父であった右大臣藤原兼家が、孫の即位を早めるために、当代の花山天皇を唆して出家させた事件
995年長徳の変「花山法皇自分恋人に言い寄っている」と勘違いした藤原伊周が法皇を襲撃して左遷された。政敵の伊周が失脚したこと藤原道長が台頭していく。
1028年平忠常の乱坂東平氏の有力者だった平忠常が反乱を起こし、三年に渡って争いが続いた。元・主人の源頼信が追討に差し向けられ、忠常は戦わずして降伏した。
1107年源義親の乱源義家の子である源義親がまず九州、次いで出雲乱暴狼藉を働いていた。平正盛が追討に向かい鎮圧、のちの伊勢平氏繁栄きっかけとなった。
1113年永久の変千手丸という童子鳥羽天皇暗殺を企んでいると密告があり、輔仁親王の護持僧・仁寛が首謀者とされ、流罪となった。
1156年保元の乱後白河天皇藤原忠通派と、崇徳上皇藤原頼長派が対立して戦に発展し、後白河天皇派が勝利した。頼長は死に、崇徳上皇流罪となった。
1160年平治の乱信西の権勢に反発した藤原信頼・源義朝クーデターを起こし、信西を死に追いやったが、のちに平清盛に敗れ、信頼は処刑された。
1180年治承・寿永の乱いわゆる源平合戦平清盛を筆頭とする平氏政権が打倒され、源頼朝によって鎌倉幕府樹立された。
1184年三日平氏の乱平氏都落ちのあと、伊賀平田家継、伊勢平信兼藤原忠清といった平氏残党が蜂起したが、鎌倉軍に鎮圧された。
1189年大河兼任の乱奥州藤原氏の家臣だった大河兼任出羽国で反乱を起こし、藤原氏の残党も取り込んで暴れたが、鎌倉幕府の追討軍に敗れた。
1199年梶原景時の変源頼朝の死後、その腹心だった梶原景時が有力御家人に弾劾されて鎌倉追放された。のちに謀反を企てたが敗れて一族は滅亡した。
1201年建仁の乱梶原景時に恩のあった城長茂が京で兵を挙げ、本拠越後でも城一族が反乱が起こしたが、鎌倉幕府鎮圧された。
1203年比企能員の変将軍源頼家の舅として台頭した比企能員が、政敵北条一族に謀殺され、比企一族も滅ぼされた。それに反発した頼家も将軍地位を追われた。
1203年三日平氏の乱二十年前の三日平氏の乱で敗れた藤原忠清の孫・若菜盛高が再び伊勢伊賀で反乱を起こしたが、幕府軍を率いる平賀朝雅鎮圧された。
1205年畠山重忠の乱平賀朝雅および北条時政の謀略で、彼らと対立していた畠山重忠とその一族が討伐された。直後に時政は失脚し、朝雅も誅殺された。
1213年泉親衡の乱北条氏打倒の企みが発覚して和田義盛の息子などが捕縛された。首謀者の泉親衡は合戦ののち行方くらませた。続く和田合戦きっかけとなった。
1221年承久の乱後鳥羽上皇北条義時追討を宣言して挙兵したが、鎌倉幕府はそれを打倒した。後鳥羽上皇隠岐に配流された。
1293年平禅門の乱平頼綱北条氏の執事として権勢を振るったが、その権勢を危ぶんだ執権北条貞時に討伐された。頼綱とその一族は滅亡した。
1305年嘉元の乱得宗北条貞時の命令として北条時村が誅殺されたが、続いて「それは北条宗方による陰謀だった」として宗方が誅殺された。
1325年安藤氏の乱津軽で起きた蝦夷の反乱と、蝦夷代官安藤氏のお家騒動が重なり、それを幕府が上手く調停できなかったため内乱に発展した。
1324年正中の変後醍醐天皇の側近たちが鎌倉幕府打倒を計画したとされ、日野資朝佐渡流罪となった。後醍醐天皇は不問となった。
1331年元弘の乱後醍醐天皇鎌倉幕府打倒を計画し、いったんは失敗して隠岐へ配流されたが、その後に盛り返して幕府を滅ぼした。建武新政が開始された。
1335年中先代の乱最後得宗北条高時の息子である北条時行が幕府再興を掲げて挙兵、いったんは鎌倉占領した。足利尊氏に追討されて時行は逃亡した。
1336年建武の乱後醍醐天皇と、そこから離反した足利尊氏の戦い。尊氏勝利して室町幕府が成立するも、後醍醐天皇吉野に逃れて南北朝時代が始まった。
1366年貞治の変室町幕府で権勢を振るった斯波高経斯波義将父子が、周囲の不満の高まりにより失脚した。追討の軍が送られ、斯波氏の領国は没収された。
1375年水島の変九州派遣された今川了俊が、同じ北朝少弐冬資と対立したため、彼を暗殺した。了俊の仕打ちに反発して島津氏大友氏などが離反した。
1380年小山氏の乱鎌倉公方・足利氏満下野守護小山義政が対立し、小山氏が滅ぼされた戦い。小山義政は自害したが、遺児・若犬丸はその後も抵抗を続けた。
1387年小田氏の乱常陸小田氏が小山若犬丸を匿っていたことが発覚、鎌倉公方・足利氏満小田氏を討伐した。小田氏は降伏し、所領を没収された。
1389年土岐康行の乱有力守護の弱体化を図る将軍足利義満が、土岐氏の後継争いにつけこんで当主の土岐康行を討伐した。康行はのちに許されて伊勢守護となった。
1392年明徳の乱一族で十一カ国の守護となり権勢を誇った山名氏が、将軍足利義満挑発に乗って反乱を起こしたが敗れた。山名氏の所領は三カ国まで減らされた。
1395年田村庄司の乱白河結城氏と対立していた田村庄司氏が反乱を起こし、そこに小山若犬丸が逃げ込んだことで、鎌倉公方・足利氏満が出陣して田村庄司氏を滅ぼした。
1399年応永の乱六カ国の守護である大内義弘が将軍足利義満対立鎌倉公方と手を結び、土岐氏山名氏の残党と手を結んで挙兵したが敗れた。義弘は戦死した。
1411年飛騨の乱飛騨国司姉小路氏は三家に分裂しており、その内紛から姉小路尹綱が挙兵幕府の追討軍によって鎮圧された。尹綱は戦死した。
1413年伊集院頼久の乱島津家後継者争いをきっかけに、当主島津久豊対立した重臣伊集院頼久が反乱を起こした。一進一退の末に両者は和睦した。
1416年上杉禅秀の乱関東管領を更迭された上杉氏憲が、諸将を味方につけて鎌倉公方・足利持氏に反乱を起こした。幕府が持氏を救援し、氏憲は敗れて自害した。
1422年小栗満重の乱室町幕府鎌倉公方が対立するなかで、幕府と結びついた小栗満重などの北関東武将が、鎌倉公方・足利持氏に対して挙兵したが鎮圧された。
1423年越後応永の乱室町幕府鎌倉公方が対立するなかで、幕府側の越後守護上杉頼方が、鎌倉公方側の守護代・長尾邦景を討伐しようとしたが、邦景が勝利した。
1429年大和永享の乱幕府との結びつきが強い筒井氏と元・南朝越智氏の長年の争いが激化し、最終的に室町幕府の追討軍に越智氏は敗れた。
1438年永享の乱鎌倉公方・足利持氏関東管領・上杉憲実の対立から室町幕府が持氏討伐を決めた。派遣された追討軍に敗れた持氏は自害した。
1441年嘉吉の乱三カ国守護である赤松満祐が、酒宴に招いた将軍足利義教暗殺した。幕府軍の追討により赤松氏は滅亡した。
1443年禁闕の変南朝復興を唱える勢力御所を襲撃し、三種の神器のうち剣と勾玉を奪った。すぐに幕府軍鎮圧されたが、勾玉は奪われたままとなった。
1455年享徳の乱足利持氏の息子・成氏により鎌倉公方が復活したが、関東管領との争いも復活してしまい、二十八年にわたって両者が争った。最終的には和睦した。
1457年蠣崎蔵人の乱陸奥国田名部の領主・蠣崎信純が反乱を起こし、南部氏がそれを鎮圧した。蠣崎信純は北海道に逃れて、のちに勢力を築いた。
1457年長禄の変赤松再興を目指す赤松氏の遺臣が、禁闕の変で奪われた勾玉を奪還した。その功績により赤松氏は再興を許された。
1467年応仁の乱畠山氏の跡目争い、斯波氏の家督交代、赤松氏再興、将軍の後継問題などから東軍細川勝元西軍山名宗全が戦った。東軍有利で和睦に終わった。
1476年長尾景春の乱関東管領・山内上杉氏の家臣・長尾景春が待遇への不満から挙兵したが、太田道灌によって鎮圧された。これをきっかけに享徳の乱も和睦に向かった。
1479年毛利次郎の乱赤松氏らの支援を得た因幡国人毛利貞元などが、山名氏に対して反乱を起こした。鎮圧されたが、国人たちの勢力は保たれた。
1486年江戸城の乱谷上杉氏の当主上杉定正が、麾下の名将・太田道灌を誅殺、その居城である江戸城占拠し、道灌の息子の太田資康を追放した。
1487年長享の乱享徳の乱を経て、関東管領の山内上杉氏とその分家の扇谷上杉氏が対立し、太田道灌誅殺をきっかけに戦乱となった。最終的に扇谷上杉氏が降伏した。
1487年長享・延徳の乱将軍足利義尚が自ら軍を率いて近江守護六角氏の討伐に向かったが陣中で病死した。後を継いだ足利義材が再び六角討伐を行った。
1489年山名新九郎・小太郎の乱伯耆守護山名元之の息子である山名新九郎らが、赤松氏の支援を得て伯耆守護山名尚之に反乱を起こしたが、鎮圧された。
1490年佐竹の乱佐竹宗家と以前から断続的に争っていた佐竹庶流・山入氏らが、佐竹義治の死去を機に佐竹氏の本拠攻撃したが、最終的に山入氏は滅ぼされた。
1502年伊庭氏の乱長享・延徳の乱の後、近江守護に復帰した六角高頼に対し、近江守護代・伊庭貞隆が二度に渡って出奔挙兵するが、最終的に鎮圧された。
1507年永正の乱越後守護代・長尾為景が謀反、越後守護上杉房能とその兄である関東管領・上杉顕定を敗死させた。関東管領の後継争いか関東を二分する戦いに発展した。

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(後編)

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2023-02-08

さまざまな桶狭間

桶狭間の戦い

桶狭間度:★★★★★

海道一の弓取りと謳われた今川義元大軍を、小勢の織田信長が打ち破った戦い。「桶狭間は谷だった」「いや山だった」「奇襲だった」「いや正面攻撃だった」など、その実態については今なお盛んに議論される。また、勝利した織田信長がこれをきっかけに勢力を拡大し、のちには天下人となっていったこから、「小大名が敵の大軍を破り、その後の飛躍に繋げた戦い」のことを「〇〇の桶狭間」と言うようになった。

奥州桶狭間人取橋の戦い

桶狭間度:★☆☆☆☆

父親を殺された伊達政宗が、その弔い合戦として畠山氏の二本松城を攻めたところ、相手方の救援として駆けつけた佐竹氏・蘆名氏などの連合軍と戦いになった。兵力差四倍以上の相手に正面決戦を強いられることとなった伊達方はほぼ敗勢だったが、勝利目前の佐竹軍が急に撤退したため尻すぼみに合戦終結した。壊滅必至だった伊達軍がそれを免れたという点では「勝ちに等しい引き分け」と見ることもできる。その後、巻き返した伊達政宗二本松城を落とし、蘆名氏を滅ぼして南奥州覇を唱えることとなる。

関東桶狭間河越夜戦

桶狭間度:★★★★☆

泥沼の争いを繰り広げていた古河公方山内上杉・扇谷上杉らの関東勢が、勢力を急伸させた北条氏を恐れて連合し、北条方の要所・河越城大軍で包囲した。それに呼応した今川義元も西から挙兵して挟撃の形となり、家督を継いだばかりの北条氏康は早くも絶体絶命の危機を迎えた。しかし手早く今川と和睦した氏康は、大軍に驕った連合軍に夜襲を仕掛けて撃破した。この戦いで古河公方山内上杉・扇谷上はいずれも滅亡・没落し、関東北条氏を中心として動くようになった。

甲斐桶狭間飯田河原の戦い

桶狭間度:★★☆☆☆

甲斐に侵攻した今川大軍を、武田信玄の父・武田信虎が迎え撃った戦い。荒川沿いの飯田河原戦場に選んだ信虎は、数で上回る今川軍を地の利を活かして撃退、ひと月後に上条河原で再戦したがそれも打ち破り、敵の大将を討ち取った。一連の戦いにより武威を示した武田信虎は、敵対していた穴山氏などを服属させ、甲斐統一を成し遂げた。

近江桶狭間野良田の戦い

桶狭間度:★★☆☆☆

北近江浅井氏は、越前朝倉氏と南近江六角氏という大勢力に挟まれ、当時は六角氏に従属する立場だった。父親隠居させて浅井家の若き当主となった浅井長政は、すぐさま六角からの離反を表明した。それに対し、六角氏は当主六角承禎自らが大軍を率いて攻め寄せたが、浅井長政は半数以下の兵力で迎え撃って勝利した。弱い立場だった浅井氏はこの勝利により戦国大名としての地位を固め、敗れた六角氏はお家騒動などもあり衰退していくことになる。

備前桶狭間」明善寺合戦

桶狭間度:★☆☆☆☆

備前大名浦上氏の家臣として頭角を現しつつあった宇喜多直家は、毛利氏従属しながら備前進出しようとした備中三村氏の当主三村家親を、日本史上初となる火縄銃狙撃により暗殺した。怒れる三村氏は、弔い合戦とばかりに宇喜多方の明善寺城を攻め取ったが、宇喜多直家は素早く奪回し、逆にその救援にやってきた三村氏の大軍を待ち構えて打ち破った。この戦いにより影響力を増した宇喜多直家は、のちに主君反旗を翻し、戦国大名として独立することになる。

西国桶狭間有田中井手の戦い

桶狭間度:★★★☆☆

かの毛利元就の初陣。源氏の名門・武田氏一族で猛将と謳われた武田元繁と、味方の城の救援に向かった毛利吉川連合軍の戦い。寡兵連合軍は劣勢を強いられたが、初戦で運良く敵方武将を討ち取り、それに激怒して自ら前線へ打って出た武田元繁をも討ち死にさせた。この戦いにより、大内氏から独立して勢力を拡大していた武田氏は一転して衰退し、代わって毛利元就歴史の表舞台に躍り出ることとなった。

「海の桶狭間厳島の戦い

桶狭間度:★★★★☆

毛利元就の戦いとしてはこちらのほうが有名だろう。主君大内義隆に謀反し、大内家内を牛耳った陶晴賢だったが、その隙に離反した毛利元就によって安芸を奪われてしまう。大軍を率いる陶晴賢要衝厳島拠点安芸奪回を狙うが、毛利元就は嵐に乗じた奇襲でそれを打ち破り、陶晴賢自害に追い込んだ。この勝利により、毛利元就は逆に大内氏を滅ぼしてその領土併呑し、中国地方覇者となっていくのである

肥前桶狭間今山の戦い

桶狭間度:★★★☆☆

肥前勢力を拡大していた龍造寺隆信に対し、脅威を覚えた北九州覇者大友宗麟大軍を率いて侵攻、数ヶ月に渡って佐賀城を包囲した。援軍の見込みもないなかで龍造寺軍はよく持ちこたえたものの、ついに大友宗麟は弟の大友親貞に総攻撃を命じる。大友親貞は総攻撃前夜に士気を高めるため酒宴を開いたが、それを見た龍造寺家臣の鍋島直茂わずかな手勢を率いて夜襲を仕掛けた。油断していた大友軍は総崩れとなり、大友親貞も討ち取られてしまった。その後、和睦に持ちこんだ龍造寺隆信は、大友氏に従属しながら勢力を拡大し、のちに九州三強の一角に名を連ねることになる。

九州桶狭間木崎原の戦い

桶狭間度:★★★★☆

島津当主島津貴久が亡くなった直後、その隙を突いて隣国伊東氏島津領に侵攻した。伊東方が数千の軍であったのに対し、島津軍勢はその十分の一ほどしかなかったという。だがそれを率いていたのは名将・島津義弘だった。島津軍の頑強な抵抗により、伊東はいったん退却して陣を立て直すことになった。しかし、島津義弘から指示を受けていた農民たちが太鼓を鳴らして伏兵を装うと、伊東軍は慌てて陣から飛び出し、そこで待ち伏せていた島津軍に四方から攻められて壊滅、総大将も討ち取られてしまった。窮地を脱した島津氏は、島津兄弟のもと勢力を拡大し、九州を制覇していくのである

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2022-12-01

鎌倉幕府将軍執権 年表

将軍執権備考
1192源頼朝
1193
1194
1195
1196
1197
1198
1199
1200梶原景時の変
1201
1202源頼家
1203源実朝北条時政比企能員の変(源頼家失脚)
1204源頼家暗殺
1205北条義時牧氏事件北条時政失脚)
1206
1207
1208
1209
1210
1211
1212
1213和田合戦
1214
1215
1216
1217
1218
1219源実朝暗殺
1220
1221承久の乱
1222
1223
1224北条泰時伊賀氏の変
1225
1226藤原頼経
1227
1228
1229
1230
1231
1232
1233
1234
1235
1236
1237
1238
1239
1240
1241
1242北条経時
1243
1244藤原頼嗣
1245
1246北条時頼宮騒動藤原頼経失脚)
1247宝治合戦
1248
1249
1250
1251
1252宗尊親王
1253
1254
1255
1256北条長時
1257
1258
1259
1260
1261
1262
1263
1264北条政村
1265
1266惟康親王
1267
1268北条時宗
1269
1270
1271
1272二月騒動
1273
1274元寇文永の役
1275
1276
1277
1278
1279
1280
1281元寇弘安の役
1282
1283
1284北条貞時
1285霜月騒動
1286
1287
1288
1289久明親王
1290
1291
1292
1293平禅門の乱
1294
1295
1296
1297
1298
1299
1300
1301北条師時
1302
1303
1304
1305嘉元の乱
1306
1307
1308守邦親王
1309
1310
1311北条宗宣
1312北条煕時
1313
1314
1315北条基時
1316北条高時
1317
1318後醍醐天皇即位
1319
1320
1321
1322
1323
1324正中の変
1325
1326北条守時嘉暦の騒動(十日執権北条貞顕
1327
1328
1329
1330
1331元弘の乱後醍醐天皇挙兵
1332
1333

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2022-07-28

西田敏行の年表

ニシダトシキノネンピョウ

西田敏行の年表とは、日本史に燦然と輝く西田敏行の業績である

歴史

1169 西田敏行法住寺殿において出家法皇となる。

1180 西田敏行、父と共に源頼朝挙兵に加わり、山木館を襲撃

1561 西田敏行武田信玄啄木鳥戦法を献策するも謙信に見抜かれ討ち死に

1584 西田敏行西田敏行小牧長久手の戦いで敗れる

1598 西田敏行死去。遺児は後に西田敏行に滅ぼされる

1600 西田敏行真田昌幸に進軍を阻まれ西田敏行の叱責を受ける

同年 西田敏行石田三成関ヶ原に破る

1603 西田敏行幕府を開き初代将軍になる

1605 西田敏行西田敏行将軍職を譲り、後に駿府城に移る

1614 西田敏行西田敏行を「関ヶ原には遅すぎ、大坂には早すぎる!たわけうつ間抜けーッ!」と怒鳴り付ける

1716 西田敏行八代将軍になる

1745 西田敏行徳川家重将軍職を譲り、江戸城西の丸に移る

1860 西田敏行会津藩家老となる

1861 西田敏行愛加那との間に西田敏行を授かる(ナレーション西田敏行

1867 西田敏行西田敏行に命じられて江戸薩摩藩邸を本拠として江戸市内を混乱させ、薩摩藩邸焼討事件を起こさせる(ナレーション西田敏行

1868 薩摩藩西田敏行らと長州藩西田敏行らが協力して幕府を倒す(ナレーション西田敏行

1869 西田敏行五稜郭の戦い新政府軍に敗れる

1877 西南の役で、長州閥西田敏行総指揮の官軍西田敏行軍は鎮圧され、城山自刃ナレーション西田敏行

1883 西田敏行共立学校の初代校長となる

1904 西田敏行日銀総裁として日露戦争の戦費を調達する

1904 西田敏行京都市長就任し、父である西田敏行のことを、部下に語りだす

1945 西田敏行フィリピン戦場で誤って兄に撃たれる

https://togetter.com/li/976233

https://dic.nicovideo.jp/a/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E6%95%8F%E8%A1%8C%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8

Permalink |記事への反応(7) | 20:52

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2022-02-12

anond:20220212010453

アニメの底本になった古川日出男訳読んだ程度の理解だけど(以下ネタバレくそもないけどネタバレかもしれない)

邪魔者はどんどん殺そうという感じでは意外とないんだよな。禍根が残るし宗教もあるから

たとえば源頼朝義経父親平治の乱を起こして平家に追討されたけど、平家頼朝義経までは殺さなかった

そのせいで後年追い詰められることになる


平家は徳子を天皇家に輿入れさせて息子を産ませる。これが安徳天皇になると、平清盛天皇祖父だってことになってますます権力を持つ

権力の源泉はもう一人の祖父、つまり後白河上皇から血縁からこれを処刑したりするのは都合が悪い(平家物語だと清盛は討ちたがっていたけど)

一方で以仁王は無理に担ぎ上げられた後白河の子で、平家にとってはもちろん朝廷からしても後白河-高倉-安徳と続いたラインを乱すものとして白眼視され、

挙兵きっかけに平家圧力皇族としての地位を奪ったので殺してヨシ!となった。朝廷への反逆は大義名分として掲げやすいので、とにかくこのロジックを立てようとする

後鳥羽天皇安徳天皇の異母弟)は、もっともっと話がこじれてからの話で、

力を失った平家絶対死守したい安徳天皇三種の神器を持ってトンズラこくという最終手段をとったので、「じゃあもうこっちで天皇立てるわ」って神器なしで朝廷側が立てた

訳者も書いてたけど平家物語って意外と戦の占める割合が少ない。政治交渉宗教、情愛の話が多いよ

Permalink |記事への反応(0) | 09:13

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2021-12-13

anond:20211212125107

中国大返しがなければ、秀吉は通常の速度で明智征伐に向かうこととなり、

同時期に出兵していた勝家・家康と合わせて三方面同時侵攻のような形になる。

清洲会議ではその三者論功行賞となり、史実よりも秀吉発言力は弱くなって、勝家は筆頭家老としての地位を維持する。

家康甲斐攻めは無くなっているはずなので、甲斐北条のものとなっている。

その家康領地割譲しようにも、織田本拠地である尾張美濃を与えるわけにもいかず、

最終的に「家康甲斐を得るために織田家が力を貸す」ということになる。

まり織田家の次の目標北条攻めということとなり、地理的問題からその方面軍は勝家が中心となる。

秀吉毛利長宗我部への抑えとして残され、力を温存できる一方で、

共同で北条と戰う家康と勝家の関係は深まり秀吉VS勝家・家康という構図になっていく。

北条戦が長引くなか、満を持して秀吉挙兵、京・近江を押さえ、美濃へと進出していく。

柴田徳川連合軍も急いで引き返し、両軍は関ヶ原で激突する。

面白いな。

Permalink |記事への反応(1) | 17:24

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2021-10-09

後醍醐天皇ってテロリストだよな?

後醍醐天皇って倒幕を企んで流罪にされてるし、

その後も楠木正成とか足利尊氏とか各地の武士煽動し、

挙句の果てに挙兵してるんだからどう見てもテロリストだよな

anond:20211009161345

Permalink |記事への反応(2) | 19:30

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2021-05-18

anond:20210517202222

後鳥羽上皇だったら怒りのあまり挙兵する

Permalink |記事への反応(0) | 08:08

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2021-04-08

武家の三代目はその後の運命の分かれ目

平家

平宗盛アホの子源頼政挙兵きっかけを作っちゃった人。こいつのせいで平家は滅亡(出典:平家物語)。

源氏

源実朝政治に興味なし。甥に暗殺され、実質的源氏は滅亡。

北条氏

北条泰時承久の乱勝利幕府の基礎を固める。これで一応鎌倉幕府は安定するが、執権は全員短命に。

足利氏

足利義満…いわずもがなの権力者南北朝統一し、有力な守護大名を押さえ、勘合貿易経済を潤し、息子を天皇の前で元服させる。権力が強すぎたせいで死後幕府は混迷・没落

豊臣氏

豊臣秀頼実質的には二代目。秀次を挟んで三代目。徳川家康が恐れる体格・人格を持つ。右大臣にまで登りつめるも、大坂の陣ではほぼ何もできず豊臣は滅ぼされる。

徳川氏

徳川家光有史以来のキチガイインセル権力を持たせたらどうなるかよーくわかる人物バカインセル刃物権力は持たせてはいけない。

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2021-01-26

anond:20210126012231

皆さん騙されてはいけません。

私も西軍が勝った世界線に住んでいますが、元記事歴史修正主義者が書いた悪質なプロバガン増田です。

順を追って訂正していきます


その後関東には何人か大名が移り住んだが誰も定着せず荒れ野のまま。

関東なんて今もほとんど人が住んでいないド田舎の話は誰も興味がないと思うので話を元に戻す


後述しますが、冒頭から近世日本の歴史観の中で最も悪質なミスリードです。

大名は「定着せず」ではなく「定着させなかった」が正確ですし、「関東なんて今もほとんど人が住んでいないド田舎」は極めて恣意的表現になります


戦争が起こらず、外国との交易も進み商業が発展していったので時代遅れ武士は次第に消えていった。その代わりに交易利益を上げた大名が豊臣を中心に貴族化していく。


この部分はある意味で正しいですが、重要事実が省かれています。確かに日本列島内での大名間の大きな争いは起きませんでしたが、関ヶ原後の豊臣氏はかつて秀吉が行った朝鮮出兵を再開したのです。

石田三成が中心になって行われたこ出兵、いわゆる「元和の唐入り」は簡単に言ってしまえば外敵を作ることによる諸大名の結束を図るものでしたが、結果として成功を収めてしまます

朝鮮半島支配下に置いた豊臣政権は、万暦の三大征で国力を失っていた明との間に戦わずして講和条約を結びます。その後朝鮮半島現在に至るまで日本領地となっており、そのため元和の唐入り対外戦争ではないという風潮(沖縄北海道みたいな扱い)が強いのは事実ですが、現代人に都合のいい歴史観ではないかという議論存在します。

こうしてアジア大陸進出した日本が当時の国際貿易において強い存在感を発揮し商業により発展していくのも事実ですが、ここでも重要な部分の言及が省かれていますキリシタン大名南蛮豪商存在です。

当初は秀吉バテレン追放令を引き継ぐ動きを見せていた豊臣政権ですが、交易重要性が増すにつれてキリスト教宣教師活動制限することに無理が生じていきます。またこの頃、日本での貿易事業で一旗揚げようとポルトガルスペインから移住してきた事業家、いわゆる南蛮豪商が急増したことキリスト教信仰の活発化につながっていきます

政権はなし崩し的にキリスト教を認めていくことになりますが、そうした流れで力を付けていくのがキリシタン大名です。彼らは表立って政権や4大大名権力争いをすることはありませんでしたが、着実に海外とのコネクションを強めていき、国内キリスト教勢力の強固な後ろ盾となります


武士がいなくなっていくにつれて神道儒教は消えていった。後述のように、近隣のアジア諸国でも儒教は消えていった。今でも神社の残骸のようなものは残っているが参拝する人は誰もいない


冒頭の部分にも関係して、ここも悪質なミスリードです。たしか武士消滅神道儒教の衰退は同時期に発生しましたが、そもそもこの2つ事柄に直接の因果関係はありません。

しかしこれらが同時に発生したのには明確な同一の原因があります。それが前述したキリシタン勢力の台頭なのです。

政権貿易政策キリスト教容認に対して、元よりキリスト教対立していた朝廷はもちろん、元東軍を中心とする従来の武家社会に重きを置く大名勢力は当然反感を高めていました。これは感情的な部分だけではなく、元西軍派が中心となった貿易事業利益享受できなかったという側面もあります

そんな中、細川家、井伊家を中心として天皇を旗印に政権を打倒しようとする動きが見られるようになり、寛文になる頃には挙兵寸前まで緊張感が高まっていたと言われますしかし、そのタイミングで寛文近江若狭地震が発生し、天皇の住む京都も大きく被害を受け、挙兵どころではなくなってしまます

それに対してすかさず政権が取った対応は、表向き地震被害から避難理由にした江戸への遷都(寛文の遷都)でした。遷都といっても移ったのは天皇住まい形式上朝廷機能だけで、政権機能大阪を中心とした関西圏に残ったまま…つまり政権は目の上の単瘤だった朝廷を体よく遠ざけた形になります。元東軍はこれに乗じて江戸に集結・再度の挙兵を試みますが、キリシタン大名による牽制南蛮豪商による経済的妨害もあり叶うことはありませんでした。この頃から旧来の武家勢力神道信仰は急激に衰退していくことになります

ではこれで豊臣政権キリシタン勢力の共同支配は盤石のものになったかといえばそういうわけでもありません。形式上の都である江戸やその近辺の関東では都野伏(みやこのぶせり)、隠れ神道といった形で反南蛮勢力が生き残りつづけます。そして18世紀入ってしばらくした頃、天皇不可侵元首とする「大和帝国」として独立を果たします。その後も色々ありましたが、現代において大和帝国はの国際社会にも認められた独立国家となっています。そういう背景がありますので、現代日本領土として残っている関東地方には「ほとんど人が住んでいないド田舎」という表現が当てはまりますが、関ヶ原当時の関東地方の大部分は現代においては大和帝国領土となりますので、そこを隠すのは悪質で不誠実な表現であると言わざるを得ません。

他にも訂正が必要な部分はありますが、長くなってしまったので今回はこの辺にしておきます

東軍世界線みなさんは西日本人の悪質なプロバガンダには騙されないように気をつけてください。

Permalink |記事への反応(6) | 15:56

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2020-11-09

anond:20201108200516

信忠本能寺が攻められたときに京にいなければ助かってた

てか信長信忠同時殲滅可能性が低ければ光秀挙兵自体なかった可能性が高い

Permalink |記事への反応(0) | 10:30

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2020-08-12

anond:20200811170757

西(南)側勝利

神武東征(日向挙兵して大和征服する)

壬申の乱吉野挙兵して近江朝廷を倒す)

元弘の乱山城大和河内などで挙兵して鎌倉幕府を倒す)

山崎の戦い備中から駆け戻って天王山明智光秀を倒す)

賤ヶ岳の戦い(京から出兵して越前から出てきた柴田勝家を倒す)

戊辰戦争薩長挙兵して江戸幕府を倒す)

東(北)側勝利

・治承寿永の乱(伊豆挙兵して京の平氏を倒す)

承久の乱鎌倉から出兵して京の上皇を倒す)

関ヶ原の戦い会津征伐から反転して大坂西軍関ヶ原で破る)

大坂の陣(江戸から出兵して大坂城を落とす)

それ以外(挙兵場所勝敗曖昧

建武の乱(鎌倉挙兵したが一旦敗れて九州で再起)

応仁の乱(ぐだぐだのまま和睦して決着つかず)

小牧長久手の戦い(戦術レベルでは東、戦略レベルでは西が勝利

こんなところじゃねえの。

少なくとも一方的東側が勝ってるとは言い難いわな。

Permalink |記事への反応(0) | 05:16

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2020-02-23

[尼子十勇士]anond:20200223192328

一方、兵庫之助の死体を背負った浮舟は、同じく遊女をしている妹の浮橋のもとに身を寄せた。

浮橋にも愛人の薮中茨之助というものがおり、彼の世話で家を借りてそこで暮らしていた。

ある日、浮舟の夢のなかに不思議な老人が現れ、「白鰻を食べさせれば兵庫之助は治癒する」と言った。

そこで茨之助が白鰻を探していると、川岸百姓たちが集まって騒いでいる。

話を聞けば、白鰻が取れたので売れば十両になるが、他の百姓らは白鰻は神様から逃がせと言うので争いになっているという。

しからばと茨之助は、集まった百姓には一両、白鰻をとった百姓には五両を渡し、半ば奪い取るように白鰻を持って帰った。

それを兵庫之助に食べさせると、すぐさま悪血を吐いて目を覚まし、ひと月もすればすっかり回復してしまった。

兵庫之助は、浮舟を茨之助に任せ、鹿之助を探すために中御門宗教をたずねて京へ上った。

宗教卿へと面会する前に身だしなみを整えねばと床屋へ入ったところ、なんとその床屋は秋宅庵之助であった。

再会を喜んでいる二人のもとへやってきた虚無僧は、何を隠そう高橋渡之助である

この二人は上月城を退去したあと、九郎左衛門暗殺しようと付け狙っていたが失敗し、京まで逃げてきたのだった。

また宗教卿と面会し、皐月早苗之助と会ったことで、鹿之助や古猪之助の消息も知り、兵庫助は大いに喜んだのだった。

さて尼子勝久も、そのころ義輝公の草履取りが鹿之助であることに気付き、

義輝公にそのことを話すと、義輝公・松永弾正はともに驚き、早速、鹿之助を呼び寄せた。

鹿之助は「松永弾正から将軍尼子再興の奏上をしてもらおうと仕えていたのだ」と述べ、涙ながらに尼子再興を訴えた。

松永弾正は感心して、あらんかぎりの軍兵をもって助力しようと約束し、義輝公も松永弾正に勝久の補佐を頼んだのであった。

そこで鹿之助は、兵庫之助に「浮舟は京に呼び寄せたほうがいいだろう」と言ったので、

兵庫之助は、茨之助のもとに向かい、浮舟・浮橋を京へと送り、茨之助とともに再び鹿之助と合流した。

ここに尼子勝久山中鹿之助のもと、横道兵庫助や大谷古猪之助らも集い、

松永弾正の三千の兵は陸路から、鹿之助たちは将軍から借りた三千の兵を率いて海路から富田城を目指して出発したのである

御座船の錨が不思議と重くて持ち上がらずに困っていたところ、「南蛮鉄の徳蔵」という大力無双が一人で引き上げてしまった。

そこに近づいてきた一艘の小舟から、ひとりの男が船に乗り込んできた。

怪しい奴とばかり徳蔵が、引き上げたばかりの錨を振り回すと、向こうの男もその錨を掴む。

互いに錨を引っ張り合うも、双方負けず劣らずで決着がつかない。

鹿之助が男の顔をよく見ると、まさしく海に身投げしたはずの早川鮎之助であった。

鮎之助は淡路の岩屋に流れ着き、そこで回復したので漁師をしていたところ、鹿之助の挙兵を聞いて駆けつけてきたということだった。

また鹿之助が、徳蔵の素性を聞いたところ、父は大友家に仕えていた武士で、その父が死んだあと浪人していたが、

海賊を退治したことで褒美として貰った船で商売をしていて、このたび尼子の御座船となった次第だと言う。

それならばと鹿之助は彼を召し抱え、「荒波錨之助」という名を与えたのだった。

Permalink |記事への反応(1) | 19:25

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2019-12-19

anond:20191219115451

韓信中国秦末の武将劉邦に仕えて韓王となった。

韓信中国秦末の武将劉邦に仕えて斉王となった。

斉王になったのが有名なほうの韓信

韓王のほうの韓信区別のために「韓王信」と呼ばれることが多い。

源義経平安時代末の武将近江挙兵して平氏と戦った。

源義経平安時代末の武将源頼朝に仕えて平氏と戦った。

もちろん頼朝に仕えたのが有名なほうの義経

近江のほうの義経本姓の「源」ではなく名字の「山本義経」で呼ばれることが多い。

Permalink |記事への反応(0) | 12:11

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2019-06-18

anond:20190618104956

そのときには張済は死んでるから「取り上げて」とは言わんし、張繡は曹操自分粛清しようとしたから先んじて挙兵しただけだぞ。

Permalink |記事への反応(0) | 12:20

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2018-11-26

anond:20181125204627

いや、廃止すると、反体制派が天皇を旗印にして挙兵する可能性があるから廃止できない。

自分たちがそれをやったから、薩長はよく分かっている。

敵に渡すと危険から自分たちの側においておくのだよ。

Permalink |記事への反応(0) | 07:21

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2017-11-20

恋愛の難しさ

年齢=彼女なしの俺の感じている恋愛の難しさが、一般共感されるものなのか知りたい

1.恋愛より前に人間関係がムリ。性別関係なくプライベート他人と一緒にいるのが辛い

 仕事とかのドライ関係ならそれなりに余裕

2. 仮に生活圏に恋愛相手が見つかったとしても場の倫理観が許さな

 (プライベート人間関係存在しないので生活圏≒職場

 職場の暗黙の掟を突き破ってまで起業 or挙兵 するだけのリスクを負うことができない

3.自分には家事がうまくできないんじゃないかという負い目がある

4.エッチに対する精神拒否感(ただしエロ動画を見るのは大好き)

モテない、お金ないなど、自分でどうにかできない系の要素をなるべく省いて分析すると、

俺が恋愛できないのは、1,2 のウェイトが大きいという結論に達しました 3,4 もおまけとしてある

自分特殊なケースなのか、ほかの人も心の中ではそんな風に考えているものなのか、知りたい

Permalink |記事への反応(2) | 23:21

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