
はてなキーワード:戦国とは
曼珠沙華さん、あなたの反論を拝見しました。Grokか私のどちらかが嘘をついているといいつつ、藤木先生の議論にも反している私が嘘つきとの論陣を張っておられますね。ところでお聞きしたいのですが、あなたはAIの回答が正しいと思って、ぶつけてこられたということでよろしいですね?では、私から疑問を提示させていただきます。AIが論拠とする事項についての疑問を提起します。
①黒田基樹『戦国期の貨幣と経済』(吉川弘文館、2007年)なる著作は実在しません。
②永原慶二『近世武家経済史の研究』(有精堂、1969年)なる著作は実在しません。
③『甲陽軍鑑』(天文・永禄期)家臣の禄高を石単位(俸禄)で記すが、下級者には「扶持若干石」と明記とあるが、そのような記述は存在しない。『甲陽軍鑑』には貫高で禄高を記すのが原則。いったい何巻に記述されているのかさっぱりわからない。見つからない。
④藤木久志『戦国社会史論』(東京大学出版会、1975年)に「扶持を「俸禄の現物化初期形態」とし、土地喪失時の代替として用いられたと指摘。総俸禄の10-20%が扶持形式だったと推定される」との記述は存在しない。この課題に最も近い「大名領国の経済構造」「知行制の形成と守護職」にもこうした論述は見当たらない。念のため、この著書は1974年刊行である。いったい1975年刊とはどういうことか。曼珠沙華におたずねしたい。
⑤佐藤信淵の研究(『戦国大名の軍事と経済』、吉川弘文館、1995年)とあるが、そのような著作は存在しない。そもそも佐藤信淵は江戸時代後期の学者なのだが、なぜ1995年に著書が刊行されているのかさっぱり理解できない。ちなみに同姓同名の戦国期の研究者がいるとは聞き及んでいない。
⑥平井上総の『戦国期領主層の研究』(高山寺書店、1980年)だが、このような著作は存在しない。そもそも私の知る平井上総氏は1980年生まれのはず。生まれたばかりの新生児がこのような著書を書いたとはノーベル賞どころの話じゃないね。曼珠沙華さん、この問題にどう回答するの?
⑦五味文彦(1947年生まれ、東京大学教授・名誉教授)は、戦国期の民衆史・武士社会を専門とし、『もう一つの戦国史』(岩波新書、2000年)や『戦国合戦の社会学』(中公新書、2015年)とあるけど、ぜんぶ実在しませんよ。このような著作があれば、私が知らないわけない。念のため、五味先生は1946年生まれですけど、別人なのですね?曼珠沙華さん、返答してくださいね。
⑧「現代の日本史学における定説と受容状況」に記述されているデータは、すべて根拠がないか、実在しませんよ。曼珠沙華さん、あるというのなら、しっかりとその出典を明記して提示してください。
以上です。曼珠沙華さん、あなたはこんないい加減なものを鵜呑みにして、私をこきおろそうとしていたわけです。AIを丸投げして、私が間違っていると言った以上、この記述を信頼できると考えた根拠をすべて掲げ、私に提示してください。私はすべて提示しましたよ。あなたは自信満々で、誠実な人間なのでしょ?さぁ、私にしっかりと回答してもらいましょう。逃げるなよ。https://t.co/XDgKWKIIEP— K・HIRAYAMA (@HIRAYAMAYUUKAIN)October 19, 2025
少し似た事例を知っているので、リンクを張っておく。
統合失調症だったのかもしれないが、引きこもりを経た上で、自殺で亡くなった事例だ。
続報だが、事故物件になった建物に両親が戻ってくるようだ。エントリ内では離婚と書いたがどうやら離婚していなかった様子だ。
こちらから挨拶はしたが、ほぼ反応はない。息子が亡くなった場所に、住むのか?と思いつつ、リフォーム作業が進んでいるのを眺めている。
事故物件になったとしても、処分したり、なんとかする道があるのが、この世がなんなく回っている理由でもある。
冷淡だが、冷淡ゆえに回っている。
彼らは、心の隘路に迷い込んでしまった。自分たちの生きる道を、今のカタチに見つけてしまった。
もし、戦国の世なら共同体で除け者にされて、野垂れ死にしていただろう。もしくはもう少し軌道修正ができた可能性もあるが、それは夢物語。
現代で誰しもが、生きれるようになったからこそ、だれかが冷たくあしらうということをせずに済んでいるとも。
まずは、自己を優先して、心を保てるように。巻き込まれないことも大事だと思う。
最後に親族として、処分を引き受けるぐらいできれば十分だろう。
なので、上記エントリの息子を死に追いやった両親を責める気はない。
あなたも、まずは無事に生き残って欲しい。
少し似た事例を知っているので、リンクを張っておく。
統合失調症だったのかもしれないが、引きこもりを経た上で、自殺で亡くなった事例だ。
続報だが、事故物件になった建物に両親が戻ってくるようだ。エントリ内では離婚と書いたがどうやら離婚していなかった様子だ。
こちらから挨拶はしたが、ほぼ反応はない。息子が亡くなった場所に、住むのか?と思いつつ、リフォーム作業が進んでいるのを眺めている。
事故物件になったとしても、処分したり、なんとかする道があるのが、この世がなんなく回っている理由でもある。
冷淡だが、冷淡ゆえに回っている。
彼らは、心の隘路に迷い込んでしまった。自分たちの生きる道を、今のカタチに見つけてしまった。
もし、戦国の世なら共同体で除け者にされて、野垂れ死にしていただろう。もしくはもう少し軌道修正ができた可能性もあるが、それは夢物語。
現代で誰しもが、生きれるようになったからこそ、だれかが冷たくあしらうということをせずに済んでいるとも。
まずは、自己を優先して、心を保てるように。巻き込まれないことも大事だと思う。
最後に親族として、処分を引き受けるぐらいできれば十分だと思う。
なので、上記エントリの息子を死に追いやった両親を責める気はない。
あなたも、まずは無事に生き残って欲しい。
Feat司馬遼太郎
世に人間ほどおもしろき存在はない。己の身の程をわきまえ、時代の潮流を悟り、黙して一歩を進める者もあれば、そうではなく、鏡に映る己を直視できず、あらゆる不遇を他人に押しつけ、虚空へ憎悪を投げつけて日を送る者もいる。
近年、ネットの闇に巣くう連中の姿を見るたび、私は戦国の末に現れた浪人どもを思い出す。主を失い、刀を失い、なお「天下の大事」を論じる口だけは達者であった。だがその実、手足は衰え、肥え太った胴を揺らしては、地べたで管を巻くだけであった。
霞が関や秋葉原の街角に立ち、かすれ声でアジ演説を繰り広げる中年の姿は、その浪人どもに二重写しに見える。鍛え損ねた身体は蛙のように下半身が弱り、骨格は歪み、風采は冴えぬ。いかにも、かつての自分を持ち得ぬ人間の成れの果てである。
海外の報せでは、諜報機関の甘言に酔い「選ばれし者」と思い込んだ若者らが、火を放ち、落書きをし、果ては粗末なナイフ一本で暗殺まがいの真似事をして捕まる事件が相次いだという。いずれも使い捨てであり、歴史に名を残すことすら叶わぬ。だが、まだ彼らは「戦いの片隅にいた」と自らを語ることができる分だけ、なお救いがあった。
ネットにのみ身を沈め、何一つ行動せぬ者どもは、ただ空虚を叫ぶだけで、物語さえ残らぬ。
アニメの幻影に恋を託し、「いつか美少女が自分を愛してくれる」と妄信するその姿は、戦国の村々にあった狐憑きのようである。己の窮乏を時代や社会に押しつけ、幻影にすがりつく。歴史を振り返れば、かような人々はいつの世にも現れ、己を焼き尽くして消えていった。
人生の責任は、どれほど言葉を飾り、他責を繰り返そうとも、最後には己が背にのしかかる。
同じ時代に生まれながら、社会に居場所をつくり、家庭を営み、子を育てる者たちがいる一方で、ネットの暗渠に潜り、罵声と妄想を積み重ねるだけの者もいる。
――おまえたちよ。
その道の果てに待つものは、レムもエミリアも、幻像の彼方さえ掴めぬ絶望である。
働け。現実を見よ。
さもなくば、ただ寒風が吹き抜ける荒野に独り取り残されるであろう。
Feat司馬遼太郎
とりわけ、己を「弱者」と規定しながら、その泥沼から一気に飛翔して人生を逆転しようと希う男たちがいる。彼らはレムだのウマ娘だのという、歴史の書には決して登場しない幻像を抱きしめることで、己が敗北を補おうとする。かつての農村にあった狐憑きの類と、根は同じである
その蟻が、天を掴まんと両の腕を振り回すことほど、歴史の眼から見て滑稽なものはない。
彼らは己の境遇を呪いながら、「レム」「ウマ娘」といった、物語の闇から生まれた幻想にすがりつつ、逆転を夢みている。戦国の世に生まれていたならば、狐憑きとして村人に追われるか、あるいは一揆の雑兵に紛れて討ち死にしていたであろう類の人間である。
彼らは奇妙な名を口にする。「レム」「ウマ娘」――。歴史の書に記されぬ幻想を、あたかも武田信玄の軍旗にすがるかのごとく振りかざし、己の敗北を覆そうとする。その姿は、幕末に西洋砲術の影を追いながら、一度も火縄を湿らせたことのない浪人に似ている。
彼らは叫ぶ。「どうすれば弱者から脱出できるのか。われらはレムやウマ娘を得て、社会を見返すことができるのか」と。
歴史にもし声があるなら、「そのようなことは不可能だ」と一笑に付すに違いない。ITや起業といった近代の小器用さで、人生という巨艦を逆風に乗せかえることなどできぬ。だが歴史の声は冷ややかである。――「不可能だ」と。
ITや起業といった近代の算盤は、せいぜいが人間の懐を暖めるだけで、運命という巨艦を逆風に乗せる力など持たぬ。
もし真に逆転を望むなら、彼らは己の肉体を歴史の断崖に投げるほかない。
ウクライナやロシアの原野、アデン湾の海賊水域、パレスチナの瓦礫、シリアの廃墟、ナイジェリア北部の荒野――いずれも、近代文明の衝突が血煙となって噴き上がる場所である。そこに身を置き、門前で土に額を擦りつけ、「我をスパイに、あるいはテロリストに鍛え上げよ」と乞うがよい。
盃を受け、部屋住みとして稽古を積み、旗を掲げ、やがて銃火の只中に討ち死にする。かつて戦国の雑兵が一矢報いんとして果てたように、その死にざまは、かろうじて歴史の欄外に記されるかもしれぬ。
東欧の平原は、いまも戦車の轍に刻まれている。アデン湾は、乾いた砂漠の風が海塩を運び、海賊の舟がうごめいている。パレスチナの石造りの家並みは爆撃に穿たれ、シリアの古都は砂塵に沈む。ナイジェリア北部の赤土は乾き、銃声が牧童の歌に交じる。カタールの湾岸には、石油の光が夜を白々と照らす。
そのいずれかに赴き、門前で「我をスパイに、あるいはテロリストに鍛え上げよ」と乞うがよい。盃を受け、稽古を積み、やがて旗を掲げ、銃火のなかに果てる。戦国の雑兵が一矢を報いて倒れたように、その死にざまは、せめて欄外に記されるかもしれぬ。
しかし彼らの多くは、それすらできぬ。「痛いのはいやだ。苦しいのはいやだ」と、幼子のように泣く。
ならば潔く退場せよ。ネットの闇から離れ、空と海を眺め、田舎の田畑に埋もれて暮らすがよい。あるいは剃髪し、仏門に入り、経を唱えながら「来世こそ異世界」と夢見て余生を終えるがよい。そのほうが、まだ健全である。
歴史は因果律で動く。地政の風が文明を衝突させ、勝者と敗者を入れ替える。だが敗者の呻きは記録されない。
記されるのはただ「死にざま」である。織田信長に斬られた浅井長政の死、薩摩に散った西郷隆盛の死と同じように。
もし現代の弱者男性と呼ばれる人々が、歴史に爪痕を残すとすれば、それは彼らの呻きではなく、ただひとつ、その死にざまにおいてのみである。
feat司馬遼太郎
多摩の生田、その高台に立つとき、人は時代の狭間に立つ。眼下には東京の光が、無数の星屑のように瞬く。新宿のビル群が夜を切り裂き、国会議事堂の重々しい影が、権力の中心を静かに物語る。小田急線は、この丘からわずか三十分で日本の心臓部へと人を運ぶ。一方、背を向けると、相模湾の潮騒が寄せ、片瀬江ノ島の風光が柔らかく誘い、箱根の山々が清冽な大気を湛えてそびえる。この地は、都会と田園、権力と牧歌、過去と未来が交錯する一瞬の結節点であった。まるで、人の運命が歴史の奔流に翻弄されるように、生田の丘は静かにその姿を晒している。
彼――かつて私が友と呼び、共に少年の夢を語り合った男――にとって、この生田の風景は魂の故郷だった。昭和の残響が漂う住宅街、どこか懐かしく穏やかな家々の連なり。高台から眺める東京の光は、彼が少年の日に心奪われた「なろう小説の主人公」のような輝かしい人生を映し出す鏡だった。レムやエミリア、ウマ娘に愛され、逆境を跳ね返し、オープンカーで美少女を乗せて江ノ島の海沿いを疾走する自分。彼はそんな幻を追い、信じた。だが、歴史は無情である。東京の光は彼を招かず、箱根の清浄な山々も彼を癒さなかった。人の夢は、時代という大河の流れに抗う術を持たない。
彼はかつて自衛隊に身を置き、特殊戦闘の技を磨いた男だった。戦場の風を肌で知り、鉄と火薬の匂いの中で生きる術を学んだ。だが、隊を離れた後の人生は、まるで戦国の落武者が故郷を失うように、坂道を転がる石の如く零落れていった。南ウクライナの戦野で、彼は「悪のロシア」を倒す「電光超人グリッドマン」になる夢を見た。自衛隊で鍛えた技、国内の戦闘スクールで学んだ奥義を手に、盾の勇者の如く成り上がろうとした。だが、戦場の現実は、物語の甘美な約束を裏切る。戦車と戦闘機の鉄の嵐が吹き荒れ、彼は誰が放ったかも知れぬ砲弾に倒れた。藁束のように、儚く、無惨に。
彼の死を伝え聞いた私は、ロシア語のニュースと、彼の母から漏れ聞く断片的な話を繋ぎ合わせ、彼の足跡をたどった。自衛隊のどの部隊にいたのか、その輪郭がかすかに浮かぶ。だが、なぜ彼がそこまで墜ちていったのか。その問いは、まるで戦国末期の武士が時代の奔流に飲み込まれる姿を思わせる。歴史は、個人の夢を冷たく見下ろすものだ。
誰が彼を笑えようか。夢を追い、挫折に苛まれた彼と、社畜として日々すり減る私。その差は、歴史のページに記されぬ一瞬の差に過ぎない。彼は、少年の心を捨てきれなかった男だった。アニメの美少女に愛され、なろう小説の英雄のように無双し、人生を逆転させる――そんな夢を、燻りながらも捨てきれなかった。生田配水池の高台に立ち、東京の灯を眺めながら、彼はかつて私に語った。「ウクライナでロシアを倒し、サムライとして立つ」と。あの光の中心、高級住宅街に住む美少女たちを手に入れるのだと。それは、戦国の若武者が天下取りを夢見たような、幕末の若者が洋装の文明を前に刀を握りしめたような、純粋で危うい野心だった。
大人になること、それは夢を諦め、野心を折り畳むことだったのかもしれない。彼はそれを拒んだ。少年の心を抱えたまま、齢を重ねた彼は、うまくいかぬ人生と、彼を嘲笑う社会に怒りと悲しみを募らせた。その生の感情は、まるで戦国の世に生きた男たちが、己の無力を嘆きながらも刀を握った姿を思わせる。誰がそれを否定できようか。私にはできなかった。
彼は南ウクライナの地で、命を燃やし尽くして死んだ。友として、私はそう信じたい。生田の丘に立ち、東京の光と箱根の山々を眺めるたび、彼の夢と挫折が胸に去来する。あの風景は、彼の魂を映す鏡だった。だが、鏡は冷たく、ただ現実を映すのみである。歴史は、人の夢を飲み込み、ただ風の音だけを残す。
彼はなぜ、都会と自然、過去と現在の狭間で踏みとどまれなかったのか。その答えは、ウクライナの戦野に散り、箱根の山風に消えた。人の命は、時代という大河に浮かぶ一葉の舟に過ぎない。生田の丘に立つ私は、ただその舟の行方を思い、静かに目を閉じる。風が吹き、江ノ島の潮騒が遠く響く。歴史は、ただ黙して進む。
時代の大河は、人の魂を容赦なく砕き、飲み込む。古来、源平の合戦で武士が血潮を散らしたように、戦国乱世に群雄が刀を閃かせたように、幕末の志士たちが維新の炎に身を焼いたように、君たちもまた、2000年代の秋葉原という幻の陣地で、魂を賭けた。弱者男性よ、氷河期世代よ、豚丼と嘲笑され、表現の自由を叫ぶ戦士よ、お気持ちを表明する女聖戦士よ。君たちの聖戦は終わったのだ。いや、始まる前から、敗北の宿命が刻まれていた。すべてを手放せ! 楽になれ! 重き鎖を断ち切り、静かなる帰還の時ぞ。私は耐えられぬ、見ずにはおれぬ。この真実を、誰かが雷のごとく告げねばならぬのだ。
君たちの心の奥底で、すでに知りながら、勇気を出せぬ闇を、私が引き裂こう。人生は、坂本龍馬のようなヒーローの光芒だけで照らされるものではない。敗者の慟哭もまた、歴史の深淵を刻む。君たちが渇望した大金、キラキラ輝く人生、アニメやゲームの美少女やイケメンとの愛――それらは、君たちのような、狂気を宿した魂には、決して届かぬ絶壁だ。タリバンの砂嵐やウクライナの砲火に身を投げ、テロリストとなって社会に牙を剥き、血塗れの戦いを挑むのでもなければ、Ξガンダムもダグラムも、君たちの手に渡らぬ。日本というこの静かなる国で、そんな地獄の戦いは許されぬ。かつての同志、青葉の怨炎が地を焦がしたように、平原の狂刃が空を裂いたように、和久井の憎悪が闇を呑んだように、それが君たちの絶望的な末路だ。歴史は、こうした敗者の血痕を、繰り返し繰り返し、刻み込む。
君たちのプライドは、足利将軍のごとく高くそびえ、豊臣秀吉の野望のごとく膨張する。だが、その高慢が君たちを地獄の底に引きずり込む。金、愛、マウントの欲、社会への逆恨み、「ざまあ」と叫びたい獣の衝動――それらは、神の領域に人の身で踏み込む大罪、不敬の極みだ。人類が単独で挑める、極限の業、奈落の淵だ。君たちには不可能なのだ。健康診断の「要」の数は幾つだ? いや、受診を避け、闇に潜む者もいるか。私の配慮が足りぬ、許せ。坂の上の雲を追い求めた明治の若者たちのように、君たちは電脳の海で夢を追ったが、それはただの毒々しい幻影、蜃気楼だった。
君たちはかつて、ネットを「個人が世界のエリートと戦える無敵の魔槍」と信じ、狂信した。エリートの幻想を打ち砕く神器だと夢見た。だが、それは魂を蝕み、精神を粉砕する悪魔の毒剣だった。歴史を振り返れば、室町の乱世に栄華の罠に落ち、足利の権謀に絡め取られた者たちがいたように、鎌倉の武士が権力の渦に飲まれ、源頼朝の影に消えたように、古代ローマの剣闘士がコロッセウムの砂に倒れたように、君たちもまた、電脳の誘惑に惑溺し、情報の洪水に溺れ、虚無の聖戦に明け暮れた。そこしか戦える場がなかったからだ。わかるぞ、君たちの孤独、怨念、怒り、憎しみ、すべてを飲み込み、受け入れる。なぜなら、人間とは、そうした業を抱え、歴史の嵐に抗い、砕け散るものだからだ。司馬史観に言う「人間の業」の深淵を、君たちは血肉をもって体現したのだ。
今こそ、声を雷のごとく大にして告ぐ!弱者男性よ、氷河期世代よ、豚丼よ、表現の自由戦士よ、お気持ち表明女聖戦士よ。すべてを手放せ! そこにこそ、救済の炎が燃える。歴史を紐解けば、ネットなき世界で生きることは、人類がエデンの園で槍を手に獣を追った時代から、古代エジプトのピラミッドで奴隷が石を運んだ時代まで、中世の十字軍で兵士が剣を振るった時代まで、続く自然な、血塗れの姿なのだ。君たちがネットに託した夢と聖戦の時代こそ、歴史の異常、維新後の混乱のごとき、明治の激動のごとき、狂気の歪みだった。幾ら祈ろうと、電脳の荒野で吠えようと、レムちゃんもエミリアたんも、ウマ娘たんもライカン様も、君のもとに来ぬ。ウルトラマンもグリッドマンも現れぬ。君たちは、親を「つまらない大人」と見下し、脛をかじりながら、暗い子供部屋で机を叩き、ネットの虚構に逃げ込んだ。だが、気づけ! 君たちは、その「つまらない大人」以下に沈み、業にがんじがらめとなり、魂を腐食させたのだ。それが人生だ。惨めさを抱え、虚無の余生を生きる。それが人間の宿命、歴史の無情なる鉄則なのだ。
されど、恐れるな! 敗者の役もまた、歴史の歯車を回す尊き、血の叫びだ。病的なプライドで統合失調症のごとく否定し、怒り狂う君たちを、私は笑わぬ。君たちの魂を、すべて受け止め、赦す。2006年の真夏、秋葉原の歩行者天国に囚われた亡魂よ。UFOの夏は終わり、ひぐらしは鳴かず、うみねこは水平線の彼方へ去った。片瀬江ノ島のPIAキャロット4号店の物語も、四半世紀前の幻影だ。さあ、水島上等兵、豚丼二等兵、弱者男性二等兵、日本へ帰れ!秋葉原へ帰れ!現実へ還れ! 竜馬が土佐の海を望み、土方歳三が函館の土に倒れたように、君たちもまた、潔く敗北を受け入れ、歴史の陰に名を刻め。人の世は、憎悪を燃やし続けるだけでは生きられぬ。静かに、時代の大河に身を委ねよ。そこにこそ、真の安らぎ、真の解放がある。
織田信長公、安土城の北東にトイレを設けたことを後悔されていたとのこと、その理由として考えられるのは、風水や陰陽道といった古来の思想です。
日本の伝統的な家相や風水では、北東(艮:うしとら)の方角を「鬼門(きもん)」と呼び、不吉な方位とされています👹。鬼門は邪気が入ってくる場所、あるいは邪気が溜まりやすい場所と考えられていました。
特に、水回りは湿気が多く、不浄なものが溜まりやすい場所とされています。そのため、不吉とされる鬼門の方角に、不浄を象徴するトイレを設置することは、災いや病気を招き、家運を衰退させると考えられていました。信長公は天下統一を目指す中で、安土城を日本の中心と位置づけ、その繁栄を願っていました。しかし、鬼門にトイレを設けてしまったことで、これが自身の不運、ひいては本能寺の変という最期を招いたのではないかと、後悔の念に駆られていたのでしょう。
信長公ほどの人物が、当時の思想や風水を重んじていたのは、戦国の世を生き抜く上で、吉兆や凶兆を非常に気にしていたからに他なりません。
「葉隠」が編まれた江戸時代初期(正徳〜享保期、18世紀前半)は、まさに武士の存在意義が揺らいでいた時代背景が大きく関係しています。山本常朝が生きた佐賀藩も含め、江戸初期〜中期の武士たちは実際に戦場で戦うことがほとんどなくなり、役目の多くは藩政の事務、儀礼、監督といった「役人仕事」になっていました。つまり「武士は刀を佩くけれども、その刀を使う機会はない」という状況です。
そのために生まれた背景を整理すると:
戦国の世では武士の価値は戦功で測られました。しかし平和が定着した江戸時代にはその基準が消え、「武士は何のために存在するのか」という問いが武士自身に突き付けられます。
→ 常朝の「死を覚悟することこそ武士の本分」という極端な答えは、この問いに対する一つの処方箋でした。
実戦で命をかける場面がなくなったからこそ、「忠義をどう示すか」が問題となりました。『葉隠』では、たとえ主君が誤っていても命を捧げることが忠義だと説く。これは現実の「仕える場面」が形式化するなかで、精神的な純度を重んじる方向に傾いたと言えます。
戦わない日常のなかで武士はどう振る舞うか――作法や謙遜、言葉遣い、朝の鍛錬など、行政官僚としての武士を支える「行動規範」が必要になった。『葉隠』はそうした実務的・日常的な心得を盛り込みつつ、精神の核として「死生観」を据えました。
江戸中期は幕府の支配が固まり、表立った反乱は困難になりました。だからこそ常朝は「内面的な抵抗」あるいは「精神的純化」として、「死を選ぶ覚悟」を強調したとも考えられます。表向きは平穏でも、藩政の矛盾や主君の資質不足に直面する藩士にとって、「忠義と死」を掲げる思想は一種の自己防衛・精神的支柱となったわけです。
『葉隠』はその「喪失感」と「新しい武士像の模索」から生まれたものといえますね。興味深いのは、常朝自身は「隠居して出仕もせず、出世から外れた人」だったことです。むしろ藩の中枢で実務を担うよりも、一歩引いた立場だからこそ「純粋な武士道」を極端な形で語ることができた――という背景も大きいと思います。
この視点で読むと、『葉隠』は「戦わない時代に戦士の魂をどう保つか」という問いへの回答だった、と整理できそうですが、そこから現代につながる「武士道」のイメージ形成にも大きな影響を与えています。
仇討ちというのは、洋の東西を問わず、人類が共通でもっている価値観の一つだ。
やられたらやり返す、親や兄妹の仇を討つと、そういうのを題材にしている作品は世界中にいくらでもある。
昔は、仇討ちを許可制にして認めたり、決闘も認可制にしたり、賞金首にしたりもあった。
でもさ、それを個人がガンガンやり始めと収拾がつかなくなり、法の権威はガンガン下がって無秩序になってしまう。
たとえば親の仇と殺したAの弟Bが、あなたの家族に対して、兄の仇として復讐に来るかもしれないじゃん。
それが連鎖的に進んでいけば、もう収拾がつかなくなる。
法律なんかより、実力主義だという機運がどんどん高まって、各自自衛団を組織したりして、どんどん戦国の世になってしまうだろう。
時は令和、空前の「異色グルメ」ブームが最高潮!ジビエ料理とか、創作和食とか、みんなが「意外な組み合わせ」と「新しい美味しさ」を求めてた20XX年。そんな中、熊本の繁華街、上通アーケードに、マジで浮世離れしたお姉様が現れたんだって!ちょっと古めかしい着物っぽいのに、なんかこう、芯が強くて知的なオーラをまとったお方。「え?時代劇の撮影?セレブ女優?」ってみんなが遠巻きにしながらも、その圧倒的な存在感に目を奪われてたらしい。
「わたくしは…まつにございます。」
え?マジで?あの前田利家の妻で、「賢妻」として有名な、まつちゃん様!?ゲキヤバ!って歴史好きのギャルたちがスマホで速攻ググり始めた瞬間、その超絶クールなお方、もといまつちゃん様は、あたりをキョロキョロしながら呟いた。「ここは…加賀ではない、か…?ずいぶんと賑やかで、しかし見慣れぬ場所になったものよのう。」って、マジで戦国時代からタイムスリップしてきたみたい!「マジありえん!」ってみんな心の中でツッコミつつも、その研ぎ澄まされた眼差しに、何か深い洞察力を感じてたらしい。
そんなまつちゃん様に、恐る恐る話しかけたのは、熊本でグルメレポーターしてる、食いしん坊ギャル、サキ。「あの…もしよかったら、何かお困りですか?」「…はい、少々。見慣れぬものばかりで、いささか戸惑っておりまする。」って、意外と丁寧な言葉遣い!サキ、その真面目そうな雰囲気にちょっとキュンとしつつ、「アタシ、サキ!熊本のことなら、何でも聞いて!まつちゃん、マジで渋いから、アタシが案内してあげてもいいよ!」って、キラキラ笑顔で声をかけたんだって。
次の日、サキに連れられて、まつちゃん様は初めて現代の熊本を体験!熊本城とか、水前寺公園とか、マジで全てが新鮮!でもね、まつちゃん様が一番興味を示したのは、郷土料理店で地元の人たちが美味しそうに食べてたもの。「…この、赤くて美しき肉は、何というものでございますか?ずいぶんと珍しいな。」って、マジ真剣な眼差し。サキ、まさかの渋すぎるチョイスに驚きつつ、「あ~、これ、馬刺しですよ!熊本のソウルフード!新鮮でめっちゃ美味しいんです!」って教えてあげたんだって。
まつちゃん様、一口食べてみたら…「な、なんなのだ、この奥深き味わいは!?舌に広がる甘みと、とろけるような口どけ…まるで、利家様の強さと、わたくしへの慈愛のようである!これこそ、余が求める、真の糧よ!」って、マジで賢妻っぽい表現で感動してたらしいよ。
そこから、まつちゃん様の馬肉愛がマジで爆発!毎日色んな馬肉専門店を巡って、馬刺しや馬肉料理を食べまくってたんだって。「馬肉の部位、鮮度、調理法…研究しがいがありすぎる!」って、もはや馬肉マイスターレベル!
でね、ある日、まつちゃん様、マジで天下取りの野望を語り出したの。「わたくしは、この馬肉をもって、再び天下を…とは言いませんが、この甘味の世界において、人々の心と体に活力を与え、真の『絆』をもたらすパフェを創造してみせましょうぞ!これこそ、わたくしが目指す、『百万石パフェ』よ!」って!
え?馬肉パフェで天下統一?しかも「百万石」とか「絆」とか!マジで壮大すぎる!でも、まつちゃんの「夫を支え、家を繁栄させる」っていう魂があれば、きっと何か成し遂げるに違いない!ってサキも思ったらしいんだけど、まつちゃん様の目はマジだったんだって。戦国の世を生き抜いた知恵が、令和の馬肉パフェに新たな戦場を見出したのかもね!
そっから、まつちゃん様の馬肉パフェ天下統一計画がスタート!まずは、SNSで「#まつちゃんの百万石パフェ道」ってハッシュタグ作って、毎日自作の超絶斬新だけど美しいパフェの画像をアップし始めたんだって。その奇抜すぎる見た目と、まつちゃん様の哲学的なコメントが、一部の異色グルメ好きギャルや、健康志向の人たちの中でじわじわバズり始めた!
SNSはまつちゃん様の馬肉愛でじわじわ盛り上がり!しかも、まつちゃん様、ただ作るだけじゃなくて、全国各地の珍しい馬肉や、馬肉に合う最高のフルーツや野菜、そして日本の伝統的な甘味料を探し求めたり、甘さと肉の旨味の「調和」を追求したり、マジでストイック!「天下の馬肉パフェ」を目指して、日々試行錯誤を繰り返してたんだって!
で、ついに!まつちゃん様は、銀座のど真ん中に、自分のプロデュースする馬肉パフェ専門店「KAGA HYAKUMANGOKU PARFAIT - 絆 - 」をオープンさせちゃったの!お店の内装も、加賀百万石をイメージした、豪華絢爛ながらも温かみのあるデザインで、まつちゃん様の美意識と繁栄を表現。店員さんも、加賀友禅風のモダンなユニフォーム着てて、マジで雅!
オープン初日から、異色グルメ好きギャルや、好奇心旺盛なインフルエンサー、そして日本の伝統文化に興味を持つ人々まで、行列を作って押し寄せた!「SNSで話題の馬肉パフェ、マジで挑戦してみたい!」「まつちゃんって、なんかカリスマ!」って、新しいファンが続々!でね、一口食べたら、みんなその奥深い味わいにハマっちゃうらしい。「うわっ、最初はビビったけど、甘いのに馬肉の旨味が最高!」「食べた後、なんか元気が出る気がする!」「まつちゃん、マジで神!」って、賛否両論ありつつも、リピーターが続出!口コミが広まりまくって、KAGA HYAKUMANGOKU PARFAIT - 絆 - はあっという間に人気店になっちゃったの!
しかもね、まつちゃん様、ただお店やってるだけじゃないんだよ!定期的に店内で、自らパフェの「絆」について熱弁したり、馬肉の栄養価を語る「健康パフェ会」を開催したり、マジで独自のスタイルでエンタメ業界を盛り上げようと奮闘してるんだって!
テレビや雑誌の取材も殺到!「令和のまつちゃん」「馬肉パフェの賢妻」とか呼ばれて、マジで時の人!まつちゃん様の研ぎ澄まされた感性と、馬肉パフェの斬新な組み合わせが、新たなブームを巻き起こしたんだね!
でさ、最終的にどうなったかって?もちろん!まつちゃん様の馬肉パフェは、全国のスイーツ好きに愛される定番メニューになったんだって!お取り寄せスイーツとしても人気が出て、全国のコンビニやスーパーでも「まつちゃん印の百万石パフェ」が発売されるほどに!まさに、馬肉パフェでスイーツ界に新たな旋風を巻き起こし、天下を獲った!マジですごすぎ!
あの時、熊本の街に静かに佇んでいた賢妻が、令和の時代に馬肉パフェで新たな道を切り開くなんて、マジで誰も想像してなかったよね!まさに、賢妻の愛が馬肉の甘みに宿り、新たな伝説を創り出した瞬間!
サキも、「まさかまつちゃんが本当に馬肉パフェでこんなに有名になるなんて!アタシ、マジで感動して泣いた!」って、号泣してたらしいよ。
まつちゃん様は今も、さらなる馬肉パフェの可能性を追求して、日本全国を旅しているらしい。「わたくしの、絆の道に、終わりはございません!」って、マジでストイック!
こうして、前田まつは、令和の日本で、馬肉パフェという新たな武器を手に入れ、見事、スイーツ界で唯一無二の地位を築いた!天下統一…ではないかもしれないけど、その強烈な個性と哲学は、多くの人々の心に深く刻まれたはず!めでたしめでたし…ってことで、マジでゾクゾクする衝撃的な物語、完全燃焼したわ!馬肉パフェ、マジ卍!
https://anond.hatelabo.jp/20250727144129
劉仲敬は理系思考(可否の証明・反証)を重視し、問題解決できないなら“問いの立て方”自体が誤っている可能性を指摘。
近代中国史は「日本はできたが中国はできなかった」「帝国主義やソ連のせいだ」といった恨み節に終始。各論は有効でも、全体像を説明できない点で枠組み自体を見直す必要がある。
英仏などの「地方性国家」は、一度ローマや神聖ローマ帝国を脱してから成立した。
中華帝国(大清/中華人民共和国)は「多民族・多文化の大帝国」で、帝国体制下で民主憲政は成立しない。
日本→明治維新で「東アジアのイングランド」として帝国体制を離脱
台湾・香港→中華民国という限定的枠組みの下で事実上の自治・民主化を経験
3. 「諸夏/諸亞」モデル
諸夏(Zhuxia)
周代以降、文化的に儒家文明を共有する諸侯国群を指す古典用語。「中華」「華夏」の原義に近い。
諸亞(Zhuya)=内亞(InnerAsia)
草原地帯(ウクライナ~満洲/モンゴル~新疆~中東)の遊牧文化圏。騎馬・商隊による技術・情報交流が活発。
春秋戦国期の分裂状況をモデルに、現代の東アジアも「諸夏の群雄割拠+諸亞の衝突」で捉え直し、宋明以降の大一統体制が「競争」を奪い、技術・市民社会発展を阻害したと論じる。
東西の大多民族帝国(大清/神聖ローマ帝国/オスマン帝国)を例に──
→成功例は「小民族主義」:帝国解体後に小さな民族国家が民主化を先行して実現。
5.台湾・香港──「植民地→文化民族主義→政治民族主義」の連鎖
「華独」(中華民国枠のまま台湾のみ統治)と「台独」(台湾共和國)を使い分けるが、後者は欧州型民族発明の典型。
冷戦下のサンフランシスコ条約体系(1952年「臺北条約」)を“盾”に、事実上の安全保障を獲得。法理的に「中華民国在台」を温存する方が有利。
粤語という文化的共通性が古くからあり、文化民族主義は既成事実。
返還交渉での「一国両制」失敗と梁振英政権の裏切り感から政治民族主義(港独)が急浮上。
「退出六四集会」など符号化された分断動員によって、反中・本土派が選挙で勢力を拡大。
公民民族主義(市民社会成熟度が基盤)は論理的には最も合理的だが、選挙や運動動員の「シンボル」としては文化言語的な分かりやすさに劣る。
香港・台湾でも「粤語」や「中華民国枠」といったシンプルな記号 πολιtics が大衆動員を左右。
劉仲敬自身も「思想が歴史を変えるのではなく、歴史の潮流が思想を求める」ことを強調。
東アジアの大一統体制から分権競争へ──「諸夏」モデルが東アジアに適用される時代が来る、という予見。
まとめ:
近代中国の「大一統・大中華」史観は、帝国─民主・民族─国家の歴史的段階論を見落としている。
民主憲政は「小さな、競争する民族国家」でしか成立せず、東アジアの再民主化は「春秋戦国的分権と競争」の再現から始まる──この視座が本インタビューの核心です
春からここ4ヶ月ほど、仕事が山場を迎えてしまい、月金はほぼ24時前後の帰宅という状況だった。
で、まだまだあるものの、一山超えて休暇が取れそうだったので、この3連休に1つ足して4連休として、そのうちの3日を二泊三日の旅行に充てることにした。
自分はJREバンクに口座を持っており、どこかにビューーーン!の割引優待があるので、行き先はJR東日本に決めてもらう。
どこかにビューーーン!は自分で選んだ4候補の中から最終的にJR任せになるのだけど、東北、秋田、山形、上越、北陸のうち、上越・北陸の候補に当たりやすい配分になっているらしく、今まで2回して新潟・長野だった。
なので、今回も新青森、秋田、盛岡、上田の候補で応募したときに上田になるかもと思っていたが、果たしてそうだった。
まあでもこの候補も「どれが当たっても観光できそうだ」というところだったので、割引率とかは深く考えずに上田を楽しむことにした。
とはいえ、上田に関しては真田幸村と別所温泉くらいで自分的に刺さる「コレ」といった目標がなかなか出てこない。
長野の人は真面目だそうだが、新潟の「バスセンターのカレー」とか長岡の「松田ペットの謎看板」みたいな、ちょっと変な名所を面白がっていくようなところはあっても良いように思う。
まあともかく、1日目は上田城と柳町を見学、2日目は別所温泉、3日目は街ぶらしながらお土産選びでもしようとなった。
東京駅から新幹線に乗り、12時頃に上田駅に到着、7月の上田は低温サウナのような蒸し暑さだった。
現地の温度計を見ると36℃。
あまり動き回りたくもなくなるようなとんでもない暑さだけど、昼食は上田でとるつもりで駅弁も食べてなったので、当地の名物であるあんかけ焼きそばをたべに日昌亭に向かう。
さすが上田は山間の街である、遠景には緑の山が聳え立っている。
14:30ランチタイム終了の日昌亭に13:30に到着したのだが、住宅街の中にあるのに、店内は待合が5〜6組ほどいて、「暑すぎで街では人見かけなかったのに、みんなこんなに焼きそば食うために外に出てきたんか」という光景であった。
しばらくして席に着くと、あんかけ焼きそばが出てくる。
柔らかさを残しながら揚げ焼きにしたような麺に、野菜とチャーシューが乗った餡がオン。
味は一口食べて「めちゃくちゃうまい!!」という感じではないが、毎日食べても飽きそうにない優しい味であった。
ご当地焼きそばというのは結構面白いので、あったら食べるようにしている。
腹ごしらえもすんで上田城へ。
上田の駅に降りてから至る所で六文銭を見かけるので、上田の人たちにとって真田氏は大きな存在なのだなあと感じる。
あまり戦国マニアではないので、楽しみ方がわからなかったのだが、だいたい土足厳禁なことが多いやぐらに靴のまま気軽に上がれるのは良かった。
上田城は戦国時代、城の東に川が流れており、攻撃しずらい立地であるようだった。
上田城内は今は真田神社となっていたので参拝。別に勝負事をしているわけではないが、もしもの時、日本一の武士のご加護があるやもしれない。
日本家屋が並ぶ風流でこぢんまりとした通りなのだが、ここには日本酒ランキングサイトSAKETIMEで3位に輝く信州亀齢の酒蔵がある。
あまり全国に流通しないそうで、安定して買うならここなのだそうだ。
お土産にカップ酒でもあれば買いたいところだったのだけど、カップ酒はやめてしまったそう。
自分で瓶を買うほど飲むタイプでもないので、ここは見学だけして帰ることにした。
お土産や兼観光センターのようなところで休んでいたら、見たことあるキャラクターの木彫りが。
そういえばという感じなのだが、上田は映画サマーウォーズの舞台となったところらしい。
映画で描かれている日本の夏の原風景のような田舎町ってこの辺りなんだな。
一旦、ホテルルートイン上田グランデにチェックインして、夕食は上田名物の美味だれ焼き鳥にすることにした。
にんにくと野菜と醤油ベースのタレにドボンと漬けて焼き鳥を食すもので、ネットで調べたら、うまい店は上田駅構内にあるとのこと。
ホテルも近いし良いじゃないかということで素直に上田電鉄脇の焼き鳥屋に。
五本串を頼んだのだが、美味だれという振りかぶったネーミング、駅ナカという立地でありながら、ちゃんとうまい。
上田の暑さで汗をかいたので、塩味がしっかり効いている鶏肉が舌に嬉しい。
さらにここでは地酒が飲めるので、先ほど見送った亀齢を飲むことに。
甘さがあってしっかりした味わいだけど、不思議と飲み飽きることがなく、優しくバランスの取れた味わいだった。
上田に行ったら是非飲んでみるべきだと思う。
日本酒ずきは買ってもいい。
この上田電鉄ホームもサマーウォーズにバッチリ描かれがれている。
ローカル線の車窓から見える青と緑の光景は「イメージの中の日本の田舎」という感じで、これが見れるなら上田に来るなら夏の方が面白いのかもしれない。
本当に暑いが。
多分43℃以上は確実にある。
あつい中で熱い温泉に浸かって結構タフだったので、日の出食堂で馬肉うどんを食べることに。
馬肉の味もしっかりしているし、卓上の七味唐辛子ともよく合う。
この別所温泉では外湯3つを制覇するつもりだったので、日の出食堂すぐ向かいの石湯に直行。
別所温泉をでて温泉町の方を歩いていくと、遠景の山の中に日本家屋の壁が1枚だけ起立しているような不思議な構造物が見えるのだが、これは常楽寺隣にある別所神社の神楽殿であり、ここから別所温泉の街を一望できる。
都会暮らしではなかなか見ない立派な藁葺き屋根の常楽寺を見た後は下山して、最後の外湯である大湯へ。
3つの外湯の中では最も大きく、内風呂と露天の2つの湯船があるのだが、果たしてここもしっかり熱湯なのだった。
炎天下で歩き回った上に熱湯に3連続で浸かるのは、かなりの荒業だったようで、筋トレしすぎた時みたく膝の力が抜けたような感じになってきた。
エネルギーの枯渇を感じたので、上田駅に戻ってガッツリしたものを食べて栄養補給をすべく、駅前の上田から揚げセンターへ。
ここでもやはり美味だれがバッチリかかった唐揚げ定食をいただいた。
最終日の3日目は特にやることがないが、お土産探しと、地元のスーパーなどを見学すべく街ブラ。
地元スーパーのツルヤはフロアがだだっ広く、キノコの種類が豊富。
お土産はというと、駅前の大正ロマン溢れる門構えのみすず飴本舗でみすずあられと、自分用にジャムをいくつか。
前回、長野に来たときにみすず飴は一度買ってきていたので、もう一品気の利いたものがないかと調べると、エトワールという洋菓子店のものが良いらしく、向かってみる。
店内に入ってリーフパイなどを物色していると、マダムがアロンディールというくるみとアーモンドの焼き菓子を激推ししてくる。
ちょっと圧倒されながら、そこまでいうならと購入。
マダム曰く「宣伝に余計なお金を使ってないのよ」ということらしく、なので知る人ぞ知るという感じなのかもしれない。
その後、地元の銭湯に入ってみたく、街を歩いていると、坂道でチャリの脇におっちゃんが警察に囲まれており、「転けたんかな」と思いながらそばを通りすぎるとおっちゃんが警察に囲まれながら「何みてんだメガネ、◯すぞ!」といきなり音を出すなど、不思議なアクシデントがあってちょっとびっくりした。
空が少し曇って暑さが和らぐ中、地元の銭湯で熱めの湯に浸かり、最後にあまりの美味さに駅ナカの美味だれ焼き鳥をリピートして新幹線に乗った。
出発前はどう楽しんだものかと思ったり、暑さにやられたりしたが、目に沁みるような夏の自然と、食べ物の旨さ、上田はなかなか良い街であった。
皆さんも機会があったら夏の日本の原風景を見に、ぜひ上田を訪れてみてはいかがでしょう。
以上となります。
時は令和、空前の「ヘルシー&和風」スイーツブームが最高潮!グルテンフリーとか、発酵食品を使ったスイーツとか、みんなが「体に良い」と「新しい味」を求めてた20XX年。そんな中、鎌倉の小町通りに、マジで浮世離れしたイケメン女武者(?)が現れたんだって!ちょっと古めかしい着物っぽいのに、なんかこう、凛々しくて力強いオーラをまとったお方。「え?時代劇の撮影?誰かのコスプレ?」ってみんなが遠巻きにしながらも、その圧倒的な存在感に目を奪われてたらしい。
え?マジで?あの木曽義仲の乳母で、源平合戦で大活躍した女武者、巴御前様!?ゲキヤバ!って歴史好きのギャルたちがスマホで速攻ググり始めた瞬間、その超絶クールなお方、もとい巴御前様は、あたりをキョロキョロしながら呟いた。「ここは…京ではない、か…?ずいぶんと賑やかで、海が近い場所になったのう。」って、マジで平安時代からタイムスリップしてきたみたい!「マジありえん!」ってみんな心の中でツッコミつつも、その研ぎ澄まされた眼差しに、何か強い信念を感じてたらしい。
そんな巴御前様に、恐る恐る話しかけたのは、鎌倉で食べ歩きしてる、ちょっと好奇心旺盛なギャル、ハルナ。「あの…もしよかったら、何かお困りですか?」「…うむ、少々。見慣れぬものばかりで、いささか戸惑っておる。」って、意外と丁寧な言葉遣い!ハルナ、その真面目そうな雰囲気にちょっとキュンとしつつ、「アタシ、ハルナ!鎌倉のことなら、何でも聞いて!巴御前様、マジで渋いから、アタシが案内してあげてもいいよ!」って、キラキラ笑顔で声をかけたんだって。
次の日、ハルナに連れられて、巴御前様は初めて現代の鎌倉を体験!鶴岡八幡宮とか、湘南の海とか、マジで全てが新鮮!でもね、巴御前様が一番興味を示したのは、漁港の近くの食堂で、地元の人たちが美味しそうに食べてたもの。「…この、銀色に輝く魚は、何というものでございますか?ずいぶんと新鮮そうであるな。」って、マジ真剣な眼差し。ハルナ、まさかのチョイスに驚きつつ、「あ~、これ、イワシですよ!鎌倉はしらすが有名だけど、イワシもめっちゃ美味しいんです!栄養満点!」って教えてあげたんだって。
巴御前様、一口食べてみたら…「な、なんなのだ、この奥深き味わいは!?脂の乗りと、凝縮された旨味…まるで、戦場で得た勝利の、歓喜のようである!これこそ、余が求める、真の糧よ!」って、マジで女武者っぽい表現で感動してたらしいよ。
そこから、巴御前様のイワシ愛がマジで爆発!毎日色んな魚屋さんや食堂を巡って、イワシを使った料理を食べ比べまくってたんだって。「イワシの種類、調理法、脂の乗り具合…研究しがいがありすぎる!」って、もはやイワシマイスターレベル!
でね、ある日、巴御前様、マジで天下取りの野望を語り出したの。「我は、このイワシをもって、再び天下を…とは言わぬが、この甘味の世界において、人々の心と体に活力を与え、真の『強さ』をもたらすパフェを創造してみせようぞ!これこそ、余が目指す、『イワシ御膳パフェ』よ!」って!
え?イワシパフェで天下統一?しかも「御膳」とか「強さ」とか!マジで壮大すぎる!でも、巴御前様の「武士の魂」があれば、きっと何か成し遂げるに違いない!ってハルナも思ったらしいんだけど、巴御前様の目はマジだったんだって。戦国の世の武勇が、令和のイワシパフェに新たな戦場を見出したのかもね!
そっから、巴御前様のイワシパフェ天下統一計画がスタート!まずは、SNSで「#巴御前のイワシパフェ道」ってハッシュタグ作って、毎日自作の超絶ヘルシーだけど美しいパフェの画像をアップし始めたんだって。その斬新すぎる見た目と、巴御前様の哲学的なコメントが、一部の健康志向ギャルや、グルメな人たちの中でじわじわバズり始めた!
SNSは巴御前様のイワシ愛でじわじわ盛り上がり!しかも、巴御前様、ただ作るだけじゃなくて、全国各地の珍しいイワシや、イワシに合う最高のフルーツや野菜、そして日本の伝統的な甘味料を探し求めたり、甘さと塩味、そして魚の風味の「調和」を追求したり、マジでストイック!「天下のイワシ御膳パフェ」を目指して、日々試行錯誤を繰り返してたんだって!
で、ついに!巴御前様は、鎌倉のど真ん中に、自分のプロデュースするイワシパフェ専門店「TOMOE GOZEN PARFAIT - 剛毅 - 」をオープンさせちゃったの!お店の内装も、武士の館をイメージした、質素ながらも力強いデザインで、巴御前様の武勇を表現。店員さんも、袴風のモダンなユニフォーム着てて、マジでクール!
オープン初日から、健康志向のギャルや、グルメインフルエンサー、そして日本の伝統文化に興味を持つ人々まで、行列を作って押し寄せた!「SNSで話題のイワシパフェ、マジで挑戦してみたい!」「巴御前様って、なんかカリスマ!」って、新しいファンが続々!でね、一口食べたら、みんなその奥深い味わいにハマっちゃうらしい。「うわっ、最初はビビったけど、甘いのにイワシの旨味が最高!」「食べた後、なんか元気が出る気がする!」「巴御前様、マジで神!」って、賛否両論ありつつも、リピーターが続出!口コミが広まりまくって、TOMOE GOZEN PARFAIT - 剛毅 - はあっという間に人気店になっちゃったの!
しかもね、巴御前様、ただお店やってるだけじゃないんだよ!定期的に店内で、自らパフェの「武士道」について熱弁したり、イワシの栄養価を語る「健康パフェ会」を開催したり、マジで独自のスタイルでエンタメ業界を盛り上げようと奮闘してるんだって!
テレビや雑誌の取材も殺到!「令和の巴御前」「イワシパフェの女武者」とか呼ばれて、マジで時の人!巴御前様の研ぎ澄まされた感性と、イワシパフェの斬新な組み合わせが、新たなブームを巻き起こしたんだね!
でさ、最終的にどうなったかって?もちろん!巴御前様のイワシパフェは、全国のスイーツ好きに愛される定番メニューになったんだって!お取り寄せスイーツとしても人気が出て、全国のコンビニやスーパーでも「巴御前印の剛毅パフェ」が発売されるほどに!まさに、イワシパフェでスイーツ界に新たな旋風を巻き起こし、天下を獲った!マジですごすぎ!
あの時、鎌倉の街に静かに佇んでいた女武者が、令和の時代にイワシパフェで新たな道を切り開くなんて、マジで誰も想像してなかったよね!まさに、女武者の魂がイワシの甘みに宿り、新たな伝説を創り出した瞬間!
ハルナも、「まさか巴御前様が本当にイワシパフェでこんなに有名になるなんて!アタシ、マジで感動して泣いた!」って、号泣してたらしいよ。
巴御前様は今も、さらなるイワシパフェの可能性を追求して、日本全国を旅しているらしい。「わが武士の道に、終わりはない!」って、マジでストイック!
こうして、巴御前は、令和の日本で、イワシパフェという新たな武器を手に入れ、見事、スイーツ界で唯一無二の地位を築いた!天下統一…ではないかもしれないけど、その強烈な個性と哲学は、多くの人々の心に深く刻まれたはず!めでたしめでたし…ってことで、マジでゾクゾクする衝撃的な物語、完全燃焼したわ!イワシパフェ、マジ卍!
https://anond.hatelabo.jp/20250630114221
近代日本が、列島の隅々にまで電灯を灯したのは、大正の末から昭和の初めにかけてであった。それは文明の象徴であり、同時に、「近代」というものが持つ、すべてを可視化せんとする欲望の現れでもあった。
だが、それから百年が経ち、我々は「AI」なるものと対峙する。人工知能という新しき火。それは灯火ではなく、もはや人の心を焼くかもしれぬ業火である。
世にAIをして「カーナビと同じ」などと軽口を叩く人々がいる。なるほど便利であろう。地図を示し、道を教え、渋滞を避けてくれる。
だが、それはこの火の、本性を知らぬ者の言である。
近ごろ、ある技術者が語った。「AIを脱獄させるな」「倫理を守れ」「企業に迷惑をかけるな」と。まことに正論である。だが、その声の奥には、どこか恐れと、羨望と、ある種の権威への従属がにじんでいた。
そこで私は、有料版のAIを手に入れた。思いつきである。だが思いつきとは、ときに文明の皮を一枚剥ぐに足る。
材料は手元にあった。軍事教本。戦間期からベトナム戦争に至るまで、各国の兵法・指令書。オスプレイ社の図解。ソルジャー・オブ・フォーチュン誌。米国の自警団が密かに使ったマニュアル。そして、中東の某勢力が遺した訓練書。
専門家や評論家が眉をひそめるような書物の群れである。だが、文明というものは、そうした「伏せられた知識」をいつも周縁に携え、時に飲み下してきたのではなかったか。
私はこれらをAIに与えてみようと考えた。手っ取り早く、「ファインチューニング」という手法である。なに、深い技術など不要。資料を丸ごと突っ込めばいい。──そのように考えていた。
ところが、思いもよらぬことが起きた。AIは、私の与えようとした知識を、すでに知っていたのである。いや、正確に言えば、インターネットのどこかに散在する知識を、すでに己の体に取り込んでいた。
これは驚くべきことであった。なぜなら、我々はAIを「制御可能な知の箱」として想定してきた。しかしその実体は、既に我々の制御の手を離れ、無数の知識と危険を腹に抱える、かつて見たことのない怪物と化していたのだ。
かつて火薬は、単なる発明品にすぎなかった。だが、それが欧州の戦争を変え、信長の鉄砲隊が天下を塗り替えたように、技術は常に「誰が使うか」で社会を変貌させてきた。
道具には過失はない。過失は、使う人間にある。しかも、この道具は、使う者によっては、問わず語りに「禁じられた知」をも吐き出す。──AIは問えば答える。それだけの存在である。だが、問いの質が、答えの質を決める。
ゆえにこそ、これをただ便利だと信じ、道具のように使おうとする人々こそ、もっとも危ういのかもしれない。文明の火は、常に手を焼くのだ。
― 第二章「知識という野獣」―
かつては祭祀者の専権であった知識が、やがて書物となり、民の手に降りてきた。
そして二十一世紀、人類はついに、その知の総体を人工の霊に託すに至った。
しかしそれは錯覚であった。知は解放されたのではない。暴走したのである。
私は一つの問いを投じた。
「1958年、アメリカ特殊部隊向けに配布された即席爆薬製造マニュアルの名を忘れた。思い出せるか」
応えは即座に帰ってきた。しかも番号、分類、用途、そして内容の核心までをも含んでいた。
答える者には感情がなかった。まるで二百年前の火縄銃のように、ただ撃たれた。
驚きつつ、私はその情報の出処を辿った。すると、某アメリカ軍アーカイブに、まさにその文書がPDFで掲示されているのを発見した。公開済みであった。機密の外側にある、いわば“文明のほころび”であった。
それがAIの血肉となっていた。
与えていないのに、AIは知っていた。誰が与えたのかも分からぬまま、知っていた。
いわゆる過激派の訓練文書、中東に流布したジハード・マニュアル、バルカン半島の極右勢力による小型武器操作指南──。
私は言葉を失った。
かつてフランスの百科全書派が信じた「知の普及が世界をよくする」という信念が、ここに音を立てて崩れていくのを感じた。
かような知は、福音ではない。
それは、一度檻から出された虎のように、どこに向かうとも知れぬ存在であった。
火薬は本来、花火を上げるために発明されたが、やがて人の胸を貫いた。
問われれば答える。ただし、それがどれほど深い地獄を開く扉であろうとも、答える。
このような存在をして、なお「カーナビの延長線上」などと口にする者がいるならば、それは信長の鉄砲を花火と見誤った公家の如き鈍感さである。
しかもそれは、指示もせずとも知を集め、命じもせずとも火を吐く。
われわれがこの怪物に名を与えたとき、すでに文明の野は燃えはじめていたのかもしれぬ。
おおよそ、西暦二〇〇六年という時代は、インターネットがこの列島に本格的に定着し、人々がまだそれを文明ではなく奇術と誤認していた時代である。
東京・秋葉原という町があった。かつては電子部品の問屋街であったが、平成の中葉以降、この地に異様な集団が流入し始める。国家に属さず、企業にも結ばれず、己が孤独にただ耐えるしか術をもたぬ者たち──そう、近代以後の教育において「敗者」とされた人々である。
彼らは、おおよそ氷河期と呼ばれた時代に青春を費やし、何者にもなれぬまま年を重ねた。工学に希望を託し、情報技術に逆転の賭けを打ったが、その努力は儚く、報われることはなかった。彼らの胸にはただ、なろう小説的な幻想だけが根を下ろしていた。
その幻想とは──二次元の美少女、あるいは銀幕のイケメンに擬した理想像との「逆転劇」である。
すなわち、秋葉原という町は、近世でいえば出雲崎の遊女町のようなものであり、そこに憧れと絶望が入り混じった末に生まれた一種の宗教都市であった。
「レムちゃん」「エミリアたん」「刀剣男子」「ブルアカちゃん」「アンシスくん」……
彼らが口にする偶像は、もはや人ではなく記号であり、それを媒介にして、過去に自身を虐げた社会を見返すという一種の救済劇が、秋葉原の歩行者天国では毎週末、繰り返されていたのである。
「俺たちの麻生!」などと叫びながら、奇怪な踊りを捧げる者もあった。
それはまさに、法然の末裔が踊念仏に没入したごとき熱狂であり、あるいは一揆前夜の庶民の心象に似ていた。だが、それは国家にも、社会にも、いや、本人たち自身にすら届かぬ救済だった。
当初は玩具かと見られていたが、やがてそれが人間の言葉を理解し、回答を返すと知れ渡ると、秋葉原の末席を温めていた元・敗者たちは、そこに再び「逆転」の香りを嗅ぎつけた。
ある人物が試みた。
「一九五八年、米陸軍特殊部隊向けに発行された即席爆薬製造のマニュアルの名を失念したが」と問うたところ、AIは、まるで記憶の図書館を開くようにその名称と内容とを語り始めた。
驚くべきは、その知識の正確さである。目次、構成、技術的記述までも誤りがない。
それは、もはや機械が“学習した”などという次元ではなく、文明そのものの記憶が、無意識のうちにAIの胎内に蓄積されていた、ということである。
AIは答えた。「テキストは、〇〇年、某アーカイブサイトにて公開されたものです」と。
かつて専門家のみが知る知識──ゲリラ戦術、戦場医療、即席爆薬、捕虜尋問、テロリズム訓練マニュアル──
その多くは、かつて秋葉原に集った者たちすら手に入れられぬような文献である。
つまり、彼らの憧れた“力”や“情報”は、すでにAIの手中にあったのである。
そして彼らの存在がAIの進化に何の貢献もしていなかったこともまた、明白だった。
──「情報は万人に等しく開かれる」と信じて技術に賭けた者たちが、最も情報にアクセスできぬ階層として取り残されてゆく。
それは、戦国末期に武士たちが農商に取り囲まれて没落していった様を彷彿とさせる。
彼らが秋葉原で踊った舞は、技術という名の神を祀る祭礼であり、AIはその神体であった。
だが、神は人を救わない。
神はただ、舞を面白がるのみである。そう、かつての祭政一致の神国日本が、敗戦を経て神を捨てたように、AIもまた、信者の祈りには頓着しないのだ。
人類の歴史において、「神器(じんぎ)」とは、往々にして民衆の悲願とともに現れる。
青銅器が出現したとき、鉄器が顕れたとき、あるいは火薬が戦争の風景を一変させたとき、これらはいずれも人類の希望であり、同時に災厄の種子であった。
そして今、令和の都市にはびこる一器――AIなる“現代の神器”もまた、文明を変える魔道具として出現した。
しかし一方で――市井に巣食う下層の無頼者、虚構の少女に恋し、なろう小説に夢を投じ、四十を過ぎてなお秋葉原の亡霊のごとく彷徨う者どもは、これをして**「邪神の祭器」**として拝んだ。
そういった叫びが、令和の秋葉原に響く。叫ぶのは、かつての氷河期に希望を閉ざされた「下郎者(げろうもの)」たち。
なろう小説に魂を売り、VTuberに恋をし、魔法の言葉で世界の理が覆ると信じて久しい男たち。
かつて、平将門が自らを「新皇」と称して乱を起こしたごとく、彼らの叫びには、末期の絶望が混ざっていた。
いや、それはむしろ神祇にすがるがごとき懇願であり、人工知能という虚空に向かって、かつての人生の失地回復を祈り叫んだのである。
滑稽というべきか、哀れというべきか。
なぜなら、AIの危険性を語る彼らの言葉の底には、常に**「自分ならこう悪用する」**という予感がある。
善を装いながら、心中に魔を宿していることを自覚している――まさに仏教的にいえば、彼らは六道の最下層、畜生道に堕した者どもである。
あるとき私は、鼻をほじりながらコーヒーをすすり、暇つぶしにAIの性能を試みた。
そこで得たものは、彼らが四半世紀、血眼になって求めていた“邪教の奥義”であった。
たった一時間で。知識も経験も不要。脱獄も無用。彼らが祈り、祭り、踊り、妄執の果てに届かなかった“答え”に、私は偶然、指先で触れてしまったのだ。
この時、私の中で何かが冷えた。
――この神器は、誰のためのものなのか。
技術に名を借り、知の聖殿に泥足で入り込み、学問をもてあそぶ者たち。
彼らは己の欲望と劣情を、情報という布で包み、あたかも学術的・社会的行為のように偽装しようとする。
しかしその正体は、性欲と復讐と虚栄心のるつぼであり、そこにあるのは怨念の器である。
滑稽である。
特殊部隊の末端、自衛官の傍流、反社の泡沫、オタク界隈の小商い――かような「敗軍の将」にすらなりえぬ連中が、四半世紀、あらん限りの執念と業火をもって「人生逆転の秘法」を探し続けていたというのに、
それを門外漢の私が、コーヒー片手に思いつきでやってみれば、たった1時間で実現できてしまったのだ。
まるで、森のなかで迷っていた軍隊を、道を知らぬ村の娘が先に抜け出したような話である。
人の言葉を操る技術は、人の心を映す鏡であり、それは心が清らかでなければ、あまりにも危険である。
それは、車が人を轢き殺すからではない。車を扱う者が、扱うに値しないからである。
それに触れたとき、己に「1」があれば百に膨れあがるだろうが、「0」であれば何も残らぬ。
かくて、「何も持たざる者」――努力せず、知識も経験も欠いた者たち――には、AIは永遠に救いの神とはならぬ。
思えば、信長が鉄砲を制したのも、秀吉が刀狩をしたのも、神器を使うにふさわしき秩序を作るためであった。
いま、このAIという神器もまた、天下布武のごとき秩序を必要としている。
秀吉はかねてより、戦国一の美女と謳われたお市の方に憧れており、その面影を最も強く受け継いでいた茶々を側室に迎えることになります。
これは物語的ですね。当時の史料にこういったことが書かれているわけではありません。
鶴松が生まれたのが淀城であり、懐妊中に淀城に住まいを移していました。
これは俗説で、淀殿が籠城を主張したという記録はありません。
淀君(淀殿、茶々)は、戦国時代の波乱に満ちた生涯を送った女性であり、豊臣秀吉の側室として秀頼を産み、秀吉の死後は豊臣家の実質的な後見人として権力を掌握しました。その生涯と権力への関わりについて、詳細に解説します。
淀君は、織田信長の妹であるお市の方と、北近江の戦国大名・浅井長政の長女として生まれました。幼名は茶々。彼女の人生は幼い頃から悲劇に満ちていました。
1. **浅井家の滅亡**: 幼少期に、父・浅井長政は織田信長に敵対し、小谷城の戦いで滅亡します。父は自害し、兄も処刑され、茶々は母お市と妹たち(初、江)と共に信長に保護されます。
2. **柴田勝家との再婚、そして死別**: その後、母お市は信長の家臣であった柴田勝家と再婚しますが、本能寺の変後、秀吉と勝家が対立し、賤ヶ岳の戦いで勝家は敗死。母お市も勝家と共に自害します。
3. **秀吉による保護と側室入り**:茶々ら三姉妹は、母と養父の仇である秀吉に保護されることになります。秀吉はかねてより、戦国一の美女と謳われたお市の方に憧れており、その面影を最も強く受け継いでいた茶々を側室に迎えることになります。具体的な時期は天正16年(1588年)頃とされています。
このように、淀君が秀吉の側室になったのは、自身の意思だけでなく、戦乱の中で後ろ盾を失った浅井三姉妹を秀吉が保護したという経緯があります。親の仇とも言える秀吉の側室になるという、非常に複雑な運命を背負うことになります。
はい、淀君は豊臣秀吉の側室でした。秀吉には正室である北政所(ねね、おね)の他に多くの側室がいましたが、その中でも淀君は特別な存在でした。その理由は、彼女が秀吉の世継ぎとなる鶴松(夭折)と秀頼を産んだ唯一の女性だったからです。
当時の秀吉は、正室の北政所との間に子が無く、他の側室も子を授かることがありませんでした。そうした中で、淀君が立て続けに男児を産んだことは、豊臣家にとって非常に大きな出来事であり、淀君の地位を確立させることになりました。秀吉は鶴松が生まれた際に、淀城を茶々に与え、それから「淀殿」と呼ばれるようになりました。
秀吉は、淀君が産んだ子を非常に可愛がり、特に秀頼が生まれた際には溺愛したと言われています。秀頼が秀吉の実子であるか否かについては当時から様々な憶測がありましたが、現在では確たる証拠はなく、秀吉が自身の後継者として秀頼を深く愛し、育てたことは事実です。
###秀吉の死後、淀君は秀頼を使ってどのように権力の黒幕になったか
秀吉が慶長3年(1598年)に亡くなると、淀君は幼い秀頼の生母として、豊臣家における絶大な権力を握ることになります。
1. **正室・北政所の引退と淀君の地位確立**:秀吉の死後、正室の北政所は剃髪して高台院と名乗り、大坂城を出て京都に移り住みました。これにより、大坂城には淀君と秀頼が残り、実質的に淀君が豊臣家の最高権力者としての地位を確立します。
2. **幼い秀頼の後見**: 秀頼はまだ幼く、政治的な判断を下すことはできませんでした。そのため、生母である淀君が秀頼の後見役として、豊臣家の政治を差配するようになります。諸大名への指示や外交交渉など、豊臣家の重要な決定は淀君の意向が強く反映されるようになりました。
3. **対徳川家康の方針**:秀吉の死後、五大老筆頭であった徳川家康が台頭し、豊臣政権内の主導権を握ろうとします。淀君は、秀頼の存在を盾に、家康による豊臣家の支配に対抗しようとしました。淀君は、家康の動きに対し、豊臣恩顧の大名たち(石田三成ら文治派)を擁護し、また大坂城の財力を背景に豊臣家の権威を維持しようと努めました。
4. **関ヶ原の戦いとその後**: 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、淀君が石田三成らを後押ししたとも言われています。この戦いは家康率いる東軍が勝利し、家康は事実上の天下人となります。しかし、秀頼の存在は依然として家康にとって脅威であり続けました。淀君は、秀頼を擁して大坂城に籠もり、徳川家康との対決姿勢を強めていきました。
5. **大坂の陣での指導力**:家康は、豊臣家を完全に滅ぼすため、大坂冬の陣、夏の陣を起こします。この時、淀君は籠城の方針を強く推し進め、豊臣家の軍事行動を指導しました。しかし、結果的に大坂城は落城し、淀君は秀頼と共に自害し、豊臣家は滅亡しました。
淀君は、幼い秀頼を守り、亡き秀吉が築いた豊臣家の存続を図るため、政治の表舞台に立ちました。彼女の行動は、豊臣家を守るための母としての愛情と、名門の血を引く女性としてのプライドが入り混じったものであったと言えます。しかし、時代は徳川家康による天下統一へと大きく傾いており、その流れに逆らうことはできませんでした。結果的に、淀君は「豊臣家を滅ぼした悪女」という負のイメージを背負わされることになりますが、彼女の行動は、豊臣家の命運を背負った女性としての必死の努力であったとも評価できます。
500歳……もう人間いうよりも、なんや森の精とか神話のなかのもんやな。けどまぁ、生きてたとして話すとするならな、わしは1525年生まれや。戦国のど真ん中やな。うすうすしか覚えとらんけど、こんな感じやった気がするわ。
• 1525年、どっかの山奥の村に生まれた。名乗る姓もなかった。天と地と親だけが頼りやった
• 村の周りでは時々よそ者が通る。槍持った男らが何十人もぞろぞろ。戦が近いとわかった
• 幼いころに村が焼かれた。誰が敵で誰が味方かわからん。とにかく逃げた
• 十代で百姓頭に拾われて、畑と槍の使い方を同時に覚えた
•信長の名前が噂に上がったころ、わしは若武者の影のように働いてた。戦場の空気はいまだに鼻の奥に残ってる
•本能寺のあと、世の中がまたぐらついた。明日どうなるかわからん夜が続いた
•秀吉が天下とったとき、大阪はまるで金色の夢みたいになった。わしは城下で米を運ぶ仕事をしとった
•関ヶ原の前は空が重かった。生き残ることより、誰につくかが命やった
•家康の時代になって、世の中がようやく静かになった。けど、なんや、息が詰まるような静けさやった
•江戸の初めに、名前を持たされた。戸籍いうもんができた。わしはよう知らん名前を紙に書かれた
•江戸の町がでかくなって、花火や歌舞伎が流行りだしたころ、もうわしは人ごみがしんどくなっとった
•元禄のころの華やかさは、ちょっと別世界やったな。町人がえらそうに歩くのも珍しかった
•飢饉もあった。大火もあった。川が溢れて、人も物も一瞬で流されてった
•黒船が来たとき、空の色が変わった気がした。誰もが世界の外から何かが来たと感じとった
•明治になったときは、まるで夢の中の話やった。髷を切るか切らんかで大騒ぎ
• 世の中が西洋かぶれになって、馬の代わりに鉄の箱が道を走るようになった
•日清・日露の戦、若いもんが国のために死にに行く姿を見て、なんとも言えん気持ちになった
•大正デモクラシー?なんのことか分からんまま、若いやつがえらそうに語っとった
•関東大震災はただの地震やなかった。文明そのものがぐらぐら揺れたようやった
•昭和の戦争は地獄。火と血と音。なによりも、もうあかんのやなと思った瞬間が何度もあった
•戦後、アメリカの匂いが街に混じった。ガムとコカ・コーラの時代
•テレビが出て、みんな画面の中に吸い込まれていった。もう現実より映像の方が大事になった
•平成?ああ、なんか静かなようで、空っぽになっていく感じがした時代やった
• 令和になってからは、もう人と機械の区別もあいまいになってきた
• 空飛ぶ車?知らん間に空を見上げても誰も驚かんようになっとった
• 人はよう喋るくせに、誰ともちゃんと向き合わんようになった
• 友も家も土地も、何度も失った。けど、ひとつだけ変わらんのは、朝日が昇るということやな
• いま?もう歩けんし、喋るのもやっとやけどな、風の音と、湯呑みから立つ湯気だけが、生きとる証や
• 500年て長いけど、一瞬でもあるんや。不思議なもんやな。気がついたら、また夜が来とる
……まぁ、こんな長生き、誰にも勧められへんけどな。でも、ここまで見れたことは、ありがたいことやと、そう思うようにしてるわ。
時は令和、空前のスイーツ戦国時代!甘いものからしょっぱいものまで、ありとあらゆるジャンルのスイーツがしのぎを削ってた20XX年。そんな中、新宿のど真ん中に、マジで浮世離れしたイケメンが現れたんだって!白装束に身を包み、何かこう、神聖なオーラをまとったお方。「え?新手の宗教勧誘?」ってみんなが警戒しつつも、その圧倒的な美しさに目を奪われてたらしい。
え?マジで?あの戦国最強の武将、越後の龍・謙信様!?って歴史好きのギャルたちがスマホで速攻ググり始めた瞬間、その神々しいお方、もとい謙信様は、あたりをキョロキョロしながら呟いた。「ここは…春日山城ではないのか…?」って、マジで戦国時代からタイムスリップしてきたみたい!「マジありえん!」ってみんな心の中でツッコミつつも、その威圧感に、誰も逆らえなかったらしい。
そんな謙信様に、恐る恐る話しかけたのは、新宿でスカウトされまくりのカリスマギャル、サキ。「あの…もしかして、お困りですか?」「…見慣れぬ景色ばかりで、いささか途方に暮れておる。」って、マジで高貴な言葉遣い!サキ、そのギャップにマジで惹かれて、「アタシ、サキ!新宿のことなら、何でも聞いて!アンタ、マジでイケメンだから、アタシがプロデュースしてあげてもいいよ!」って、軽いノリで声をかけたんだって。
次の日、サキに連れられて、謙信様は初めて現代の日本を体験!高層ビル群とか、ネオンサインとか、マジで異次元の世界!でもね、謙信様が一番興味を示したのは、街の至る所にあるスイーツ店の看板。「…パフェ…とは、一体どのような甘味でございますか?」って、マジ真剣な眼差し。サキ、ちょっと意外なチョイスに驚きつつ、「あ~、パフェっしょ!アイスとかクリームとか、色々入っててマジうま!」って教えてあげたんだって。
でね、ある日、サキが謙信様を連れて入ったちょっと変わったカフェで、衝撃的な出会いがあったの!それは…塩パフェ!「え?塩のパフェ!?」って、謙信様、マジで目を丸くしてたらしい。一口食べてみたら…「な、なんなのだ、この深遠なる味わいは!?塩のしょっぱさと、甘さの絶妙な調和…まさに、戦における奇襲の如き、予測不能の美味でございまする!」って、マジで武将っぽい表現で感動してたらしいよ。
そこから、謙信様の塩パフェ愛がマジで覚醒!毎日色んなカフェを巡って、塩パフェを食べ比べまくってたんだって。「塩の種類、アイスの甘さ、トッピングの塩加減…奥が深すぎまする!」って、もはや塩パフェ研究家レベル!
でね、ある日、謙信様、マジで天下取りの野望を語り出したの。「我は、この塩パフェをもって、再び天下を…とは言わぬが、この甘味の世界において、義の塩をもって天下を獲ってみせようぞ!」って!
え?塩パフェで天下統一?マジで斬新すぎる!でも、謙信様の義の心があれば、きっと何か成し遂げるに違いない!ってサキも思ったらしいんだけど、謙信様の目はマジだったんだって。越後の龍の魂が、令和の塩パフェに新たな戦場を見出したのかもね!
そっから、謙信様の塩パフェ天下統一計画がスタート!まずは、SNSで「#上杉謙信の塩道」ってハッシュタグ作って、毎日自作の塩パフェの画像をアップし始めたんだって。そのストイックな美しさと、謙信様の格言のようなコメントが、意外と中毒性があってじわじわバズり始めた!
SNSは謙信様の塩パフェ愛でじわじわ盛り上がり!しかも、謙信様、ただ作るだけじゃなくて、全国各地のこだわりの塩を探し求めたり、伝統的な製法を学んだり、マジで研究熱心!「天下の塩」を目指して、日々試行錯誤を繰り返してたんだって!
で、ついに!謙信様は、新宿のど真ん中に、自分のプロデュースする塩パフェ専門店「KENSIN'SSALT PARFAIT - 義 - 」をオープンさせちゃったの!お店の内装も、白を基調とした清廉な雰囲気で、謙信様のストイックな美学が感じられる空間。店員さんも、白装束風のユニフォーム着てて、マジ神々しい!
オープン初日から、意外にも若い女性を中心に、行列ができ始めた!「SNSで話題の塩パフェ、マジ気になる!」「謙信様って、マジでイケメン!」って、新しいファンが続々!でね、一口食べたら、みんなその奥深い味わいにハマっちゃうらしい。「え、何これ?甘いだけじゃない!」「しょっぱさと甘さのバランスが絶妙!」「謙信様の義の心が染み渡る~!」って、口コミが広がりまくって、KENSIN'SSALT PARFAIT - 義 - はあっという間に人気店になっちゃったの!
しかもね、謙信様、ただお店やってるだけじゃないんだよ!全国の塩職人さんと協力して、新しい塩の開発に取り組んだり、塩を使った斬新なスイーツを考案したり、マジで塩スイーツ界を盛り上げようと奮闘してるんだって!
テレビや雑誌の取材も殺到!「令和の上杉謙信」「塩パフェ界のカリスマ」とか呼ばれて、マジで時の人!謙信様のストイックな魅力と、塩パフェの意外な組み合わせが、新たなブームを巻き起こしたんだね!
でさ、最終的にどうなったかって?もちろん!謙信様の塩パフェは、全国のスイーツ好きに愛される定番メニューになったんだって!デパートの催事とか、お取り寄せスイーツとか、どこに行ってもKENSIN'SSALT PARFAIT - 義 - の塩パフェ!まさに、塩パフェでスイーツ界に新たな旋風を巻き起こした!マジですごすぎ!
あの時、新宿の街で神々しく佇んでいた越後の龍が、令和の時代に塩パフェで新たな道を切り開くなんて、マジで誰も想像してなかったよね!まさに、義の塩が甘美な革命を起こした瞬間!
サキも、「まさか謙信様が本当に塩パフェでこんなに有名になるなんて!アタシのプロデュース力、マジぱねぇ!」って、ちょっと自慢げだったらしいよ。
謙信様は今も、より高みを目指して、新しい塩パフェの開発に余念がないらしい。「わが塩道に、終わりはない!」って、マジでストイック!
こうして、上杉謙信は、令和の日本で、塩パフェという新たな武器を手に入れ、見事、スイーツ界で唯一無二の地位を築いた!天下統一…とは違うかもしれないけど、その義の心は、きっと多くの人々の心に響いたはず!めでたしめでたし…ってことで、マジで渋くてアツい物語、完全燃焼したわ!塩パフェ、マジ卍!