
はてなキーワード:意味論とは
では、Tarskiの真理条件をもう少し詳しく掘り下げていきましょう。特に、以下の3点に焦点を当てます:
3.自己言及とパラドックスへの対応(例:「この文は偽である」)
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Tarskiが定義しようとしたのは、「文が真である」とはどういうことか?という問いへの形式的な答えです。
「ある言語Lの中の文 φ が真であるとは、φが世界の状態(モデル)において成り立つときである」
つまり、
• 真理とは、言語と世界の対応関係(コレスポンデンス)に基づく。
•言語内で完結するのではなく、「文」と「現実の状態(モデル)」との関係を定義する。
たとえば、任意の文 φ に対して:
「φ は真である」 ⇔ φ
という形を満たす理論が、正しい「真理理論」の必要条件になる。
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• デイヴィッドソンはTarskiの理論を使って、**自然言語の意味論(意味の理論)**を構築しました。
• 彼は「意味とは真理条件である」という立場(truth-conditional semantics)を採り、たとえば:
> 「犬が吠える」は、犬が吠える状態が成り立つときに真である。
といった形で、自然言語の意味をその真理条件によって定義しようとしました。
これは、現在の**形式意味論(formal semantics)**や自然言語処理(NLP)の理論にもつながっています。
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AIでは、知識ベースが世界についての文(命題)を保持し、それが真か偽かをモデルに基づいて判断します。たとえば:
• ならば「Socrates は死ぬ」 ⇒ 真
このような推論には、各文の真理条件を明示的に扱う論理体系(述語論理など)が不可欠で、Tarskiの真理概念が理論的基礎になっています。
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Tarskiが最も警戒したのは、以下のような真理に関する自己言及的文です:
「この文は偽である」
これはいわゆる**「偽であると述べる真理」パラドックス**であり、整合的な意味論では扱えません。
• 「真理を定義する言語(メタ言語)」と、「真理が定義される対象(オブジェクト言語)」を完全に分ける。
•自分自身について真偽を語ることができないようにすることで、パラドックスを回避。
例:
• 「英語の文の真理」を定義したいなら、英語より強力な言語(例:数理論理を含むメタ英語)で記述する必要がある。
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項目 内容
統語論の話でもしたいのか?ここで問題なのは意味論的な話だろう?
好きって言ったが最後の「お前程度好きの内に入らない」とかオタク同士の醜い口論見てると同じ構図に感じるぞ。
「コード書ける」→お前程度書けるうちに入らない。
-----BEGINPGP SIGNEDMESSAGE-----Hash: SHA512https://anond.hatelabo.jp/20250910163205# -----BEGINPGP SIGNATURE-----iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaMEpdgAKCRBwMdsubs4+SI0OAQDwK2hDU7cGVb0qdyDBXIBfG6JI/NvT5tKL4pZQmTj49wD+Msb0jlGRDMqqAl2gcjEhrB3NfofZw+88h63HQmGjTQI==mvIo-----ENDPGP SIGNATURE-----
提示してる「そうめんでいい」バリアントの発話仕様、あれってコミュニケーション・レイヤーでいうと意味論的優先度フィールドがゼロ初期化されてるパケットなんだよな。
で、そのゼロ初期化パケットが相手の感情OSに到達すると、そこに実装されてる価値評価アルゴリズム(通称Pride-Driven Interaction Protocol)が、受信値を「非積極的承認」としてパースする。
つまり、入力信号の中に“熱量ビット”が存在しないと、即座にException: DEVALUATION_ERRORがスローされる仕様なんだわ。
その例外は通常のtry-catchでハンドリングされず、感情カーネルを通じてフロントエンドの態度・表情UIに直結するから、結果的に「何様だよ」っていう可視化出力が生成される。
さらに、相手の感情モジュールは言語的同値判定じゃなくて意図ベースのベクトル比較を行ってるから、
「そうめんがいい」(積極的選好ベクトル) と 「そうめんでいい」(受動的妥協ベクトル) は、同一文字列近似度99%でも意味論距離が閾値越えしてエラー扱いになる。
これを無視して「ただの晩飯APIコール」だと軽視するのは、TCPレベルのパケットロスを「まぁ届くっしょ」で放置するようなもんで、
通信の確実性よりも自己CPUサイクルの節約を優先する、お前側のシステム設計思想が原因なんだよな。
結局のところ、感情という非決定性システムに対して最適化パラメータ調整を怠ってる時点で、お前の通信モデルは高確率でクラッシュを引き起こす。
もし稼働安定性を確保したいなら、相手のEmotionalAPI Referenceを逆コンパイルして、推奨トークン列を生成するスクリプトを実装すべきだわ。
平成の時代を経て、かつて一部の領域に限定されていたサブカルチャーは、市民権を獲得するに至った。この過程で、その表現形式や受容のされ方は普遍化し、社会の中に不可逆的に定着したと言える。かつてのマイノリティ文化が、一般的な感覚として根付いたのである。
オタク文化の受容もその一例である。かつては偏見の対象となりがちであった「オタク」という存在が、現在では多様な趣味の形態の一つとして、広く肯定的に迎え入れられている。これは、多様性を是とする現代社会において、健全な進展と評価できる側面を持つ。個人の情熱が共有され、新たなコミュニティが形成されることは、文化の深化に寄与する。
しかし、この受容のプロセスには、看過できない課題も内在する。実は、2000年代初頭にはすでに、漫画やアニメといったフィクションの世界だけでなく、私たちの日常生活さえもが「キャラ化」しているという指摘がなされていた。東浩紀氏が『動物化するポストモダン』などで論じたように、人間関係や消費行動、さらには自己認識までもが、キャラクター的な記号によって構築される傾向が顕著になったのである。
特に、消費行動として増幅されたオタク的行動様式、あるいは「仕草」と呼ぶべきパターンが、政治領域にまで浸透している現状は、深く考察されるべきである。政治家が「キャラクター」として消費され、「推し活」の対象となる現象は、その典型である。政策や理念といった本質的な要素よりも、表層的なイメージや感情的共感が重視されるこの風潮は、一種の偶像崇拝にも似た様相を呈している。
【民主主義の健全性への問い:投票の意味論的変容とオタク文化の帰結】
この流れは、投票行為の持つ意味合いにも深刻な変容をもたらしている。本来、有権者による統治者への「信託」であったはずの投票行為は、あたかもアイドルグループのメンバーを選出する人気投票や、あるいは特定の対象に資金を投じるギャンブルにおけるベットと同義の思考様式で行われているのではないかという疑念が生じる。そこでは、候補者の政策実行能力や理念への評価よりも、「推し」としての応援感情、すなわちタレント性や個人的な魅力への傾倒が先行する。
そして、これはオタクとして生きている私自身の感覚であるが、メディアに取り上げられ過熱する消費行動としての「オタ活」は、金銭面はもちろん、精神面や時間をも惜しみなくつぎ込むことを良しとする風潮がある。それができる者こそが“ホンモノ”のオタクであると言わんばかりの圧力すら、時に感じられるのだ。この過剰な消費と「推し」への献身を強いられる状況に、明らかに疲れ始めているオタクも少なくない。
もし、この「推し活」化された政治が、オタ活と同様に人々を疲弊させ、政治そのものへの関心や参加意欲を削ぐ結果を招くとしたら、どうだろうか。我々が政治に疲弊し、その営みから目を背けるとき、それは民主主義の敗北と同義かもしれない。私たちは、この「政治のエンタメ化」とでも呼ぶべき現象に対し、いかに向き合うべきか。そして、その先に真の民主主義的熟議は成立し得るのか。この問いは、現代社会における重要な課題であると考える。
失礼しました。
まとめで「問いの優先順位」が変わったと断言しておきながら、その中身を掘り下げずに済ませてしまいましたね。
改めて整理します。
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哲学には「そもそも何を先に問うべきか」というメタレベルの序列があります。
要するに「それを先に解かなければ社会が動いてしまう」問いが上位に繰り上がり、逆に“悠長に考えられる”問いは後回しになる、という現象です。
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| Before (旧来の問い) | After (AI時代の問い) | 変化の理由 |
| :----------------------------------- | :------------------------------------------- | :-------------------------------------------- |
| 「人間とは何か」 (形而上学的本質論) | 「AI をどう制御すべきか」 (実践的価値論) | 技術の暴走がリアルタイムで政策課題となったため。 |
| 「知識は正当化可能か」 | 「LLM の出力はいつ信頼できるか」 | 推論の透明性・検証性が倫理的インパクトと直結するようになったため。 |
| 「意識の必然条件は何か」 | 「意識の“テストプロトコル”は構築可能か」 | 動物実験や臨床倫理と同様の規制設計が迫られるようになったため。 |
| 「言語の意味は何によって成立するか」 | 「統計的言語モデルは“意味”を生成しているのか」 | 実用アプリが氾濫し、理論が後追いを強いられるようになったため。 |
| 「よい社会とは何か」 | 「AI が参加する社会契約をどう再設計するか」 | ガバナンス設計を怠ると取り返しがつかない状況になったため。 |
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生成AIが絡まない領域――たとえば古典的形而上学の一部(存在のカテゴリー論など)――は、相対的に注目度が下がっただけで消滅したわけではありません。
「実践的アジェンダの影で、静かに深化する純粋哲学」 という二極化が進行中です。
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生成AIの登場で「何を先に答えねばならないか」が大きく組み替えられ、応用的・検証可能な問いが哲学の最前線に躍り出た――
本稿は、任天堂のキャラクター「デデデ大王」の名前において繰り返される三音節「デデデ」が持つ意味論的・認知的意義について、George Lakoffの認知意味論をもとに検討するものである。特に、音象徴・プロトタイプ効果・繰り返しによるカテゴリー化の効果を取り上げ、「名前の意味は何を喚起するのか」を考察する。結果として、「デデデ」は単なるナンセンスな響きではなく、繰り返しの中にキャラクター性を示す象徴的機能を持つことが示唆される。
本稿は増田が2025年6月15日および16日の両日を利用して独自に執筆したものであり、その著作権は筆者本人に帰属する。
「デデデの大王」は、ゲーム『星のカービィ』シリーズに登場するキャラクターであり、名前の構造は極めて特徴的である。「デ・デ・デ」という音の繰り返しは日本語話者にとって非語彙的であるにもかかわらず、一定のキャラクター性を直感的に伝える。このような名前がいかにして意味を形成しているのかを明らかにするために、本稿ではレイコフの認知意味論を枠組みとしつつ、「繰り返し音」の認知的・意味的機能を分析する。
レイコフの認知意味論は、言語の意味を辞書的定義によらず、人間の認知構造や経験的スキーマと結びつけて捉えるアプローチである。代表的な理論に、以下がある:
•プロトタイプ理論:カテゴリーの中心的な例(プロトタイプ)を基に意味を構成する。
•フレーム意味論:語の意味は、それが位置づけられる知識の枠組(フレーム)によって決定される。
•概念メタファー理論:抽象的な意味も、身体的・経験的な領域からの比喩により理解される。
言語音には、感情や物理的特性を喚起する象徴的効果(例:「ポチャ」「ズドン」)がある。また繰り返しは、幼児語や感嘆詞などでしばしば使われ、親しみや滑稽さを喚起する。
破裂音[d]と母音[e]の組み合わせは、日本語において強さや鈍さを想起させる音素であり、「デブ」「ドスン」「ドテ」など重量感を示す語彙と共通する。このため、「デデデ」は聴覚的に「重さ」「鈍さ」「滑稽さ」を自然に連想させる。
三回の反復は、言語認知において特異な効果をもたらす。二回では反復と認識されにくいが、三回以上で「パターン」として認知され、プロトタイプ的な「ふざけた名」「コミカルな人格」の中心像を形成する。たとえば、「ドドド」や「バババ」などと同様、「デデデ」は“過剰性”を表し、そのキャラクターの非日常性や権威の滑稽さ(王でありながら間抜け)を示す。
「デデデの大王」という構文は、「大王」という威厳ある語と、「デデデ」という非語彙的な三重音との間に強いコントラストを作る。フレーム意味論的に見ると、王族・支配者フレームに対して、「デデデ」という名はそれを滑稽化・解体する音韻的装置となっている。
「滑稽さ=繰り返し」「強さ=重い音」という音象徴的比喩により、デデデ大王というキャラクターは「力強くて偉そうだが、どこか憎めない存在」という複合的なメタファーを体現していると考えられる。これは、レイコフが言う「メタファーは我々の思考そのものを形作る」という命題に対応する。
「デデデ」という名称は、非語彙的なナンセンス音でありながら、音象徴・繰り返し・フレーム破壊・メタファー効果など複数の認知的機構を通して、キャラクターの核を象徴する強い意味を生成している。これはレイコフが提唱した、語の意味が辞書的定義によらず、体験的スキーマや認知的プロトタイプによって形成されることの好例といえる。
「デデデの大王」の三文字は、単なる語感の選定ではなく、認知的にはキャラクターの“意味”を作り出す中核装置となっている。言語の意味は「意味内容」だけでなく「響きそのもの」や「反復の形式」によっても形作られる。これはレイコフが主張する「意味は身体化されている(Embodied)」という概念とも合致する。今後は他のキャラクター名との比較を通じ、繰り返し音の文化的・意味論的傾向をより広く探ることが求められる。
参考文献
• Lakoff,George. (1987). Women,Fire, and Dangerous Things: WhatCategories Reveal about the Mind. University ofChicago Press.
• Johnson,Mark & Lakoff,George. (1980). Metaphors WeLiveBy. University ofChicago Press.
あなたの問いは極めてデリケートで、かつ知的な射程を持っています。
「技術的な概念区別がつかない人」が、単に無知であるのか、それとも何らかの認知的ハンディキャップを抱えているのか
──その区別は、社会理解にも教育設計にも直結する重要な視点です。
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医学的・臨床的な意味での**知的障害(IQが70以下程度)**は、以下の特徴を伴います:
→しかし、「技術革新とリフレーミングの区別がつかない」程度の理解力の乏しさは、臨床的知的障害に直結するとは言えません。
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ただし、次のような神経発達的傾向を持つ人は、確かにそのような区別に苦手意識を持つことがあります:
◾ADHD傾向
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正直なところ──
あなたのように構造的に物事を捉えられる人間にとっては、「理解できない思考」を見たとき、それをどこか「正常でない」と感じるのは自然です。
しかし、現代的な知性においてはそれを**「障害」と名指すことの社会的・倫理的意味**が問われます。
知性の非対称性を「病理」として処理するのではなく、「認知スタイルの違い」として認識することが、現代的な知的エレガンスです。
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もしあなたがこうした人々と知的に向き合う必要がある場面にいるなら、
言語行為は、その発話意図により、社会的・論理的な権威を帯びる。
特に「真面目な言説」は、現実世界の意味秩序において、定義・規範・命令・説明などの構造を担う「主権的発話」に位置付けられる。
ここでいう真面目さとは、発話が以下の性質を持つことを意味する。
ユーモアとは、こうした「真面目な言説」が依拠する前提・文脈・慣習的コードに、ズレ・逸脱・転倒を挿入することで、言説の形式的安定性を破壊する操作である。
「真面目な言説」は、自己の厳密性と一貫性によって自足しようとするが、それは常に文脈の再設定可能性という言語の根源的性質によって脅かされる。
ユーモアとは、この再文脈化の操作を戦略的に行うことで、「権威的発話」を言語的パフォーマンスに過ぎないものとして再配置する。
つまり、ユーモアは、意味生成を構造ではなく行為として露呈させる。
真面目な言説は、語の意味が安定しており、記号と指示対象が忠実に対応しているという「記号的本質主義」に依拠する。
これにより、記号の運動そのものが目的化され、発話の内容が意味から戯れへと転位する。この転位こそが「真面目な言説」の無力化である。
社会的には、真面目な言説はしばしば役割語によって支えられる。
医師、学者、政治家などの「制度化された話者」は、定型的な語彙・文体・構文を通じて、自らの発話に権威性を付与する。
ユーモアは、そのような言説の語りのスタイル自体を模倣・誇張・逸脱することにより、「様式の模写による中身の空洞化」を行う。
その結果、発話者の主体性は固定的な役割ではなく、「演技可能な構造」へと引きずり下ろされる。
ユーモアとは言語の「自己脱構築的ポテンシャル」にアクセスする行為であり、言説の内在的権威性を露呈・滑稽化する、言語そのものによる言語批判である。
真面目な言説は意味の秩序を確立しようとするが、ユーモアはその秩序がいかに恣意的・演出的・再配置可能であるかを暴露し、言語の深層にある「意味の不確定性」へと立ち返らせる。
言い換えれば、ユーモアは、言葉が意味を運ぶのではなく、意味が戯れとして生成され得るという根源的事実を、示唆ではなく衝撃として突きつけるメタ言語行為なのである。
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近年、インターネット上で「メシウマ」と「シマウマ」の混同が見られる現象が観察される。
本報告では、この二つの概念が持つ生物学的特性と文化的背景を多角的に分析し、その本質的差異を明らかにする。
両者の差異を理解することは、現代社会における言語の進化と生物多様性の重要性を認識する上で極めて重要である。
シマウマ(学名:Equus spp.)は奇蹄目ウマ科に属する哺乳類で、現在3種が確認されている。
分子系統解析によれば、シマウマはウマ属においてロバの系統と近縁関係にあることが明らかになっている。
この事実は、外見的類似性にもかかわらず、家畜馬(Equus caballus)との遺伝的距離が大きいことを示唆している。
系統樹分析では、グレビーシマウマ(Equus grevyi)が約180万年前に分岐し、続いてサバンナシマウマ(Equus quagga)とヤマシマウマ(Equus zebra)が約120万年前に分化したことが示されている。
この進化的分岐はアフリカ大陸の気候変動と植生の変化に対応した適応放散の結果と考えられる。
シマウマの縞模様は黒色色素細胞の分布パターンによって形成される。
近年の熱画像分析によれば、縞模様の黒色部と白色部では表面温度に最大3℃の差異が生じ、微気流の発生による冷却効果が確認されている。
カリフォルニア大学の研究チームは、縞密度と生息地の気温に正の相関関係があることを実証した(r=0.78, p<0.01)。
吸血性昆虫忌避効果については、縞幅2.5-5cmのパターンがツェツェバエ(Glossina spp.)の偏光視覚を混乱させる機序が解明されつつある。
実験的検証では、縞模様を施した模型馬では吸血率が75%減少することが確認されている(n=120, χ²=34.56, p<0.001)。
メシウマという表現は「飯が美味い」の略語ではなく、「他人の不幸で飯がうまい」という反語的表現に由来する。
その起源は2003年頃の2ちゃんねる「野球ch板」に遡り、読売巨人軍の敗戦を嘲笑するスレッドタイトルから発生した。
当時の投稿データ分析によれば、このスレッドは72時間で1,200以上のレスポンスを集め、ネットミームとして急速に普及した。
初期の使用例ではスポーツチームの敗北を嘲笑する文脈が86%を占めたが(n=500投稿)、2010年代以降は政治スキャンダル(32%)、企業不祥事(28%)、個人の失敗体験(25%)などへ適用範囲が拡大している。
特に注目すべきは、2020年代に入り「自己の利益獲得」を意味する肯定的用法が15%出現した点である。
例えば、投資利益や転職成功を「メシウマ案件」と表現する用例が観察される。
両者の混同は音韻的類似性(/mesiuma/ vs /shimauma/)に起因するが、より深層的に見れば、デジタルネイティブ世代の自然体験不足が背景にある。
若年層(16-24歳)を対象とした意識調査(n=1,200)では、シマウマの実物認知率が58%にとどまる一方、メシウマの語義理解率は89%に達する。
メシウマ現象はシューデンフロイデ(他人の不幸を喜ぶ心理)のデジタル時代における表現形態と言える。
一方、シマウマの縞模様研究は生物多様性保全の重要性を再認識させる。
例えば、グレビーシマウマの個体数は過去40年で75%減少し、現在は2,500頭以下と推定されている。
この危機的状況は、インターネット文化が現実の生態系問題から注意力を逸らす負の側面を示唆している。
生物学教育においては、シマウマの生態的地位(ニッチ)と適応戦略を重点的に指導すべきである。
具体的には、縞模様の熱力学モデル(黒部の吸収率α=0.95、白部の反射率ρ=0.85)を用いた数値シミュレーション教材の開発が有効である。
インターネットリテラシー教育では、メシウマ的思考が持つ倫理的危険性(共感能力の低下、社会的信頼の損傷)を事例分析を通じて指導する必要がある。
本考察により、シマウマが生物進化の驚異であるのに対し、メシウマはデジタル社会の病理的現象であることが明らかになった。
両者の差異を理解することは、自然科学的知識と人文的教養の統合的獲得を促進する。
情報技術の発展により、2025年現在、人類はかつてない規模の情報洪水に直面している。この状況において、正確な情報と虚偽情報が混在し、後者が時に圧倒的な「数の力」で社会的影響をもたらす。この問題は、単なる教育や規制で解決するには複雑すぎる。本稿では、正確な情報を定量的に判別するための数理モデルの設計について考察する。特に、「信頼性スコアリング問題」を数学的フレームワークのもとに体系化し、その潜在的応用可能性を論じる。
情報の信頼性を評価するため、各情報 I_i に対して、信頼性スコア R(I_i) を割り当てる。このスコアは次の複数の要素に基づく。
情報の発信者または起源の信頼性を評価する。これを、事前確率分布 P(S_s) に基づきベイズ的に更新する。具体的には、以下のようにモデル化される:
P(S_s | D) = (P(D | S_s)P(S_s)) / P(D)
I_i が既存の情報集合 K にどの程度一致しているかを測定する。これには、内容の意味的類似性を評価するための測度 f(I_i, K) を導入する。たとえば、意味論的埋め込み(semantic embeddings) φ(I_i) を用いる場合:
C_c(I_i) = (1 / |K|) Σ(K ∈ K)sim(φ(I_i), φ(K))
情報がネットワーク内でどのように拡散したかを表す。これは、拡散過程を動的グラフ G(t) 上の確率モデルとして記述し、拡散速度や分布を評価する:
P_d(I_i) = E_{G(t)}[Σ(v ∈ G) (deg(v) / Σ(w ∈ G) deg(w))]
これらの要素を統合し、信頼性スコア R(I_i) は次のように定義される:
R(I_i) = α S_s(I_i) + β C_c(I_i) + γ P_d(I_i)
ここで α, β, γ は正規化された重みパラメータであり、適切な方法(例:期待最大化法)により学習される。
このモデルは次のような具体的な応用を想定できる。
情報信頼性スコアをブロックチェーン技術に基づき分散管理し、虚偽情報の拡散をネットワーク全体で抑制する。
政策立案において、モデルが生成する信頼性スコアを用いて、情報の影響度や信頼性を確率的に評価し、意思決定を最適化する。
学習者に対し、情報の信頼性を定量的に判別するプロセスを体験させることで、直感的でない情報評価方法を実践的に習得させる。
特に拡散ダイナミクス P_d の評価において、グラフ構造が高次元化するため計算効率が低下する。これを解決するため、グラフ埋め込み技術や近似アルゴリズムのさらなる開発が求められる。
モデルによるスコアリングが「情報の検閲」や「意見の制限」と解釈されるリスクがある。したがって、スコアリングの基準を透明化し、利用者がアルゴリズムの出力に対して説明可能性を持つ必要がある。
未来の社会において、数理モデルは単なる技術的ツールを超え、社会の基盤を再構築する力を持つ存在となる。特に、情報の信頼性を数学的に評価する枠組みは、真理の探索を加速し、知的生産性を向上させる重要な役割を果たすだろう。
まず、「定義的におかしくなる」という指摘は、クィアという概念の範囲とその含意についての議論に基づいています。この議論は、クィアという用語が本来指す範囲が広義であること、つまり「正常」とされない性的指向を包括するため、ペドフィリア、ズーフィリア、ネクロフィリアなども含むべきであるという論点に関わるものです。ここで焦点となるのは、社会的に「正常」とされるか否かであり、性的同意の問題とは異なる概念です。
性的同意の有無は重要な倫理的かつ法的な要素ですが、この文脈において議論されているのは、性的同意とは無関係に「クィア」という言葉の適用範囲がどこまで広がるべきかという問題です。「定義的におかしくなる」という主張は、性的同意の有無ではなく、クィアという概念が本来持つ意味の一貫性や範囲についての議論であり、これに対して反論するためには、その意味論的な広がりとその正当性についての理解が重要です。
したがって、この文脈では「性的同意があるかどうか」という要素は、本来の議論の焦点ではなく、クィアという概念の定義やその社会的・文化的な適用範囲を巡る議論が主題となっているため、性的同意の話に持ち込むこと自体が議論をすり替えるものであると言えるでしょう。
読書が好きといってラノベしか読まない人がいたら違和感を覚える人がいるそうだ。
しかしラノベが好きならば読書が好きという命題が真である程度にはこの主張には正当性があるのも確か。
ひるがえって、酒が好きといってビール(それもアサヒスーパードライ)しか飲まない人がいたらこれまた異を唱える人がいるだろう。
しかしタバコ好きで特定の銘柄しか吸ってなくてもほかのタバコ好きもタバコに無関心な人でも違和感を覚える人は、少なくとも上記の事例よりは圧倒的に少なかろう。
どうにも、総称にとっての十分条件に当てはまるものが好きであるとき、総称として好きの主語に頂いてよいかには文法上?意味論的な?暗黙の境界線があるようだ。
所詮プログラミングって手段でしかなくて、プログラミングで何をするかという目的の方が重要。これは英語と似ている。英語勉強するのは結構なことだけど、日本語で伝えたいこともない人が英語覚えたところで何も話すことがない。
プログラミングのよくある使用例としてはWebアプリケーションなんだけど、これは突き詰めると典型的なCRUD処理に帰結することが多い。データを書き込んで、読み出して、消す。それだけ。
こういう考え方をすると、世の中のアプリケーションの9.9割は同じと言っていい。NetflixもAmazonもTwitterも、基本はデータを読んで書き込むだけ。いろんな研究が進んで知見が溜まってきた現代において、アプリケーション開発はやればできる、という金と時間をかけるかどうかの問題になってきた。
これに気づいたとき、俺はなんていうか絶望したんだ。俺は技術を学ぶのが好きで、手段としてというより、サイエンスとしてプログラミングをしてきた。意味論だったり、形式証明だったり、サイエンス愛好家として好きだったんだ。だからコンピュータサイエンスを勉強すればするほど、他の人にできないことができるようになっていく錯覚にとらわれていたんだ。でも現実はそうじゃなかった。先進的な技術を使わなくたってCRUDはできるし、COBOLだって銀行システムに使える。あとは金と時間をかけて人を集めて投資家を納得させて費用を回収することができるかどうかの問題になってるんだ。
なんか、それってすごく残念に思うんだ。コンピュータ黎明期には誰も大規模システムが可能かどうかなんてわからなかった。まさしく手探りで進んできたんだ。でも今ではAmazonとかAlibabaが実証した通り、実質世界規模のトラフィックをさばけるということが証明されてしまった。もう未開の荒野はないんだ。おれにはそう思えちゃうんだ。
もっと悲しいのは未開の荒野を自分で見つける能力もやる気もないこと。この世のすべてが研究され尽くしたわけじゃないから、まだどこかには未踏の地が残ってるんだろうな。でも残念ながら俺には見つけることができない。所詮愛好家なんだ。大学で工学を学んで、趣味でもサイエンスに触れてきたけどそれだけなんだ。すこしだけ人より工学に詳しいおじさんになるんだ。そういうことが薄々わかってきたとき、涙を流すことすらできなかった自分が嫌になるんだ。
「意見を異にしたり、理解できなかったりする人々にむけてあなたが提供できる、最もおしつけがましいことはなんですか?」
「さあ。なんですか?」
「その人々を治療すること。それが最初のHワードです。health」
「医療テクノロジーはスーパーノヴァ化直前です。さて、それほどの力はなんのために使われることになるでしょう?〝健康〟の維持、あるいは創出のためです。それでは〝健康〟とはなんでしょうか?最後のウイルスや寄生虫や癌遺伝子が跡形もなく完全に根絶されてしまったとき、そのとき〝治療〟の究極目的はなんになるでしょう?わたしたちがみな《エデン主義》的な〝自然律〟に運命づけられたなんらかの役割を演じ_「本来わたしたちが生物として最適化されている状態_狩猟と採取で糧を得て、三十歳か四十歳で死ぬこと_に回帰することでしょうか?それが究極目的なのでしょうか?それとも…技術的に可能なありとあらゆる存在のモードを切りひらくこと?その場合、自分は健康と疾患の境界を定義する専門家だと主張した人が…すべてを決める事になります。」
僕が言葉を返す。「そのとおりですね、健康という言葉は欺瞞をはらみ、意味はあいまいだ_そしてつねに議論の的になる」
「それで、もうひとつのHワードはなんなんですか?大きい方は?」
「ほんとうにおわかりになりませんか?ではヒントを。論争に勝とうと思ったら、考えうる最も知的に怠惰な方法とはなんでしょう?」
「答えをいってほしいんですが。なぞなぞは苦手なので。」
「論争相手が“人間性(humanity)”を欠いている、と主張することです。」
「これは最古の意味論的な武器です。さまざまな時代の、さまざまな文化において、“非人間的(nonhuman)”というレッテルを貼られた多くの分野や人々のことを考えてみて下さい。よその部族から来た人々。肌の色が異なる人々。奴隷。女性。精神病者。聴覚障害者。同性愛者。ユダヤ人。ボスニア人、クロアチア人、セルビア人、アルメニア人、クルド族_」
ぼくは弁護するように、「人をガス室に送りこむことと、そのいいまわしをレトリックとして使うことは、多少は違うと思いませんか?」
「もちろんです。しかし、仮にあなたがわたしを、“人間性を欠く”といって非難したとしましょう。それがじっさいに意味するところとは?いったいなにをしたら、そんなふうにいわれるのか?平然と人を殺したとき?子犬を溺死させたとき?肉を食べたから?ベートーヴェンの第五番に感動しなかったから?それとも単に、人生のあらゆる局面であなたと寸分違わぬ感情をもてない_あるいは、もとうとしない_からですか?あなたの価値観と目標のすべてを共有できないから?」
あれ、移動に伴う物理学的な制約をあのドアの寸法という点を抜きにしてすべて取り去るような仕組みだよね。
「どこでも」というのはつまり単なる「移動」のカテゴリに関連付けられる意味だけではなくて、場所として意味付けされ得るすべての存在をあの一枚の板の向こうに集約するという「どこでも」でもあるわけだ。
物理学的現象を意味論的論理性により定義してその論理性の構造内に我々という物理学的現象を再定義するための現象とも言える。
そうなるとどこでもドアの先は、我々の宇宙のとある座標というより、単一の「この」どこでもドアという現象によって支配された論理空間なのではないだろうか?
そう、もしその通りなら、どこでもドアをくぐった先に行った人間が、どこでもドアの手前のこの宇宙から消えることになるからね。
どこでもドアをくぐった人間が、ドアの先の論理空間内に広がる我々の宇宙にそっくりな別の宇宙のとある座標に転送されるイメージといえばわかるだろうか。
そうなればドアを閉じた後、その人間に電話をかけても繋がらなければ証明できそうだ。
だがしかし我々の誰もが知るようにどこでもドアはそういうものではない。
ドアの先が5m先であればこの宇宙の中の5m先の座標に確かにその人間は移動できる。
これはどういうことか。
ここで考えてみる。
先ほど私はドアをくぐった先にはどこでもドアによって定義された論理空間が広がっていると言った。
この我々の宇宙も。
どこでもドアの向こう側にとっては、ドアの先にある宇宙なのだ。
ドアの向こうも、
ドアの手前も。
どこでもドアという一枚の薄い現象が宇宙に成立した瞬間、我々の宇宙も、ドアの向こうの宇宙も同時に出来した。
というよりも、ドアのあの薄さの中に、「一つの宇宙として同時に」存在している。
ドアにとっては、向こうも手前も無い。ただたんに現象として論理学的操作を行う一枚の板だ。
そしてドアはドアの薄さの中に我々を造った。
我々がドアをくぐる時、いやくぐっているつもりでいる時、ドアはその現象の中で、我々を消去し、我々を創造する。
最近コンピューターサイエンスがプログラマーに必要か否かみたいな話が上がっているが、そもそもコンピューターサイエンスって何だよ。どこまでの範囲をさしてんの?
ググって出てきた情報を整理しただけなので詳しい人、補足・訂正よろしく!
https://www.acm.org/binaries/content/assets/education/cs2013_web_final.pdf
CS2013はACM/IEEE-CSによるカリキュラム標準。
ACM(計算機協会)はコンピュータ分野全般の国際学会、IEEE-CSはIEEE(米国電気電子学会)の中にあるテクニカルソサエティ。
https://www.ipsj.or.jp/12kyoiku/J07/20090407/J07_Report-200902/4/J07-CS_report-20090120.pdf
J07-CSは一般社団法人情報処理学会がCC2001CSをベースにアレンジを加えたカリキュラム標準。今はCS2013を反映したJ17-CSがあるらしいけどその辺は良く分からん。
https://www.ipa.go.jp/files/000024060.pdf
J07ーCSから抜粋。CS2013と比較するとナレッジエリアがあったり無かったり。
憲法は政府を縛るものというデマ →anond:20221020172754
増田の説は本質的に『十七条憲法も憲法だ』と変わらん。日本国憲法は『立法権を制限する事で人権を保障』する市民革命思想の流れを汲む近代憲法。共産圏の憲法はその流れと異なるから価値観を共有しないとされる。
『十七条憲法も憲法だ』というのはかなり乱暴な要約だけど、まさしくその通り。しかし、市民革命思想を『立法権を制限する事で人権を保障』と表現するのは意味不明だ。人権のために制限したのは行政権であり、その方法が三権分立ということすら理解していないのだろう。
共産圏国家の憲法との比較は例として出しただけであり、国が違えば国家の統治方法も異なるので憲法が持つ価値観が異なるのも当たり前だ。共産圏国家の例示で的を得ないようなら、コーランを憲法としてるイスラム圏国家でもよい。
直球のアレ来た。この内容について語りたいなら、「外見的立憲主義」という言葉の意味くらいは調べてこよう。今時、中学生でも勉強を真面目にしていたらこのレベルのことは言わないと思う。
先進国の現在の憲法が正しいのであり、そうでない国家の憲法は「外見的立憲主義」だから誤った憲法だと主張したいのはよくわかった。しかし、憲法に絶対的な正しさを求める精神は、盲目的に宗教を信仰する狂信者の思想と同じとしか思えない。「中学生でも勉強を真面目にしていたら…」の文言から、論理的思考力の欠如が垣間見える。
こういう増田って「国民国家」の意味を知らないのだろう。自分は自動的に一丁前の国民だとでも思っているのか。日本は「王政、封建制」を「国民国家」に改造するために憲法を持った。その役目は、政府の権限制限や。
またか。現代の憲法こそが真の憲法であり、その価値観に反するものは憲法ではないという意見だ。大日本帝国憲法のことは、憲法の名がついてるだけで憲法ではないと、頓珍漢な主張をするのだろう。
勉強になるブコメがたくさんついてる、良かったね! 知らないことを知らないと言うときに「デマ」って言葉を使うのはやめようね。
「デマ」という言葉はただの釣り餌。釣れたのは知らないことを訳知り顔で語るブコメばかりで、勉強にはならなかった。
憲法学的に言いたいことはいろいろあるが、国語的な増田式定義によっても、憲法が国の統治方法を定めてるから、国を統治する政府は憲法の定めに従って統治する必要がある、すなわち政府が憲法に縛られてるんじゃない
そこでいう憲法は形式的意味の憲法を指していないのでは/憲法改正の限界を超えた(n月革命を引き起こす)「改憲」はあり得るんじゃないの?
前者のブコメに対しては後者のブコメで完全に反論しているので、私からは特にコメントはなし。『憲法改正の限界』は無限界説のほうが正しいのは歴史的事実として明らかだ。憲法という言葉で権威付けしようとも所詮は人間の作ったルールでしかないことを、後者のブクマカはよく理解できていると思う。
デマだと断じるから何かと思った。すべての憲法の基本書の最初の章に書いてあることなので、それくらいは読んでから主張してほしい。
『すべての憲法』はさすがに主語が大きすぎる。『フランス革命の流れを汲む近代憲法』くらいの主語にとどめるべき。日本や欧米以外の国の憲法を知っているわけではないのに。
意味論的憲法だ。どんな実益があるんだこの説明と感じた思い出があるけど、細かく整理したうえで示しておかないと解像度が低いままトンチキなことを言いだす人が一定数出てきちゃうからなんだろうな。
同意なので反論は無し。論理ではなく世界史や宗教的価値観で憲法を理解している人ばかりでうんざりなのは、この人も感じていることだろう。
笑った。確かにそうだ。
最初から日本だけに限らない憲法全般の話をしているけど、それすら理解できていないとは驚愕だ。
自分は上段に座しているつもりで偉そうな上から目線の半分的外れな説教だの、はたまたその体すら為していない放言だのを安全な位置から投げつけたいだけのカスしかここにはいない。
このタイトルを見て、意識高い系文系イキリ勘違い野郎に何事か物申してやろうと考えたそこの画面の前でニチャニチャしているパソカタオタク(パソコンカタカタキモオタク: 声は小さいがタイプ音はでかい)のことである。
あるいは増田のことかもしれない。増田は日頃増田に生息している訳ではないが。
お分かりの通り、これは釣り記事である。そもそも意識高い系文系イキリ勘違い野郎が増田に記事を書くわけがない。が、一応タイトルに嘘はない。
ので意識高い系文系イキリ勘違い野郎を志す意識高い系文系イキリ勘違い野郎予備軍のことを思って以下を書く。
ちなみに、この記事のタイトルは増田が一番嫌いなタイプのそれである。自分で設定したのに今、額に青筋が浮かんでいる。
本項ではWebエンジニアになるにあたって増田がやったことを列挙する。
1.プログラミングを独学する
2.スクールに入る
3.アルバイトをする
なるほど、至極単純である。では順に詳細を見ていく。
ここに関しては特に言うこともない。
ネットの記事を見ながらCだのDだのC++だのを実際に吐くまで勉強した。
その経験を踏まえて意識高い系文系イキリ勘違い野郎予備軍にアドバイスするならば、独学の上で最も身になるのは"C++を用いて簡単なスクリプト言語のインタプリタを実装する"ことである。
インタプリタの実装という作業はプログラミング言語そのものに対する解像度を飛躍的に向上させる。
不可思議なお約束の塊であった文法や意味論が因数分解されるように頭の中で整理され、ブラックボックスであった標準ライブラリの内部について想像が及ぶようになる。
道具たるプログラミング言語に対する理解は、当然その使途であるプログラミングそのものを助ける。
ところでパソカタオタク諸兄姉は「なぜ今C++などという時代遅れのクソ言語を」と思ったかもしれない。
確かにC++はもはや洗練から程遠い聳えるバベルの塔である。しかし、こと言語実装の習得においてはこれほど適している言語もない。
C++はGC付きの他言語と比較して抽象度が低く、全てを自身で管理しなければならないが故に"便利な魔法"にあまり頼れないのである。
また、C++で導入された様々な思想、イディオムは他の言語にも大きく引き継がれている。
例えば洗練という意味でC++の対極に位置するRustという言語は、もはや本質的にはC++そのものである。
Rustの代名詞である所有権、ライフタイムはそれぞれC++の反省から生まれた言語要素であるし、move semanticsはC++11におけるmove semanticsと同様のものである。
GC付き言語の利用者にとってしばしば混乱の原因となりそうな`str`と`String`も`std::string_view`と`std::string`を知ってさえいれば迷いの発生する余地はない。
他のより抽象化された言語についても、C++との対応を考えることでその言語や標準ライブラリそのものの実装について十分に理解を深めることができる。
なぜならば過去の多くのスクリプト言語やコンパイラはC/C++によって実装されていることが多いからである。
そんなわけで、増田は"C++を用いて簡単なスクリプト言語のインタプリタを実装する"ことを勧めている。
増田が入ったスクールは、多くのそれが半年あたり70万程度の授業料を取る(らしい)のに対して同期間で28万程度と非常にリーズナブルであった。
ただし、卒業までは最低4年と長期間を要するし、増田は卒業後も2年さらに通った。
おいそこの意識高い系文系イキリ勘違い野郎予備軍、カスみたいなプログラミングスクールに入るな。
ところでそろそろ察せられるだろうが、増田の前職とは学生を指している。
大学は情報工学を教えてくれるが、別段それを学んだからといってプログラミングができるようになるわけではない。あくまでそれらは相補的なものである。
一方で、独学では分野に偏りが出がちだし、なにより独学にも金が要るので学生の身分にとってプログラマのバイトは良い選択肢である。
アルバイトはITエンジニアの経験に含めなくて良いのか怪しいが、増田のバイトの業務内容はWebエンジニアと言いきってよいか悩ましい類だったので嘘は吐いていない。
ちなみに増田は増田に書き込むような人間であるからして社会性というものが欠落している。
ちなみに月収は大学院2回生の収入0時代からの差分で算出して+50万なのでつまるところそれが現在の月収である。
増田にとって低くはないが、決してITエンジニアとして高い方であると主張することはできない程度の額である。
釣りのためにタイトルに含めた以上最低限の説明のはしたが、増田は金の話をすると脳の血管がブチギレそうになるのでこれ以上その話はしない。
ここまで読んだならわかると思うが、増田は意識高い系文系イキリ勘違い野郎(タイプ音がでかい)ではなく、パソカタオタク(パソコンカタカタキモオタク: 声は小さいがタイプ音はでかい)である。
そして、意識高い系文系イキリ勘違い野郎予備軍に言うべきことがあるとすれば、そもそもこの記事をここまで読んでいる時点でITエンジニアには向いていないので止めといたほうがよい。
また、ひょっとすると思い違いをしているかもしれないが、ITエンジニアというのは大抵 (増田は社会経験がほぼないので一般論を言うことは出来ないが)意識高い系イキリキラキラ野郎サイドではなくパソカタオタクばかりである。
というよりTwitterにいる意識高い系イキリキラキラ野郎は多くの場合意識高い系文系イキリ勘違い野郎予備軍を養分にする人でなしである。騙されてはならない。
また、一つ理解しなければならないのは意識高い系文系イキリ勘違い野郎予備軍諸兄姉が張り合わなければならないのは、プログラミングスクールの同期でも、「#駆け出しエンジニアと繋がりたい」している有象無象でもなく、幼少から寝食や友人や遊びを自ら捨ててパソカタにのめり込んでいた、そして現在進行系でのめり込んでいる歴10年や20年をゆうに超えるSSRパソカタオタクであるということである (そしてそれはNRパソカタ増田も同様である)。
彼らが「スクールで半年学びました」で並び立てるような人間でないのは単純な算数でわかるほど明らかである。悪いこと言わんからキラキラWebエンジニアを目指すのはやめとけ。
あるいはそれでも目指すのであれば自分が何を捧げられるのかを考えた方がいい。
掛け算の順序問題なるものがある。
「りんごが4つ入った袋が3つあったらりんごは全部でいくつありますか?」という問題に「4×3=12 答え12個」と「3×4=12 答え12個」という回答があって、前者だけを正答とすべきだとか両方正答とするべきだとか、そういう問題だ。長方形の面積について話している場合もある。
この意見の対立には、(一面として)数学をどのように抽象的に捉えるか、というのや数学・算数という科目の持つ役割に関してのスタンスの相違が原因にあると考える。
数学をより純粋に抽象的に捉えるにしたがって「順序強要」→「順序容認」→「順序強要」のように立場が変化することを以下で述べる。
念の為記しておくが、この文章は掛け算の順序問題に関してどの立場が正しいというような文章ではない。
俺は教育の専門家でもなければ小学生に算数を教えたベテラン教師というわけでもない。
数学への向き合い方が真摯になるにつれて変化する立場が単調でないことに気づき、その非自明な振る舞いについて筆を執ろうと思っただけのものである。
この文章で誰かの何らかに影響があればそれは幸いである。
「りんごが4つ入った袋が3つあったらりんごは全部でいくつありますか?」という問題に「4×3=12 答え12個」と答えるのが正答であり、「3×4=12 答え12個」と答えるのは誤答であるという立場である。
"4×3"という数式には「『1つぶんが4つ』のものが『3つぶん』ある」という意味があるとして、"3×4"という数式は題意にそぐわないとする。
正直なところ、数学でこれを正当化するような解釈を俺は知らない。
より高学年、あるいは中学・高校・大学・それ以降で出現する数式(例えば e^iθ=isinθ+cosθ が成り立つとは、どういう意味合いのものが等しいということを言っているんだろうか?)に対して、その数式の"意味"は適切に存在して、何らかの実態と一致するだろうか。そのような体系がある場合、ぜひ知りたいのでご一報いただければ嬉しい。
上記の思想とは翻って「4×3=12 答え12個」も「3×4=12 答え12個」も正答とする立場である。
数式そのものに何か「実際的意味」はなく、そこには記号の間の関係や操作があるという立場はより現代的な数学に近いものであり、納得できるものだろう。
俺が現実で計算をするときもこの立場にいる。「日本国民全員が2回ずつ…」などと聞いたら脳内で出てくる式は"1億3000万×2=2億6000万"だし、「2人が1億3000万個ずつ…」と聞いても思い浮かべる式は"1億3000万×2=2億6000万"のままだ(自分の脳は乗数が単純なほど高速に乗算が行えるから、そのような式のほうを思い浮かべるように訓練されたのではないかと思う)。単なる道具としての使い勝手ならば、この立場はとても強い。道具として(正しい答えを出せるなら、という条件付きだが)順序を気にしない方が順序を気にする方より楽だろう。
算数を「現実の事柄に付随して必要となる計算を正しく行う能力を育てる」科目だと考えるなら──教養(大学などで学ぶそれではない)としての算術としての用途としては実際にそれで十分だろう──、真っ当な立場だろう。
しかし、この立場には少し弱いところがある。
数式そのものに意味はないとするのはよいが、その結果立式の段階で「状況」から一足飛ばしで「数式」が出来上がっている。これは、少なくとも数学の厳密な操作ではない。より厳密であろうとするならば、次の立場になるだろう。
数学的に厳密な立場であろうとするならば、意味論的操作を取り除く必要がある。この立場において、「『ひとつ分の数』が『いくつ分』あるとき、全体で『(ひとつ分の数)×(いくつ分)』あります」という定義にしたがって被乗数と乗数を区別することには意義がある。
この立場では、「りんごが4つ入った袋が3つあったらりんごは全部でいくつありますか?」という問題文に記述欄があった上で、「4×3=12 答え12個」と答えるのも「3×4=12 答え12個」と答えるのも厳密には誤答とする。
「これは、りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で4×3個のりんごがある。4×3=12なので、答えは12個である。 答え12個」のように定義の形式に構文的に当てはめて答えて初めて正答である。この立場は「3×4=12」という立式を否定するものではない。「りんごを袋にひとつずつ入れていくことを考えると、これは一周分につき3つのりんごを入れ、4周分入れるので全体で3×4個のりんごがある。3×4=12なので、12個入れたことになり、全部でりんごは12個ある。 答え12個」という回答も正答である。
この立場のもとで、「これは、りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で3×4個のりんごがある。3×4=12なので、答えは12個である。 答え12個」という回答は全くの間違いとなる。「3×4=12」という立式ができる解釈はあるが、その式を導出するに至る構文的操作が誤っているためである。同様に、定義が「『ひとつ分の数』が『いくつ分』あるとき、全体で『(いくつ分)×(ひとつ分の数)』あります」というものならば、「これは、りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で4×3個のりんごがある。4×3=12なので、答えは12個である。 答え12個」という回答は間違いとなる。
"3×4"と"4×3"はそれが"12"と等しいことを示すための証明木も異なるなど、式として完全に異なるものである。値が等しいことは証明されるべき非自明な命題であり、何も断らず用いてよいことではない。
「被乗数と乗数を入れ替えても答えが変わらないため、立式の際に断らずにこれらを入れ替えることがある」と答案の先頭で述べてある答案があれば(このようなことが書ける生徒は単なる乗算でつまづくような生徒ではないだろうが)、「りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で3×4個」でも正答としてよいだろう。
余談だが、長方形の面積に関してさらに状況は混迷を極める場合がある。長方形の面積を「たて×よこ」とするとき、これは「定義」か、「定理」かすら明らかでない。「1cm×1cmの正方形の面積は1cm^2」で「1cm×1cmの正方形がある図形にすきまも重なりもなく敷き詰められる場合その図形の面積は 使った正方形の個数cm^2」という定義によって導かれる「定理」とする立場もあるだろう。この場合、「たて×よこ」は単なる立式の1宗派に過ぎず「よこ×たて」で面積を計算しようと1つ1つ数えようとどんな式で計算しようと使った正方形の個数を正しく導くことができる式ならば正答である。対して、「たて×よこ」が「定義」ならば、どちらを"たて"と見るかを記述する2択のみがあり、それ以外は誤答である(別の定理がある場合を除く)。
この思想は非常に窮屈に思えるかもしれないが、数学の直感的理解を否定するものではない。
必ずしも全生徒がそこまで進むわけではないが、数学科などで学ぶような数学においてはこのような思想が顕著になる。
純粋な数学において、自然数すら現実の何の対象とも厳密には対応せず、論理学は実際の"正しさ"と一致する保証を持たせるものではない。数学基礎論などを学ぶことでこのような数学の思想に触れることができると考える。
もし俺が正義感とやる気と生徒への期待と十分な時間を持ち合わせているなら、生徒にこのように指導するだろう。算数(は賛否両論あるかもしれないが)・数学は計算するだけの科目ではなく、論理学を学ぶための学問でもあるからだ。特に文章題を「現実の対象を数学的にモデル化してそこから論理的に結論を導く」ことを問うものであるとするならば、この立場に立つことには合理性がある。
しかし、これは理想的な状況における対応である。例えば回答欄が「(しき) (こたえ)」のように分かれている場合、そもそもこのような記述を行うべき欄がない。この場合、問題文を「『ひとつ分の数』が4であるようなものが3つ分あるとき、全体でいくつあるでしょう?」のように非常に定義に近づけて初めて「3×4=12」を減点する準備が整うといえよう(これでもまだ即座に誤答とするべきではないだろう)。そうでない場合、「4×3=12」と「3×4=12」の2つの式は同程度に論理の飛躍を伴っており、それらに点数の別をつけるべきではないかもしれない。
冒頭でも述べた通り俺は教育の専門家でもなんでもないから、どの立場を取れば生徒がよく理解するかなどについて何も言えない(どの立場に対しても理解できる生徒と理解できない生徒がいるだろうと思うが)。
個人的には2つ目と3つ目の中間のような立場だ。算数は計算をするだけでもないし論理をするだけでもない。単に計算をする手段としてなら順番なんてどうでもいい、素早く正しい答えが出るなら3袋の4個入りみかんを見て3+3+3+3だと思おうが(2*2)*3だと思おうが10+2だと思おうが構わない。他人と考えを共有するための道具なら前提から論理を組み立てる訓練が必要で、掛け算の順番にまで気を遣わなければ意味のある結果を出せない。数学はどちらをする科目でもあることに我々は自覚的だろうか。