
はてなキーワード:意表とは
スプラトゥーン3もいい加減ずーっと同じブキ使っていたら飽きるのも訪れる季節がくる秋。
いいなと思い始めたマイレボリューション!
ブラスターのRブラスターエリート無印!がいいような気がしてきてちょっと使い始めたの!
そして、
高台に入るにもかかわらず下からめくるようにキルされるあの鬱陶しさ!
自分がやられて嫌だなと思う攻撃は相手チームにも有効!ってのがスプラトゥーン3の常よね。
なので、
私も早速
慣れてきたらもっと爆発力のある飛距離はそこそこ重量級のロングブラスターも使ってみたいかな。
連射速度は遅いものの、
爆発先で破裂する球の中で仕留める難しさがあるけれど、
そんなに狙いを慎重に定めてエイムに神経質にならなくても爆発の範囲で狙うのを期待できちゃうの。
破裂するけれど、
うーん、
似ているようで違うけれどちょっとまだ私の新しく使い始めたRブラスターエリートの長所を語りまくりまくりすてぃーというわけにはいかない熟練度よ。
もっと慣れてきたらいい感じかも。
立ち回りが難しいわ。
あと近距離でもっとパンパン鳴るラピッドブラスターやもっと短い射程距離のクラッシュブラスターもいいんだけど、
私はやっぱり長射程距離のブキが好きね!
イマイチ目指せ熟練度星5つもぎ取りたいところのセブンファイブオーライダーのコブラもいいんだけど
あまりに特効が決められすぎるので、
突っ込んでスーパーチャクチを決めたら正に潜んで喰らわす近距離にも強いスナイパーって感じね。
セブンファイブオーライダーの気分じゃない新しいブキを欲している感じかしら。
手で連射するのが疲れちゃうわ。
あれはあれで押しっぱなしの近距離塗り特化と単発の指連射だと飛距離インクが飛ぶので、
相手はこんなところまでそのブキインク飛ぶの?って意表を突かれるみたいなので、
これ手が疲れちゃうのよね。
それが欠点!
思ってるよりインク飛んでくるからあんまり近寄らない方がいいかも。
そんで近距離でも強そうだし。
あと、
最近また一所懸命取り組み始めたバンカラマッチもブキパワーが計測され始めたので燃えるわ!
めちゃやる気はあるのによ!
なので最近はバトルステージのスケジュールチェックも欠かさないわ。
そんでもうすぐまたフェス始まるので、
この私のいまスプラトゥーン3へのションテン爆上がりな気分盛り上がると思うわ!
でもフェスあるあるで頑張れば頑張るほどチームがいい成績にならない感じも否めないのでそれは否定してあんまりやる気のない振りをしてーって
フェス参加していないけれど投票したチームは優勝!?ってパターン美味しいじゃない。
とはいえ、
特別にたくさん何かのご褒美がもらえるってワケでもないので、
勝っても負けても泣いても笑ってもって感じなの。
まあせっかく今私のやる気がいっぱい出ているときに
ドラクエIとIIがきたらきっとスプラトゥーン3のことなんて遊んでるヒマがないぐらいになっちゃいそうなので、
ドラゴンクエストIIはやったことあるのかな?
Iは初めて今回プレイするので、
今がチャンスなの!
うふふ。
楽しい楽しいお休み前の今日は一気にションテンタマゴサンドで上げてこなしちゃうわよ!
今日も頑張るの!
なので朝のタマゴサンドイッチの玉子はタマゴチャージができていいのよね!
昨日飲みきってまた夜こしらえて作っておいたので、
封開けたてのコーン茶のパックは香ばしい香り高く美味しく仕上がったわ!
気温寒くなってきたので、
冷たいのは冷たいけれどね。
でもごくごく元気よく飲むわよ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
■息子が「女さん」と言い出したときのこと
https://anond.hatelabo.jp/20241216194633
そう言えば。
中学生の息子が特定の人を指して「女さんは〜」とか言い出してさ。
ビックリした私は
「そんな言い方は女性差別でしょ!」
って叱ったんだけど。
ここで女性差別に当たるか・女性差別的意図と推定できるかどうかは
であるのに一番肝心なそこが書いてない。
・彼我の持ってる情報の違いが区別できず説明の必要性がわからない発達障害
夫にも相談したら
「男さん、と呼んでもいい」
「男女平等だ」
とのこと。
えぇ・・・。
この女の主張はわかった。
文脈や具体的な発言内容にかかわらず”女さん”自体が女性差別である。ね。
そしてそれを夫にも同意してほしいらしい。
「なぜ”女さん”が単独で性差別になるのか」という理屈や論拠の展開であり、
たとえば「”女さん”はこれこれのネット空間で広く慣習的に、女性差別の意図にのみ使われている言葉である」
といった事例やデータの提示が必要なのに、それをした形跡が見られない。
おそらくは
妻「”女さん”は差別!」
夫「なんで?」
なにこれ?
夫は妻と違ってネットのドブのような男女論を見ていない可能性であり、
その場合は「”女さん”が女性差別的ニュアンスである」という妻の主張は全く意味がわからず、
「さんづけのなにが差別なの?」という回答になるのは当たり前だ。
(この夫婦は妻の方が夫よりだいぶ暇なのかもしれない)
であるのにこの女は
夫と自分の認識が大きく食い違ってる原因について探ったり解き明かしたりする様子もなく
「えぇ・・・。いやどう考えても〇〇でしょ」 「今更思い出してモヤモヤしたわ。」
とフラストレーションを募らせているだけ。
話にならない。お前が。
人間の知能はグラデーションなので、手帳が出ない程度の障害はどこにでもあるしみんなある。
追記・
え?そっち?
お母さんが子供の躾けや行く末について悩んでる話、
そういう話題かと思ったわ。
それなら多少頭が悪くたってお母さんの悩み苦しみを上手く取り除いてあげたいと思うし
そういう方向の助言をしようと思ったけど、そうじゃねーのな。
歳だけ成人のガキ女が「中学生の言動で傷ついた!」 「私の辛さが理解されない!」って吠えてる話だったのな。
これ本当凄い性格してるんだよな。
親(でなくとも周囲の大人)は「この子を社会でやっていけるようになんとかしてやらなければ」 ということで頭を使うもんなのに
頭は悪い、了見も腐ってる、お前の美点はどこなんだ。
俺が菩薩でもお前のなにに対して糸たらしたらいいのかわかんねえ。
ちょっと対話が自分の思い通りにならなかった(ほぼ自分の知能のせいなのに)というだけで
途端に被害者ヅラの傷つき仕草を始めて夫や息子を「ウチの男」と呼ぶ癖に
自分は「人間扱いされる前に、まず女性として扱われてしまう。」とほざけるの本当にすごいだろ。
脳にトコジラミの巣でも出来てんのか?
この女はノー手加減でスペックを査定する限り成人として知的能力が「低」なので
人間として扱えと言われれば評点は最低、「ただの愚図」になるしかない。
夫はこの愚図人間が女でなかったらこいつと親しくしたのだろうか?
息子はこの愚図人間が母でなかったらこいつに敬意や愛着を持ったのだろうか?
夫や息子がこの知能の低い奴と付き合ってるのはこいつが女だからで
男だったら「話になんねえ」と一切相手されず息子は生まれてない。
「私の気持ちが受け止めてもらえなかった!」エピソードだったところで
当人は騙す気も釣る気もなかっただろうがだからこそ意表を突かれた。
女全員がひとからげの低能扱いされたりバカにされたりする謂れはないわけだが
この人物は控えめに言って誠に”女さん”だと思う。
山積した課題に向き合うことなく生きていられるのは運よく女性だったためだが
人間でも母でもなくオンナ。
ただただ女だったおかげで低能のまま生存出来て家族まで持てている。
能力が低すぎてオンナでなければとっくにくたばっていそうだが
これで「女性として扱われてしまう辛さ」とかほざけるのが女さんの真骨頂だ。
というかこういう、
周囲が厚意と配慮でオミソとして遇しているのに
オミソ扱いに不満を表明するちっちゃい子に似るている。
ちっちゃい子は成長してそのうちオミソを卒業するだろうが
こいつに卒業の日は来るのか怪しい。
広告媒体のターゲットが未成年の場合(例:高校生向け雑誌)には広告そのものが問題視される可能性。
広告やパッケージにおいて、未成年者の飲酒を助長するような表現は禁止。
次に自主規制
酒類の表示に関する公正競争規約(通称:酒類表示規約) 酒類業中央団体が定める自主ルール。
禁止事項例:
「酒を飲むと運転がうまくなる」といった内容。
②全国公正取引協議会連合会(全酒協)
自主規制の具体例
未成年の出演20歳未満の人物が酒類広告に登場することは禁止。
健康効能の暗示 「健康になる」「病気が治る」などの表現は禁止。
過度な飲酒描写 一気飲みや連続的に飲む描写は禁止されている。
対象メディアの選定未成年の視聴率が高い番組、媒体では原則掲載・放映不可。
以下に、一般的なビール会社が定めている社内規定の主な内容を紹介します。
CM・ポスター等に出演する人物は撮影時に20歳以上であることを証明する必要がある。
実年齢が20歳以上でも、未成年に見える人物の起用を避ける指針がある。
飲み干す、あおる、といった表現は避ける。
「爽やか」「すっきり」といった表現は容認されるが、慎重な判断が必要。
適正飲酒の推進
会社によっては、広告の最後に「お酒は適量を」などの注意喚起テロップを表示。
テレビ番組・雑誌・Web媒体のうち、「未成年層の視聴・閲覧比率」が一定以上のものには広告を出さない。
酒類プロモーションに際して、未成年がフォロワーの多数を占めるアカウントは使用不可。
略
万が一、広告が問題視された場合の**迅速な対応フロー(広報・撤回・謝罪など)を整備。
以下実際
https://www.suntory.co.jp/company/csr/soc_alcohol/
サントリーグループのサステナビリティアルコール関連問題への取り組み
https://www.rcaa.jp/standard/pdf/jishukijun.pdf
社会情勢に対応して、「飲酒に関する連絡協議会」が制定した酒類業界の自主基準、および社内自主基準を改定しています。2010年からはCMに妊産婦飲酒の注意表示を実施。また、テレビCMの土・日・祝日の自粛時間を5時00分~12時00分までから、5時00分~18時00分までに延長し、年間を通して5時00分~18時00分まで酒類のテレビ広告を自粛することとしました。
さらに、2014年に施行された「アルコール健康障害対策基本法」に基づき、不適切な飲酒の誘引防止のための自主的な取り組みとして、テレビ広告で使用するタレントの年齢を25歳以上に引き上げることや、テレビ広告の飲酒表現で、喉元を通る「ゴクゴク」の効果音を使わないことなどを実施しています。
以下キリン
https://www.kirinholdings.com/jp/impact/alcohol/policies/
酒類・ノンアルコール商品のマーケティングにあたっては、コミュニケーションが与える影響を認識し、責任あるマーケティングを実践します。また、潜在的な人権リスクへの配慮を行い、差別的な表現や法定飲酒可能年齢未満の方へ悪影響を与える恐れのあるコミュニケーションは行いません。事業展開する各国の法令を遵守するとともに、キリングループが加盟する“International Alliance for Responsible Drinking”が定めるDigital Guiding Principlesをはじめとしたグローバルスタンダードや、各国の業界自主基準を遵守します。また、キリングループが定める「責任ある飲酒に関するグローバルマーケティング指針」をはじめ、グループ各社で定める広告自主基準を遵守します。様々な法令・基準の遵守はもちろん、その背景にある道義的な精神に則った責任あるマーケティングを行います。
アサヒはサイト閲覧に年齢チェックをかけているのでググられビリティが低い模様
上記組織、International Alliance for Responsible Drinkingにはアサヒも加盟している
あれは、茹だるような夏の日の出来事でした。
気温はおそらく35度を優に超えていたと思います。
最悪なことに財布を忘れてしまったため、
一滴の水分も補給することができませんでした。
『このままでは本当に倒れてしまうかもしれない。』
命の危険を感じるほどのどが渇いていた私は、
恥も外聞も捨て水を恵んでもらおうと、
「どなたかね」
家の中からは、小柄な老婆が出てきました。
「お願いです・・どうか、一杯のお水を恵んでいただけないでしょうか。
財布を忘れてしまい、何も口にできず・・本当に倒れてしまいそうなんです」
すると、老婆はこう答えました。
「嫌だよ出ていきな」
最初、私は聞き間違いだと思いました。
こんなに困窮して、
死にそうなほど汗だくになっていて、
「嫌だよ出ていきな」なんてそんな返事できるわけない。
そんな無慈悲なふるまい、
文明をもった社会で、人間によって育てられたならできるわけがない。
私は意表を突かれて、ただ立ち尽くしていました。
「さっさと帰んな」
老婆はそう言って、玄関の扉をぴしゃりと閉めました。
私はしばらく呆然としていました。
・・しかし、どうすることもできない。諦めて帰るしかないか・・
そう思いかけた矢先ーーーーー
私の中で何かがぶちんと音を立てて切れました。
抑えきれない怒りがマグマのように噴き出した。
「このクソババアがぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
気がつくと、喉が張り裂けんばかりの大声で怒鳴っていました。
乾ききっていたはずの喉から、どうしてこんな声が出るのか自分でも不思議だった。
しょせん、この世は弱肉強食以外の何物でもなかった。
「強くなろう」そう心に誓ったあの日。
私が人生で一番怒った時の話。
諸君、私がAI小説なるものと初めて出くわしたのは、ある雨の降りしきる午後のことだった。私の叔父アガサス・ウィンプルトン・フォーブス(文学界では「老いぼれの鷹」として知られ、批評家たちからは「あの忌々しい老いぼれ」と呼ばれている)が私に一束の印刷物を押し付けてきたのだ。
「これを読んでみたまえ、若きバーティ」と彼は言った。声にはイモリを観察する博物学者のような好奇心が漂っていた。「人工知能とやらが書いた小説らしいのだ。まったく、世も末じゃよ」
その時の私の反応は、鮮やかな紫色のネクタイを締めた従兄弟を見た叔母アガサのそれに近かった。つまり、眉をへの字に曲げて「いったい何をお考えで?」という表情だ。しかし叔父の蔵書室から逃げ出す手段は見当たらなかったので、私は言われるがままに一ページめくった。
読み始めて五分と経たぬうちに、私は自分がなんともぎこちない人形劇を見せられているような気分に陥った。言葉は確かに英語(あるいは日本語)で書かれている。文法的にも正確だ。しかし全体を包む雰囲気には、カクテルパーティーで突然「1924年のS and P500の株価変動について議論しましょう」と切り出す男のような居心地の悪さがあった。
ところで読者諸君、ここで私が申し上げたいのは、このAI小説が「内容的に」退屈だったという話ではない。むしろ問題はその文体——いや、文体の欠如と言うべきか——にあったのだ。
ご存知の通り、私はかなりの文体マニアである。ジェーン・オースティンの流麗な皮肉、ヘミングウェイの素っ気ない簡潔さ、あるいはプルーストの果てしない内省——これらは私にとって、マティーニにオリーブを浮かべるように小説に不可欠な要素なのだ。
ところが、この機械の吐き出した文章には、そういった香りや風味が微塵も感じられなかった。それはあたかも、高級レストランでシェフの特製料理を期待していたら、無味無臭の栄養ドリンクが出てきたようなものだ。確かに栄養素は含まれているのだろうが、舌の上でダンスする喜びがどこにもない。
「バーティ、どう思うかね?」と叔父が訊ねた。彼の眉毛は期待に満ちて跳ね上がっていた。まるで噴火を待つ火山学者のように。
「ええと、叔父さん」と私は慎重に言葉を選んだ。「これは確かに文章ではありますが、作家の文章とは言えませんな。むしろ、言葉の集合体とでも申しましょうか」
「ほう、言葉の集合体か」叔父は眼鏡を鼻先でくいっと押し上げた。「面白い表現だ」
「つまりですね、これは料理というより食材の山なんです。シェフが腕を振るう前の状態というか」
この説明に納得したらしく、叔父は「なるほど、なるほど」と頷いた。
その日以来、私はある種の科学的好奇心から、AI小説と呼ばれるものを片っ端から読み漁ってきた。そして今や確信を持って言える——世の中のAI小説は、ジーヴスがいつも言うところの「文体的に不十分である(stylistically deficient, sir)」代物なのだ。
AI小説の世界は、なんとも奇妙なドローンズ・クラブのようだ。ご存じない方のために説明すると、ドローンズ・クラブとは私が所属する紳士クラブで、そこではメンバーが無意味な会話を交わしながら、しかし高度に洗練された作法に従って日々を過ごす。しかしAI小説の世界では、会話は論理的に筋が通っているのに、その洗練された作法——すなわち文体——が欠けている。
それはまるで、嵐の日に一生懸命走っているのに、どこにも行き着かない人々の集まりのようだ。走り方は効率的かもしれないが、そこに独自の身のこなしやリズム、あの「何とも言えない何か」が感じられない。
私が思うに、AI小説が「文体」に欠けるのは、それが「文体を持つこと」の意味を理解していないからだ。文体とは単なる装飾ではない。それは作家の魂の表れであり、世界の見方であり、独自の思考の流れなのだ。
例えば、我が友人ガッシー・フィンク=ノットルは、イモリについて話す時と恋人のマデリン・バセットについて話す時では、まったく別人のように語る。前者では博識で冷静な科学者となり、後者では「彼女の目は星のようだ」と言いながら部屋中を浮遊するのだ。これが「文体」というものだ——同じ人間が状況に応じて異なる言葉の使い方をする、その独自性である。
しかしAI小説においては、すべての場面が同じトーンで描かれる。恋の告白も殺人事件も料理のレシピも、同じ声色で淡々と進行する。それはちょうど、どんな曲でも同じリズムと同じメロディーで歌うカラオケ・マシンのようなものだ。確かに音程は正確かもしれないが、聴いていると魂が枯れていくような感覚に襲われる。
さて、今や普通の小説とAI小説を見分ける方法がある。それを「バーティの文体テスト」と名付けようではないか。方法は単純明快。任意の三ページを読んで、そこに以下のものが見つかるか確認するのだ:
1.意表を突く比喩表現(「彼女の声は、スコットランドの霧の中でバグパイプを吹く羊飼いのように切なかった」など)
2.言葉遊び(「いや、ドラゴンを退治する側が金貨を使うんだ。退治屋さんへの報酬としてね。現実とは、ファンタジーより遥かに資本主義的なものさ」など)
3. 文の長さとリズムの変化(長い文の後に鋭い短文を置くなど)
4.キャラクターごとに異なる話し方
これらが見つからなければ、それはおそらくAI小説か、もしくは残念ながら文体に無関心な人間の書いた小説だろう。
ここで、文体という蝶を見事に捕まえた名人たちを思い出してみよう。彼らは皆、言葉という網で独自の色彩と模様を持つ蝶を捕らえ、読者の目の前に差し出してきた。
ディケンズ氏は複雑な社会風刺と人物描写を、時にコミカルに、時に痛烈に描き出した。彼の文章は、ロンドンの霧のように濃密で、その中に浮かび上がる人物像は忘れがたい。
ジェイン・オースティン女史は、表面上は穏やかな社交界の描写の中に、鋭い観察眼と皮肉を忍ばせた。彼女の文体は高級紅茶のようなものだ——一見繊細だが、意外な風味と余韻がある。
そしてヘミングウェイ氏。彼の文体は素っ気なく簡潔だが、そこには深い情感が氷山の水面下に隠されている。彼の短文は、たった一発で的を射抜く名ハンターのようだ。
これらの作家たちは、同じ英語という素材を使いながら、まったく異なる芸術作品を生み出した。それはちょうど、同じ小麦粉と水から、イタリア人はパスタを、フランス人はクロワッサンを、日本人は饂飩を作るようなものだ。材料は同じでも、その扱い方——つまり文体——によって、まったく別の味わいが生まれる。
ところが、今日のAI小説は、どれもなんとなく似たような味がする。それはあたかも、世界中のレストランが突然、同じ調理法で同じ食材を使い始めたようなものだ。確かに栄養はあるかもしれないが、そこに文化の違いや個性の輝きはない。
ここで疑問が生じる。AIは本当に文体を習得できるのだろうか?
私の従者ジーヴスならば、「それは極めて難しい命題でございます、旦那様」と言うだろう。彼はいつも正しい。
文体というものは、単なる技術的な問題ではない。それは作家の人生経験、感情の起伏、時代背景、そして何より「誰であるか」という存在そのものから生まれるものだ。AIには「自己」がない。生きた経験もない。それはちょうど、泳いだことのない人に海の深さを説明するようなものだ。
しかし、それでもなお希望はある。AIは少なくとも模倣することはできる。優れた作家の文体を分析し、その特徴を取り入れることで、「ウッドハウス風」や「ヘミングウェイ風」の文章を生成することは不可能ではない。それはちょうど、ピアノを弾いたことのない人が、機械的な練習によって曲を再現できるようになるのに似ている。魂は込められていないかもしれないが、少なくとも耳障りではなくなる。
私が思うに、AI小説の真の問題は技術的な限界よりも、むしろそれを使う人々の文学的感性の欠如にある。今日のAI小説を作っている(あるいは指示を出している)人々は、どうやら「本を読んでいない」ようなのだ。
彼らは「面白いストーリー」を求めるあまり、「それをどう語るか」という文体の重要性を見落としている。それはまるで、素晴らしいワインがあるのに、紙コップで飲むようなものだ。内容は同じでも、その体験の質はまったく異なる。
私の友人ビンゴ・リトル(恋に落ちるスピードでギネス記録を持っている男だ)は、女性について「見た目より声の方が大事だ」と言った。これは文学にも当てはまる。物語の内容より、それを語る「声」——すなわち文体——の方が、読者の心に残るのだ。
では、この文体不在のAI文学に対して、我々はどのような処方箋を用意すべきだろうか。
まず第一に、AIを使う作家たち(あるいは「プロンプトを書く人々」と言うべきか)は、もっと古典を読むべきだ。文体の偉大なマスターたちの技を知らなければ、AIにそれを再現させることなどできはしない。それはちょうど、料理を知らない人が一流シェフにメニューを指示するようなものだ——「何か美味しいものを」と言うだけでは、凡庸な一皿しか出てこない。
第二に、AIの出力をそのまま「小説」として発表するのではなく、それを第一稿と考え、人間の手で文体を整えるべきだ。AIが提供する骨組みに、人間が肉付けし、血を通わせるのだ。それはちょうど、既製服を買って来て、自分の体に合わせて仕立て直すようなものだ。
第三に、もっとAIに文体についての指示を与えるべきだ。「面白い物語を書いて」と言うのではなく、「ウッドハウスのような軽妙洒脱な文体で、比喩を多用し、会話のテンポを重視した小説を書いて」と具体的に指示すべきなのだ。
そして最後に、我々読者も文体に対する感性を磨くべきだ。優れた文体を味わい、それが作品にもたらす効果を理解すれば、AIの生み出す平坦な文章に満足することはなくなるだろう。それはちょうど、本物のエスプレッソを知ってしまえば、インスタントコーヒーには戻れなくなるようなものだ。
さて、このエッセイもそろそろ終わりに近づいてきた。クラブで最後のドリンクを注文する時間だ。
私がこのエッセイで主張したかったのは、AI小説に「魂」を吹き込むには文体が不可欠だということだ。内容が面白くても、それを伝える声が魅力的でなければ、読者の心に残ることはない。それはちょうど、美しいメロディーも、下手な歌手が歌えば台無しになるようなものだ。
文体とは作家の指紋であり、声紋であり、そして最も個人的な表現である。AIがそれを完全に再現することは、おそらく不可能だろう。しかし少なくとも、今よりずっと文体を意識した文章を生み出すことは可能なはずだ。
ちなみに私の従者ジーヴスによれば、「文体を気にしない作家は、メロディーを気にしない作曲家のようなものです、旦那様」とのこと。彼の言うことは、いつも正しい。
そして最後に、私の叔父アガサスがよく言っていた言葉を紹介しよう——「バーティよ、作家の才能は物語を作る能力にあらず、その物語をどう語るかにある」。彼は学者として多くの愚かなことを言ってきたが、この言葉だけは真理を突いている。
読者の皆様、乾杯しよう。文体という名の、この最高に複雑で、最高に美しいカクテルに。そしてAI文学がいつの日か、この味わい深いカクテルを提供できる日が来ることを願って。
Whatho!
(P.S. なお、このエッセイに登場する叔父アガサス、ビンゴ、ガッシー、そしてジーヴスはすべて架空の人物です。彼らが実在の人物と似ていたとしても、それは単なる偶然にすぎません。もっとも、私バーティ・ウースターは確かに実在しますが…いや、それも冗談です。さようなら!)
任天堂が誇るハイブリッドゲーム機「Nintendo Switch」は、2017年の発売以来、世界中のゲーマーから熱烈な支持を集めてきました。その人気の理由は多々ありますが、最大の魅力として挙げられるのは、テレビにつないで大画面でプレイすることも、携帯機として外に持ち出して遊ぶこともできる「ハイブリッドコンセプト」です。任天堂のゲーム機といえば、これまでも携帯機の「ゲームボーイ」シリーズや据え置き機の「ファミリーコンピュータ」「スーパーファミコン」「Wii」など、数多くの革新的ハードウェアを世に送り出してきた歴史があります。その中でも、携帯機と据え置き機の境界を取り払ったNintendo Switchは、ゲームの遊び方に大きな変革をもたらしました。そして今、多くのファンが心待ちにしているのは、その次世代機とも言える「Nintendo Switch 2(仮称)」です。
噂段階では「Switch Pro」「次世代Switch」「Switch 2」などの呼称が飛び交い、正式発表はいまだ行われていません。それでも、ゲームファンの間では次なる進化形への期待がとても大きくなっています。では、実際に「Nintendo Switch 2」に対して、どのような期待を抱いているのか、私自身の視点でいくつかのポイントを挙げながら考えてみたいと思います。
まず第一に、ハードウェア性能の向上です。Nintendo Switchは発売当初こそ「据え置きとしても携帯機としても十分な性能を両立している」と高く評価されましたが、近年は競合他社のハード(PlayStation 5やXbox Series X|S)の登場や、PCゲームのグラフィック表現の進化により、Nintendo Switchにおける処理性能やグラフィック面での限界が浮き彫りになりつつあります。もちろん、「任天堂らしさ」を最大限に活かすタイトルにおいてはフォトリアルを追求しすぎる必要はなく、むしろ独自のアートスタイルやゲーム性が際立つ作品も多いです。しかし一方で、大手サードパーティのマルチプラットフォームタイトルを十分に快適なクオリティで動作させるには、現行のSwitchのスペックでは不足を感じる場面も少なくありません。そこで期待されるのが、次世代機ならではのCPU・GPU性能の大幅な強化です。
実際に、Switch 2がNVIDIA製の最新チップを搭載し、4K出力やレイトレーシングといった先進的なグラフィック機能に対応するのではないか、という噂もあります。もしそれが実現すれば、これまで移植が難しかった大型タイトルや、より高いフレームレートを求める作品も、スムーズに遊べるようになるでしょう。さらに、性能アップが期待されることで、任天堂独自のゲーム体験に加え、サードパーティ各社のAAA級タイトルもより豊富に展開できる可能性が高まります。次世代のゼルダやマリオといったファーストパーティ作品のクオリティアップはもちろん、海外の人気シリーズが同時発売で遊べるようになれば、Switch 2は携帯できるハイスペック機として、これまで以上の存在感を放つはずです。
第二に、携帯機能のさらなる洗練です。Nintendo Switchの強みである「いつでもどこでも遊べる」体験は、そのまま継承されると考えていますが、さらに快適性や携帯性が向上すればなお嬉しいところです。例えば、ディスプレイのサイズをもう少し大きくして解像度を上げる、あるいはディスプレイのベゼル(枠)を狭くして本体サイズを抑えつつ画面領域を拡大するなど、最近のスマートフォンのトレンドに近い形で進化していくと予想できます。また、バッテリー寿命の延長も大きなポイントでしょう。Nintendo Switchは初期型から比べれば改良型や有機ELモデルなどでバッテリー持続時間は改善されているものの、ハイスペック化に伴う消費電力の増加も予想されるため、そこをどのように工夫するかはとても気になります。
加えて、携帯モードとテレビモードの切り替えが今よりスムーズかつ快適になることを期待しています。Switchならではのドックの仕組みは非常に便利で、テレビに接続して遊びたい時はドックに差し込むだけ、携帯モードに切り替えたい時はサッと本体を取り外すだけで画面遷移がスムーズに行われるのが魅力です。もし次世代機で4K対応や性能が向上したとしても、その簡便性は失ってほしくありませんし、むしろ即座にクイックレジュームできたり、もっと短時間でスタンバイから復帰できたりすると、より魅力が増すのではないでしょうか。たとえば、ゲームによってはテレビモードと携帯モードで別々に最適化された解像度やフレームレートを設定できる仕組みがあると、遊びのスタイルに合わせた柔軟なプレイが実現しそうです。
第三に、Joy-Conやコントローラーの改良です。Nintendo Switchは本体左右に着脱できるJoy-Conコントローラーが大きな特徴ですが、発売当初からスティックの故障(いわゆるドリフト問題)やボタンの耐久性などが指摘されてきました。もちろん、ユーザーの使用環境によって状態は大きく異なるものの、Switchユーザーの中には「予備のJoy-Conを買うハメになった」という方も少なくないでしょう。従来の対処方法としては、任天堂が無償修理を行うケースもありますが、根本的な構造の改良が求められているのは確かです。
次世代Switchでは、耐久性や操作性を高めるための改善が期待されます。アナログスティックの構造を変えてドリフトを起こりにくくする、ボタンの押し心地や押しやすさを見直すなど、長期間使用しても快適に遊べるコントローラーが求められるでしょう。また、Nintendo SwitchLiteのように一体型となった本体形状のオプションも用意されるのかどうかも気になるポイントです。さらに、ハプティックフィードバック(振動の進化)や、モーションセンサーの精度向上、HD振動のさらなるブラッシュアップなど、コントローラーが生み出す独特の臨場感が次のステップに進めるかもしれません。
第四に、オンラインサービスやソフト面での充実も忘れてはならない要素です。任天堂は「Nintendo Switch Online」という有料オンラインサービスを展開し、ファミリーコンピュータやスーパーファミコン、NINTENDO64やゲームボーイアドバンスなどの往年の名作タイトルを定額でプレイできるサービスを提供してきました。こうしたレトロタイトルの配信は、過去の名作を改めて楽しむだけでなく、若い世代へクラシック作品を伝える重要な役割を担っています。しかし、現行のサービスではオンライン周りの使い勝手や通信品質に関して、まだまだ改善の余地があるという声もあります。次世代機では、より高速かつ安定したオンライン体験や、クラウドセーブの充実化、フレンドとの交流機能の拡張などが期待できるでしょう。
そしてもう一つ、大きな期待要素として「後方互換性」が挙げられます。Nintendo Switchに対して、任天堂独自の高い互換性や、ソフトの資産をいかに継承するかは非常に重要なテーマです。特にSwitchは膨大な数のダウンロード専用ソフトやインディータイトルが充実しており、「ダウンロード専用ソフトを次世代機でも続けて遊びたい」というユーザーは多いはずです。もしSwitch 2(仮)で後方互換性がしっかり確保されれば、ユーザーは現行Switchのゲームライブラリーを無駄にすることなくスムーズに移行できますし、開発側もSwitch 2向けの新作に注力しやすくなります。これまでに培ってきたハード・ソフト一体の発想を大切にしてきた任天堂であれば、きっとユーザーの声を無視することはないと信じたいところです。
また、発売時期にも注目が集まっています。Nintendo Switch自体は2023年の段階で発売から6年以上が経過しており、任天堂ハードとしては比較的長寿命の部類に入ってきました。一方、Switch本体の累計販売台数は1億台を超えており、まだまだ世界的に需要がある状況です。そんな中で任天堂が次世代ハードをいつリリースするのか、戦略的なタイミングも含めてファンは気になるところです。早ければ2024年、あるいは2025年頃といった噂もあり、「もう少し先ではないか」「既に開発キットが配布されているらしい」など、真偽不明な情報が行き交っています。いずれにせよ、Switch 2の存在が公式に発表される日が来れば、ゲーム界隈は一気に盛り上がることは間違いないでしょう。
ここまでハードウェア面やオンラインサービス、発売時期などに対する期待を語ってきましたが、やはり最終的に重要なのはゲームソフトの魅力です。任天堂の看板タイトルである「スーパーマリオ」シリーズ、「ゼルダの伝説」シリーズ、「ポケットモンスター」シリーズに加え、「スプラトゥーン」や「カービィ」「どうぶつの森」など、多彩なファーストパーティIPをどう進化させるか。あるいはサードパーティタイトルとの連携をどの程度深めるかが、次世代ハードの成否を左右すると言っても過言ではありません。たとえば「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」や「ゼルダの伝説ティアーズ オブ ザキングダム」のように、広大なオープンワールドと斬新なゲームメカニクスを合わせて新たな遊びを提案する作品が誕生すれば、次世代機の魅力をアピールする最高の機会となるでしょう。
さらに、近年のゲーム業界ではクラウドゲーミングやサブスクリプションサービスの流れも加速しています。任天堂はこれまでクラウド技術に対して積極的というイメージは薄かったものの、特定タイトルでクラウド版を配信するなど徐々に取り組みを始めています。もしかすると、次世代機ではさらにクラウドの活用が広がり、ユーザーがゲームデータを端末に保存しなくても高品質のタイトルを楽しめる世界が訪れるかもしれません。ただし、現状ではインターネット環境や通信の安定性によってプレイ感覚が大きく左右されるため、どのようにユーザー体験を向上させるのかが課題です。その点では、任天堂らしく「持ち歩けるゲーム機」だからこそ、ローカルにデータを持っておきたいという意見もあるでしょうし、一気にクラウドへ移行するというシナリオは考えにくいのではないかとも思えます。
もう一点、個人的に熱望しているのは、Nintendo Switch Onlineにおけるバーチャルコンソール的なサービスの強化です。現状でも、ファミリーコンピュータやスーパーファミコン、NINTENDO64、ゲームボーイアドバンスなどのタイトルが一定数遊べるようになっていますが、配信数やラインナップにはまだ偏りがあり、地域によっては遊べるタイトルが限られているケースもあります。例えばゲームキューブやWiiの名作をもっと気軽に遊べるようにしてくれたら、昔のゲームをもう一度体験したいというファンや、これから初めて触れる若い世代にとっても嬉しいはず。Switch 2では、これら過去のハードのライブラリーをより充実させ、オンラインでのマルチプレイ対応など新しい要素を付加することで、多世代のゲーマーが一堂に会して楽しめるような環境を整えてくれると期待しています。
総合的に見て、Nintendo Switch 2(仮称)に求められるのは、「任天堂らしい革新的な遊び方の提案」と「より高いハード性能や快適な操作性」の両立ではないでしょうか。現在のSwitchで得られた成功体験をそのまま引き継ぎつつ、ユーザーの声を取り入れて細やかな不満を解消し、さらに新たなゲーム体験をもたらす――それこそが次世代に求められる任天堂の強みだと思います。ハードのシェアを牽引するためには、性能や価格だけでなく、そこに独自の魅力が備わっていなければなりません。Joy-Conがもたらしたおすそ分けプレイやHD振動などの仕組みが、その一例と言えます。過去の名ハード「Wii」で採用されたリモコン型コントローラーや「ニンテンドーDS」のタッチスクリーンなど、任天堂は常に「人間のゲーム体験を豊かにする新しいアイデア」を大切にしてきた歴史があります。次世代Switchでも、何かしらの意表を突くギミックが用意されているかもしれません。
そうしたギミックの存在はまだベールに包まれていますが、多くのゲーマーが「どうぶつの森」や「スプラトゥーン」の次回作を携帯でも大画面でも高画質で遊べるかもしれない、と期待に胸を膨らませているのは間違いありません。噂が絶えないだけに、ファンとしては早く正式発表を聞きたいところですが、任天堂はサプライズ発表を好む企業でもあり、E3などの大きなイベントや独自のNintendo Directで突然「Nintendo Switch 2」の詳細を明かす可能性も否定できません。もし、その時が訪れたらゲームファンの間で爆発的な話題となるのは確実でしょう。
さらに、Switch 2の登場が持つ意味は、任天堂自身がユーザーに提示する「これからのゲーム体験への道しるべ」としても非常に重要です。VRやAR、クラウドゲーミングなど、ゲームの遊び方は今後も多様化していくことが予想されます。そんな中、任天堂が「持ち運べて、テレビでも遊べて、かつ新しい遊びを提案する」ハードをどうブラッシュアップしていくのかは、業界の大きな関心事でもあります。特にコロナ禍以降、家庭内でのエンターテインメント需要が増えたことを踏まえると、Switchのような「家でも外でも遊べる」コンセプトは非常に強力なアドバンテージを持っていると言えるでしょう。
私は、次世代機が発売された後も現行のNintendo Switchがすぐに廃れることはないだろうと考えています。1億台以上の普及台数を誇るSwitchには膨大なユーザーがいて、ソフト開発メーカーもなお活発にタイトルをリリースしています。一方で、次世代機が登場したとしても、最初の1〜2年間は並行してソフトが発売されるケースが多いはずです。後方互換性が確保されれば、ユーザーは移行期間をよりスムーズに過ごすことができるでしょう。また、SwitchとSwitch 2のラインナップをどう差別化していくかも、任天堂の腕の見せ所です。過去には「Wii U」と「3DS」が並行して存在していた時代もありましたが、Switch 2が登場したときにどのようなポジション取りが行われるのか、非常に興味深いところです。
結局のところ、Nintendo Switch 2(仮称)は「Switchのどこをどれだけ進化させ、どんな新しい遊びをプラスアルファするのか」が最大の注目点です。グラフィック面や処理能力が強化されるだけでも、従来のSwitchユーザーには大きな恩恵があるでしょうし、Joy-Conのドリフト問題などが解消されればユーザー体験は大幅に向上します。しかし、それだけでは「任天堂らしい驚き」というスパイスが足りないとも言えます。たとえば、コントローラーが拡張現実(AR)技術に対応し、机の上にキャラクターが出現して遊べる機能が加わるとか、ジャイロ操作がさらに精密になって新感覚のスポーツゲームが登場するとか、そんな発想があっても不思議ではありません。過去には「Nintendo Labo」のように、ダンボールで工作して体験する拡張キットも提案してきた任天堂ですから、新たなインタラクションの可能性はまだまだ広がっていると感じます。
最後に、私は次世代Switchであっても、ゲームそのものの「楽しさ」という根幹が最も大切だと思っています。高性能なハードウェアを備えていようと、画期的なデバイスがあろうと、ゲームの中身が面白くなければ意味がありません。その点、任天堂は長年にわたって「楽しさの創造」を追求してきた企業です。マリオやゼルダなどの定番シリーズですら常に新しい挑戦を続け、ゲームとしての驚きや喜びを生み出してきました。もしSwitch 2が登場するとなれば、そのハードで遊べる新作
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上記シリーズが好きなので、コロコロ大好きっ子の自分も書いてみた。
コロコロは小学生をターゲットとしているため、「自分が子供の時に読んだ時代の作品が一番で、それ以外の作品はそもそもほとんどor全く知らない」となりがちと思われる。そのために「なぜこの作品が入っていないんだ!」という感想を抱かれやすい可能性はあるかもしれない。なるべく公平に選んだつもりだが、あくまで独断と偏見による10選であることをお断りしておく。
いきなりの番外扱いで申し訳ないが、コロコロコミック自体が『ドラえもん』の総集編本として創刊された歴史があり、以降現在に至るまでコロコロコミックにとって『ドラえもん』はいつの時代も特別な存在である。他の雑誌にこのようなスペシャルofスペシャルな作品が存在している例ってあるのだろうか? その存在感と功績は他と比肩できるものではなく、殿堂入りという形で別枠とさせていただく。
ちなみにコロコロコミックに掲載された『ドラえもん』は基本的に「小学一(~六)年生」といった学年誌などで発表された作品の“再録”で、藤子Fの生前コロコロ向けに新作が描かれたのは実は数話のみである。(『大長編ドラえもん』についてはコロコロコミック描き下ろし)
コロコロコミック史だけでなく、マンガ史に燦然と輝く画期的な「ビデオゲーム」漫画の始祖。
単に「ビデオゲーム」を題材とした作品というだけでなく、その後コロコロコミックは「ラジコン(RCカー)」や「ファミコン」「ミニ四駆」といった子供向けホビーを題材としたヒット作品を多数生み出すが、その礎を作った記念碑的作品である。企画はコロコロ編集部発案によるものだが、この題材をすがやに描かせた慧眼も光る。
「つるセコ」などの名台詞を生み出し、アニメ化もされたのむらしんぼ最大のヒット作。元よりギャグ作品の多かったコロコロの中でも当時際立ったヒット作となったが、この作品の画期的なポイントとして「4コマ漫画」という点も見逃せない。当時でも4コマ漫画は“古典的”な形式と見られており、当時では新聞はじめ大人向けマンガ以外で見かけることは意外と少なかったが、児童誌にこのフォーマットを定着させた功績は大きい。
後に『ゴーマニズム宣言』などの大人向け作品で名を馳せる小林よしのりだが、言うまでもなく元はギャグ漫画家である。常識外れに大金持ちのおぼっちゃまが主人公で、ち○こやウ○コなど下ネタも多く小学生男子のハートをガッシリと掴む。「ともだちんこ」「こんにチワワ」などの茶魔語も子どもたちの間でブームとなり、平成初頭のコロコロコミックを牽引する大ヒット作品となった。
ホビー漫画に力を入れるコロコロは田宮模型(タミヤ)とのつながりは深く、同社とのタイアップによるメディアミックス戦略は『ラジコンボーイ』(大林かおる/1983~1989年)を嚆矢とするが、その戦略が大きく花開いたと言えるのがこの作品。田宮模型の「ミニ四駆」も、そしてこの作品もお互いの相乗効果で大ヒットを果たした。当時のミニ四駆ブームを牽引。
熱血主人公の多いコロコロコミックだが、シンプルにスポーツを題材とする漫画は意外と少ない。
その中で、スポーツ漫画といえば「野球」「サッカー」が多くを占めていた時代に、小学生には非常に馴染み深い「ドッジボール」をテーマにした新規性は、意表を突かれながらも「なるほど!」と唸らせられる。アニメ化のほか、ファミコン・スーファミ・ゲームボーイ・PCエンジン・メガドラ・ゲームギアと、当時発売されていたありとあらゆるゲーム機でゲーム化もされている(すげえ)。
コロコロコミックにゲームのコミカライズ作品は非常に多い。ヒット作も数多いが、その中でコロコロを代表する作品をどれか一作を選べと言われたら、これしか無いだろう。
任天堂の人気キャラ・スーパーマリオを題材とした沢田ユキオの超ロングランギャグ作品。連載開始は1990年で、なんと現在も連載中である。昭和末期~平成以降に生まれた子どもなら、きっと誰もが一度は読んだことや目にしたことがあるであろう。
コロコロの歴史を語るうえで、80年代から活躍し『江戸っ子ボーイ がってん太助』『学級王ヤマザキ』などアニメ化されたヒット作も数多い樫本学ヴ作品を外すわけにはいくまいが、その中から『コロッケ!』をセレクト。一話完結ギャグやタイアップ作品の多いコロコロコミックとしては珍しい、連続冒険ストーリー漫画である。2年にわたるアニメ化、そして樫本学ヴはこの作品で小学館漫画賞児童部門を受賞した。
21世紀のコロコロコミックの『顔』である。じーさんと孫が織りなす子供向け不条理ギャグの大ヒット作品。表題作は2010年で連載終了しているが、続けざまに『でんぢゃらすじーさん邪』『なんと!でんぢゃらすじーさん』と20年以上に渡り、コロコロの看板作品として現在も続編が描き続けられている。
強烈で個性的な文房具のキャラクターが繰り広げるギャグ作品。2004年連載開始、現在も続く超絶ロングラン作品である。でんぢゃらすじーさんと並び、長らくコロコロの2大ギャグマンガとして君臨。一話が短めでサクッと読める。SNSを見ると、コロコロコミックは卒業しても、このマンガだけは読み続けているという声もちらほら見られる。
どんなものでも盗み出す怪盗ジョーカーを主人公としたたかはしひでやすのヒット作。魅力的なキャラクターたち、一部では強引とも評される(?)トリックも含め子どもたちの大きな支持を得た。
別冊コロコロに連載開始され、その後月刊コロコロに移籍。根強い人気でアニメもシーズン4まで続く。別コロ時代を含めると10年以上という長期連載で、連載開始時に小学校高学年だった子どもは連載終了時にはもう大人だが、最終話は見届けられたのだろうかと気になる。
一作家一作品縛りのため選外としたものも含め、次点作品を挙げておく。他の方の意見も聞いてみたい。
・とどろけ!一番(のむらしんぼ)1980-1983
・がんばれ!キッカーズ(ながいのりあき)1984-1989
・かっとばせ!キヨハラくん(河合じゅんじ)1987-1994
・爆走兄弟レッツ&ゴー!!(こしたてつひろ)1994-1999
・爆球連発!!スーパービーダマン(今賀俊)1995-2001
・うちゅう人田中太郎(ながとしやすなり) 1998-2004
・ドラベースドラえもん超野球外伝(むぎわらしんたろう)2000-2011
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三ツ葉市のゆるキャラに葉渡賢治が選ばれた。
葉渡賢治が12,375票で1位、みつはきゅんが265票で2位、みっちゃんが76票で3位だった。みつはきゅんが三ツ葉市のゆるキャラに最もふさわしいと思ったので、葉渡賢治はみつはきゅんに投票したが、選ばれたのは圧倒的に葉渡賢治であった。そんな馬鹿なと思った。だいたい葉渡賢治は三ツ葉市のゆるキャラに立候補していない。しかし、それを言うならみつはきゅんもみっちゃんも、第4位の葉っぴぃも自らの意思で立候補したわけではないから、異議を申し立てる根拠としては不足しているだろう。第2位のみつはきゅんは緑色がイメージカラーのアニメのヒロインのようなキュートなキャラクターであった。第3位のみっちゃんは二頭身にデフォルメされた中性的なキャラクターで頭部に三箇所結った髪が三枚の葉っぱのように見える。第4位の葉っぴぃはギザギザの葉っぱが特徴の植物が地雷系ファッションに身を包むキャラクターであった。葉渡賢治は葉渡賢治だった。葉渡賢治38歳。三ツ葉市立三ツ葉第一小学校、三ツ葉市立第一中学校を卒業、三ツ葉市立三ツ葉高校入学・卒業、三ツ葉市立三ツ葉経済大学入学、大学卒業後は三ツ葉市の老舗和菓子屋・三ツ葉堂に就職、3年前に看板商品である三ツ葉大福製造ラインの責任者に就任、で今に至り、三ツ葉市のゆるキャラに就任。
市の命令で、葉渡賢治は市役所から徒歩10分の場所にある8畳1Kのアパートに引っ越しをすることとなった。他の自治体では大抵のゆるキャラは市役所の倉庫に押し込められているので、専用のアパートを与えられることはゆるキャラにとって異例の待遇である、と市の観光課の人間は言った。これまでは6畳1Kの部屋で生活をしていたので、わずかにグレードアップしたことになる。普通ゆるキャラはクルマを運転しないだろうし、ゆるキャラが交通事故で人を轢き殺すなどすればそれは前代未聞の事案で、どのように対処すればいいのか誰にもわからないので、リスク管理のためにクルマは売却が推奨され、それに従った。引っ越しとクルマの売却に伴って勤務先である三ツ葉堂への出勤が困難になったため、退職した。
就任式には何を着て行けばいいのかわからず、葉渡賢治はスーツで行った。市役所の3階。「それでは三ツ葉市の新キャラクター、葉渡賢治38歳さんです、拍手でお出迎えください」と女性の司会役が言い、俺が入室する手筈になっていた。葉渡賢治のゆるキャラとしての名前は、本名の他「38歳」まで含まれているのだと葉渡賢治はこの時に知った。つまり「葉渡賢治38歳」がキャラ名である。来年とかどうするんだろう、と思った。葉渡賢治は拍手で出迎えられ、ゆるキャラとしての葉渡賢治の姿がみなさんにお披露目された。ゆるキャラとしての葉渡賢治の姿というのは、この場合、スーツ姿の葉渡賢治のことである。昨日は髪を切り、家を出る前に入念に髭を剃り、ヘアオイルを付けて髪を乾かし、化粧水を顔に塗りたくるくらいのことはしたが、葉渡賢治が葉渡賢治であることには変わりなかった。
思ったよりも厚みのある会場の拍手の音で薄々気付いてはいたが、おびただしいカメラのフラッシュに意表を突かれた。葉渡賢治を見に来ている人がたくさんいた。マスコミとかだろうか。フラッシュの眩しさにしかめっ面になりそうになったが、そうだ、俺は三ツ葉市のゆるキャラなんだと思い出し、できるだけゆるキャラとしてふさわしい振る舞いをしようと心掛けた。少なくともゆるキャラはしかめっ面はしないだろう。そんなゆるキャラを葉渡賢治は見たことがなかった。三ツ葉市のゆるキャラに葉渡賢治が選ばれてからというもの、葉渡賢治はゆるキャラの勉強に余念がなく、大抵のゆるキャラの顔面にはうまく言語化できない愛嬌があることを発見していた。だから、葉渡賢治は笑顔とも微笑みとも無表情とも言えない、強いて言えば、いつも行っているラーメン屋でいつも通りの醤油ラーメンAセットをオーダーする時の表情(よく観察するとわかるが、殆どのゆるキャラはこの表情をしている)をして、大量のフラッシュをやり過ごした。
会場は大きな多目的室のような場所で、皆の衆目が集まる正面に、緑色背景に白抜きで三ツ葉市と書かれた市松模様の大きなボードが聳え立ち、その上に「三ツ葉市ゆるキャラ就任式」と書かれた横断幕が設えられている。簡素な作りではあったが、今日の葉渡賢治のために用意してくれたかと思うと率直に感謝の念が溢れた。市長は既に市松模様の大きなボードの前面にいて、登場した葉渡賢治に手を差し伸べ、我々は握手をした。市長の手は大きくて温かく、焼き立てのパンのようだった。フラッシュが一層大きく焚かれる。醤油ラーメンAセット、醤油ラーメンAセットと葉渡賢治は念じて、パンのことはひとまず忘れた。マイクを持った市長が司会に促されて喋り始めた。
「えー、葉渡賢治38歳さん、今日からあなたは我が三ツ葉市をより一層盛り上げる存在として、大いに期待していますし、市一丸となってその活躍を後押しをしていきたいと考えています。よろしくお願いしますね。さて、三ツ葉市を躍進していく政策としては三枚の葉っぱがあります。昨日考えました。一枚目は教育。日本に誇る三ツ葉市立三ツ葉経済大学。ね。これがその大きな役割を担い、地域経済をますます活性化して行くでしょう。すごいですね。二枚目は産業。三ツ葉堂の三ツ葉大福がブランチで何回取り上げられたか知ってます? それはもうね、何回も取り上げられてるんですか? 三ツ葉市ってのは交通の要所ですから、お土産もたくさん売れるってもんですよ。ね。そして三枚目。それがこのゆるキャラですよ。これから、はま……、は……、はわ……、はわたり、けんたろう、だっけ? そうそう、あはは、ねぇ? ってーかビシッとスーツで決めちゃって、ゆるキャラなんだからゆるい格好でよかったのに。パーカーとか。あ、でもゆるキャラはパーカー着ないか。ね。誕生日いつ? いま何歳? あーね。そうそう、歳とったら名前の歳も一歳増やして、葉渡賢治39歳になるから。直木三十五みたいで格好いいだろ? あ、どうせなら漢数字にする?」
市長の演説が終わると、委嘱状が授与された。市長から確かに委嘱状を受け取った。酔っ払っているのかなと思ったが、その挙動は素面のそれで、特に酔っ払っているわけではなさそうだった。額縁に入っていて重みがあった。正面にそれを掲げるとたくさんのフラッシュが焚かれた。やがてマイクが手渡され、司会者が「葉渡賢治38歳さん、意気込みをお願いします」と言い、葉渡賢治が喋る番になった。何を言うべきか迷ったが、「大好きな三ツ葉市を盛り上げて行きたいと思いますので、よろしくお願いします」と言って礼をしたところ、隣の市長が「君、ゆるキャラってのは喋らないんだ。喋ってるゆるキャラを見たことがあるかい?」と耳打ちし、うっかりしていたと思った。「何かそれっぽいポーズでもしておきなさい」と市長は続け、俺はとっさに左手を自らの腰に当て、右腕を天に掲げたそれっぽいポーズをした。会場からは笑い声が漏れた。俺のゆるキャラとしてのコミカルさが会場の笑いを唆したのであれば、ゆるキャラとしての初めての仕事としては上出来だろうと思われた。やがて葉渡賢治は音楽に合わせて「みんみんみんなの三ツ葉ダンス」を踊った。ワルツだった。式典の最後で披露するから覚えてきてくれと言われていたやつで、おそらくこれも上出来だった。キャラソンで三拍子の音楽はあまりないように思われ、攻めてるな、と思った。左手を自らの腰に当て、右腕を天に掲げたポーズでダンスを終えた時、会場に迎えられた時と同じくらいの拍手の音が鳴った。
俺はこれからゆるキャラとしての自覚を持った暮らしをしていくことになる、と葉渡賢治は思った。給与は前職のものが引き継がれ、家賃は半額の補助が出る点も同様だったから、ひとまずは生活には困らないことになっていたのは幸運であった。おそらくゆるキャラはコンビニ弁当を買って食べないから、しっかりと自炊をすべきだろう。三ツ葉市を後押しするキャラなわけだから、肉よりも野菜多めの生活がいい。ゆるキャラにサプリメントを摂取するイメージはないが、活動を下支えする健康のためには取り入れるべきかもしれない。アルコールはこの際やめるべきだ。タバコはそもそも吸っていないが、タバコの原材料は葉っぱなわけで、敢えて喫煙を始めたほうがいいだろうか。いや、さすがにそれは考えすぎだ。タバコをスパスパ吸っているゆるキャラがどこにいる。夜は早めに寝て、朝は早めに起きたほうがいい。過度な筋トレはゆるキャラとしての外見を毀損するから、きっと避けた方がいいだろう。どちらかと言うと、ご飯をもりもり食べて丸々と太った方が愛嬌が出るだろうな。
初めての仕事は就任式から4日後の葉渡マラソン大会であった。パーカーを着て行った。一ノ葉町、二ノ葉市、三ツ葉市、四ツ葉町を合わせて葉渡地区と言い、一ノ葉町のいちかてゃ、二ノ葉市のにのの、三ツ葉市の葉渡賢治38歳、四ツ葉町のよもぎんが会場に来ていた。よもぎんを見るのは久しぶりだった。実は俺は小学生の頃、隣町である四ツ葉町のお祭りに行った際にたまたま会場に来ていたよもぎんを友人と共にふざけてボコボコにしたことがある。よもぎんはよもぎ団子を模した緑の丸いキャラクターで、そのふくよかな見た目は子供たちをして、体当たりをしてくれ、サンドバックにしてくれと言わんばかりのように思えた。よもぎんは複数の子供たちにもみくちゃにされながれも笑顔を保っていて、それが更に子供たちの加虐心を駆り立てた。子供のやることだったし、よもぎんは丸くて厚い「側」に覆われていたように思われたので、死活問題になるようなダメージはなかっただろうが、いま思えばむごたらしい仕打ちをしたものだと思える。
葉渡マラソン大会の会場にはキッチンカーなどが集まり、老若男女大勢の人で賑わいを見せた。マラソン大会という名のお祭りであり、我々ゆるキャラは集客のための賑やかしだろう。俺はランナーに手を振ったり、子供たちと触れ合ったりしながら、かつてのよもぎんのように四方八方からボコボコにされやしないか懸念していたが、杞憂であった。かねてより思っていたことであるが、最近の若い人は礼儀正しくて、思いやりがあり、優しい。「本当にリアル葉渡賢治だー」などと子供たちは言い、俺は求められるままに子供たちと握手をしたりした。
ひとしきりの子供たちが離散すると、大きな丸い物体が視界に入った。俺の記憶にある若々しい新緑のよもぎ色ではなく、数年に渡って浴び続けた太陽光線で色褪せ、汚れや黒ずみが目立つ、言われれば確かによもぎ餅かもしれない、という物体であった。側面にはわずかにへこみがあり、これはあの時に俺が蹴りを入れたへこみだろうか。よもぎんは俺の眼前に佇み、俺を見つめていた、気がした。実際のところは俺を見つめていたかどうかわからない。たいていのゆるキャラにはどこを見ているのかよくわからないようなところがある。何か言いたげなようにも思えたが、やはり実際に何か言いたいかどうかはわからなかったし、そもそもゆるキャラは喋るべきではなかった。やがてよもぎんは去っていった。俺の目は確かによもぎんの背を見つめていたが、何を思えばいいのかまではわからなかった。
葉渡賢治39歳は全日本ゆるキャラグランプリで審査員特別賞を受賞し、その名を全国に知られることとなった。同年、地上波テレビに初出演。つぶあん同盟という深夜番組で、芸人さんが1〜2分程度のネタをする番組だった。葉渡賢治には人を笑わせるようなネタがあったわけではないが、「おまかせで」というオファーを頂いていたので、三ツ葉市のPRをし、フル尺でオンエアされた。SNSや動画サイトでも切り抜かれて大いに拡散し、コアなお笑いファンを中心に話題になった。三ツ葉市は葉渡賢治のテレビへの出演オファーは全て受け入れ、それとは別にインターネット動画配信も精力的に行い、着実に人気を獲得していった。葉渡賢治39歳のグッズが制作され、三ツ葉駅で販売された。特にアクリルスタンドは好調な売れ行きのようで、葉渡賢治39歳を前面に押し出したパッケージデザインに刷新した三ツ葉堂の三ツ葉大福は前年に比べて売上が約25%向上したとのことである。
葉渡賢治40歳は全国を飛び回る多忙な日々を過ごした。市のPRのみならず、県や地方の宣伝にも駆り出された。グッズは39歳のものから40歳のものへ刷新され、商品数を増やしたこともあり、売上金額を更に伸ばした。アクリルスタンドの他、クリアファイル、Tシャツ、トートバッグは特に人気だった。終売となった葉渡賢治39歳のグッズはフリマアプリでプレミア価格で取引された。
葉渡賢治41歳は全13話で深夜アニメ化され、毎週のようにSNSでトレンドに浮上した。これは葉渡賢治の声優デビュー作でもある。実は葉渡賢治40歳10ヶ月あたりで極東経済という雑誌が「なぜ葉渡賢治は40歳でブームが終わるのか?」という挑戦的なタイトルで記事を出し、かなりページビューが回っていたようで、このまま葉渡賢治は終焉に向かうかと思われたが、アニメが起死回生の立役者となったというわけだ。
翌年には葉渡賢治42歳のマンホールが市内に5か所設置された。これは葉渡賢治の聖地巡礼をする観光者への秘策であった。さすがにマンホールは毎年デザインを刷新するわけにはいかないから、葉渡賢治アプリのカメラで撮影するとARで葉渡賢治の現状の歳が浮き出てくる仕様になった。就任時に動画サイトに投稿していた「みんみんみんなの三ツ葉ダンス」は葉渡賢治43歳4ヶ月の時点で1000万回再生を記録した。
葉渡賢治は45歳になり、葉渡賢治45歳になった。葉渡賢治45歳はアニメの時ほど多忙でもなく、しかしイベントに呼ばれればそれなりに盛況という、ライフワークバランスの取れた時期であった。できるだけ丸々とした愛嬌のある体型を維持しようとしていた葉渡賢治であったが、ここ最近は太りやすさを感じており、愛嬌のある体型をオーバーしているようであることが気になっていた。愛嬌とは丸々としていることであり、腹がだらしなく出ていることではないだろう。以前よりも頭髪が劇的に薄くなっているような気もしていた。
平日昼の帯番組「ひるとん」で、リリースされたばかりの新曲「三ツ葉にあつまれ!」のプロモーションのために生放送でダンスを披露することとなっていた。良く言えば安定、悪く言えば停滞していた葉渡賢治の人気を今一度ブーストするための満を持してのリリースであった。楽曲制作、MV作成、振り付けなど、「三ツ葉にあつまれ!」には潤沢な予算を投入したと聞いている。気合いを入れなければならない。
「さーて、今日は、三ツ葉市から特別ゲスト、葉渡賢治45歳さんが新曲を披露してくださいます。それでは聴いてください、「三ツ葉にあつまれ」です、どうぞ!」とアナウンサーが言い、スタンバイしている葉渡賢治の姿がモニターに映し出されたのが見えた。モニターに葉渡賢治の姿が映し出されたということは、生放送で全国のお茶の間のテレビにも葉渡賢治が映し出されているということだ。音楽が鳴り、葉渡賢治45歳は周りに従えたちびっこダンサーと共に踊り始めた。やはり子供の人気は不可欠とのことで、ダンサーは10〜14歳の男子2人、女子2人の4人であった。葉渡賢治の両隣に男女2人、後方に並んで男女2人という体制であり、葉渡賢治を合わせた計5人がステージで新曲を披露した。新曲の振り付けはデビュー作よりもテクニカルで、葉渡賢治の加齢と体重では踊り切るのが難しく、MV撮影時にはNGを出しまくり、現場はピリピリしていたように思った。葉渡賢治は醤油ラーメンAセットのことを考えながら生放送を踊り切ろうと思ったが、最近ではにんにくたっぷり餃子付きの醤油ラーメンBセットも気に入っており、迷いが生じた。曲の終盤、メンバー全員が2回転スピンを披露する箇所がある。2回転スピンとは、2回くるくるとその場で高速で回ることである。葉渡賢治はこれを苦手としていて、これがこの日最大の山場だろうと考えていた。
事件は起きた。いざ2回転スピンの場面になると、加齢、肥満、緊張など様々な言い訳はできると思うが、葉渡賢治は2回転目によろよろと右にバランスを崩した。葉渡賢治の右にはダンサー最年少である10歳の女性(本名非公開)が配置されており、不覚にも葉渡賢治は彼女に激突、葉渡賢治は彼女に覆い被さるように倒れ込んだ。この場面はSNSや動画サイトで切り抜かれて大いに拡散し、ネット民による数々の自発的な検証が行われ、「葉渡賢治の右手が女児の胸を掴んでいる」「葉渡賢治の唇が女児の首すじに触れている」「葉渡賢治の右膝が女児の脚と脚の間に入り込み、女児は開脚を余儀なくされている」「葉渡賢治の汗とよだれが女児の衣装に付着している」「葉渡賢治の息はにんにく臭そうである」「それ以降の女児の泣きそうな顔は見ていられない」「それでも最後まで踊り切った女児はプロ」「人生で一番気分の悪いものを見させられた」「葉渡賢治とかいうセクハラ野郎」「犯罪者」「消えろ」などという書き込みがあった。
どのゆるキャラにも否定的な意見は最低一つはある。養老塚市のよろよろには「どんくさい」、木宮町のきのやんには「アドリブが効かない」、千脈市のちーおには「正面を向け」など。しかし、彼ら/彼女らゆるキャラがいちいちSNSをチェックしてそれらネガティブな意見を閲覧して真に受けているようには思えないし、何しろ彼ら/彼女らにはゆるキャラという「側」が鎧のように装着されているように思われ、その無機質な「側」がダメージを吸収あるいは反発して無効化しているように葉渡賢治には思われた。その点、葉渡賢治はそれら誹謗を生身で受けざるを得なかった。葉渡賢治は葉渡賢治それ自体がゆるキャラだったからである。葉渡賢治はSNSはもちろん、ニュースサイトのコメント欄、匿名掲示板への書き込みなど、自らへの誹謗中傷を全てチェックした。なくなった仕事の退屈を埋めるように、まるでそれが葉渡賢治の仕事Permalink |記事への反応(1) | 17:38
「はいはいどうぜいつものなろうノベルでしょ」と思って観たら、思いのほか面白い。
その理由はあまりのテンポの良さと、無駄を一切省いたノンストレスさにあるのだと思う。
主人公がレベル99で最強、なんていう擦られ過多のテンプレを厭味ったらしく見せつけないのも良い。
なろうものの「こういうのでいいんだよ」を詰め込んだ作品で、それ故に希薄な感じも否めないものの万人受けしそうな感はある。
あとEDが秀逸で、EDに関していえば今季一かもしれない。モンキーダンス!!
展開もジャンプらしい王道かと思いきや、色々と捻りを利かせている。
原作を読んだことがないので意外な展開に「おっ」となることも多く、意外と凝った作品。
ただ難点は前回の振り返りの長さと引き伸ばし。
作画は悪くないでテンポが良ければバスったのでは?という印象。
それも納得というか、90年~00年に見られた懐かしいノリを繰り広げる作品。
暴力系ヒロインに謎のギャグが節々に挟まれ、シュールとシリアスがごっちゃになっているような。
人によって好みが非常に分かれそうではあるが、個人的には結構好き。
ただ全体的には馴染みのある設定と展開ばかりで目新しさには欠け、そこまでインパクトは感じず。
まったりした雰囲気の作品で、ほろ酔い加減に観るのがちょうど良い。
戦隊モノの悪役の休日を描く作品で。物語としては起伏に乏しく、だからこそ安心して観れる感も。
今期の癒し枠。
自分は男なのでBLには一切興味がないものの、それでも楽しめた作品。
なんだろう…この作品を一言で形容するなら「懐かしさ」かもしれない。
一昔にあった少女漫画の純愛系といった感じで、今ではテンプレ化し過ぎていて普通の男女物ではあまり見られなくなったような。
だからこそ形が”男×男”になっても楽しめたというか、変な技巧もなく、ここまで真っ直ぐな好意をアニメでは久々に見た気もする。
恋愛ものしては昨今、「素直に好きになったら負け」みたいな風潮が多い中、ストレートに愛情を示すシーンの多さが逆に新鮮に思えたりも。
作画も丁寧で、評判通りに面白い。膨大な設定が売りの作品でもある。
安定した面白さで、主人公と共にゲームを進めている感覚も味わえる。
独特な悪ノリが特徴的で人によっては大いに嵌りそうではあるけど、自分の場合はそれほどでもなかった。
ネットでは色々言われていたようだけど、普通に面白かった印象。
原作は少し読んだことがあり、比べると確かに間延びしている感はある。
ただ原作の緩急を抑えていることで逆にリアリティを感じられ、ハマれば場末スナックの退廃感が心地よくなってくる。
今季では1,2位を争う傑作。
作画は美しく、動く所ではぬるぬる動き、カット割りも素晴らしい。
動く鎧を調理して食べる、といった一見して「無理だろ」というものを合理的に描く想像力!
往年のファンタジー好きにこそ観てほしい作品で、目から鱗が剥がれ落ちるであろう作品。
世界観も秀逸。もしダンジョンが存在したら?といったことを社会的・経済的にシステムとして描いている点もシニカルで良い。
おすすめ。
拷問と銘打つもののグロテスクさは皆無で、こんな世界観だったらグリフィスも蝕しなかっただろうなという世界観。
基本的にはくっころ姫と可愛い拷問官ちゃんとのイチャイチャを観るような作品。
あと魔王様が今季一の聖人で、魔王軍は絵に描いたようなホワイト企業。うらやましい。
今の日本に足りないものを描いているような作品で、ただただ癒される。
・ぶっちぎり?!
オリジナルアニメ、ということで注目があまり高くなかったように思える作品。
しかし個人的には思わぬ掘り出し物。というか普通に面白かった。
確かに主人公のダメダメっぷりは鼻につくものの、その分周りのキャラクターが魅力的。
幽白好きとしては佐々木望さんのヤンキー声が聞けるだけでも楽しめた。
ギャグとシリアスのバランス、テンポも良くて、個人的にはもっと話題になってもいいんじゃないかなぁと思ったアニメ。
・魔法少女にあこがれて
えっど。
正直馬鹿にしていた感はある。
「安易なエロで客引きとか下品」、そう思っていた時期が俺にもありました。
ただストーリーは思いのほか作り込まれて、後半になるにつれエロがおまけに感じられるような展開は素晴らしい。
うーん…でもなぁ…。キャラ同士の掛け合いも悪くないし、個性も立ってる。こりすちゃん可愛いし。
それでも同人誌をアニメ化したような、二次創作感を払拭し切れなかった印象も。
けどアニメは綺麗に終わったのでヨシ!
熱い。熱すぎる作品。
王道かつ傾いているという、一つの作品内で矛盾を体現するようなアニメ。
ネットでも大いに話題となり、気持ち悪い巨大ロボということで評判になったほど。
ストーリーとしては主人公が巨大ロボと邂逅して、それに乗り、敵を倒してヒーローになるというまさに王道中の王道。
それに同性愛の要素をひと加えwみたいなノリの作品。ほんとそんな感じ。
でもこれは現代の性の多様性について語った作品でもあると思うんだ。
「本当の性の多様性とは?」そう自らに問いかけ、これが日本が世界に誇るアニメ文化の答えだ!と言わんばかりに突っ切った愛の多様性に、視聴者は驚愕し、感動すること間違いなし。
日本株上昇~とか
オスカー受賞~とか
中国との対立激化や全世界的なインフレで欧米変調、スト多発ハリウッドが低調とか諸事情の玉突きの結果なんだろうけど
相対的に持ち出されて出てくる日本スゴイの内訳がそこまで気分よく持ち上げられたいとも思えない、てのもある
SHOGUNがいうほど「本物の日本を見せてやるよ」になってるか? とか
(最近の「武士は舐められたら殺す」サツバツ大好きに流れてる日本国内の史劇事情からしたらSHOGUNのブシドーはちょっと遅れてない?)
ゴジラに駿かよもっと現代の若い世代の日本文化に寄せたとこを評価しろよとも思うし
鳥山明氏の早すぎる死への弔意表明ぐらいだろうか、素直に受け取れそうなのは
あーあ
やっぱそうなるよね